白銀のWizard 6
翌朝、予想していたよりも意外と遅い時間に俺は幸村の訪問を受けた。
それも、朝の一大イベントであろう筈の武田主従の殴り愛という騒々しいイベントすら無い、至って普通の爽やかな朝の延長にだ。
俺は覚悟をしていた分だけ肩透かしを喰らったようで、些か気の抜けた顔で幸村を迎えてしまった。
「お早うございまする殿!昨夜はよくお休みになられましたか?」
「あ…お、おはよう幸村。おかげさまで思っていた以上にゆっくり休ませてもらったよ。」
朝一で飛び込んでくる……と言っていた佐助の言葉通りなら、襖や障子をふっ飛ばしそうなものだが、幸村は至って大人しく俺の居る座敷の襖を開いた。
昨日までの戦装束ではなく、落ち着いた緋色の着物を纏っている幸村は、まるで俺の中の真田幸村像とは別人で、俺は呆けた表情で幸村を見詰めてしまった。
「あ、あの……某の顔に何か?」
「え?あ、いや…その……。」
まさか本当に真田幸村か?などと聞く訳にもいかず、俺は視線を彷徨わせる。
それに小さく首を傾げて幸村は数回目を瞬かせた。
「あー……えっと昨日佐助に色々言われてたから、何かちょっと拍子抜けしちゃって。」
「佐助が?何を申したので?」
「あ、いや別にたいした事じゃないんだけどさ。何か想像してたより幸村が大人しいっていうか何と言うか……。」
そこまで言って俺は幸村の視線から逃れるように、そっと目を伏せる。
いや確かにコレはコレでありがたい事なのだが、何だか奇妙な感覚が拭えないのも又確かで。
俺は困ったように表情を歪めると、目前の幸村の顔をそっと窺った。
「成る程!そういう事でござったか!」
「ごめん、色々助けてもらっといてこんな事言って。でも普段の幸村の話を聞いてたから何かあったのかな?って。」
幸村らしくない――そう言って良いのか分からなかったが、何かがあった事は間違いないような気がした。
「………佐助に………。」
「え?」
「昨夜佐助に言われたのです。殿は臥せっておられる故、お近くで騒いでは殿に更なる負担をお掛けする事になると。」
「それで俺に気を使ってくれた……のか?」
まさかそれが理由で、恐らくは毎朝の恒例行事になっている筈の殴り愛もすることなく、ここへ足を運んでくれたというのだろうか。
信じられないようなその言葉に、俺は呆然と目の前の幸村の赤く染まった顔を見詰めてしまった。
だってそうだろう?
誰よりも尊敬しているであろう信玄公との、コミュニケーションとも言える殴り愛。
それを会って間もない自分の為にとどめてくれたなんて、そんな都合の良い話があるものだろうか。
まるで俺を優先させてくれたかのようなその言葉に、俺はそれ以上の言葉を失ってしまう。
俺は、ここまで俺に手を差し伸べてくれる真田幸村という人間に、どうしたら受けた以上のものを返せるのか、分からなくなってしまった。
「いや、勿論それだけではございませぬが……。」
昨夜遅くに同盟を結んでいる奥州よりの使者が来た為に、今朝は早くから信玄公が政務に追われているのだ――そう言って幸村は整った顔に苦笑を浮かべて見せた。
「奥州?………伊達政宗殿??」
「ご存知で?」
「あ、うん。名前だけは。」
歴史上の偉人であると共に、この世界での幸村の好敵手でもある隻眼の青年の姿を思い起こして俺は言葉を濁した。
知っていると言うなら伊達政宗だけでなく幸村も佐助も信玄公も、その存在とおおまかな人となりは把握していると言えるだろう。
しかし俺はこの世界の行き着く先を――その可能性の一端を知っている事は誰にも明かしてはいない。
俺は幸村に隠し事をしている後ろめたさにぎゅっと唇を噛み締めた。
「殿?いかがなされました?」
「え?」
「まだお疲れが癒えておられぬのでは?お顔の色が優れませぬ。」
「そういう訳じゃ……。」
心配してくれる幸村の顔が僅かに顰められる。
それに小さく笑って俺は大きく首を振って見せた。
これ以上、幸村に余計な心配を掛けさせたくはない。
この力強い覇気に溢れた青年の顔を、俺自身の事で曇らせたくは無い。
いつか話せる日が来るまで、俺はこの後ろめたさを背負って行かなくてはならないのだ。
俺自身のエゴと、この暖かな感情を与えてくれた存在の為に。
「誠にございますか?ならば良いのですが……。」
「大丈夫!大丈夫!心配してくれてありがとな。」
