双体道祖神紀行信州
     
     


 
 
 信州では、松本や諏訪を中心
  とした中信地区に分布する、個
  性豊かな双体道祖神を探訪した
  い。

   そこには信州ならではの、巧
  みな技術と豊かな信仰に支えら
  れた、美しくも愛らしい像が見
  られ、幸福や豊穣を祈る庶民の
  素朴な信仰心が伝わって来る。

   道祖神は全て江戸中期以降の
  もので、さほど古い作品ではな
  いが、微笑ましさに胸打たれる
  ものが多い。

   
 耳塚の双体道祖神
 
安曇野市(旧穂高町地区)
 彩色された元治二年のおおらかな作
      
      

      
     小坂道祖神 (山形村)
         

   写真集などに数多く紹介された有名な双体道祖
  神であり、やはりとても繊細で美しい像だ。
   山形村の中大池から入った、殿という愛らしい
  里の辻に青面金剛像などの石碑と一緒に立ってい
  る。
   信州では祝言像か肩抱き握手像が多く、ワンパ
  ターンとも言うべき様式だけに頼ったような像ば
  かりの中で、これほどまで完璧に図案化されたデ
  ッサンで彫られたものはざらに無い。
   優美な雰囲気が流麗な線となってデフォルメさ
  れ、きりっとした統一感に満ちた清雅な像となっ
  ている。
   豊穣や夫婦愛を願った、庶民の憧れのスタイル
  として描かれたであろう姿が、御所人形のような
  装束であるところに面白さがある。どんな素性の
  石工が、どんな心理で彫ったのであろうか。
   20年前、筑摩野の道祖神を探訪する旅でこの
  像と出会って以来、私は道祖神に深い興味を抱き、
  その行脚は今日まで続いている。新しい世界に目
  を向けさせてくれた、忘れ難い傑作なのである。
   「ロマネスク的」という言い方が有るとすれば、
  これを道祖神に捧げたい。抽象の美しさと信仰、
  これがキーワードである。
    

      
     
     唐沢道祖神 (山形村)
     
     
   大池から北上した竹田の里の近く、波田町と
  の境界ぎりぎりの場所に立つ、いとも秀麗な双
  体道祖神だ。
   北アルプスの東端や、松本平を隔てて美ヶ原
  までが望める景勝地である。
   双神の形態は祝言握手像だが、通常とはかな
  り異なっている。
   最大の特徴は、姫神が横向きに膝を折り、左
  手で男神の右手と握手していることだろう。
   同じ石工の作と思われる隣村の中波田の神か、
  後述の小室下村の神以外には、ほとんど類例を
  見ない珍しい構図である。
   優しくすっくと立った男神と、慎ましやかに
  控える姫神との微妙な距離がとても優雅だ。
   よく見ると双神とも地に足が着いておらず、
  何やら宙に浮いているようにも見え、特に姫神
  は天女のようにすら見える。
   拝するこちらの心までを、すっかり浄化され
  た気分にさせてくれる、まことに純な美しさを
  持つ神だった。
   
    

      
      
     上針尾道祖神 (朝日村)
      
     
   朝日村は、鉢盛山の山裾東側に広がる扇状地
  が町の中心だが、谷間と山岳地帯が町の大半を
  占めている。
   車で走っただけで、この地区の産業の中心は
  林業と果実栽培なんだな、と判る。
   針尾という集落は鎖川の谷の入口に位置し、
  役場や鎮守社の在る、この村の中枢である。
   針尾中村という集落から少し離れた路傍に、
  写真の双体道祖神が二基の小さな道祖神と並ん
  で建っていた。
   肩抱き握手という様式は珍しくないが、双神
  のお顔がまるで聖観音菩薩像みたいであること
  にびっくりした。
   道祖神のお顔はほとんどの場合、その地区に
  暮らす庶民の顔がそのまま写されたかのような
  容貌をしているものである。
   しかしここでは、信仰の対象としての神々し
  さを求めた結果が、観音石仏のような風貌とな
  ってしまったのだろう。豊穣・多産をイメージ
  する男女神を祀ったはずが、清純なほど無垢な
  双神が出来上がったというわけだ。
   なんとも優しく穏やかな、天保四年(1833)の
  道祖神である。
     

