双体道祖神紀行 (信州1) |
松本/安曇野 |
本村の双体道祖神 安曇野市(旧穂高町地区) 美しい傑作が集中している地域 弘化三年 (1846) |
信州では松本や安曇野を中心とした中信地区に 分布する、個性豊かな双体道祖神を探訪したい。 そこには中信ならではの巧みな技術と豊かな信 仰に支えられた、美しくも愛らしい像が見られ、 幸福や豊穣を祈る庶民の素朴な信仰心が伝わって 来る。 道祖神は全て江戸中期以降のもので、さほど古 い作品ではないが、微笑ましさに胸打たれるもの が多い。 |
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藤井道祖神 |
松本市里山辺 |
松本市から美ヶ原山麓へと広がる裾野一帯は、 古来より山辺の里と言う。美ヶ原寄りは入山辺、 松本寄りは里山辺と呼ばれる水清い山里である。 現在は果樹栽培などで豊かだが、当時は養蚕か 炭焼き程度の産業しかない厳しい雪国だっただろ う。 その厳しい生活を反映してか、種種の願いを込 めた道祖神が山辺地区には多い。美ヶ原温泉に近 い里山辺の藤井で見た写真の像は、その中でも抜 群の完成度にドキっとするほど美しく感じられた。 高遠の石工が彫ったとされる、有名な入山辺中村 の像は余りにも完成され過ぎで風情に欠けるので、 その点からもこの像には親しみが持てた。 よく見ると造立が明治十五年とかなり新しいの が意外だったが、他の同時期の作に見られる下劣 な写実が全く感じられないのである。 良質の石材をくりぬいて彫られた肩抱き祝言像 であり、衣冠装束に太刀まで帯びた男神に、寄り 添うようにして酒を注ぐ姫神も堂々としている。 庶民のささやかな願いという趣とはややかけ離れ ているものの、明治時代の像立としては珍しい品 位と自信の表現の一端かもしれない。 |
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東桐原道祖神 |
松本市入山辺 |
里山辺から入山辺へと向かうと、谷間にかかる 少し手前に東桐原の集落が在る。道祖神は県道か ら少し入った、葡萄園の棚を背景にして立ってい た。写真で見るとおり、優雅な気品に満ちた肩抱 き握手像である。 姫神の長い髪、双神の長い袖とその装飾、など が特徴だが、何よりも両側に彫られた徳利のよう な花瓶が珍しい。後で調べたのだが、これはこの 地方の慣習で、竹製の飾りを徳利に挿して神酒を 供えたことに由来するらしい。 板碑などでは、本尊荘厳を意図して左右に花瓶 (けびょう)が彫られることがあるが、ここでは 双神への崇敬の念が示されたものだろう。 明和五年(1768)という、道祖伸としては古い年 号が刻まれており、この一帯では最古の部類に属 す、とのことであった。 訪ねたのは夏の初めで、汗だくになりながら写 真を撮った。双神の美しいたたずまいに感動して 立ち去りがたく、葡萄の陰で双神と並んで氷水を 飲んだ記憶は今でも鮮明である。 |
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中村道祖神 |
松本市入山辺 |
何という美しい双体道祖神なんだろうか。いや 美しすぎるし、デッサンも彫刻も、非の打ち所の 無いほど完璧なのである。 ここは先述の宮原とは、薄川を隔てた対岸の集 落で、同様に入山辺の西の入口に当たる。 一見して現代の作だろうと感じたが、像の右側 にはっきりと「天保十五年(1844)と彫られている ので驚き、改めて思わず見惚れてしまったのだっ た。 高遠の名工であった藤森吉弥の作だと聞かされ て、納得はしてみたものの、路傍の道祖神とは思 えぬほどの高度な技術が発揮され、双神を実際に 写生したかの如き写実的な表現が成されているこ とに感動した。 余りにも欠点が無いと逆に愛嬌が感じられない ということがあるが、道祖神の伝統的な様式であ る、貴族の衣装と肩抱き祝言像というスタイルか らくる安心感がこれを救っている。 また、お互いに見つめ合い、微笑み合っている 姿に親近感が抱けるからだろう。 おおよその芸術が抽象と写実とを繰り返すのに 似て、ここでは近代の写実の萌芽が見られると解 釈するべきなのだろうか。或いは吉弥ひとりが、 飛び切り進んでいたのだろうか。 |
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宮原道祖神 |
松本市入山辺 |
里山辺から薄川に沿って上流へと向かうと、川 の対岸のこの静かな集落がほぼ入山辺の入口とな っている。 この道祖神は数多くの本にも掲載されているの で、御存知の方も居られるだろうと思う。 ただ、注目される理由が、双神像の下に彫られ た、人間の性的行為を直接的に表現したような小 さな像にある点が気に入らない。 石工の、当時としては大層自由な発想の表現で あり、とんでもなく遊び心いっぱいの洒落である と解釈できる。 であるからこそ、それだけを目的にした、興味 本位の観光は慎むべきだろう。 像全体からすればそんな部分は実は枝葉末節、 本体の双神は写真のごとく、まことに優雅な天明 六年(1786)造立の肩抱き握手像なのである。 像は社殿の中に立っている様に彫られており、 漂う穏やかな相愛の雰囲気とその像容がなんとも 好ましい。 風雨による磨耗からの保護と、盗難を防止する 目的で、覆屋が設けられている。写真撮影は可能 だった。 |
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奈良尾道祖神 |
松本市入山辺 |
松本市郊外の一軒宿入山辺温泉霞山荘に泊まっ た翌朝、私達は宮原・中村などの入山辺地区に祭 られた双体道祖神を探訪した。 上手町のバス道から南へ下ると、そこは薄川に 沿った低い断崖の上で、石垣を背にして二基の双 体道祖神が並んで祭られていた。 左側は素朴な肩抱き握手像で、これはこれで味 があるのだが、やはり右側に立つ写真の像を黙っ て見過ごすわけには行かない。 一目見ただけでこれは容易なものではないな、 と感じさせるだけの存在感と情感を抱かせたので ある。 この像には造立年銘は無いのだが、里山辺の中 村に在る像と共に、幕末に活躍した高遠の石工の 作である。中村のものは藤森吉弥の作品であり、 こちらには藤森隆成という名が刻まれている。 衣冠束帯というかなりよそ行きの上品な雰囲気 の中に、ほのぼのとした山里の生活観がにじみ出 たような朴訥さが感じられる美しい双神である。 特に双神の顔の表情が優しく、中村の作品より大 らかで好感が持てる。 里山辺からここ入山辺の谷にかけては、まこと に個性豊かな双体道祖神が多く、探訪していて飽 きることを知らない。 |
