駆け引き






「手塚!かくまってくれ!」


午前中の授業が終わり、昼休みを告げる鐘が鳴り終わった直後に、弁当一式と午後からの移動教室の際に使用する教材一式を手に、わき目もふらずに俺が駆け込んだ先は生徒会室だった。
普段、屋上や教室で昼食を取っている俺は、こんな時間にこんな場所に近付いた事など、今まで一度たりとも無い。
だからこそ、俺は神にもすがる思いで、この場所に駆け込んだ。


「何だ?一体何をやらかした?!」

不機嫌そうに眉を寄せて俺を軽く睨みつける手塚に、困ったように笑いながら俺は生徒会室の奥の方、窓際に置かれたソファーへと腰を降ろす。
どうやら手塚は俺が何かしでかしてここへ逃げ込んできたと思ったらしい。
これが大石あたりだったら少しは態度も違うんだろうなぁ――と思いながら、俺は目の前で大きく手を振って見せた。


「何もしてねーよ!そうじゃなくて、俺の身が危ういから逃げてんの。悪ィけど昼休みの間だけでいいからかくまってくれよ。」
「身が危うい?」
「そ。俺、次は美術で移動だから、授業始まる前には出るからさ。それまででいいからここに居させてくんない?」

頼む!と必死に手を合わせると、手塚はやれやれというように大きく溜息をついた。

「それは構わんが、揉め事は起こすなよ。大会も佳境に入ってきている…不祥事でも起こされては出場停止にでもなりかねんからな。」
「分かってるって。俺だって揉め事は勘弁してほしーよ。でも、こればっかりは俺じゃなくリョーマに言ってくれ……。」

俺は全ての原因である越前リョーマの顔を思い出して、手塚にも勝るとも劣らない盛大な溜息をついてみせた。



俺、と青学男子テニス部期待のルーキー越前リョーマが付き合い始めて、そろそろ2ヶ月。
強くて気高くて自信に満ち溢れた俺の小さな恋人は、ある日のとある出来事を境にかなり積極的に俺に迫ってくるようになってきていた。
本来なら、可愛い子に迫られるのはキライじゃないが、今回ばかりは大きな問題があった。


それは「俺」が「リョーマのモノ」にされそう――という事だ。


はっきり言って想像するだに恐ろしい!!
というか、どう考えたっておかしいだろう?!
手塚や乾程ではないにしろ、俺だってそこそこ身長はあるし、明らかにリョーマよりはガタイはデカイ。
そんな俺をあいつは「可愛い」なんてぬかした上に、あろうことか手を出してきた!
その日から俺とリョーマの関係は、いささか妙なものになってしまったんだ。
元から何かにつけて負けず嫌いで挑戦的だったリョーマだが、今は躍起になって俺をオトす事に専念し始めている。
そして、事がより厄介なのは、俺がリョーマの事を嫌えないって所にあった。
一方的に嫌な奴に迫られてるんなら、パンチの一つもくれてやるけど、リョーマにそんな事できっこない。
仮にも恋人として付き合ってるんだから、リョーマの事が可愛くないわけがないし。
結局、抵抗もままならないうちに流されてしまうのがオチだ。
だから、こうして俺は可愛い年下の恋人から逃げ回る日々をおくっている…というわけだ。


「俺の方が何とかして欲しいよ…。」


とほほ…と俺は大きく肩を落とす。
何が悲しくて、付き合ってる恋人から逃げなきゃならないんだ。
最初の内は、リョーマの行為もまだそこまで酷いものではなかった。
流石に学校では、そこまであからさまに絡んで来なかったから、何とか登下校と部活中を乗り切れば良かった。
けれど、俺がもう5日も逃げ回っているせいで、とうとう忍耐力が限界にきたのか、今では休み時間だろうと昼休みだろうと放課後だろうとお構い無しに押し掛けてくる。
それどころか、最近は人目があろうが無かろうが、本当にお構いなしだ。
もう、人目をはばかるという感覚は無くなってしまったとしか思えない。
結局そのせいで俺とリョーマが付き合っている事は、すっかり周囲にバレてしまった。


「越前か……またえらい奴に見初められたな、?」


ぐったりとソファーに沈み込んでいると、不意に生徒会室のドアが開いて、苦笑いを浮かべた乾がゆっくりと部屋に入ってくる。

「どうした乾?何か用か?」
「ああ、手塚にじゃなくてにね。」
「え?!俺?」
「そう。話題の越前が血まなこになっての事探してるからね。一応知らせておこうと思って。」


ドアを閉めてこちらに歩いてくる乾の顔は、どことなく楽しそうだ。
俺がリョーマから逃げ回ってる事を知った上で、この表情とは…。
他人事だと思って~~!
俺は乾の言葉に、改めて大きく肩を落とした。


「で、何で乾は俺がここに居る事判ったんだ?」

半ば半泣き状態でソファーの前に置かれた丸テーブルにベターっと突っ伏して、俺は上目遣いに目の前に立つ乾を見上げる。
手塚に会いに来たついでに俺を見つけて――というならともかく、乾がこの部屋に入ってきた時、明らかに俺に用があるといって入ってきた。
という事は、最初から乾は俺がここに居るという事を知っていた…という事にならないだろうか?


