部活帰り、桃城の自転車の後部に立ち、通り過ぎる景色を何をするでもなくぼんやりと見ていたリョーマは、ふと思い出したように話を切り出した。
「んー?何だよ急に?」
「今日、さん部長の事名前で呼んでなかった?」
「ああ?ホントかよ?!」
リョーマの言葉に桃城は半信半疑で答える。
百歩譲って、他の部員ならともかく、手塚を名前で呼ぶなんて考えられなかった。
「まあ確かに部長とさんって、何だかんだ言いながらいつも一緒に居る事多いからなー名前で呼んだっておかしくないけどよ、部長だぜ?!あの部長を名前で呼ぶなんて、何か考えられなくねーかー?」
苦笑いしながら後ろのリョーマを振り返ると、釈然としない様子のリョーマの視線とぶつかる。
リョーマ自身、自分の耳を疑ってしまっているのか、桃城の言葉にもハッキリと断言する事が出来なかった。
「やっぱ…聞き間違いかな……?」
ボソリと呟いたリョーマの眉間には、手塚にも勝るとも劣らない位の深い皺が寄っていた。
近付く想い
「手塚、ちょっと……。」
部活が始まる直前、探していた人物の姿を見つけて、男子テニス部サブコーチはコートに向かう途中の手塚を呼び止めた。
「どうかしましたか?」
「少し話があるんだ…良いか?」
思った以上に深刻そうな表情のに、手塚は一つ息をつくと、ラケットを隣を歩いていた大石に預け、先を歩いているの後に続いた。
歩いている間はお互い何も喋らず、奇妙な沈黙だけが二人の間に流れる。
暫く無言のまま歩き続けたは、コートから少し離れた校舎脇の駐車場まで来て足を止めた。
「昨日……越前と試合…したんだってな?」
一言だけそう言い口を閉ざす。
「大石にでも聞きましたか?」
「竜崎先生だよ。あの人、ああ見えて隠し事が下手だからね、カマをかけたら喋ってくれたよ。」
今はここに居ない恩師の事を思い、は小さく苦笑した。
「何でそんな無茶をしたのか――という事ですか?」
「誰かにそう言われた?」
「…ええ、大石に。」
そう言って手塚は俯いた。
大石が自分の事を心配して言ってくれている事は充分分かっていた。
彼なりに部の事を思い、自分の肘の事を親身になって気に掛けてくれる。
手塚の主治医が大石の叔父さんである事もあったろうけれど、わざわざ病院まで一緒に付き添ってくれる彼に悪いとは思いながらも、手塚は自分の思いを変えようとは思えなかった。
「別に責めるつもりじゃないんだ。ただ理由が…気になったんだ。手塚がそこまでのリスクを背負っても、そうしたいと思ったその理由をね……。」
咎められるのかと少し不安げな表情を浮かべた手塚に、困ったように笑ってみせては手塚の顔を上目遣いに覗き込む。
その言葉にほっとしたように僅かに表情を和らげると、手塚はゆっくりと顔を上げた。
「大した理由はありません。ただ、俺がそうしたかっただけなんです…。」
見詰めてくるに少しだけ苦笑して、手塚は真っ直ぐにを見返した。
「何でそこまでして…?」
「俺は……俺も、さんが教えてくれたように、越前に伝えたかった――何の為にテニスをするのか。そして、自らのテニスをして欲しかった。越前南次郎のコピーではなく、自分で自分のテニスを選び取って欲しかったんです……これはさんが教えてくれた事です。」
はっきりと一言一言を噛み締めるようにして紡がれる言葉。
その落ち着いた語り口に、は言葉を無くした。
確かに以前から年齢以上、人並み以上に落ち着いた所が手塚にはあったが、今の手塚には以前に無かった、なにものにも揺るがない強い何かがあるようだった。
「そう……。」
「そんな顔しないで下さい。決して無駄な事ではなかった筈です。」
自らの言葉が手塚を動かすきっかけになったと知って、の心中は正直複雑だった。
結果として手塚の肘は無事だったようだが、一歩間違えば手塚の肘は潰れていたかもしれない。
そんな状況に追いやったのは他ならぬ自分の言葉だったというのに、手塚が自らの言葉から何かを感じ取ってくれた事が嬉しくもあり、は相反する二つの感情を抱えていた。
「俺は大丈夫です。さん…。」
言い聞かせるように紡がれた手塚の言葉はどこか優しく、はそれ以上掛ける言葉をなくして頷くしかなかった。
全ては手塚が自分自身で決めた事。 手塚の肘は確かに心配だけれど、何より手塚の意志を尊重してやりたかった。
(俺は――どうして、こんなにも手塚の事が気になるんだろう?)
