陣中見舞い






最近、乾が遊びに来なくなった。
別にケンカしたとか、俺の方から来るなと言った訳ではない。
ここ最近大会の近い乾が、部活で忙しくて俺の所まで遊びに来れるほど暇じゃなくなった…というだけの話だ。
勿論俺の方も仕事が溜まったりすると残業したりするから、会えないのは決して乾の所為だけではないのだが、今まで合間を見つけては顔を見せに来てくれていたのが途端に無くなると、何処か身体の一部がもぎ取られて空白になったような虚無感を感じる。
それくらい生活の一部になりつつあったらしい…乾の訪問は。


「そういえば、今日も一日練習だって言ってたよなー。」

俺は壁に掛かったカレンダーを見上げてボソリと呟いた。
せっかくの休日だというのに、テニス部は部活だそうだ。本当にご苦労な事だと思う。
お互い忙しくて最近は直接会うことは出来ないが、乾は時々暇を見てはメールを送ってくれる。
昨日届いたメールの中に、今日も朝から一日中部活で大変だと書いてあった事を思い出す。
頑張れと、ありきたりな返事しか返せなかったけれど、ちょっと寂しいなんて思ってしまったのも事実で。


「頑張ってる少年に差し入れでもしてやるかな、うん。」


そう自分に理由をつけて俺は家を出る。
そんなもっともらしい理由をつけなければ、素直に乾に会いに行く事も出来ないような自分に時々嫌気が差すけれど、弟でもない、赤の他人である少年に会いに行くには、それ位の口実でもなければ、周りが不審がるような気がした。
















場所は以前乾から簡単に説明された事があったから、俺は迷う事無く無事に目的地である青春学園に着く事が出来た。
しかし、問題なのは肝心のテニス部が練習しているであろうテニスコートの場所がさっぱり分からない事だった。
確かにマンモス校として有名ではあったから多少の覚悟はしていたのだが、青学の敷地の広さ、校舎の大きさは俺の想像を遥かに越えていた。
別に俺は方向音痴でも何でもないけど、これはそういうレベルじゃないような気がする。
仕方なく誰か居ないかと周りを見渡すと、最近は見なくなったけれど以前乾が着ていたジャージと同じものを来た少年が、丁度目の前を通り過ぎようとしている。
乾より背は多少低いけれど、落ち着いた物腰は乾以上で、とても中学生とは思えなかったが、乾と同じジャージを着ているという事は明らかに関係者だろうと当たりをつけて、俺は思い切って声を掛けてみた。



「あの、君テニス部員?」

「そうですが、何か?」


乾と同じく眼鏡を掛けているその少年は、突然の俺の声に一瞬驚いたようだったが、直ぐに表情を戻すと訝しげに目の前の俺の方へと視線を向けてきた。

「テニス部に乾貞治って居るよね?練習中悪いんだけど会えるかな?」
「今は休憩中ですので大丈夫ですが…。」
「本当?悪いんだけど、テニスコートの場所教えてくれる?」
「俺もコートに戻るところですから、ご案内します。」


予想外にと言ったら少年に失礼かもしれないけれど、親切にも少年は俺をテニスコートまで案内してくれた。
何となく気難しそうだなーと思っていただけに、俺は何だか嬉しくなってしまった。


「ありがとうな!俺、って言うんだ。君は?」
「手塚国光です。」
「ああ!君が青学ナンバーワンの部長さんか!」

以前乾が口にしていた名前を思い出して、俺は大きく頷いた。
強豪揃いの名門青学においてナンバーワンの実力を誇る、凄い選手だと乾が話していた事を改めて思い出す。
あの乾をして凄いと言わしめる位だから、この手塚と言う少年は相当に強いのだろう。
あいにく自分はテニスには縁が無く、プレイを目の当たりにしても、きっとその強さは解らないだろうけれど。


「こちらです。」

「あ、ありがとう!助かったよ。」


前を歩いていた手塚君が振り返って前を指差す。
わざわざ案内してくれた手塚君に礼を言って彼の指し示す方に足を向けた俺は、一面に広がるテニスコートの広さに、一瞬言葉を失ってしまった。
本当にここが中学校の敷地内にあるのかと思う程たくさんのテニスコート。
サッカーや野球ほど大きなコートを使う訳ではないとはいえ、それなりの広さを必要とするテニスで、ここまでコート面積を確保出来るという事は、やはりそれなりの実績があるという事なのだろう。
そんな凄い所で、今はレギュラー落ちしているとはいえ、ずっとレギュラーの座を確保してきていた乾は、自分が思っている以上に凄い奴なのではないかと思わずにはいられない。
今まで知っていた乾という存在が何処か遠く感じられて、俺は僅かに眉を寄せた。


