Last modified: Fri Nov 27 18:17:04 1998
で,またもキッズステーションの話の続き.昨日の夜中に『同級生2』というOVAを放映していてたまたま見たのだが.これがものすごい.絵に描いたような(アニメだから絵に描いてんだけどさ)類型的なキャラクタ(お金持ちのぼんぼんとか筋肉質の主人公の先輩とか太ったおたくとか)ばりばり御都合主義のストーリー,女の子ががんがん好意を示しているのに気がつかない主人公(あまつさえある女の子からもらったマフラーを別な女の子にかけてあげたりするのだ).見ていて悶絶するような作品を久しぶりに見てしまった.こういうのを楽しめる人間がこの世の中にいるのだろうか.
先日の科学者たちの発想を得るため行為を批判する人の話の続き.私の偏見からいえば,科学者への偏見として「日本の科学者達は欧米の科学者たちの理論を紹介しているだけ」というのも多い.まあ確かにオリジナリティあふれる世界レベルで高名な科学者って日本ではそんなに多くはないけども,日本と欧米の科学者の数の違いから考えると割合的にはそんなに変わらないんじゃないだろうか.
この偏見も,やはり古い論理実証主義的科学観からの必然なんだろうと思う.科学者の発想を得るための行為を認めないという視点に立つかぎり,当然科学者はオリジナルな発想を生み出すわけはないのである.そうするとそういう科学者は単に高名な学者の受け売りしかしてない,と思ってしまうのは必然であろう.
このような論理実証主義的発想の際たるものがこれ.
研究というものは私の考える限り,とうぜんあなたもご存じでしょうが,純粋に一つ一つの問題に対して集中して解決できるものです。とか
海外の超一流の研究者たちのカバン持ちや学生や使徒に過ぎない日本の研究者たちにわれわれの国民の税金を使って,さも「自分たちが世界の超一流なのだという生意気な顔をさせる」ために,伝統ある基礎物理学研究所で研究会を開くというようなことはぜひお止めになっていただきたいと心より思います。もしそうしたテーマで,研究会を開きたいのであれば,ぜひ彼等の師である,オリジナルな海外の研究者をお招きになってください。とか.
ところで私のこれまでの文章は,いわゆる新科学哲学的な立場に則ったものであるのは容易にわかると思う.しかしこういう新科学哲学的言辞をもてあそぶ場合には,それらが論理実証主義的な「古い」科学哲学へのカウンターとして出現したことに注意する必要がある.つまりカウンターであるゆえその内容は多少の誇張や極端が存在しているのである.結構世の中にはこのような極端を殊更に取り上げ新科学哲学に賛成/反対(または迎合/反発)するという態度は多い.新科学哲学に迎合する人は,新科学哲学の一派といわれる人々のの著作を金科玉条のように振りかざす.しかしファイアアーベントは『方法への挑戦』の第3版(邦訳の原本の次の版)でこのようなことをいっている(引用の引用だけど).
「それ(引用者注:『方法への挑戦』で述べていること)はその当時の意見に過ぎない。時代は変わったのだ。」例えば迎合する人がファイアアーベンドの思想を引用する場合,上で本人が述べているような時代背景的な側面の考慮ってやつをしているようには見えない.そのような考慮なしにファイアアーベントの思想が現在にそのまま当てはまるかのように引用するのは,元の筆者の主張とはかけ離れているのは明らかだ.そのような引用をすることによって,引用者は引用元の筆者の主張を理解していないことを示しているのだ.
「今は理性により大きなウェイトを置くべきだと思う。」
最近思うのは,このような批判を人は古いスタティックな科学観(=論理実証主義的科学観)に捕らわれてるからそう思うのだろう,ということである.現在市井の人達の素朴な科学に対するイメージは,おそらく論理実証主義的なものだろう.要は科学者は理論を立て実験して論理的に立証する,というもの.しかしこれは知識の正当化の手続きに対してのもので,「じゃあそもそもの理論をどうやって見つけるのか」といういわゆる「発見の論理」にはまったく触れられていないのである(これは論理実証主義を標榜したウィーン学団の姿勢自体がそうであり,彼ら自身も認めている).で,そのような論理実証主義的イメージを持っている人は必然的に「科学者たちは発想を得るためにどうしているか」については知らない,というかそのような必要性自体想像できない.よって発想を得るための活動の一環としての「役に立たないが頭を使うばか話」は「税金の無駄使い」にしか見えないんじゃないだろうか.
