私とドラムの付き合いは高校1年の4月に始まりました。高校に入学して、「軽音楽部」というヤクザな部活に入部。定期的に例会を開くとかそんな組織的な動きはなく、ライブをやることになったらそれに向けて部室やあいてる教室を使ってバンドごとに練習をする、というのが活動内容でした。
小学1年から2年にかけてオルガンを習っていたので、実はキーボードをやるのも悪くないかな、なんて思ったりもしましたが、同じバンドをやろうとするメンバーの中でちゃんとピアノを弾ける男がいたので、あっさりとあきらめて、やっぱりドラムをやってみることにしました。まったくの素人だったのですが。中学時代に夢中になったバンド「キッス」の中で一番好きだったメンバーがドラムスのピーター・クリスだったので前からやってみたいとは思っていたのです。一応軽音楽部には部のドラムセットがありましたので、それを使って練習する、ということです。自分のドラムセットを親に買ってもらおうということは一切考えませんでした。近所迷惑になりますし。家ではもっぱら自分の太ももをたたいて練習しました。
高校で在籍したバンドの名前はDovish View(ダヴィッシュ・ヴュー)。なんかすごく響きの悪い名前でしょ?洗練されていない感じで。バンド名どうしようか?という話になったとき、手近にあった和英辞典をパラパラめくって「タカ派の見解」という言葉に目がとまり、これなんかいいんでないの、とあっさりと決めてしまったという経緯がありました。メンバー構成はボーカル瀧澤くんギター沢田くんベース内海くんキーボード高梨くんそしてドラムスわたしという5人組でした。リーダーはボーカルの瀧澤くんでしたが、音楽的な面でのリーダーシップは内海くんがとっていましたね。実際彼のベースは上手かった。メンバーの中で一番下手だったのは間違いなく私です。なにせまったくのど素人ですから。最初にバンドで練習しようとした曲はDeep PurpleのSmoke On The Waterでした。内海くんが「こんな感じでたたけばいいんだ」って実際にやって見せてくれましたが、まったく基礎がわかっていない私には無理な話でした。とりあえず、8ビートの基本パターンを教えてもらって、それをしばらくの間自分で練習しました。
昭和55年の頃ですから、バンドでコピーするといったら、普通は洋楽。(日本の音楽シーンでは「オフコース」や「ゴダイゴ」が人気の中心でした)私たちのバンドが最初のライブで演奏した曲はレインボーというイギリスのハードロックバンドの曲でした。Long
Live Rock'n'RollとThe Man On The Silver Mountainだったかな。確か2曲しかやらなかった記憶があります。他の人はともかく、ほんとにへたくそなドラムでしたねえ。
その後、半年くらいして内海くんが脱退。同じ学年にSTUNK(スタンク)というもっとレベルの高いバンドがあって、もともと彼はそっちとかけもちしていたのですが、そちらに専念したいということでした。そちらのバンドも5人編成で、白井・瀧澤(彼もかけもち)・内海・沼田・小菅の5人のイニシャルを並べて意味のある単語を探したらこうなった、というネーミングでした。どんな意味かは英和辞典で調べてください。あまりいい意味ではないんですよ。われらがDovish Viewはハードロック志向のバンドでしたが、STUNKの方はプログレ志向でイエスとかEL&Pとかやっていました。あとはツェッペリンとかジェフ・ベックとかね。上手かったですよ、こいつらは。ドラムも私と違って上手かったし。みんなテクニシャンでした。そういえば、ギターの小菅くんは東大に進学しましたね。
私のバンドでその後コピーした曲は、思い出せる範囲で書いていくと・・・Scorpions "Pictured Life" "Kojo no Tsuki", Toto "St. George & the Dragon" , Rainbow "Since You've Been Gone" "All Night Long" "Eyes of the World" "I Surrender" "Lost In Hollywood" "Spotlight Kid" , MSG "Armed and Ready" , UFO "Only You Can Rock Me" , Deep Purple "Black Night" , Black Sabbath "Wishing Well" , Whitesnake "Fool For Your Loving" ・・・といったところでしょうか。まだあったような気はするのですが、覚えていません。当時の日記帳を探せばわかるのでしょうが。
軽音楽部での活動は、私は2年生の学校祭までで、あとは辞めてしまいました。受験勉強を優先するために。ただ、高校時代のバンド演奏はそれだけでは終わらなかったのです・・・。
なんていうものがあったんですねえ。私の学校には。実はそれが楽しみで芸術選択を「音楽」にした、という下心もあったりして。3年生になると、確か2学期だったと思いますが、好きなもの同士でグループを組んで、何を演奏してもよい、というものなのです。もちろんソロでピアノ演奏とかしてもいいし、リコーダーアンサンブルなんてのもありですけど、バンド演奏でもよい、という太っ腹な企画でした。芸術は3クラス合同でやってましたので、同じクラスだけの集まりではないのですが。ギターとかピアノを弾ける奴はたくさんいたけど、ドラムをたたける人間ってそうそういなかったので、私はけっこう重宝されたというか、いくつもかけもちでやることになりました。
高中正義(時代でしたねえ・・・)の「アローン」という曲をやるグループ、オフコースの「愛の唄」などをやるグループ、チューリップの「銀の指環」などをやるグループ、そして本命は自分のクラスのグループ。全部で4つかけもちでした。よくやったよなあ、受験生が。その本命のグループではメンバーを少しずつ替えたりしながら、3曲やりました。ビリー・ジョエルの「マイ・ライフ」とイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」と当時再結成したタイガースの「色付きの女でいてくれよ」となんかまとまりのない選曲でした。ホテル・カリフォルニアについては中学1年の段階で歌詞を完璧に暗記していたので、ボーカルをやってもいいくらいでした(笑)。軽音楽部でやるのとはまったく違う雰囲気でしたがこれはこれでとても楽しい経験でした。