「ああ、越前がを探しに俺の所に来た時、『手塚だけクラスに居なかった』と言っていたからな。3年生の教室で部員の居るクラスを1組からしらみつぶしにまわってきたんだそうだ。それを聞いて、多分手塚ならここだろうと思ってね。」
「でも手塚の居る所に俺が居るとは限らないだろ?」
「それは簡単だ。今までが逃げ込んだ所を考えればすぐに分かる。大石・俺・タカさん・それに不二と菊丸のクラス…今まで手塚の所には一度も駆け込んでないだろう?なら、次にが手塚の所に行くのは、極めて可能性が高いと言えるからな。これらの状況から推測して、ここに居る確率80%と踏んだ……というわけだ。」

「なーんだ、そっか!」


朗々と説明する乾の言葉に納得して笑った俺は、その言葉の内容にそのまま一瞬で凍りつく。
乾の言葉をよくよく聞いてみれば、ここも安全じゃないって事じゃないか!
俺は何だかイヤ~な予感がして、ゴクリと息を呑んだ。



「……やっと見つけた……先輩………。」



冷や汗がこめかみを流れた瞬間、ガラッという音がして、俺の真後ろの窓が勢いよく開いた。
聞きなれた声に恐る恐る振り返ると、仁王立ちしたリョーマの姿が飛び込んでくる。


「げっ!リョーマ!!」

「もう逃がさないっスよ……。」


動けない俺の首筋をすーっと柔らかな手が撫でていく。
その感触に、俺は思わずビクリと肩をすくませた。
何と言うか…ヘビに睨まれたカエルと言うべきだろうか。
それとも、うっかり猛獣の前に丸腰で出てしまった人間と言った方が良いだろうか。
相変わらず整った顔が、ニヤリと口元を持ち上げる。
それを目にした瞬間、更なる戦慄が俺の全身を駆け巡って、俺は脱兎の如くその場から駆け出していた。




「にゃろうっ!逃がすか!!」




一心不乱に走る俺の背後から、生徒会室の窓を乗り越えて追いかけてくるリョーマの声が聞こえてくる。
その声を追うように、手塚の怒号までもが聞こえてきたが、俺はそれ所じゃなかった。


「何で逃げるんっスか?!先輩っ!」

何でと言われても困る。
俺自身、どうして逃げてるんだ――?と思わないでもない。
でも、何と言うか……恐いんだよっ!!
俺が「リョーマのモノ」になる……俺がリョーマに抱かれるって………そう考えると、自然に身体が逃げる体勢を取っているんだから仕方が無い。


「ごめんリョーマ~~~っっ!!」


俺は荒くなる呼吸の合間に、そう叫ぶしかなかった。

「そう思うんだったら何で止まらないわけ?!」
「そんな事言われても~~っ!」


生徒でごったがえす昼休みの廊下を、俺とリョーマは注目を集めつつ走り抜ける。
時に教師に怒鳴られ、時に知り合いに声を掛けられつつ、それでも俺達はこの際限無い追いかけっこを続けた。
このままじゃ、昼飯も食べられないまま午後の授業が始まってしまう。



「~~~~~~っ!何でまだ追っかけて来るんだよ~~~~っ?!」



こういう時ほど、リョーマが普通じゃない事を恨めしく思う事はない。
流石は青学男子テニス部レギュラー。
普通の一年生なら、もうとっくにバテている筈なのに、リョーマは息を乱してはいるものの、平気な顔して追っかけてくる。
このままじゃ、俺の方が先にダウンしてしまいかねない。


(どーすりゃいいんだよ~~~~っっ?!)


