見附 天竜川図
見附宿は日本橋より六十里(約236キロ)・徒歩六十時間にある二十八番目の宿。
地名は、東海道を京から東へ下っていくとこの地で旅人がはじめて富士山を見ることができたので「みつける」がその由来だと言われている。天竜川の東岸の見附宿は現在の磐田市で、現在も見付の町名が残っている。旧東海道見附の東はずれには「しっぺい太郎」の昔話にも語られている見付天神社があり、現在も“奇祭はだか祭り”が行われている。
見附宿は大きな宿場で、宿場から半里ほど離れた中泉には中泉代官所がおかれており、ここは遠江と三河に点在する十万石にもおよぶ天領を統括するための重要な拠点であった。
さて、砂礫をかんで奔流する天竜川は、ここら辺りで東を大天竜(おおてんりゅう)、西を小天竜(こてんりゅう)という川瀬をはさんで二つの流れとなっていた。広重は、その中洲を画面中央に描き、舟で大天竜を渡って行く旅風俗を左に寄せる構図で、川霧立ち込める早朝の様子を表現している。
あるときの記録では、堤防から堤防までが8町余(約880m)、大天竜が25間(約45m)、小天竜が100間(約180m)あったという。天竜川は、出水の度に現在の天竜市鹿島橋を過ぎる辺りから、その流れを西へ東へと大きく変えたので「暴れ天竜」といわれ多くの人から恐れられていた。
明治になり、金原明善(遠江国長上郡安間村(現浜松市安間町)生まれ(天保3年〜大正12年))は、私財を投じて明治4年より鹿島から掛塚にいたる間の河幅を定めて堤防の整備と改修を行った。これが堤防改良のはじめだといわれている。明治19年からは「治水は治山にあり」と川の上流に杉や桧の植林に着手し、これが天竜美林と呼ばれる日本有数の山になった。これ以降、江戸時代のような洪水による大きな被害がなくなったといわれ、今も小学校の授業で金原明善翁による天竜川治水の偉業が教えられている。
私事になるが、磐田市在住の折りは天竜川へしばしば出かけた。天竜川も、大井川駿岸や遠岸の図にあるように、流れが幾筋にも分かれて広い川原を蛇行していたことを思い出す。二十数年前に、鹿島橋と浜北大橋の中ほどの、本流から枝分かれして流れる分流筋の一つでキチガイじみた入れ掛りで大釣りをしたことが懐かしい。