何事もなかったかのように笑ってみせると、ようやく幸村もいつもの笑顔に戻る。
やっぱり幸村にはこの方が似合う――向けられた鮮やかな幸村の笑みに、俺は我知らず口元を緩めていた。
「それで?使者殿が来られたなら、信玄公だけでなく幸村も忙しいんじゃないのか?大丈夫か?俺なんかに構ってて?」
「あ、いえ某は大丈夫なのですが、お館様はそうもいかず……。急な話で申し訳ござらぬが、これよりお館様へお目通り頂けませぬか?」
昨夜佐助が言っていた信玄公への目通り。
予想より大分早いが、緊急事態ならば仕方が無い。
俺は急いで着替える旨を伝えて、部屋の隅に畳まれていた己の法衣を手に取った。
信玄公へ事の詳細を告げる為に部屋を出て行った幸村といったん別れると、俺は急いで白銀の法衣をバサリと広げた。
まさか借りている浴衣のような格好で信玄公に拝謁する訳にもいかないと思っての事だったが、着替えながら改めて与えられた布地をよく見てみれば、それが素人目にも分かる程に良くしつらえられたものである事に気付く。
きっと元居た世界に戻れば、俺なんかの安月給では手の届かない位の高級品になるだろう。
俺は慌てて脱ぎ散らかしかけた衣を手に取り、軽く皺を伸ばしてから乱れ箱らしき漆塗りの箱の中に畳んだ衣を置いた。
「~?支度出来たかい?」
ぱたぱたと慌しく身支度を整え、軽く手櫛で髪を整えていると、障子の向こうからのんびりとした佐助の声が掛かる。
その声に急いで声の方へ駆け寄ると、音もなく廊下に面した障子が開いた。
「おはよう。良く眠れた?」
「おはよう!佐助が昨日あんなに脅すからビクビクしてたけど、おかげさまでゆっくり休ませてもらったよ。」
「あはは!今日は確かに真田の旦那もお館様も朝からバタバタしてたから静かだったしねぇ。」
俺の言葉に苦笑いを浮かべながら佐助は俺を庭に面した廊下へと促す。
恐らく佐助が信玄公の元への案内係として俺を呼びに来たのだろう。
俺は促されるまま佐助の斜め後ろを歩きながら、目の前に広がる庭に目を向けた。
広い屋敷の中を佐助に連れられ暫く歩いて。
どうやら奥の間だと思われる場所に差し掛かった所で、急に前を歩いていた佐助がピタリと足を止める。
何事かと僅かに高い佐助の顔を見上げると、暫し逡巡してから佐助は俺の肩に手を置いて言い聞かせるように俺の顔を覗き込んだ。
「どうした?佐助??」
「ああ、うん。先に言っておいた方がいいかなーと思ってさ。」
「何が??」
「お館様さ、パッと見は迫力あって怖く見えるかもしれないけど、懐の広い名君でいらっしゃるから。あまり心配しなくても大丈夫だからね。」
「え?ああ…うん?」
どうやら俺が信玄公にまみえるにあたって気後れしないようにと気を使ってくれたらしい。
まあ確かに信玄公の迫力あるあの風貌、何も知らなければ圧倒的な存在感に押し潰されてしまうかもしれない。
俺は軽く苦笑して佐助の整った顔を見上げた。
「大丈夫だよ佐助。俺緊張はしてるけど、そんなに心配はしてないんだ。」
「どうして?」
「だってさ、幸村が尊敬してるお館様だろ?それに、佐助に名君って言わせるだけの人なんだから、無体な事を強要したりする人じゃないって思うから。」
そう言って笑うと、驚いたように佐助が目を見開いた。
「………昨日も思ったけど、って大物だよね…………。」
「何で?!」
どこか呆れたような佐助の言葉に、俺は首を傾げる。
どういう意図でそういう発想になったのか俺にはさっぱり理解出来なかった。
いや、勿論佐助が悪い意味で言ったのでは無い事は雰囲気から理解出来たけれど、何で俺が大物って話になるのか、まったくもって理解の範疇を超えていた。
「まぁが大丈夫ならいいけどね。」
そう言って俺の髪をくしゃりと掻き混ぜると、佐助はあの少年のような笑みを浮かべた。
「さて、そしたらこの向こうがお館様のいらっしゃる謁見の間になってる。俺様はこれから別の仕事で一緒に居てあげらんないけど……。」
「うん、大丈夫だって。」
「まぁ真田の旦那も居る事だし、何かあったら真田の旦那が助けてくれると思うよ。」
「分かった。ありがとな佐助、ここまで案内してくれて。」
心配そうに俺を見やる佐助に、俺は安心させる為に出来る限りの笑みを浮かべて見せた。
出会って間もない――それも未だ身元もハッキリしない不審者である筈の俺の事を、こうして少しでも心配してくれる事が嬉しかった。
