だってその言葉の向こうには『待ってた』っていう気持ちや、無事な帰りを喜ぶ思いがある。
自分の帰りを待ってくれる存在がそこに居る。
それは『そこ』に己の帰る場所があるという事で。
そこが自分にとっての『帰る場所』なんだと認識出来る事は酷く幸せな事じゃないだろうか。
だから俺は『おかえり』という言葉が大好きだ。
両親が田舎暮らしをしたいとこの家を夫婦揃って出て行ってからはその言葉を聞く事も無くなって、だからそれに合わせて『ただいま』なんて言葉も使わなくなって久しい。
それが当たり前の日常になっていた俺の毎日に不意に舞い込んできた存在。
本来なら俺の目の前に居る事さえありえない男。
奥州筆頭でありこの世界とは別の時間を生きる者――俺が両親以外に初めて情を寄せた存在――それが隻眼の誇り高き竜、伊達政宗だった。
Wandering of the dragon 18
「ただいまー。」
いつものように仕事を終えて家へと帰り着いた俺は、玄関の扉を開けると、いつの頃からか再び使うようになり始めたこの言葉を家の奥へと向けた。
そういえば最初の頃は家に他に人が居るという違和感や戸惑い、そして出迎えられるこっ恥ずかしさに、しょっちゅう赤面してたっけ。
それが今じゃどうだ?
まるで以前からそうしてたかのように違和感なくこの言葉を紡いでいる。
いやはや我ながら変われば変わるもんだ――そう過去の自分を思い起こしつつ苦笑交じりに靴を脱いだ俺は、本来ならすぐに掛けられる筈の声がいつになっても聞こえてこない事に気付いて微かに眉を寄せた。
普段なら俺の帰宅を告げる声に反応してリビングなり和室なりから政宗が顔を覗かせて、あの誰の目から見ても男前な相好を緩めてみせるのだが。
今日は珍しく何の反応も返って来ない。
(あれ?そういや以前もこんな事無かったか?)
ドクリ――心臓が跳ね上がるのを感じながら奥の方に視線を向ければ、廊下の奥に見えるリビングから微かに漏れる光。
その微かな光に、俺はホッと胸を撫で下ろす。
リビングの方からは人の気配は感じられないけれど、それでも電気が点いてるって事は、政宗は少なくとも少し前まではそこに居た…って事だ。
暗くなって電気を点けなければならない状態になって電気を点けたからこそ、こうして家の中に灯りが灯っている筈で。
そうでなけりゃ一体誰がこの家の電気を点けるっていうんだ。
となると、以前のように体調不良で長い時間ぶっ倒れて動けなくなっている…とかいう事態は考えにくい。
まぁ――元の世界に戻ってしまった……という可能性については否定しきれないけど。
でも少なくとも俺が会社を出る前に送ったメールにはきちんと反応があったし、そしてそのメールの反応もいつもと何ら変わる所の無いものだった。
つまり今現在の状況はともかく、最低でもその時間までは政宗は何事も無くここに存在していたって事になる。
そう、だから政宗の身に何かが起こったなんて事…………ある筈ないんだ。
大丈夫だと頭で思いつつも、それでも気配のない静かな家の様子に、湧き上がってくる僅かな不安を必死に抑え込みながらリビングのドアを開けると、視線の先に政宗お気に入りのソファが映る。
庭が良く見える位置にあるそのソファで本を読むのが最近の政宗のお気に入りらしく、時折そこでうたた寝している姿を見る事もある位だ。
そのソファの上に、読みかけの状態で伏せられたハードカバーの本。
「………ったく!紙が折れるから止めろって言ってんのに……。」
明らかに少し前までここに居ました――といった感じの様子に、俺は悪態をつきながらも小さく溜息を漏らす。
ほら、やっぱり政宗は居たじゃないか……少し前までは。
でも………何故か今はここにその姿はない。
居る筈なのに―――。
いつものように俺に「おかえり」と笑みを向けてくれる筈なのに。
でもその笑顔も、耳に心地よい低い声も、差し出される暖かな手も――ここには無い。
「どこ……行ったんだよ……政宗…………?」
もしかして本当に元の世界に戻ってしまったんだろうか?
