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| 双体道祖神紀行(信州) |
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耳塚の双体道祖神 安曇野市(旧穂高町地区) 彩色された元治二年のおおらかな作 |
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小坂道祖神 (山形村)
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写真集などに数多く紹介された有名な双体道祖 神であり、やはりとても繊細で美しい像だ。 山形村の中大池から入った、殿という愛らしい 里の辻に青面金剛像などの石碑と一緒に立ってい る。 信州では祝言像か肩抱き握手像が多く、ワンパ ターンとも言うべき様式だけに頼ったような像ば かりの中で、これほどまで完璧に図案化されたデ ッサンで彫られたものはざらに無い。 優美な雰囲気が流麗な線となってデフォルメさ れ、きりっとした統一感に満ちた清雅な像となっ ている。 豊穣や夫婦愛を願った、庶民の憧れのスタイル として描かれたであろう姿が、御所人形のような 装束であるところに面白さがある。どんな素性の 石工が、どんな心理で彫ったのであろうか。 20年前、筑摩野の道祖神を探訪する旅でこの 像と出会って以来、私は道祖神に深い興味を抱き、 その行脚は今日まで続いている。新しい世界に目 を向けさせてくれた、忘れ難い傑作なのである。 「ロマネスク的」という言い方が有るとすれば、 これを道祖神に捧げたい。抽象の美しさと信仰、 これがキーワードである。 |
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| 唐沢道祖神 (山形村) |
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大池から北上した竹田の里の近く、波田町と の境界ぎりぎりの場所に立つ、いとも秀麗な双 体道祖神だ。 北アルプスの東端や、松本平を隔てて美ヶ原 までが望める景勝地である。 双神の形態は祝言握手像だが、通常とはかな り異なっている。 最大の特徴は、姫神が横向きに膝を折り、左 手で男神の右手と握手していることだろう。 同じ石工の作と思われる隣村の中波田の神か、 後述の小室下村の神以外には、ほとんど類例を 見ない珍しい構図である。 優しくすっくと立った男神と、慎ましやかに 控える姫神との微妙な距離がとても優雅だ。 よく見ると双神とも地に足が着いておらず、 何やら宙に浮いているようにも見え、特に姫神 は天女のようにすら見える。 拝するこちらの心までを、すっかり浄化され た気分にさせてくれる、まことに純な美しさを 持つ神だった。 |
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| 上針尾道祖神 (朝日村) |
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朝日村は、鉢盛山の山裾東側に広がる扇状地 が町の中心だが、谷間と山岳地帯が町の大半を 占めている。 車で走っただけで、この地区の産業の中心は 林業と果実栽培なんだな、と判る。 針尾という集落は鎖川の谷の入口に位置し、 役場や鎮守社の在る、この村の中枢である。 針尾中村という集落から少し離れた路傍に、 写真の双体道祖神が二基の小さな道祖神と並ん で建っていた。 肩抱き握手という様式は珍しくないが、双神 のお顔がまるで聖観音菩薩像みたいであること にびっくりした。 道祖神のお顔はほとんどの場合、その地区に 暮らす庶民の顔がそのまま写されたかのような 容貌をしているものである。 しかしここでは、信仰の対象としての神々し さを求めた結果が、観音石仏のような風貌とな ってしまったのだろう。豊穣・多産をイメージ する男女神を祀ったはずが、清純なほど無垢な 双神が出来上がったというわけだ。 なんとも優しく穏やかな、天保四年(1833)の 道祖神である。 |
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| 上古見道祖神 (朝日村) |
