美しき獲物たち
〜御神楽時人対小暮十三郎〜



第2章 碧い瞳のエリス

(その2)

「先生!」
 御神楽探偵事務所に入ってくるなり巴はそう叫んだ。
「どうしたんですか、鹿瀬君」
「エリスさんが行方不明、って本当?」
「ああ、そのことですか…。僕のところにも栗山刑事が来ましたよ。ただ…」
「ただ?」
「実は僕どうやって帰ったのかが記憶になくて…。蘭丸君が言うのはエリスさんが事務所
まで僕を連れて来てくれたようなんですが」
「本当? 蘭丸君」
 巴が蘭丸に聞く。
「え、ええ。実は先生ものすごく酔っ払ってて…。そして彼女が事務所を出て帰ったのはボ
クも確認してます」
 蘭丸が言う。
「先生お酒弱いのに無理するから…」
「すみません、ついつい飲みすぎちゃって…。それで、おそらくなんですけど、彼女はそ
こから明石町のアパートメントに戻ったらしいんですが、栗山刑事が言うにはその間に誘
拐されたのではないか、と」
「…ということは…」
「ええ、犯人は彼女が一人になる機会を待って犯行に及んだのかもしれませんね。…とに
かく、今から詳しいことを調べてみましょう」
「はい!」
     *
 鹿瀬巴が御神楽探偵事務所でエリスの失踪について時人たちから話を聞いていたのと同
じ頃。
 帝国ホテルのある一室に二人の男と一人の少女がいた。
 男の一人は年齢が50近い男、もう一人は22、3歳くらいの青年、そして少女は13、
4歳といったところだろうか。
 50近い男の方は今しがた届けられたばかりであろう、夕刊を読んでいた。
…と、
「小暮君」
 その男――森南進造が青年――小暮十三郎に話しかけた。
「何ですか?」
「君は、この事件をどう思うかね?」
 そういうと森南は新聞のある記事を指差す。
 そこには「銀座の人氣カフェの女給が行方不明」という見出しがあり、銀座にある人気
カフェ『ティーゲル』のエリスと言う人気女給が昨日の晩から行方不明になっており、警
察がその行方を追っている、と言うことが書かれてあった。
「エリス…? 名前から言って外国人のようですね」
「ああ、新聞によると独逸人らしい。なんでも彼女が勤めている店に犯人からの予告状が
来て、その予告どおりに連れ去られたらしい」
「…なんだか似てますね。先日の美園さんのお嬢さんが誘拐された事件に」
 そう言いながら小暮はあの時に会った眼鏡をかけた探偵――御神楽時人、とか言う名前
の男の顔を何故か思い浮かべた。
「…もしかしたらあの探偵も…」
「…どうかしたのかね?」
「い、いえ、何でもありません」
「そうか…。それにしても礼乃も気をつけないといけないな」
「わたくしは大丈夫ですわ、お父様」
 そういうと礼乃は屈託のない笑顔を見せた。
「…それにしても…」
「何か気になるのかね?」
「ええ。今回の事件ももしかしたら今までの誘拐事件と同一犯の仕業ではないかと思うん
ですが」
「どういうことだね?」
「あまりにも犯人の手口が似てますからね。ただ、もしこの事件が同一犯人の仕業だとし
たら、犯人の目的が何なのかもよくわからないんですよね…」
「そう言えば御園さんのお嬢さんも含めてだが、今まで誘拐された女性たちの家には脅迫
状と言った類が来てないらしいな。警察から聞いたよ」
「そのようですね。ただ、今回の事件が同一犯による仕業だとしたら、犯人の目的は金と
かそういったものではないかもしれませんね」
「何だって?」
「令嬢を誘拐するならとにかく、カフェの女給なんかさらっても一銭の得にもならないで
しょうが」
「じゃあ、君は犯人の目的が別のところにでもある、と言うのかね?」
「…かもしれませんね。とにかく、僕はこの事件についてちょっと調べてみますよ」
「気を付けたまえ」
「はい」
     *
 すっかり世も更けた午後8時近く。
 一人の男が「カフェ ティーゲル」と書かれたドアを開ける。
 店の中は思ってたより空いていた。
 男――小暮十三郎は適当に席を見つけるとそこに座る。
「いらっしゃいませ」
 一人の女給が小暮の座った席に近づいた。
「麦酒をくれないか?」
「かしこまりました」
 そして小暮は店の中を見回す。
 例の事件があったからか、店内は思っていたより空いており、テエブルに着いている客
もなにやらぼそぼそと話をしている程度だった。