     
      
     上古見道祖神 (朝日村)
     
     
   山形村との境界に近い集落で、前述の針
  尾からは数キロの場所である。
   民家を背景にして、台座も含め2mほど
  もある大きな石に彫られた双体道祖神が二
  基建てられていた。
   全体に彩色が残っているから、どうやら
  化粧神かと思われる。訪ねたのは夏だった
  が、かなり色褪せているのは、秋にお化粧
  を塗られてからかなり時間が経っているか
  らだろう。
   男神の一部の黒色と、全体に残る朱色が
  印象的だった。ここの神が化粧された写真
  をどこかで見た記憶があるが、姫神が似て
  も似つかぬ大黒天みたいな顔をしていたよ
  うに思う。
   どうせなら、綺麗にお化粧した姿も見た
  かったが、反面彫られた像の表情が良く見
  えるという功徳もあるかと諦めた。
   確かに、磨耗の進んだお顔の部分などは、
  色の塗り方によってかなり印象が違ってし
  まうかもしれない。
   左右とも素朴な直立不動の肩抱き握手像
  であり、どちらも姫神の長い髪が印象的で
  ある。
    

    
      
     細萱道祖神 (安曇野市豊科)
      
      
   現在は合併して安曇野市となってしまったが、
  この道祖神の祭られた諏訪神社は旧豊科町の北端
  に位置し、旧穂高町と旧堀金村に接していた。
   この地域には後述する二基も含め、まことに秀
  麗な道祖神が多く、安曇野巡りを楽しむ際の上質
  な点景となっている。
   それらは、貴族の衣装や髪型をした優美な容姿
  が共通しており、ここの像が天保十二年(1841)と
  古いことから“細萱型”と呼ばれる元となった。
   肩抱き握手像なのだが、私には男神が盃を持っ
  ているように見えてならない。これは私の新説だ
  ろうが、瓢箪を暗示させる着物の裾の表現も気に
  なるところだ。
   とまれ、豪華な破風、流れるような姫神の長い
  髪と男神の烏帽子、着物の裾の広がり、などなど
  典雅な風貌と品格のある所作は、他の作品に大き
  な影響を及ぼすこととなった独特の豊かな表現で
  あったといえる。
   この狭い地域に、これだけの見事な道祖神を集
  中的に生んだ背景には、開墾による豊かな水田、
  住民の厚い信仰心、優れた技巧の石工の存在、と
  いう諸条件が揃っていた事が挙げられる。   
   

        
     成相本村道祖神 (安曇野市豊科)
          

   信州の安曇野を歩くと、ふくよかで優雅な双体
  道祖神に数多く巡り会う。背後の北アルプス、豊
  かな水田や果樹園などの風景とよく溶け合って、
  和やかな雰囲気を醸し出している。
   ほとんどの場合、集落単位で造立されているの
  で、像からはこの地域が比較的裕福な農村だった
  という印象を受ける。
   しかし、道祖神が当時の農民達の夢の夫婦像だ
  とすれば、夢の裏返しに、年貢の取立や飢饉とい
  った厳しい環境が有ったこともまた現実であろう。
   写真の像は、やはり貴族の装束姿をし、流麗な
  美しさを持つ、典型的な肩抱き祝言像である。衣
  装の描写も細やかであり、顔の表情も気品に溢れ
  ていて、並々ならぬ技巧を持った石工がこの地域
  に居たことが想像出来る。
   祝言像ではほとんどの場合、男神が円い盃を持
  ち、姫神がひょろ長い瓢箪の徳利を持っている。
  道祖神は元来豊穣や多産を祈念した像なので、中
  には幾つか直接的な性的表現をした像も有るのだ
  が、これはまことに上品な作と言える。
   もっとも、盃と瓢箪は、女性と男性のシンボル
  が抽象化されたもの、と解釈する向きもある。
   弘化三年(1846)の作である。
    