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山形村との境界に近い集落で、前述の針 尾からは数キロの場所である。 民家を背景にして、台座も含め2mほど もある大きな石に彫られた双体道祖神が二 基建てられていた。 全体に彩色が残っているから、どうやら 化粧神かと思われる。訪ねたのは夏だった が、かなり色褪せているのは、秋にお化粧 を塗られてからかなり時間が経っているか らだろう。 男神の一部の黒色と、全体に残る朱色が 印象的だった。ここの神が化粧された写真 をどこかで見た記憶があるが、姫神が似て も似つかぬ大黒天みたいな顔をしていたよ うに思う。 どうせなら、綺麗にお化粧した姿も見た かったが、反面彫られた像の表情が良く見 えるという功徳もあるかと諦めた。 確かに、磨耗の進んだお顔の部分などは、 色の塗り方によってかなり印象が違ってし まうかもしれない。 左右とも素朴な直立不動の肩抱き握手像 であり、どちらも姫神の長い髪が印象的で ある。 |
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| 細萱道祖神 (安曇野市豊科) |
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現在は合併して安曇野市となってしまったが、 この道祖神の祭られた諏訪神社は旧豊科町の北端 に位置し、旧穂高町と旧堀金村に接していた。 この地域には後述する二基も含め、まことに秀 麗な道祖神が多く、安曇野巡りを楽しむ際の上質 な点景となっている。 それらは、貴族の衣装や髪型をした優美な容姿 が共通しており、ここの像が天保十二年(1841)と 古いことから“細萱型”と呼ばれる元となった。 肩抱き握手像なのだが、私には男神が盃を持っ ているように見えてならない。これは私の新説だ ろうが、瓢箪を暗示させる着物の裾の表現も気に なるところだ。 とまれ、豪華な破風、流れるような姫神の長い 髪と男神の烏帽子、着物の裾の広がり、などなど 典雅な風貌と品格のある所作は、他の作品に大き な影響を及ぼすこととなった独特の豊かな表現で あったといえる。 この狭い地域に、これだけの見事な道祖神を集 中的に生んだ背景には、開墾による豊かな水田、 住民の厚い信仰心、優れた技巧の石工の存在、と いう諸条件が揃っていた事が挙げられる。 |
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成相本村道祖神 (安曇野市豊科)
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信州の安曇野を歩くと、ふくよかで優雅な双体 道祖神に数多く巡り会う。背後の北アルプス、豊 かな水田や果樹園などの風景とよく溶け合って、 和やかな雰囲気を醸し出している。 ほとんどの場合、集落単位で造立されているの で、像からはこの地域が比較的裕福な農村だった という印象を受ける。 しかし、道祖神が当時の農民達の夢の夫婦像だ とすれば、夢の裏返しに、年貢の取立や飢饉とい った厳しい環境が有ったこともまた現実であろう。 写真の像は、やはり貴族の装束姿をし、流麗な 美しさを持つ、典型的な肩抱き祝言像である。衣 装の描写も細やかであり、顔の表情も気品に溢れ ていて、並々ならぬ技巧を持った石工がこの地域 に居たことが想像出来る。 祝言像ではほとんどの場合、男神が円い盃を持 ち、姫神がひょろ長い瓢箪の徳利を持っている。 道祖神は元来豊穣や多産を祈念した像なので、中 には幾つか直接的な性的表現をした像も有るのだ が、これはまことに上品な作と言える。 もっとも、盃と瓢箪は、女性と男性のシンボル が抽象化されたもの、と解釈する向きもある。 弘化三年(1846)の作である。 |
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| 中堀道祖神 (安曇野市堀金) |
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堀金村は安曇野の中心で、穂高町の南、豊科町 の西に位置している。前掲の豊科町成相本村とこ の中堀とは、行政区分は違うが隣り合う里なので ある。 文化年代に拾ケ堰という水路が安曇野を貫流し て以来、この一帯には豊かな水田が約束され、大 農家の多い里には立派な道祖神が建立された。 写真の双体道祖神は、村の中央の辻の見事な台 座の上に悠然と立っていた。 石の材質は花崗岩で、自然石を円形にくり抜い て、双神を浮き彫りしてある。 成相本村と全く同じ祝言像で、男神が盃を持ち、 姫神が瓢箪徳利を持っている。男神が優しく姫神 の肩に手をかけているところも同じであり、こち らは嘉永二年(1849)の作であることから、かなり の影響を受けたか同じ系統の石工の作になるのか もしれない。 双神像の輪郭に、達筆な草書体の添え彫りが刻 まれている。右から「嘉永二丙年」、左に「正月 吉祥日」、下に右から「中堀村連中」と読める。 この日はまだ春浅い雨上がりの午後で、しっと りと落ち着いた南安曇野の風情は格別だった。 材質の感じを出すために、わざわざ水で濡らし てから撮影をすることもあるのだが、今回は全く 必要なかった。 その晩は、山寄りに湧く、有明温泉に泊まった。 |