俺は振り返り振り返り歩き始めた佐助に小さく手を振って、その姿が曲がり角の向こうに消えたのを確認すると、謁見の間の障子前に静かに腰を下ろす。
この時代の入室の際の礼儀作法なんて分からないけれど、少なくとも立ったままいきなりガラリと障子を開けるというのは無作法なような気がしたからだ。
俺はその場に膝を着いて一つ息をつくと、内心で一つ気合を入れて障子の向こうへと声を掛けた。
「失礼致します。」
中の様子が分からないので、とりあえずそう声を掛けてみる。
すると中でガタリという音と共に幸村らしき「殿?!」という声が響いた。
さて、この後はどうしたものかと逡巡していると、ドタドタという床を踏み抜きそうな音がしたかと思うと目前の障子がスパーンと勢い良く開く。
そのあまりの勢いに目を白黒させてしまった俺は、一瞬その後の反応が遅れてしまった。
「ようこそお越し下されました殿!ささ、早う中へお入り下され!!お館様がお待ちでございまする!!」
いつものあの満面の笑顔。
俺の想像と寸分違わぬ真田幸村がそこに居た。
「あ、ああ。失礼します。」
幸村に先導されるようにして謁見の間の奥へと足を進める。
何十人かが一度に入れそうな大きな板張りの部屋の上座側。
その一段高くしつらえられたその場所に甲斐の虎――武田信玄公がその鍛え上げられた巨体を余す所なく晒していた。
「お館様!お連れ致しました!」
「おお!よう参られた。」
幸村に促されて信玄公の真向かいに腰を下ろす。
俺から少し離れた右手側の上座近くに座った幸村が信玄公にそう告げると、その精悍な顔に笑みを乗せて甲斐の国の国主たる武田信玄公は僅かに目を細めた。
「お初にお目に掛かります。と申します。」
時代劇のワンシーンを思い起こしながら、俺は胡坐を組んだ状態で板間に手をつき上座の信玄公に頭を下げる。
きっと拝謁の際にはそれなりの作法とかあるんだろうけど、生憎そういったものには知識が無い為、この程度の事しか出来ない。
俺を連れてきた幸村や佐助が、その事で信玄公に不興を買わなければいいな――と思いながら、俺は深々と頭を下げたまま信玄公の言葉を待った。
「顔を上げられよ。そう堅くならずとも、ここには儂と幸村しか居らぬ。気を楽にするがよい。」
「ありがとうございます。生憎無作法者ゆえ、ご無礼を働くかもしれませんが、どうかご容赦下さい。」
力強い響きを持つ声にそう促されて、俺はそっと目の前の信玄公へと視線を向ける。
「この度は過分な御もてなしを頂きありがとうございました。」
「いや、そなたを救うたのは幸村じゃ。儂は一夜の宿を提供しただけに過ぎぬ。」
「勿論幸村殿には感謝しきれない程のご恩がございますが、信玄公がお助け下さったのも事実。本当にありがとうございました。」
もう一度深々と頭を下げれば、豪快な笑い声が室内に響く。
どこか微笑ましそうに俺を見ると、信玄公はその豪胆な顔に満足そうな表情を浮かべてみせた。
「そうか。ならば素直にその言葉受け取っておこうかのぅ。して、身体の方は大事無いか?」
「はい、おかげさまで。」
「うむ。ならば良い。せっかく幸村が救うた命じゃ。大事にせい。」
「ありがとうございます。」
俺を気遣ってくれた信玄公の言葉に、自然と笑みが零れる。
佐助の言うように、懐の広い人物なのは確かなようだ。
そうでなければ、いくら予め幸村や佐助から多少なりとも事情を聞いていたとしても、何処の不審者かも知れぬ者をこうして助け、目通りまで許すとは思えない。
流石は幸村の尊敬するお館様だなぁ――とボンヤリ思いながら、俺は息を呑んで俺達のやり取りを見守っていた幸村の方へと視線を巡らせた。
視線が合った途端、嬉しそうにその表情が緩む。
きっと何かあればすぐに助け船を出そうとしてくれていたのだろう。
その暖かな、そして力強い微笑みに俺はそっと目を細めた。
「ところでとやら、一つ確認しておきたい事があるのだがのぅ。」
「はい?」
「お主、幸村の話によれば、この世界の者では無いとの事じゃが……誠か?」
本題に入ったな――そう内心で思って俺は表情を引き締める。
そうだ。お礼もさることながら、この為にこそ俺はこの場へ呼ばれた筈なのだから。
俺は弟子を見守る師匠の顔から、甲斐の国の国主たる者の顔へと変わった信玄公の鋭い光を宿した瞳をじっと見詰めて無言のまま静かに頷いて見せた。