     
        
     中堀道祖神 (安曇野市堀金)
      
      
   堀金村は安曇野の中心で、穂高町の南、豊科町
  の西に位置している。前掲の豊科町成相本村とこ
  の中堀とは、行政区分は違うが隣り合う里なので
  ある。
   文化年代に拾ケ堰という水路が安曇野を貫流し
  て以来、この一帯には豊かな水田が約束され、大
  農家の多い里には立派な道祖神が建立された。
   写真の双体道祖神は、村の中央の辻の見事な台
  座の上に悠然と立っていた。
   石の材質は花崗岩で、自然石を円形にくり抜い
  て、双神を浮き彫りしてある。
   成相本村と全く同じ祝言像で、男神が盃を持ち、
  姫神が瓢箪徳利を持っている。男神が優しく姫神
  の肩に手をかけているところも同じであり、こち
  らは嘉永二年(1849)の作であることから、かなり
  の影響を受けたか同じ系統の石工の作になるのか
  もしれない。
   双神像の輪郭に、達筆な草書体の添え彫りが刻
  まれている。右から「嘉永二丙年」、左に「正月
  吉祥日」、下に右から「中堀村連中」と読める。
   この日はまだ春浅い雨上がりの午後で、しっと
  りと落ち着いた南安曇野の風情は格別だった。
   材質の感じを出すために、わざわざ水で濡らし
  てから撮影をすることもあるのだが、今回は全く
  必要なかった。
   その晩は、山寄りに湧く、有明温泉に泊まった。
    

       
            
     本郷道祖神 (安曇野市穂高)
     
                
   信州に道祖神多しと言えど、かつてはここ旧
  穂高町が最も多く、七十数体を数えていた。ま
  してや道祖神のふるさととも言うべき豊科町や
  堀金村が合併した安曇野市は、信州一いや日本
  一の道祖神の里と言えるだろう。
   穂高の集落のすぐ西に位置しているのが本郷
  の里で、ここには三基の双体道祖神が祭られ、
  いずれも個性的な彩色が成されている。
   中でも写真の上手(わで)地区の神は安政五年
  (1858)の作で、同じように彩色された恵比寿・
  大黒さんと一緒に横一列に並んでいて壮観だ。
   彩色は毎年秋に行われるそうだが、ここでも
  余り褒められた塗り方が成されていない。
   良く見れば、なかなか優雅な肩抱き握手像で
  あり、純粋に彫刻を鑑賞しようとすれば、彩色
  はかなり邪魔になるだろう。
   しかし、その里人を中心として伝統的に行わ
  れてきた行事にこそ、素朴でおおらかな信仰心
  が表現されているところが美しいのだ。
   双体道祖神は決して“美術品”ではなく、里
  人たちにとっては日常的に同居する“里の神”
  なのである。
   
    

     
            
     島立町道祖神 (松本市)
      
     
   松本市のこの一帯には、奈川から高山へと抜け
  る野麦街道に沿って開けた、比較的裕福な農家の
  集落が並んでいる。
   永田という集落の双体道祖神もそうだったが、
  ご覧の通りここ島立の町という集落の道祖神も彩
  色された化粧神だった。
   色の塗り方は不細工なので、きっと村人の手に
  なるものだろう。だが、そのおおらかさが、像の
  彫りの美しさと相まって、かえって優しく親しみ
  やすい神像となっている。
   作者の銘が刻まれており、入山辺中村の傑作を
  彫った藤森吉弥の作だそうだ。希代の名工作品に
  べたべたと色を塗れるのは、それだけ庶民の信仰
  が純粋で素朴であり、生活と一体化している証な
  のかもしれない。
   肩抱き祝言像だが、よく見るとさすがは吉弥、
  彫りの質の違いが良く分る。
   不思議なことに最初から町に作られた神ではな
  く、江戸末期に当時流行した盗み道祖神で、どこ
  か別の村から運ばれたものだったらしい。なんと
  もおおらかで悠長な話である。
  