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| 本郷道祖神 (安曇野市穂高) |
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信州に道祖神多しと言えど、かつてはここ旧 穂高町が最も多く、七十数体を数えていた。ま してや道祖神のふるさととも言うべき豊科町や 堀金村が合併した安曇野市は、信州一いや日本 一の道祖神の里と言えるだろう。 穂高の集落のすぐ西に位置しているのが本郷 の里で、ここには三基の双体道祖神が祭られ、 いずれも個性的な彩色が成されている。 中でも写真の上手(わで)地区の神は安政五年 (1858)の作で、同じように彩色された恵比寿・ 大黒さんと一緒に横一列に並んでいて壮観だ。 彩色は毎年秋に行われるそうだが、ここでも 余り褒められた塗り方が成されていない。 良く見れば、なかなか優雅な肩抱き握手像で あり、純粋に彫刻を鑑賞しようとすれば、彩色 はかなり邪魔になるだろう。 しかし、その里人を中心として伝統的に行わ れてきた行事にこそ、素朴でおおらかな信仰心 が表現されているところが美しいのだ。 双体道祖神は決して“美術品”ではなく、里 人たちにとっては日常的に同居する“里の神” なのである。 |
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| 島立町道祖神 (松本市) |
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松本市のこの一帯には、奈川から高山へと抜け る野麦街道に沿って開けた、比較的裕福な農家の 集落が並んでいる。 永田という集落の双体道祖神もそうだったが、 ご覧の通りここ島立の町という集落の道祖神も彩 色された化粧神だった。 色の塗り方は不細工なので、きっと村人の手に なるものだろう。だが、そのおおらかさが、像の 彫りの美しさと相まって、かえって優しく親しみ やすい神像となっている。 作者の銘が刻まれており、入山辺中村の傑作を 彫った藤森吉弥の作だそうだ。希代の名工作品に べたべたと色を塗れるのは、それだけ庶民の信仰 が純粋で素朴であり、生活と一体化している証な のかもしれない。 肩抱き祝言像だが、よく見るとさすがは吉弥、 彫りの質の違いが良く分る。 不思議なことに最初から町に作られた神ではな く、江戸末期に当時流行した盗み道祖神で、どこ か別の村から運ばれたものだったらしい。なんと もおおらかで悠長な話である。 |
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| 中塔道祖神 (松本市梓川) |
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現在は松本市に併合されてしまったが、かつ ての南安曇郡梓川村の北端の集落であった。同 じく併合されて安曇野市となった、旧三郷村に 隣接していたのである。 歴史的には、戦国時代の山城として著名な中 塔城跡で知られている場所だ。 この像は細長い三角形の石の中央部をくりぬ いた形で彫られており、村外れの小高い場所に さりげなく建っていた。 双神が向き合い抱き合っているので、何らか の短絡な直裁的表現が成されているのかと思っ たが、全くの杞憂にすぎなかった。 直立不動の男神に対して、片足を爪先立ちさ せた姫神の表現は一体何を意味するというのだ ろうか。 姫神が締めた帯が可愛いし、顔をやや外側に そむけたポーズからは、現代では全く失われて しまった“乙女の恥じらい”が感じらる。それ はきっと死語になっているに違いない。 やや危険な表現であるにもかかわらず、少し の抵抗も感じられないのは、稚拙とも見える抽 象が、からっとしたおおらかな表現となってい るからだろう。 |
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| 小室下村道祖神 (松本市梓川) |
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双体道祖神の質の高さは石工の技量しだいだが、 信州安曇野一帯には、格別の出来栄えのものが非 常に多い。幾多の名工を輩出した高遠が至近とい う条件が、比較的豊かな収穫、人一倍厚い信仰心 などという条件とうまく重なった結果だろう。 かなり広範な小室の里には、三体の双体道祖神 が祭られている。いずれも高度な技術と感覚を持 った石工の傑作ばかりだが、中でも写真の下村の 像が最も気に入っている。 跪いて男神の持つ盃に、取っ手のついた酒器か ら酒を注ぐ姫神の姿がいい。よく見ると、男神の 右手が姫神の肩を優しく抱いている。衣冠束帯と 十二単という現実離れした装束は、往々にして田 舎芝居の衣装みたいに見えてしまうのだが、ここ では神の装束として堂々と見え不自然さがかけら も無い。 周辺の田園風景に溶け込んで、一際美しさを増 している魅力的な双体道祖神である。 |