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矢崎道祖神 |
松本市里山辺 |
葡萄畑を背に立っている。 |
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駒越道祖神 |
松本市入山辺 |
文政七年 (1824) |
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原 (上) 道祖神 |
松本市入山辺 |
鳥居の額に「道祖神」 |
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原 (下) 道祖神 |
松本市入山辺 |
天保六年 (1835) |
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上手道祖神 |
松本市入山辺 |
原村 (上) と同一作者か? |
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湯ノ原道祖神 |
松本市里山辺 |
松本地方では最古の像の一基 |
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四ツ家道祖神 |
松本市 |
天保三年 (1832) |
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林道祖神 |
松本市里山辺 |
文化二年 (1805) |
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放光寺道祖神 |
松本市蟻ケ崎 |
明治四十四年 (1911) 祝言像 |
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蟻ヶ崎道祖神 |
松本市蟻ケ崎 |
文政六年 (1823) |
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荒町道祖神 |
松本市里山辺 |
年号不明 繭玉奉持 |
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伊深道祖神 |
松本市岡田伊深 |
文政六年 (1823) |
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神沢道祖神 |
松本市岡田 |
松本城から北へ2キロ行くと、その辺りからは いきなり山里の風情を感じさせる集落が多くなっ てくる。一帯は岡田と呼ばれる地区で、その西側 にこの集落がある。 家並みの中程にある辻に面してこの像は立って おり、「道祖神御守」と書かれた札が何枚も貼り 付けてあった。何を祈ったかは知れぬが、庶民の 素朴な信仰が現代にも生きているのである。 双神は従来の祝言像や握手像ではなく、珍しい 格好をしている。まず目に付くのは、姫神が繭玉 のような餅花を持っていることだろう。 さらによく見ると、男神の右手は姫神の肩に、 そして左手は何たることか、姫神の着物の裾に手 をかけめくろうとしているではないか。 とんでもない像なのだが、地元の農民そのもの といった朴訥な風貌の双神からは、猥らな厭らし さは少しも感じられない。 品位をかろうじて保った、ぎりぎりの表現とも 言えるが、むしろとても大らかな美しさに満ちて いる。 寛政七年(1795)の銘があり、道祖神としてはま あ古い方だろうが、彫りも大胆で形式にとらわれ ない遊び心に溢れた傑作だろう。 |
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稲倉道祖神 |
松本市岡田 |
寛政十年 (1798) |
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杏道祖神 |
松本市岡田 |
杏(からもも)明治二十一年 (1888) |
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峠口道祖神 |
松本市岡田 |
何を持っているのだろうか。 |
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島内道祖神 |
松本市島内 |
享和三年 (1803) |
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島立町道祖神 |
松本市島立 |
松本市のこの一帯には、奈川から高山へと抜け る野麦街道に沿って開けた、比較的裕福な農家の 集落が並んでいる。 永田という集落の双体道祖神もそうだったが、 ご覧の通りここ島立の町という集落の道祖神も彩 色された化粧神だった。 色の塗り方は不細工なので、きっと村人の手に なるものだろう。だが、そのおおらかさが、像の 彫りの美しさと相まって、かえって優しく親しみ やすい神像となっている。 作者の銘が刻まれており、入山辺中村の傑作を 彫った藤森吉弥の作だそうだ。希代の名工作品に べたべたと色を塗れるのは、それだけ庶民の信仰 が純粋で素朴であり、生活と一体化している証な のかもしれない。 肩抱き祝言像だが、よく見るとさすがは吉弥、 彫りの質の違いが良く分る。 不思議なことに最初から町に作られた神ではな く、江戸末期に当時流行した盗み道祖神で、どこ か別の村から運ばれたものだったらしい。なんと もおおらかで悠長な話である。 天保十三年 (1842) の作。 |
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巾上道祖神 |
松本市巾上 |
安永二年 (1773) 在銘像では市内最古 |
