近畿地方(西北部) の庭園 |
大阪・兵庫の庭園 |
石像寺(兵庫県丹波市市島町) 江戸初期池泉庭園の滝石組 |
歴史的にも近畿地方は、常に芸術文化の中心 であった。京都や近江は申すまでも無く、奈良 や大阪を中心とした近畿一円は歴史的遺産の中 心であり、庭園も例外ではない。 京や近江に近いこともあり、周辺の近畿一円 には知られざる名園、一見に値する貴重な庭園 が密集している。 特に大阪や兵庫には、質の高い作品が集中し ており、京都の庭とはひと味違う個性的な庭を 見る事が出来る。 便宜上、京都・近江以外の庭園を東西に分け て掲載した。特に丹波は、知られざる古庭園の 密集地帯である。 |
|
願泉寺庭園 |
(大阪府大阪市) |
大阪市内浪速区にある浄土真宗の寺院で、創 建は飛鳥時代と伝わる。伊達政宗の加護で再建 されたが、国宝だった堂宇は戦災で焼失した。 政宗の時代に築造された庭園も荒廃したが、 往古の姿に似せて復元されている。 中央奥に枯滝を組み、枯流を引いて、狭い空 間に変化のある景観を創出している。 右奥の立石による築山は剛健で、いかにも桃 山期の庭園らしい面影が残っている。 枯流に架かる一枚岩の石橋も、この時代の趣 味が反映されていて見応えがある。 市街地に残る古庭として、貴重な存在だ。 |
|
豊国神社庭園 |
(大阪府大阪市) |
この神社は大阪城内二ノ丸の中に在り、太閤 秀吉、及び秀頼、秀長が祀られている。昭和三 十九年鎮座の新しい神社である。 本殿脇のこの庭園は“秀石庭”と命名されて おり、京都林泉協会の記念事業として重森三玲 によって作庭されたものだ。 巨石による立石枯山水で、正面奥の三尊形式 の石組を中心に、多くの個性的な石が立ってい る。 苔を使って出島や築山を造り、州浜のような 入江を白砂で表現してある。上から眺めると白 砂の地紋が、太閤を象徴する瓢箪を表している ところがやや陳腐だが。 林立する巨石は磐座であり、また抽象的なモ ニュメントでもあるのだろう。従来の庭園観を 打ち破る、まことに意欲的な作品である。 |
|
南宗寺庭園 |
(大阪府堺市) |
堺の町衆であった千利休の墓所が有る寺とし て知られているが、庭園は古田織部の作とも言 われている。 第二次大戦の空襲で破壊されたのだが、森蘊 氏によって修理復元されたものである。 庭園は枯山水で最奥部に枯滝を組み、枯流を 栗石で表現、豪壮な石橋からさらに下流へと続 いている。 写真では滝石組部分が樹陰に隠れてはっきり 見えないが、大仙院に比すほど創造的であり、 豪快で見事な石組である。 石橋周辺の景観も重要な見所となっている。 橋添石も豪壮で、やや厚手の自然石を継いだ橋 の意匠と共に、桃山から江戸初期にかけての手 法を見せている。茶席実相庵前の袈裟形手水鉢 は逸品。 |
|
祥雲寺庭園 |
(大阪府堺市) |
この寺は戦災のために大きなダメージを受け たが、江戸初期作庭の枯山水庭園は当時の面影 をかろうじて残している。 大徳寺の天祐和尚が入寺した時の作で、心な しか大徳寺本坊の庭園に似ているというが、見 た目だけからは考え付かない。 手前は白砂、方形空間の左奥に枯滝を組み、 左右に連続石組を組むという地割はそっくりで ある。 写真左端の三角石は“富士石”と呼ばれ、象 徴的であると共に、何やらこの庭の御本尊のよ うな存在となっている。 その右奥が枯滝石組となっており、渓流をイ メージした石組も見られるのだが、荒廃したせ いかこの辺りには江戸初期の力強さは無い。 戦災や周辺の激変に耐え、貴重な古庭が今日 まで保存されたことは奇跡に近い事なのかもし れない。 |
|
岸和田城庭園 |
(大阪府岸和田市) |
