Wandering of the dragon 15
それは金曜日の夜の事だった。
いつものように仕事を終えて「これから帰る」と家で待つ政宗に帰宅する旨のメールを送ってから会社を出た俺は、珍しく反応の返らない携帯に僅かばかりの不安を感じていた。
普段なら、そう遅くない内に何かしらの返信が返ってくるのに、最寄駅に着く頃になっても何の音沙汰も無いなんて、政宗に携帯を持たせてからは初めての事だ。
別に直接電話を掛けてみればいいだけの事なのだが、どこかに出掛けていたり何かしら反応出来ない理由があるのかもしれないとも思うと、ちょっとメールが返ってこない位でそこまでするのもどうかという気になって、俺は結局そのままモヤモヤとした不安を抱えながら家への道を急いだ。
だって何か情けないじゃないか。
5分経っても彼氏からの返信が無いと不安になる――なんていう女の子じゃあるまいし。
同居人――それも同じ男からのメール返信がすぐ返って来ないくらいで右往左往してわざわざ電話するなんて。
それって俺が少なからず政宗に依存しつつある…って事だろ?
いい歳をした男がそんなんって…どうなのよ?みたいな?
俺は自然と早くなっている己の歩行速度に内心で苦笑すると手にしていた携帯をポケットに突っ込んだ。
「ただいまー!政宗ー?」
いつもより妙に長く感じる通勤路を早足で駆け抜けて。
家に着いて鍵を開け玄関に足を踏み入れた俺は、その場で一瞬凍りつく。
おいおいおい!何なんだよこれは?!
玄関のドアを開けた瞬間俺の目に飛び込んできたのは、どこにも灯りの灯っていない真っ暗な廊下だった。
いくら夜とはいえ、政宗が居る以上どこかしらに電気が点いている筈なのに、廊下はおろかリビングや和室にすら電気は灯っていない。
完全なる暗闇の世界。
まるで誰も居ない家に足を踏み入れたかのようなその感覚に、俺の背中をゾクリとした震えが走った。
こんな風景、少し前まで当たり前のものだった筈なのに。
誰も居ない真っ暗な家に帰宅するのなんて慣れっこだった筈なのに。
でも、今の俺にはこの光景はとてつもなく寂しく重苦しいものに感じられてならなかった。
だって仕方ないじゃないか。
政宗が俺の前に現れてから、俺の『世界』にはこんな光景存在しなかったんだから。
毎日家には暖かな灯りが灯り、必ずそこには政宗の姿があって。
そしてあの暖かな瞳がいつも俺を迎えてくれていたんだ。
なのに――
まるで今のこれは政宗と生活を始める前の状態じゃないか。
「まさか――政宗……元の世界に戻ったのか……?」
メールにも反応しない、帰っても家には一つの明かりも無いとなれば、もしかして――
そこまで考えて、再び俺の身体を震えが走る。
いや!まだ政宗が居なくなったとは限らないじゃないか。
もしかしたらちょっと買い物にでも行っているのかもしれない。
うっかり携帯を持たずに出たとしてもおかしくない。
俺は膨れ上がっていく不安を振り払うようにブンブンと勢いよく首を振ると、玄関の鍵を閉めてリビングへと歩き始めた。
リビングのドアを開けると、カーテンの開いたままのドアから僅かな月明かりが差し込んでいる。
その薄暗闇の中、電気をつけようと壁に手を伸ばした俺の手がピタリと止まった。
「政宗!!」
電気も点けずカーテンも開け放たれたままのリビングのソファに、ぐったりとした様子で身を沈める政宗の姿。
「おい!どうしたんだよ政宗ッ?!」
「―――あ゛ー………………?」
目を閉じていた政宗が、気怠げにゆっくりと目を開ける。
俺は慌ててリビングのカーテンを引いて電気を点けると、辛そうな様子で起き上がろうとする政宗の顔を覗き込んだ。
浴びる程酒を飲んでもあまり変化の無い政宗の顔が、信じられない程に赤くなっている。
眉間には苦しげに皺が寄り、額や首筋には玉のような汗が浮き、漏れる呼吸は酷く荒い。
こんな政宗の姿、初めて目にする。
「Ah…welcome back(おかえり)……。」
「ただいま…って!そうじゃねぇだろ!!」
「悪ィな……夕餉……出来て………ねぇ………。」
「バカ!何言ってんだよ?!そんな事よりどうしたんだよお前?!」
真っ赤な顔で起き上がる事すら辛そうなその様子に、俺は慌てて政宗をソファに横たえる。
触れた政宗の身体は燃えるように熱く、零れる息も通常ではありえない程の熱を帯びていて、俺はそのあまりの異常さに大きく目を見開く。
何なんだこの信じられないような熱さは?!
