死神の裁定



 この街には、奇妙な噂があった。
 毎年クリスマスの喜びの裏で、一種の恐怖とともに噂されるのが、死神のことだった。クリスマスの前に、この街に必要ない、不幸で貧しい人間を消してしまうのだという。毎年クリスマスイヴに増加する自殺者の何割かは、実際は死神に消されたものだ、と言われていた。
 エナはその噂を思い出すと、去年まで待ち遠しかったクリスマスが、来て欲しくないような気持ちになった。
 去年まで、彼女の家は親子三人の、裕福ではないが幸せと言っていい家庭だった。それが、父は事故で亡くなり、母も病床についている。エナは必死に働いたが、母の看病をしながらの稼ぎでは、たかが知れていた。
 雪が舞う窓の外の通りは、明日、クリスマスの準備のために買い物に出かける家族連れが行き交っていた。幸せそうな家族連れを見ながら、エナは情けないような、惨めな気持ちだった。今日、死神が来るかもしれない。母と自分は、殺されるかもしれない。
「エナ。ここしばらく、何も食べてないんでしょう?」
 声をかけられて振り返り、エナは壁際のベッドを見た。母が、弱々しく顔を向けていた。
 母の薬を買う代金を作るには、満足に食事をとることはできない。エナは、数日ほど、まともな食事をしていなかった。それでも彼女は、安心させるように、ほほ笑みを浮かべてみせる。
「大丈夫よ、お母さん。あたし、若いんだから。何も心配しないで、病気を治すことだけを考えるの」
「一人娘が痩せていくのを、黙って見ているわけにはいかないよ……
「いいから、いいから。大丈夫。あたしはピンピンしてるんだから」
 心配そうな母に笑いかけて、エナは軽く胸を叩いた。
 母は娘の無理を見透かしているようにそれを見上げていたが、何も言わなかった。

 夜になると、ますます寒さがひどくなる。エナは数日前に郊外で集めておいた木の枝を暖炉にくべ、火の勢いを絶やさないように気をつけた。
 薄暗い狭い部屋に、去年と同じクリスマスツリーが飾ってある。それが何か滑稽で、出さないほうが良かったかもしれない、と少し後悔するが、今さらしまうのも面倒だった。
「今日はクリスマスなのよねえ……
 ベッドの母が、思い出したように言う。
「すまないね、エナ……本当なら、クリスマスプレゼントをもらっている年頃なのに」
「なに、そんなこと。もう、サンタクロースも信じてないくらいだもの。同年代の子より大人なのよ」
 エナは笑い、ベッドに近づいて、『メリークリスマス』とささやきかけた。
 母も、『メリークリスマス』と返した。
 去年までは、ささやかながらいつもより豪華な食事、それに、エナの大好物のケーキがテーブルに並んでいた。だが、今は大きすぎるテーブルは折りたたまれて壁に立てかけられたままだ。
 ただ、早く時間が過ぎて欲しくて、エナは毛布をかぶり、暖炉の前で丸くなった。
 燭台の灯が消えてしばらくして、うとうとしていた彼女は、妙な音を聞いた。死神のことを思い出し、思わず跳び起きる。窓の外、闇のなかに、白い人影が見えた。
 恐怖が一気に募ってくる。それでも、彼女は上着を肩にかけて、ドアの外に出て行く。いくら貧しくても、街にとって役立たずでも、一家二人ともが殺されることはないだろう。話せば、わかってくれるかもしれない。母だけは、見逃して欲しい。
 そう思って、恐れながらも外に出た。深夜らしく、通りに通行人はいなかった。いるのは彼女と、死神だ。
 死神の姿に、エナは驚いた。
 死神は、神父の服を着ていた。それに、まだ若い。エナとそれほど歳が離れていないだろう、少年だった。
「あなた……誰?」
 エナが尋ねると、相手は苦笑した。
「死神です。あなたたちに用があります」
 あの噂は、本当だったんだ――!
 エナは、凍りついたように立ち尽くす。この街にも、いくつか教会はある。仕事と看病で忙しくて、彼女は一年ほど、神に祈りをささげることもできなかった。そんな者は、聖職者にとって必要ない人間かもしれない。
「これが、ぼくたちの仕事ですから。ときに神の裁定を代行するのが」
 容赦なく言って、少年が近づいて来る。エナは膝をついて、祈るように手を組み合わせた。雪が剥き出しの膝に冷たかったが、そんなことを気にする余裕もない。
「お願いです! 母だけは、見逃してください! 母は信心深い人で、動けない身体になる前は毎日のように教会に通っていました。だから、母だけは……!」
「でも、あなたのお母様は、一人では食事も取れない状態なのでしょう?」
 不思議そうに問う相手に、エナは戸惑ったように答える。
「それは……わたしの職場の人にお願いしてみます。だから、それまで待ってください、お願い……
 懇願するように少年を見上げる。期待と不安の視線を受け止めながら、相手は首を振った。
「いいえ。今日中に消さなくてはいけない。それが、死神の役目です」
 彼は言って、強い意志を感じさせる目で少女を見下ろした。
「さあ、家のなかに戻りなさい。眠っている間に、すべて終わっていますよ。何も怖がることはない……
 そのことばに催眠術をかけられたかのように、エナは虚ろな目で立ち上がり、よろよろと家に戻っていた。
 このまま眠るように死ねるなら、それでいいのかもしれない。もう、苦しい思いもしなくてすむ。そのほうが、楽かもしれない。
 そう思いながら、彼女は暖炉の前で眠りについた。

 朝、エナはまず、目がさめたことを不思議に思う。
 クリスマスの朝は、晴れ渡っていた。暖炉の火は消えかかっていたが、それほど寒くない。
 毛布をたたんで立ち上がりかけたエナは、クリスマスツリーの下に、小さな箱を見つける。
 手にとって見ると、それはずっしりとして重かった。開けてみると、なかには何枚もの金貨と、カードが入っている。
 カードには、こう書かれている。

『メリークリスマス。神に代わって、慈悲の手を。
 
 これで、貧しい者は街から消されたでしょう?』

 金貨は、薬を買っても、医者を呼んでも、クリスマスを祝っても、たくさん余るほどあった。
 茫然としていたエナは、やがて、涙を流しながらカードを握り締めた。

 半年後。一組の母娘が、家を出て行くところだった。
「お母さん、お買い物の帰り、教会に寄りましょうよ。感謝の祈りを捧げなくちゃ」
 娘に言われて、ドアに鍵をかけていた母親が笑う。
「またいつもの教会ね、わかったわ、行きましょう」
「じゃ、早く行きましょう」
 明るい笑顔で答えて、少女は軽い足取りで歩き出す。
「まったく、すっかり信心深くなっちゃって」
「今、幸せでいられるのは、神様のおかげだもの」
「死神というサンタクロースの、でしょう?」
 再び笑って、母も娘を追いかける。
 この街には、奇妙な噂があった。
 毎年クリスマスの喜びの裏で、一種の恐怖とともに噂されるのが、死神のことだった。クリスマスの前に、この街に必要ない、不幸で貧しい人間を消してしまうのだという。
 毎年クリスマスイヴに増加していた自殺者の数は、年々減少しているという。

FIN.