白銀のWizard 2
あれから――
どれくらいの時間捻じ曲げられた時空の歪みの中を漂っていたのだろうか。
気が付いた時には、上も下も無いような無重力にも似た空間に俺は1人佇んでいた。
いや、佇んでいたというのはおかしな表現かもしれない。
ふわふわと、まるで泳いでいるかのようにも感じられる浮遊感。
それこそ『漂う』というのが一番適切な表現だろう。
果てなど存在しないかのような遥か先まで続く一面の銀世界に身を預けたまま、ただひたすらに揺蕩いながら、さてこれからどうしたものかと――そう思った時だった。
「―――ぐッ!」
ガクリと不意に今まで感じなかった重力にも似た何かに引きずられて。
次の瞬間、俺はまるで雷のような耳をつんざく激しい音と光の洪水の中、何処とも知れぬ硝煙漂う灰色の空に勢いよく放り出されていた。
不意に感じる大気の冷たさと瞬間的な浮遊感。
咄嗟の事に落ちる――と落下の衝撃を覚悟して身を硬くする。
しかし、己が身を襲うはずの衝撃はいつまでたっても襲ってくる事はなかった。
不思議に思って恐る恐る閉じていた目を開け、強張ったままの身体からゆっくりと力を抜いてみれば。
上空で未だ光を放ったままの魔方陣から降り注がれる光の粒子の中を、俺は落下する事無くふうわりと空中に浮くような形で留まっていた。
「助かっ……た?」
落下事故の挙句、ベシャリとつぶれたトマトのようになる事だけは回避出来たものの、このままという訳にもいかず、俺は大きく息をつく。
どうやらこの魔方陣内の光の粒子に触れている間は落ちる事は無いようだけれど、それがいつまでも続くとは到底考えにくい。
現に上空から降り注ぐ光の粒子の密度が段々と少なくなるにつれて、少しずつではあるものの己の身体は下降し始めている。
早い所何とかしなければ本当につぶれたトマトになりかねない。
再びどうしたものかと、眼下に広がる地上をグルリと見回した時だった。
「―――――ッ?!」
まるで射竦められたかのような衝撃。
そう表現しても過言ではない程の力強さを内に湛えた瞳と、見回した視線がぶつかった。
お互いの視線がかち合った瞬間、その溢れんばかりの力強さを内包した褐色の瞳が零れんばかりに見開かれる。
まるで信じられないものを見るかのようなその驚愕に彩られた大きな瞳に、俺は何故か我知らず惹き寄せられていた。
無意識の内にゆうるりと、その瞳の持ち主である緋色の衣を纏った青年の方へ己が手を差し伸べると、その俺の動きに合わせて纏わり付いていた光がサラリと流れて小さく弾け飛ぶ。
まるで――縋るように、求めるように届かない手を必死に差し伸ばし続ける俺の姿に、青年の瞳が更に大きく見開かれたのが分かった。
ふわふわと揺蕩っていた俺の身体は、俺の意思と動きに反応し静かに緩やかにではあるものの、光舞う中を確実にその青年の方へ向けて下降を続ける。
そんな俺の姿を認めると、青年は視線を絡めたまま俺の求めに応えて、その手に掴まえようとするかのように大きな手を虚空へと差し伸ばした。
驚きの中にも、どこか微笑みすら感じさせる表情で。
俺の求めに応えてくれた手に、向けられたまだどことなくあどけなさを感じさせるその表情に、ああ可愛いな――と口元を緩めた時だった。
今まで俺の身体を覆っていた光の粒子の最後の一片がサラリと髪を伝って弾け飛んで。
次の瞬間、マズイと思う間も無く今度こそ俺は重力に従って地上へと落下していった。
「危ない!!!」
掛けられた声はいったい誰のものだったのか。
悲鳴すら上げる余裕の無かった俺に、それを確認する余裕などありはしなかった。
いくら最初に放り出された地点より大分地上に近付いてきていたとはいえ、その高さは未だ巨木位の高さがあったのだ。
今度こそ本当にダメかと、地面への激突を覚悟して俺はギュッと目を閉じた。
「でやああああああああああああああああ!!!!」
耳元でビュウビュウと唸る風の音のせいで、どこか遠く聞こえる叫び声。
次の瞬間、ドカン――という激しい音と共に俺の全身を衝撃が走った。
一瞬息が詰まりはしたものの、しかし俺を襲った衝撃は想像した程大きなものではなくて。
俺は激しい痛みに苛まれる事もなく、詰まらせていた息を小さく吐き出した。
「………大丈夫でござるか?」
キュッと身を硬くしたままの俺の背後から、そっと掛けられた気遣わしげな声。
「あれ?俺……?」
その声に俺は静かに閉じていた目を開いた。
