ハットリズム6 〜その男、忍につき〜 (1)


 そこは地方都市。
 都会過ぎず、だからと言ってひなびた風も無く、都心にはビル郡が立ち並び、人々が日々を闊歩する色彩鮮やかな街並み。
 多くの人々が行き交う代償のように、小さな事件や犯罪や交通事故等は毎日どこかで必ずあるが、それでも治安は悪くない。

 そしてありふれたオフィス街の一角。
 朝と夕方の二回に渡って近辺はひどく混雑し、反対に夜間は急激に人口密度の減る、日本全国のどこにでもありがちな地域特徴。
 各種商社や企業の支社、事務所、店舗がひしめき合い、社会と経済を支えるその現場。それは多くの人々の日常生活の場でもある。

 ――だが。
 何の変哲も無い一般企業を装って、『それ』は戦前よりも古くから、人々の日常の狭間に存在していた。


「内容も提出書類も不備無し、納期までは余裕あり。多少経費がかかったみたいだが――ご苦労さん、これなら上も文句は言わないだろう」
 オフィスビル群の片隅、7階建てのビルの5階。夕刻時のさして広くも無い会議室のデスクセットで、差し出された報告書を眺めながら、その男は紫煙を吐きつつ呟いた。
「しかし今回の『納品』は早かったな……。お前の事だから足が付くような事は無いだろうが、また無茶なやり方をしたんじゃないだろうな」
 短くなったタバコを灰皿に押し付け、報告書を提出してきた人物を見上げる。
 立ってないで座れと促すと、スーツ姿に鋭利な顔付きのその人物は、至極真面目な表情で頷いてゆっくりとイスに腰掛けた。
 部屋の中の影は夕暮れの日差しを受けて一層色濃く、スーツ姿の人物の表情は影に埋もれて判断できない。男は、とりあえず胸のポケットから新たにタバコを取り出して相手に勧め、自分も一本銜えなおす。
 お互いに一息吸って吐き出すと、会議室にタバコの煙が薄く充満した。
 報告書を持ってきた人物が口を開く。
「――身体にスミの入った奴等は、その辺の一般人よりずっと無理が利くし、扱いやすいですから。知り合いの奴に別件からユスリをかけて、人海戦術でこっちを手伝わせました。……手段なんて選んでられないですよ。今回はとにかく時間が惜しかった」
「時間ねえ……」
 納期にはまだまだ余裕があるが、と口の中でだけ呟いて、男は再度報告書に目を落とした。

 今回の『発注』は民間企業からのものだった。
 大々的に行われる株主総会に向けての、総会屋対策。依頼主である企業の、ライバル社である所から手を変え品を変えで送り込まれてくるチンピラじみた総会屋により、ここ数回は穏便に終わった試しがなかったのだが、この現状を打破するべくの苦肉の策で今回の『発注』と相成ったようだ。
「……中小企業同士が足を引っ張り合ってどうすんだとしか思えんがなぁ」
「小さいところ同士だからこそ、仕事の取り合いで揉めるんですよ。まあ向こうが本筋の総会屋を使ってたらきっともっと時間がかかったでしょうが、幸いその辺の暴力団……しかも下部構成員を金で雇ってるだけみたいだったんで、そんなに時間はかかりませんでした。とりあえず、今回の報告書を明るいところに持って行けば、総会屋に指示を出していた役員あたりの逮捕は間違いない。今後しばらくの総会は無事に済みますよ」
 それでも次回の総会には念のために部下を連れて自分も顔を出すつもりでいますが、と付け加えて彼はさっさとタバコを揉み消した。

