いつかこの手に~後日談~
「そういえばさ、妖一サン?」
蛭魔との約束の期限まで、あと15分にまで迫った昼下がり。
ベッドの上でコーヒーを啜りながらノートパソコンをいじっている蛭魔の膝に、猫のようにジャレついていた俺は、ふと思い当たった疑問を解決すべく傍らの蛭魔の整った顔を見上げた。
「ンだよ?」
「あのさ、昨日から妖一サン無断外泊&無断欠席ってコトになっちゃってるんだけど、ガッコはともかく家に連絡しとかなくて良かったの?」
蛭魔の出した条件クリアの為に蛭魔本人を拘束するという手段をとった俺だったが、俺の家から出られないよう腕に拘束具を着けはしたものの、俺はそれ以外の行動には一切制限を設けなかった。
だから、誰かに連絡を取ってここから脱出する方法もいくらだってあった筈なのに、蛭魔は助けを呼ぶどころか、誰にも連絡を取ろうとはしなかった。
それどころか、俺の部屋――多少広めだがいたって普通のワンルームマンションだ――をまるで自分の家のように闊歩して、ここから出ようという素振りすらも見せなかった。
当初はこのままここに居座って『あくまてちょう』を取り返すつもりなのかとも思ったが、どうやらそうでもないらしい。
蛭魔妖一ともあろう人間が、たかだか腕1本拘束された位で大人しくされるがままに任せるとは到底思えない。
なのに蛭魔はこうしてタイムリミット15分前まで俺の部屋で俺との奇妙な時間を過ごしている。
時折思い立ったように食事や飲み物を要求する以外は、寝ている時以外トイレやシャワーで席を立つ位で、殆どの時間をベッドの上でノートパソコンに向かうか、スポーツチャンネルのアメフトの試合をじっと見ている事に費やしていた。
どういう意図があるのかさっぱり分からなかったが、蛭魔妖一が自分の意思でここから出ていこうとしないのは明白で、俺は思いもしなかった反応に少しばかり困惑していた。
「あーん?んなもん必要ねぇ。」
「でもきっと心配してるよ?家のヒト。」
拉致って来た本人の言う科白ではないかもしれないが、そう思うのは仕方の無い事だろう。
そう、俺自身はよく理解出来ない事だが、一般的な家庭ならそれが至って普通の…ごく当然の事らしい。
だから、普通に考えれば蛭魔だって心配する家族や友人の1人は居る筈なのだ。
「いいからンな事気にすんな。」
まるで俺が必要以上に気を揉んでいると言わんばかりの蛭魔の言いよう。
拉致って来た俺よりも、むしろ拉致られて来て現在進行形で拘束されている蛭魔の方が俺を宥め…いや慰めようとしているようで、俺は些か反応に困っていた。
おまえが気に病むことじゃない…そう言われているようで―――。
「気にすんなって……家のヒト旅行中かナニか?」
「違ぇよ。」
「んじゃ、出張とか単身赴任中?」
「違うっつってんだろ。」
「じゃあナニ?家族と全員死別して天涯孤独の身の上だとでも?」
「テメェな…何でそんな話になんだよ……。」
どこか呆れたようにそう言うと、蛭魔は拘束されてない左側の手で俺の額に触れると、そのスラリとした長い指でビシッと一つデコピンをお見舞いしてくる。
「いって……ッッ!!ナニすんのさ妖一サン?!」
「アホな事言ってんじゃねぇ。テメェの環境と似たようなもんだってだけだろーが。。」
だから余計な事は気にすんな――そう言って蛭魔は再び膝の上のノートパソコンに視線を落とした。
「今は俺の出した条件クリアする事だけ考えてりゃいーんだよ。」
手元のモニターに視線を落としたままそう呟くと、蛭魔はカタカタとキーボードを叩く。
まるで話はそれまでだと言わんばかりの蛭魔の様子に、俺は大きく溜め息をつくと、一心にキーボードと格闘し続ける蛭魔の芸術品を思わせる横顔を静かに見上げた。
別に蛭魔が構わないのなら俺自身その事にこだわるつもりも無い。
それが、俺と似た生活環境にあるが故の理由であるならばなおの事。
だからこれ以上この話を蒸し返す意図も無ければ、理由を追求する必要も俺には無かった。
そんな事意味の無い事だと――分かっていたから。
自分が帰宅しない事を不審に思い心配する家族が、不在に気付く人間が存在しないのなら、連絡も何も意味は無い。
俺の部屋に、もう随分長い事誰の帰宅も訪問も連絡すらないのと同じ事だ。
この世に法律上の家族は存在しても『ここ』に居ないのなら、それはその身を案じてくれる家族ではない。
『ここ』とは家ではなく自分の傍ら。
自分の心の中。
俺には、そこに家族は存在していなかった。
だからなのだろう。
俺が『最愛の存在』を強く求めたのは。
「ならいいケド。あれ?でもさ、何で妖一サンが俺のコト知ってんの?」
俺と似た環境…その言葉は俺の環境を知らなければ出てくる言葉ではない。
