俺はただ一つのものがあれば良かった。
金も地位も名誉も、力も頭脳も美しささえも何もいらない。
羨望も夢も未来も『それ』が無いなら何の意味も価値も無い。
という存在が本当の意味で形を成す為には、どうしても必要不可欠なのだ。
俺にとっての『最愛の存在』は、俺を形作る為のコア――核だった。






いつかこの手に 3






「ん…………。」



微かに漏れ聞こえた掠れた声に気付いて、俺は本を読む時だけに使用しているスクエア型のメタルフレームの眼鏡を外して声のした方へと視線をめぐらせた。


「あ、気がついた?妖一サン?」


眉間に皺を寄せた状態で首元を押さえながらゆっくりとベッドから身体を起こして周囲の状況を見回している蛭魔の様子に、僅かばかりの罪悪感をおぼえて、俺は微かに眉尻を下げると座っていたフローリングからベッドの上の蛭魔を上目遣いに見上げる。
眉間の皺は、機嫌を損ねていると言うよりも純粋に身体の痛みのせいなのだろう。
手刀を叩き込んでしまった当人としては、純粋に申し訳ない気持ちが湧き上がってきて、俺は蛭魔の整った顔を見上げて静かに目を伏せた。


「……………ここはどこだ?」

暫くの沈黙の後。
些か不機嫌そうではあるが怒っているようには感じられないその声が、俺の意識を再び蛭魔へと向けさせる。


「えと……俺ン家デス。」
「テメーの?」
「ん。」


幾分和らいできたとはいえ、寄せられたままの眉間の皺。
ぐるりと部屋中を見回す度に痛みに細められる瞳。
その姿に耐えられなくなって、俺は子供のようにうな垂れながらボソリと呟く。
許してはもらえないだろうと半ば諦めの気持ちのままで。


「ゴメンね妖一サン………。」

「……………………それは俺に手をあげた事を言ってんのか?それとも―――。」


そこまで言って蛭魔はニヤリと口の端を持ち上げる。
そして、そのまま己の右手を俺の眼前まで待ち上げて見せた。
途端にジャラン…という低い金属音が部屋中に響く。
蛭魔の鍛えられた腕には、その姿に不釣合いな金属製の拘束具が鈍い光を放っていた。
その鎖の先は蛭魔が横たわっていたベッドの金属の支柱に幾重にも巻きつけられており、容易には外せないようにナンバーロック式の錠前がついている。
勿論この枷を蛭魔につけたのは俺自身だ。



「こいつの事を言ってんのか?」

「……………両方。」



その言葉に嘘は無かった。
出来る事なら…本当に手荒な事などしたくは無かったのだ。
そして蛭魔にこんな姿を晒させる事も。
しかし、こうでもしないと蛭魔の命題は容易にクリア出来るとは思えなかった。
だから蛭魔を気絶させて、その身を拘束し自由を奪うという蛮行を選んだ。
それが一番最短で労無く最良の手段であると確信して。


「まあいい。どうせ俺の出した条件クリアの為の手段なんだろーしな。明日の約束の時間までこうして拘束してれば俺の妨害は防げるってか?まあ行動についての制約は無ぇって言ったのは俺だ。どういう手段をとろうとテメーの自由だ。」

「妖一サン……。」
「ま、コレに関してはいずれキッッッチリと礼はするしな。ケケケ!」
「うぇぇ?!……マジで?」


予想外にあっけらかんとした蛭魔の態度に些か面食らいつつも、そのサバサバとした様子に俺はホッと胸を撫で下ろす。
その次の瞬間だった。





「だが、これだけは聞いとかねぇとな。」





そう言って蛭魔は不意にスッ――と目を細める。
俺の中にある何かを見定めようとするかのように。


「何でこうまでしてテメーは俺の世界とやらを見てぇんだ?」

「―――ッ?!」



喉の奥で小さく漏れた声。
言葉にならないその声に一番驚いたのは俺自身だった。

「テメーは言ったな?俺の作り出す世界を俺の側で見たい――と。俺の作り出す世界の先にテメーは何を見ている?」
「俺………は………。」

「テメーは本当は何を手にしたい?テメーの真意はどこにある?――?」





世界が――

俺の中にある俺を取り囲んだ幾重もの壁が壊れていく音が聞こえた。
俺の中に初めて光が射した。
必死に足掻いて伸ばし続けた手に、生まれて初めて手が差し伸べられた…そんな気がした。



「俺が……手にしたい…モノ……。」



そうだった。
蛭魔の作り出す世界の先にならあるような気がしたのだ。
俺がたった一つ望み、いつかはこの手にしたいと願ったモノ。

俺にとっての『最愛の存在』。

男とか女とか、大人や子供なんて事じゃなく、ただひたすらに愛しいと――共に生きたいと思うそんなたった一つの思いを共有出来る存在を。
蛭魔の側に居れば、たとえそれが遥か先の事であっても、いつか必ずこの想いは果たされる…そんな気がしていた。
だから、どんな手段を使っても蛭魔の側に居られる権利を得たかった。


「テメーの瞳は届かない遠い何かに焦がれている……そんな目だ。」

「焦がれる………か。」


あながち間違ってはいない。
望んで望んで求め続けた狂おしい程の想い。
容易に得られるとは思えなかった。
自身の環境が、俺の周囲の世界がそれを許さないだろう事も。
だからこそ、想いはより深く大きくなって。
求める心は抑えられなくなっていた。



「………………やっぱ凄いわ妖一サン。」
「あん?」
「間違ってなかった。アンタを選んだコト。」

嬉しくなって俺はベッドの上の蛭魔の膝の上に飛びつくようにして、にっこりと笑みを浮かべた。



「アリガトね妖一サン。もう見つかったみたい。俺がずっと手にしたかったモノ。」


?」


訝しげに眉根を寄せる蛭魔にこれ以上無い位の微笑みを向ける。
何の事は無い。
焦がれるほどに望んだ存在はここに居た。
いつかこの手にしたいと望んだ存在は、蛭魔の創造する俺にとっての新しい世界の先にではなく、既にこの手の中にあったのだ。
手を伸ばせば届く、こんな近くに。
そしてそれは、俺の閉鎖された世界を打ち壊し初めて俺を見てくれた、俺が指針として選んだ存在そのものでもあった。
そうなのだ。もうずっと長い事俺が求めていたのは――蛭魔だった。





「俺がずっと手にしたかったのはね…………………………アンタだったんだ。」





初めて見る蛭魔の驚愕の表情に、俺は例えようも無い程の幸せを噛み締める。
そして俺の頬を伝う一筋の涙が、蛭魔の磁器のように整った指先に触れて弾けた。
その、本当の俺の想いに触れてくれた、俺の心へと差し伸ばされた光にも似た手を、俺は初めて『愛しい』と…そう思った。




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