 やがて、
「お待ちどうさま」
 と女給が盆に乗った麦酒とコップを持って小暮のところにやって来た。
「…ちょっといいかな?」
 小暮が女給を呼び止めた。
「何でしょうか?」
「ここに勤めているエリス、という女給について聞きたいんだけど」
「…そのことについては警察の方にも御神楽先生にも話したんですけど」
「いや、僕もこの事件に興味を持っててね。丁度ある人からも調査を頼まれたんだ。だか
ら知っておきたくてね」
 小暮がそう言うとその女給は、
「…そうですか」
 とだけ答えた。それは同意と諦めが同居してるような言い方だった。
「…早速聞きたいんだけどね。僕は新聞で読んだだけなんだけど、その、エリスって女給
は独逸の人だ、って言う話だそうだけど?」
「ええ、エリスさんはもともとは独逸の生まれで何でも欧州大戦(今で言う第一次世界大
戦)が始まる前にここに来たらしいんだけど…」
「独逸ねえ…。それで、その、来日した頃から女給として働いてたのか?」
「たぶんそうだと思いますよ。私はここに勤めるようになってまだ1年くらいだからよく
わからないけど、前にそんなことエリスさんが言ってたし…」
「でも独逸、って言ったら確か欧州大戦の敗戦国だろ?」
「ええ。で、結局帰るに帰れなくなっちゃって、このままウチ働き続けているらしいんで
すよね。まあ、おかげでウチはお客が増えた、って言うから結果的にはよかったかもしれ
ないんだけど。それに、ウチが何とかやっていけるのもエリスさんのおかげだし」
「どういうこと?」
「エリスさんのご両親が貿易商とかで青島に住んでいて、ウチで出してる麦酒はその、エ
リスさんのご両親の会社から輸入してるんですよ」
「じゃあ、その、エリスって女給はお嬢様なんじゃないか」
「そういうことになりますね」
「ところで…」
 と小暮はさっきから気になっていたことを聞こうと口を開いた。
「今日はずいぶんとお客が少ないようだけど」
「…やっぱり例の事件が響いたんでしょうね。うちに来るお客さんのほとんどはエリスさ
ん目当てだし…」
「…まあ、でもそれだけの人気がある、って証拠だろう。それに言い寄ってくる男も多い
んじゃないのか?」
「ええ。でもエリスさん相手にしませんけどね」
「…となると…、犯人の目的はやっぱり彼女本人、と言うことになるのか…」
 そういうと小暮は黙り込んでしまった。
「…あの、私もういいでしょうか?」
 女給が小暮に聞く。
「あ…、どうもありがとう。色々と参考になったよ」
 そして女給が去った後、小暮は店内を見回した。
「…それにしても…、ここは軍人が多いんだな…」
 いつもより客の入りが少ないと女給は言ってたが、いかにも文士風、と言った感じの客
勿論だが意外にもカーキ色の帝国陸軍や白い詰襟の帝国海軍の軍服姿の男が多いのが目に
付いた。
 小暮が今住んでいる米国のロサンゼルスにも行きつけのバーがあるが、そこでもどうい
う訳か軍人が多く集まる店があるが、この店もそういった類の店なのだろうか。

「ありがとうございました〜」
 店員の声に送られて小暮は『ティーゲル』を出た。
 いろいろと話を聞いてはみたのだが、どうやらエリスは行方不明になる晩に店に出てい
たことだけは間違いがなかった。
 となると犯人は帰り道の途中、もしくは明石町にある、という彼女のアパートメントに
戻ってから誘拐されたのだろうか?