怪我どころか、上空から地上に叩きつけられた筈なのに少しの痛みすら感じないなんて。
不思議に思って視線を巡らせて、初めて俺は自分の置かれた状態に気付く。
背後を振り仰ぐと、どこかホッとしたように細められる褐色の瞳。
あの青年だった。
俺より遥かに逞しい身体が、俺を包み込むようにして地面にその背を預けている。
その腕の中に守られたお陰で、俺は落下の衝撃も最小限のものだけで怪我どころか痛みすら碌に感じずに済んだのだ。
「どこか痛い所などございませぬか?」
呆然としている俺にどこか怪我でもしたと思ったのか、俺を助けてくれたであろう緋色の服を纏った青年が心配そうに眉根を寄せる。
それにハタ――と我に返って、俺は慌ててその暖かな腕の中から飛び退くとぶんぶんと大きく首を振って見せた。
「だっ大丈夫!!助けてくれてありがとう!!」
わたわたとしながらも小さく頭を下げた時だった。
「旦那ぁー!大丈夫ーー?!」
「おお!佐助か!」
赤銅色の髪に迷彩柄の服。
額当てをしてフェイスペイントまで施した細身の青年が、慌てた様子でその場に飛び込んでくる。
その顔には俺の傍らに立つ青年を気遣う色と、そして目前の俺を警戒する色が微妙に入り交じっている。
そんな複雑な表情を浮かべた佐助と呼ばれた青年が、さりげなく俺と俺を助けた歳若い青年の間に身体を滑り込ませるのを見て、俺は1人小さく苦笑するしかなかった。
警戒――されているのだろう。
あからさまではないが、向けられる視線の中に僅かにピリピリとした殺気のようなものを感じる。
致し方ない事とはいえ、歓迎出来るものでもないその反応に俺はただ溜め息をつくしかなかった。
「旦那、いったい何があったのさ?急に旦那の大声が聞こえてきたから、俺様吹っ飛んできたんだけど?」
「ああ、それは……。」
「どうやら随分派手に吹っ飛ばされたみたいだねー。旦那の背中がこんなになるなんて相当だろ?ありゃ、結構な擦り傷まで作っちゃって。」
「これ位たいした事はない!」
悪戯が見つかった子供のように、佐助と呼ばれた青年の言葉に頬を膨らませる青年の姿が微笑ましくて、俺は思わずクスリと小さく笑みを零してしまう。
それに気付いたのか、胡乱げにこちらを見やっていた佐助と呼ばれた青年が微かに眉を寄せた。
「んで?こちらさんは何方?」
「おお!そうであった!まだお互い名乗りもしておりませんでしたな。某、武田家家臣、真田源次郎幸村と申す!貴殿は?!」
そう名乗られて、俺は大きく息を呑む。
やはり――と思う気持ちと、本当に?と思う気持ちとが入り交じって、俺は暫し呆然と目の前の真田幸村と名乗った俺の命の恩人でもある青年を見詰めてしまう。
幸村の姿を目にした時に、もしや…という思いは確かにあった。
しかし一方で、異空間転移の魔方陣が開いた先が目的の場所である保証などどこにもなくて。
万一違う場所に出てしまっていたら…という思いが、確信を持って目前の人物を認識する事を拒んでいたのだ。
「えと、俺は。。改めて助けてくれてありがとう。その……真田殿?」
「…殿でござるか。いや、無事でようございました!」
「良かったら俺のことはと呼んでくれるか?は…呼ばれ慣れてなくて。」
「承知仕った。然らば、某の事も幸村とお呼び下され。」
「うん……ありがとう幸村。」
嬉しそうに破顔した幸村の表情に、俺自身も静かに目を細める。
人懐こい犬を連想させるような満面の笑顔に、俺は最初に降り立った先がこの真田幸村の元で良かったとそう思った。
「え?ちょっと待って!旦那が助けたの?!この人を?」
俺達の会話に、暫し無言のまま幸村の側で控えていた佐助と呼ばれた青年が驚いたように声をあげる。
「あ、うん。落ちて怪我してもおかしくなかったんだけど。幸村が俺を抱きとめてくれたんだよな?」
「へ?落ちる??」
俺の言葉に怪訝そうに隣の幸村と俺の顔を見やる佐助。
確かにそうだろう。
落ち着いてよくよく周囲を見回してみれば、ここは何も遮るものの無い一面の平野なのだ。
木の一本、丘一つ存在しないこの地で、どうやったら『落ちる』事が出来るというのか。
普通に考えればどうしたってあり得ない事だった。
その佐助の訝しげな言葉にどう答えたものかと暫し逡巡してから、俺は半ば諦めにも似た思いで仕方ないというように、ここから遥か上空の俺がこの世界へ放り出された灰色の空を指差す。
