ハットリズム7  〜 Sings with Wolves 〜 シング・ウィズ・ウルブス (0-2)



 初めてランと会った時。
 夕方になったばかりで人のいないフロントに所在無く立つ、薄汚れたTシャツにジーンズ姿。その身なりや娼館に女を買いに来たようには見えない若さから、客なのだとは到底思えず、リーファは新しく入ったバイトかと思って挨拶をした。
 向こうも無表情ながらもぺこりと頭を下げてよこし、やっぱり新しいバイトだったとリーファが納得したのも束の間。その少年は、着飾って現れた料金も美貌も娼館一を誇る売れっ子姐さんと共に、この娼館で一番豪華な部屋に消えていった。

 あの姐さんにあんなに大きな息子がいたのかと、ひたすらビックリした事をリーファは今でも覚えている。もちろんそれはリーファの勘違いに他ならなかった訳ではあるが。

 その後日、その姐さんや先輩娼婦たちから、見た目は悪くないがひどく扱いづらい子供の客が最近よく来る。その性質が災いしてか相手は固定されずに毎回フラフラと女を変えているが、あんな可愛げのない子供の相手は金輪際したくない――等々とさんざんに愚痴を聞かされ……それはひょっとしたらあの時のあの子だろうかとリーファが思い至った矢先。
 ランは、客としてリーファの前に現れた。

 そしてそれ以来、ランはリーファだけを買い続けている。


 一体自分のどこを気に入ったのか。ほんの一、二年ほど前に客を取り始めたばかりの未だ青く硬い自分の身体を気に入ったとは考えにくく、リーファは一度それとなく聞いてみた。

「年上ヅラしてえらそうに説教するヤツは大嫌いなんだ。リーファは年も近いしそういうことを言わないし、僕を子供扱いしないから好きだよ」

 つい先程、ルームサービスを残した姿に食べ物の好き嫌いは良くないと苦言を呈したばかりだったし、リーファの膝に頭を乗せて子供のようにゴロリと寝そべった状態で言われても信憑性はあまり無かったが、それでも素っ気無いようなその表情は至って真面目で。
 ランの言う『好き』と自分の持つ『好き』はきっと違うものだと理解したが、美女を数多く揃えたこの娼館内でも、何故か自分にだけ心を許したこの少年を、リーファは確かに愛した。



「その歌」
「え?」
 幾度めかの逢瀬でランが問う。決して馴れ合おうとはしなかった背中が、最近では心なしか近く感じると思っていた矢先。
 いつもと同様に、事が済んで大きな寝台で寝そべる彼に歌ってやっていた時の出来事。
「なんて歌ってんのか全然分からない」
「ああ……そうかも。だって私の生まれた国の歌だから」
 笑んで言われたそれに、目を瞬いたランは更に問う。
「リーファ、外国人だったの? だから髪の色が薄い?」
「髪が茶色い理由は分かんないけど……私、半分は日本人よ。お父さんが日本の人だったから、 子供の頃は日本に居たの。五年生の終わりくらいまでかな。小学校、すごく楽しかったから、授業で習った歌は今でもよく覚えてるの」
 言葉自体はもうほとんど忘れてしまったけどと付け足してリーファが笑う。
「……ショウガッコウ……」
「うん、こっちで言う小学のこと。でもお父さんがお仕事に失敗してお母さんと離婚しちゃって、私はお母さんとこっちに帰ってきちゃったから、最後まで通ってたわけじゃないんだけど」
 ランの隣に自分もころりと寝そべり、リーファは目を閉じる。
 あの頃は帰る家があり、そこには父や母という家族がいた。それが今ではどうだろう。帰国後すぐに母は身体を壊して亡くなり、自分は親戚の家を点々とした挙句、今はこの娼館に居る。家も家族も無く、ただ生きるために夜ごと男の前で脚を開くだけの日々。
 生きてきた中で心から楽しかったと思える時期は、日本で家族と過ごした時代と……そして、ここ最近だけではないだろうか。
「ふーん……じゃあいつも歌ってたのって全部ニホンの歌?」
「そうだよ」
「良かった。歌詞の意味が全然分かんないから、てっきり僕の耳がおかしくなったのかと思ってた」
「大丈夫。私もね、歌自体は覚えてても意味はけっこう忘れちゃってるから」
 よかったと真顔で胸を撫で下ろすランに笑い、リーファはランの肩口に頬を寄せる。近くなった温もりに一瞬だけ視線を走らせ――ランも知らず微笑んだ。
「リーファがしょっちゅう歌うから、僕もなんとなく覚えたよ。どうも時々鼻歌で出てるらしい。ウーがそれをすっごくバカにする」
「ウー?」
「僕の子分。弱いくせによく吠えるキツネだよ」