    

      
          
     中塔道祖神 (松本市梓川)
      
      
   現在は松本市に併合されてしまったが、かつ
  ての南安曇郡梓川村の北端の集落であった。同
  じく併合されて安曇野市となった、旧三郷村に
  隣接していたのである。
   歴史的には、戦国時代の山城として著名な中
  塔城跡で知られている場所だ。
   この像は細長い三角形の石の中央部をくりぬ
  いた形で彫られており、村外れの小高い場所に
  さりげなく建っていた。
   双神が向き合い抱き合っているので、何らか
  の短絡な直裁的表現が成されているのかと思っ
  たが、全くの杞憂にすぎなかった。
   直立不動の男神に対して、片足を爪先立ちさ
  せた姫神の表現は一体何を意味するというのだ
  ろうか。
   姫神が締めた帯が可愛いし、顔をやや外側に
  そむけたポーズからは、現代では全く失われて
  しまった“乙女の恥じらい”が感じらる。それ
  はきっと死語になっているに違いない。
   やや危険な表現であるにもかかわらず、少し
  の抵抗も感じられないのは、稚拙とも見える抽
  象が、からっとしたおおらかな表現となってい
  るからだろう。
    

     
        
     小室下村道祖神  (松本市梓川)
      
     
   双体道祖神の質の高さは石工の技量しだいだが、
  信州安曇野一帯には、格別の出来栄えのものが非
  常に多い。幾多の名工を輩出した高遠が至近とい
  う条件が、比較的豊かな収穫、人一倍厚い信仰心
  などという条件とうまく重なった結果だろう。

   かなり広範な小室の里には、三体の双体道祖神
  が祭られている。いずれも高度な技術と感覚を持
  った石工の傑作ばかりだが、中でも写真の下村の
  像が最も気に入っている。

   跪いて男神の持つ盃に、取っ手のついた酒器か
  ら酒を注ぐ姫神の姿がいい。よく見ると、男神の
  右手が姫神の肩を優しく抱いている。衣冠束帯と
  十二単という現実離れした装束は、往々にして田
  舎芝居の衣装みたいに見えてしまうのだが、ここ
  では神の装束として堂々と見え不自然さがかけら
  も無い。

   周辺の田園風景に溶け込んで、一際美しさを増
  している魅力的な双体道祖神である。
    

   
    
     藤井道祖神  (松本市)
   
   
   松本市から美ヶ原山麓へと広がる裾野一帯は、
  古来より山辺の里と言う。美ヶ原寄りは入山辺、
  松本寄りは里山辺と呼ばれる水清い山里である。
   現在は果樹栽培などで豊かだが、当時は養蚕か
  炭焼き程度の産業しかない厳しい雪国だっただろ
  う。
   その厳しい生活を反映してか、種種の願いを込
  めた道祖神が山辺地区には多い。美ヶ原温泉に近
  い里山辺の藤井で見た写真の像は、その中でも抜
  群の完成度にドキっとするほど美しく感じられた。
  高遠の石工が彫ったとされる、有名な入山辺中村
  の像は余りにも完成され過ぎで風情に欠けるので、
  その点からもこの像には親しみが持てた。

   よく見ると造立が明治十五年とかなり新しいの
  が意外だったが、他の同時期の作に見られる下劣
  な写実が全く感じられないのである。
   良質の石材をくりぬいて彫られた肩抱き祝言像
  であり、衣冠装束に太刀まで帯びた男神に、寄り
  添うようにして酒を注ぐ姫神も堂々としている。
  庶民のささやかな願いという趣とはややかけ離れ
  ているものの、明治時代の像立としては珍しい品
  位と自信の表現の一端かもしれない。
    

     
        
     東桐原道祖神 (松本市)
      
