教師になってからのバンド活動

札幌時代
 教師になって4年間は札幌の高校で教えていました。その4年目の学校祭で、生徒と一緒にバンドをやりました。3人編成で。豊島という男がギターとボーカル、土佐という男がベース、私がドラム。豊島の趣味でピンク・クラウドの「Drive Me Nuts」をやりましたが、これはけっこう燃える曲でした。それとポリスの「見つめていたい」を無謀にも私のボーカルでやりました。後にも先にもドラムをたたきながら歌ったのはこの時だけです。かなり大変でした。リズムは狂いそうになるし。3曲やったはずなんだけど、もう1曲何やったのか記憶がありません。思い出したらまた書きます。
高校教師’91
 って名前でよかったかなあ?数字の部分がちと不安です。ここで書くのは、私が新得という小さな町に転勤した年に北大フォーク研時代の先輩で進藤さんという人(私に織田哲郎のファーストアルバムのレコードを貸してくれた偉大な人でもあります)の結婚式があって、その2次会で「織田哲郎を2曲やろう!」という企画になり、進藤さん自ら私に電話で「ボーカルをやってくれないか?」と打診があったのです。これは本当に嬉しかったですね。実はこれには伏線がありまして、結婚式の数ヶ月前に、2次会で織田哲郎の曲をやるという話があって、それを聞いた時点で私は思わず「ワンコーラスでいいから私に歌わせてください!」と売り込んでしまったのです。それをきちんとかなえてくれたってわけです。ありがたい話です。何と言ってもドラムを、ではなくてボーカルですから。この世で一番好きな歌手の曲を生バンドで歌える!最高の企画です。こんな私に声をかけてくれた進藤さんには今でも感謝しています。
 
 ともあれ、私は札幌から離れてしまったので(結婚式は札幌でした)、練習は1回きり。2時間くらいやったんだったかな。選んだ曲は「Shine The Light」「Lucie My Love」。この2曲をバンドで歌えるならもう思い残すことはない、というくらい好きな曲でした。私としてはことさら練習しなくても、大学時代から自分でよく歌ってきた曲なので、歌詞もほとんど覚えていました。ただ、キーがけっこう高いので(特にLucie My Love)、連続して何曲も歌うと喉が疲れてしまう、という難点もありました。ですから、この札幌での練習はけっこう喉にキツかったです。ちなみにこの時のバンド名が「高校教師’91」だったわけですが、これはポリスの「高校教師’86」のパロディです。一応ボーカルが本職の高校教師ですから(笑)。 ともあれ、当日はなんとか声がひっくり返ることもなく歌えたのでよかったかな、と。気持ちよかったですよ。織田哲郎の曲を生のバンドで歌うなんて。カラオケには絶対入っていない曲ですし。一生の思い出です。進藤さん、本当にどうもありがとう!
 
 ・・・と書いてから半年後に、押入れを物色して、進藤さんの結婚式の二次会のパンフを発見!バンド名はやはり「高校教師’91」であってました。進藤さんのコメントがついています。

「織田哲郎の”VOICE”を借りたのが○○氏(←これは私の苗字ですね)と僕の長いつきあいのきっかけとなった。そのオダテツの曲に思いをこめて、現役高校教師、○○がシャウトする。(P.S. ○○君と僕は去年ペニーレーン24でF.O.Dをかぶりつきで見ました。○○君ありがとう。)

