美しき獲物たち
〜御神楽時人対小暮十三郎〜



第2章 碧い瞳のエリス

(その1)

 帝都・東京のカフェーには二つのタイプがある。
 ひとつは純粋に珈琲や紅茶を楽しませる、現在で言う喫茶店のような店、もうひとつは
酒類も置いて文化人のサロンを目指した店、現在で言うところのスナックのような店であ
る。
 御神楽探偵事務所に勤めている鹿瀬巴が女給として働いているカフェー『山茶花』は言
うまでも無く前者であるが、後者の店も銀座では結構流行っていて、そのうちのひとつ『テ
ィーゲル』もその夜は大勢の客でにぎわっていた。

 その中のあるテエブルにカーキ色の軍服を着た一団が座っていた。
「…それにしても、また起きたとはなあ…」
「ああ。警察や御神楽先生もどうしたらいい+か困ってるらしいな」
 そんな話をしていると、
「…いったい何を話してるんだい?」
 麦酒瓶とコップが乗った盆を持った金髪に碧い眼をした女給が聞いてきた。
「あ、エリスちゃん、悪いね」
「そう言えば、エリスちゃん。例の誘拐事件の話、聞いたことあるかい?」
「ああ、その事件か。最近ウチに来るお客の間でも話題になってるよね。一昨日もあった
んだって?」
 エリスと呼ばれたその女給はテエブルに麦酒瓶やコップを置きながら言う。
「ああ。何でも全身黒ずくめの男でよお。鉄砲の弾丸も跳ね返した、って言うんだ」
「何でも御神楽先生の所のお嬢ちゃんも襲われた、って話だぜ」
 軍服姿の男たちが口々に言う。
「…巴が?」
 エリスが思わず聞き返した。
「…エリスちゃん、御神楽先生のところのお嬢ちゃんと知り合いなのか?」
 エリスの一番近くにいた軍人が言う。
「…うん、前に世話になったことがあるからね」
「ふうん…。でもさ、エリスちゃんも気をつけたほうがいいよ」
「気をつけたほうがいい?」
 エリスが聞き返す。
「そう、エリスちゃんだっていつこういう目にあうかわからないじゃないか」
「そうだな。ここの自慢の女給だもんな」
「それに金髪で碧い眼とくりゃあ、気にならない男はいないってね。オレが誘拐したいく
らいだよ」
「…おいおいおい、もしかしてここの所の誘拐事件の犯人、ってお前じゃないのか?」
「いや、実は…。なんてな!」
 そこにいた将校たちが笑い声を上げる。
「なーにくだらない話してるんだよ!」
 そしてエリスはその将校の背中を思い切りはたいた。
「痛え! エリスちゃん、もっとやさしくやってよ」
    *
 カフェー『ティーゲル』は夕方4時ごろに開店して、夜の12時ごろに閉店することに
なっている。
 その日もエリスはいつも通りに3時過ぎにアパートメントを出ると、自分の職場である
『ティーゲル』に向かった。

「…?」
 店の前に来ると、いつもと様子が違うのにエリスは気がついた。
 入り口の前に男の店員や女給たちが集まってなにやらひそひそと話をしていたのだ。
「…どうしたんだい?」
 エリスが近くにいた同僚の女給に聞いた。
「あ、エリス。来てたの?」
「来てたの…、ってずいぶんなご挨拶だね。いったいどうしたのさ?」
「これ、見てよ」
 そして女給が玄関のドアに貼ってある紙を指差した。
「…どれどれ…」
 そう言いながらエリスはドアの前に来た。
「…これは…」
 ドアの紙に書かれてある文を見てエリスが絶句した。