ふと、自らの内に湧き上がった問いに、はすぐに答えを見つけられず困惑する。
教え子だから――と一言で片付けられない自分が確かに存在していた。
手塚と話すたび、手塚を知っていくたびに湧き上がってくる何か。
初めて手塚に会った時から少しづつ育ってきているそれは、酷く暖かで心地良いものだった。
そしてそれを自覚するたびに、手塚の存在がどんどん大きくなっていく。
(まさか…俺――?)
まだ幼い少年がの中で特別な存在になっていっているのは、否定出来ない事実だった。
「手塚は…凄いな。」
「そんな事ありません。俺から見ればさんの方こそ凄いと思いますが。」
「俺なんか全然だよ。だって、常に上を目指す姿勢は…俺には無いものだったから。俺は手塚に憧れるよ――。」
自分の言葉に恥かしそうに笑って、は目を伏せる。
素直な賞賛に、微かに顔を赤らめて手塚は視線を逸らした。
こういった所は年相応で、は手塚の表情に口元を綻ばせる。
「でも――無理だけはするなよ?」
少しだけ表情を引き締めてそう言うと、手塚は無言で小さく頷いた。
狭い路地裏を荒い息を弾ませながら一人の青年が全速力で走って行く。
その表情は酷くこわばっていて、今にも叫び出しそうなほど苦痛に歪められていた。
「手塚……っ!!」
青年――はあがる息の合間にそう叫んで辺りを見回した。
遠くから電車の音が聞こえてくる以外何も聞こえては来ないこの路地裏で、の声は大きく響く。
しかしその呼びかけに答える声は無かった。
「どこに居るんだ?!」
もう一度だけ叫んで、は再び狭い路地裏を走り出す。
がこんな所に居るのには訳があった。
いつも通りに今日一日の練習メニューを組んでいたの所に、慌てたように一人の部員が転がり込んできたのが全ての始まりだった。
『さん!大変です!!!』
『どうした?そんな顔色変えて?』
『部長が…手塚部長が変な奴らに連れて行かれちゃったんですっ!!』
一年生らしい、その部員の言葉には愕然とする。
一瞬何を言っているのか理解できなかった。
(手塚が…連れ去られた?!)
信じられない内容に、は眉を寄せる。
『どういう事だ?!落ち着いて、あった事をきちんと話してくれ!』
『最初はうちの生徒が絡まれてたんですけど、それを部長が止めに入って……そうしたら、そいつら部長が生徒会長だって分かったら、今度は部長に…っ。』
そこまで言って部員は俯いた。
『で、そいつらは誰だか分かるか?』
『T高校の制服着てました。』
『T高校か…あの、柄の悪い高校の奴らか。』
近辺でも特に評判の良くない高校の名前が出て、は大きく溜息をついた。
(T高校のグループって事は、怪我させられる可能性は低いな…でも――。)
慌てる心を抑える為に、は胸の辺りをきつく握り締める。
手塚を連れ去ったのがT高校の生徒らしいという事が分かっただけ、収穫だと思わなくてはならない。
そう自分に言い聞かせては、はやる心を無理やり押さえつけた。
T高校のグループに多いのは主に恐喝の類で、実際本人に怪我を負わせるという事は殆ど無い…というのが唯一の救いだった。
そうでなければ、今頃腕の一本くらいは折られているかもしれない。
しかし、その恐喝の方法は狡猾で、被害者がそれと名乗り出られない状況を作り上げ、その上で強請ってくるのがT高校のグループの常套手段だった。
たとえ、怪我を負わされる可能性が他より少ないとはいえ、手塚の将来をつぶしてしまう可能性は大きいし、怪我を負わされないという保障はどこにも無い。
一刻を争う状況には変わりは無かった。
『わかった!俺は手塚達を追うから、君は竜崎先生にこの事を連絡するんだ、いいね?』
『分かりました!!』
の言葉に部員の少年は大きく頷いて校舎の方へと走っていく。
そしては手塚を連れた少年達が向かったという方向へと走り出した。
大抵、そういった少年達には『溜まり場』になっている場所がある。
そこを見つけることが出来たら、手塚もそこに居る可能性が大きい。
はそれらしい場所を求めて全力で走り出した。
(無事で居てくれ!手塚っ!!)
