何気なく呟かれた菊丸の言葉に、着替えの為にその場に居た他のレギュラー陣は一様に着替えの手を止めた。
「何、英二?いきなりそんなこと言って?」
「だって気になんない?あれだけ強いのにさー?」
不二の言葉に僅かに頬を膨らませて、菊丸は同意を求めるように周りを見渡した。
「確かにそうっスよね?普通だったらエリート街道まっしぐら、今頃日本のトッププロ!だったかもしれないんスから。」
「桃もそう思うだろー?だから気になるんだよなー。」
「でも、話してくれないと思うよ?」
「そーかにゃ~?」
不満そうな菊丸の声を背後に聞きながら、手塚は小さく眉を寄せた。
それは手塚もずっと気になっていた事だったからだ。
「手塚、聞いてないー?」
「知らん。そんな事より始めるぞ。早く支度をしろ。」
不意に自分に振られた話題に短く答えて、手塚は足早にコートへと向かう。
コートには誰よりも早くその場に来ていた、先ほどまでの話題の主、の姿がそこにあった。
過去と理由と想いと
「あれは…?」
いつも通り部活を終え、当番になっている部誌をつけ終わり部室を出た手塚は、無人の筈のコートの中に見慣れた人物を見つけ足を止めた。
普段なら部活が終わった段階で、顧問である竜崎と共に校舎に戻ってしまう筈のが、どこかぼんやりとした様子でコートの中を眺めている。
手にはいつも手にしているファイルではなく見慣れないラケットを持ち、ただじっと立ちつくしているだけのその姿に手塚は目を見開いた。
ぼんやりと立っているだけなのに、酷く存在感のあるその姿。
それはそのままの存在の大きさを表しているようだった。
じっとコートを見たまま、心此処に在らず…といった様子のは、手塚が見ている事にも気付かずに、その場に大の字に寝転がる。
「…あれ?手塚?」
しばらくぼんやりと空を眺めていたは、何気なく巡らせた視界の端に映った手塚の姿に気付き、慌てて身体を起こした。
その様子にようやく声を掛ける機会を得た手塚は、自分がずっと立ち止まったままだった事に気付き、ゆっくりとコートの中のに近付いた。
「何をしていたんですか?」
当然といえば当然の質問に、は照れくさそうに笑って小さく頭を掻く。
「いや~何してたって…簡単に言ったら『浸ってた』ってカンジ?」
「浸る…ですか?」
「ああ、やっぱテニスっていいよなーって。」
嬉しそうにそう言っては手にしていたラケットを高く掲げた。
「皆が一生懸命頑張ってる姿見てるとさ、俺やっぱりテニスが好きだなーって。ここに居られて、テニスに関わっていられて幸せだよなーって考えてた。」
そう言っては子供のように無邪気に笑ってみせる。
普段部員達に見せる優しげに微笑む笑顔とはどこか違う鮮やかな笑顔に、手塚は眩しいものでも見るかのようにそっと目を細めた。
の笑顔はいつも見ているけれど、今目にしているのはそのどれとも違っている。
純粋にテニスだけを思い、話す時のが、普段見せないこんな表情をするのだと手塚が気付いたのはごく最近の事だった。
そして誰よりも強く、誰よりも優しく、自分より遥かに上に存在するが、同じプレイヤーとして酷く近く感じる瞬間でもあった。
「俺さ、テニスやってて、手塚達に会えて…本当に良かったって思う。」
手塚が答えるのを望んでいるわけではないのか、はコートを見詰めたままポツリと言葉を漏らす。
そしてそのまま口を閉ざすと、ゆっくりと隣の手塚に視線を向けて照れ臭そうに笑みを浮かべた。
「さんは本当にテニスが好きなんですね?」
「うん?そうだな…。」
短く一言だけ答えて、は再び口を閉ざした。
遠くで最終下校を知らせる校内放送だけが小さく聞こえてくる。
時が止まったかのような、それでいて嫌なものではない静かな沈黙が二人の間を流れる。
そして先にその沈黙を破ったのは意外にもではなく、普段必要以上には口を開かない手塚の方だった。
「さん……。」
「ん?何?」
「以前から聞きたいことがあったんですが…。」
そこまで口にして、手塚は困ったように視線を彷徨わせた。