「何だか…妙に身体が重くて……な。」
「政宗!お前熱出てんじゃねーか!!」
「あー……みたいだな。」
話すことさえ億劫だといった様子の政宗に、俺は急いで体温計を取りに和室へと走る。
救急箱の中から電子体温計を取り出し政宗の元に戻ると、俺は汗で湿った政宗のシャツのボタンを外しにかかった。
「何だ…随分と……積極的じゃ…ねぇか……。」
苦しげに眉を寄せつつも、そう言ってゆるりと口の端を持ち上げてみせる政宗。
そんな政宗を軽く睨んで体温計を政宗の脇に差し込む。
本当に何て熱さだ。
ハッキリとした数値が出ていなくとも、高熱が出ている事は火を見るより明らかだ。
俺は力なくダラリと垂れ下がりそうな政宗の今は力ない腕を固定してやりながら、反対の手で汗で額に張り付いた政宗の前髪をそっと掻き揚げた。
暫くして電子体温計のピピっという音が静かな室内に小さく響く。
「39.1℃…!」
「何だ…?」
「ああ、体温測定って初めてだったか?こいつは政宗の身体がどれだけ熱で熱くなってるかってのを具体的な数値にしてくれるやつだよ。」
「で?……どうなんだ?」
「やっぱりかなり高熱だな。もしかしてインフルエンザか?」
そういや今朝俺が家を出る時も、どこか気怠そうな感じだったと思い出す。
あの時はまさか体調が悪いとは思いもしなかったけど。
しかし今朝の段階で既に何かしらの症状が出ていたとしても、それがたった半日たらずでこのありさまって事は相当進行が早いんじゃないだろうか。
突然の急激な高熱ってのはインフルエンザの特徴的な症状の一つだ。
もしかしたらこの高熱はインフルエンザ感染によるものかもしれない。
「政宗?身体の節々が痛かったりするか?」
「いや……身体は重いがな。」
「他には?何か症状ねぇか?」
「そうだな……寒ィ…くらいだ。」
悪寒に倦怠感、それに急激な発熱――それも高熱とくれば益々インフルエンザ感染が疑わしくなってくる。
関節痛や嘔吐、下痢といった症状が無い事が唯一の救いだが、これだっていつどう変わるか分からない。
俺は壁に掛かった時計を見上げて小さく舌打ちした。
時計の針は19時半過ぎをさしていて、既に病院の診療時間外である事を示している。
くそッ!何でもう少し早く帰って来なかったんだ俺って奴は!
「仕方ねぇ。とにかくもう暫く様子を見て、酷いようだったら夜間救急に行くなり救急車呼ぶなりするしかねぇか。」
こうなってしまった以上は仕方ない。
まずは政宗をきちんと布団で休ませてやる事が何より先決だ。
俺は急いで和室に駆け込むと政宗の布団を敷いてセラミックヒーターと加湿器のスイッチを入れた。
エアコンをつけようかとも思ったが、空気が乾燥しやすいエアコンよりセラミックヒーターの方が弱った体には優しいんじゃないかなーなんて思った末の選択だ。
インフルエンザ対策では湿度ってのは重要なファクターの一つだしな。
部屋の準備を整え終えた俺が次に手を伸ばしたのは救急箱の傍に無造作に置かれていた50枚入りの使い捨てマスク。
もし政宗がインフルエンザだったら、こんなん今更かもしれないが、それでもやらないよりは少しはマシだろう。
俺は箱から一枚マスクを取り出してつけると、急いで政宗のパジャマがわりになっている浴衣を持ってリビングに戻った。
「政宗、辛いだろうけど着替えられるか?汗かいたままじゃ身体によくねぇからさ。」
「Ok…分かった。」
心底辛そうに身体を起こす政宗を支えて起こすと、ハァ――と大きな溜息が漏れる。
その姿は本当に辛そうだ。
いつもは生気溢れる政宗の隻眼が、重そうに半開きになっているのを見れば、その身に起こっている辛さは想像に難くない。
俺はのそりのそりと腕を動かし始めた政宗の全身に浮かぶ汗を拭う為に、今度はタオルを掴んでキッチンに向かった。
湯沸かし器の温度調節を変え、少し熱めの湯につけたタオルを電子レンジにかける。
少し熱めの蒸しタオルを小さなプレートに乗せてリビングに戻ると、やっとといった様子で政宗が着ていたTシャツをソファの下に放っているのが目に入った。
「政宗、汗拭くからちょっと待ってな?」
熱々の湯気を上げているタオルを解し、汗に濡れた政宗の背中に手を伸ばす。
そのまま背中から腕、首を通って胸元から腹のあたりまで拭っていくと、気持ち良さそうに政宗が小さく息をついた。
「よし!そしたら冷めない内に早く布団に入れよ。」
ふらつきながら立ち上がった政宗の肩を支えて隣の和室に整えた布団へ政宗を横たえる。
そのまま救急箱から冷却シートを取り出して政宗の額に張り付けた。
「冷てぇ……。」
