最後の手紙

烏兎の庭 - jardin dans le coeur

第五部

市ヶ谷駅

10/18/2015/SUN

終戦詔書と日本政治 - 義命と時運の相克、老川祥一、中央公論社、2015


終戦詔書と日本政治

5月24日付、日経新聞の無記名書評で紹介されていた一文に興味をもった。

戦争指導の誤りを認めず責任を回避しようとした政治の無責任ぶりがそこから浮かび上がる。

本を手に取ると、400ページもあるので、これは読みきれないかもしれないと思った。読んでみると、それほど読みにくいわけではない。奥付の著者略歴をみると、著者は読売新聞の主筆代理の職にある人で研究者ではなかった。本書の内容は、研究書というよりもノンフィクションに近い。


これまで失われたと考えられていた「終戦詔書」の草案(8種類)を発見し、それらの異同はもとより、誰の、どのような意図から推敲が重ねられたのかが詳しく論じられている。草案を分析した前半は読み応えがある。また、8月10日に「聖断」によってポツダム宣言の受諾が決まった後、15日正午の玉音放送が放送されるまでのあいだ、政府内部の混乱していた様子も、新聞記者ならではの読ませる文章になっている。

老川は、開戦の責任が明らかになっていないように、「詔書」も閣僚それぞれの思惑、ーそれも主に自己保身ー、によって作られた一貫性がない、妥協の産物とみている。とくに、戦争を終結させることを宣言する部分で、有名な、「堪ヘ難キヲ堪へ、忍ヒ難キヲ忍ヒ」の直前の言葉が、「義命ニ存スル所」を「時命ノ趨ク所」に変わった点に、政府の無責任体系の核心を見ている。


「義命」とは「道義の至上命令、良心の最も厳粛な要請という意味」で、これは政府案に対し、この言葉を加えた安岡正篤の解説。要するに、負けたから戦争を止めるのではなく、これ以上無益な戦はしないという大義によって止める」と宣言している。実際は負けたから敗戦となったのだが、帝國の詔書として表立ってそう書くわけにもいかず、格好のよい言葉が選ばれた。

ところが、政府は最終的にこの部分を「時命の趨ク所」とした。老川は「時世の移り変わりはやむを得ないことで」と現代文に訳している。

安岡は、この変更を生涯恨んでいたという。戦争を止めるのは、「大義」があるからではなく、「時代がそうだから」という現状追認に堕しているから。老川も、この点に賛同し、政府の無責任体系を象徴していると考えている(第二章 義命と時世)。


書名のとおり、「終戦詔書」が作成された経緯や背景を論じた前半は非常に面白い。不勉強で知らなかったことも多かった。たとえば、天皇の言葉である詔勅や詔書は、由緒正しい漢文から言葉を採用していることを最終的に政府顧問の漢文学者が推敲していた、ということ。「義命」も漢文の古典から採用されていた。

ところが、「詔書」を論じた第二章以降、話題は戦後政治から東日本大震災時の民主党政権の無能ぶりを批判する内容になっている。これには拍子抜けした。言葉は悪いが、本書は看板に「半分」偽りあり、と言える。

確かに書名に「日本政治」という言葉も入っている。それにしても「終戦詔書」の詳細な分析のあとに政局の解説とは、何とも理解しがたい。著者は、むしろこの後半部分を書くために、「詔書」作成の経緯を導入としたかったのかもしれない。私には、前半だけでも、十分に意味のある本に思える。


本書を読んで最も驚いたことは、第二次世界大戦という歴史上、最大の出来事といってもいい戦争の終結を公式に宣言した文書について、作成過程を残した公式文書が散逸していたこと。『昭和を「点検」する』で、保坂正康は、公式資料をないがしろにしたことが、昭和史の検証を困難にし、国際政治や歴史学において不毛な論争を起こす要因になっていると指摘している。

また、老川が無責任体系の象徴として挙げている「時世の趨く所」は、『点検』で昭和史前半を理解するキーワードとして挙げられていた「世界の大勢」と「しかたなかった」と符合する。

近代日本政治史において最も重要な文書ともいえる「終戦詔書」は、その作成過程も無責任体系によるものであるとすれば、作成の過程じたいを記録に残さなかったことも、当時の政府の無責任ぶりを露呈させていると言えるだろう。


参考:終戦の詔書(国立公文書館デジタルアーカイブ
   終戦詔書