「じゃあ帰ります。あと明日からしばらく休みます、よろしく」
 手早く荷物をまとめ、イスを引いて立ち上がる。
「おい」
「報告は終了しました。『外勤』の後は少なくとも3日間の休暇申請が可、さらに今回は納期に余裕を持たせての任務完了。故に最長5日間は休暇申請可のはず! ハイこれ! 休暇申請ハンコ下さい!」
「何だそれは」
「俺は明後日から家族で一緒にTDLに行くんです。泊りがけです。義父が先走ってホテルを明後日で予約したんです。だからもう何が何でも仕事を今日明日中に終わらせなきゃいけなかったんです。なんとか余裕持たせて終わらせましたが、みんな俺が帰ってこなくても行くって気マンマンなんです。そういう事なんでもう帰ります!」
「待たんかコラ!」
「ウチの娘にミ○キーの帽子被せて写真撮るって夫婦で前から決めてるんだ! 息子と義父と一緒にマウンテンシリーズを全制覇するって約束もしてるんだ! 帰らせろ! そしてたまには休ませろ百地!!」
「年上を呼び捨てにすんなボケ! まだ話は済んでないつってんだろクソガキ! ――壮介!!」
 そして机に封筒を叩き付ける。
「見ろ!」
 茶色の、何の変哲も無い事務用封筒。厚みのあるそれは会議机に重々しくぶつかって大きな音を立てた。名前を呼ばれたスーツ姿の男――服部壮介は、眉をひそめる。
「………一応訊くけども、何だそれは」
「見たままだ。次の『現場』の資料一式」
 その言葉に表情が一層険しくなる。
「ふざけるなよ、何でまた俺なんだ。そうそう現場仕事ばかりあってたまるか。他の奴等はどうした……!」
 机上の封筒を一瞥し、心底憎々しげに壮介が吐き捨てた。
「俺は! 俺はデスクワークに回った筈だ! 『外勤』は必要最低限、『内勤』で構わないという約束でこの世界にまだいるんだ! それなのに、どうして毎回……!」
 夕暮れの会議室に怒声が響く。窓のガラスが震えた程の声に、しかし微塵も動じずに百地はただ座っている。壮介が落ち着くのを待ち、口を開いた。
「仕方がないだろう」
 抑揚の無い声。灰が、床に落ちる。
「人手が足りてない。最近の若造は使えない。だから俺たち年寄りにまで出向命令が出る。……まあ、困ったもんだな」
「だったら育てればいい!」
「一朝一夕で使い物になる訳がなかろう。――それに、念を入れたい仕事には、それなりに場数を踏んだ奴を行かせたいという上層部の気持ちも分からんでもない」
 長めの前髪を左手でかき上げ、続ける。
「この『発注』は公的なものだ。銃刀の所持も特Bまで許可が下りている。違法もある程度までは認可されるぞ。――生憎今は俺も手一杯でな、だったらお前に声がかかるのが必然だ」

 依頼、つまり『発注』が民間からの場合は、総てが自分達の責任となる。法に抵触するような手立てを取らなくてはいけない場合でも、当たり前だがそれについての保障は一切無い。そういった手段を行使した事を世間に知られれば罰則だって考え得る。しかし、発注先が公的な機関だった場合なら、話は別だ。
 
 そして、壮介たちの所属するような一種秘密裏の組織に依頼を持ち込むような公的機関は限られている。
 ……治安維持を主幹とし、実質的には、警察組織の非合法的な活動を専門としている機関。

「二ヶ月前の仕事を覚えているか? その時の先方がな、お前の働きをえらく気に入ったらしい。次に何かあった時も是非頼みたいと言ってなぁ……推薦したそうだ。今回の依頼先に、お前を」
「二ヶ……っ、て、公安か! じゃあ今度の仕事も公安絡みか……!」
 壮介が大仰に顔をしかめ、百地は頷いた。
「あちらさんも慢性的に人手不足なんだそうだ。まあ、確かに民間の協力員なんかはそう簡単には見つからんだろうし、見つかったとしてもどの程度まで使っていいかというのもあるし、ヘタな人間を極秘捜査に使ってマスコミにでも嗅ぎ付かれたら始末に終えんからな。潜入やら監視やらはうちのような専門に任せた方が気が楽で間違いが無いし、後腐れも無いと言うのもあるだろうよ」
 実際、現場から離れた(形ばかりではあったが)壮介自体はそうそう数をこなしている訳ではないが、今でも現役で日々『外勤』をする身である百地などは、一年を振り返ってみると公安関係者から請けた仕事が大小取り混ぜても圧倒的に多い。
 百地や壮介達の所属する組織自体、表向き一般企業を装ってはいるものの、堂々と明るみに出ていいような企業内容では無いのだ。その為、内容的に極秘裏で行う事の多い手法を用いて治安維持を行う公安とは、非常に密接した関係があった。云わば、上得意と言っても良い。
 公安関係の『発注』を請けるのは何も百地達の組織だけでは無く、同様の依頼をこなす事を生業とした業者は日本全国に点在している。
 だが、戦後数十年、国の中枢にも関わるような高度な依頼をも請けられる組織力を持った団体は急激に減り、今では国内に、百地達の組織を含む数社となってしまっていた。

 戦前までは、全国に多数の存在があったと言う、その組織。
 呼び名も仕事内容も組織によって大きく違いがあり、一概に一括りとしてしまう事は難しい。だが、それでも同一の名を与えて一まとめとするならば、一体何が彼らに一番相応しいだろうか。
  遠い昔の最早歴史の中のみにその名を遺す、影の存在。闇に潜み、主となる者の命に従って如何なる任務をもこなし、そして人知れずに散ってさえゆく者達。
 今となっては何らかの劇中程度にしか現れないその職業と名前。
 百地や壮介達の組織は、社会の裏や陰で動く自分達を、自嘲と誇りとを込めて今でもこう呼ぶ。

