#DOWN

異変 ―闇に堕ちる〈星〉―(5)

 方向転換をするときにかすかに圧力を感じるだけで、何も恐れるようなことはなかった。このスペース・ワールドでは日常的な移動だ。
「ねえ、着くまでどれくらいかかりそう?」
 一番後ろから、ルチルが身を乗り出してきいた。
「そうだな。普通に行けば一時間ってところだ。カットするならしてもいいぜ?」
 ゲームだけに、本来必要ない時間を体感的にカットすることができる。無駄な時間まで疑似体験したくない参加者のための機能だ。
「えー、あたし、いいや。同乗者のみんなとの時間も楽しみたいし」
 席の後ろから、ルチルはクレオの首に腕を回した。からかうような笑みで少年を見下ろすのに対し、クレオは困ったようでも嬉しそうでもある、にやけた笑みを浮かべる。
「そうですねえ〜……オレも、色々楽しみたいことがあるからなあ」
「この色ボケ餓鬼が」
 ジェンガンのつぶやきは、鼻の下を伸ばしている少年の耳には届いていない。
 リルは、じっと窓を模したモニターを見ていた。変わった天文現象の起きる宙域でも通らない限り、宇宙空間の旅は、慣れてしまえば退屈なものだった。
 それでも、彼女もルチルと同じく、体感時間をカットする気はなかった。ランダムで発生するトラブルに対応するには、やはり普通に時間を体感していたほうが有利だ。
「ね、二人とも、どの辺り出身? あたしは、大体この辺か、ラクロア・ワールドをうろついてるんだけど」
 ラクロア・ワールドは、様々なリゾート地を合体させたようなワールドである。ビーチに水着姿で海水浴も、アイスクリーム片手に遊園地を征服するのも、ルチルにはよく似合うように思えた。
「オレは、ここかレイフォードか、2Dゲーム・アーケードかな。あとは、部屋でゴロゴロしてるって感じ。……ねえねえ、リルちゃんは?」
 突然クレオに話を振られて、リルは眠たげな顔で振り返った。
「色々なワールドに行くわ……そうでないときは、ギルサーの酒場」
「あそこに行けば、リルちゃんに会えるかも知れないのかあ。覚えておこう」
 いや忘れてくれ、とリルが内心思ったかどうか定かではない。
 彼女が再び窓の外に目をやったとき、ルチルが思い出したようにことばを続ける。
「そういやさ、レイフォードにサーペンス・アスパーが現われたって知ってる? あいつ、先週、例のルシフェルにお灸を据えられたそうだけど」
 サーペンス・アスパーの名は有名だった。
 一時期、VRG最高の参加者数を誇ったシュメール・ワールドをはじめとする多くのワールドのレベルランクで、一位を保持していた男だ。クレアトールや〈読唇者〉、ペリタス兄弟同様、一応殿堂入りの十人にも含まれているが、彼には常に、クラックによるデータ改ざんの噂がつきまとい、やがて一度は逮捕され、表舞台から姿を消していた。
 しばらく前から、あまり参加者の多くないワールドに復帰し始めたということは、リルやクレオも耳にしていた。
「レイフォードでも何かやらかすかもしれないな。ま、ズルして得しようとするヤツなんで、すぐにしっぺ返しを受けるよ」
「まあ、プレイヤーにも色んなヤツがいるからな」
 振り返りもせず、操縦桿を握ったまま、ジェンガンが口を挟んだ。
「世の中にゃ、こんな世界にいるくらいならずっと寝てたほうが面倒がないってヤツや、親兄弟とも二度と会えないなら、二度と目覚めないほうがいいってヤツもいる。それだけなら、他人に迷惑はかけないが……気に入らないワールドを潰そうってヤツ、気に入らない人間の意識体を消しちまおうってヤツもいる」
「クラッカーってヤツだねえ。逆に、役に立つハッカーもいるけどさ」
「そうだな。ルシフェルや読唇者、クレアトール、〈ブルーラージ〉みたいな連中だ」
 ルチルのことばに、パイロットは感心た様子でうなずいた。同じく、クレオも腕を組み、大げさに首を縦に振る。
「セルサスがいれば大丈夫だし、悪いのがいればいいのもいるってことだよ」
「そうだね」
 赤毛の少女は、日に焼けた顔に、眩しそうなほほ笑みを浮かべる。クレオの純粋さをうらやむような笑顔だ。
 その笑顔が消えた後、不意に、彼女は声のトーンを落として、独り言のようなことばを口にした。
「いつか、こういう生活とオサラバするときも来るのかな……あたしはけっこう、気に入ってるけどね」
 こういう生活――仮想現実、ヴァーチャル・リアリティー内での生活。
 五年ほど前まで、その外側、現実世界にも生活はあった。地球上の文明は発展し、ある程度の人間たちが太陽系外のコロニーで暮らすまでになっていた。
 しかし、突然現われた小惑星の落下を止めるほどには進歩していなかった。地球上の人類の半分は宇宙船で脱出できたが、もう半分は残るしかなかった。そこで選ばれた手段が、凍結睡眠である。

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