 という感じです。揚げ足をとるわけではありませんが、レコードを借りたのは私の方ですから、厳密には「貸したのが」と書くべきだったかも。F.O.Dというのは、織田哲郎の友人たちが結成したFence Of Defenseというバンドのことでして、当時私は織田さん以外にこのバンドのファンクラブにも入っていまして、札幌でライブがあるたびに行っておりました。進藤さんが言っているのは、私がファンクラブ優先予約で最前列の席をゲットできて、ふたりで見たってことだったかな?実はあまりよく覚えていません(笑)。フェンスのライブで何度か顔を合わせたという記憶はあるんですけどね。
教員バンド
 教員のみでバンドを組んだのは、後にも先にも1回だけです。新得高校に転勤した年のこと、学校祭でやってみようじゃないか、ということで結成しました。ただし、バンド経験があるものが私だけで、ボーカルは音楽の先生だったからいいようなものの、ギターはまったくの初心者(コードもわからない!)、ベースも初心者でした。演奏したのはプリンセス・プリンセスの「世界で一番熱い夏」でしたが、実際のプレイは相当めためたでしたね。ギターは実際立っているだけでした(笑)。体育の先生で、歌はすごく上手い人なんですがねえ。彼にとっては一生思い出したくないことみたいです。ギターがそこそこ弾ける人は他に一人いたのですが、その人がやりたがらなかった(前の年はやったらしいけど、どうも嫌な思い出になってるらしく)ので彼に押し付けたような形になったんですよ。可哀想なことをしました。一応彼のギターの指導は私がしたんですよ。最低限のことだけですが。
BURN
 新得に行って2年目、その年の3年生と学校祭で1曲だけやりました。Deep Purpleの第3期の名曲"Burn"です。ドラムがイアン・ペイスですから、手数が多くて、コピーが大変でした。ていうかけっこう適当にたたきました。この曲はドラムがどうしたこうしたよりはキーボードソロとギターソロが好きなんですよね。ちなみにこの時のキーボードは上記の教員バンドでボーカルをとった音楽の先生でした。ギターとベースとボーカルが生徒。高校時代にやれって言われてもたぶんできなかったであろう曲です。
 ZARD&REBECCA
 新得に行って4年目、3年生の担任をしている時、その3年生とバンドを2つもやってしまいました。そのうちのひとつが女性ボーカルのバンド。歌の上手い子でした。けっこういろんな曲をやったんですよ。ZARDの曲では、「揺れる想い」「負けないで」REBECCAでは「フレンズ」「ムーン」「Maybe Tomorrow」くらいだったかな。けっこうノリノリでやらせてもらいました。バンド名があったはずなんですが、忘れてしまいました。ドラム以外は女の子という編成でしたが、一部男子の助っ人もありました。
BRITISH HARD ROCK
 上のバンドと同時にやったのが往年のハードロックのコピーバンド。Deep Purple "Highway Star""Smoke On The Water" UFO"Doctor, Doctor" MSG"Into The Arena"など。なんかもっとやったような気がするんだけど、思い出せるのはこれくらい・・・。5〜6曲やったんじゃなかったかなあ?こっちは男ばかりのバンドでしたが、例によってキーボードは音楽の先生にサポートしていただきました。ロック少年の血が騒ぐ選曲で、思い切り楽しませてもらいました。
ボーカルも・・・
 実はやってしまいました。上の2つのバンド以外に。その年の学校祭では私は3種類のユニットで出場したことになります。で、こちらはバンドではなくて、クラスの生徒にギターを弾いてもらって、私が歌うというスタイルでした。上記2つのバンドは「ドラムをやってくれ」と依頼されてやったわけですが、こちらは私がやりたくてやったものです。織田哲郎が作った曲を3曲歌うということで、WANDSの「世界が終わるまでは」と「世界中の誰よりきっと」、そして織田哲郎本人の「いつまでも変わらぬ愛を」。けっこう練習して臨んだのですが、柄にもなく緊張したためか、「世界が・・・」はともかく、「世界中の・・・」は歌詞がメタメタになりまして(一番自信があったはずなのに)、「いつまでも・・・」も1番と2番が混じってしまいました。歌詞カードを見ながら歌えばよかったんですがね。あまり慣れないことはするものではない、という典型的な例ですかね。そう思いながらも、翌年の学校祭でまたボーカルをやってしまうという暴挙に出てしまうのでした・・・。翌年の「暴挙」はKISSの"Hard Luck Woman"とEXTREMEの"More Than Words"を歌いました。生徒がギターを弾いて。こっちは一応「頼まれて」やった形ですが。でもけっこうノリノリでした(笑)。今回は歌詞は大丈夫でした。
JUDY AND MARY
 新得にいた最後の年の学校祭でまた生徒とバンドをやりました。ジュディマリのコピーバンドです。前の年にキッスやエクストリームのギターを弾いた男がギターで、ボーカルは彼と同じ学年の女の子。けっこう歌唱力はあるので、気持ちよくできました。ていうか。私の実力が一部ジュディマリの曲に追いついていないところがありました。ジュディマリのメンバーってみんなテクあるからなあ。ファーストとセカンドからの曲を中心にやりました。「デイドリーム」「Blue Tears」「小さな頃から」「自転車」「Over Drive」その他2,3曲。個人的には「小さな頃から」と「自転車」で燃えました。
P−チャーズ
 新得にいた後半の4年間はPTA会長であった佐々木さんという方がバンマスになって教員と生徒の親との混成バンドを結成し、定期的に活動しました。P(Parents)プラスTeacherで「P−チャーズ」です。ドラムは常に私でした。佐々木さんがギターで、ベースが江田さん。たまにサックスで大井さんも参加。(この3人は生徒のお父さんたちです)。キーボードやボーカルが教員でしたね。ボーカルはいろんな人がやってました。キーボードもけっこう代わりました。どういう場面で活動したかというと、新得町のイベントとか、学校の歓迎会・送別会、学校祭でやったこともありました。1年に3〜4回は活動しましたね。演奏する曲はバンマスの趣味でGSメドレー(「ブルー・シャトー」「想い出の渚」「夕陽が泣いてる」など)とか60年代ポップス(「ダイアナ」とか)やその他もろもろ。他に記憶に残っているのは「メリー・ジェーン」「サチコ」(ばんばひろふみのではなく、ニック・ニューサ)「これが私の生きる道」「空も飛べるはず」それから加山雄三もやりましたね。「蒼い星くず」とか。私が今までに活動したバンドの中では一番長くやったのがこれになります。
Brand-new Myself
 これを書いている時点では昨年の話です。2002年の夏の学校祭。滝川に来て4年目。自分の学年が3年生で、何か想い出を作っておきたくて、今回は初めて、自分から生徒に「一緒にやらせてくれないか」と頼みました。自分が歌うので頼んだことはあったけど、バンドで自分から売り込んだことはなかったなあ。ただし、1曲だけ。すでにドラムスの子がいて練習もしているバンドに私が割り込んだような形です。制服の高校生の激しいダンスが印象的なCM(「マッチ」とかいう飲料の)で使われていた曲です。チャコール・フィルターというバンドの曲です。その年の学校祭のテーマ曲にもなっていました。滝川に来て3年はまったくドラムをたたいてなかったので、バンドは久しぶりでした。簡単な曲だったので、なんとか恥をかくこともなく演奏できました。事前の練習も3回くらい合わせただけだったけど、楽しかったなあ。やっぱり、バンドっていいなあって再確認できました。


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