「あの、すみません」
 心地よい陽気にウトウトと舟を漕いでいた月彦は、女性の声にハッと意識を取り戻した。
「ここ空いてますか?」
「ああ、はい。どうぞ」
 列車のクロスシートに腰掛けていた月彦は、伸ばしていた足を折りたたむようにしてスペースを作る。女性はぺこりと軽く頭を下げながら空いていた対面席へと腰掛け、その足下にキャリーバッグを寄せる。
(……一人旅かな)
 女の身なりを見て、月彦はまだ靄のかかった頭でそんなことを思う。髪はやや茶髪がかったナチュラルミディに薄い黄のジャケット、その下は黒のシャツに、カーキ色のコールパンツ。年は恐らく姉と同じ――二十歳前後――くらいに見える。社会人ではなく女子大生だろうなと思えるのは、化粧っ気の薄さも関係しているようだ。
(…………こっちはどう見られてるのかな)
 対する月彦も隣にリュックを置き、一張羅の青のジャンパーにセーター、ジーンズという出で立ち。おそらくは一人旅中の高校生か大学生――くらいには見えてると思いたかった。まさか家出人には見られていないだろう。
 あまりジロジロ見るのも悪い気がして、月彦は車窓の外へと視線を移す。最寄り駅からそう離れていない頃は民家やビル群ばかりが見えていたが、今はもう人の手が入っている場所を捜すのが難しいほどに自然に溢れている。
 ずいぶん遠くにきてしまったのだと、見慣れぬ景色に実感させられる。
「食べます?」
 視線を女に戻す。目の前にはお菓子の袋が口を開けられた状態で月彦の方へと向けられていた。
「ありがとうございます」
 断るのも悪い気がして、月彦は好意に甘えることにした。フルーツの形をしたグミを一つつまみ、口に放る。
「美味しいですね」
「もう一ついかがですか?」
「……すみません、いただきます」
 ここで断ったら、美味しいというのは嘘だったのかと思われそうな気がして、月彦はもう一つだけつまみ、口へと放り込む。
 女もさすがに再度勧めるのはかえって失礼だと思ったのか、それ以上勧めてくることはなかった。自身もグミを一つつまんで口に放り込むと、そのまま窓の外へと視線を向ける。
 その横顔に奇妙な程に目を惹きつけられ、月彦はついつい見入ってしまう。女は、取り立てて美人というわけではない。平均以上ではあるのだろうが、少なくとも一目見て惚れてしまう――というほど、好みなわけではない。
 それでも目を惹きつけられてしまうのは、単純な美醜以上の何かを女に感じるからだった。
「あっ」
 月彦の視線に気づいた女が、微笑を浮かべた。
「これ、ここに開けときますね。遠慮無く摘んじゃって下さい」
 どうやら、視線の意味を誤解されてしまったらしい。女は車窓の下側にせり出した小さなテーブル状のスペースに、菓子袋をパーティ開けにした状態で置く。
「ち、違います! ええと、その……」
 菓子をねだっていると思われた――それは赤面するのに十分な理由だった。しかし、代わりの言い訳が咄嗟に出て来ない。
「ひ、一人旅ですか?」
 そしてテンパった頭はよりにもよって最悪に近い指令を出してしまった。なんだそりゃと、口にした月彦自身突っ込みたくなるほどに。
(これじゃ、下手なナンパだ)
 無論そういう気など微塵もないのだが、誤解されては同じ事だ。事態が確実に悪い方向へと向かっていくのを感じつつ、なんとも居心地の悪い空気に冷や汗がでる。
「はい」
 実際には月彦が尋ねてから、女が答えるまでの時間は五秒にも満たないものだった。が、月彦には永遠にも等しく感じられた。苦笑混じりのその顔は、薄々ナンパなのかなと察しつつも、おませな年下男を可愛がるような、そんな大人の器を感じさせた。
「そう、ですか……実は俺もなんです」
 これ以上口を開くと、さらに事態の悪化――少なくとも今以上に居心地が良くなることは無いような気がして、月彦はそれきり口をつぐんだ。女の方もたまたま向かいの席になった年下男とこれ以上の親睦を深める気はないようで、特に話しかけてくることもなかった。
 程なく、車内に設置されたスピーカーから次の駅が近い旨が放送される。
「あっ、降りなきゃ」
 棒読みで言って、月彦は慌ただしく席を立ち、女に軽く会釈しながら隣の車両へと移動する。実は降りる予定の駅はまだまだ先だったのだが、あの居心地の悪い空間を無難に脱出する為にはこれしか方法は思いつかなかったのだ。
 月彦はそのまま列車の中を最後尾まで移動し、座席には座らずその端の影にこっそりと身を隠す。下車を装った手前、万が一にも女に姿を見られたくなかった。
(…………何やってんだろ、俺)
 誰にも気兼ねしない、自由気ままな一人旅を満喫する筈ではなかったのか。気がつくと遠慮まみれ気遣いまみれになっている現状に、ため息しか出なかった。
 
 

 

 

 

 