岡部氏の居城であった岸和田城址には、古い 石垣と濠が残されていた。 本庭は本丸の天守跡の前庭として、重森三玲 が昭和28年に作庭した意欲的な枯山水庭園で ある。 現在見る天守閣は、その翌年に再建されたも のである。 城郭に相応しい諸葛孔明の“八陣法”を主題 としており、大将を中央に置き、天地風雲竜虎 鳥蛇の八つの陣各々に石組が配されている。 豪壮な青石の立石多く、横石や臥石などと力 強く組まれている。 立石中心の石組を、かくも美しく表現出来た 造園家は一人もいないと思う。 八方のいずれからも見事な景観であり、天守 閣の上からの眺望も意識された設計なのだそう だ。写真の石組は、手前が天陣石組、奥は中央 の大将石組である。 |
|
普門寺庭園 |
(大阪府高槻市) |
雑然とした家並みの中に、オアシスの如き緑 の区画が突如現れた。かつては壮大な寺域を誇 った普門寺の境内である。 ここに何とも洒脱な枯山水庭園が残されてい る。当主の奥様から茶菓の歓待を頂き、庭園が 優しく美しく維持管理される背景が見えたよう だった。 幡枝の円通寺の作庭、桂離宮にも関わった石 立僧として知られる玉淵の作と言われる。遠景 として全体を眺めると、確かに円通寺の石組に 似た部分も多いのだが、中心となっている三尊 形式の枯滝石組には、力強い江戸初期の豪快さ が見られるのが嬉しい。 趣味良く橋添石を配した石橋辺りの風景も好 ましく、やや散漫な石組となっている手前や右 手の景色を引き締めている。 改造された部分も有ると聞くが、都会の真ん 中にこのような静かな空間が保たれていること が素晴らしい。方丈の建築や、細川春元の宝篋 印塔も見逃せない。 |
|
以楽苑庭園 |
(大阪府枚方市香里園) |
故重森三玲氏が創作した庭園は多いが、公共 の公園というのは珍しい。ここは香里園という 広大な団地の一画に、団地開発と同時に計画さ れたもので、現在は市が管理している。 苑池を囲んで回遊路が設けられ、次第に変化 する景色が楽しめる。随所に設けられた築山に は、とても団地の公園とは思えないような力強 い石組が見られる。写真は、その中でも特に印 象的だったもので、三尊石組のようにも見える 迫力あるモニュメントである。 青石を組んだ滝石組や、曲水式の流れを意匠 した部分など、多くの石組が配されているとい う何とも贅沢極まりない公園なのである。 この豪華な庭園が、自分達の大切な芸術作品 であり財産であり、それが身近に在るという幸 運を大切にしていただきたいと感じた。 |
|
帝釈寺庭園 |
(兵庫県香美町香住) |
松葉蟹で名高い香住港の近くに建つ古刹で、 聖観音像や帝釈天像などの仏像でも知られる。 本堂と持仏堂の間の狭い空間に、この築山式 の枯山水庭園がある。 まず目に入るのが右奥の立石で、背後に滝石 組があるので滝添石なんだろうと思った。観音 の立ち姿にも見え、この庭のシンボル的な中心 となっている。 枯滝の手前は玉石による流れの表現で、水分 石や舟石も見える。 亀石組も意匠されていることから、神仙思想 に基づく蓬莱式の庭として築庭されたようだ。 とすると手前の枯池に浮かぶ大きな平石は、 当然ながら神仙島ということになるのだろう。 奇抜な意匠の枯山水であり、デフォルメされ た蓬莱世界の描かれた、江戸期の特異な庭園だ と言える。 |
|
玉田寺庭園 |
(兵庫県新温泉町浜坂) |
兵庫県の北西端に位置する旧浜坂町の、七釜 温泉の外れにこの寺が建っている。 鎌倉後期の宝篋印塔が目的で訪ねたもので、 実はそれまで庭園の存在を知らなかった。 庭園は一面杉苔に覆われており、手前が礼拝 石を配した平庭で、その奥に写真の築山が設け られている。 築山上部に遠山石を据え、そこから枯滝が組 まれている。 丸石多く迫力に欠けるが、滝添石などが巧み に意匠されてはいるのだが、植栽の繁茂が余り に激しくて、石組の大半が隠れている。 偶然ながら、折角見つけた庭園とて、せめて この滝石組部分だけでも、植栽を刈り取ってい ただきたいものである。 造庭は寺伝から、江戸中期と考えられる。 |
