ここにいる資格






「手塚、知ってるか?」

「何がだ?」


偶然休み時間に廊下ですれ違った乾にそう声を掛けられて、手塚は小さく眉を寄せた。

「昨日の部活参加者、レギュラー以外は8人だった。」
「何だと?どういう事だそれは?!」

乾の口から漏れた思いもしない内容に、手塚は彼らしくも無く困惑した表情を浮かべた。


「昨日手塚は生徒会業務で参加してなかっただろう?その間の練習に出て来たのはレギュラーと数人の部員のみ。後は全員不参加だ。」
「何かあったのか?」
「まあ、あったといえば…あったかな?」
「ハッキリしろ、どうしてそんな事になった?」

ハッキリとは答えない乾に半ば苛立ったように手塚は話の続きを促す。

「簡単に言えば、不満が爆発した…って所かな?」

手塚の様子に慌てる事も無くそう言って、乾は下がった眼鏡を押し上げた。

「結論から言うと、全員ボイコットだよ。そうは明言してないけどね。」
「何故だ?何に対してそんな事をする必要がある?」

「理由ね…ほら、その原因があそこに居るよ。」


そう言って乾は廊下から見える中庭を指差す。
その乾の指し示す先には、日当たりの良いベンチで何冊もの本に囲まれ手元のファイルに視線を落とす男子テニス部サブコーチ、の姿があった。


















遠くからポーンポーンというボールを叩く音が聞こえてくる。
何処かのクラスが授業でテニスをしているらしい、その音をぼんやりと遠くに聞きながら、手塚は周りに気付かれないよう小さく息をついた。
あと15分程で今日最後の授業も終わる。
常日頃は、優等生を絵に書いたような手塚は、今日のように授業中ぼんやりと意識を飛ばしている事など、絶対に有り得なかった。
それもこれも原因は全て前の休み時間に遡る。
たまたま移動教室のために歩いていた乾に、昨日自分が参加出来なかった間に起こった部活内の異変について聞かされたからだった。



さんってレギュラーに付いてる事が多いだろう?他の部員達にしてみれば、何で実力も分からないような奴が偉そうにデカい顔してるんだ…って所らしい。』
『何を馬鹿な事を…!』
『そう思うけどね、中にはレギュラーを神聖視してる奴も居るから、そういう奴らは特にレギュラーを指導してるさんを快く思ってないのも居るんだよ。』

呆れたような手塚に小さく苦笑してみせて、乾は肩を竦ませた。
正直、乾も部員達の反応がバカらしいと感じているらしい。
何より、そんな理由で貴重な練習時間が削られるなんて、冗談ではないといった様子だった。


『そいつらを納得させるには、さんは俺たちを指導するに相応しいんだと認識させてやればいいんだけどな。』
『…………。』
『まあ、今すぐどうって事も無いだろうけど、対応…考えておいた方がいいよ?』


眉を寄せたままの手塚の様子に、もう一度苦笑して教室へと戻っていく乾の後ろ姿を見ながら、手塚はそれをただ見送る事しか出来なかった。
普段より多く刻まれた眉間の皺を菊丸あたりが目にしたら「皺が取れなくなる」とでも言いそうな程、いつに無く苦虫を噛み潰したような表情で手塚は今日二度目の溜め息をつく。
授業中だというのに、ちっとも授業に集中出来そうも無かった。
部長として、自分が居ない間にそんな事が起こってしまったのが、酷く許せないと言うのもあったが、そんな嫉妬とも思えるような理由で活動が制限されるような事が起こるなんて信じられなかった。


「何とかしなくてはな…。」


丁度鳴ったチャイムの音に掻き消されて手塚の呟きは誰の耳にも届く事は無かった。


















「今日は流石に出て来たみたいだな、ボイコット組は。」


部活が始まる時間になって部室に現れた乾は、開口一番そう言って手塚に声を掛けた。

「どうする?対処法は決まったか?」
「ああ…解決できるかどうかは分からないがな。」

レギュラージャージの上着を羽織り、ラケットを手にして手塚はロッカーの扉を閉める。
この時間まで散々対策を考えてはみたが、結局一つの方法しか思い浮かばなかった。
それが必ずしも最善の打開策になるとは限らなかったが、このまま指を咥えて成り行きを見守るだけ…というのは手塚には出来そうに無かった。



