誰よりも一番に祝福してやりたかった。
それでも俺は離れた所から君達を、君の事を見るしか出来ない。
「おめでとう…乾……。」
俺の呟きは風に流れて消えた。
特別
今日は青学の校内ランキング戦。
普段あまり部活の日程を聞かない俺が唯一知っている、乾にとって重要な日。
前回のランキング戦でレギュラー落ちしてから、乾はこの日の為に並々ならぬ努力を続けてきた。
それは近くで見てきたからよく分かる。
人の何倍も苦労して、努力して、本当に全てを賭けてるんじゃないかと思う位にテニスにかけていた。
それでも勉強や他の事が疎かにならないなんて、相変わらず凄い奴だと思う。
そんな乾が全力でぶつかるだろう、このランキング戦を俺はこの目で確かめたくて、午後からの仕事を切り上げてここまで来てしまった。
本当は直接会って励ましたいけれど、余計に気負わせたくなくて離れた所から見てるだけ。
それでも構わなかった。
既に顔なじみになった竜崎先生に簡単に挨拶して、選手達の邪魔にならないようにコートから少し離れた所にある大木の根元で試合を眺める。
「あれ?さん…?」
ふと後ろから声を掛けられて、俺は驚いて声のする方へ振り返る。
「ああ、やっぱりさんだ。こんにちは。」
「やあ、不二くん。元気そうだな。」
「ええ、おかげさまで。乾に用だったら呼んできましょうか?」
「あっ!いいんだ、別に!!」
気を利かせてくれたのかコートの方へ向かおうとする不二君を慌てて止めて、俺は小さく苦笑いした。
ここの子達は不二君といい、手塚君といい気が利きすぎる。
それは決して悪い事ではないのだが、今日の俺には勘弁してもらいたかった。
「別に乾に会いに来たわけじゃないんだ。今日、ランキング戦だって聞いたからさ、様子を見に来ただけ。」
「だったら、せっかく来たんですから乾を応援してやったらどうです?さんが応援してくれるって分かったら120%の力が出ると思うけどなぁ。」
そう言って不二君はどこか意味ありげに笑みを浮かべた。
乾も何を考えているのか判らない所があるけれど、この子も同じところがあると思う。
俺は不二君の言葉に曖昧に笑ってみせた。
「変にプレッシャーかけちまうだろ?だからいいんだよ。俺が来てる事は内緒な?」
「それって乾の為ですか?」
「んーそうなるのかな?」
正直どうなのか分からなかった。
ただ、俺の知らない乾を、テニスに賭ける一人の少年としての姿を、そのまま目にしたいのかもしれない。
「そう言う君は?順調みたいだな。」
「ええ、調子は悪くないです。」
「そっか。君も頑張れよ。」
俺の言葉に、にっこりと女の子が黄色い声をあげそうな笑顔を浮かべて、不二君はコートに戻っていった。
その不二君の背中を見送ってから視線を戻したコートでは、乾が2年生らしい子と試合をしている姿が見える。
危なげなく進めていく試合を見ながら、俺はぼんやりと乾の事を考えていた。
いつも乾はあんな表情で試合に臨んでいるんだろうか?
練習中は?授業中は?友達と一緒の時は?
遠くから見ていると、普段俺の前では決して見せる事の無い表情ばかりあるような気がして、何だか胸のあたりがモヤモヤしてくる。
遠くから見てるだけの自分が酷く滑稽で情けない。
乾の居る世界がとても遠く感じる。
俺は側に居る事が出来ないから、こうして君の姿を遠くで指を咥えて見ているだけしか出来ない。
でも、それは俺に勇気が無いからなんだろうけれど。
そう考えていて、ふと俺はさっき不二君に問われた言葉を思い出した。
乾に会わないと言った俺に向けられた不二君の問い。
『それって乾の為ですか?』
あの時俺は、はっきりと答える事が出来なかった。
それは本当に乾にプレッシャーを掛けたくなかったからだったのか?
勿論それもあったのは確かだ。
けれど俺はあの時、「俺の知らない乾を目にしたいから」だと思い込もうとしていなかっただろうか?
俺自身、乾に…俺の知らない乾に会う事を躊躇っていたんじゃなかったのか?
俺の知らない生活、俺の知らない人達、俺の知らない乾の姿…そして乾の心を大きく締めているテニスという世界。
本当はそれを目の当たりにするのが恐かったんじゃないのか?
俺は乾の世界では大した価値もないと思う事が耐えられないと思ったからじゃないのか?