|
護念寺庭園 |
(兵庫県朝来市和田山) |
この庭園は、同市の旧山東町に在る永田氏古 茂池庵に、とても類似していると聞いていた。 いずれもが鎌倉期に作庭されたという説もある ので、以前より興味を抱いていた。 今回初めて朝来市を訪ねたのだが、永田氏邸 がどうしても見つからなかったので、地元の郵 便局で尋ねると、既に廃屋となって樹木が生い 茂り立ち入りは不可能とのことであった。庭園 は失われてしまったのだろうか。 故に、護念寺で庭園の見学をお願いし、きち んと管理されている庭園を見た時の感激は大き かった。 累々と積み上げられた石組の迫力は、規模の 小さな庭ながら、驚くほど強烈だった。 斜面を利用した江戸期の庭、というのが第一 印象だった。斜面というよりは崖地で、石は組 むというよりは重ねたというほうが正しいかも しれない。 しかし詳細に見ると単に積んだのではなく、 滝石組を中心として相当洗練された意匠が感じ られるのである。龍門瀑や鯉魚石らしき石組も 見られるので、鎌倉作庭説が生まれたのかなと 感じた。 年代の設定はともかく、卓越した石組の美し さを備えた秀逸な庭園である。石組主体の抽象 性こそが庭園の最大の魅力である、ということ を教えてくれる庭である。 |
|
正覚寺庭園 |
(兵庫県篠山市) |
重森三玲氏が創作した庭園が、篠山には本休 寺、住吉神社と当庭の三箇所が在る。 創作当初の景観が荒廃してしまった本休寺を 見ると、庭園を維持管理する難しさを痛切に感 じてしまう。 その点、御住職が手入れをしていないのでと 初めは見学の許可を躊躇されたこの庭は、植栽 が若干伸びているとは申せ、見事に保存されて いたことに感動した。 三玲氏と先代御住職とが信頼関係で結ばれた 昵懇の間柄で、むしろ三玲氏が奉仕の意味で作 庭されたというお話を現御住職から伺った。 事実、作者の自由奔放な意匠と迸るような造 形意欲、鮮烈な美意識などが直接的に伝わって くる。 竜門瀑や鶴亀といった蓬莱思想を抽象したデ ザインも、氏にかかれば現代アートのような斬 新な石組となって、それを露骨には感じさせな い。しかし、全体的にはしっとりとした味わい の、伝統的な池泉石組庭園なのである。 <見学要予約> |
|
本休寺庭園 |
(兵庫県篠山市) |
重森三玲が篠山に作庭した庭園の一つで、こ の寺は山畔の閑寂な地に位置している。 石段を登ると右手に本堂が建っており、庭園 は石段を挟んだ両側、つまり本堂と土塀の間の 北庭と、左側の土塀沿いに石組が施された南庭 がある。 作庭当初は土塀の白壁に雲紋が、そして色分 けされた敷石がデザインされていたのだが、残 念ながら北庭は、本堂の拡張により辛うじて石 組だけが残されている状態である。 写真は南庭で、壁の雲紋や敷石はかすかに残 っているだけなのだが、鮮烈な石組が残されて いたのが救いだった。立っている石の示す鋭さ や危うさ、見る角度によって表情を変える面白 さは、青石つまり緑泥片石ならではのものだろ う。立てられた青石を石組の中心に据えること が多かった三玲だが、おそらく阿波国分寺庭園 の発見の際に、その鮮烈な造形性から受けた美 的衝撃がいかに大きなものだったかを物語って いる。 |
|
石像寺庭園 |
(兵庫県丹波市市島) |