昨日知り合ったばかりで、その後すぐに俺に拉致られた蛭魔が俺の事を知っているというのは不可思議でならなかった。
「さあな……。」
俺の問いにニヤリと蛭魔が笑みを浮かべる。
どこか楽しそうに…いや、悪戯を仕掛けた子供のような――どこか無邪気そうにも見える表情。
不思議と不快感や不安、恐怖は感じなかった。
その時だった。
不意にピンポーンという高いインターホンのチャイムが部屋中に鳴り響く。
まるで俺が再び口を開くタイミングを見計らっていたかのようなそのタイミングに、俺はそれ以上の蛭魔への追及を断念せざるを得なくなる。
仕方無しに壁のインターホンへ手を伸ばす俺の後ろ姿を見ながら蛭魔がこっそりと笑みを深めていたことに、その時の俺は気付く事が出来なかった。
「あれ?妖一サン宛だ……この荷物。」
インターホンに出てみれば、それは良く聞く宅配業者の名前で。
お届け物です――との言葉に不審に思いつつ扉を開けてみると、そこには40センチ四方の箱を手にした宅配業者の姿があった。
宅配業者から受け取った荷物の送り状を見れば、住所は確かにここだが、そこにはハッキリと蛭魔妖一の名前が記載されている。
不思議に思いつつも手元の荷物を差し出すと、それを受け取った蛭魔が更に笑みを深めながら心底楽しそうにその梱包を解き始めた。
「何コレ??手錠と………首輪??」
クッション剤に包まれた状態で箱の中に入っていたのは、TVの刑事ドラマなどで目にするような手錠と、高級そうな革で作られたチェーン付きの首輪。
これに鞭だの縄だの蝋燭だのが一緒に入っていたら、一歩間違えれば大人の玩具になってしまうんじゃないだろうか。
そんないかにも妖しげな荷物を嬉々として手にする蛭魔の意図が分からず、俺は訝しげに首を傾げつつも、こちらを手招く蛭魔の誘いに容易く乗ってしまったのだった。
「ナニ?妖一サン??」
身を乗り出した俺の首筋を、蛭魔のスラリと長く、それでいて予想以上に骨ばった大きな手がスッ――と撫でていく。
その途端、不快感とは別の何かがゾワリと俺の背中を駆け抜けた。
あまりの事にギュッと目を閉じたままふるり…と大きく身を震わせると、首元に本来ある筈の無い違和感を感じる。
次の瞬間、ジャラン…という金属音がすぐ側で2回響いた。
一つは蛭魔によって俺の首にはめられた首輪に付けられたチェーンの音。
そしてもう一つは、俺が蛭魔にはめたはずの拘束具に付いているチェーンが、拘束具ごと蛭魔の腕を外れてベッドに落ちた音だった。
「な?!何で妖一サンのソレ、外れてんの?!それにこの首輪ッ?!」
蛭魔の自由を奪っていたはずの拘束は、ベッドの支柱に括り付けられたナンバーロック付きのチェーンはそのままに、蛭魔の手元の拘束具部分だけが外されている。
しかしその拘束具は俺の持つ錠でしか戒めを解く事は出来ない筈なのに。
そう思った瞬間、俺はハタ――と我に返って慌てて着ていたシャツの胸ポケットを探った。
やられた――それが俺の感想だった。
ものの見事に錠と、そして蛭魔から渡された『あくまてちょう』が無くなっている。
俺がほんの一瞬、身体を走った思いもしなかった感覚に気を取られていた隙に、アッサリとそれらを俺の胸ポケットから掠め取り、更には気を抜いてしまった俺の首に首輪を巻き付けるという神技を見せた蛭魔。
見事としか言いようが無かった。
「ケケケ!まだまだ甘ぇよーだな??」
そう言って蛭魔は、自由になった己の右腕で手錠をクルクルと回すと、俺の胸ポケットから取り戻したであろう『あくまてちょう』でポンポンと俺の頭を叩いて見せた。
「だが…………。」
「???」
「とりあえず条件はクリアしたみてーだからな。」
「えっっ?!」
あくまてちょうを取り返されてしまった事に気付いた瞬間、アメフト部入部の望みは絶たれたと思っていたのに――。
蛭魔の思いがけない言葉に俺は数回目を瞬かせた。
「時計見てみろ。」
そう言われて視線を巡らせた先の時計の針は、蛭魔との約束の刻限をとうに過ぎている事を示している。
「それじゃ!入部しても――。」
そこまで口にした瞬間。
再び金属のガチャリ…という音がすぐそばで響いた。
もう、ここまできたら何の音かはすぐに理解出来る。
何のことは無い。
蛭魔が手にしていた、『いかにも』な手錠が俺と蛭魔の腕をその金属の冷たい鎖で繋いでいるのだ。
勿論誰の仕業なのか考えるまでも無い。
目の前のこの『悪魔』の仕業だ。
「YaーHaーー!!入部おめでとう~くん!ケケケッ!これからた~~~~~っぷりと可愛がってやるから………………覚悟しとけ?」
やっぱりこの人には敵いそうに無い。
蛭魔の瞳が妖しく光った事を喜ぶべきか悲しむべきか、悩まざるを得ない、16歳の初夏の事だった。