聞いても良いものか正直決めかねている…といったようなその様子に、は小さく笑みを浮かべるだけで手塚が自ら口を開くのをじっと待つ。
決して無理強いをしたり、こちらから強い働きかけをしないというのはのポリシーのようなものだった。
特に、どう気持ちを表現したら良いか分からなかったり、決めかねている間は、焦ってはいけないと分かっているから、辛抱強く待つだけ。
それが功を奏したのか、質問する事を躊躇うようなそぶりを見せていた手塚が、意を決したように口を開いた。
「それだけテニスが好きで、あれだけの実力がありながら…どうして選手になる道を選ばなかったんですか?」
これはずっと手塚の中で消化しきれず引っかかっていた疑問だった。
誰が見てもの実力は最高レベルだし、望めば頂点に昇りつめる事も可能だった筈なのに、はあえてその道を選ばなかった。
そしてその結果、今ここにこうして居る。
何か大きな理由でもない限り、そんな大きな可能性をフイにするなど手塚には考えられなかった。
「ああ、そんな事?」
意を決した手塚の問いに返ってきたのは、思った以上にあっさりとした反応だった。
「教師になりたかったからだよ。」
そう言っては笑って見せる。
その表情には少しの曇りもなく、何かを隠していたり、ましてや気持ちを偽っていたりする訳ではない事は確かだった。
そのあまりの簡潔さに戸惑い、手塚は首を傾げる。
「何か不服そうだな?想像してたのと違う?」
「怪我で選手になる事をを断念した…とか、そういう訳ではないんですか?」
「それだったら俺が選手にならなかったことに納得出来る?」
僅かに困ったような表情を浮かべて、は小さく溜息をついた。
「俺はね、確かにテニスが大好きで、これからもずっと関わっていられたら…って思ってるけど、それは選手としてじゃないんだ。」
の言葉の意図する所が分からず、不思議そうに見つめてくる手塚に、はどう説明したものかと暫し考え込む。
自身、相手を納得させるだけの、しっかりとした説明が出来るかどうか自信が無かった。
自分の思いを語る事は構わなかったが、手塚がそれをどう受け止めるだろう?という思いが、その漠然とした不安がに自らの思いを語らせる事を躊躇わせていた。
「…さん?」
「ああ、ごめん。……つまりね、俺はテニスが好きでずっとテニスをしてたいけど、それを『職業』にしたいと思わなかったんだ。それよりも『なりたいもの』があったからさ。」
「教師…ですか?」
「そう…その時気付いたんだ、俺の『なりたいもの』と『好きなもの』は別々のものなんだ…ってね。」
「別々のもの…?」
手塚の問いには大きく頷いた。
「好きなものが、必ずしもなりたいものじゃない…って事かな?」
「好きなものとなりたいもの…そんな事考えた事もなかった…。」
「それは手塚にとってその存在が一つのものだからじゃないのかな?それに君には力がある。」
「しかし、それを言ったらさんも同じでは?」
「……力……か………。」
そこまで言っては静かに目を閉じた。
「学生時代…進路を決める時、たくさんの人がこう言ったよ『それだけの力があるのに何故選手にならないんだ?』『それだけの力があれば選手になるのは当然だろう?』ってね。でもね、俺は思ったんだ。好きだからテニスをしていたいんであって、強いからテニスを続けたいんじゃない…って。」
困ったように静かに笑みを浮かべて隣に座る手塚に視線を向ける。
その瞳には戸惑い、困惑、不安といった様々な感情が揺れていた。
「強ければ選手になる…なんておかしいと思った。強さだけで自分の進むべき道を決めたくなかった。本当に自分が『求めているもの』になりたかった。ただ俺は『それ』が選手ではなかっただけなんだよ。」
一つ一つ言葉を選んで語り続けるの横顔は、自分よりも多くのものを経験してきたであろう大人の男のもので、手塚はどこか遠く感じるの横顔を無言のままじっと見詰め続けた。
こんな時どうしてもと自分の差――違いというものを強く感じてしまう。