 そんなことを考えながら、銀座を何気なく歩いていると、
「ここは…」
 あるビルの前で小暮は足を止めた。
 そのビルにある扉は既に鍵が掛けられており、「本日の營業は終了しました 守山美術」
と言う札がぶら下がっている。
 そしてその上には「守山ビル」という看板が掲げられていたのだ。
「守山ビル…? どこかで聞いたような気がするな…」
 その「どこかで聞いたこと」を思い出すのにそれほど時間は掛からなかった。
「…そう言えばエリス、って女給が行方不明になった日の晩に、御神楽、って探偵を事務
所まで送っていった、って言ってたな。その御神楽、って探偵がここの2階に事務所を持
っていたって店員が言ってたけど、ここがその事務所か…」
 そんなに遠いとは思えない距離だが送ってもらった、と言うことはそれだけ自分でも歩
けないほどに酔っていた、と言うことだろうか?
「そして明石町は確かこの近くのはず…」
 中学(もちろん当時の旧制中学である)を卒業して渡米して以来日本に帰国したのは今
回が初めてだからこの辺に関してもよくはわからないが、それでも明石町がどこにあるか、
くらいは小暮も知っている。
「…となると、エリスを誘拐した犯人はこのへんの事情に詳しいやつと見て間違いないだ
ろうな」
 まだ小暮もあのときの美園綾が誘拐されたときに初めて聞いたことだからまだ詳しくは
わからないが、予告状を送りつけてきたことといい、エリスが一人になってから誘拐した
ことといい、用意周到な犯人であることくらいはわかっているのだが…。

 小暮は一瞬、この事務所の2階に上がって御神楽時人に話を聞いてみようか、とも思っ
た。
 しかし、すぐに思い直した。
 もし彼が自分と同じ事件を追っているのなら、たぶんまた会うかもしれない、と思った
からだ。
     *
「お、小暮君。戻ってきたか」
「お帰りなさい」
 夜10時をとっくに過ぎ、小暮が帝国ホテルの客室に戻ると 森南進造と礼乃がまだ起
きていて、小暮を迎えていた。
「別に寝ててもよかったのに」
「いや、やっぱり君が帰ってこないとどうも安心できなくてな」
「…何か変わったことは?」
「こっちは特になかったが…。君の方はどうなんだ?」
 小暮は自分が調べてきたことに関してかいつまんで話した。
「…ふーん。となると…、犯人はその、エリスと言う女給本人が目的だったと言うことか
ね?」
「はい。そして以前から彼女を狙っていたと思いますね」
「どうしてそう言い切れるのかね?」
「彼女はその『ティーゲル』と言う店で人気女給だったことや、彼女が一人になったとき
を狙って犯人は彼女を誘拐してます。そして『ティーゲル』に送られた予告状から考えて
も十分その可能性は考えられますね」
「うん…」
「そして彼女が誘拐された経緯から考えても、これまでの事件と同一人物である可能性は
高いと思います。その件に関して僕は明日警察に行って聞いてみようかと思うんですが…」
「…よかろう。警察には私の友人が何人かいるから話しておくよ」
「有難うございます」
「…それにしても…」
「どうしたのかね?」
 小暮がまだ何か言い足りなそうな顔をしているのを見て進造が聞いた。
「…犯人の目的が本当にわかりませんね。今まで誘拐した女性の家に脅迫状の類は送って
いないと言うから、もしかしたらその女性そのものを目的に誘拐した、というのもひとつ
の考えなんですが、そうだとしても何の目的があるのか、と…」
「確かにそうかもしれないが…。美薗さんの娘が誘拐された2日経つが、脅迫状の類はま
だ届けられていないそうだ。警察の方でも調べているそうだが、いまだに行方がわからな
いそうだな」
「そうですか…。とにかく、今回の事件はわからないことだらけですね。それだけ犯人も
用意周到にことを進めている、という証明になるかもしれませんけどね。…とにかく、明
日警察の方に行ってみますよ。連絡の方はお願いしますね」
「判っておる」
「それじゃおやすみなさい」
 そして部屋を出ようとしたときだった。
「…そういえば小暮君」
 進造が小暮を呼び止めた。
「何でしょうか?」
「私が帰国している、と言う話を聞いて久御山多聞子爵が会いたいといってきてるんだ」
「久御山…多聞?」
「…もしかして、滋乃さんのお父様ですか?」
 礼乃が言う。
「そうだよ。その久御山さんだ」
「そう言えば滋乃さんが綾さんが誘拐された日にお友達らしい方と一緒に来ていたのをお
見かけしましたが」
「本当か?」
 進造が礼乃に聞いた。
「ええ、ちらっと見ただけでしたけど…」
「そうか…。ま、とにかく明後日久御山多聞子爵の家に遊びに行くことになったんだ。一
緒に来てくれるな?」
「承知いたしました」


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