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渚道祖神 |
松本市渚 |
珍しい衣装、横向きの姫神が特徴 |
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永田道祖神 |
松本市島立 |
弘化二年 (1845) |
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荒井道祖神 |
松本市島立 |
江戸初期の作と考えられる。 |
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和田道祖神 |
松本市和田 |
和田町の中心四つ辻 |
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衣外道祖神 |
松本市和田 |
寛政三年 (1791) 相合傘の握手像 |
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蘇我 (1) 道祖神 |
松本市和田 |
弘化四年 (1847) |
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蘇我 (2) 道祖神 |
松本市和田 |
寛政十年 (1798) 素朴な握手像 |
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下二子道祖神 |
松本市笹賀 |
年代不明 面白い形の石の握手像 |
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南荒井道祖神 |
松本市神林 |
文化五年 (1808) |
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町神道祖神 |
松本市神林 |
文化五年 (1808) |
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小俣道祖神 |
松本市笹賀 |
年代不明 (江戸初期か?) 座像は珍しい。 |
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柳原道祖神 |
松本市今井西耕地 |
明治四十五年 (1912) |
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堂村道祖神 |
松本市今井 |
年代不明 像下に蓮華模様 |
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上今井道祖神 |
松本市今井 |
両側にお神酒 束髪が美しい |
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花見 (1) 道祖神 |
松本市梓川上野 |
花見は「けみ」と読む |
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花見 (2) 道祖神 |
松本市梓川上野 |
寛政八年 (1796) 「華見邨」と彫られている |
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藤ノ木 (1) 道祖神 |
安曇野市三郷 |
寛政十年 (1798) |
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藤ノ木 (2) 道祖神 |
安曇野市三郷 |
寛政十一年 (1799) |
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南北条道祖神 |
松本市梓川 |
文政九年 (1826) |
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北北条道祖神 |
松本市梓川 |
文政七年 (1824) |
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小室南道祖神 |
松本市梓川 |
文字碑の下に彫られた双体道祖神像 |
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小室下村道祖神 |
松本市梓川 |
双体道祖神の質の高さは石工の技量次第だが、 信州安曇野一帯には、格別の出来栄えのものが非 常に多い。幾多の名工を輩出した高遠が至近とい う条件が、比較的豊かな収穫、人一倍厚い信仰心 などという条件とうまく重なった結果だろう。 かなり広範な小室の里には、三体の双体道祖神 が祭られている。いずれも高度な技術と感覚を持 った石工の傑作ばかりだが、中でも写真の下村の 像が最も気に入っている。 跪いて男神の持つ盃に、取っ手のついた酒器か ら酒を注ぐ姫神の姿がいい。よく見ると、男神の 右手が姫神の肩を優しく抱いている。衣冠束帯と 十二単という現実離れした装束は、往々にして田 舎芝居の衣装みたいに見えてしまうのだが、ここ では神の装束として堂々と見え不自然さがかけら も無い。 周辺の田園風景に溶け込んで、一際美しさを増 している魅力的な双体道祖神である。 |
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中塔道祖神 |
松本市梓川 |
現在は松本市に併合されてしまったが、かつて の南安曇郡梓川村の北端の集落であった。同じく 併合されて安曇野市となった、旧三郷村に隣接し ていたのである。 歴史的には、戦国時代の山城として著名な中塔 城跡で知られている場所だ。 この像は細長い三角形の石の中央部をくりぬい た形で彫られており、村外れの小高い場所にさり げなく建っていた。 双神が向き合い抱き合っているので、何らかの 短絡な直裁的表現が成されているのではないかと 思ったが、全くの杞憂にすぎなかった。 直立不動の男神に対して、片足を爪先立ちさせ た姫神の表現は一体何を意味するのだろうか。 姫神が締めた帯が可愛いし、顔をやや外側にそ むけたポーズからは、現代では全く失われてしま った“乙女の恥じらい”が感じらる。それはきっ と死語になっているに違いない。 やや危険な表現であるにもかかわらず、少しの 抵抗も感じられないのは、稚拙とも見える事象の 抽象が、からっとしたおおらかな表現となってい るからだろう。 |