旧市島町の岩倉という所で、その名の由来と なった磐座のある断崖の麓にこの寺が建ってい る。 この寺には江戸初期と中期の二つの池泉庭園 があるが、ここでは昭和の代に重森三玲によっ て作庭された「四神相応の庭」をご紹介する。 四神とは中国古来の四方神で、東は青龍、南 は朱雀(鳳凰)、西は白虎、北は玄武(亀)と いった動物が方角を象徴している。 三玲は平庭を敷石で十文字に区切り、四方を 象徴した石組と色を見事に意匠している。 手前は黒ずんでいるが阿波の白石で、白川砂 が用いられた白虎であり、奥は鞍馬の赤石と赤 砂が用いられた朱雀である。 テーマとデザインがやや短絡な発想によると ころが難だが、ユニークな庭造りであることは 確かだ。 |
|
白毫寺圓照院庭園 |
(兵庫県丹波市市島) |
薬師堂前の園池横に建つ南北朝期の宝篋印塔 を見てから、本坊圓照院の本堂へ向かう。 本堂の前に、写真の築山式枯山水庭園が唐突 に現れる。 お化け灯篭や祠が石の上に置かれているので 庭に対するセンスが疑われてしまうが、写真の アングルでそれらを写さなければ、なかなかの 意匠であることが判るだろう。 築山には三尊形式の雄渾な枯滝を組み、左手 前に突き出た出島先端の立石との間に、見事な バランス感覚を示している。立石の妙、とでも 言うべきだろう。 圓照院には本堂横にもうひとつ、池泉庭園が あるが、石の弱々しさからいずれも江戸中期か ら末期の作庭と考えられる。 |
|
清薗寺庭園 |
(兵庫県丹波市市島) |
石造美術と庭園を併せて探訪しようと、冬の 一日京都から丹波の氷上郡を歩いた。白毫寺の 庭園と宝篋印塔を観た後、私達は南北朝の燈篭 と庭園の残る当寺を訪ねた。 山門の近くにある形の良い燈篭を観てから、 本堂前の庭園を一目みてびっくりした。想像も していないくらい秀麗な石組が、目の前に展開 していたからである。 写真は、庭園の右隅に組まれた枯滝付近で、 中央の遠山石と右の蓬莱石を中心にした瀟洒な 集団石組である。 三尊石組などのイメージから、限り無く初期 に近い江戸中期という判定をしたのだが、素人 の悲しさで江戸末期の造庭とのことであった。 庭園のソムリエでもあるまいに、年代当ての ゲームに熱中していたが、庭園の観賞には何の 影響も意味もなさない。作品から受ける感銘だ けで、もともと充分なのである。 |
|
高源寺庭園 |
(兵庫県丹波市青垣) |
旧青垣町の山深い里にひっそりと建つ、まこ とに緑濃い静寂な寺であった。惣門を入ると苔 むした石段が続き、モミジの新緑のトンネルに なっていた。紅葉の季節には、多くの参拝人で 賑わうそうだ。 心字池と呼ばれる庭園が、石段上のお堂の横 に広がっている。 庭全体が苔に覆われているために、しっとり とした風情が感じられる。 だがよく見ると、ムードだけではなく、変化 に富んだ護岸石組が施されていることに気が付 く。 丸い石が多いので、緊迫感は存在しないが、 池の水際の出入りや繊細な石橋、象徴的な立石 などの配石の感覚に非凡さが感じられた。 この庭を取り上げた本は無いが、江戸中期か ら末期に作庭されたものだろう。 |
|
観正寺庭園 |
(兵庫県豊岡市気比) |
城崎温泉に泊まった翌日この山寺を訪ねた。 庭園は昭和の末期に新発見されたもので、想 像を遥かに超えた、清冽で意欲的な石組の枯山 水であった。 斜面に累々と石を組んだ意匠は、先述の護念 寺(和田山)の庭にとても似ていると感じた。 案の定、同じ作者という信憑性の高い資料も 出たそうで、そうだとすればいずれも江戸末期 の作庭となるらしい。 江戸末期の庭に対する評価が覆りそうな説だ が、作庭年代とは関係なく、この庭の石組の立 体的な迫力に満ちた美しさは格別であった。 護念寺に比べるとやや平石が多いのだが、随 所に鋭い立石が配されていて全体を引き締めて いる。 植栽がかなり多いことは、石組主体の庭の最 大の認識不足と言える。庭の命の大半を奪って いるのである。 |
|
宗鏡寺庭園 |