重くなってくる足を叱咤し、はスピードをあげて、更に路地の奥へと駆け出した。
(ここは…?)
見慣れない廃ビル跡らしい建物を見上げて、手塚は眉を寄せた。
校門前で高校生に絡まれていた青学の生徒を助ける為に、両者の間に入った手塚は、今度は標的を変えたらしい少年達に無理やりこんな所まで連れて来られていた。
途中で逃げる事も出来たが、逃げる為とはいえ自分から手を出す訳にもいかず、仕方なく大人しくされるがままになっている。
面倒な事になったと内心で溜息をついて、手塚は目を閉じた。
「さてと、生徒会長さんだっけか?俺らさ、ちょっと金が必要なんだけどさ、用立ててくんねぇ?」
一番下っ端らしい金髪の少年が、ニヤリと笑みを浮かべて手塚に迫った。
「断る。そんな金は持ち合わせていない。」
「へえ~そう?ま、いいけどさ。」
今度はリーダー格らしい少年が、先ほどの少年よりもいやらしい笑みを浮かべてせせら笑う。
その下卑た笑いに、手塚は胸の辺りがムカムカとしてくるのを感じていた。
「じゃあ、会長さんには別な方法で助けてもらおうなー?」
「なにをする気だ?」
「最近はさー割のいいバイトが多いんだぜ?一晩付き合うだけで、100万位ポンと出してくれる金持ちのオバサンとか居てさ。」
ニヤニヤと笑って、少年は手塚の後ろにいる仲間に指示を出す。
途端に手塚は後ろから何かで口元を塞がれる。
「っ?!!」
「ここで暫く『おねんね』しててくれな?30分位したら、どっかのオバサンがいい思いさせてくれるからさ~。」
段々と遠のいていく意識に必死に逆らおうとしている手塚を横目に、少年達は癇に障る笑い声をあげて、崩れ落ちる手塚を見下ろした。
「ああ、心配しなくても良いぜ?後でどうだったか、ちゃーんと写真撮っておいてやるからさー。」
「じゃあ、俺達は行くからー。」
遠ざかっていく少年達の下卑た笑い声を遠くに聞きながら、手塚はきつく唇を噛み締めた。
立ち上がろうとする身体は、全く言う事を聞かず、段々と身体と意識の自由を奪っていく。
(こんな…所で………っ!)
必死に意識を保とうとする手塚を嘲笑うかのように、意識はじわりじわりと蝕まれていき、手塚は悔しさに強く唇を噛み締めた。
「――さん………。」
完全に意識が途切れる瞬間、手塚は小さくの名を呼んだ。
「―――――――。」
ぼんやりと遠くで何か聞こえてくる。
ふわふわと水中を漂っているような感覚の中、手塚はその何かに意識を向けた。
それが人の声だと気付くまで、かなりの時間を要してしまう程、手塚の意識は混濁していた。
「―――――っっ!!」
少しずつ戻ってくる意識の向こうで誰か、この声の主が手塚を呼んでいる。
「しっかりしろ!手塚っ!!目を…目を開けろよ!国光っっ!!!」
苦しげに搾り出される悲痛な叫び声。
辛そうなその声は、どこか暖かく手塚を包み込んでくれる。
まだハッキリとしない感覚の中、暖かな何かが頬に落ち流れた。
「国光!?国光っっ!!!」
段々と意識が覚醒していくに従い、その声がのものである事に気付く。
手塚が聞いた事も無い程辛く苦しげなその声は、僅かに震えていた。
(泣いて―――いる?)