キツネツキ 特別編

『ナギリの宿』

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 


「父さま、大丈夫? 真っ青だよ?」
 思えば、全ては真央のその一言から始まったようなものだった。
「ああ、大丈夫だ。何も問題はない」
 とはいったものの、実際は問題は山積みだった。学生の本分である勉強が疎かになりつつある件――は比較的問題としての優先順位は低い。月彦が最も重視し、そしてその心にただならぬ負担をかけているのはもっぱら“女性関係”だった。
 それこそ四六時中、誰かしらのことを考え、次の休みにはああしなければ、今日の放課後はこうしなければ、休み時間には○○しなければ――と、ある意味一瞬たりとも気の抜けない日々が続いていた。そのせいで、一度は体を壊し吐血までした程だ。
 幸い一時的に症状はよくなったものの、完治にはほど遠い。それでいて矢紗美のレコーダーの件、都との間に出来た秘密の件等々、元々あった菖蒲と白耀の件に加えての案件まで追加されて、その心労は頂点に達した。
 加えて、暇さえあれば何かと“二人の時間”を作ろうと半ば強制してくる雪乃の存在もまた厄介だった。雪乃本人の事は決して嫌いではないし、その少しばかり面倒くさいところも可愛げがあると言えなくもないのだが、背中にめいっぱいの荷物を背負い、両手にも持ち頭の上に壺までのっけているというのに、さらに荷物を持たせようとしてくるのだから堪らない。……最も、雪乃には自分が持たせたい荷物以外は見えていないのだから、仕方ないとは思うのだが。
 一緒に住んでいて、いつでも二人の時間を持てるのだから――そういう理由から、ついつい後回し気味になっている真央へのケアも気がかりの一つだった。月彦としてはもっと頻繁に二人で出かけたり、真央の行った事の無い場所に連れて行ってやったりしたいのだが、何かにつけて休日という休日が厄介事の処理で潰される為、それも満足に出来ないのだ。
 真央がその状況であるのだから、由梨子に対する申し訳なさはその比ではなかった。家族と離ればなれになり、最も傷ついているであろう由梨子の力になってやりたいのに、それも出来ない。
 全てが自業自得から発生した問題である為、誰のせいにする事も出来ず、そして公にも出来ない問題が多すぎる為、手助けすらろくに借りられない。いくら葛葉が五体満足な体に産んでくれたとはいえ、これで体調を崩さなかったらもはや人ではないという程に、忙殺の毎日を送っていた。
 結果、月彦は真央に大丈夫だと答えたその側から――正確には夕食前に答え、その後の入浴後に――倒れた。
 とはいえ、意識を無くしたわけではなく、どちらかといえば立ちくらみに近いものだった。幸い完全に意識が飛ぶ前になんとか持ちこたえ、膝をつく程度で済んだ。が、体を拭き、鏡の前に立つや、自分の様相にギョッとした。確かに真央の言う通り顔色は死人のそれに近く、全体に“疲れ”がにじみ出ているのだった。
(……ヤバいな)
 自身の体からの手応えも併せてそう感じるも、かといってどうする事も出来ない。例え寿命を削りながらでも、一つずつ順番に解決していくしか方法が無いからだ。最も、一体どの問題から手をつければよく、そしてどうすれば解決出来るのかも解らないのだが。
 脱衣所を出て、台所の前を通った時だった。
「月彦、ちょっといいかしら?」
 流し台で洗い物をしていた葛葉が水を止め、くるりと振り返った。
「何、母さん」
「今度の週末、確か月曜日までお休みで3連休でしょう? ちょっと遠くまでお使いに行ってきてくれないかしら」
 母の言葉に、月彦はげんなりせざるを得ない。そう、確かに葛葉の言う通り、次の週末は月曜日が祝日な為三連休となっている。故に、少しくらいは体を休められるかもしれないと希望を抱きかけていた矢先のお使い命令だからだ。
「……どこに行けばいいの?」
「名切神社って聞いた事あるかしら」
「……ないと思う」
「ここからなら……電車で片道六時間くらいかしら。とにかくその神社の神主さんに書類を届けて欲しいの」
「…………郵便じゃダメなの?」
「ちょっと特殊な場所なのよね。それに大事な書類だから」
 どうやら葛葉は民営化された郵便局をあまり信用していないらしい。もしくは、その神社というのが本当に人も通わぬ奥地にあるのかもしれない。
(……そんな所におつかいって……)
 優しいときは優しいが、鬼になるときは本当に鬼のようだと、月彦は実母に対して震え上がった。
「それに、近くには温泉つきの旅館もあるし、おつかいついでにゆっくり羽を伸ばしてくるのもいいんじゃないかしら」
 が、次の葛葉の言葉を聞いた途端、震えは止まった。葛葉はさらに、濡れた手をタオルで拭きながら、小脇に抱えていた封筒を差し出す。
「去年のお中元にもらったこの旅行クーポン券、そろそろ使わないと有効期限が切れちゃうの。……二泊三日のおつかいになるけど、気が進まないかしら?」
「二泊三日のおつかい……か」
 最近真央と二人でどこかに出かける機会も無かった。行き先が温泉つきの旅館では“前回のおでかけ”と代わり映えがしないが、この際贅沢も言えない。
「わかった、行ってくるよ」
 月彦は頷き、快諾する。――そうそう、と葛葉が言葉を続ける。
「今回は真央ちゃんと一緒じゃダメよ」
「へ? ……な、なんでだよ母さん! 別にいいだろ!?」
「…………真央ちゃんと一緒だと、ゆっくり休めないでしょう?」
 ふふふと、意味深な笑みを浮かべられて、月彦はそれ以上の言葉を紡ぎ出せなかった。葛葉の言い様は、単純に真央が手のかかる子供という意味では無く、“それ以外の意味”を暗示しているように聞こえたからだ。
「心配しなくても、それは真央ちゃんも望んでいることなの。…………一人でのんびり楽しんで来なさい」
 ぽん、と葛葉は肩を叩き、流しの前へと帰って行く。
(…………一人旅、か)
 それは現在の状況に窒息しかかっていた月彦にとって、まさに希望の光にも感じられる言葉だった。