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小室北道祖神 |
松本市梓川 |
安山岩自然石に彫られいる祝言像 |
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南小倉道祖神 |
安曇野市三郷 |
寛政期の素朴な祝言像 |
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小倉 (1) 道祖神 |
安曇野市三郷 |
慶應二年 (1866) |
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小倉 (2) 道祖神 |
安曇野市三郷 |
明治十年 (1877) ? |
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新田 (1) 道祖神 |
安曇野市豊科 |
天保十年 (1839) |
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新田 (2) 道祖神 |
安曇野市豊科 |
天保十二年 (1841) |
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細萱道祖神 |
安曇野市豊科 |
現在は合併して安曇野市となってしまったが、 この道祖神の祭られた諏訪神社は旧豊科町の北端 に位置し、旧穂高町と旧堀金村に接していた。 この地域には後述する二基も含め、まことに秀 麗な道祖神が多く、安曇野巡りを楽しむ際の上質 な点景となっている。 それらは、貴族の衣装や髪型をした優美な容姿 が共通しており、ここの像が天保十二年(1841)と 古いことから“細萱型”と呼ばれる元となった。 肩抱き握手像なのだが、私には男神が盃を持っ ているように見えてならない。これは私の新説だ ろうが、瓢箪を暗示させる着物の裾の表現も気に なるところだ。 とまれ、豪華な破風、流れるような姫神の長い 髪と男神の烏帽子、着物の裾の広がり、などなど 典雅な風貌と品格のある所作は、他の作品に大き な影響を及ぼすこととなった独特の豊かな表現で あったといえる。 この狭い地域に、これだけの見事な道祖神を集 中的に生んだ背景には、開墾による豊かな水田、 住民の厚い信仰心、優れた技巧の石工の存在、と いう諸条件が揃っていた事が挙げられる。 |
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成相本村 (1) 道祖神 |
安曇野市堀金 |
信州の安曇野を歩くと、ふくよかで優雅な双体 道祖神に数多く巡り会う。背後の北アルプス、豊 かな水田や果樹園などの風景とよく溶け合って、 和やかな雰囲気を醸し出している。 ほとんどの場合、集落単位で造立されているの で、像からはこの地域が比較的裕福な農村だった という印象を受ける。 しかし、道祖神が当時の農民達の夢の夫婦像だ とすれば、夢の裏返しに年貢の取立や飢饉といっ た厳しい環境が有ったこともまた現実であろう。 写真の像は、やはり貴族の装束姿をし、流麗な 美しさを持つ、典型的な肩抱き祝言像である。衣 装の描写も細やかであり、顔の表情も気品に溢れ ていて、並々ならぬ技巧を持った石工がこの地域 に居たことが想像出来る。 祝言像ではほとんどの場合、男神が円い盃を持 ち、姫神がひょろ長い瓢箪の徳利を持っている。 道祖神は元来豊穣や多産を祈念した像なので、中 には幾つか直接的な性的表現をした像も有るのだ が、これはまことに上品な作と言える。 もっとも、盃と瓢箪は、女性と男性のシンボル が抽象化されたもの、と解釈する向きもある。 弘化三年(1846)の作である。 |
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成相本村 (2) 道祖神 |
安曇野市堀金 |
弘化三年 (1846) |
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中堀 (1) 道祖神 |
安曇野市堀金 |
天保四年 (1833) |
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中堀 (2) 道祖神 |
安曇野市堀金 |
堀金村は安曇野の中心で、穂高町の南、豊科町 の西に位置している。前掲の豊科町成相本村とこ の中堀とは、行政区分は違うが隣り合う里なので ある。 文化年代に拾ケ堰という水路が安曇野を貫流し て以来、この一帯には豊かな水田が約束され、大 農家の多い里には立派な道祖神が建立された。 写真の双体道祖神は、村の中央の辻の見事な台 座の上に悠然と立っていた。 石の材質は花崗岩で、自然石を円形にくり抜い て、双神を浮き彫りしてある。 成相本村と全く同じ祝言像で男神が盃を持ち、 姫神が瓢箪徳利を持っている。男神が優しく姫神 の肩に手をかけているところも同じであり、こち らは嘉永二年(1849)の作であることから、かなり の影響を受けたか同じ系統の石工の作になるのか もしれない。 双神像の輪郭に、達筆な草書体の添え彫りが刻 まれている。右から「嘉永二丙年」、左に「正月 吉祥日」、下に右から「中堀村連中」と読める。 この日はまだ春浅い雨上がりの午後で、しっと りと落ち着いた南安曇野の風情は格別だった。 材質の感じを出すために、わざわざ水で濡らし てから撮影をすることもあるのだが、今回は全く 必要なかった。 その晩は、山寄りに湧く、有明温泉に泊まった。 |
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橋爪道祖神 |
安曇野市穂高 |
天保十三年 (1842) |
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下柏原道祖神 |
安曇野市穂高 |
