無数に輝く生命に捧ぐ
吉村芳生展 吉村芳生展 図録 吉村芳生展 新聞

圧倒された。衝撃的という言葉しか思いつかない。

芸術家の集中力はこんなにも鋭敏で、しかも長く持続できるものなのか。

芸術家のモチーフへの執着は、これほど強く深く偏執的なものなのか。

2.5ミリ角の方眼紙を鉛筆で埋めていく制作過程には驚くしかない。

黒の密度の差だけで描いた、写真のようなジーンズやスニーカー。新聞誌面の丸写し、何枚ものコスモス、1年に1,000枚描いたという自画像、など、次々と目を見張る展示が続く。

人間の目はたいしたことない。近づけば手書きとわかるが、離れると本当の新聞に見えてしまう。錯視というものもあるし、見えているものが本物とは限らないことを写実画は教えてくれる。

そして、巨大な藤棚。川面に映る菜の花。これがすべて色鉛筆で描かれたのか? 目の前で見ていても信じられない。

同行した母は「ここまで来ると病的ではないかしら」と独りごちていた。

写実画といってもその表現は多様。「スーパーリアル」と呼ばれる身の回りの静物を精巧に描くもの、山本大貴のような気配まで忍ばせてある人物画。

そして、吉村の作品はそれらとはまた違う、一見、機械的に描き込んだように見えて、誰も挑戦したことのない独創性と精神性が感じられる。

吉村作品において精神性というのは、集中力と執着心にある。吉村自身の言葉。

僕は小さい頃から非常にあきらめが悪かった。しつこくこだわってしまう。
僕はこうした人間の短所にこそ、すごい力があると思う。

この言葉は、最近私が気になっていたことにヒントを与えてくれた。

いつも、自分のことばかり書いている。それが気になっていた。Twitternoteでは社会の動きや政策について舌鋒鋭く書いている人もいる。

私も当初はそういう文章を書きたいと思っていた。ところが、不本意な転職を重ねたり、病気になったりしているうちに、自分のことばかり書くようになった。そして、過去の記憶がよみがえり、書くつもりのなかったことまで書くようになった。

それを自分の短所と思い、不甲斐なく思っていた。でも、書かずにいられない何かが私を突き動かしているようにも感じていた。少し気取って言えば、「促し」があった。

私は、私のことを書いていく。そこに「すごい力」があると信じて。

病的に見えるほどの集中力で描かれた超写実画は、私の迷いを吹き飛ばしてくれた。