 何となく浮ついた気分で自室へと戻ると、一足先に入浴を終えてパジャマ姿の真央が何をするでもなく、ベッドに腰掛けていた。
「あっ……父さま……お帰りなさい」
 部屋に入るなり、真央は何か言いたげな――しかし言えない――そんな顔を向けてくる。真央のその姿を見て、月彦はやはり葛葉との間に何らかのやりとりがあったのだろうと察した。
「……母さんがさ、一人でおつかいに行ってこいってさ」
「うん、私もさっき聞いたよ」
「…………俺としては、真央と一緒が良かったんだけど……」
 真央の隣に座りながら、ちらりと視線を送ると、真央は静かに目を伏せ、首を振る。
「義母さまが、ついていっちゃダメだって。…………私も、今回はその方がいいと思う」
「真央……」
「最近の父さま、元気無さ過ぎだもん。義母さまの言うとおり、一人でゆっくりして、早く元気な父さまに戻って欲しいの」
「…………俺、そんなに元気無いように見えるのか」
 真央はためらい気味に頷く。
「だって、その……前は……毎日シてたのに……」
 ごにょごにょと、真央が照れながら小声で呟く。
「最近はあんまり……朝までずっととかも全然ないし…………だから、父さま疲れてるのかなぁ……って……」
 うぐ、と。月彦は胸を刺すような痛みに襲われ、思わず手で押さえてしまう。
(た、確かに……最近は……)
 以前のように、毎晩真央を抱き、流れ次第ではそのまま朝まで――という事は減った。それは勿論肉体的な疲労や、精神的な疲労が関係はしているのだが、あくまで“減った”だけで完全に無くなったわけではない。
(…………そうなんだよなぁ。……どんなに疲れてても、こうやって真央の側に居るだけで……)
 ムラムラと、抑えがたい獣欲がわき起こるのを感じる。まだ性経験どころか、子供の作り方すら知らないようなあどけない顔立ちからは、その“本性”は全くと言っていいほどに見透かすことは出来ない。しかし一度事が始まれば、母譲りの肉体を淫らにくねらせながらも羞恥に悶え、そして悶えながらもどこまでも貪欲に求めてくる。この幼さを残した顔で、たっぷりと注がれた精液を自らの指に絡め取り、物欲しげに舐めながらもっと、もっととせがんでくるのだからたまったものではない。
(………………ひょっとしたら、不調の一番の原因は……真央とヤリ過ぎだからじゃないんだろうか)
 そう、明らかにヤリ過ぎなのだ。ヤリ過ぎるほどにヤッている筈なのに、それでも真央の体が欲しくて欲しくて堪らない。……さながら、極めて中毒性の高い危ない薬のように。
 そう、中毒性。その一点において、真央はぬきんでていると言わざるを得ない。確かに真央以外の女性との行為において“これはクセになるかも”と思う事は少なくない。が、実際に“抱かずにはいられない”ほどに惹きつけられるのは真央一人だけだった。
 仮に、突然死神のような存在が現れ「お前はあと1回娘とヤッたら死ぬ」と告知をされたとしても、きっと自分は我慢できないだろうと。月彦が感じる中毒性はそれほどまでに凄まじいものだった。
(…………まさか、母さんにそこまでバレ………………てない事を祈ろう)
 そういう意味では、一人旅に真央を連れて行ってはいけないという葛葉の命令は的確なのかもしれない。
(……おつかい、っていうのは……多分建前だな。…………母さん、ありがとう)
 本音は、息子の様子を見るに見かねて羽を伸ばさせてやろうという親心なのだろう。ならば、二泊三日の旅行で存分に羽を伸ばし、以前の元気を取り戻す事が自分に出来る最大級の親孝行、そして娘孝行になるのではないか。
(………………旅行の間だけは、旅行を楽しむ事だけを考えることにするか)
 折角の一人旅だというのに、うだうだと思い悩んでいるのは愚の骨頂だ。旅行の間だけは羽を伸ばすことに専念し、まかり間違っても心身に負担をかけるような行動は慎もう――月彦がそう決心した瞬間だった。
 背後で、ガラガラと。不吉な音が聞こえたのは。
「おーーっす、二人ともー。爛れた毎日送ってるー?」
 姿を見なくとも、その侵入経路と声を聞くだけで、誰が入ってきたのかは確かめるまでもない。無言のうちに、月彦は手のひらで目頭を覆い、がっくりとうなだれる。
(…………最近全然顔を出さないと思ってたら)
 よりにもよってこのタイミングかと。一人旅を満喫するために、絶対に関わり合いになってはいけない女の登場に、月彦は神と運命を呪いたくなる。