ちなみにクーンなどに代表されるいわゆる新科学哲学では,上記のような正当化/発見の二分法や「理論を立て実験して論理的に立証する」という手続きは批判されている.
先日フーコーの言説とマーガレット・ミードのサモア島の話の関連についてかいたが,それについてコメントがある.まあ私はフーコーについては素人なので,これ以上無責任な考察を述べるつもりはない.ただ比較の対象として必ずしも異文化社会を取り上げる必要はなく,昔と今の比較でもよいだろうという点は書いてから気づいた.
このコメントにさらに続けて「何を根拠にして現状を疑えるのか」という点に関してデカルトを上げた考察が続いている.疑った結果の何らかの結論の正当性を保証する根拠として,デカルトは自分自身の中の神,多分今風にいうと理性を挙げている.一方哲学の歴史の中には,同様の根拠として現実からとられたデータを挙げているベーコンなんてのもいるわけだ(ここら辺は哲学の教科書的知識なので,本当にこういう区切りでいいのか判断はできないけどもとりあえず).私自身は特にどちらの根拠が正しいなんていうつもりはない.データからの帰納でしか得られない結論があるのと同様,理性からの演繹からしか得られない知識もあり,一般にそのどちらが優れているかなんてことは決められない.それはそれで良い.
ただ私が気になるのは,実際は理性からの演繹によって得られた結論であるのに,あたかも現実のデータから帰納したかのように詐称した議論が少なからず存在することである(実際のところはこんな簡単に二分できるわけはないが,まあ態度としてそのどちらに重心を置いているか,くらいにとってね).大概の現実のデータから得られた結論は,そのデータが間違っていれば何らかの修正を迫られる(ここら辺はデータの理論負荷性とかデュエム-クワインテーゼとかラカトシュのいう理論の保護帯とか色々面倒な話はあるのだけれども,そういう難しい話まで行かないごく単純なレベル,「事実誤認」程度のレベルの話にここではとどめたい).しかし上記のような詐称した結論の場合,データが間違っていても結論は修正されない.逆にそのようにデータの正確さを問う作業は「些末事」と呼ばれ嫌われるのである.
最近はインターネットの普及のおかげで「社会と技術の関係」についての研究が盛んである.でもって社会についてデータをもとに語るには,当然社会統計資料に触れる必要がある.しかし実は統計資料が何を示しているかを読み取るというのは難しいことなのである(ここら辺はここの「『関係を示すデータがあるじゃないか』という方へ−統計学と科学的方法論の部屋− 」を読むと少しわかるのでは.ただこのページは見出しを<H?>タグでなく全部<FONT>タグで指定しているのが気に入らないが).世間一般ではあまりそのように思われていないようだが,多分文献読解とか数式を扱うのと同じくらい難しいと思う.文献を読むトレーニングをしたことのない人がいきなり文献に注釈をつけたり,数式を扱うトレーニングをしたことのない人がいきなり数式ばりばりの論文を書いたりということはほとんどないのだが,なぜか統計資料が何を示しているかを読み取るトレーニングをしたことのない人が社会統計資料をもとにした研究をばりばり発表することはなぜかよくある.
で,経験からいって,そういう研究者はそのデータの解釈の正当性については反省しない.その解釈の誤りなどを指摘されても上記のように「些末事」で片付けてしまうのである.多分「なぜ研究には実証データがつきものなのか」を理解しないままにデータを持ち出してきているのだろう.乱暴に「理性からの演繹」を文科系の学問に特有のもの,「現実から得られたデータからの帰納」を理科系の学問に特有のものとするならば,それは文科系の理科系コンプレックスを示しているんじゃないだろうか.