     
   里山辺から入山辺へと向かうと、谷間にかか
  る少し手前に東桐原の集落が在る。道祖神は県
  道から少し入った、葡萄園の棚を背景にして立
  っていた。
   写真で見るとおり、優雅な気品に満ちた肩抱
  き握手像である。
   姫神の長い髪、双神の長い袖とその装飾、な
  どが特徴だが、何よりも両側に彫られた徳利の
  ような花瓶が珍しい。後で調べたのだが、これ
  はこの地方の慣習で、竹製の飾りを徳利に挿し
  て神酒を供えたことに由来するらしい。
   板碑などでは、本尊荘厳を意図して左右に花
  瓶(けびょう)が彫られることがあるが、ここ
  では双神への崇敬の念が示されたものだろう。
   明和五年(1768)という古い年号が刻まれてお
  り、この一帯では最古の部類に属す、とのこと
  であった。
   訪ねたのは夏の初めで、汗だくになりながら
  写真を撮った。双神の美しいたたずまいに感動
  して立ち去りがたく、葡萄の陰で双神と並んで
  氷水を飲んだ記憶は今でも鮮明である。
    

     
     
     宮原道祖神 (松本市)
     
     
   里山辺から薄川に沿って上流へと向かうと、川
  の対岸のこの静かな集落がほぼ入山辺の入口とな
  っている。
   この道祖神は数多くの本にも掲載されているの
  で、御存知の方も居られるだろうと思う。
   ただ、注目される理由が、双神像の下に彫られ
  た、人間の性的行為を直接的に表現したような小
  さな像にある点が気に入らない。
   石工の、当時としては大層自由な発想の表現で
  あり、とんでもなく遊び心いっぱいの洒落である
  と解釈できる。
   であるからこそ、それだけを目的にした、興味
  本位の観光は慎むべきだろう。

   像全体からすればそんな部分は実は枝葉末節、
  本体の双神は写真のごとく、まことに優雅な天明
  六年(1786)造立の肩抱き握手像なのである。
   像は社殿の中に立っている様に彫られており、
  漂う穏やかな相愛の雰囲気とその像容がなんとも
  好ましい。
   風雨による磨耗からの保護と、盗難を防止する
  目的で、覆屋が設けられている。写真撮影は可能
  だった。
    

     
       
     中村道祖神 (松本市)
     
     
   何という美しい双体道祖神なんだろうか。い
  や、美しすぎるし、デッサンも彫刻も、非の打
  ち所の無いほど完璧なのである。
   ここは先述の宮原とは、薄川を隔てた対岸の
  集落で、同様に入山辺の西の入口に当たる。
   一見して現代の作だろうと感じたが、像の右
  側にはっきりと「天保十五年(1844)と彫られて
  いるので驚き、改めて思わず見惚れてしまった
  のだった。
   高遠の名工であった藤森吉弥の作だと聞かさ
  れて、納得はしてみたものの、路傍の道祖神と
  は思えぬほどの高度な技術が発揮され、双神を
  実際に写生したかの如き写実的な表現が成され
  ていることに感動した。
   余りにも欠点が無いと逆に愛嬌が感じられな
  いということがあるが、道祖神の伝統的な様式
  である、貴族の衣装と肩抱き祝言像というスタ
  イルからくる安心感がこれを救っている。
   また、お互いに見つめ合い、微笑み合ってい
  る姿に親近感が抱けるからだろう。
   おおよその芸術が抽象と写実とを繰り返すの
  に似て、ここでは近代の写実の萌芽が見られる
  と解釈するべきなのだろうか。或いは、吉弥ひ
  とりが、飛び切り進んでいたのだろうか。
   

    
        
     奈良尾道祖神 (松本市)
       