次第にハッキリとしてくる意識が、そう手塚に感じさせる。
きつく握り締められた手の震え、必死に搾り出される掠れた声、絶え間なく落ちてくる暖かな雫、その全てがの悲しみとして伝わってくる。
こんな辛そうなは見た事が無かった。
「…泣……ない…で……くだ……さ………。」
やっとの事で搾り出した声は情けなくも酷く掠れていて、はっきりとに気持ちを伝える事が出来ない。
泣いて欲しくなかった。自分なんかの為に。
いつも惜しみなく向けられる暖かな笑顔が好きだった。
「国光っ?!俺が分かるか?!」
「…は……い…。」
うっすらと開けた目にの泣き顔が飛び込んでくる。
「良かった…っ!!」
ゆっくりと身体を起こした手塚を泣き笑いの表情で見詰めて、は自分より僅かに大きい手塚の身体をぎゅっと抱きしめた。
「このまま目ぇ開けなかったら、どうしようかと思ったんだぞ?!」
手塚の肩口に顔を埋め、泣き顔を隠すようには手塚を更に強く抱きしめる。
その身体は未だ震えていて、手塚はようやくはっきりと感覚の戻ってきた腕を持ち上げ、縋り付くの背中に腕をまわした。
「すみません……。」
それだけ言うのが精一杯だった。
悲しませてしまった。
何よりも――そう、誰よりも自分を惹きつけてやまないこの人を。
こんなになるまで辛い思いをさせてしまった。
自分がこんな目に会わなければ、にこんな辛そうな泣き顔などさせずに済んだのだと思うと、自分が許せなかった。
「………いいんだ…国光が無事だった……それだけで……。」
名前で手塚を呼び、安堵と照れ臭さで顔を赤らめながら顔を上げると、は普段と変わらぬ笑顔を浮かべて目を細めた。
目尻に残る涙の跡を拭って、もう一度手塚を抱きしめる。
「おかえり…国光……。」
小さく囁かれた言葉が身体を通して伝わってくる。
その暖かさに、手塚は瞳を閉じた。
今は、この暖かさに身をゆだねていたいと思った。
腕の中にある暖かな温もりを抱きしめて、手塚は小さく答える。
「ただいま帰りました…さん……。」
「一年!声が出てないぞ!!」
手塚の声がコートに響く。
その声に竦みあがった一年生が慌てて声を張り上げるのを見て、レギュラー陣はコートの向こうで指示を出している手塚を見やった。
「何かさー、手塚かなり気合入ってない?」
「そうだね。最近何かが吹っ切れたみたいなカンジだね。」
汗を拭きながら手塚の様子を見ていた菊丸が不二に声を掛ける。
その声につられるようにして、隣のコートでラリーを続けていた桃城とリョーマが、手を止めて二人の居るベンチの側へとやって来た。
「そういえば、知ってます?昨日越前が言ってたんスけど、さん部長の事名前で呼んでたらしいっスよ?」
「はあ~?!」
「へえ…?そうなの?」
桃城の言葉に、隣に居るリョーマに視線を向ける。
「はあ、まあ多分…。」
「多分って何だよー?」
「何か越前も自分が聞いたの、自信が無いみたいなんスよ。」
菊丸の言葉に苦笑して答えた桃城は、隣に居るリョーマの頭をぐりぐりとかき回す。
「痛いっス、桃先輩。」
「まあ、仕方ないかーあの手塚だもんにゃ~。」
二人の後輩のじゃれあいを見て、菊丸もニッと笑みを浮かべる。
「誰も信じられないっスよねー?」
菊丸の反応に同じように笑ってみせた桃城は、次に耳に入った不二の言葉に凍りついた。
「……呼んでるみたいだよ?名前。」
「「「えええっっ?!!」」」
三者三様の驚きの声が重なる。
「ほら、今話してるけど。」
不二の視線の先では、確かに不二の言うようにと手塚が今日の練習メニューについて話をしている所だった。
「国光、3日前の練習メニューの予定表知らないか?」
「それなら、さんのファイルの中です。昨日竜崎先生に言われて出してませんでしたか?」
「あ!そうだ。練習量の調整で具体的な数字が知りたいって言われてコピー取ったんだっけ。サンキュー、国光。」
何の違和感も無く進んでいく会話に、不二以外の部員達は固まってしまった。
だけでなく、手塚までの事を名前で呼んでいる。
それも、お互いにそれを何とも思っていないようで、また暫くするとお互いやるべき事に戻ってしまう。
ごく自然に交わされる会話に付いて行けていないのは、当事者以外の第三者だけだった。
「ん?何をしている?さっさと練習を続けないか。」
呆然としたまま固まってしまったレギュラー達に気付いて、手塚が眉間に皺を寄せる。
その声が聞こえている筈なのに、レギュラー陣は動く事が出来なかった。
「いいかげんにしろ、いつまでボーっとしているつもりだ?」
((((そんなの無理だ!))))
レギュラー達の心中の声など気付く筈もなく、手塚はいつまで経っても動かないレギュラー達に更に眉間の皺を寄せた。
「全員、グラウンド20周してこい!!!」
堪忍袋の緒が切れた手塚の怒号がコート中に響き渡る。
その声に我に返ったレギュラー陣は、慌ててグラウンドに向かって走り出した。
これ以上手塚の神経を逆撫でしたら、20周どころでは済まなくなる。
((((何でこうなるんだ――?!!))))
レギュラー陣の声にならない絶叫がグラウンドに木霊したのは言うまでも無い。