さん……。」
「手塚…?」



コート脇でメニュー表をチェックしていたは、いつの間にか目の前に居た手塚に声を掛けられて、手にしていたファイルを閉じた。
いつも通り今日も頑張ろうな…と声を掛けようとして顔を上げると、いつに無い厳しい表情の手塚の視線とぶつかり、は小さく息を呑む。
その手塚の表情は真剣そのもので、そしてどこか酷く苦しげだった。


さん…俺と、ここで試合をしてくれませんか?」


そう言って手塚は、静かに手にしていたボールをへと放る。
緩やかな放物線を描いての手の中に吸い込まれたそれは、ただの練習用のボールだったけれど、今の手塚にとってその重みは大会時に感じるのと同じ位意味のあるものだった。
だから、どうしてもにはこの申し出を受けてもらうしか無かった。

「手塚、何を考えて……。」
「お願いします。」

一言だけ答えて、手塚は小さく頭を下げた。
逸らされる事の無い視線が、手塚の意志が堅いことを物語る。

「手塚…。」

静かに自分を見つめてくる手塚の瞳が強い光を帯びているのを目にして、は手にしていたファイルをぎゅっと握り締めた。
手塚はきっと何かをこのボールに、これからの試合に賭けている。
どんな意図があって手塚がこんな事を言うのかには皆目見当がつかなかったが、今は手塚を信じるしかできなかった。



「分かった…試合……しよう!」



力強いの言葉に、手塚は無言のまま大きく頷いた。



「やれやれ…何か始める気か…。」

二人から少し離れたところで成り行きを見守っていた乾が、仕方ないといったように溜息をつく。
話し終わった様子の手塚とがストレッチの為にお互い離れたのを見て、乾はゆっくりとの方へと近付いた。


「何か言ってきましたか、手塚は?」
「乾…?ああ、試合をする事になったよ。」
「成る程…そういう方法を取るわけか…。」

の言葉に、おおよその予想をつけた乾は小さく笑みを浮かべる。

「乾は手塚がそんな事言ってきた理由…知ってるみたいだな?」

ストレッチを続けながら目線だけで乾を見上げては溜息をついた。

「ええ、まあ。ただ一つだけ俺が言えるとしたら…。」

「したら?」




「全力で手塚を叩き潰してやって下さいって事です。手なんか抜かずに。」




意味ありげに笑ってみせて、乾は二人の後ろで同様にストレッチをしている手塚に視線を向けた。
その視線を追うように、も黙々とストレッチを続ける手塚に視線を向ける。
必要以上に喋らない手塚だから、何も言っては来なかったけれど、やはり何か理由があるのだと気付いては大きく空を仰いだ。

「それじゃ…頑張って下さい。貴重なデータが取れるの、期待してますよ。」

右手に持っていたデータノートを掲げて、乾は小さくそれを振ってみせた。


















コート整備の終わったAコートに二人の姿がある。
一人は名門青学テニス部の部長にして、公式戦負けなしの記録を持つ、事実上青学のエース――手塚国光。
もう一人は青学男子テニス部のサブコーチ――
普段ならとうに部活の始まっている時間だが、今日はいつになっても手塚の集合の声が掛からず、不審に思っていた部員達は目の前に広がる光景に呆然と立ち竦むしかなかった。




「40―15!」




審判をしている大石の声が、やけに大きくコートに響く。
その声にはっと我に返り、部員達は再びコートの中に意識を戻した。
大きく上げられたボールに向かい、の右腕が大きく振り下ろされる。
バシッという大きな音と共に、強烈なサーブが手塚のコートへと打ち込まれた。
そのあまりのスピードと力強さに、部員達はただ言葉もなく、試合の流れを呆然と見守るしかなかった。


「な、何なんだよ、あれっ?!」
「知るかよ!」
「誰だよ?何の実力もね―奴だって言ったの?!」


動揺しているであろう部員達の声が漏れ聞こえてきて、乾は小さくほくそ笑んだ。
手塚の作戦はどうやら成功したらしい。
レギュラー以外の部員達にの実力を、まざまざと見せ付ける事。
それが今回手塚が部内の異変を解決させる為に選んだ手段だった。
自分が比較の基準になる事でがここにいる誰よりも強いのだと、コーチとしてこれ以上の人間はいないのだと部員達に認識させる事が出来る。