 肌をあわせて寄り添い、薄明かりの中で他愛の無い話をする。
 俗に言う恋人同士とはかけ離れたような、金銭を間に挟んだ関係ではあったが、それでも辛さばかりが付きまとうこの世界で、ランは、リーファにとって確かに救いだった。
 そして、ランにとっての己もそうであればいいとリーファは願う。
 いつか必ず無くす救いであると予測しつつも、それでも隣で眠るランに対して想う気持ちがあるからこそ、日の当たらない世界でもリーファは歌う事ができる。
 救い自体は無くしても、共に過ごした記憶さえあれば、これからも。


 だから、唐突に切り出された別れにも、リーファの心は冷静だった。



「僕は嫌だって言ったんだ。でも戻って来いって、新しい仕事だって老師が、――あのクソ親爺」
 灯りが入れられたばかりの部屋。太陽が空から退くのと同時に館に現れ、ランは言った。
 普段は滅多に表情の揺るがないランが、珍しく苛立ちを隠さない。
「嫌なんだ。よく分かんないけど、でも嫌なんだ」
「でも、お仕事なんでしょう?」
「仕事だよ。僕にはそれしかない」
 ……吐き捨てる。

 苛立って波立ってはいても、ランの感情は元々どこかがひどく希薄だ。なだめるのに苦労するかと思われたそれは、ランが大きく息を一つ吐いて寝台に身を投げ出す頃にはすっかり落ち着きを取り戻していた。
 密室に、吐息だけが漏れる。
「…………リーファ。だからもう、会えない」
「うん」
 どこかぼんやりと、しかし無表情で天井を見上げるランに寄り添い、リーファも寝台に身体を横たわらせた。

「あのね、ラン。お願いがあるの。……痕をつけてもいい?」
「……好きにすればいいよ」
 ランの衣服の前をゆっくりと開け、中の肌へと指を滑らせる。細い首筋を撫で上げ、肉付きは薄いが充分に鍛えられた胸に舌を沿わせ――……愛しい心がどうか形として残るよう、祈るような気持ちで鎖骨の下に口付ける。

 一夜の夢と快楽を買いに来た客に、ランに、その夢の痕跡を残してはならない。
 どんなに愛しく思っていても所詮は娼婦とその客なのだ。自分は夢を売る立場なのであり、夢を見ていい立場ではない。――だから、その線引きだけは。
 それは云わば女ではなく娼婦として、今まで己に課してきたルールだった。

 自らの戒律を破ってつけた痕を指でなぞり、リーファは笑う。
 紅く散った一枚の花弁は、ランの胸の上で場違いなくらい鮮やかで……綺麗。

「ラン、もうひとつだけ。ランのこと……」
 話せる範囲でいいから、教えてほしい。
 本名は何というのか、何をしている人なのか、――今後、どこに行けば、会えるのか。
 だが、リーファの喉元までせり上がったその言葉は、結局は舌に絡まったままで唇からは出てこなかった。
「……僕のこと、なに?」
「ううん、何でも」
 すがる気持ちでランの首に腕を回す。抱きついて、首筋に顔を埋めて、こぼれそうになった涙を封じるために瞳を閉じて。――これが最後なのだと、己の心に言い聞かす。

「リーファ」
 名を呼ばれるのも今日が最後。ランは、通った娼館で馴染みになっただけの女の名前を、一体いつまで覚えていてくれるだろうか。
「ん……」
 細身で未だにどことなく少年めいた、しかし確実に出会った頃よりも逞しくなった身体。それの重みを感じるのも今日が最後。
 唇の感触も、汗ばんだ肌も、何もかも。
 ならばせめて忘れないように。心と記憶に総て刻んでおこうと、リーファはきつく閉じていた瞳を開ける。
 瞬間、涙が一粒こぼれて、そうしてランと目が合った。
 薄明かりの下でも鮮烈な黒の瞳。今まで幾度も肌を重ねてきたが、こうやってお互いに見つめあうのは初めてだと思い至り、リーファはゆっくり笑みを作る。



