双体道祖神紀行 |
上州・その他 |
勘場木道祖神 群馬県長野原町 草津への道の途中にある素朴な双体道祖神 |
双体道祖神と言えば信州が中心なのだが、実 は上州 (群馬) 、甲斐、相模などにも、幾分粗 野ながら魅力的な道祖神が多数分布している。 武蔵以東や西国には、ごく例外的な事例を除 いては存在しない、というのが大きな謎だ。 諏訪信仰との関係を重視した説もあり、その ルーツを推理するのは楽しい。 しかし何より、旅の中にあって、これらの愛 らしくも素朴な神々と出会える喜びは格別であ る。美しい双神への旅をお楽しみください。 |
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長平道祖神 |
(群馬県六合村) |
随分と昔になるが、尻焼温泉で泊まった翌日 に、この道祖神を訪ねた記憶がある。強烈な印 象を受けたにもかかわらず、再訪の機会がなか なか無く、すぐにでも会いに行きたいとずっと 思っていた。その願いがこの春、友人に誘われ た沢渡温泉行きの翌日に叶った。 何十年も前の経験だったので、現在は鉄柵の 中にでも入ってしまったのではないかと心配だ ったが、なんと嬉しいことに道祖神は昔のまま だった。写真は以前撮ったものである。 上州の双体道祖神にはとても個性的な像が多 く、その中でもこの像は私が最も好きなものの 一つである。 ほのぼのとしたユーモラスな意匠であり、素 朴な中に見事な彫像技術を発揮している。朝顔 と桔梗の花かと思われる基礎石の彫りは珍しい が、男女神の怪しげな雰囲気も見事に捕らえて いる。 信州ほどではないが、上州でも徳利と盃の祝 言像が多く、握手だけのものや肩抱きも見られ る。笏や御幣や蓮を持つ事例は幾つか知ってい るが、小道具として扇が用いられている例は上 州では大変珍しい。 土地の親爺が貴族の衣装を纏ったような男神 の、だらしなく恍惚とした表情には、不思議な 友情すら感じてしまう。 |
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中村道祖神 |
(群馬県中之条町) |
この双体道祖神を形態別に分類すれば、最も 一般的に見られる肩抱き握手像ということにな る。中之条地区にはこのような肩抱き握手像が 非常に多いとのことだったが、私はこの愛らし い道祖神を、その様な単純な種類分けで済ませ てよいのだろうかと思った。 彫りが稚拙で頭でっかち、肩を抱く手が異常 に大きくて不自然で、石の隅っこにちまちまと 彫られているのだから、一瞥しただけで見過ご されてしまうのが普通だろう。 私がこの像に惹かれたのは、夫婦和合、豊穣 祈願として造立される道祖神としては珍しい、 恋人同士の雰囲気に満ちていたからだった。強 引かもしれないが私はシャガールの絵を連想し ていた。 現代の目で見れば洒落た図案であり、とても 自由な造形意識が感じられる。だが、江戸時代 末期の作であり、制作当時には余り誉められ作 品ではなかったのかもしれない。 中之条の道祖神だけでもページが作れるほど の密集地だが、その中に有っても出色の像であ る。 |
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馬滑道祖神 |
(群馬県中之条町) |
前出の中村道祖神と同様、中之条町の旧伊参 村に在る。中村より少し山間部へと分け入らね ばならない。 それにしてもこの中之条周辺には、何と魅力 的な神々の多いことであろうか。信州の名作の ような一流の石工の作ではないのだが、素朴な 信仰と愛らしい美意識とが見事に融合した傑作 ばかりである。 幼い兄妹のようにチャーミングなこの双体道 祖神は、寛延2年(1749)の銘が有り、集落の入 口に近い叢の中で、咲き乱れる野菊に囲まれ、 埋もれるようにして立っていた。 姫神が徳利を、男神が盃を持った並立祝言像 なのだが、単なる並立ではなく、姫神が少し体 を斜めにしながら男神に寄り添っているところ が芸の細かいところかもしれない。 豊穣や多産を願い、村や旅人の安全を祈願し た道祖神は、民俗学的には性神の意味が強く、 露骨な表現をしたものも多いが、この神はその 対極に位置する清純な美しさを見せている。 |
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菅田道祖神 |
(群馬県中之条町) |