急に俺の前に現れたくらいだ。
突然何かのきっかけで元の世界に戻れないとも限らない。
それは勿論政宗にとっては何よりも喜ばしい事なんだろうけれど。
でも――何の言葉も何の挨拶も無しになんて………そんなのはいくら何でもないだろ……。
グルグルしたまま手にしていたバッグをソファに放り投げて、俺はまるで夢遊病者のような足取りでフラフラと和室に足を向ける。
そうだ――政宗が俺の前に現れた時に身に着けていた鎧や兜…それに六爪が、政宗が使っている和室の床の間に置いてあるんだ。
もしそれが無くなっていたら――。
きっとそれらが政宗の所在の有無を示してくれる。
俺はどこか重い足を引きずりながら、和室の襖を開いた。
「………………ある………六爪も…鎧も……。」
いつもと何も変わらない和室。
既に布団も敷かれていて、少しも普段と変わらないその様子に、俺は張りつめていた肩の力を抜くと大きく胸を撫で下ろす。
良かった………政宗はまだ『ここ』に居る。
少なくとも元の世界に戻った訳じゃない。
俺の前から消えてしまったんじゃないんだ。
その現実に、俺はパタリ――と目の前の政宗の布団の上に倒れ込んだ。
(―――政宗の……匂いがする……。)
本当はそんな事は無い筈なのに。
でも何故かそんな気がしてならなかった。
干したばかりであろうシーツからは柔軟剤の柔らかな香りがするだけだし、ふかふかの布団からも太陽の匂いがするだけ。
どこにも政宗の気配は無い筈なのに、でもこの暖かさと空気の中には、政宗から感じられるあの心地よさと同じ感覚と柔らかな温もりが――政宗の匂いがするような気がしてならなかった。
「政宗………。」
呟いた言葉は目の前の布団に吸い込まれていく。
なぁ――政宗?
俺、やっぱりお前に『おかえり』って言って欲しいよ。
一緒に笑って、一緒に飯食って、沢山話していたい。
酒飲んで、買い物行って、一緒にバカやって。
俺も働いてるから一日中一緒にって訳にはいかないけど、お前と同じ時の中で生きていたいんだ。
お前が居ない世界は………もう俺の世界じゃないんだよ…政宗。
包まれるような熱を感じながら目を伏せると、真っ白な闇が静かに俺の中に広がっていく。
そのどこか暖かな闇の中へ手を伸ばすと、俺は逆らう事無くその意識を手放した。
「ん………ぁ……?」
あれからどれくらいの時間が経ったのか。
俺は、ふと暖かな何かを感じて沈み込んでいた意識を現実に引き戻した。
……………あれ?俺………………………………。
やっべ!政宗の布団の上でアレコレと思考の海に沈んでいたら、いつの間にか寝ちまってたらしい。
おいおいおい!いくらあの時かなりグルグルしてたからって、この状況はちょっとばかり情けなくないか自分?!
だって俺の今の状況って、親の帰りを待っていて待ちくたびれた挙げ句親の布団で寝てしまった子供か、遠く離れた恋人を想って相手の服を手に泣き疲れて眠っちまう女の子――みたいじゃねぇか!
んで、その対象が政宗って…!
ヤバイ!何つーか恥ずかしずぎる!!!!
寝た事で少しばかりスッキリした頭で冷静に自分の行動を振り返ってみれば、いくら突然の事で動揺してたとはいえ、かなり恥ずかしい行動をしてしまったという自覚がある。
そのあまりといえばあまりな自分の行動に赤面しつつ、慌てて身を起こそうとした――その時だった。
「何だ?もうお目覚めか?Sleeping Beauty?」
聞きなれた低い声が不意に耳元で響いて、俺は瞬間的にビクリ――と大きく身体を震わせる。
「え………?」
まるで俺を見下ろすように降ってくる、どこか楽しげな声。
間違う訳がない。
政宗の――俺が先刻まで聞きたいと願っていたあの声が俺のすぐ傍から聞こえてきて、俺は思わず目を見開いた。
だって俺、いつの間にか政宗の腕の中に抱き枕よろしく抱え込まれてる状況なんですが?
いやいやいや!それ以前に何なんだSleeping Beautyって?!
誰が眠れる森の美女だ?!
俺か?!俺の事なのかッ?!
「おいおい、何呆けてやがんだ?」
「………………………政宗?」
「Yes!何だその反応は?」
「政宗?…………お前、どこ行ってたんだよ?」
「An?どうした?」
どこか問い詰めるような感じになってしまった俺の言葉に、政宗が訝しげな視線を向けてくる。
それに気付いて、俺はハタ――と我に返った。
「あ、いや………悪ィ。何でもねぇ……。」
「何でもねぇって事ぁねーだろ。何かあったからこうして俺んとこに潜り込んでたんだろーが?」
「……………。」
「ま、言いたくねぇんなら無理には聞かねぇがな。」
アンタが話したくなった時に話してくれりゃあいい――そう言って政宗は僅かに目元を綻ばせる。
う゛…ッ?!な、何だよ!何でそんな表情すんだ?!
