ハットリズム7 〜 Sings with Wolves 〜 シング・ウィズ・ウルブス (1) 『それ』が手の内に飼う牙は常に五種。 最強を誇る虎 深陰に潜む蛇 智謀を弄する狐 白昼に舞う猿 そして――不死を謳う狼 人の身をしたこれら野獣を総称して五天。または牙。 ウーティエンと発し、人でありながらも獣として牙を剥く者を指してそう呼ぶ。 牙は五種。ただし名を戴く者は五に限らず。 狩りとも粛清とも任務とも呼ばれるその役目は自らの意思に依るものではなく、 全ての牙は野生の獰猛さを孕んだまま、少なくとも建前上は『飼われて』いた。 ――――ランも、その内のひとり。 『いいから早く戻っといで。――ガタガタ言わずに十秒で帰ってきな!!』 仕事――それを狩りと呼び、好んでこなす者もいるが、ランにとってはただ単に生きるための糧を得る手段に他ならないそれ――が終わってしまえば、ランがする事は他に何も無い。 数年前までは仕事が終わった後に何となくでも必ず行く場所があった。しかし今ではそこは遠く遠く離れてしまい、その部屋にいつもあった暖かさももう思い出せない。 「別に、僕がいなきゃいけない用事なんて無いだろ……」 どんなに汚れていても、嫌がらず丁寧に洗ってくれた人に会えなくなった所為だろう。血の匂いがこびりついて取れなくなった右手をかざしつつ、ランは誰に言うでもなく一人つぶやく。 虎は未だ幼い一人を残して国外の大仕事で先日全滅したそうだが、それでも猿が数名と狐が二名、出先から呼ばれて戻ってきているのを昨日聞いたばかりである。 急な仕事が本部から入ったのだとしても、今なら手の空いた者が他に何人か待機しているはずだ。 現在唯一の現役である『狼』と言えど、自分だけが必要な事など何も無い。 「シヲはバカだな。十秒で帰れる訳が無い」 雑多な街の喧騒を廃ビルの屋上から見下ろし、ランは吐き捨てた。 『いいから早く戻っといで。――ガタガタ言わずに十秒で帰ってきな!!』 『いいから早く戻っといで。――ガタガタ言わずに十秒で帰ってきな!!』 『いいから早く戻っといで。――ガタガタ言わずに十秒で帰ってきな!!』 シヲ――ランが間借りしている部屋の家主である『蛇』から、携帯電話に猛烈な勢いで吹き込まれていたメッセージを意味もなく繰り返し再生しつつ、それを聴きながらランはゴロリとその場に横になる。 「――面白くない」 仕事以外の命令は好きではない。ランにとって他人の指図は仕事であっても好ましいものでは無いが、物心ついてこの方、牙として与えられた任務以外はろくに知らずに生きている。 趣味も楽しみも特には無く、だから生き方には目的も目標も何も無い。 ここ数年はポストを覗く楽しみがあったが――それもいつの間にか無くなって久しい。 そんな状況のまま、それでも持て余した時間が勿体無いような気がして、何となく街へ出てきたのだった。しかしもうそろそろ帰ってもいいかと思っていた矢先にこのメッセージである。 これを聞いた今、素直に帰ろうという気はランから完全に失せていた。 排ガスでくすんだ空に近い場所、コンクリートの屋上に寝転んだままで何をするでもなく、空虚な気持ちでただぼんやりと空中を見上げる。 「つまらない……」 寝転んだ背中に感じるコンクリートは、太陽に照らされていた分心地よく暖かい。 あの頃に感じていた優しい温もりとは比べるべくも無いが、それでもどこか似通った温度を感じ、ランはゆっくりと眼を閉じた。……もちろん携帯電話の電源を切る事も忘れない。 「面白い事なんて、なんにも無い……」 ――緩やかに眠りに落ちるまでの数瞬。 街の喧騒に混じり、懐かしい歌声が聴こえた気がしたが、確かめようと思う前にランの意識は途切れていった。 そうしてランが自分の住処に戻ったのはすっかり日が落ちた後。 やる気のない足取りで路地を往き、夜になっても相変わらずに騒がしい方向へと足を進める。 毎夜毎晩客引きでけたたましい歓楽街と、怪しげな酒場が連なる飲食店街のちょうど狭間に位置する食堂兼酒場が、ここ数年のランの活動拠点であり自宅だ。 ……とは言えこの店で働いている訳では勿論なく、単に時々睡眠をとりに戻るだけの、いわゆるベッド置き場というだけなのだが。 ビルに囲まれた道を抜けて裏通りに入り、そこを大股で進んで店の入口に立つ。だがその引き戸に手をかけた時、かけられていた木札にランは気がついた。 「……臨時休業……?」 この店は、昼間は食事のみだが夕方からは酒も供する。店主であるシヲの外面の良さに騙された男たちで毎日そこそこ賑わい、客入りも多い。 