そこには未だ光を湛えたままの転移系魔方陣がその効力を失わずに、その場に展開していた。
「何…あれ?あそこから落ちたっての?」
「ええと、あえて言うならもう少し下からなんだけどね…落下したのは。でも最初に俺が放り出されたのは確かにあそこだから、あそこから落ちたって言ってもいいのかな?」
ともかく、空から落ちた俺を幸村が身を挺して助けてくれたのは確かな事で。
受け止めてくれた幸村のお陰で怪我一つ負う事も無かったと告げれば、佐助はどこか呆れたように傍らの幸村の肩を叩いて見せた。
「あのさ、旦那?真田の旦那はの旦那とは面識無かったんだよね?」
「当然であろう!」
「で、どこの誰とも分かんない相手が落っこちてきたってのに、何の疑問も持たずに助けちゃった訳??」
「何を言う!危険が迫っている相手が目前に居て、それを見て見ぬ振りをしろと申すのか?!」
「あのね、それがこんな所じゃなけりゃ俺様だってそんな事言わないよ。」
そういって佐助はグルリと周囲を見渡す。
その視線につられるようにして視線を巡らせて、俺は初めて俺達を取り巻く周囲の状況を認識した。
幾重にも重なり合って倒れ付している膨大な数の人々の骸。
そして、無残なまでにあちこち抉り取られた赤黒く染まった一面の大地。
家紋をあしらった旗や、槍の柄、突き刺さった矢の先端から舞い上がる炎と煙が、空を一面の灰色に染めていた。
「ここ……は………戦場??」
「そう。そんな所に急に降ってきた人間が味方だって保証は無いでしょうが。」
だから軽率な行動は謹んで欲しいんだけど――そう言って佐助は無駄の無い動きで右手に苦無を滑らせた。
「佐助――!」
どこか咎める様な幸村の声に、佐助は小さく溜め息をつく。
「言っただろ?旦那。こんな所でなきゃ咎めはしないって。でもここが戦場である以上この人が敵じゃないって保証は無いんだから。俺様は怪しい奴をそう易々と旦那に近付ける訳にはいかないんだよ。」
不興を買う事を覚悟の上での佐助の言葉に幸村も言葉を飲み込む。
自身を思うが故の行動であると理解出来るだけに、幸村もそれ以上咎める言葉を発する事は出来なかった。
「ええと、佐助さん……だっけ?その人の言う通りだよ幸村。助けてもらった俺が言うのもおかしな話だけど。」
「殿……。」
「勿論俺は幸村達の敵じゃないけど、きっとそれを証明しない限り佐助さんだって安心なんて出来ないんだよ。幸村の事大切に思ってるからだよな?だから、佐助さんを咎めないでやって?な?」
困ったように眉を寄せる幸村に言い聞かせるようにして、俺はふわりと笑みを浮かべてみせる。
幸村が初対面である俺の身を案じてくれたのはとても嬉しい。
けれど、その一方で俺は佐助の気持ちも理解出来た。
俺が佐助の立場であったなら、きっと同じようにしただろう。
だから、俺は目前に苦無を突き付けられても佐助の行動を咎める気にはなれなかった。
「……………………変わった人だね………アンタ。」
「そうかな?」
「俺が今苦無を突きつけてるのはアンタなんだけど?」
「そうだな。でも佐助さんの言ってる事は正しいだろ?」
「だからって、自分に苦無を突きつけてる相手を止めようとしてる人間を逆に窘めるなんて、普通居ないでしょ?」
どこか困ったように眉間に皺を寄せている佐助に、俺は数回目を瞬かせる。
何故佐助がそんな顔をするのか理解出来なかった。
「あのね、これじゃ俺様が悪者じゃないのさ。」
「え?別にそんな………。」
「そうなってんの。ああもう!何で心配して駆けつけてきた俺様の方が、誰とも知れない不審者より極悪人みたいになっちゃってんの?!」
やってられないと言わんばかりに頭を振ってみせる佐助の姿に、俺は小さく苦笑する。
そんな俺の表情に、苦労性な部下殿はやれやれといったように盛大な溜め息をつくと手元の苦無を静かに懐へと収めた。
「佐助!!」
憮然と佐助の一挙手を見詰めていた幸村の顔が、パァ――ッと明るくなる。
それに肩をすくめて佐助は音も無く俺の側を離れた。
「………いいのか?俺を警戒しなくて?」
「仕方ないでしょ?あんな目で旦那に睨まれてたらいつまでも苦無を突きつけてる訳にはいかないでしょーが。それに……。」
「それに…何?」
「アンタからは殺気も何も感じられないし?それに、見たところそんなひょろっとした身体じゃ旦那に害を為せるとも思えないしね。」
だからとりあえずはここは引いておくよ――そう言って佐助は静かに背後の幸村を振り返った。