「今呼んで来ますので、ここで暫く待っていて頂けますか?」

親切にそう言ってくれるのに甘えて、俺はフェンスの外で乾を待つ事にした。
その間に顧問の先生に一言ご挨拶しようと思っていたのだが、何処を見渡してもそれらしい姿は見当たらない。
仕方なく、俺は大人しく手塚君に言われた通り邪魔にならないようフェンスの前に立ち、コートの方に視線を向けた。



さん!どうしたの、こんな所に?!」



暫く待っていると、手塚君と同じジャージを着た部員達の輪の中から、慌てたように乾が駆け寄ってくる。
手にはいつものように愛用のデータノートが握られている。
そういえば、以前机の上に置きっ放しにした時に、無断で中身を見られそうになったとぼやいていた事があったなーとぼんやり思いながら、俺は乾が近寄ってくるのを待った。

「ごめんなー突然来て。頑張ってるみたいだから陣中見舞いって思ってさ。」

予想通り驚いた様子の乾に苦笑して見せて、俺は軽く頭を掻いた。
確かに急にこんな所にまで押しかけて来れば驚きもするだろう。
やっぱり迷惑だったかなーと自己嫌悪し始めた俺に、乾はいつもと変わらずに小さく笑った。


「わざわざ来てくれたんだ?嬉しいな。」


恥ずかしげも無くそんな事を言って、乾は笑みを深める。
その笑みに、さっきまで俺の中にあった漠然とした不安は跡形も無く吹き飛んでしまった。
いつもと同じに好意を隠そうともしない乾も乾だが、それ位でほだされかかってしまう俺もたいがい単純だ。

「最近大変そうだから、どうかなーとは思ったんだけどさ。少し位応援したいなーって。」
「ありがとう。良かったら見ていかない?そしたら、帰りは一緒に帰れる。」
「いいのか?部外者がそんなに長い間ここに居て?先生に怒られるだろ?」
「先生は今日は急用でお休みだから平気だよ。」

乾の言葉に、先刻顧問らしき人物が何処にもいなかった事を思い出す。


「そっか。じゃあ、先生に許可貰おうと思ったんだけど、無理だな。」

「許可?」


不思議そうに首を傾げて乾は俺を見た。

「ああ、さっき言ったろ?陣中見舞いって。差し入れ持ってきたんだ。でも、勝手にって訳にはいかないだろう?」

そう言って、俺は車を止めた駐車場の方を指差した。
流石に重たくて一人ではここまで持って来れなかったから、差し入れのスポーツドリンクのボトルは車の中に残してきてある。

「差し入れ?何を持って来てくれたのかな?」
「よく分からなかったからスポーツドリンクなんだけど…マズかったか?」
「大丈夫。それなら何の問題も無いよ。それに、俺の知り合いだって言えば平気だしね。」

俺の不安が分かったのか、乾はそう言って再び笑みを浮かべた。


こういう時乾は、いち早く俺の言いたい事や不安を汲み取ってくれる。
正直言って、俺の周りの誰よりも乾は俺の言いたい事を汲み取るのが早く、そして上手かった。



「じゃあ、車まで取りに行こうか?さん一人じゃ持って来れなかったんでしょう?」



……本当に俺の事をよく理解してくれているようだ。
お見通しだとでも言うように、ニヤリとからかうような笑みを浮かべて、乾は俺の前を歩き出した。
でも、今回ばかりは流石の乾でも見通せなかった事が一つある。

「乾、悪いんだけど、他にも何人か一緒に来てもらえないかな?」
「何で?そんなに沢山持って来たの?」
「うん…まあ…そこそこに…ね。」
「何人くらい必要?」
「え…と、5・6人位?」

へらっと笑って答えると、呆れたように乾が小さく溜息をついた。

「一体どれだけ持ってきたんだか。」

そう言いながら、乾は再びコートの中に戻って行って、先程俺をここまで案内してきてくれた手塚君に何やら一言二言話し掛けている。
暫く話し合っていた二人だったが、手塚君が小さく頷いて話が終わったようだった。
少し離れているから何を言っているのかは分からなかったが、どうやら差し入れの許可を取っていたらしい。
乾が少し離れた所で様子を窺っていた一年生らしい部員達に声を掛けている間に、手塚君がこちらに向かって歩いて来るのが見えた。