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| 藤井道祖神 (松本市) |
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松本市から美ヶ原山麓へと広がる裾野一帯は、 古来より山辺の里と言う。美ヶ原寄りは入山辺、 松本寄りは里山辺と呼ばれる水清い山里である。 現在は果樹栽培などで豊かだが、当時は養蚕か 炭焼き程度の産業しかない厳しい雪国だっただろ う。 その厳しい生活を反映してか、種種の願いを込 めた道祖神が山辺地区には多い。美ヶ原温泉に近 い里山辺の藤井で見た写真の像は、その中でも抜 群の完成度にドキっとするほど美しく感じられた。 高遠の石工が彫ったとされる、有名な入山辺中村 の像は余りにも完成され過ぎで風情に欠けるので、 その点からもこの像には親しみが持てた。 よく見ると造立が明治十五年とかなり新しいの が意外だったが、他の同時期の作に見られる下劣 な写実が全く感じられないのである。 良質の石材をくりぬいて彫られた肩抱き祝言像 であり、衣冠装束に太刀まで帯びた男神に、寄り 添うようにして酒を注ぐ姫神も堂々としている。 庶民のささやかな願いという趣とはややかけ離れ ているものの、明治時代の像立としては珍しい品 位と自信の表現の一端かもしれない。 |
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| 東桐原道祖神 (松本市) |
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里山辺から入山辺へと向かうと、谷間にかか る少し手前に東桐原の集落が在る。道祖神は県 道から少し入った、葡萄園の棚を背景にして立 っていた。 写真で見るとおり、優雅な気品に満ちた肩抱 き握手像である。 姫神の長い髪、双神の長い袖とその装飾、な どが特徴だが、何よりも両側に彫られた徳利の ような花瓶が珍しい。後で調べたのだが、これ はこの地方の慣習で、竹製の飾りを徳利に挿し て神酒を供えたことに由来するらしい。 板碑などでは、本尊荘厳を意図して左右に花 瓶(けびょう)が彫られることがあるが、ここ では双神への崇敬の念が示されたものだろう。 明和五年(1768)という古い年号が刻まれてお り、この一帯では最古の部類に属す、とのこと であった。 訪ねたのは夏の初めで、汗だくになりながら 写真を撮った。双神の美しいたたずまいに感動 して立ち去りがたく、葡萄の陰で双神と並んで 氷水を飲んだ記憶は今でも鮮明である。 |
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| 宮原道祖神 (松本市) |
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里山辺から薄川に沿って上流へと向かうと、川 の対岸のこの静かな集落がほぼ入山辺の入口とな っている。 この道祖神は数多くの本にも掲載されているの で、御存知の方も居られるだろうと思う。 ただ、注目される理由が、双神像の下に彫られ た、人間の性的行為を直接的に表現したような小 さな像にある点が気に入らない。 石工の、当時としては大層自由な発想の表現で あり、とんでもなく遊び心いっぱいの洒落である と解釈できる。 であるからこそ、それだけを目的にした、興味 本位の観光は慎むべきだろう。 像全体からすればそんな部分は実は枝葉末節、 本体の双神は写真のごとく、まことに優雅な天明 六年(1786)造立の肩抱き握手像なのである。 像は社殿の中に立っている様に彫られており、 漂う穏やかな相愛の雰囲気とその像容がなんとも 好ましい。 風雨による磨耗からの保護と、盗難を防止する 目的で、覆屋が設けられている。写真撮影は可能 だった。 |
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| 中村道祖神 (松本市) |