天保十三年 (1842) |
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長野道祖神 |
安曇野市穂高 |
安政六年 (1859) |
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神田道祖神 |
安曇野市穂高 |
慶應二年 (1866) |
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柏原道祖神 |
安曇野市穂高 |
文政十年 (1827) |
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柏矢町道祖神 |
安曇野市穂高 |
元治元年 (1864) |
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等々力 (1) 道祖神 |
安曇野市穂高 |
天保八年 (1837) |
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等々力 (2) 道祖神 |
安曇野市穂高 |
年代不明 |
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常盤町道祖神 |
安曇野市穂高 |
寛政十年 (1798) |
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穂高道祖神 |
安曇野市穂高 |
明治十九年 (1886) |
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本郷 (1) 道祖神 |
安曇野市穂高 |
信州に道祖神多しと言えど、かつてはここ旧穂 高町が最も多く、七十数体を数えていた。まして や道祖神のふるさととも言うべき豊科町や堀金村 が合併した安曇野市は、信州一いや日本一の道祖 神の里と言えるだろう。 穂高の集落のすぐ西に位置しているのが本郷の 里で、ここには三基の双体道祖神が祭られ、いず れも個性的な彩色が成されている。 中でも写真の上手(わで)地区の神は、安政五年 (1858)の作で、同じように彩色された恵比寿・大 黒さんと一緒に横一列に並んでいて壮観だ。 彩色は毎年秋に行われるそうだが、ここでも余 り褒められた塗り方が成されていない。 良く見れば、なかなか優雅な肩抱き握手像であ り、純粋に彫刻を鑑賞しようとすれば、彩色はか なり邪魔になるだろう。 しかし、その里人を中心として伝統的に行われ てきた行事にこそ、素朴でおおらかな信仰心が表 現されているところが美しいのだ。 双体道祖神は決して“美術品”ではなく、里人 たちにとっては日常的に同居する“里の神”なの である。 |
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本郷 (2) 道祖神 |
安曇野市穂高 |
安政五年 (1858) |
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本郷 (3) 道祖神 |
安曇野市穂高 |
天保四年 (1833) |
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古厩 (1) 道祖神 |
安曇野市穂高 |
慶應三年 (1867) 彩色のセンス抜群 |
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古厩 (2) 道祖神 |
安曇野市穂高 |
嘉永四年 (1851) |
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立足道祖神 |
安曇野市穂高 |
安政七年 (1860) |
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新屋 (1) 道祖神 |
安曇野市穂高 |
文政六年 (1823) |
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新屋 (2) 道祖神 |
安曇野市穂高 |
明治二年 (1869) |
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矢村道祖神 |
安曇野市穂高 |
文化七年 (1810) |
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宮城道祖神 |
安曇野市穂高 |
慶應元年 (1865) |
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小岩岳道祖神 |
安曇野市穂高 |
文化七年 (1810) |
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嵩下 (1) 道祖神 |
安曇野市穂高 |
嘉永二年 (1849) |
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嵩下 (2) 道祖神 |
安曇野市穂高 |
明治十五年 (1882) |
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耳塚 (1) 道祖神 |
安曇野市穂高 |
元治二年 (1865) |
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耳塚 (2) 道祖神 |
安曇野市穂高 |
慶應二年 (1866) |
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耳塚 (3) 道祖神 |
安曇野市穂高 |
明治十二年 (1879) |
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耳塚 (4) 道祖神 |
安曇野市穂高 |
文政十年 (1827) |
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