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1998年7月

7/31
 あっと言う間に7月も終わるが,梅雨は未だ空けない.

 SSH Extension to Teratermを使ってみる.接続時のダイアログでport番号をsshのportの22に変えることを思いつかずはまる.これでパケット盗聴も大丈夫.

 先日から行っていた実験はひとまず終了.結果はこれから分析だが,さて,どうなるか.

7/29
 客観的な観察を行うにはどうすればいいか? この問の答えとしてまず思いつかれるのは「先入観をすべて捨ててそのもののありのままの姿を見る」というものである.市井の人々だったらばまずこう答えるのではないだろうか.わりと一般的なコンセンサスだと思う.
 これはかなり昔(デカルトくらい)の人達が「人間には神の似姿の理性があり,全ての先入観を捨てそれを十全に発揮させれば真実が分かる」というようなことを言ったのが起源のようだ.エンゲルスあたりも「われわれはこの現実の世界を観念論者のの気まぐれや先入観をもつことなく,それに近づくものには誰にでも,それ自らをあるがままの形で姿を現すものと」(村上陽一郎『新しい科学論』より孫引き)すると言っている.

 しかしながらこの物言いは問題がある.それはこのような考え方が「専門知識」の有用性を否定してしまうような方向に働いてしまうということである.具体例として,陰謀論やら疑似科学に走る人,特にアンチ相対性理論の人の発言を見てみよう.曰く「『物理学者は相対性理論をもうお偉い海外の先生様のありがたい理論なのだから間違っているはずがない』という先入観をもっているのでそのまちがいに気づかない,逆に先入観をもっていない素人の方がその間違いによく気づくのだ」と.これは特に特定の人の特定の文章をひいたものではないが,似たような文言はそこら辺に腐るほどある.

 実際のところ,「専門知識」と「先入観」を区別することは不可能だ.ある知識があって,それが問題解決・現象の説明・予測に役立てば「専門知識」,役に立たなければ「先入観」と呼ばれるというだけのことだからだ.問題を解決するまえに役に立つかどうか,つまり専門知識か先入観か,がわからないとお話にならないのに,問題を解決してからでないとそうかどうかわからないのであれば,これらの区別は意味はない.
 この例として,森鴎外の脚気論争を見てみる(『知の統計学2 ケインズからナイチンゲール,森鴎外まで』1997,福井幸男著,共立出版p.111-133).森鴎外は小説家として有名だが,陸軍軍医をしていたことも有名だ.でもってその当時陸軍では脚気が大流行していた.その原因として,イギリス流臨床医学を身につけた高木兼寛(たかきかねひろ)は栄養の不足・偏りを挙げた.しかし鴎外が身につけているドイツ流医学ではそのような観点は存在しなかった.そのころのドイツでは細菌学が大流行,つまり病は病原菌から起こるという考え方が主流であった.そのようなわけで鴎外も「脚気は脚気菌が起こす病気」と言う立場を取ったのであった.
 もちろん今の知識からいって高木の栄養不足説の方が正しい.しかし当時のドイツではコッホ研究所でのコレラ菌・破傷風菌・結核菌が発見され,それらから生成された血清が病気の治療に絶大な効力を発揮していた.そのような状況では「病は菌から」と考えるのが「専門知識」であっただろう.しかしこの「専門知識」は,結果として脚気の治療・予防には役に立たない「先入観」に過ぎなかったのだ.