「と、父さま……大丈夫?」
「あっれー。ひょっとして、イイところ邪魔しちゃった?」
 ベッドに身を寄せ合うように座っている二人を見下ろす形で勉強机に腰掛け、足をまるで見せつけるように組みながら、真狐はニヤニヤと笑う。
「別にシたいならどうぞ? あたしは気にしないから」
「………………頼む、今日は帰ってくれないか」
 月彦は目元を覆ったまま、ただそれだけを言った。今日に限っては、もはやくってかかる元気もなかった。
「なになに、どーしたの? 風邪でも引いた?」
 しかし、月彦は忘れていた。この女は、相手が弱っているからといって同情をかけたりはしない。むしろトコトン追い打ちをかけてくる女だということを。
「か、母さま……あのね、父さまちょっと疲れてて……」
「ふぅーん……そりゃ疲れもするでしょーねぇ? ひぃふぅみぃ…………えっと、今何股――」
「ば、バカ野郎!」
 月彦は慌てて真狐の口を塞ごうとするも、すんでのところでひょいとかわされる。
「あっ、これ秘密なんだっけ? うっかりしてたわぁー」
 棒読みで言いながら、真狐は自分の頭をこつんと叩き、ぺろりと舌まで出す。……見え見えの挑発に、月彦はがっくりと全身から力が抜け、その場に両膝をついて崩れ落ちる。それは演技ではなくある意味では本気――ではあったが、月彦なりに狙いがあった。
(……どうだ、からかい甲斐がないだろう?)
 “獲物”の活きが悪ければ楽しみも半減――猫がネズミをいたぶるのはそれが生きているからであり、死んだネズミにはそれこそ見向きもしないものだ。
(今の俺はお前なんかに構っている余裕も、暇もないんだ!)
 半死人のようにうなだれながら、月彦は密かに期待していた。「あーあー、つまんない」と零して真狐が去って行くことを。
「……あんた、何持ってんの?」
 しかし、現実はその真逆。むしろ真狐は興味をそそられるように、目を爛々と輝かせながら月彦の手に握られているものを凝視していた。それは月彦自身、自分がそれを持っているという事を半ば忘れていたものだった。
「あっ…………こ、これは……」
 手に握っている封筒を慌てて隠――そうとして、月彦は手を止める。そんな事をすれば、この女は是が非でも中身を確認しようとしてくるだろう。
「……宝くじだ」
「たからくじぃ!?」
 語尾につれて声が高くなるような、そんな素っ頓狂な声。その呆れ声に、どうやら興味を逸らすことに成功したらしいと、月彦は内心ほくそ笑む。
「な、真央。二人で買ったんだよな」
「う、うん……当たるといいなぁ」
 演技力の欠片もない、真央の棒読みに月彦は脂汗が止まらない。勿論中身は宝くじなどではなく、先ほど葛葉からもらったばかりのクーポン券なのだが、それを見せるわけにはいかない。
(この女にだけは……)
 週末の旅行のことを知られるわけにはいかない。否、最悪旅行に行くという事自体はバレてもいい。それがただのおつかいではなく、心身ともに羽を伸ばすという目的であるということさえバレなければ。
(…………もしそうだと解ったら……)
 この女のことだ。嬉々として絡んできて、旅行を台無しにするに決まっている。そういうことにだけは手間と労力を惜しまない女であるということを、月彦は誰よりも知っている。
「宝くじって、富くじのことでしょ? あんたもつまんないもの買うのねー、そんなもの当たるわけないじゃない」
「うるさい、俺の勝手だろ」
 唇を尖らせながら、月彦はズボンのポケットへとしまい込む。知らぬ間に抜き取られるなどということがないよう、ポケットの中ではしっかりと握りしめ続ける。
「ふぅん……………………………………………………ま、いっか」
 ぶんっ、ぶんっ。
 尾を右、左と大きく振って、真狐は呟く。そしてあっさりと踵を返すと、先ほど自分が入ってきた窓をガラガラと開けた。
「あたし、急用を思い出したから帰るわ」
「急用……?」
 月彦の問いに、真狐は机の上に足をかけながら、ニタリと笑う。そのままひゅんとつむじ風を残して外へと飛び出していく。あとぜきなどは、もちろんされなかった。
「…………いやにあっさり帰ったな」
 そのことが逆に薄気味悪くもある。あの女が去り際に見せた意地の悪い笑みは一体どういう意味だったのだろうか――。
「……大丈夫。バレてない……よな?」
 窓を閉めながら、縋るように真央の方を振り返る。真央は肯定も否定もせず、ただ困ったように笑った。