 ――― 忍 、と。


「……今回は、まあ、タイミングが悪かった」
 古びたジッポを両手で玩びながら百地が言う。
「向こうはお前を寄越せと言ってきてたが、最初は京子を行かせるつもりだった。だが、あいつこないだ結婚したばかりだろう。ダンナからクレームが来てな、今後しばらくあいつは使えなくなった。……あのクソ坊主、ヤクザ家業の癖にこともあろう事かコネ使って警察通してウチの上層部に文句言ってきやがったからな……」
「京子か……」
 一応上司とは言え、最も気安い友人である百地同様、学生時分からの昔馴染で気が付いたら自分の息子の担任になっていた元同僚の顔を思い浮かべ、壮介の顔は渋くなる。
「……上層部に無理を通して相当苦労して半分だけ足抜けさせてもらって、昔からの夢だった小学校の先生になったばっかりだって言うのに――なんでヤクザの嫁になんかなったんだアイツ……」
「知らん。俺に訊くな。だが、その所為で人手のアテが無くなったんだ」

 総会屋対策の『発注』が舞い込んだ時、比較的小さな仕事とは言え、社内――正確に言うならば組織内――で手が空いている者がいなかった。一人だけ外部にいたが、それも結局使えなくなった。
 結果、『内勤』専門であるはずの壮介にまで矛先が向いてしまったのだ。
「外勤が続いて申し訳ないが、諦めて行って来い。コネクションはどれだけあっても多すぎると言う事は無いんだ。せいぜいお得意様の役に立って、是非次の発注につなげてくれ」
 不況の波はどこの業界にだって打ち寄せている。それこそ歴史の中で繰り返されてきたように人格否定の末に安い賃金でこき使われるような事になるのならば話は別だが、そうでない限りある程度法的な庇護の発生する公的な発注は、現場関係者からしてみれば民間のものよりもよっぽどありがたい。武器や銃器の使用が法的に許されているのといないのとでは、現場出向者の身の安全度が違ってくるからだ。
 ――例え、その発注自体が身の危険を伴う内容だとしても。


「休みはやる。5日間。TDLだろうがUFJだろうがどこにだって行け。――しかしこれは命令だ、仕事は請けろ。休み明けに発注元に直接出向、向こうのチームと合流。そして指示を仰げ。……こちらに寄る必要は無い。家には長期出張だとでも言っておけ。いいな」
「……っ」
 告げる百地の表情に揺らぎは無い。任務時の百地特有の冷えた目で、総ての反論を封じるように壮介を見やり、イスの背もたれに再度身を預けた。
 会話が消え、紫煙だけがゆっくりと部屋に広がっていく。
「俺は組織に恩がある。だから自分から進んでこの世界に身を置いている。だが、望んでこの世界に身を置いているのではない、お前のような人間には辛いだろうな」
 百地がつぶやく。
「それでも――お前じゃないと勤まらないんだよ、今回は」
 言葉と共に吐かれた煙には、ため息も含まれていた。

「……一言だけ言わせてもらう」
 諦めた壮介が再度席に着く。そして封筒の中身を取り出しながら呟いた。
「UFJは、銀行」
「――あ?」


 大阪にあるヤツは何だったっけと首をひねる百地をよそに、壮介は封筒の中身の確認を始める。
 銃刀所持許可は特B。刃渡り30cm以内の刀剣類及び拳銃の所持が、当任務遂行中に限り許可される。
 ……つまり、今回の発注は銃器武器の類が必要になるくらいに危険な任務なのであり、その際の自分の身は極力自分で守るようにとのお上からの御達しだ。
 発注元と合流すれば、早速契約書にサインを求められる事だろう。曰く、『何があっても口外しません』、『万が一任務中に死亡したとしても、訴訟は絶対に起こしません』。

(理愛には言えないな……)
 久々の家族旅行を妻は楽しみにしている。こんな仕事をしているのだから、いつ如何なる時でも覚悟はしておくように言ってはあるが、それでも新たな任務について伝えるのは旅行の後でいいだろう。
 楽しみにしている旅行を下手に壊すような事は、言いたくない。

 仕事で死ぬつもりは一切無い。だが、無事で済むという確約は、この職業には存在していない。 そして壮介には、この世界から抜け出す権利と手立ては一切無いのだ。

 何度目かのため息を吐き、それでも壮介は資料に目を通し続ける。


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