ハットリズム7 〜 Sings with Wolves 〜 シング・ウィズ・ウルブス (3) 力無く座り込んで泣いたままの子供が、パパという単語を受けて顔を上げた。 まずは自分を連れてきた女を見上げ、次に押し付けられたままの写真に視線を落とし、そして自分が今いる場所を涙まみれの顔でキョロキョロと数回見渡して、突っ立ったままだったランにその瞳がようやく固定される。 ――目が合った。 まず最初に、その色素の薄さに気がつく。 リーファに似ていると何となく思って、その瞬間に自分でもよく分からない不思議な気持ちになって、ランは少し困惑する。 次に子供の身体全体を視界に入れる。 そんなに小さな足でよく一人前に立ったりできるなと半ば感心しながら、そうして一歩をランはようやく踏み出した。 瞳や髪色はこんなにもリーファに似ているのに、涙で汚れながらこちらを見上げる幼い顔に母親の面影は全く無い。一歩一歩ゆっくりと子供との距離を詰めながら、リーファではない別の誰かに似てるのだろうとランは結論付ける。 親子は似るものなのだと何となく今まで思っていたが、そういうわけでもないらしい。 自分を見上げたままの子供に向かって歩を進める。 目はその子を見つめながらも、ランの頭の中では自分を育てた老師の姿が浮かんでいた。 今いる『狼』で現役はラン一人。現存は数名で、老いたか身体に支障を来して引退した者ばかり。しかし、とっくの昔に現役は退いたものの、後進を育てる事を至上の喜びとしている老狼が未だ一人。 人格破綻者の多い牙の中でも一層高らかにその名をうたわれた腐れ外道ではあるが、その人でなしに育てられたのが何を隠そう自分なのだ。 過去にも幾人か養っていたようだが、ランが育ちきって以降は子供を飼ってはいない筈だから、もし新たに連れて行けばさぞかし喜んで面倒をみる事だろう。 玩具や鉛筆の代わりに銃器や軍用ナイフを与えるような血生臭いクソジジイだったが、少なくとも血の繋がりの無いような子供であっても手元に引き取り、日々の世話を焼くという甲斐性と父性はあった。 ――ひょっとしたら、何も考えられない僕よりは、ずっと人間的なのかもしれない。 自分の子だと言われても、リーファが死んだと告げられても、未だ何の感慨も持てないランは、そう内心で呟きながら子供の前に立つ。 「…………っ」 小さな手で写真を握り締めたその子は、目に涙をためたままでじっとランを見上げている。泣き続けていたのがこっちにやってきた男に驚いて、ほんの一瞬だけ泣き止んだという風情だ。何かあればまたすぐにでも泣き出しそうな顔に見えた。 ランガンと呼ばれていた。……全く同じ名前である。 自分で自分を呼ぶようなものだ。何と呼べばいいものかと少し考えて、ふと写真に目が行く。いったい何が写っているのかと視線を巡らせて――そこに写っているのが紛れもなく自分の寝顔だと気がつき、ランは目を瞬いた。 撮られた記憶は全く無かったから、リーファの元に足繁く通っていた頃にリーファ自身がこっそり内緒で撮ったものなのだろう。 写りこんだ寝台や調度品は懐かしいあの部屋のもので、それと認識したその途端、長い間思い出せなかったはずのあの暖かさがランの身の内に蘇った。 同時にリーファの声が、歌が、耳に戻ってくる。柔らかな熱と、そして自分を見つめる優しい瞳。 目の前の子供の瞳もあの頃のリーファと同じだ。 澄んだ眼が、ただ自分だけをまっすぐに見ている。 「……ランガン……、でいいのかな」 リーファは自分を怖がらなかった。 しかしこの子はどうだろう。 名をつぶやいても子供に反応は無い。目に浮かべた涙と表情は泣きかけのそれであるし、警戒でもしているのか握り締められた小さな手はぎゅっと硬いままで、揺るぎそうな気配はまるで無い。 胸が、ざわざわと波立つ。……居たたまれないような気がして、気分が悪い。 自分を見て泣くようなら、怖がるようなら、そんな理由でリーファの子供を嫌いになってしまう前に老師の所へ連れて行こう。……そう心に決める。 しかしそう決めた途端、堰を切ったように、子供は大声で泣き始めた。 「ああっ……」 子供の後ろ、事の次第をそわそわと見守っていた女が息を吐くのが分かった。 「あー泣かしたぁ」 「妥当な反応だな」 「小っけえガキをあんな乱暴な起こし方するからだ!」 残りの三人が勝手な事を言っているのが聞こえた。 泣き喚く子供を前に、少しだけ当時の温かみを思い出していた心が急に冷えていくのが分かる。甲高い泣き声がやけに苛立ちをそそる。 自分を見上げ、写真を投げ捨てて泣く子供に対し、意味の無い腹立たしさとほんの少しの寂しさを感じて、ランは身体の向きを変えて歩き出した。 「――ちょっとラン!」 「もういいよ、明日にでも老師の所に連れて行くから、それでいいだろ」 「うわ、あんな所に連れてく気かよ……」 「ねえ待って! あたしっ、あたしはじゃあ帰っていいの?!」 「おい、ラン」 もう返事をする気も起きない。泣き声は少し勢いが無くなったものの、依然としてランの背中後方で続いている。 何もかもがうるさい。 舌打ちをし、店の出口に向かって勢いよく歩を進める。