 月彦の不安とは裏腹に、旅行に出発する当日まで特にこれといった妨害も邪魔も入ることは無かった。必ずなにがしかの妨害をしてくるに違いないと決めつけていた月彦としては拍子抜けだったが、邪魔が入らないことを不安がるというのも妙な話だと、あの女の事は気にしないことに決めた。
 朝、真央と葛葉に見送られ、最寄り駅から電車に乗る。特急などは使わず、ひたすら鈍行ののんびりとした旅だ。時折乗り換えで手間取りながらも、月彦は十二分に気楽な一人旅を満喫していた。

(……そうだ。俺は羽を伸ばす為に真央すら置いてきたんだ。それなのに)
 座席の端、手すりつきの衝立のようになっているその影に身を潜めながら、月彦は小さくため息をつく。先ほど向かいの席に座った女が一体どの駅で降りるのか解らない為、月彦は結局本来降りる筈だった駅まで約一時間もの間、隠れ続ける事になったのだ。勿論、無いとは思うが女も同じ駅が目的地であった可能性を鑑みて、列車が出発するギリギリまで車内に留まるなどの小細工も忘れない。
「やれやれ……やっとついたか」
 列車を降り、駅のベンチにリュックを置き、その隣に腰を下ろして一息をつく。腕時計の文字盤へと目をやると、時刻は午後六時過ぎ。家を出たのが八時である事を考えると、移動だけで九時間以上も費やした計算になる。
(母さんは電車で六時間って言ってたけど、飯食ったり乗り換えで手間取ったりで結構時間くったからなぁ……)
 六時間というのは、効率的に乗り換えをしつつ純粋に移動のみに費やした場合の移動時間なのだろう。
「さて……どうするかな。先に旅館に行くかそれとも……」
 腹ごしらえを済ませるか。月彦は旅館の住所とだいたいの地図を書き込んだメモを取り出す。駅から旅館まで、徒歩で約二十分とある。まずまずの距離だが、あえてタクシーの必要性を感じる距離とも思えない。
(でも徒歩で約二十分か……チェックインが七時だから、あんまり時間はないな)
 こうなると、予約の電話を入れた際に夕飯は要らないと断ったことが悔やまれる。月彦としては、初日は少し早めに現地へと到着し、辺りをぶらつきながら気に入った店に入って夕飯を食べるつもりだったのだ。
 家を早めに出たのも、その街をぶらつく時間を作る為であったのだが、ここにきて大きく計算が狂ってしまった。そしてさらに月彦の狂わせたのが、辺りの人気の無さだった。
「…………ここ、まさか無人駅……か?」
 列車の中から観察していた限りでは、十人近くの人間は降りていた筈なのに、今現在駅のホームに留まっているのは月彦一人。周りを見ても改札口らしきものは見当たらず、喫煙所も、飲み物の自販機すらも無かった。
 リュックを背負い、駅を出るも、辺りには飲み屋一つ発見出来ない。普通駅前といえば雑多とした人混みと、それらにターゲットを合わせた飲食店がセットになっているものだと思い込んでいた月彦にとって、これは軽くカルチャーショックだった。旅館に着く前に夕飯を食べるか否かを論じる前に、まさか飲食店そのものが存在しないとは思ってもみなかったからだ。
「…………田舎の夜は暗いって聞くけど、本当なんだな」
 まだ、完全に日が落ちたわけではないというのに、月彦はそれを実感せずにはいられない。街灯が無いわけではないし、ちらほらと民家も見える。それらも廃屋ではなく窓にはきちんと明かりが点っているのだが、それらが問題にならないほどに夕闇が濃いのだ。
 これは道が解らなくなる前に早く旅館に着いた方がよさそうだ――月彦はそう判断し、歩き出した。幸い、旅館への道は駅からほぼ一本道である為、暗闇で何か変なものに化かされでもしない限りは迷う事は無いだろう。
 まるで一歩踏み出すごとに、完全な暗闇へと辺りが近づいていくような――そんな錯覚にとらわれながら、月彦は歩き続ける。
 歩きながら、月彦はふと、朝出発するまでの事を思い出す。浮かれてはいけないと思いつつも、週末の旅行を楽しみにしながら送る学生生活。本来ならば、友人やせめて親しい後輩である由梨子にくらいは旅行に行くことを話し、土産の約束くらいはしたかったのだが、月彦はあえて伏せ続けた。
 一つは、これはあくまで旅行ではなくおつかいだと自分の中でけじめをつけるためだ。もう一つは、いつどこで盗み見、盗み聞きしているかもしれない“あの女”にも極力情報を与えない為だった。
 その甲斐があったのかどうかは定かでは無い。が、少なくとも今に至るまで一度も邪魔らしい邪魔は入らなかった。そのことが逆に怖くもあり、同時にこのまま何事も無く最後まで終わってくれと願わずにはいられない。
(……いかんいかん、“あの女”のことなんて頭から消さなきゃダメなんだ)
 そうでなくては、気晴らしにならない。真央を家に残してまで一人旅をしているのだ。それはもう劇的なほどに気晴らしをしなければ申し訳がないというものだ。
(のんびりして、温泉に入って、おいしいもの食べて、おつかいに行って、温泉に入って、おいしいものを食べて、のんびりしたら家に帰るんだ)
 そして家に帰ったら、心機一転。山積みになっている問題を一つ一つ解決するのだ。
 月彦は歩く。歩き続ける。
 やがて道は緩やかな上り坂になり、その先に小さな光が見えてきた。それは近づくことに大きな光となり、分裂するように小さな光の集合へと変わる。やがてそれらがライトアップされた旅館であると解る事には、月彦の足は殆ど小走りになっていた。



 

