というサークルに入りました。一応新入生歓迎コンサートというのを見させてもらって、決めました。バンド をやりたいのなら、もうひとつ「軽音楽部」もあったのですが、こっちも同じような新歓コンサートを見た上で、 雰囲気としては、フォーク研の方がアットホームな感じで好感もてたので、こちらに決めました。文化系の サークルなんですが、上下関係の厳しさにおいては体育会系のノリを持つサークルでした。大学の学年 には関係なく、もちろん実年齢にも関係なく、サークルに入っている年数で上下が決定します。実際、私の バンドメンバーで2年生になってから私と同じ年に入部した人がいましたが、部内での扱いは私と同じ 「1年生」でした。高校の軽音楽部にも「先輩」は確かにいたのですが、普段接触する機会があまりなくて、 ミーティングなんかも年に1回か2回しかなかったので、あまり上下関係がどうのという感じではなかった です(1年生の時の部長はコワイ人という印象しかなかった)。目上の人にどう接するかということは大学に 入ってからのこのフォーク研で学びました。けっこう封建的な体質を持ったサークルでしたので。1年と2年 はとにかく力仕事(重たいアンプ・ピアノを運ぶなど)や雑用をやらされます。それも命令される前に自主的 に仕事を探してやる、という姿勢が大切でした。社会に出てからも同じですけどね。 サークルの中では、コンサートを運営する際の役割分担がありまして、PA・照明・セッティングの3部門に 分かれていました。高校時代はPA部門を放送局の連中に依頼していましたが、大学では何から何まで 自分たちで運営するシステムになっていたのです。私はセッティング部門に所属して、ステージ上のいろ んなものを配置したり、コンサートの間は舞台袖に待機してバンドが交代するごとにマイクをセットしたり 譜面台やらエフェクターやら椅子やらを出したりひっこめたり、という仕事をやりました。コンサートという ものは、このようにして作り上げるのかと、実感できました。私の場合、2年生になってから「会計」という 部内に一人しかいない役割をおおせつかったので、セッティングの仕事をメインでやったのは1年の時だけ です。会計の仕事はけっこう代々女性がやってきたのですが、私の代ではなぜか、私が「お前しかいない だろう」と先輩たちから指名されまして、やることになりました。会計は2年生から選ぶということになっていた んですよね。部長は3年生で副部長が2年生、各部門のリーダーは3年生ということになっていました。私は このサークルを2年生の終わりにやめてしまったのですが、やめる前に次の代の会計を私が指名することに なり、結局女の子ではなく男を指名しました。任せられるのは、そいつしかいなかったのです・・・。 |
フォーク研に入って最初に結成したバンドの名前です。命名は私。あまり深い意味はありません。「爆発力 のあるバンド」にという願いをこめたんだったかなあ。ボーカル・ギター・ベース・キーボード(×2)・ドラムスと いう6人編成でした。デビューライブではオフコースの「YES-NO」と「SAVE THE LOVE」をやりました。その後 はバンマスの趣味で(ボーカルの橘という男でしたが)、山下達郎のコピーを中心に活動していきます。当時 サークル内での山下達郎の評価はすごく高く(実際、世間でもかなり売れていました)、先輩たちの中にも 山下ファンはたくさんいました。へそ曲がりの私はその頃はアンチ山下派でしたが。どんな曲をやったかと いうと「スパークル」とか「ラブランド・アイランド」とか「ボンバー」とか。「レッツ・キス・ザ・サン」もやったっけ。 だいぶ後になってから、山下達郎の良さがわかるようになりましたね、私の場合は。「スパークル」は今では 大好きな曲ですが、当時はこの16ビートのリズムがうまくきざめなくて、大嫌いな曲でした。山下達郎以外 では、山本達彦(まぎらわしい名前ですが)もやりましたし、スクエアの「トラベラーズ」なんかもやりましたし、 ショーグンの「男達のメロディー」もやりました。オリジナルも少々。1年くらいはこのバンドで活動しましたが、 「音楽性の相違」により(この言葉使ってみたかった!)私とベースの遠藤とキーボードの米倉の3名は「脱 退」し、別のバンドを結成しました。 |
これが次に結成したバンドの名前です。「モッキンバード」のもじりです。今にして思えば「鉄琴鳥」と表記 するのも手だったかな。TNTはいわゆる「シティポップス」(死語だ)をやろうとするバンドでしたが、この バンドは「ロック」をやりたくて集まりました。TOTOというアメリカのバンドの曲をコピーしたり、あとはオリジ ナルをやっていました。一応バンマスはキーボード兼ボーカルの米倉(愛媛出身)で、オリジナル曲の作曲 も彼が担当していました。TNTでベースを弾いていた遠藤はこのバンドではギター。私はオリジナルの作詞 を担当しました。洋楽志向のバンドなので詞も英語で。まあ、一応英文科でしたから。辞書を駆使して作って いました。メロディが先にあって、それに詞をつけていく方が好きでしたね。パズルみたいな感じで。TNTから の3人に加えて後輩(その時点で我々は2年生でした)からベースともう一人のキーボードを誘って、5人編成 でスタートしました。 