年齢だけではなく、物事に対する考え方や捉え方、その身の内にある想いの大きさまで、自分とは全く違う。
それは当然の事なのだろうけれど、いつかを越えてみせると決意した手塚にとって、今のままでは遥か先に居るには決して手が届かないような気がしてならなかった。
「俺はね、自分の求めるものは自分で選んで、自分で手にしたかった。自分で考えて自分で動く、自らの責任は自らで取れるような男になりたいと思ったんだよ。だから俺は選手にはならなかった。」
そこまで言って、は手塚の反応を窺うように、じっと手塚の瞳を見詰めた。
「手塚は何のために…どうしてテニスをしてるんだ?」
「テニスを……する理由?」
の言葉に、手塚は面食らったように数回目を瞬かせた。
(この人はいつも俺の考え付かない事や、思いもしなかった事を口にする…。)
勉強やスポーツと違って模範解答や、模範演技がある訳ではない問いをさらりと口にするに、手塚は惹きつけられずにはいられなかった。
「確かにテニスはスポーツだから勝敗はつきものだけど、誰かに勝つ為だけにテニスをする……それだけじゃないだろ?」
そう言っては手塚の顔を覗き込む。
「好きだから燃えるし、好きだから誰にも負けたくない、好きだから勝ちたい…そう思うんじゃないかな?」
「はい…。」
「何よりも好きであることが、大切に思えることが強さにも繋がる――そう思えるんだ。」
静かな、けれど強い光を宿した瞳が、逸らされる事なく真っ直ぐに手塚を見詰めてくる。
強い意志を持ったの眼差しに、手塚は正直言って戸惑いを隠せなかった。
今まで自分に強くなる為の指導をしてくれた人は居ても、こうして考える事、テニスに向き合う事、自分の気持ちに向き合う事を教えてくれたのはが初めてだった。
そんな人間は今まで手塚の周りには一人として存在しなかった。
はいつもこうして自分の知らない事、知らない世界、新しい世界を見せてくれる。
こうしてと居るだけで自分がより大きくなれるような気がした。
(この人の側に居たい……。)
自らの内から沸きあがってくる強い想い。
それを自覚して、手塚は戸惑いと共に暖かな何かを感じていた。
憧れだけではない何か――。
まだその感情の名前は分からないけれど、自分の中を満たしていく暖かな感情を、と分け合いたいと思う。
その為には、胸を張っての隣に立つ事が出来る位の誇れるものを手にしたかった。
そして何よりの隣に立てるだけの強さと力がこの手に欲しい。
を越えたいという想いは大きくなるばかりだった。
「変な話しちゃったな。さ、もう結構遅いから帰ろう?」
苦笑いをして立ち上がると、すっかり暗くなったコートを見渡しては一つ大きく伸びをする。
気分を切り替えるように小さく頭を振って、はゆっくりとコートの外へと歩き出した。
その後ろ姿は必ずしも大きくはないのに、その存在は手塚の中で益々大きくなっていく。
「いつになったら…俺はあなたに追いつける……?」
自分とさほど変わらない、それでいて酷く大きく感じるその背中に向かって、手塚はポツリと呟いた。
テニスでも、価値観や考え方でさえも、遠く及ばないこの人に本当に追い付く事が出来るのだろうか。
そう思ったのは一度や二度ではないけれど。
「手塚?どうした?」
いつまでたっても来ない手塚に、は歩いていた足を止めゆっくりと振り返る。
そのいつもと変わらない暖かな眼差しに、手にしていたバックを背負い直すと、その背中に向かって手塚は駆け出した。
まだその存在は遠いけれど、今はこうして側に走り寄る事は出来る。
(こうして少しずつ、この人に近付けたら…。)
ゴールは遠いけれど、負ける気はなかった。
「いつか、あなたの様になれたら――。」
「?何か言ったかー?」
「いえ、何も…。」
の問いに小さく笑って、手塚は改めて胸の内にある暖かな想いを噛み締めた。
次の日手塚は、一年生レギュラー越前リョーマに試合を申し込む事になるが、その決断をさせたのがであった事は誰も知らない…。