ハットリズム6 〜その男、忍につき〜 (2)



 自分の家が、世間一般で言う所の“普通の家庭”でない事は、壮介自身早い時期に気づいていた。
 父母は二人とも同じ職業と職場で毎日忙しく、家族で食卓を囲むのは年に二、三回と言う位に滅多に無い。また、親子で遊びに出かけた事なども一切無い極端に触れ合いの少ない家庭で、しかしそれが当たり前だった。
 決して両親の仲が悪かった訳ではない。
 家の事情で一緒になっただけであり、好き合って結婚した訳では無さそうであったが、それでも外でも中でも常に一緒に居る二人は、子供としての立場から見る限り、仲が悪いようには感じられなかった。
 ――ただ、話し方ややりとりが妙に冷めていて仰々しく、そしてどこか他人行儀ではあったのだが。

 その両親が周囲の言う『仕事中の事故』で二人同時に亡くなったのは、壮介が小学生の頃。
 そして、会社を経営していた父の、職業内容の真実を詳細に知ったのも同時期。両親の告別式会場で叔父から聞かされての事だった。
 ――あれからもう、何年経っただろうか。

 今ならば分かる。
 両親は、『使う者』と『従う者』だったのであり、決して『夫婦』では、無かったのだ。





 渡された資料についての質疑応答がしばらくなされた結果、壮介が家路に着いたのは、夜もすっかり更けてからになってしまった。
 こんなに遅い時間ではもうとっくの昔に夕食は終わっているだろうし、子供は二人とも寝てしまっているだろう。もしかしたら妻である理愛も寝ているかもしれない。
 ……仕事も終わって久々の帰宅、久々の家族団欒だったのに。
 こうなったらいっそ憂さ晴らしに、今晩は息子か娘どちらかの布団に潜り込んでやろうかと思いつつ大きくため息をつき、そして玄関の戸を開ける。
「――ただいま」
 夜も遅いので小声で呟く。……返事などは元より期待していない。
 だが、そのまま玄関に座り込み、靴を脱ぎにかかったその時だった。

「あれ、いつ帰ってきたの? ただいまってちゃんと言った?」

 寝ているとばかり思っていた翔太が、廊下の向こうにパジャマ姿で立っていた。
 何日か振りに顔を会わせた息子に対して思わず笑みがこぼれかけたが、今の時間帯と言葉の内容を思い出し、渋面を作る。そして口を開いた。
「もちろん言った。……でもな翔太、お前、その前に父さんに言う事があるだろう」
「そう?」
 分かっているのかいないのか。翔太はとぼけるばかりだ。
「普通、親が帰ってきたらおかえりの一言くらい言うものだ」
「なんで?」
「なんで、じゃない。いい加減にしなさい。それに何でこんな時間に起きてるんだ、どうして寝ない」
「えー?」
 素っ気無い翔太の態度に、壮介の頭の中で反抗期という言葉がグルグル回る。
 昔はうるさいくらいにまとわりついてきていたのに、近頃はすっかり可愛げが無くなってきてしまった。甘えてくる事がめっきり減って、そして壮介の仕事が忙しい分、顔を合わせる事も少なくなって会話も少なくなりがちだ。どっちから先に父親に抱っこしてもらうかで妹とケンカした過去など、この息子はすっかり忘れてしまったに違いない。
 深夜の帰宅で疲れているであろう事が簡単に予測される父に対し、労りの言葉一つ出てこないのだ。