前述のように私はこのサークルを2年間でやめていますので結局このバンドでは1年弱しか活動していないの ですが、その1年でTOTOの曲は10曲くらいコピーしたと思います。ちょうど5枚目のアルバム「アイソレーション」 がリリースされた頃のことでした。 このバンドでの1年間はほんとに楽しかったです。遊び心満載のバンドだった し。キーボードの岡部という女の子をボーカルにして「アイドル歌謡大特集」(中森明菜とか松田聖子とか)を やってみたり。遠藤が適当に弾くフレーズに合わせてナイト・レンジャーとかアルカトラスとかレインボーの曲 とかをアドリブでやってみたり・・・。真面目にオリジナル曲のアレンジを考える時ももちろんありましたけどね。 TOTOの曲の中で一番多く練習したのはセカンドアルバムのB面1曲目(いまどきB面なんて言いませんが)に 収録されている"All Us Boys"という曲です。あの時の私たちのテーマソングのような感じでしたね。今でも この曲を聴くと、ドラムをたたきたくなります。 私は主として作詞担当だったのですが、1曲だけ作曲したことがありました。一応自分で詞も書きました。 もうバンドを辞める直前だったので、バンドでの練習もほとんどできませんでした。曲調は覚えているけど 細部はもうわすれちゃいましたね。コード進行を書いた譜面はどこかにしまってあるかもしれないけど。肝心 の詞をほとんど覚えていません。自分で書いた詞をはっきり覚えているのは、メロディ先行で初めて書いた "Broken Heart"という曲ですね。バンドで作った一番好きな曲でもあります。♪Last night I saw a shooting star ・・・という歌詞で始まります。この曲は私が脱退した後もアレンジを変えて進化していったようです。 バンドというよりフォーク研を2年でやめてしまったのは、3年になると教職課程が入ってきて勉強が忙しく なるから、という理由だったのですが、あとで悔やみましたね。4年生まで続けておけば、もっと面白い経験が できただろうにって。後悔先に立たずってやつですね。 当時のメンバーとは今も年賀状のやりとりはしています(ベースの高木以外)。米倉は大学卒業後にネッス ルに入社して営業をしばらく(2年か3年)やってから脱サラして、東京に出てミュージシャンを目指しました。今 は仕事をしながら、インディーズで「SANGO」というバンドで活動しています。CDも一枚出しています。私も 買いました。独特の空気感を持つバンドで、じわじわと味わいが出てくるサウンドですね。2枚目を楽しみに しています。遠藤は○○銀行に就職し、海外をあちこちまわったりしていましたが、今は名古屋にいます。 岡部は札幌でエレクトーンの先生をしています。で、私は高校教師。 |
大学に入って、ドラムは高校時代よりは多少マシになりましたが(それでも決してそれほど上手いドラマーでは ありませんでした)、キーボードを弾けるようになりたい、という思いが強まり、1年生の冬くらいに貯金をおろして キーボードを買いました。7万くらいだったと思います。ヤマハのCP-7という機種でした。けっこう迷いに迷って 選んだのですが、使っていくうちに不満は出てきました。タッチレスポンスはついていないし、音色もなんか中途 半端だったし。当時普及していた「ポータサウンド」みたいなリズム内蔵・音色豊富というタイプを買えばよかった と後で思いました。今だったら、7万も出せば、けっこうよさげなのが買えると思いますが、何しろ昭和58年頃の 話ですから。高校時代はよく自分の部屋でギターを弾いていましたが、これを買ってからはもっぱらキーボード になりました。「キーボードランド」という月刊誌を毎月買ってましたね。でも決して「キーボードマガジン」では ない、というあたりが初心者です。とりあえず、CとかAmとかFとかの基本的なコードの押さえ方を覚えて、あと はけっこう適当に弾いていました。1曲通して弾けるっていうのはそれほどなくて、印象的なイントロだけとかを 練習したりもしました。 アルフィーの「メリーアン」とジャーニーの「セパレート・ウェイズ」のイントロが似ていることを覚えている人はいる のだろうか?シカゴの「素直になれなくて」もイントロは弾けるようになったけど、歌の伴奏部分までは練習しま せんでしたし。TOTOの"I won't hold you back"もイントロだけ練習したなあ。フォリナーの"Cold As Ice"とか。 甲斐バンドの「レイニー・ドライブ」はけっこう真面目に練習したかな。あと、当時は松田聖子がけっこう好きでした ので(LPをアルバムで2枚持っています・・・CDじゃないですよ)、「ガラスの林檎」とかよく弾いていました。一番 得意だったのは「ハートのイヤリング」(あの佐野元春が作曲した曲です)ですね。フル・コーラス弾けましたよ。 「Sweet Memories」はコード進行が難しくてうまくは弾けませんでした。フォーク研の部室にはアップライトピアノが あったので、バンドのメンバーがそろわない個人練習の時とかに、ひそかに生ピアノの感触を楽しんだりして いました。ドラムもいいけど、ピアノの響きってすごく好きなんですよ。 |