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何という美しい双体道祖神なんだろうか。い や、美しすぎるし、デッサンも彫刻も、非の打 ち所の無いほど完璧なのである。 ここは先述の宮原とは、薄川を隔てた対岸の 集落で、同様に入山辺の西の入口に当たる。 一見して現代の作だろうと感じたが、像の右 側にはっきりと「天保十五年(1844)と彫られて いるので驚き、改めて思わず見惚れてしまった のだった。 高遠の名工であった藤森吉弥の作だと聞かさ れて、納得はしてみたものの、路傍の道祖神と は思えぬほどの高度な技術が発揮され、双神を 実際に写生したかの如き写実的な表現が成され ていることに感動した。 余りにも欠点が無いと逆に愛嬌が感じられな いということがあるが、道祖神の伝統的な様式 である、貴族の衣装と肩抱き祝言像というスタ イルからくる安心感がこれを救っている。 また、お互いに見つめ合い、微笑み合ってい る姿に親近感が抱けるからだろう。 おおよその芸術が抽象と写実とを繰り返すの に似て、ここでは近代の写実の萌芽が見られる と解釈するべきなのだろうか。或いは、吉弥ひ とりが、飛び切り進んでいたのだろうか。 |
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| 奈良尾道祖神 (松本市) |
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松本市郊外の一軒宿入山辺温泉霞山荘に泊まっ た翌朝、私達は宮原・中村などの入山辺地区に祭 られた双体道祖神を探訪した。 上手町のバス道から南へ下ると、そこは薄川に 沿った低い断崖の上で、石垣を背にして二基の双 体道祖神が並んで祭られていた。 左側は素朴な肩抱き握手像で、これはこれで味 があるのだが、やはり右側に立つ写真の像を黙っ て見過ごすわけには行かない。 一目見ただけで、これは容易なものではないな、 と感じさせるだけの存在感と情感を抱かせたので ある。 この像には造立年銘は無いのだが、里山辺の中 村に在る像と共に、幕末に活躍した高遠の石工の 作である。中村のものは藤森吉弥の作品であり、 こちらには藤森隆成という名が刻まれている。 衣冠束帯のややよそ行きの上品な雰囲気の中に、 ほのぼのとした山里の生活観がにじみ出たような 朴訥さが感じられる美しい双神である。特に双神 の顔の表情が優しく、中村の作品より大らかで好 感が持てる。 里山辺からここ入山辺の谷にかけては、まこと に個性豊かな双体道祖神が多く、探訪していて飽 きることを知らない。 |
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| 神沢道祖神 (松本市) |
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松本城から北へ2Km行くと、その辺りからはい きなり山里の風情を感じさせる集落が多くなる。 一帯は岡田と呼ばれる地区で、その西側にこの集 落がある。 家並みの中程にある辻に面してこの像は立って おり、「道祖神御守」と書かれた札が何枚も貼り 付けてあった。何を祈ったかは知れぬが、庶民の 素朴な信仰が現代にも生きているのである。 双神は従来の祝言像や握手像ではなく、珍しい 格好をしている。まず目に付くのは、姫神が繭玉 のような餅花を持っていることだろう。 さらによく見ると、男神の右手は姫神の肩に、 そして左手は何たることか、姫神の着物の裾に手 をかけめくろうとしているではないか。 とんでもない像なのだが、地元の農民そのもの といった朴訥な風貌の双神からは、猥らな厭らし さは少しも感じられない。 品位をかろうじて保った、ぎりぎりの表現とも 言えるが、むしろとても大らかな美しさに満ちて いる。 寛政七年(1795)の銘があり、道祖神としてはま あ古い方だろうが、彫りも大胆で形式にとらわれ ない遊び心に溢れた傑作だろう。 |
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| 湊道祖神 (岡谷市) |
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天竜川が諏訪湖から流れ出す岡谷の釜口水門か ら、諏訪湖西岸の山裾を通って茅野へ通じる道が ある。ここに湊という名前の集落が在り、やや小 高い場所に石舟神社という鎮守が祭られている。 この双体道祖神は境内に繁る杉の巨木を背にし、 もう一基の小さな双立合掌像と並んで立っている。 大きな安山岩を円形にくりぬき、彫が深いので 見事に像を浮き上がらせてある。 まことに落ち着いた品位を感じさせる酒器持ち 祝言像で、妙な色気は全く無く、まるで双立像の ようにも見えてしまうほど清らかな印象を受ける。 あたかも細い紐のように見える帯と立派な長袖 の表現が、他所では滅多に見ることの無い特徴で ある。 双神の背後に御幣のようなものが彫られている が、これはこの諏訪地方では幣帛(ぬさ)と呼ばれ ている。諏訪明神に捧げる飾りのようなものだが、 これを相合傘のように描いて彫った双体道祖神は 塩尻から旧中仙道方面にまで分布している。 道祖神と諏訪信仰とを結びつける説もあり、そ ういう意味では大変興味深い像である。 最後に振り返ってもう一度眺めたのだが、並ん で立っておられる足元がなんとも可愛らしく、ほ のぼのとした気分になってしまったものである。 |