「ランガン」
「え?」
 リーファを寝台に押し倒したまま、唐突にランが呟いた。
「覚えといて。それ、僕の名前だから」
「な……」
 感情に乏しい、いつもと変わらない無表情。憮然としたような、しかし、やはりどことなく真面目なその目。

「だって、手紙書くのに必要でしょ。名前」

 てがみ。
 なまえ。
 急に言われ、頭の中で単語の意味がとっさに思いつかず、リーファは目を瞬いた。
「ああ、手紙。うん、それがいいや。手紙」
 自分が発した言葉に驚きつつ、しかし自ら同意するように、ランが口の中で反芻する。

「リーファ、字、書ける?」
「い、一応。でも少ししか……って、ラン、そんな、手紙なんて」
「――リーファは僕が来れなくなって、せいせいしてるの?」
 そんな訳は無い。しかしランを見上げて喘いだ唇からは上手く言葉が出ず、ただ首を振ることしかできなくて、その拍子にリーファの瞳からまた新たに涙がこぼれた。
「……じゃあ手紙が嫌なの?」
 静かにランが問う。
「なんで泣かなきゃいけないの? どうして? ……僕はいい考えだと思ったのに」
 ランの眉が不機嫌に歪む。
 人が泣くのは痛い時と嫌な事があった時だけだと思っている表情だ。自分の言葉でリーファが泣き出した理由が心底理解できない、未発達な思考と直結している。
「……違う、嫌じゃない。だって、嬉しいから……」
「リーファは嬉しいのに泣くの? …………全然分かんない」
 嬉しいと涙が出ることの説明を目の前の少年に上手くできない自分をもどかしく感じつつ、リーファは再度首を振る。
 理解できない感情で泣き出した少女をどうしたらいいか分からず、頬にこぼれた涙を乱暴に手のひらで拭ってやりながら、ランはリーファの泣き顔を覗き込んだ。
「リーファ、泣きながら笑ってる。……おかしいよ」
「そうだね」
 心底怪訝そうなランと見つめあい、リーファは笑う。笑った拍子にまた涙がこぼれたが、今度は乱暴な手のひらではなく、呆れたような唇がそれを拭った。
 瞼に口付けたまま、ランがつぶやく。
「おかしい」
「うん」
「リーファは変だ」
「……そうかな」
「ずっと思ってた。変わってる。――……うん。だって僕を怖がらない」
 思い起こせば、他人の血に塗れていた時も、消し切れない死臭を引きずっていた時も。少々の驚愕と共にこの部屋でランを迎えるリーファの心配そうな瞳には、陰りと偽りは一切無かった。
 いつもまっすぐ自分に向かう綺麗な目。わざと血塗れの手で触っても、決して汚れる事のない純粋さ。
 
 その記憶と共にリーファを抱きしめて、初めてランは心から笑う。
「変わってる。でも、そういう所が僕は好きだよ」




 ランは住所を教える代わりにマッチ箱を一つ投げてよこした。
 どこかの酒場のものであるらしいそれは、聞いた事のない名前と遠い住所で。でも、それがあればいつか会いに行けそうな、そんなほのかな希望にも見える。

「リーファ、もう会えない。だけど僕は手紙を書くよ。リーファは?」
「うん、私も」

 ランの身体の熱を感じながら、リーファは囁く。
 生まれた国を出て以降、学校などには通えなかった。だからきっと拙い文字と文章しか書けないだろう。
 でも。
「私も書くから……私のこと、忘れないで。ラン」
 伝えたい事は、全部全部伝えようと、リーファは思った。



「ねえラン。――……ランガン。それは本名?」
「そうだよ」
「どんな字を書くの?」
 問われた言葉にきょとんと瞬いた目に笑い、リーファは続ける。
「だって、手紙書くのに必要じゃない」
「あー……確かにそうだね」
 言われて、成程そうだとランも笑う。背中を向けてではなく、腕と胸の中にリーファを抱き、そうしてランは宣言した。
 述べた言葉に混じるのは、垣間見える誇りと矜持。

「狼剛。――死なない狼」


 夜明けが来ればランは去る。明日からはまた以前のような、辛さばかりの生活が待っている。
 それでも今だけは確かに幸せだと、ランの胸に咲いた紅い花弁を指でなぞって、リーファは小さく囁いた。


―― 次話に続く

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