     
   松本市郊外の一軒宿入山辺温泉霞山荘に泊まっ
  た翌朝、私達は宮原・中村などの入山辺地区に祭
  られた双体道祖神を探訪した。
   上手町のバス道から南へ下ると、そこは薄川に
  沿った低い断崖の上で、石垣を背にして二基の双
  体道祖神が並んで祭られていた。
   左側は素朴な肩抱き握手像で、これはこれで味
  があるのだが、やはり右側に立つ写真の像を黙っ
  て見過ごすわけには行かない。
   一目見ただけで、これは容易なものではないな、
  と感じさせるだけの存在感と情感を抱かせたので
  ある。
   この像には造立年銘は無いのだが、里山辺の中
  村に在る像と共に、幕末に活躍した高遠の石工の
  作である。中村のものは藤森吉弥の作品であり、
  こちらには藤森隆成という名が刻まれている。
   衣冠束帯のややよそ行きの上品な雰囲気の中に、
  ほのぼのとした山里の生活観がにじみ出たような
  朴訥さが感じられる美しい双神である。特に双神
  の顔の表情が優しく、中村の作品より大らかで好
  感が持てる。
   里山辺からここ入山辺の谷にかけては、まこと
  に個性豊かな双体道祖神が多く、探訪していて飽
  きることを知らない。   
    

     
       
     神沢道祖神 (松本市)
           
        
   松本城から北へ2Km行くと、その辺りからはい
  きなり山里の風情を感じさせる集落が多くなる。
  一帯は岡田と呼ばれる地区で、その西側にこの集
  落がある。
   家並みの中程にある辻に面してこの像は立って
  おり、「道祖神御守」と書かれた札が何枚も貼り
  付けてあった。何を祈ったかは知れぬが、庶民の
  素朴な信仰が現代にも生きているのである。
   双神は従来の祝言像や握手像ではなく、珍しい
  格好をしている。まず目に付くのは、姫神が繭玉
  のような餅花を持っていることだろう。
   さらによく見ると、男神の右手は姫神の肩に、
  そして左手は何たることか、姫神の着物の裾に手
  をかけめくろうとしているではないか。
   とんでもない像なのだが、地元の農民そのもの
  といった朴訥な風貌の双神からは、猥らな厭らし
  さは少しも感じられない。
   品位をかろうじて保った、ぎりぎりの表現とも
  言えるが、むしろとても大らかな美しさに満ちて
  いる。
   寛政七年(1795)の銘があり、道祖神としてはま
  あ古い方だろうが、彫りも大胆で形式にとらわれ
  ない遊び心に溢れた傑作だろう。
   

      
       
     湊道祖神 (岡谷市)
      
     
   天竜川が諏訪湖から流れ出す岡谷の釜口水門か
  ら、諏訪湖西岸の山裾を通って茅野へ通じる道が
  ある。ここに湊という名前の集落が在り、やや小
  高い場所に石舟神社という鎮守が祭られている。
   この双体道祖神は境内に繁る杉の巨木を背にし、
  もう一基の小さな双立合掌像と並んで立っている。
   大きな安山岩を円形にくりぬき、彫が深いので
  見事に像を浮き上がらせてある。
   まことに落ち着いた品位を感じさせる酒器持ち
  祝言像で、妙な色気は全く無く、まるで双立像の
  ようにも見えてしまうほど清らかな印象を受ける。
   あたかも細い紐のように見える帯と立派な長袖
  の表現が、他所では滅多に見ることの無い特徴で
  ある。
   双神の背後に御幣のようなものが彫られている
  が、これはこの諏訪地方では幣帛(ぬさ)と呼ばれ
  ている。諏訪明神に捧げる飾りのようなものだが、
  これを相合傘のように描いて彫った双体道祖神は
  塩尻から旧中仙道方面にまで分布している。
   道祖神と諏訪信仰とを結びつける説もあり、そ
  ういう意味では大変興味深い像である。
   最後に振り返ってもう一度眺めたのだが、並ん
  で立っておられる足元がなんとも可愛らしく、ほ
  のぼのとした気分になってしまったものである。
   

   
   
     万五郎道祖神 (辰野町)
   
   
   伊那谷の辰野周辺には、質量ともに最もレヴ
  ェルの高い道祖神が集中しており、またその像
  容のユニークなことは特筆に値するだろう。
   また、万五郎に在るとされる道祖神は、訪ね
  る前から、その珍しくも親しみの持てる里名と
  同じように、きっと愛らしい素朴な像に違いな
  いと想像していた。
   そこは辰野の中心から、天竜川沿いに少し下
  った所で、川を挟んでJR伊那新町駅の対岸に
  位置している静かな山里だった。