「明日、貴店自慢の女給、『酒姫エリス』孃を頂きに參ります」

 その紙にはそう書かれていたのだ。
「…誰だい、こんな悪戯をしたのは!」
 エリスはそう叫ぶと乱暴にその紙を剥がした。
「きっと、今世間を騒がせている誘拐事件の予告状よ」
「…なんでそれがウチに来るのよ」
「大体犯人の目的は良家のお嬢様じゃないの?」
「でも今までの事件だって、脅迫状が来てない、って言うじゃない。目的はお金じゃない
のかも…」
 女給たちが口々に言う。が、当のエリスは
「…みんな、心配しなくていいよ」
「心配しなくていい?」
「あたしはそう簡単に誘拐されないよ。それに、こういうことになると心強い味方がいる
から、明日にでも聞いてみるよ」
「心強い味方がいる、って…、心当たりがいるの?」
「ん? ちょっとね」
    *
 翌日の朝早くのことだった。
「巴、いるかい?」
 御神楽探偵事務所のドアが開いてエリスが中に入ってきた。
「あ、エリスさん」
 エリスの姿に気づいた巴が近づいてきた。
「久しぶり。元気でやってるかい?」
「ええ、まあ。エリスさんは?」
「こちらも相変わらずさ。ところで御神楽先生は?」
「ええ、ちょっと用がある、って言って諸星警部のところへ行ってて…」
「そうか、今出かけてるのか。…それより巴、話は聞いたよ。大変だったね」
 エリスが巴に話しかけた。
「大変、って?」
「ほら、何日か前に起きた誘拐事件で正体不明の男に襲われた、って言うじゃないか」
「ああ、その事ね。でも何とか助かったし…」
「それで、ウチに来るお客から聞いたけど…。事件のほうはどうなんだい?」
「ああ、まったく手がかりが無いんですよ」
「手がかりが無い?」
「ええ…」
 そして巴はこれまでに起こっている事件の概要をエリスに話した。
「…ふうん…。あらかじめ予告状が届けられて、その通りに誘拐される、ね…」
「それにあっという間の出来事だし、手口も後に証拠も残さないから、どうしようもなく
て…」
「それにしても、その男が着ている服が弾丸を弾いた、ってのが気になるね…。その、小
暮とか言う男が撃ったモーゼル・ミリタリーってのはあたしも前に見たことがあるけど、
軍で採用するくらいなんだから相当な威力を持っている拳銃なんだ。それほどの拳銃の弾
丸を跳ね返すなんて…」
「…それよりエリスさん。今日は何の用で来られたんですか?」
 千鶴が聞く。
「…ああ、そのことか。実は昨日、店のドアにこんなものが貼られていたんだ」
 そういうとエリスはポケットから昨日『ティーゲル』の店に貼られていた紙を取り出し
た。
 巴がそれを開く。
「…これは…」
「予告状…、ですね」
 後ろからエリスが差し出した紙を覗いていた千鶴が言う。
「いったいいつごろから貼られていたんですの?」
 滋乃が聞く。
「さあ、そこまではよくわからないよ。でも、昨日の2時半ごろに最初に店に来たのが言
うのには、来たときにはもう貼られていた、って言うんだ」
「…じゃあ、2時半より前、って言うことになりますね」
「…うん。だからいったい誰がこんなことをしたのか、誰も判らない、って言うんだ」
「…エリスさん、これ、預かってもいいですか?」
「ああ、あんたたちのお役に立つならね。それに、こんなものがいつまでも店にあったっ
て皆気味悪がるもん」
「わかりました、じゃあ、先生にも話しておきます」
「頼むよ」
    *
「…成程、こんなものが『ティーゲル』に…」
 巴がエリスから預かった紙を見て時人がつぶやいた。
「…今までの事件は家族や財閥といったところの令嬢が誘拐されてましたけど、もしこれ
が本当に犯人のものだとしたら、犯人は対象とする女性の範囲を広げた、という、という
ことになりますね」
「…となると犯人の目的は…」
「うん…。断定は出来かねますが、もしかしたら身代金とかそういうものではなくて、誘
拐した女性そのものが目的なのかもしれませんね。だとしたら、犯人がこれまで身代金と
かそういったものの要求をしてこなかったのも理解できるんですが…。それにしても彼女
までが狙われるとは…」
「それで先生。頼みがあるんですけど…」
    *
 夜8時を回った頃。
『ティーゲル』の扉が開き、一人の男が中に入って来た。
「いらっしゃいませ」
 一人の店員が出迎えた。
「あ。あなたはもしかしてエリスが言ってた御神楽先生ですか?」
 店員が男の顔を見て言う。
「ええ、そうですけど」
「話は聞いてますよ。こちらへどうぞ」
 そして店員は時人をあるテエブルへと招いた。
「先生、一寸待っててください」
 そして店員はその場を離れた。
 何もすることが無いので時人は辺りを見回した。
「…成程。やっぱり違いますね」
 あちらこちらのテエブルでビール片手に文士風の男たちが激論を交わしている光景を見
て時人はそう呟いた。
 時人もこういう仕事だから、情報としては知っていたのだが、あまりこういった店には
入らないから、聞くと見るのとでは大違いだったのだ。
 やがて、
「先生、いらっしゃい」
 エリスが時人の座っているテエブルにやってきた。
「あ、エリスさん。お邪魔してます」
「…巴から話は聞いたよ、御神楽先生。あたしのことが心配で来たんだって?」
 そう言いながらエリスは時人が座っているテエブルに麦酒瓶とコップ、そして肴のソー
セージを置いた。
「ははは…。鹿瀬君が『どうしても心配だから、見張っててくれ』って言うもんで」
「ははは、そうかい。でも安心しな。あたしはそう簡単には誘拐されないよ。それに…」
「それに?」
「先生のような力強い味方がいるんだ。相手だってそう簡単に手が出せないよ」
「ははは、そう言ってくれると嬉しいです」
「それより先生、飲みなよ」
 そしてエリスがコップに麦酒を注ぐ。
   *
 夜12時近く。
 結局、その日は店には怪しい人物は現れずに閉店の時間を迎えた。
 そのテエブルの一角に時人が座っていた。
「先生、そろそろ店じまいだよ」
 エリスが時人に話しかける。
「…はあ、酔っ払っちゃいました」
 そう言う時人の顔は赤かった。
「情けないねえ…。麦酒瓶1本だけでこんなに酔っちゃうなんて。先生、随分酒に弱いん
だね」
 それを見てエリスが言う。確かにテエブルの上にはビール瓶が1本しか乗っていなかっ
たのだ。
「…先生、立てるかい?」
「え、だ、大丈夫です」
 そういいながら時人が立ち上がる。が、
「あっ…」
 足元がふらつき、倒れかけてしまった。慌ててエリスが支える。
「先生、無理しなくていいよ。送ってあげるから」
     *
 既に夜の1時近いというのに御神楽探偵事務所の明かりは煌々とついていた。
 事務所の中はがらんとしていて、一人の少年が真夜中だと言うのに応接用のソファに座
っていた。