「……ちょっと、どういう事なの!?」
 旅館の正面玄関、その自動ドアを潜るなり、月彦はそんな女性の声を耳にした。見れば、なにやら受付のところで揉めているようだった。
「私はちゃんと電話で予約をとったのよ? なのに泊まれないってどういうことなの?」
「で、ですから……今説明申し上げました通り、当方の不手際で……」
 若い女にすさまじい剣幕でまくし立てられ、受付係らしい中年男はしきりにハンカチで汗を拭いながら頭を下げていた。
(……困ったな、早くチェックインしたいんだけど)
 困った事に受付にはその背が低く妙に額の後退した中年男性しか居らず、彼は若い女の客に怒鳴り散らされている真っ最中なのだ。ここで下手に割り込もうとして、女の矛先が自分の方を向いては堪らない。故に月彦は二人から距離をとり、事が収まるのを待つことにした。
(…………厄介事には巻き込まれたくないんだ)
 この三日間だけは、事なかれ主義者になろうと決めている。仮に目の前に美人でおっぱいの大きい金髪の外国人美女が地図を手に困っていても「きゃないへるぷゆぅ?」等とは死んでも口にしない覚悟だ。
 が、月彦の期待とは裏腹にもめ事はなかなか収束しなかった。どうやら男よりさらに立場が上らしい男が奥から現れ、女と話をしているが、漏れ聞こえる部分をつなぎ合わせるにどうにも収束の気配がない。
(…………ふむ、だいたい話が見えてきたぞ)
 どうやら事は旅館側のダブルブッキングが問題らしい。女性は正規の手続きを踏み、予約をとったが旅館側がミスをして、一つの部屋に二人の宿泊客をとってしまった。今になってそのことが発覚したが、かといって先に予約をしているであろう客に辞退しろと旅館側が言えるはずも無い。なんとか穏便に女に引き取ってもらおうとしているが、女は女で自分は目的があって泊まりに来たわけで、追い返されても困ると食い下がっているらしい。
(…………他の部屋が空いてれば事は簡単だったんだろうけど)
 どうやらこの旅館、思っていた以上に人気らしい。話を聞くに、部屋は全て埋まってしまっているのだそうだ。そして辺りには他に宿泊できそうな施設もないのだということを、月彦は女の悲痛めいた言葉で知った。
(…………可愛そうだけど、人間である以上、誰でもミスはするからなぁ)
 女性にも同情するが、旅館側にも同情を禁じ得ない。無論、客商売である以上、絶対にやってはいけない類いのミスなのだろうが。
(っと、ヤバい。もう七時になるじゃないか)
 チェックインの時間を少々過ぎたからといって予約が取り消しになるような事はないだろうが、時間を決めてある以上遅れて余計なトラブルを起こしたくはない。ましてや、今のこの現状だ。時間までにチェックインがされなかった事を理由に「でしたら、こちらのお部屋をキャンセル扱いということで、特別にお客様にお譲りする形で対応させていただきます」などという話にされては目も当てられない。
「あの……すみません」
 月彦はなるべく女を視界に入れないようにして、受付に体を寄せる。中年男も、さらにその上司風の中年男も、まるで救世主を見るような目で月彦を見た。
「七時に予約していた紺崎ですけど」
「は、はい! 紺崎様ですね! お待ちしておりました!」
 額の後退した中年男が、今にも泣きそうな顔を無理矢理笑顔にしたような、そんな憐憫を誘う営業スマイルで言い、なにやら手元のパソコンの操作を始める。月彦は素知らぬ顔で手続きが完了するのを今か今かと待った。
(…………頼むから、俺に絡んでこないでくれよ……?)
 幸い、月彦の介入が一種の水入りとなったのか、女性はわめき立てる事も無く沈黙を守っていた。
 が、手続きが完了して月彦が部屋の鍵を受け取り、足早にその場を去ろうとした刹那。
 その肩が、唐突に掴まれた。
「……ねえ、キミ。もしかして……さっき電車で一緒だった子?」
 喚き散らしていた罵声では解らなかったが、“その声”には聞き覚えがあった。
「ちょーっといいかな? お姉さん、キミにお願いがあるんだけど」