「すみません、差し入れを持って来て頂いたそうで、ありがとうございます。」


俺の隣まで来て、手塚君は丁寧に深々と頭を下げた。

「そんな!大した物じゃないし。」
「いえ、そんな事はありません。ありがたく頂きます。」

あまりの丁寧さに俺の方がかえって恐縮してしまう。
そこまでしてもらったら、かえって申し訳ない位の物でしかないのに、手塚君は又も丁寧に頭を下げてくれた。



さん、車から取ってくるから鍵貸してくれるかな?」

ワタワタとしている俺を横目で見てクスクスと笑っていた乾が、後ろに一年生らしい部員を従えて待っている。
何だか、醜態を見られたようで、俺は気恥ずかしくなって、無言で車のキーを乾の方へ放った。

「じゃあ、取って来るからさんはここで待ってて。」
「ああ、悪いな頼む。あ、後ろのトランクにも入ってるから。」


軽く手を振って駐車場の方へ歩いて行く乾達を見送って、俺は赤くなった頬を軽く抑えて小さく息をついた。


















さん、よくこれだけの物を持って来られたね?」

テニスコートの脇に積み上げられたペットボトル入りのケースの山を見やって、乾は又も呆れたような感心したような複雑な表情を浮かべた。
確かにここまで来る間、かなり車体が重いなーとは思ったけれど、これ位はないと大所帯のテニス部全体には行き渡らないような気がして、全部車に詰め込んでみたのだ。

「重かったんじゃない?大丈夫だった?」
「ああ、それは平気。車までは店の人が運んでくれたし、ここまでは車だったから、思った程大変じゃ無かったよ。」
「そう?でも、これだけの量、結構お金かかったでしょう?」


少し真面目な表情になって、そう問い掛けてくる。
乾なりに俺の事を心配してくれたらしい。
確かに俺は社会人一年目だから安月給だけど、これ位は乾に会いに来る口実に出来るんだから安いもんだと思う。
俺は心配そうに俺を見詰める乾に小さく笑って見せた。

「平気だって。ケース買いだから結構安かったんだよ。乾が心配するほどじゃないって。」
「なら良いんだけどね。ここに来る度こんな事しなくてもいいよ?」
「ああ、今日は挨拶も兼ねてたからさ。これで第一印象が悪くならなかったなら、大収穫だよ。」

少しおどけてみせると、やれやれといったように乾が苦笑するのが分かった。


正直、ここに来て本当に良かったと思う。
乾には突然の事で、かなりトラブルに感じただろうけれど、俺は会えない間に感じていた漠然とした寂しさや不安が少しでも軽減されたような気がして、少しホッとしている。
勿論そんな事は恥ずかしくて口が裂けても乾には言えないけれど。
それに、俺の知らない乾の姿や、乾の生活している空間に接する事が出来て、新たな一面が見えてきたような気さえする。
何だか今日は久しぶりにスッキリとした気分で寝られそうだ。


「何かさん嬉しそうだね?」

俺の心を読んだかのようなタイミングで、乾自身も嬉しそうにそう問い掛けてくる。

「う~ん、そう見えるか?」
「そうだね。確かに最近会えなくて、さんの嬉しそうな顔なんて暫く見られなかったけど、今日はいつにも増して嬉しそうだけど?」


やはり何でもお見通しのようだ。


「乾には適わないよなー。」
「やっぱり何かある?」
「ここに来れて、手塚君やテニス部の皆に会えたからかな?」

これは正直な俺の意見だった。
そうでもなければ、こんな風に乾の事を知る事は出来なかっただろうから。
それに、ここに来なければ、もう暫くは顔も見る事が出来なかっただろう。


「ふ~ん…そう………。」

満足げな俺と対照的に急に不機嫌になった乾が、言葉少なにそう答える。
俺は何故乾が急に機嫌を損ねてしまったのかさっぱり分からなかった。

「何だよ?俺何かマズい事言ったか?」
「大した事じゃないよ。」
「だから、何だよ?」
さんが、どうとかいう事じゃ無いから。」
「俺には言えない?」

「……俺が勝手に嫉妬してるだけだから。」

「嫉妬ぉ?!」


思いもしなかった言葉に驚いて、俺は素っ頓狂な声をあげる。
その俺の大声に練習中の部員達が何人か、何事かとこちらの方へ視線を向けてきた。
それに気付いて、そういえば今は練習中だった事を思い出して、俺は慌てて口を塞いだ。
本当なら乾も練習なのだが、今はマネージャー業をメインにやっている事が多いのと、俺が来た事で部員達――特に手塚君が気を利かせてくれて、暫く時間をくれた事で未だ練習には戻っていなかった。