これじゃあまるで、俺の方が聞き分けのない駄々っ子みたいじゃねぇか。
「………帰ってきたら政宗が何処にもいねーから………その………。」
「俺の姿が見えなくて寂しかった…ってか?」
「う゛…ぐ…ッ!」
「Ha!!図星みてぇだな?」
「~~~~~~~ッ!!」
耐えられないというようにくつくつと喉を鳴らす政宗。
そのからかいを帯びた言葉に、俺は返す言葉が見つからない。
くっそー!余裕綽々に笑いやがってぇぇぇ~~!
でも―――
どんなにからかわれたって笑われたって、それが事実だから何も言えない。
政宗の姿が無くて動揺したのも、こうして傍に居る事が分かってホッとしているのも事実なんだから。
「……………………悪かったな…図星で。」
「?」
俺の呟きに政宗の隻眼が見開かれる。
何だよ?!その信じられないモン見るような目は?!
俺が素直に答えるのがそんなに驚きか?!
た、確かにこっ恥ずかしいけど、俺だってデレる時くらいあるっつーの!
「仕方ねぇだろ………家に帰ったら『ただいま』を言うのが……もう習慣づいちまったんだから……。」
そして政宗の『おかえり』という言葉を聞く事も。
「Ah………それは……。」
「ははっ!笑っちまうよな?俺、お前の『おかえり』って言葉聞くのが当然みたいに思っててさ。お前が………帰っちまうって事忘れかけてて……。」
だから、政宗が居ない事に激しく動揺してしまっていた。
帰れたんじゃないかって――そう喜んでやる事も出来ずに。
それどころか姿が見えなかった事を、そんな資格も無いのに問い詰めようとまでしてしまった。
「…………政宗の『おかえり』って言葉を聞けないだけで何かすげー不安になったっつーか………。」
「Ah…少し前にはす向かいの奥方から連絡があってな。筍が手に入ったから取りに来いと言われて分けてもらいに行ってたんだよ。まさかその間にが戻ってるとは思わなくてな……悪かった。」
「別に…ッ!………………政宗が悪い訳じゃねーだろ……。」
これは俺自身の問題。
俺の感情の問題なんだから、政宗がそれに申し訳なさを感じる必要はどこにもないんだ。
なのに……何でお前はそんな風に言ってくれんだよ?!
どうして………………そんなに俺が喜ぶ言葉をくれるんだ?
そこは普通『そんな事お前に言われる筋合いねぇ!』ってウザがる所だろ?!
何で――そうやってこんな情けねぇ俺をそのまま受け入れてくれるんだ政宗?
「…………おいおい?何泣きそうな顔してんだ?」
「してねぇ。」
「してんだろ?」
「してねぇ。」
「してる。」
「してねぇって言ってんだろ。」
「Ha!強情なPuppyだ。ま、そんな所もアンタらしくて嫌いじゃないがな。」
ニッ――と笑うと政宗は俺の額を軽く弾く。
デコピンというにはかなり手加減されたそれは、ヘタレな俺を気遣ってのもの。
不景気な表情を晒す俺を慰めるためのもの。
そう分かるから、俺は益々どうして良いのか分からなくなる。
「ったく………こーゆーのを『目は口ほどにものを言う』って言うんだぜ?」
アンタは忍にゃなれねぇな――そう言って微かに苦笑すると、政宗は俺の顔を自分の肩に押し付ける。
「政宗……??」
「必死に堪えてますって顔する位なら素直に甘えとけ。」
触れている政宗の身体を通して伝わってくるその言葉は酷く優しく柔らかく、そして暖かいもので。
やっぱり俺は『ここ』が――この温もりが欲しくて堪らないのだと自覚する。
政宗が俺に向けてくれるこの暖かな眼差しを、与えてくれる暖かさを、手放したくはないんだ。
まるで宥めるかのように俺の髪を撫でていく政宗の手の感触を感じながら。
俺は、すん――と一つ鼻を鳴らすと、まるで仔犬の様に政宗の肩口にその鼻面を擦りつける。
言うなら言えばいい!Puppyだろーが何だろーが今は構うもんか!
本当に必要なものがあるなら、恥も男のプライドもかなぐり捨てて手を伸ばすしかないんだから。
「Ah…そうだ……?」
「ん?」
「言い忘れてたな……おかえり…。」
そういって政宗は俺の前髪を掻き揚げると、額にそっと唇を落とす。
政宗お得意の南蛮語ではないストレートなその言葉に。
俺は自然と笑みが零れてしまう。
ああ…やっぱり俺、政宗に『おかえり』って言ってもらえるのがすげー嬉しい。
政宗、お前の言葉はまるで魔法みたいだ。
たった一言なのに、他の誰の言葉を尽くした美辞麗句よりも俺を幸せな気分にさせてしまうんだ。
「………………………ただいま……政宗。」
呟いた言葉は俺を引き寄せた政宗の胸元に吸い込まれて消えていった。