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| 万五郎道祖神 (辰野町) |
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伊那谷の辰野周辺には、質量ともに最もレヴ ェルの高い道祖神が集中しており、またその像 容のユニークなことは特筆に値するだろう。 また、万五郎に在るとされる道祖神は、訪ね る前から、その珍しくも親しみの持てる里名と 同じように、きっと愛らしい素朴な像に違いな いと想像していた。 そこは辰野の中心から、天竜川沿いに少し下 った所で、川を挟んでJR伊那新町駅の対岸に 位置している静かな山里だった。 写真の双神は農協の脇の辻に祭られていて安 山岩で黒褐色をしており、かなり苔むしていた。 しかし、全体の意匠は珍しいもので、見事な 彫りの肩抱き祝言像である。双神の上部に鶴が 舞い降りており、双神は亀の甲の上に立ってい るという、なんともめでたい表現である。 姫神が瓢箪の徳利を捧げ、男神が盃を差し出 し、肩を抱き合うという図は珍しくはないが、 肩からみえる手がなんとも微笑ましい。 銘は「万延元庚申年(1860)万五郎村中」と書 かれている。 隣りの集落である下田には三体の双体道祖神 が在り、明治期のものらしいのだが、日月を伴 い巻物を持った双神像だった。 |
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| 上野道祖神 (辰野町) |
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この集落を通る道は昔からかなり栄えていたそ うで、辰野から諏訪上社へと抜けるには山道だが 最短の旧道だった。 道を辰野方面にとりしばらく行くと、路傍の山 裾にこの愛らしい双体道祖神が立っていた。 決して技術的には上等とは言い難いが、様式化 された石工の作品よりも、この稚拙だが新鮮な表 現が成された像の方に思い入れが出来て妙に捨て 難い。 肩を抱き合いながら姫神の手を取る男神、素朴 な恥じらいを見せる姫神。なんとも美しい像で、 後述の群馬県中之条町の中村道祖神に匹敵する傑 作だろう。 本来の道祖神としての役目を忘れたわけでもな いのだろうが、作者はいったい何を求め何を祈っ てこの像を刻んだのだろうか。 豊穣への祈願が多産をイメージし、さらに男女 の婚姻や愛の形の表現へと昇華していったのだろ うか。 写真では判らないが、像の上部に御幣が線彫り で刻まれており、それはまるで相合傘のように見 えてくる。 像の右側に文化元年(1804)の造立銘が彫られて おり、私達にも鮮明に読み取ることが出来た。 |
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| 本洗馬上町道祖神 (塩尻市) |
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松本から木曾へと向かう旧街道が、ちょうど 塩尻市を通過する辺りが洗馬と呼ばれる地区で ある。本洗馬上町の旧家の脇に祀られた、二基 の双体道祖神の内の一基が写真の像である。 この双体道祖神も、いかにも信州らしい肩抱 き握手像である。被っている冠は貴族的で立派 だが、衣装は全く大衆的である。いささか不自 然だが、そんな矛盾を感じさせない程、二人の 顔の表情が道祖神とは思えぬ位楚々として美し い。 肩抱きの手もいいし、着物の裾から少し見え る足がとても可愛く見える。 背面に、正徳五年芦ノ窪という銘が入ってい る。この年号は西暦1715年で、道祖神とし てはかなり古い方に属している。また、芦ノ窪 とは現在の朝日村に有る集落で、当時流行した 道祖神盗みでこの地に移されたようだ。この事 例は珍しいことではなく、各地に有る。 いずれにせよ、かくも穏やかで、優しい相愛 の情を品位を保ちながら、さりげなく表現した 双体道祖神は滅多に見ることが出来ない。 |
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| 北大塩道祖神 (茅野市) |