(兵庫県豊岡市出石) |
城下町出石にある沢庵和尚所縁の寺で、枯山 水方丈前庭と写真の本堂裏池泉庭園とが在る。 開山堂の在る山畔の斜面に石を組み、右奥に 滝石組が意匠されている。手前に池泉を配し、 池中には亀島が組まれている。 沢庵の作庭とされるが、江戸初期としては小 振りな石ばかりが用いられている。ただ、滝石 組の部分には当代らしい豪壮さが見られるが、 植栽が繁って詳細が見えないのが残念である。 滝添石は2m弱の巨石である。 池の形などからも、江戸中期に近い造庭では ないかと思われる。 具象的な亀島は嫌いだが、ここでは手石や脚 石、尾石など余り気にはならない。 築山には石組は多くは見られず、サツキの刈 込が中心となっているが、全体にはしっとりと した雰囲気が満ちた好ましい庭である。 |
|
旧大岡寺庭園 |
(兵庫県豊岡市日高) |
神鍋山に近い大岡山の中腹に、かつて在った 大岡寺の遺構が残されている。往時には多くの 堂宇伽藍が連なっていたそうだが、現在は礎石 が残るばかりで、当初の面影を伝えるのは荒廃 した庭園のみとなってしまっている。 この庭は重森三玲によって発見されるまでは 全く知られていなかったもので、桃山時代の池 泉庭園として再認識されるところとなった。 現状を見ると、かなり荒れ果てた環境の中に あるとはいえ、手前に池泉、出島の奥に滝石組 を組み、多くの立石手法を用いた豪快な庭園 であったことが判る。 写真は滝石組部分で、陰影が濃いためにはっ きりと写らなかった。だが、中央の細長い重量 感に満ちた立石による滝添石や、その左の三段 に組まれた水落石などは写っている。 やや暗いが左上の巨石はこの庭の守護石であ り、遠山石としても景観の中心となっている。 滝手前の池泉は現在涸れているが、かつては 滝から実際に水の落ちる池泉庭園であった。 護岸の石組もまことに豪放であり、立石石組 を中心とした稀に見る傑作だと言える。 荒廃から救うための最低限の修復に留めなが ら、手厚く保全されることを希望する。 |
|
満願寺庭園 |
(兵庫県川西市) |
天平時代に創建されたと伝わる古刹だが、現 在は真言宗の寺院となっている。 書院の西北に築造された庭園で、塔頭であっ た旧圓覚院の庭である。 北庭にも小池が在るが写真は西庭のもので、 護岸石組と中島が景観の中心となっている。石 組は変化には乏しいが、小粒にまとまったとい うイメージで、江戸初期の溌溂さには及ばず、 おそらくは江戸末期の作庭かと思われる。 中島の祠が何とも目障りなのだが、とても当 初から在ったとは思えず、無いものとして眺め ると、落ち着いた池泉が見えてくるのだが。 |
|
太山寺安養院庭園 |
(兵庫県神戸市垂水区) |
何十年も前にこの庭を訪れた時、撮った写真 である。播磨の石棺仏を見に行く途中だった、 と記憶している。自身のアルバムにその感動が 記してあるが、再訪の機会を失ったままだ。 曰く、「いかにも桃山期らしく豪壮な石がか なりのヴォリュームで重厚に組まれている事に 驚いたが、奥の石橋の下は深い谷の様に掘られ ている等、随所に繊細な立体感覚による配慮も 施されている。石橋の下に洞窟状の石組も見ら れ、詳細に見ると単なる桃山の豪華版だけでは ないことが解る。」と、その時の感想メモをそ のまま記した。 感動の内容は今でも覚えており、いつかもう 一度行って見たいといつも心に残っていた庭で ある。日が翳り陰影が強く、良い写真が撮れな かったのだが、石組みの迫力は抜きん出ている ので取り上げた次第だ。 当時の庭はかなり荒廃しており、雑草で埋ま りそうな雰囲気だったが、幸い冬場の正月であ ったので比較的石が良く見えた。現在どうなっ ているのかが、気になるところである。 <公開日のみ見学可> |