 だが、子供に背を向けて、溜息混じりに昔は良かったと壮介が呟く寸前、玄関に座り込んだままだった背中に、不意にずしりと重みが加わった。
 いたずらな響きで含み笑いの声がして、それで翔太が乗りかかってきたのだと気づく。
「――おかえり父さん、遅かったね。今日こそお父さんといっしょにお風呂に入るんだって言って、愛がずっと待ってたんだよ」
 父さんが遅すぎるからもう寝ちゃったけどと付け足して、べたりと張り付いた父親の背中の上で翔太は笑う。
「ぼくも一回寝たんだけど、なんかどーしても眠れなくって起きてきたんだ。ねー父さん旅行もうすぐだね。ちゃんと晴れるかな、楽しみだね!」
 肩越しに笑う子供の顔は晴れやかだ。楽しくて嬉しくて仕方がないといった風に満面で笑み、そして抱きついてくる。
 その笑顔につられ、壮介も笑う。
「楽しみか?」
「もうむっちゃくちゃ! だってみんなで旅行行くのすっごい久々じゃん!」
本当に楽しみで仕方が無いのだろう。翔太の頬は紅潮し、普段ならばとっくに寝入っている頃の遅い時間にも拘らず、眠気などは感じさせない口振りだ。
「そうか」
 微笑んで肩越しに頭を撫でてやると、翔太はとろけるような笑みを浮かべた。だが、不意に眉を曇らせて呟く。
「なのに父さんさあ、全然帰ってこないし、電話もないし。それってアリ? 母さんが心配してたよ? お父さんお仕事終わんなくて帰って来れなかったらどうしようって」
「仕方ないだろう、仕事だったんだから」
「そりゃそうだけどさあ」
 笑ったりむくれたり忙しい息子を背中に貼り付けたまま、壮介が立ち上がる。自然、背負っておぶるような形になるので嫌がって降りるかと思ったのだが、予想に反して翔太は嬉しそうに歓声を上げて、さらに強く背中に抱きついてきた。
 ――息子が反抗期に片足を突っ込みかけた最近では、こんなスキンシップは滅多に無い事だ。
 いつもこうなら本当に良いのにと壮介がしみじみ思ったその時、洗面所のドアが勢い良く開いて、中からパジャマ姿で湯上りの理愛が顔を出した。
 声が聞こえたので慌てて出てきたのだろう。髪は雫がこぼれるくらいにまだ濡れている。
 子供を背負って廊下に立つ壮介の姿を見つけ、そして笑う。
「―――おかえりなさい」
 仕事を終えて戻ってきた夫を迎えるその笑みには、万感が込められている。
「ただいま。……遅くなった」
「ううん、おかえり。おかえりなさい」
 そのまま早足に歩み寄り、妻らしく壮介の持つ上着と鞄を受け取った。壮介と目を合わせ、何事か口を開こうとし、ふと背中の翔太に気が付いて微笑む。
「翔ちゃんどうしたの? まだ起きてたの?」
 父親の背に張り付いた翔太は、どこか照れくさそうに母親を見た。そして照れ隠しなのか何なのかニヤリと笑い、さっさと背中から降りてしまう。
 その瞬間壮介が至極残念そうに表情を崩したが、生憎と翔太はそれに気が付かない。父親からするりと離れ、こっちに甘える事には何の抵抗も無いのか、そのまま母親の腰にしがみつく。

「眠れない?」
「うん。もうすぐ旅行だーって思ったら、わくわくして眠くなくなっちゃった」
「でも寝なきゃね。ちゃんと寝ないと背が伸びなくなっちゃうよ?」
「うん。 ……あ、そろそろ眠くなってきたかもしんない」
「良かった、じゃあ寝ようね。――お布団まで一人で行ける?」
「愛と一緒にしないでよ、だいじょうぶだよ、もう」
「そう?」

 目の前で交わされる母子の会話。
 その光景に、壮介は自分が子供の頃を思い出す。……父と恋愛をして結ばれた訳では決してない母は、自身に子供がいるという事実に馴染めていないようだった。粗雑に邪魔者として扱われた訳ではないのだが、如何にも子供の扱い方が分からないと言った様子で、会話はいつも長くは続かなかった。
 それは父も同じことで、会話はいつも必要最低限に二言三言。
 父親の会社の――それは云わば組織の――跡取り候補として、充分に養育されてはいたと記憶しているが、それは物質面や身の周りの環境に関してのみだ。精神面ではいつも親の愛という見えない物に飢えていた。
 両親が亡くなって、叔父に引き取られてからも、それは何も変わらなかった。壮介が本当に欲しいものはどうしたって自分だけでは手に入らないものばかりで、どうしたら『それ』がもらえるのかあの頃は見当もつかず――
 結局、欲しかったものは何一つ手に入らないまま、壮介は大人になってしまった。