「ゴメンね−、なんか無理言っちゃったみたいで」
 受付での悶着から数分後。月彦は本来一人で泊まるはずだった旅館の405号室の靴脱ぎ場でドアを背に立ち尽くしていた。
 そう、今回の旅行は一人旅。一人でゆっくりと羽を伸ばすのが目的の旅。故に、最愛の娘真央すら家に置いて来た。
 だというのに、今月彦の目の前では――十畳敷きの和室にでんと大きなテーブルが中央に置かれた居間では、ろくに知りもしない女性が上着を脱ぎ、ハンガーにかけようとしている。
「でもさ、本来私が泊まる筈だった部屋もここだったんだし、そう考えれば私にも泊まる権利は半分くらいあるわけだし、まんざら支離滅裂な要求ってわけでもないよね」
 上着を掛け終えた女は荷物を居間の奥の板張りの間へと移し、さらにあちこちの襖やら扉やらを開けては感嘆とも落胆ともとれない声を漏らしていた。どうやら泊まる部屋の設備を確認しているらしい。
「うーん、上等な宿じゃないってことはネットの評判で知ってたんだけど、まさかユニットバスとはねー。……ま、一応下まで降りれば温泉があるんだからいいっちゃいいんだけどさ」
 女はテーブル脇に座布団を敷き、どっこらせーと声を上げながら腰を下ろす。さらにテーブルの上に置かれていた菓子入れからビニール袋入りのせんべいを手に取り、封を開けてかじりつき、その段階になって漸く。
「ねえ、キミ。いつまでそこに突っ立ってるのさ。遠慮しないで入ってきなよー」
「……はい」
 月彦は靴を脱ぎ、居間へと入る。玄関を背にして右手側にテレビ、左手側には襖があり、半開きになっている向こうは居間よりもやや狭い和室になっているようだった。恐らく寝室になるのだろう。
 さらに居間から障子戸を経て板張りの間へと移動する。こちらは藤製の椅子が二組、それに挟まれてテーブルが一つ。広さは畳を縦に四つ並べたほどで、転落防止の為か、決まった角度までしか開かない回転式の大きな窓の向こうはテラスやベランダの類いなどは無く、代わりにお世辞にも百万ドルとは言えない、せいぜい五ドル程度の夜景が見える。……月彦は黙ってカーテンを閉じた。
 板張りの間に荷物を置き、居間へと戻る。殆ど吸い込まれるように、月彦は部屋の隅へと移動すると、そこに背中をつけて体育座りをする。自分でも不思議な程にその場所がしっくりくるのを感じる。まるで専用の場所として自分のために用意されていたような気さえする程に。
 女はといえば、いちはやくリモコンを手にテレビをつけ――どうやら有料ではないらしい――バラエティ番組を見て笑いながらせんべいをかじっている。列車内での他人行儀な会話が懐かしく思えるほどに、女の振るまいはくだけきっていた。
 まるで自宅で寛いでいるような女の様子を見ながら、月彦は考える。
 何故、どうしてこのようなことになってしまっているのか。
 何故一人で泊まる筈だった部屋の中に、よく知りもしない女性が居て、しかもせんべいを囓りながらテレビを見て笑っているのか。
 月彦は記憶を辿る。それはほんの数分前の出来事で、決して難しくはなかった。
『同じ電車に乗ってて、同じ旅館に予約を入れてるなんて、これはもう運命だよね!』
『一人旅も悪く無いけどさ、やっぱり旅は話相手が居た方が断然楽しいよ?』
『ねえほら、旅館の人もなんかいろいろサービスしてくれるらしいし、しかも料金二人で一人分にしてくれるんだってさ! 悪い話じゃないと思わない?』
『はい決まり! だーいじょうぶだって、年下だからって取って食べたりしないから!』
 背中をバンバン叩きながら機関銃のように早口でまくし立て、ろくに拒絶の言葉も喋らせてもらえないままに強引に同じ部屋に泊まることが決められた。旅館側も「こいつに押しつけてしまえ」といった感じで、ここぞとばかりに笑顔を取り戻し、女の提案に便乗してくる始末だ。挙げ句、本当か嘘か――月彦は方便の可能性が高いとみているが――女がブッキングした部屋は月彦が予約をいれた部屋であり、二人で泊まるというのは落としどころとして筋が通っているというような事まで口にしていた。
(なんで、こんなことに……)
 偶然というには、あまりに出来すぎているように思える。たまたま電車で向かいの席に座った女性が、たまたま旅館側のミスで宿泊する部屋がなくなり、袖すり合うも多生の縁の理論で同じ部屋に泊まる羽目になる――そんな偶然があってたまるかと。
 或いは。これも全て普段の行いが招いた報いではないかという気もする。親友に対して不義理な真似をし、さらに雪乃にも矢紗美にもどっちつかずの態度でその時その時の快楽に流されるような選択肢を選び続けた報いがこれなのではないかと。
 お前のような人間に、一人で羽を伸ばすなどという贅沢は許さない――そんな神の声を、月彦は聞いた気がした。
「食べる?」
 気がつくと、女が身を乗り出すようにしてビニール袋入りのせんべいを差し出していた。
「……どうも」
 枯れ木のような声で言って、月彦は数ヶ月ぶりに木から下りたナマケモノのような歩き方でせんべいを受け取り、再び部屋の隅に戻る。受け取りはしたが、食べる気はしなかった。夕飯も食べていないから腹は減っている筈なのだが、どうにも食欲が無いのだった。
「あー……」
 そんな月彦の様子に、さすがにただ事では無いと感じたのか。女は徐にテレビのリモコンを手にとると、音量を下げ始めた。
「えっと、今更だけどゴメンね。私、なんか一人で勝手にハシャいじゃってたけど、よく考えたらキミにはすっごく迷惑な話だったよね」
「…………いえ、いいんです。多分、これも自業自得ですから」
「自業自得の意味がよくわからないんだけど………………んーと……とにかく元気出しなって! ちょっとキミ暗いゾ? 昼間はもっと笑顔見せてたのに」