   写真の双神は農協の脇の辻に祭られていて安
  山岩で黒褐色をしており、かなり苔むしていた。
   しかし、全体の意匠は珍しいもので、見事な
  彫りの肩抱き祝言像である。双神の上部に鶴が
  舞い降りており、双神は亀の甲の上に立ってい
  るという、なんともめでたい表現である。
   姫神が瓢箪の徳利を捧げ、男神が盃を差し出
  し、肩を抱き合うという図は珍しくはないが、
  肩からみえる手がなんとも微笑ましい。
   銘は「万延元庚申年(1860)万五郎村中」と書
  かれている。
   隣りの集落である下田には三体の双体道祖神
  が在り、明治期のものらしいのだが、日月を伴
  い巻物を持った双神像だった。   
    

     
    
     上野道祖神 (辰野町)
    
   
   この集落を通る道は昔からかなり栄えていたそ
  うで、辰野から諏訪上社へと抜けるには山道だが
  最短の旧道だった。
   道を辰野方面にとりしばらく行くと、路傍の山
  裾にこの愛らしい双体道祖神が立っていた。
   決して技術的には上等とは言い難いが、様式化
  された石工の作品よりも、この稚拙だが新鮮な表
  現が成された像の方に思い入れが出来て妙に捨て
  難い。
   肩を抱き合いながら姫神の手を取る男神、素朴
  な恥じらいを見せる姫神。なんとも美しい像で、
  後述の群馬県中之条町の中村道祖神に匹敵する傑
  作だろう。
   本来の道祖神としての役目を忘れたわけでもな
  いのだろうが、作者はいったい何を求め何を祈っ
  てこの像を刻んだのだろうか。
   豊穣への祈願が多産をイメージし、さらに男女
  の婚姻や愛の形の表現へと昇華していったのだろ
  うか。
   写真では判らないが、像の上部に御幣が線彫り
  で刻まれており、それはまるで相合傘のように見
  えてくる。
   像の右側に文化元年(1804)の造立銘が彫られて
  おり、私達にも鮮明に読み取ることが出来た。
    

     
    
     本洗馬上町道祖神  (塩尻市)
     
    
   松本から木曾へと向かう旧街道が、ちょうど
  塩尻市を通過する辺りが洗馬と呼ばれる地区で
  ある。本洗馬上町の旧家の脇に祀られた、二基
  の双体道祖神の内の一基が写真の像である。

   この双体道祖神も、いかにも信州らしい肩抱
  き握手像である。被っている冠は貴族的で立派
  だが、衣装は全く大衆的である。いささか不自
  然だが、そんな矛盾を感じさせない程、二人の
  顔の表情が道祖神とは思えぬ位楚々として美し
  い。
   肩抱きの手もいいし、着物の裾から少し見え
  る足がとても可愛く見える。
   背面に、正徳五年芦ノ窪という銘が入ってい
  る。この年号は西暦1715年で、道祖神とし
  てはかなり古い方に属している。また、芦ノ窪
  とは現在の朝日村に有る集落で、当時流行した
  道祖神盗みでこの地に移されたようだ。この事
  例は珍しいことではなく、各地に有る。

   いずれにせよ、かくも穏やかで、優しい相愛
  の情を品位を保ちながら、さりげなく表現した
  双体道祖神は滅多に見ることが出来ない。
    

   
        
     北大塩道祖神 (茅野市)
   
   
   インド・カジュラホのヒンドゥー寺院彫刻とま
  ではいかないが、この時代の日本で、これほどお
  おらかに少しの厭味も無く、からっとした表現が
  成されたことに驚きは隠せなかった。
   双体道祖神には多産をイメージした性神という
  性格もあることから、直裁的な性行為を表現した
  像も多数在る。しかし、のぞき趣味的な像は好き
  ではないので敬遠しているが、ここの無垢な表現
  には正直恐れ入った。
   我が家の壁に掛けてあるピカソの名作“接吻“
  を思い出しながら、裾から出た足が絡み合ってい
  る有様なのに、何故こうも愛らしいのだろうか、
  と考えた。
   少しもいやらしくないのは、像全体がデフォル
  メされた双神像だからなんだろう。
   この場所は石碑や灯篭などが寄せられた町の辻
  であり、婦人や子供達も大勢通る。拝むわけでも
  なし、気にする気配も一向に無い。
   男神の表情、姫神の肩にまわした両手、姫神の
  帯、絡んだ裾などの表現が好きで、忘れられない
  道祖神の一つとなっている。
     