|
中山寺観音院庭園 |
(兵庫県宝塚市) |
西国巡礼の札所である中山寺の塔頭庭園で、 案内には寺を再興した片桐且元の作庭と記され ている。確証は皆無で単なる伝承かと思われる が、桃山期の豪快さを残した江戸初期の庭では ないかという印象を受けた。 時代はどうあれ、壮麗な立石によって組まれ た滝石組の景観は圧倒的である。やや鋭さに欠 ける丸石が多いのが残念ではあるが、量感に満 ちた迫力がこれを充分補っている。 私はこの庭を前にして、庭における石とは一 体なんなんだろうと考えた。 華道における立花のような存在みたいなもの か、などといった凡庸な比喩しか思いつかなか った。細部の造形の集積が全体の景色を組み上 げていく、という表現手段の中にどうやって美 的主張を盛り込んでいくのか、という認識にお いては、かなりの共通部分が有るとも思えるの だが。 |
|
弥勒寺庭園 |
(兵庫県姫路市夢前町町) |
姫路市の北西に位置する書写山円教寺の奥の 院とも呼ばれる天台宗の寺院で、円教寺からは 更に北へ4キロ程行った所に建っている。 円教寺の開基性空上人の創建になり、現在の 本堂(重文)は室町時代に赤松義則によって建 てられた。 庭園は、本堂の隣に建つ庫裏の北側に築かれ ている池泉鑑賞式(枯池)の庭園である。 作庭されたのは江戸中期とのことなのだが、 細長い枯池の西側と東北側に枯滝石組を組み、 おびただしい程の立石を駆使して累々たる石組 を行っている。 後述の応聖寺の庭園の石組に通じるところが あり、距離的にも近いので何らかの影響が相互 に在ったものと思われる。 写真は、西側の滝石組付近で、龍門瀑ではな いかと思えるほどの意欲的な造形が見られる。 ここでも天候が良すぎて光線の陰影が強く、 陰になってしまった部分が多かった。 庭園正面の池泉護岸から築山にかけて、折り 重なるばかりの石組が見られる。やや丸石が多 いとはいえ、庭園造形が衰退していたとされる 江戸中期に、かくも意欲的な庭園が築かれてい たことは素晴らしいことだろう。 |
|
応聖寺庭園 |
(兵庫県福崎町) |
沙羅や蓮の花の寺として知られる白鳳期創建 の名刹である。現在は天台宗の寺院で、青モミ ジや涅槃の庭を雑誌で見たことがある。 庭園は本堂・書院の背後に築造された池泉鑑 賞式で、累々たる石組に圧倒されてしまった。 快晴の午前中だったため、光線の具合で庭の 左半分が完全に陰になってしまった。 肝心の滝石組が見えないが、護岸と土留めも 兼ねた斜面の石組の迫力は伝えられると思う。 池泉は山裾に細長く掘られており、滝石組の 力強さと併せ、江戸初期の様式を備えていると 思われる。花とモミジを愛でる寺に、かくも造 形本位の庭園が共存していたという多様性が、 なぜか無性に嬉しかった。 |
|
長泉寺庭園 |
(兵庫県淡路市一宮町) |
旧一宮町の尾崎という集落の外れにある寺で やや小高い丘の上に建っている。 庭園は白壁塀に囲まれた境内の隅に位置して おり、細長い池泉を中心にして、築山を設け滝 石を据えており、護岸石組と二本の石橋で構成 されている。 全体に平凡な庭という印象を受けたが、築山 を大きな植栽が覆っているために蓬莱石や滝石 組が全く見えないことが最大の原因であろう。 唯一の救いが、中心に近い方の石橋を引き立 てるために立てられた橋添石で、三尊石のよう にも見えて庭全体の要になっていた点だろう。 この写真はかなり昔のもので、近年県の指定 名勝となったそうであり、植栽などどのように 整備されたのか興味深いところである。 |
|
恵日寺庭園 |
(兵庫県淡路市津名町) |