それほどまでに、俺の中で乾という存在はいつの間にか大きくなっているようだった。
「だって仕方ないじゃないか!」
俺は我知らず呟いていた。
乾は中学生、俺は社会人、どうしても生活の主体は別々になってしまう。
どんなに望んでも、二人の年齢差はどうする事も出来ない。
自分の知らない、自分が見ることの無い相手の姿はどうしたって出てきてしまうものだ。
たとえ年齢差があっても、たとえば俺が女で「彼女」という確実なポジションでもあったなら、そうでなくても自分で納得できるような肩書きでもあったのなら、ここまで考え込む事も無かったのかなーと思うと、それだけでもやりきれなくなる。
そんな風に何か別の逃げ道を探してしまう自分が嫌だった。
そんな自分は、こんなにも純粋で一生懸命な乾とは掛け離れた人間に思えてしまう。
ふと、意識を試合に戻すと、いつの間にか乾の試合は終わっていた。
「ゲームセット!ウォンバイ乾先輩!6―0!」
審判の声が聞こえてくる。
俺は頭を振って今までの考えを振り切ると、改めて意識を目の前のコートの方へと向けた。
「勝った…んだな……。」
まだ3試合目で、残り2試合が残っているとはいえ、今の所全試合ストレート勝ち。
次は同じくレギュラー候補の桃城君との試合だった筈だ。
ここからぼんやりと見える対戦表を見て、俺は小さく息を吐いた。
乾の居るブロックは運悪く…と言うのだろうか、乾も入れてレギュラー候補が3人も入ってしまっている。
よりにもよってレギュラー復帰を目指している乾のブロックに3人もレギュラー候補が入ってしまうなんて…と、俺は最初に対戦表を見た時は思っていた。
でも、それは杞憂にすぎないとすぐに認識を改める。
そう…あれだけ頑張った乾が負ける筈無い。
そう自分に言い聞かせて、試合を終えて仲間の居る対戦表の所へ向かう乾の後ろ姿をじっと見送る。
かなり離れているから、ここまでは声は聞こえないけれど、近くに居た部員達が何か話し掛けているのが分かる。
それに一言二言応えて、乾は僅かに口元を綻ばせた。
「――――――っ!」
俺は何故か声が詰まってしまった。
部員達に見せる表情。
やはりそれは俺が見たことの無いもので、きっと乾の快進撃を賞賛されたのだろうと思う。
そんな表情を見て、俺は再び胸のモヤモヤが大きくなるのを感じていた。
これは一体なんだと言うのか。
寂しさ?悔しさ?空しさ?それとも…嫉妬だとでもいうのだろうか?
一体誰に??
これじゃ恋人の周りに居る人間に嫉妬しているのと変わらない。
「マジ…かよ……。」
そこまで考えて俺は愕然としてしまった。
俺は乾をどんな風に見ているんだろう?
自分のことさえ満足に分からない。
それが今の俺自身の姿だった。
いつの間にか再び乾の試合は始まっていて、激しいラリーの応酬が続いている。
けれど俺はその光景が酷く遠いもののように感じられていた。
この独占欲は一体何処から来るものなのか、俺自身乾をどう思っているのか、自身の感情に向き直ってみるしかない。
それが…あるべきではない感情だとしても…。
桃城君との試合は結局2ゲームは落としたものの、結局は終始押し続けた乾が勝利を収めた。
そして、部長である手塚君との試合。
事実上の最終戦になるこの試合前半、今までの努力の全てをぶつけた乾が、手塚君に一歩も引けを取らず、激しい試合展開になっていた。
けれど、やはり手塚君という選手は乾の先を行く程の強さを持っているらしく、結局4ゲーム取るのが精一杯だったようだった。
負けた乾の表情は、悔しさは勿論あったのだろうけれど、どこか満足しているように見える。
そんな表情も普段俺といる時には決して目には出来ないものだった。
でも、これで乾はやっと念願のレギュラーの座に戻る事が出来る。
乾の苦労が、努力が本当に報われた瞬間。
本当は今すぐにでも飛び出していって君に触れたかった。
誰よりも一番に祝福してやりたい。
でも、俺は君の側には居られないから。
俺は離れた所から君達を、君の事を見るしか出来ない。
「おめでとう…乾……。」
その言葉が今の俺の全て。俺の出来る事。
俺の呟きは風に流れて消えていく。
試合が終わってざわつくコートに、もう一度だけ視線を向けて、俺はテニスコートを後にした。
いつまでもここに居たら、乾と顔をあわせてしまう。
その時俺は本当の笑顔で迎えてやれるかどうか自信が無い。
だから、このまま此処を離れるのが一番だと思った。
誰より一番に祝福してやりたいけれど、俺は…臆病な俺は君の世界に踏み込めないから。
小さく今日何度目かの溜め息をついた時、ふと後ろから何か声が聞こえてきた。
「っ?!」
コートから離れた駐車場の入り口に立ち、振り返った俺の視界に入ったもの。
それは紛れもなく、俺の方に向かって走ってくる乾の姿だった。
「さん!」
聞こえるはずの無い声、居る筈の無いその姿に俺は声も出なかった。
何で乾が此処にいるのだろう?
どうして俺が居る事を知っているのか?
いくら考えても答えは出なかった。
乾は試合の直後だというのに、そんな素振りも見せずに一目散に俺の所へと駆け込んでくる。
「さん、こんな所に居た。」
「うわっ?!ちょっ、こら!乾抱きつくなって!!」
俺の姿を見付けるなり、抱き込むようにして俺に抱きついてきた乾に、俺は酷く慌てた。
普段こんな事しないだけに、俺の動揺は大きかった。
けれど、それだけ乾の感情が高ぶっているという事かもしれない。
「見ててくれたんだ…さん…!」
「乾…。」
耳元で呟かれる声が酷く心地いい。
汗の匂いが、肌を通して伝わってくる体温が、乾が側に居るのだと感じさせてくれる。
「俺…レギュラー獲得したんだ。」
「うん…おめでとう…凄かったぜ?」
「手塚には負けたけどね。」
「でも、Aブロック2位だもんな。よく頑張ったよな、本当におめでとう。」
変わらず抱きついたままの乾の頭をそっと撫でてやって、俺は小さく笑みを浮かべた。
本当は、すぐにでもこうしたかった。
一番におめでとうを言いたかった。
乾の喜びを全て受け止めてやりたい。
そう、俺は乾の「特別」で居たいんだ――。
乾の一番でありたいと願っている。
それがどんな感情でも良い、親愛でも友情でも愛情でも尊敬でも何でも良い。
恋愛とか、友情とかそんな風に言葉で分けられるような想いなんかじゃないし、そんな事どうでも良かった。
ただ乾の一番近い存在で居たいだけなんだと…。
という一人の存在として乾の側にいたいだけ。
「乾……?」
「なに?」
「良かったな…。」
俺の言葉に乾が顔を上げる。
その表情はいつもより誇らしげに見える。
俺は誰よりも誇らしげに微笑む乾をそっと抱きしめた。