これも中之条では小生の最も好きな道祖神の 一つで、旧沢田村と呼ばれた里に在る。 中之条から沢渡温泉に向かう街道脇のちょっ と小高い場所に立っている。 昔は判り難い場所だったと記憶しているが、 近年、沢渡温泉へ行った際に見ると、双体道祖 神の所在を示す看板が立っていたので驚いた。 天保12年(1841)の銘が刻まれており、遠く から見ても、全体の姿が実に美しい肩抱き握手 像である。 優しい切れ長の目で見つめられると、こちら までが思わず微笑んでしまいたくなるような和 やかさが感じられる。 厳しい境遇の中に生きる山里の人々が、この 像に一体何を祈ったのだろうか。神々が理想や 希望の姿であったとしたら、微笑みかけること で祈る人々に安らぎを与えることが出来たのだ ろうか。 当節のような御時世にこそ、この道祖神が与 えてくれるような静かな癒しの眼差しが必要な のだと思うのだが、立ち寄る人はいない。 |
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田中道祖神 |
(群馬県東吾妻町) |
この田中という集落は榛名山の遥か西側山麓 に位置しており、倉渕村から群馬原町に抜ける 途中に在る。岩櫃山を吾妻川越しに望める、ま ことに牧歌的な山里である。 集落からちょっとはなれた所から山道を少し 登ると、土手の上に一本の大きな栗の木が見え てくる。写真の道祖神は、その木の根元の斜面 に隠れるようにして立っていた。 像の右に宝暦八年(1758)と銘があり、左に寅 六月吉日、施主一場□と刻まれている。 双神の顔は丸で兄妹の様にあどけないが、そ の手はそれとは全く正反対の、なんとも大胆で 積極的な愛情の表現をしている。 上州には愛情表現をストレートに描いた像が 多く、なかにはそればかりを興味本位に見て歩 く向きもお有りと聞くが、私は余りその手は好 きではない。 その点、この田中の道祖神からは、こんな形 の愛らしくも大胆な双体像を彫り上げ、奉納し た土地の人達の、むしろ情愛豊かな節度や知性 が感じられる。上州で気に入った双体像の中で も、五指のひとつに入るほど気に入っている。 |
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矢久道祖神 |
(群馬県東吾妻町) |
親友のM夫妻と始めた双体道祖神探訪の旅の 第一回目は、上州榛名山の西側、吾妻町の旧坂 上村を流れる温川と今川という二本の川の流域 に点在する山里一帯であった。 温川上流の鳩ノ湯温泉三鳩楼での宿泊も忘 れ得ぬ思い出となっている。昭和53年(1978) 3月のことで、なんと40年以上前のことだ。 この里は温川のかなり上流で、鳩ノ湯の浅間 隠温泉郷からは至近である。 破風の付いた立派な彫りの双体道祖神で、こ の旅では最も印象に残った像の一つである。春 まだ浅い草むらに、数体の馬頭観音像と並んで 立っていた。 頬を軽く寄せ合い、手を握り合って優しく寄 り添う姿は、初めて見る双体道祖神に対する新 鮮な感動を私達に与えたのだった。 それ以後今日まで、上州・信濃・甲斐に分布 する道祖神のほとんどを見て歩くこととなる、 大きなきっかけとなった重要な道祖神である。 明和六年(1769)という銘が見える |
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御園道祖神 |
(群馬県東吾妻町) |
川中温泉に泊まった翌日、吾妻川沿いの榛名 山側を渋川に向かって車を走らせながら、そこ に点在する双体道祖神を探訪した事がある。 その中で最も感動したのが、この東村御園で 見た写真の像だった。 前日の夜に降った雪がまだ残っており、像の 首から下は完全に雪に埋まってしまっていた。 凍りかかった雪を払って、どうやら写真を撮る ことが出来た。 文政十二年(1829)の作で、横長の自然石をく り抜いて双神を浮き彫りにし、菊の紋の付いた 三角の破風を彫り込んである。 珍しいことに、男神が瓢箪徳利を捧げ、姫神 が盃を差し出している。このスタイルは、上州 では何箇所かで見たので、決して間違いではな かったのだろうが、信州などでは余り見かけな かったように思う。 装束も髪型も平安貴族のように優雅で、顔つ きも気品に満ちている。菊の御紋が影響してい るわけではないだろうが、とても道祖神とは思 えぬほど気位の高い美しい像である。 当時は像の背後に古自転車などが積み上げら れていたりしたが、現在はどうなっているのか やや心配である。 |
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箕輪道祖神 |
(群馬県みなかみ市新治) |