     
     
     山寺道祖神 (茅野市)
      
      
   接吻道祖神の在った北大塩の南に、八ヶ岳や
  蓼科高原への入口となる上菅沢地区がある。山
  寺はそこにある集落で、村外れの鎮守の入口付
  近にこの道祖神が祭られていた。
   だが、ここの双神は今までに見たことの無い
  ような、不思議な格好をしている。
   いったい頭にかぶっているのは何なんだろう
  と思ったが、どうやらこの地方で使われた防寒
  頭巾であるらしい。顎の下で結ばれた紐や腰紐
  の描写がとても繊細だ。
   だが、それに比して、頭でっかちな容姿や、
  子供のようにあどけない双神の表情、不細工に
  握られた手などは、むしろ稚拙にすら感じられ
  る彫りだ。
   像はアーチ形の石をやはりアーチ形にくり抜
  いた中に彫られており、台座の角石に道祖神と
  いう文字と、文化三年(1806)の銘とが刻まれて
  いた。
   茅野周辺の道祖神を探訪した私達は、奥蓼科
  温泉郷の明治温泉に泊まり、大いに神の御利益
  を授かったのだった。
  
    

     
        
     野倉道祖神 (上田市)
      
      
   観光ポスターに使われて以来、上田の塩田平や
  別所温泉を訪ねた人が必ず立ち寄る、比較的よく
  知られた道祖神である。
   だからといって内容の丸で無い観光道祖神かと
  いうと、とんでもない、信州中探したってこれだ
  けの傑作はそう有るものではない。
   だが不思議な事に、上田市の千曲川以南は道祖
  神の分布地域ではなく、この野倉のものが塩田平
  では唯一なのである。

   別所温泉から2Kmの集落で、環境の優れた場所
  に立っている大変美しい双体道祖神であり、典型
  的な肩抱き握手像である。
   例の通りの正装で、男神は衣冠束帯、姫神は十
  二単で優雅な雰囲気で並んでいる。

   どんな願いを込めて造立されたのかは判らない
  けれど、ふくよかな顔の表情が真に幸福そうなの
  で、きっと、豊かな村の平穏がずっと続くように
  という祈願だったのかもしれない。  
    

      
         
     中原道祖神 (上田市真田)
      
   
   私達夫婦が毎春志賀高原へスキーに行ってい
  た頃、帰りのルートは決まって須坂から菅平を
  越え、真田から東部町に抜ける裏道だった。
   当時は新道が有料道路で、途中の出口を降り
  てから程近い中原の里まで、わざわざこの道祖
  神を見に行った時の写真である。ということは
  約25年前の写真ということになる。
   この双体道祖神は当時からよく知られた存在
  で、写真集などにも数多く取り上げられていた
  ものだ。
   双神がとても素朴で愛らしいことと、衣の襞
  の縦線が繊細で美しかったからであった。
   私が訪ねた時ですら既にかなり磨耗が進んで
  おり、光線の具合も悪かったので、襞の美しさ
  を巧く撮影出来なかった。
   それでも何とか現実に近い写真は撮れていた
  ようで、襞の線はかすかに見える。
   直立する双神と衣の縦線とに交差するように、
  姫神の瓢箪と男神の盃、そして不思議に細い腕
  とが示す斜線が、静かな中に微妙な躍動感を表
  現している。
   ほとんど摩滅してしまったお顔からは、まこ
  とに清楚で優しい表情が想像されたのだった。
   もう一度お会いしたい像のひとつである。
      

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