嶋田 大井川駿岸(駿河の岸辺)
嶋田宿は日本橋より五十二里(約203キロ)・徒歩五十一時間にある二十三番目の宿。
「箱根八里は馬でも越すが越すにこされぬ大井川」と馬子歌にも唄われた大井川は、箱根越えとともに東海道を旅する者にとって二大難所として有名だった。ことに大井川では、少し水嵩が増すと川止めとなり何日も足止めされることもあり、箱根越え以上のものであった。島田宿と金谷宿の間にある大井川は当時の資料によれば川幅が12町(約1.3キロ)もあり、水量も多く架橋を維持するのが困難で、人足による歩行渡り(かちわたり)が古くから行われていた。
広重は、旅人や人足が豆粒のように広い川原に散らばる様子を俯瞰的な構図で描き、その広々とした場景を見事に描き出している。手前と中ほどに分流が流れ、その向こう左上には本流が、広く水量豊かに流れているさまが容易に想像できるように描かれている。
縮小したのと色が飛んでいるのとで良く見えないが、右下隅の分流の上部に土手のようになっているのは、竹で編んだ蛇篭にゴロ石を詰めたものと丸太の木組みで作られた水工である。
島田市には、明治になってから作られた木製の蓬莱橋(現在は橋脚部分はコンクリート)が今も残っており、「木造歩道橋として最長の長さ」(897.4m 語呂合わせ “ヤクナシ” で縁起が良いんだってサ)ということでギネス・ブックにも認定されている。この蓬莱橋は有料で1回50円?で渡れる(30年ほど昔の記憶でした)。実は、今は通行料大人100円、子供10円だそうです。
金谷 大井川遠岸(遠江の岸辺)
金谷宿は日本橋より五十三里(約207キロ)・徒歩五十二時間。
金谷は、川越のみらず小箱根とうたわれた金谷峠や小夜の中山といった難所を西に控えた交通の要所としても賑わいをみせた。大井川は、川幅は広かったが、水深はなかったので歩行渡し(かちわたし)だった。橋を架けなかったのは、技術上の問題ではなく、駿府、江戸の防衛のためといわれている。
広重はここでも金谷宿ではなく、ようやく大井川の広い本流を渡り終え西岸へ着いたところをを描き、広い川原の向こうに金谷宿、その背後に金谷峠や牧の原台地を望む構図にしている。かっての川原がいかに広大であったかが分かる。
背後の黒い異様な山は広重が絵の構図上描き加えたもので実在しない。
現在有名な牧の原の茶園は明治以降に拓かれたものである。
余談であるが、金谷から大井川上流の千頭を通り井川ダムまで大井川鉄道が通っていて、金谷〜千頭間に日に数本SL列車が運行されている。春には車窓から、家山辺りで並木の桜と大井川の景色とが楽しめる。
「本朝食鑑」に「上都関西濃尾の鮎は、魚の鰭骨の軟脆にして肉脂厚膩、故に味勝れりとす。東州の鮎は鰭骨堅硬にして味美ならずと。故に遠の大井(静岡県大井川)相の根府(神奈川県酒匂川?)野の宇都宮(栃木県鬼怒川)武の筑井(神奈川県相模川)魚の肥大なるをもって誇るといへども、然も惜しむらくは骨の堅硬なるおや」と出てくるように、かつては大きな鮎の産地であった。
今は、多くのダムで水を採られてしまい、広重の絵にあるような面影はない。