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インド・カジュラホのヒンドゥー寺院彫刻とま ではいかないが、この時代の日本で、これほどお おらかに少しの厭味も無く、からっとした表現が 成されたことに驚きは隠せなかった。 双体道祖神には多産をイメージした性神という 性格もあることから、直裁的な性行為を表現した 像も多数在る。しかし、のぞき趣味的な像は好き ではないので敬遠しているが、ここの無垢な表現 には正直恐れ入った。 我が家の壁に掛けてあるピカソの名作“接吻“ を思い出しながら、裾から出た足が絡み合ってい る有様なのに、何故こうも愛らしいのだろうか、 と考えた。 少しもいやらしくないのは、像全体がデフォル メされた双神像だからなんだろう。 この場所は石碑や灯篭などが寄せられた町の辻 であり、婦人や子供達も大勢通る。拝むわけでも なし、気にする気配も一向に無い。 男神の表情、姫神の肩にまわした両手、姫神の 帯、絡んだ裾などの表現が好きで、忘れられない 道祖神の一つとなっている。 |
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| 山寺道祖神 (茅野市) |
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接吻道祖神の在った北大塩の南に、八ヶ岳や 蓼科高原への入口となる上菅沢地区がある。山 寺はそこにある集落で、村外れの鎮守の入口付 近にこの道祖神が祭られていた。 だが、ここの双神は今までに見たことの無い ような、不思議な格好をしている。 いったい頭にかぶっているのは何なんだろう と思ったが、どうやらこの地方で使われた防寒 頭巾であるらしい。顎の下で結ばれた紐や腰紐 の描写がとても繊細だ。 だが、それに比して、頭でっかちな容姿や、 子供のようにあどけない双神の表情、不細工に 握られた手などは、むしろ稚拙にすら感じられ る彫りだ。 像はアーチ形の石をやはりアーチ形にくり抜 いた中に彫られており、台座の角石に道祖神と いう文字と、文化三年(1806)の銘とが刻まれて いた。 茅野周辺の道祖神を探訪した私達は、奥蓼科 温泉郷の明治温泉に泊まり、大いに神の御利益 を授かったのだった。 |
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| 野倉道祖神 (上田市) |
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観光ポスターに使われて以来、上田の塩田平や 別所温泉を訪ねた人が必ず立ち寄る、比較的よく 知られた道祖神である。 だからといって内容の丸で無い観光道祖神かと いうと、とんでもない、信州中探したってこれだ けの傑作はそう有るものではない。 だが不思議な事に、上田市の千曲川以南は道祖 神の分布地域ではなく、この野倉のものが塩田平 では唯一なのである。 別所温泉から2Kmの集落で、環境の優れた場所 に立っている大変美しい双体道祖神であり、典型 的な肩抱き握手像である。 例の通りの正装で、男神は衣冠束帯、姫神は十 二単で優雅な雰囲気で並んでいる。 どんな願いを込めて造立されたのかは判らない けれど、ふくよかな顔の表情が真に幸福そうなの で、きっと、豊かな村の平穏がずっと続くように という祈願だったのかもしれない。 |
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| 中原道祖神 (上田市真田) |
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私達夫婦が毎春志賀高原へスキーに行ってい た頃、帰りのルートは決まって須坂から菅平を 越え、真田から東部町に抜ける裏道だった。 当時は新道が有料道路で、途中の出口を降り てから程近い中原の里まで、わざわざこの道祖 神を見に行った時の写真である。ということは 約25年前の写真ということになる。 この双体道祖神は当時からよく知られた存在 で、写真集などにも数多く取り上げられていた ものだ。 双神がとても素朴で愛らしいことと、衣の襞 の縦線が繊細で美しかったからであった。 私が訪ねた時ですら既にかなり磨耗が進んで おり、光線の具合も悪かったので、襞の美しさ を巧く撮影出来なかった。 それでも何とか現実に近い写真は撮れていた ようで、襞の線はかすかに見える。 直立する双神と衣の縦線とに交差するように、 姫神の瓢箪と男神の盃、そして不思議に細い腕 とが示す斜線が、静かな中に微妙な躍動感を表 現している。 ほとんど摩滅してしまったお顔からは、まこ とに清楚で優しい表情が想像されたのだった。 もう一度お会いしたい像のひとつである。 |
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