「俺は久しぶりにさんの顔見れて嬉しかったんだけどね、さんは手塚達に会えて嬉しいって言うから。ちょっと嫉妬かな。」


本当に恥ずかしげも無く、そんな事を言って乾は俺をじっと見る。
眼鏡の奥に隠れて乾の表情はよく読み取れなかったけれど、その表情は僅かに困ったように眉が寄っていた。
そんな乾の視線に、恥ずかしいのや、くすぐったいのとは別に、何処か嬉しいと感じている自分が確かに存在していた。
例えどんな想いでも自分を想ってくれたり、自分を必要としてくれるのは嬉しい。
俺はおもわずにんまりと笑みを浮かべてしまった。


「へへ~~ん……♪」
「何?その笑いは?」
「いや~何か嬉しくってさ。やっぱ来て良かったかも♪」


そう言って俺はニヤリと笑うと身体を屈めて乾を下から見上げた。
決して無表情ではないが、眼鏡を掛けている為に表情があまり変わらないように思われがちな乾が、どこか照れたように僅かに顔を紅くしている。
多分こんな表情は友達にだって見せてないんじゃないかと思う。
普段は余裕で俺に絡んできて俺を慌てさせるのに、こんな少年らしい表情を浮かべるなんて反則だ。
俺はそんな乾が可愛くて仕方なかった。
普段は本当に頼りになるし、悔しいけれど中学生にしてはイイ男だと思う、そんな乾がこんな表情を浮かべているなんて本当に滅多にお目に掛かれない。


「やっぱ俺ここに来た甲斐があった!色んな乾を見れたし。」
「差し入れのついでに面白いものが見れて良かったね。」
「何だよそれ?それじゃあ俺が面白いの見る為に差し入れしに来たみたいじゃないか。」
「差し入れ以外に、ここに来た理由があるって事?」
「当然!それ、ここに来た一番の目的だもんな。」
「で、それは?」
「内緒♪っていうか、自分で考えてみ?」


唇に人差し指を当てて片目を瞑ってみせる。
これ位は気付けよな――と思う。
俺の本音だから簡単には教えてやらない。



「いーーぬいーーーっっ!!!」



ふと、向こうのコートで、何人かが乾を呼んでいる。

「あ!ほら、呼んでるから行って来いよ。俺ここで見てるからさ。」

どこか不満そうにじっと俺を見詰めてくる乾の背中を軽く叩いて、俺はコートの方へ乾を促す。
はぐらかした感じになった事で不満そうな表情を浮かべた乾も、再三呼ばれている声に、渋々といった様子でコートの方へ足を向けた。
けれどその足取りは必ずしも良いものとは言えなくて。
俺はとぼとぼ…といった様子のその後ろ姿を見ながら、思わず顔が綻んでしまった。



「仕方ねーなー。」


慌てて後を追いかけて、コートに入る直前で振り返った乾の横に立つ。


「乾!!」
「?」

不思議そうに俺を見る乾の耳に顔を寄せて小さく一言だけ囁く。


「?!それって…っ?!」

「それだけ!」



俺は乾が何か言おうとする前に、慌ててその場を離れた。
自分から言っておいてなんだが…やっぱりかなり照れくさい。
慌てて元居た所に駆け戻ってコートの方を見やると、呆然と言った様子の乾が視界に映った。
本当に今日は色々な乾の姿を見る事の出来る日だと思う。
きっと今日の事は忘れられない。
俺は、部員達に急かされながらも、こちらを気にして何度も振り返る乾の後ろ姿を見送って小さく笑みを浮かべた。







俺が乾に告げた一言。
ここに――わざわざ中学校まで来てしまった理由。
どんな理由をつけても、結局はそれに行き着いてしまう。
悔しいけれど、いつの間にか乾が近くに居るのが当たり前になっていて。
思わず言ってしまった俺の…本音。
、23歳。まだまだ未熟だ。





『分かってる?俺は「お前に会いに」来たんだぜ?』





でも、悔しいからまだ……お前には落とされてやらない。




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