『蛇』として敵地潜入と情報収集を主にこなしていたシヲだったが、数年前の任務で敵の手に落ち、拷問と言う名のリンチで利き腕と片脚を壊され、何とか助け出されはしたものの、それ以降前線に赴く事は不可能となった。 そんな元・牙であるシヲの重要な収入源がこの店だ。現役の牙連中が食事と酒と情報交換とを求めてたむろっている事も多いが、よっぽどの事がない限りは一般人にまみれながら毎日遅くまで営業している。シヲも、それが嫌ではないようだった。 ――それなのに。 「へえ、珍しい」 きっと何かがあったのだろう。 さしたる感慨も無く、ランは店の引き戸から手を離した。臨時休業の札がかかっている以上、どうせこの戸は閉まっているはずだ。そして合鍵などという洒落たものはシヲから預かってなどいない。 ……正確に言うなら、預かってはいたが過去に三回も失くしている所為で、もう持たせてもらっていない。 さあどこから侵入ろうか――二階の窓でも割って入るかとランが踵を返したその時。 店の引き戸が、ズバーンと開いた。 「こンのバカオオカミがぁ―――!!!」 声に間髪入れず、初撃として店の椅子が飛んできた。 「!」 不意打ちを何とか避ける。同時に薄汚れたジーンズの中の足首付近にベルトで仕込んだ軍用ナイフ二本を素早く引き抜き、追撃として再度飛び来た椅子の二個目も避けて、道路にブチ当たって砕け散った椅子の破片を踏みしめながらランは体勢を整える。 「ラン……貴様! 見損なったというかお前の計画性の無さには呆れ果てた!!」 店の中から男が一人躍り出た。 叫ぶと同時に何やら金属製のものが――それはどうみても店に飾ってあった模造の青龍刀だったが――勢いよく振り下ろされ、ランはそれを両手の軍用ナイフで何とか受ける。 夜道に、物騒な火花が煌いて散った。 「前から気に入らなかったんだ! 何故お前のようなバカが狼で俺は狐なんだ……!」 「ウー……」 臨時休業の札が幸いしてなのか偶々か、近辺に人影は無い。 派手に響いた怒号と破壊音を聞いた近隣住民に警察でも呼ばれたら事ではあるが、早々に事態を収拾してしまえば問題は無いだろう。 刃は潰してあるとは言え、身に当たれば骨折程度では済まないだろう青龍刀と、隠そうともしない敵意を剥き出しにした青年を眼前にし、それでもランは無表情でつぶやく。 「――バカはお前だ」 冷たい眼で吐き捨てて。 「弱い奴は死ね」 ウーと呼ばれた青年の腹部に、手にしたナイフを突き立てた。 「ハイやめ! 仲間内殺人禁止!」 ――が、そこにもう一つ椅子が飛来して、それは今度こそランの頭に直撃した。古びた椅子はランの側頭部に見事命中し、木っ端微塵と砕けて夜道に飛び散る。 「………!!」 「がは……ッ」 「このクソガキ共! 天下の往来で騒ぐんじゃないよ恥ずかしい!」 それぞれの理由で道路に転がった二人を傲岸に見下ろしつつ、見た目だけは麗しい女性が店内から一人、杖を手に片脚を引きずりつつも現れた。 「いいから中に入れってんだよ。ウー! アンタもいい加減ランに適うわけないんだって勉強しな!」 「シヲ……、ちょ、救急車……っ」 「ランの逆ギレに備えて防刃ベスト着せてやってたんだから、それくらい別にヘーキだろ。さあラン、アンタもいつまでも寝っ転がってんじゃないよ。いいから中に入んな! っとにもー!!」 「シヲ……いつか殺す……」 「あぁ? じゃあ今の内にアンタの息の根こそを止めておこうかこのクソガキが」 シヲが手にする白塗りの杖が地面に這いつくばったままのランの肩を鋭く突く。椅子をぶつけられた衝撃で未だ立ち上がれないランが、それでも殺気のこもった眼で射殺すかの如くに睨みつけるが、シヲは歯牙にもかけない。 場末の酒場には相応しくないような絹の夜会服。そこから優美に伸びた左腕が、無造作にランの髪を掴んで持ち上げる。 「――そんな事より一大事なんだよ、ラン」 「何……が」 「だから早く帰っといでって言ったんだ」 続く言葉を一瞬考え、そして再度唇を開く。 「……今、アンタの」 「……シヲ……っ、この防刃ベスト古いだろ……! 貫通してちょっと刺さったぞ……!」 息も絶え絶えなウーが口を挟み、その言葉に話の腰を折られたシヲが舌打ちした。 「あーもー腹に穴開いた位で男がガタガタ言うんじゃないよ! ――ちょっとイエンハオー! アホ狐とバカ狼運んでー! 話が全然進まないー!」 もう、何が何だか。 ともすれば消えそうになる意識を必死に繋ぎとめ、ランは心の中でつぶやいた。 |