 不意に探偵事務所のドアをノックする音が聞こえてきた。
「…はーい、今行きます!」
 少年がドアを開ける。
「マル君、久しぶりだね」
「あ、エリスさん」
 マル君と呼ばれた少年――蘭丸ことランドルフ丸山がエリスの姿を見て言った。
「…巴たちは?」
「巴さんたちならとっくに帰って、今はボクしかいませんけど…。何の用ですか?」
「先生、連れてきたよ」
「え?」
「…蘭丸君、ただいま」
 見ると時人は酔っ払っていて 、エリスが肩を貸していなければその場に倒れるのでは
ないか、と思えるくらい立っているのもやっとという状態だった。
「先生、そんなに飲んだんですか?」
 蘭丸が聞く。彼も巴から時人が『ティーゲル』に言っていることは知ってはいたのだが。
「まさか。麦酒瓶1本分飲んだだけだよ」
「先生、お酒に弱いのに無理するから…。エリスさん、ごめんなさい。先生がご迷惑かけ
て」
「いいんだよ、マル君が謝らなくても」
「後はボクがやっておきますから。ありがとうございました」
「悪いね。じゃ、頼むよ」
 そう言うとエリスは蘭丸に時人を引き渡した。
「じゃ、お休み。マル君」
「お休みなさい」
 そしてエリスは階段を降りていった。
「先生、しっかりしてください」
 そして蘭丸は時人を3階に連れて行った。
     *
 エリスのアパートメントは明石町にある。
 銀座に程近い明石町はかつて外国人居留地が置かれていたところで、その名残か、大正
の今でも外国人が多く住んでいるところである。独逸人のエリスにとっても住み心地がい
いところだろう。