呼吸もままならなくなり始めた俺は、内心で悲鳴を上げるしかなかった。



「痛っ!」

どれくらいの間走り続けていただろう。
不意に後ろからあがった悲鳴のようなリョーマの声に、俺は咄嗟に足を止める。
気付かないうちに、いつの間にか特別棟の方まで走ってきていた事に気付いて、俺は乱れた呼吸を整える為に大きく息をつく。


「どしたぁ~~?」

ぜーはーと荒い呼吸をしながら何やら様子のおかしいリョーマを振り返ると、右の足首を押さえてうずくまっているリョーマの姿が目にとまる。
ここからでは表情こそ見えないけれど、うずくまったまま起き上がろうとはしないリョーマの姿に、俺は全身からサーッと血の気が引いていくような気がした。

「どうしたリョーマ?!足を捻ったのか?!」

俺はリョーマから逃げていた事も忘れて慌ててリョーマの側に駆け寄った。
こんなくだらない追いかけっこで、大事なリョーマに怪我をさせてしまうなんて。
言いようのない恐怖と、深い後悔が俺の身体をさいなむ。
震えそうな足を叱咤しながら、俺はうずくまったままのリョーマの肩にそっと手を触れた。



「大丈夫か?!立てるか?」
「立てるけど、すぐに歩けないかも……。」



俯いたまま答えるリョーマの声が、小さく聞こえる。
下を向いたままの状態の為にくぐもって聞こえてくるその声に、俺はぎゅっと眉を寄せた。


「ちょっとどこか座りたいんだけど。」

そう言われて、咄嗟に辺りを見回す。
ここは特別棟だから、この時間帯には殆ど人気は無いけれど、逆に使用されていない特別教室がいくらでもある。
俺は慌ててすぐ目の前の視聴覚室のドアを開けた。


「手…かしてくんない?先輩?」

座り込んだままのリョーマが、そう言ってスッと左手を差し出してくる。
その俺よりもまだ小さな手を握り締めて、足に響かないようゆっくりと立ち上がらせると、俺は静かにリョーマの肩に腕をまわした。


「優しいっスね。さっきまで逃げ回ってたのに。」
「それとこれは話が別だろ。」
「心配してくれるんだ?」
「当たり前だろーが!」


じっと見詰めてくるリョーマの視線に耐えられず、赤くなりそうな顔を押さえてそう言うと、クスリと耳元でリョーマの笑う気配がした。
肩を貸している為に、本当にすぐ側でリョーマの声がする。
その耳元での響きに俺の身体をゾクリとした震えが走った。


ヤバイ!これってかなりヤバイ状態だ!
あんまり気にした事無かったけど、リョーマってかなりイイ声をしている。
俺は出来るだけ気にしないようつとめて、リョーマの肩を支えながら視聴覚室に足を踏み入れた。


「じゃ、嫌われたワケじゃないんだ?」

一番手前に置かれていたイスに座らせると、楽しそうに口元をほころばせるリョーマの視線とぶつかる。
下からじっと見上げられて、やっぱり俺はリョーマのこの瞳には弱いなあと思わざるをえなかった。


「嫌ってたら逃げてねーよ。」
「ふうん……。」


何だかリョーマの表情がイヤに明るい。
俺は本能的に一歩ジリッと後ずさった。

「何で逃げるわけ?」
「に、逃げてないって。」
「逃げてるじゃん。ほら!」


そう言ってリョーマは、目の前に立つ俺の腰にさりげなく手をまわす。
そしてそのまま立ち上がって、俺の制服の前ボタンを一つ弾いた。


「ちょっ!何すんだリョーマ?!」

「だって先輩が逃げるんだもん。」

「あ、ああああああっ足はどうしたんだよ?!」
「ああ、もう平気。ちょっと下に落ちてたシャーペン踏んだだけだし。」


動揺する俺をよそに、けろっとした様子でリョーマが笑みを浮かべる。
その表情を目にして、俺は初めてリョーマにいっぱい食わされた事に気付いた。
俺はまんまとリョーマの策に乗ってしまったらしい。
心底嬉しそうに笑みを浮かべるリョーマに、俺は愕然とするしかなかった。


「ええっ?!だっ!だましたのかっっ?!」
「人聞き悪いよ。元はと言えば、先輩が逃げなけりゃ、こんな事しなかったんスから。」
「だからって……。」


俺はもう情けないやら、混乱するやらで、ガクリと抵抗する身体の力が抜けてしまった。
そんな俺に、いつもの自信たっぷりの笑顔を向けて、リョーマはそっと俺の頬に手を伸ばす。




「本当にこういう所、可愛いっスよ先輩?」




嬉しくない――と内心で涙しながら、俺は自分より小さな恋人の腕の中に大人しくその身を任せるしかなかった。









そして、俺をだましたあの作戦が、不二直伝「押してもだめなら引いてみるべし!」から来たものだと知ったのは後日の事だった。




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