「やっぱり流石だねーさんは。」

乾同様、隣で試合を見ていた不二が声を掛けてくる。

「ああ、それはそうだろうな。何たって、3年連続全国大会優勝した人だし。」



「にゃにゃっ?!3年連続全国優勝ぉっ?!!」



不二の隣で話を聞いていた菊丸が素っ頓狂な声をあげた。
その大声に、周りにいた部員達から、またしてもざわめきが広がる。



「ゲームさん!…ゲームカウント3―1!!」



再び大石の声が響いて、1ゲームが終了する。
サービスゲームを取って、が試合をリードしたままコートチェンジになった。

さん…本気で来て下さい。」

己のサービスの為にボールを手にした手塚が、ふと手を止めてそう言葉を漏らす。

「手塚……?」
「本当の力を…見せて下さい。」

「…手塚、君…まさか――。」

手塚の言葉には僅かに眉を寄せた。


(手塚は、俺の力を他の部員達に見せようとしている?!)


ふと思い当たって、は周りの部員達を見渡した。
明らかに今までとは違う視線。
確かに今までは、必ずしもレギュラー以外の部員達と良い関係を築けていたとは言い難い。
彼らが自分の事を認めたがらないでいるのも正直分かっていた。
それが『がどの程度の力を持ち、どれだけの事が部員達に出来るのかが分からない』という不安から来るものだと分かっていても、はそれをどのような手段で解決するべきなのか決断する事が出来なかった。
こればかりは時間が解決してくれるしかないと思っていたのだ。
それを、手塚は――おそらく先刻の様子では乾もだろうが――承知した上で解決の為に動いてくれている。



(部活の為?それとも…俺の?)



厳しさが前面に出てしまう為に気付く人間は少ないが、手塚は本来優しい人間だから、おそらくこれはの為にセッティングされたものなのだろう。
は、改めて自分に対している手塚を見やった。

「俺の為にここまでしてくれるんだな…手塚……。」

手塚の気持ちに応えるには、彼の言うように己の持ちうる力全てで手塚に対する事しかない。
そう決意して、は握っていたラケットを再び強く握り締めた。



「来い!手塚!!!」



の瞳が鋭く光る。
それを見て手塚はどこか満足そうに小さく頷いた。


















「手塚…ちょっと良いかな?」


部活を終え、部室で部誌をつけていた手塚は、控えめにノックをして部室の中に入ってきたにそう言われて、僅かに首を傾げた。

「何か?」

「今日は…ありがとうな?」
「ご存知だったんですか?」
「うん…まあね。といっても途中からだけど。」

そこまで言っては照れたように苦笑して見せる。



「俺の為に…してくれたんだよな?」



の問い掛けに手塚は無言のまま答えなかった。
けれど、その視線はどこか照れくさそうに逸らされていて、の予想が当たっている事を裏付けていた。

「いつも手塚には助けられてばかりだな、ほんと。こんなんじゃ俺コーチ失格だよなぁ。」

困ったように苦笑して、は気まずそうに頭を掻いた。

さんが誰よりも部員達の事を考えてくれている人だという事は分かっていますから、俺は出来る事をしたまでです。」
「…そっか、ありがとう……。」

手塚の言葉にはふわりと笑みを浮かべる。
ぶっきらぼうではあったが、の事を思って告げられた言葉に、は何とも言えない感情が湧きあがってくるのを感じていた。
勿論嬉しさや、感謝といった気持ちもあったが、それとはどこか違う暖かい感情が存在している。
それは初めて手塚に会った日に感じた感情にどこか似ていた。


「なあ、手塚…?」

「何ですか?」

無言のまま手塚を見詰めていたが、どこか嬉しそうに目を細める。




「強くなったな…?」


「?!!」



思いもしなかったの言葉に、手塚は驚きで大きく目を見開く。
その手塚にもう一度微笑んで、は座ったまま自分を見上げてくる手塚の肩にそっと手を乗せた。
優しげに微笑んで自分を見下ろしてくるの視線に、手塚も僅かに口元を綻ばせた。














後日、無断で部活をサボった罰として、大多数の部員達がグラウンドを走らされる姿が見られたが、その後はと部員達の間の確執は完全に取り払われた。
そして、あまりのの強さに男子テニス部内に『隠れファンクラブ』が出来たのと、レギュラー陣に毎日対戦を迫られて逃げ回るの姿が見られるようになったのは、又別の話になる。




↑ PAGE TOP