 エリスは自分の部屋に戻るとドアを閉める。
 そして電気をつけようとしたときだった。
「…?」
 部屋の中に誰かがいる気配がしたのだ。
 暗闇の中で眼を凝らす。
 窓際に誰かがいた。
「…あんた、誰だい?」
 エリスは窓辺に向かって話しかける。
 しかし、その人物は何も言わずにエリスに一歩一歩近づいてくる。
「ひ…、人を呼ぶよ!」
 エリスが言うが、その人物は何も言わずに近づいてくる。
 エリスが叫ぼうとしたその瞬間、その人物の拳がエリスの鳩尾を殴りつけていた。
    *
「ありがとうございました〜」
 カフェー『山茶花』。巴が客を送り出した。
 巴は御神楽探偵事務所で時人の助手をしているが、実はもうひとつ『山茶花』での女給、
と言うもうひとつの仕事をしている。
 もともと彼女は御神楽探偵事務所で助手をする前からこうして『山茶花』で女給として
働いており、ある事件がきっかけで御神楽時人と知り合い、探偵事務所で助手をするよう
になったのだ。
 とはいえ、久御山多聞子爵の娘であり、ほとんど趣味で助手をやっている滋乃と違い、
彼女が探偵事務所でもらう給金ではとてもではないが彼女の生活費や、長野にいる親への
仕送りが出来ないこともあり、こうして『山茶花』で女給の仕事も続けている、と言うわ
けである。

『山茶花』のドアが開き、一人の男が入ってきた。
「いらっしゃ…、何だ、クリさんか」
 出迎えた巴が言う。そう、その男は栗山刑事だったのだ。
 ちなみにこの栗山刑事、時々捜査をサボっては『山茶花』に来ることがあるのだ。
「どうしたの、クリさん。またサボり?」
「おいおい、いくらオレでもそうサボってばっかいるわけじゃねえぜ。…一昨日『ティー
ゲル』のエリスって女給が探偵事務所に来たそうじゃないか」
「うん、来たわよ。それがどうしたの?」
「その後、どこに行ったのか知らないか?」
「どこに行った、って…。お店のほうには出てたんでしょ? 先生が言ってたもん」
「ああ、それは先生からも聞いたよ。何でも彼女を見張っててくれ、って言ったんだって?」
「確かにそうは言ったけど…。大体エリスさんがどうしたの?」
「それがな、彼女が昨日から行方不明になってる、って言うんだ」
「えっ、どういうこと?」
「うん。よっぽどのことが無い限り店を休むことが無い彼女が昨日珍しく店を休んだ、っ
て言うんだ」
「それで?」
「うん、それで何の連絡も無かったそうだから、心配になった店の女給が彼女のアパート
メントに行ったところ、部屋には誰もいなかったらしい。管理人に聞いてみても、彼女が
どこにいるのかわからない、って言うんだ」
「なんですって?」
「で、いろいろと調べてみたんだが…。一昨日の夜に店に出ていたことは『ティーゲル』
の店員や先生の証言から明らかになっている。そして、店が閉まったのが12時ちょっと
過ぎ。何でも先生が酔っ払っていたとかで、彼女が事務所に先生を送り届けた、というこ
とは蘭丸が証言してる」
「蘭丸君が?」
「ああ。それで彼女が事務所の前を出たのが午前1時近くだ。…そこから先の足取りがま
ったくわかってないんだ。アパートメントのほうにも聞いてみたんだが、生憎と時間が時
間だけに彼女が戻って来たのかもよくわからないんだ。管理人もいつもの時間になっても
彼女が出かけないから、女給たちが来るまで風邪でも引いて部屋で寝ているのか、と思っ
たらしい」
「じゃあ、クリさん…」
「ああ。事務所を出てから女給たちが来るまでの間に何かがあったんだ。諸星警部は今『テ
ィーゲル』で事情を聞いているから、オレもこれから事務所に戻って先生に話を聞こうと
思ってるんだ。一緒に行くかい?」
「…うん。マスター、探偵事務所のほうに行ってくるね!」
 巴がカウンターに話しかけると、マスターが頷いた。
 そして巴は大急ぎで着替えを済ませると、探偵事務所のほうに走っていった。


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