 じゃあこういった「先入観」と「専門知識」が区別できない状況では,客観的な観察とやらをする際に捨て去られる「先入観」とは何? そんなわけで専門家,つまり「専門知識」を売りにしている者は,「客観的観察とは先入観をすべて捨ててそのもののありのままの姿を見ること」という意見には賛同することはできない.自分の存在基盤を揺るがしかねないのだ.
 ではその上で現在「客観的観察」とはどのようなものかというと,「自分の先入観を認めたうえでそれを回避しながら観察を行う」と言う方法によるモノになっている.この自分の先入観・その回避するための技術といったものは観察を行うための専門知識である.また専門知識がないと何を観察すべきか決定できないという指摘もある(ハンソンの観察理論負荷性).科学・学問の現場では実際のところ,自分の専門知識からははずれるモノをこそ研究しなければならないのだから,はずれているかどうかを判断するためには専門知識が必要なのだ.
 今でも客観的観察の定義を冒頭のナイーブなものだと考えている学者は多い.そういう人は「私の観察は先入観を捨て去っているので客観的だ」と主張する(あるいはもうちょっと謙遜して).しかし実際のところ最大の先入観,つまり「自分は先入観を捨てている」という先入観,に気づいていないだけなのだ.

7/22
 昨日非常勤講師をしている大学に学生の提出物を取りに行った.大学の帰りで普段着だったのだが,そしたら守衛さんは入れてくれないは事務の人には気がつかれないはだった.学生にして老けてると思ってくれるだろうと考えていたのだが考えが甘かった(笑).

 巷は,サッカー日本代表でもある中田選手がイタリアのペルージャなるチームに移籍という話で持ち切り.このチームは今年下位リーグから昇格するチームでしかも昇格チームの中では一番順位が低かった.と言うことで苦戦が予想されるのだがそういうところにいきなり行って大丈夫なのだろうか.そしてフジが昔(カズがセリエAにいた頃)にやっていた『セリエAダイジェスト』なる番組は復活するのか.目が離せない.

7/21
 先日の認知心理学における反証可能性の話の続き.
 先ほどまで私は,刺激の物理的類似性と視覚探索の成績の関係に関する理論を述べた論文であるDuncan and Humphereys (1989)を読んでいたのだが,その中に,「今まであげてきた『類似性』は,色や形などの属性によって操作したとしても意図したとおりに操作されることは保証しない」という内容の一文があるのだ(p.451).なんとまあ,この論文の中心概念であるこの「類似性」は実験でうまくあつかえるとは限らないと堂々と宣言しているわけだ.じゃあどうやって立証するんだ,この理論は.ちなみにこの論文は視覚探索の分野での中心的な論文の一つである.
 ちなみに日本に認知心理学を普及させた立役者である佐伯胖(1983)は,「認知科学は,科学の中で,『検証可能性』の基準を唯一絶対の基準と定めることを放棄した最初の科学かもしれないのである」(p.23)と述べている.構築したモデルの正しさは,実際に検証されることによって認められるのではなく,直感的なplausibility「もっともらしさ」によって認められるというのである(p.24).
 このような態度・発言を見るに認知心理学はそもそも「反証可能性」とかいう話ではないのだが,それでもやはり心理学の「科学性」は反証可能性とやらに基づいているのだろうか.
7/15
 最近は車で接触したり歯医者に行ったり実験の準備をしたりで忙しい.しかし今から実験を始めて博士論文を今年度中に書けるのだろうか? ちょっと前まではワールドカップで忙しかったし,貧乏暇なし.

 でそのワールドカップはフランスの優勝で幕を閉じた.決勝戦はロナウドの不調,ただこれに尽きる.日本の加茂・岡田前監督もそうだったが,信頼しているフォワードを下げるのはなかなか難しい判断なのだろう,監督にとっては.

7/1
 先日自転車が盗られた話を書いたが,6月20日に無事見つかった.宮城野原陸上競技上の交番の管轄区域で見つかったそうで,ご丁寧にもあちらまで乗っていって乗り捨てたらしい.
 でよくよく見てみると,サドルのビニールが破れていたのが直っている,と言うかサドルが交換されている.何かわからんがちょっと得した気分.だが雨風に一月近くさらされていたため全体的に錆びてみすぼらしくなっている.

 そんなわけで自転車を二台も持つことになってしまったのだが,実は6月末に自動車を手に入れていたりするのだ.この6月末の10日ほどでやたらめったら乗り物持ちになってしまった.


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