顔は似ていないのに、泣き虫な所はリーファにそっくりだ。 ――そう思い至った瞬間、脚は止まり、つい振り返っていた。 自分と同じ名前の子供は相変わらず泣き喚いている。 しかし、さっきと決定的に違うのはその様子。 小さなランガンは二本の腕をめいっぱい前に突き出し、ランに向かって歩いてきていた。 「……何」 小さな足がよたよたと身体を運ぶ。わんわん泣きながらなのでまっすぐには歩けていないし、顔はもう真っ赤だ。『猿』であるイエンハオも真っ青なサルっぷりである。 しばらくランが見ていると、よろけつつも確実に、腕を伸ばしたままランガンはランのところへやって来た。 さっきランが立っていた時の位置よりも間を空けず、小さな身体でランガンは立つ。怪訝そうな顔で見下ろしてくるランに対し少しだけ泣き止み、泣きすぎて汚くなった顔で見上げ、両腕を上げる。 「んっ」 「……え?」 「んーっ」 「いや……、だから、何……?」 状況が飲み込めないのはランだけでは無い。助けを求めるように視線を投げた先の三人は同様に怪訝そうな顔をしてこちらを見ているし、相変わらずランガンは両腕を大きく伸ばしたままやはりこちらを見ているし、ラン一人だけが動けない。 「んんっ」 「あの……本当に分かんないんだけど……」 どうしようもなくて呟くと、言葉が通じたのか通じていないのか、ランガンが大きく目を見開いた。途端にボロリと涙がこぼれ、先程と同様に再度泣き出す。 そして。 「パパ……っ!」 耐えかねたように、目の前にあったランの脚に抱きついた。 「………なにを」 ランガン――自分と同じ名の子供は、一層わんわん泣いている。 「……言って……」 ランの驚きを他所に、その子は意外なほど強い力でしがみついてくる。そして時折両腕をランの脚から放し、何やらうんうん唸りつつも上に向かって伸ばすのだ。 泣いて、跳ねながら。 「あっ分かった! ラン、抱っこだ! 抱っこしてやれ!」 呆気に取られていた面々で唯一、ウーが我に返って叫ぶ。 「……は?」 「だから! ガキがそんな事やってたらフツー抱っこだ!」 「……これを……?」 「いや待てお前。他に誰もいないだろうがよ、今はよ」 半ば呆然と呟いたそれに的確なツッコミを返され、ランは脚にしがみつく子供を見下ろす。 「パパっ」 「パパ」 「……パパ」 子供はその言葉だけをかたくなに繰り返し、再度腕を差し伸べてくる。その姿に困惑し、そしてとうとう根負けして、ランはその子を抱き上げた。 「………」 とは言え子供を抱き上げた事など過去において一度も無い。 子供の脇の下を両手で支えただけの、まるでネコでも抱え上げた時のような無造作な抱き方で、ランとランガンは視線の高さを同じくする。 間近で覗き込むと、より一層に瞳の色素が薄いのが目立つ。実感などは皆無だが、今の所どうも父親であるらしい自分は昔から目も髪も真っ黒だから、外見的に似た所は無いようだ。くしゃくしゃと歪んで涙や鼻水で汚い顔をまじまじと見つめ、ランはぼんやり考える。 そのまま至近距離で観察していると、当たり前だが子供としっかり目が合った。 こっちが観察しているのと同様に子供側からも見られているらしく、泣きはらして真っ赤な目がじーっとこちらを凝視している。 先に目を逸らした方が負けだと本能で直感し、ランも子供を凝視した。 「……何やってんだい、アレ」 「チッ、なんつー抱き方してやがんだ。あれじゃ子供が痛いだろうが」 「ウー、お前はホントーに細かい男だな」 外野は好き勝手なことを銘々に言っているが、ランにとっては気にならない。 むしろ気になるのは…… 「…………」 子供が、ランガンが小さな手のひらを伸ばしてきた。ランの身体からはその腕の分だけ離れた位置で、空中にブラリと抱き上げられた格好で、それでも一生懸命にランに向かって手を差し出す。 「……今度は、何」 足をじたばたさせながら腕を伸ばす子供。さっきからその行動は全くもって予測がつかない。 だが何故だろうか。不思議と嫌ではなかった。 「訳分かんないよ」 泣いた跡は未だ顔にくっきり残っているものの、ランガンはすっかり泣き止んでいる。 頬に残る涙を拭いてやろうと何となくランは思い、ネコか何かのように抱いていた子供を左腕にきちんと抱えなおす。片腕にすっぽりと納まってちょこんと座った子供の頬を、手の平で少々乱暴にこすり上げ、そうして再び視線を合わせた。 「……リーファにそっくりだね」 色だけでなく中身も。 本当に何気なく、心に浮かんだ事をそのまま言う。 途端にその子は微笑んだ。 「パパっ!」 小さな手が、顔が、ランの目前に迫る。 さっきまで泣いていたくせに、何がそんなに嬉しいのか満面の笑みを浮かべて。 そうしてそのまま、その子はランの首に抱きついた。 泣かれたのは正直鬱陶しかったし、子供なんてものは別に好きでも何でもない。 しかしその笑顔と温もりとを認識した途端、今まで経験した事のない不思議な気持ちがランの胸に去来した。 ――だから、だろうか。 「……うん、パパだよ」 つぶやきは、ごくごく自然に口から漏れたのだった。 |