上州最北部に位置する新治村には、優れた彫 りの双体道祖神が各集落に残されている。 法師温泉に泊まった翌日、これらの中から名 品を選んで見て歩いた。 旧道に面した布施という宿場から、少し南に 入ったところにこの集落が有る。神社手前の小 高い茂みの中に、この優雅な像が立っていた。 横に延享四年と刻まれており、額が華麗な彫 刻で飾られた破風になっており、洒落た石工の 仕事であったに違いない。 双神は両手で、男神が台付きの盃を、そして 姫神は瓢をそれぞれ持ち、静かに並んで立って いる。牧歌的な風景の中、背後の茂み、周囲に 咲く可憐な野草などに溶け込むようにして、こ の苔むした道祖神はまことに絵になっていた。 道祖神に限らず、石仏や石塔の価値は、その 置かれた場所の環境に相当左右されるだけに、 情緒に満ちたこの辺りの素晴らしい雰囲気を、 いつまでも後世に伝えたいものである。 |
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伽立道祖神 |
(群馬県みなかみ市新治) |
この日、私達は湯宿温泉の共同湯である大湯 の風情を楽しんだ後、そこから北側に点在する 里に伝えられる道祖神を探訪した。 同じ新治村でも、前述の箕輪とは国道を隔て て反対側の、山深い地域である。 伽立の里から少し離れた道沿いの斜面の、鬱 蒼と繁った草むらの中に、妙な双体道祖神が立 っていた。 何故妙かと言うと、第一はその体躯のなんと もひょろ長いことだろう。まるでゴシックの円 柱像みたいに見えるし、いやもっとシュールな 表現がなされているかもしれない。 第二は双神が離れて並立しているのに、互い に抱いた相手の肩に手が彫られていることだ。 様式の名残とはいえ、奇妙に謎めいている。 この一帯は破風付の道祖神が多いが、丁寧に 三層に彫られている。おまけに梅の花の咲いた 枝まで彫って飾るという本格派なのだが、その 割には双神が余りにもとぼけた表情である。 どちらが男神でどちらが姫神なのかが判然と しないが、顔の表情と髪型などを比較してみた 結果、瓢箪を持つ方が男神ではないだろうかと 感じた。 |
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市之瀬道祖神 |
(山梨県身延町下部) |
隠れた道祖神の密集地である甲州で、そのた たずまいに惹かれた像の一つである。本栖湖方 面に下部の市街を抜けた辺りの、牧歌的な風景 の中の街道沿いにポツリと立っていた姿がとて も気に入っている。 像の彫りそのものは大それたものではない。 男神が扇を、姫神が笏を持っており、上部に菱 紋、左に寛政四年の銘の有る珍しい像である。 よそ行きの衣装を身に纏い、慣れない姿格好 でお互い少し離れて記念写真を撮っている老夫 婦の様でもあり、ほのぼのとした叙情に満ちて いる。 願望や欲求がそのまま露骨に表現されたもの より、抑制されデフォルメされた表現の方がよ り深く訴えてくる力を感じることがある。優れ た芸術というものの究極は、この比喩であり抽 象なのだろうと思う。 その意味で双体道祖神という石像は、農民の 豊作や子孫の繁栄への切なる願いが、造形とい う行為を通じて、かくもシュールな形へと昇華 された、見事なる芸術と言うことが出来る。 |
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八王子道祖神 |
(山梨県身延町下部) |
今は身延町と合併したが、元は温泉で知られ た下部町だった。本栖湖から山を下った所から 側の谷間へと入ったあたりが大磯小磯という 白い名前の字である。 その中の八王子という集落の、丸石を積んだ 法面の中段に、数基の馬頭観音などと共にこの 道祖神が祭られていた。 下から見上げなければならないことと、像全 体が余りにも苔むしていたので、その像容がは っきりと見えなかった。 双眼鏡でのぞいて見ると、右の男神は左手に 笏のような物を持ち、右手で綱のようなものを 握っている。 左の姫神は左手で、男神の持つ綱を共に握っ ている。そして最も珍しいのは、右手で小さな 子供を抱いているのである。 写真では苔が邪魔して良く見えないが、姫神 の顔の下の黒くなっている部分が子供の顔であ る。川口謙二氏の写真集で見た記憶があったが 苔むす前のものだったような気がする。 日本にも聖母子像の在ったことに感動したの だが、子連れの道祖神を彫り、里の辻に祭り、 そして一体何を祈念したのだろうか、という疑 問が湧いたのだった。 |
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新倉道祖神 |
(山梨県大月市) |