 でも、だからこそ思うのだ。
 されたかったのにされなかった事、言われたかったのに言われなかった事。わがままを言って嫌われたらと思うと言い出せなかった事、同じように出来なかった事。
 ――それら全部を自分の子供に。
 大事なひとが生んでくれた、大事な大事な子供へ。
「……翔太、父さんと寝るか?」
 大切にしたいと、切実に思うから。

「ううん、ぼくじいちゃんと寝る方がいい」


 ……その思いが上手く伝わるとは限らないが。




「なあ理愛、俺は嫌われてるんじゃないよな? アレはお義父さんがあまりにも子供の心を掴むのが上手いというヤツだよな? 初孫が生まれた途端に仕事を辞めて家庭に入ったお義父さんの作戦勝ちというヤツだよな?!」
「でもホラだってお父さん一般で外科医だったけど小児科も担当してたんだし、て言うか今だって完全に辞めた訳じゃないし現役だし、あんな怖い顔してても子供の扱いとハートを射止める事に関しては一流みたいだから。ね、仕方ないと思うよ、壮介くんが負けても」
「負けてもとかサラリと言うなよ……!」

 祖父の寝室にさっさと去っていく息子を名残惜しげに見送り、壮介は今、台所のテーブルにいる。
 可愛い息子は父より爺を選択したので、仕方なく嫁を選択する事にした。……などとは、口に出したら怒られそうな気がするので言わないのだが、自分の髪を乾かすよりも先に壮介の食事の用意をしようとしていた理愛を捕まえてイスに座らせ、自分も隣のイスに腰掛けてタオルを使う。
 子供にするように丁寧に、濡れた髪を拭いてやる。
「……ね、もういいよ、お腹すいてるでしょ? ご飯の用意するから」
「バカ言え。きちんと乾かさないと風邪を引くだろう」
 ――それはただ単に口実でしかなく、本当は久々に顔を合わせた妻にもう少し触れていたいからだ。
 その事を分かっているのかもしれない理愛は、柔らかく笑んで浮かしかけた腰をもう一度落とし、つれない息子に対する泣き言の後に憮然と言われた一言に大人しく従う。

 しばらくは二人とも無言だったが、少しして壮介が口を開いた。

 早めに終わらせたとは言え結局出張状態になってしまった今回の仕事の事、発注先の受けていた嫌がらせの内容、知り合いの暴力団関係者に協力要請した時の苦労。要請に対して芳しい返事が得られず、思わず力技発動で無理矢理協力させてしまった事。
 発注先の社員食堂で食べた定食が思いのほか美味しかった事。任務の納品が間に合わなくて自分だけ旅行に行けなかったらどうしようかと心から焦った事。
 今日、百地が素でかましたボケの事。

 壮介は取りとめのない話を続ける。それを理愛は笑いながら、そして時折相づちや質問を混ぜながら聞いている。
 理愛がどれだけ心配し、どんな気持ちで自分の帰りを待ってくれているかを知っているからこそ、壮介は話し続ける。子供達に対する愛情ほど正直に表には出せないが、タオル越しに伝わってくる温もりの持ち主を、壮介は心から――

「さて、もうほんとにいいよ。ありがと、壮介くん」
 前髪を摘んで乾き具合を確かめた理愛が立ち上がる。壮介的にはまだ名残惜しかったが、長話の所為かタオルの必要がないくらい髪は乾いていた。壮介は不承不承うなずく。
 髪の代わりに水分を吸って重くなったタオルを受け取り、理愛が立ち上がった。
 そして、そのままテーブルを離れて流しの方へと……行くのだと、思われたのだが。

 座ったままの壮介に、不意に重みが加わった。

 本日二回目のそれは、翔太が抱きついて来たものよりもずっと柔らかい重みだった。
 負担の無い、暖かい背後からのその重みは、今更確認せずとも誰の仕業か知れている。イスに腰掛ける壮介の背後に立ち、肩口から腕を回して緩く抱きしめる手。
「理愛」
「――おかえりなさい」
 耳元で囁く声。
「ああ…………ただいま」
 返す声に吐息と笑みが混じる。


 子供の頃に欲しかったものは結局何一つとして手に入らなかった。
 だが、大人になった自分は、それ以上の宝物をいくつも手に入れた――




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