当寺は高野山西南院の末寺だそうで、桃山末 期の創建とのことである。 庭園は元禄期に作庭された、という伝承があ るという。 本堂裏の斜面を利用して滝や多くの石組を意 匠しており、小規模ながら誠に意欲的な構成と なっている。 山畔には細長い池泉が設けられており、江戸 初期の典型的な地割様式を示している。 写真は滝石組部分で、滝左の滝添石がシンボ ル的な存在となっている。 複雑に石を積んだ滝石組だが、右上の立石が 遠山石であり、狭い庭にあって奥行きを感じさ せる効果を演出している。 写真には写っていないのだが、滝の左は出島 になっており、亀石組や三尊石によって蓬莱山 が構成されている。 |
|
万勝寺庭園 |
(兵庫県南あわじ市南淡町) |
京都栂尾高山寺の名僧明恵上人が開基、と伝 えられる名刹である。 庭園は本堂書院裏の池泉庭園であり、ここで も景観の中心は中央の滝石組と右手前の亀出島 となっている。 亀出島石組の陳腐さに落胆したのだが、中央 の枯滝石組の静謐な迫力がこの沈んだ気分から 救ってくれた。 最奥の遠山石の下方に滝が組まれており、大 きな植栽で見えないが水落石なども意匠されて いる。三段に組まれた滝はなかなかの迫力を示 しており、特に最下部の大きな石は滝添石とも 護岸石とも見える見事な立石である。 江戸中期と思われるが、斜面を利用した枯滝 として傑出している。 淡路島には十数箇所の古庭が保存されている のだが、妙勝寺や洲本城関連の庭園などが未見 である。 |
|
旧大寺伊藤氏邸庭園 |
(兵庫県南あわじ市沼島) |
30年以上も前に、四国の庭園を探訪したこ とがあった。保国寺、阿波国分寺、願勝寺など の圧倒的な造形性に魅了され、以後今日までそ の熱情は継続し増幅を続けている。その旅で、 この沼島の旧大寺伊藤氏邸と神宮寺を訪問して いる。 記憶はかなり薄れたので、写真と当時のメモ に頼るしかない。 山畔に細長い池泉が設けてあり、崩れかけた ような石橋が架かっていた。護岸に見るべき石 組は、ほとんど無かったように思う。 度肝を抜かれたのが写真の滝石組で、岩盤の 斜面を利用して緑泥片岩の立石が随所に立てら れ、斜めに傾いた石も多く見られたのだった。 阿波国分寺の石組にも通じるような迫力と美意 識を、ひしひしと感じていた、と記憶する。 傾斜した立石の魅力は、阿波国分寺や毛越寺 などの石組や、スコットランドのメンヒルなど で知っている。ここではそうした立石の危なげ で緊迫した姿や、ぎりぎりに保たれた均衡の美 しさなどを見ることが出来たのだった。 それにしても荒廃は甚だしく、現在の状況を 知るためにも近日中の再訪を期している。 |
|
神宮寺庭園 |
(兵庫県南あわじ市沼島) |
旧大寺と同じ日に訪ねたままだったが、機会 を得て30年振りにこの寺を訪ねることが出来 た。初めて見た時の慄然と身が震えるような印 象を受けた石組は、妙な改造がされずに生きて いてくれた。感動的な再会だった。 傾斜を利用して組まれた滝石組から護岸を見 た写真だが、扁平な緑泥片岩を傾斜した立石と して多用しているので、阿波国分寺の石組にも 似たとても尖鋭な印象を受けた。 崩落倒壊した石も多く、創建時に復元された 姿を見たいものだが、妙な改修がなされるより は現状を保持していただきたいものである。創 建時の姿に近いのか、或いはかなり崩落してし まっているのか。もし、崩れてしまっているの なら、これだけの扁平な青石をどのように組ん でいたのであろうか。 それでも随所に残る石組の力強さは、感動的 とも言える造形美を示している。 山畔にすえられた枯池の護岸石組や三尊石、 山腹の遠山石などにも優れた感覚が発揮されて いる。 一見豪華だが繊細、という意味から、桃山か ら江戸初期にかけての作庭と推定したい。 |
このページTOPへ |
近畿(京・近江以外)の庭園 |
日本庭園TOPへ |
総合TOPへ 掲示板へ |