相模湖から甲州街道を甲府方面に下ると、上 野原市と大月市との境界線を越える。その辺り から北側へと右折し、急峻な斜面を登っていく と、そこが新倉の里である。 里の鎮守である有倉神社の正面鳥居脇に、こ の何とも愛くるしい双体道祖神が立っている。 先ず気が付く特徴は、従来の道祖神と比べる と、余り神様らしくないという印象を受けると いう事だろう。 付けている衣装が江戸町人の着流し風である こと、男神はちょん髷、姫神は島田のような髪 を結っていることなどからであろう。 肩を抱き合い、頬を寄せ、手を握り合ってい るこの二人の恋人像は、従来からの双体道祖神 のイメージからは余りにもかけ離れている。近 代の作かと思ったら、延享四年(1747)卯月吉日 と彫られていて江戸末期とはいえ結構古いので ある。 いくら自由な恋愛などといった概念が薄い時 代の中だったとはいえ、庶民の願いを表現する のに衣冠束帯の平安貴族風では余りにも現実離 れしていたのかもしれない。 ささやかではかない庶民の本心が吐露された 様で、愛らしさが切なさに変わってしまった。 |
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大倉道祖神 |
(静岡県富士宮市) |
富士山の西裾野に在る有名な白糸の滝は、芝 川という流れになって富士川へと合流する。富 士宮の市街から西北に向かい、芝川のほとりに 出た辺りに発電所がある。 そこからさらに細い道を登った所の崖の窪み に、この何とも奇妙で珍しい表現の双体道祖神 が在った。 実はこの像は道祖神愛好家の間ではとても有 名な像だったので、足がむしろ遠のいてしまっ ていたのだったが、初めて実物を見て大いに驚 いてしまった。 どちらが男神なのか姫神なのか、さっぱり見 分けがつかない。 おまけに、現実離れした長さの手が、首の後 ろからぐるっと回っていて、綱のような物を押 さえている。胸を押さえている様にも見える。 もう片方の手は一体どこに向いているのか、 そして足の指まで彫られているのも面白い。 風変わりとしか言いようの無い道祖神ではあ るが、全体像をしみじみと眺めてみると、図像 としては稚拙極まりない中に、子供が描いた絵 のように純粋な、普通の庶民の祈りの姿が浮か んできたのである。 安永九年(1780)の銘が入っていた。 |
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中丸道祖神 |
(静岡県御殿場市) |
富士山の裾野に広がる御殿場市と裾野市は、 知られざる道祖神の宝庫である。ある年の五月 連休に、箱根の宿を根城にして、この一帯の道 祖神や石仏を探訪したことがある。 この写真の道祖神は御殿場市の北端、小山町 との境界に近い山里の小さなお社の境内に、白 椿の横で隠れるようにして立っていた、双体道 祖神の傑作である。 信州や上州で頻繁に見かける肩抱き握手像で もなく、勿論祝言像でもない。姫神が何かを持 っているが、笏なのか繭玉なのか判然としない が雰囲気は出ている。 頭に着けているのが冠なのか頭巾なのかもよ く判らない。信州の山奥で、雪国らしく、防寒 頭巾を着けた道祖神を見たことがあった。だが ここではそうした生活感よりも、寄り添う双神 の仲睦まじさを強く感じさせる。 まさか忍び逢うための頭巾だ、というほどド ラマチックではないとは思うが、なにやら密や かな逢瀬を感じさせるほど、切ないいじらしさ が滲み出ている。どうも俗な鑑賞に走りすぎる ようだ。 |
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宮城野道祖神 |
(神奈川県箱根町) |
神奈川県、つまり昔の相模の国は隠れた道祖 神の分布地帯である。武蔵の国にはほとんど無 いことが謎とされるが、諏訪神社系列の分布と 関係が有る、といった学説を読んだ事がある。 相模西部の箱根が、双体道祖神の密集地帯で あることを知る人は少ないだろう。仙石原・木 賀・大平台・二の平・小涌谷など、広く分布し ているが、宮城野の集落は格別で、ここだけで 五基の双体道祖神を見た。 写真は部落上部の諏訪神社東のもので、やや 摩滅したもう一基と並べて祭られていた。 珍しいことに、右の男神は笏を持っており、 左の姫神は合掌している。冠を戴き、僧のよう な衣服を纏いながら、素朴に並立している姿が 何とも言えず、すっかり気に入ってしまった。 ずんぐりした体躯にしては耳が異様に大きい のだが、理由は解らないし類例も知らない。 この像には大正十二年の銘があり、以外に新 しいのにびっくりしたのだが、箱根には同時期 に制作されたものが多く、特定の石工の集団の 存在が推定できるだろう。 |
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