「冷却ジェルシートだよ。濡らした手拭いみたいなもんだ。」
「Thank you……悪ィな……。」
「そんなんいいから。何か……食べられそうか?」
「いや……。」
「んじゃ何か飲む事なら出来るか?」
「ああ……そうだな……。」
「了解!ちょっと待っててな?」
溜息を漏らしつつ答える政宗の髪を数回撫でて、俺は急いでキッチンに戻る。
冷蔵庫の中に冷やしてあったスポーツドリンクのキャップを開けてストローキャップを取り付ける。
普段は直飲みしてしまうから使う事も無かったペットボトル用のストローキャップがこんな所で役立つとは。
俺はそのままもう一本のペットボトル――こちらはミネラルウォーターだ――とゼリー飲料をプレートに乗せて、再び政宗を休ませている和室へと戻った。
「政宗、起きなくていいから少し横向けるか?」
俺に気付いた政宗が身体を起こそうとしているのに気付いて、俺はそっとそれを押し止める。
そしてそのままこちらに身体を向けた政宗の口元に、ストローキャップの口を開けたスポーツドリンクを差し出した。
コクリコクリ――と政宗の喉がゆっくりと波打つ。
相当喉が渇いていたらしく、あっという間に三分の二程を飲み干すと、政宗は満足そうに大きく息をついた。
「無理なら全部は飲まなくていいから、少しだけコレも飲んどけよ。」
ゼリー飲料のキャップを開け、ペットボトルの代わりに口元に差し出す。
それを受け取ると、政宗は半分だけそれに口をつけた。
「甘ぇ……。」
「でも普通に飯食うよりはマシだろ?」
「まぁ…な。」
「これ1本で握り飯1つ食うのと同じだって話だから、後で又飲めるようだったら飲んどけよ?」
俺の言葉に無言で頷いた政宗に小さく微笑んで立ち上がると、俺は桐箪笥の中から数枚の浴衣と半纏を用意する。
恐らくこの様子だと寝汗をかいて、何回か着替える事になるだろう。
その時わざわざ重い身体を引き摺って着替えさせるってのも酷な話だしな。
俺は政宗の横になっている布団の枕元にそれらを重ねて置くと、帰宅したままの状態だった服を着替えに部屋に向かった。
急いで室内着に着替えて、家中のカーテンを引き、雨戸を閉める。
もう一度自分の部屋に戻り毛布と掛布団・枕を手に政宗の居る和室へ戻ると、訝しげに政宗の眉が顰められた。
「何…してやがんだ…?」
「俺も今日はここで寝るから。」
「What(何だって)?」
「だから、俺もここで寝るって。」
もし政宗の容体が急変しても、自分の部屋に居たんじゃ気付く事も出来ないしな。
幸い明日は土曜日で休みだから、万一寝ずの番になったとしても問題はないし。
そりゃあ、もしコレがインフルエンザだったらって事を考えれば、政宗を隔離して接触しないのが一番だってのは分かってるんだが。
でも何つーか……どこかこんな状態の政宗をたった一人部屋に残すのは躊躇われた。
ほら、体調悪い時ってーのは何でだか妙に寂しかったり不安な気持ちになったりするもんだし?
それにとりあえず俺はインフルエンザの予防接種は受けているから、まぁ何とかなるだろう。
俺はどこか呆然としたように俺の姿を目で追っている政宗へ安心させるように笑ってみせると、和室の押し入れからもう一つマットレスと布団を取り出し政宗の隣に並べて敷いて、部屋から持ってきた毛布と掛布団を広げ枕を放り投げた。
後はいつでも夜間救急に行けるように着替えとバッグの準備だけはしとかねーと。
その後も俺は政宗を休ませたままバタバタと家の中を駆け回って準備を整えると、政宗の隣に敷いた布団の上に腰を下ろした。
「……飯は…?」
「ああ、俺の?そんなん大丈夫だって。コレ作って持ってきた。」
冷凍の焼きおにぎりに、レトルトのクラムチャウダー。
本当は病人の居るこんな所で食うもんじゃないんだろうけど、何というか出来るだけ政宗の傍に居てやりたかった。
「俺の事はいいから。政宗は自分の身体の事だけ考えてろって。」
「…………ああ。」
「ここに居るから………何かあったらすぐ言えよ?」
「…………………?」
「ん?」
布団からのっそりと手を伸ばしてくる政宗。
その熱を帯びた手を握ると、思いのほか弱い力で政宗が握り返してくる。
「Be by my side(傍に居てくれ)……。」
「居るよ……政宗。お前の傍に……ずっと……。」
お前があの生気に溢れた力強い瞳を取り戻すまで俺はお前の傍に居るから。
だから安心して休むといい。
俺はもう一方の手で優しく政宗の頬を擦ると、布団の上から寝かしつける時のように一定のリズムでポンポンとその身体を叩いて、もう一度政宗の手をしっかりと握りしめた。