ハットリズム7 〜 Sings with Wolves 〜 シング・ウィズ・ウルブス (0-1) 歌が聞こえる。 時に遠く、時に近く、緩やかに――……そして優しく。隣で眠っている少年を気遣ってか、その声は至極密やかだ。 歌は続く。 眠りにつく前は湿った熱気が篭っていた薄明かりの部屋も、汗とそれ以外で濡れて汚れたシーツも、歌声の持ち主が開けたのか、窓からぬるい風がやんわりと吹き込んで今ではすっかり乾いていた。 歌は、さらに。 都会の歓楽街である外の喧騒は、地上より幾分高いここまでは届かない。 窓の眼下では、濁った空気の元、ネオンの瞬きや客引きの声が相当やかましいはずだが、この部屋で流れる空気は外のそれとは違い、いつも柔らかくそして暖かい。 半分眠ったままのような心地良さの中で少年は目を閉じたまま、ぼんやりとそんな事を思う。 流れ続ける歌の内容は聴き取れない。 聞いた事の無い、不思議な響きの優しい歌。 そして旋律が止んだ。 同時に紙がめくられる音。パラリ、パラリと続けて二回。その音はすぐに止み、歌声も依然沈黙したまま。 半覚醒の緩い状態で歌声を聴いていた頭が、ここへ来てようやく覚醒した。 「――――歌わないの?」 「……起きてたの?」 大人が三人ほど転がってもまだ余裕がありそうな寝台で眠っていた少年の隣、同じように寝転がり、雑誌を眺めていた顔がこちらを向いて穏やかに笑む。 「それとも起こしちゃった? ごめんね」 「両方。……別にどうでもいいけど」 やる気の感じられない憮然としたその表情と口調に、歌声の持ち主は笑う。 「ごめんね、ラン。まだ寝てて大丈夫よ。……今回も長く買ってくれてるから、時間はたくさんあるし」 「じゃあ寝る」 「うん」 丸三日間。それが、ランと呼ばれたこの少年が彼女を独占できる、金で買った時間数だ。現在一日と数時間が経過しているが、それでも時間にはまだ余裕がある。 子供にするように頭を撫でようとした彼女の手から逃れてわざとらしく背を向け、寝台の隅に寄ったランはシーツを頭から被り直す。 ――今回は三日間。前回は一晩。その前は二晩連続で、更にその前は……忘れてしまったが、やはり長い滞在だった。 手から逃げていったその背中を見やり、彼女は考える。 最長記録は確か、これで買えるだけと言って汚れた札束を一つこの娼館のフロントで放って、一週間ものあいだこの部屋で朝から晩まで居残り続けた時だったか。 好かれているのかどうかは分かりにくいが、この館にいる他の娼婦とは数時間も共に過ごさない彼が、それでも自分とはこれほどまで長く居てくれる。 その事実が嬉しくて、しかしどれだけ肌を重ねても決して馴れ合おうとはしないその背中が少し寂しくて、彼女は寝台から立ち上がった。……再度の眠りにつくランを、今度は起こさないように。 「リーファ」 背を向けたままのランから、名を呼ばれる。 少年と青年のちょうど狭間にいるような細身の背中を立ち上がりながら振り返り、彼女――リーファは緩く微笑んだ。 「――大丈夫、今度は静かにしてるから」 「――歌っててもいいよ」 ランとリーファの声は同時。 「別に気にしない。好きなだけ歌ってればいいよ」 うるさくても寝れる、そう続けてランは更にシーツを被る。 「……聴きたい?」 「そういうわけじゃない。でも、歌いたいんなら別に構わない」 「眠るのに邪魔じゃない?」 「音痴じゃなければね」 浮かした腰をもう一度寝台に落とし、リーファは背を向けて寝転がるランに手を伸ばした。 背に指で触れ、短く切り揃えられた黒髪に触れて、ランが嫌がっていないことを確認してから、その頭を丁寧に撫でる。 「じゃあ、歌っててあげる」 「好きにしなよ……」 あくび混じり、怠惰にランが呟いた。 ランは決して馴れ合わない。 そして多くは語らない。 現にランについては通称のようなその名しか知らず、どこの誰で普段何をしているのかすら、言われないから分からない。――客の身の上について尋ねるのは娼館のタブーであるから、リーファからは決して訊けない。 一応は高級の部類に入るこの娼館に時折ふらりと現れては決まってリーファを指名し、抱いたり抱かなかったりしながら長々と時を過ごし、そしてまたふらりと去っていく。 この娼館で一番若い、まだ十代であるリーファとそんなに変わらないような歳で、且つ、育ちや家柄が良いのだとも言えなさそうなその身なりで、何故こんなにも金払いがいいのかは謎のまま。 そもそも一見して十代――それもまだ子供と呼んでも差し支えないような――と分かるような男が何の咎めも無く館内に入れること自体、おかしい気がする。 ――だが、そろそろリーファにも察しがついてきた。 両手の爪中に血がこびりついていた事が多々ある。 自分のものではない血に大きく塗れた姿で、フロントを通らずに直接リーファの部屋に現れた事もある。 はだけたシーツをかけ直そうとしたリーファの手に反応し、眠っていたはずなのに飛び起きたランに危うく首を折られそうになった事もある。 部屋に入るなり風呂に入ると言い出した今回は、着衣や身体に血こそついていなかったものの、濃い血臭がその身からは漂っていた。 ……ランがこの娼館に――否、リーファの元に来る時は、いつも決まって何かしら死の臭いがするのだ。 仕事の内容はともかく、お互いに、きれいな身体では無いという訳だ。 それでも大きな寝台に投げ出したその細い身体は、リーファの手の平の熱を心地良さそうに受け止めて、今だけは心の底からくつろいでいるようだった。 「……手、まだ血の臭いがする……起きたら風呂に入るから、また洗って……」 「うん、じゃあ、ランが起きるころに合わせてお風呂の支度、しておくね」 ランが呟き終わり、規則正しい寝息が聞こえてきたのに合わせ、リーファは再度歌いだす。 決して起こさないよう、小さく小さく、そして優しく。今はもう遠い記憶の彼方の、生まれた国の言葉と旋律で、ゆっくりと。 「おやすみ」 色素の薄い長い髪をさらりと揺らし、リーファはランの背中に微笑んだ。 |