 はあ、としか月彦は言えなかった。女が言うように元気を出したほうが何かと便利なのは理解出来るが、理解ができるからといってそれが実行できるかどうかはまた別問題だった。
「…………あれ? キミ……」
 月彦の方を見ていた女が、突然「んん?」とばかりに眉を寄せる。
「………………前に会ったことない?」
「昼間、電車の中で会いましたね」
「そうじゃなくて、もっと前………………あれ、気のせいかな」
 じぃと。訝しむような目を向けられて、月彦は反射的に視線を逸らしてしまう。
「待って…………キミ、名前なんていったっけ」
「紺崎……月彦ですけど」
「……で、キミは高校生?」
「はい」
「ひょっとして、お姉さん居る?」
 月彦は頷く。
「お姉さんの名前は…………紺崎、キリア?」
「どうしてそれを?」
 月彦の言葉に、女は少なからず衝撃を受けたらしかった。目を剥き、体を硬直させての、絶句。
「うっそ……こんな偶然ってあるの?」
 それは先ほど月彦自身思ったことだった。しかし、女が言っているのは別の偶然らしい。
「あの、さっぱり飲み込めないんですけど…………ひょっとして姉の知り合いの方ですか?」
 問いながら、月彦は内心違うだろうなと思っていた。目の前の女からは、“霧亜の匂い”がしないのだ。
 そう、霧亜に抱かれ――身も心も奪われて虜にされた女性特有の、あの敵意を剥き出しにした目。どうしてお前みたいなのが姉様の弟なのだと、憎しみすら込められた視線が、眼前の女からは感じられないのだ。
「……ちょっと待って。混乱してるの」
 女は左右の手のひらを鼻と口元を隠すような形で合わせ、なにやら真剣な面持ちで黙り込む。
 五分ほどはそのまま黙り込んでいただろうか。月彦は律儀に待ち続け、そしてその沈黙は唐突に“第三者”によって破られた。
 女の上着の方から、携帯の着信音らしきメロディが流れてきたのだ。
「……ごめん、ちょっと外すね」
 女は立ち上がり、ハンガーにかけてある上着のポケットから携帯を取り出すと、板間の方へと移動する。
「もしもし? うん、丁度今ついたところ」
 板間と居間は障子戸で区切ることはできるが、そんなことをしたところで話し声を遮断することは出来ない。会話を耳に入れないようにするには部屋を出るしかないのだが、さすがにそこまでする義理もないように思える。そもそも、本当に聞かれて困るような話をするつもりならば、女の方が部屋を出てから話をするのではないか。
 つまり、この会話は別に聞かれても構わない話なのだろう。故に月彦は別に耳を塞ぐでもなく、音量が抑えられたテレビの方へと視線を向ける。
「うん、うん……解ってるって。だから、その話は旅行から帰ってからするって最初に説明したじゃん。…………うん、何度も言わなくても解ってるから。もう切るね?」
 後半、苛立つような声で女は一方的に通話を切り、居間へと戻ってくる。ふううと大きくため息混じりに腰を下ろし、殆ど投げ出すように携帯をテーブルの上に放った。
「えっと……何の話だったんだっけ」
「姉の知り合いですか?って俺が尋ねて――」
 そこで再び、携帯が鳴動を始める。先ほどと同じメロディを奏で、ピカピカと明滅するが、女は手に取ろうともしなかった。
「……あの、鳴ってますけど」
「いいの、ほっといて。どうせ彼からだから」
「彼氏さん……ですか?」
 だったらなおのこと、取った方がいいのではないだろうか。そんな月彦の考えを見透かしたように、女は笑う。
「いいのよ。丁度お風呂入ってたーとか、後で適当に誤魔化しておくから。…………無理矢理にでも終わらせないと、一時間も二時間も中身の無い話に付き合わされるの。……ごめんね、何度も話の腰を折っちゃって。……キミのお姉さんの知り合いなのか、っていう質問だったよね」
「はい」
「私は、キリアさんには一度も会ったことはないわ」
 でしょうね、と言えば、それは失礼な物言いだろう。月彦は黙って頷いた。
「でも、姉のことは知ってる、と」
「うん。キミのこともね、……紺崎月彦くん」
「ずいぶんと思わせぶりな言い方ですね」
 情報を小出しにする女に対し、月彦は焦れのようなものを感じていた。くすりと、女は笑う。
「ゴメンね。私自身、キミに自分をなんて紹介したらいいのか解らなくて困ってるの。…………まさか正直に“あなたたち姉弟に人生を狂わされた者です”なんて言うわけにはいかないじゃない」
 えっ――月彦のそれは、声にならなかった。
「月彦くん、私はキミのことはキミが幼い頃から知ってるし、キミがどんな男の子なのか興味もあった。……でもね、決して会いたいとは思ってなかった」
「あなたは……一体、誰なんですか?」
「私は………………そうだね、ナナさんとでも呼んで。“名無し”のナナさん。今はそれで十分」
「十分じゃないです! 本当の名前を教えてください!」
 女――ナナは静かに首を振る。
「……言ったでしょ。混乱してるの。…………キミに名前を名乗っても大丈夫なのかどうか、しっかり考えてからじゃないと名乗れないよ」
「どういう……意味ですか?」
「………………私とキミの間には、少なからず因縁があるってことだよ」
 ナナは、静かに笑った。


 一連のイザコザで、旅館についた旨を葛葉に伝えるのをすっかり忘れてしまっていた。一応は旅館の売りらしい温泉へと出向くついでに月彦は一階ロビーにある公衆電話から葛葉に電話をかけ、無事旅館に到着した旨を伝えた。
『そう、無事についたみたいで良かったわ』
 葛葉はいつもの調子でそう言い、真央に変わろうかと切り出してきたが、これは月彦の方が断った。真央と話をしたくなかったわけではなく、話をしてその声の調子で厄介事が起きていると見破られるのが怖かったのだ。“元気になる為”に一人旅をしているというのに、その声の調子がいきなり消沈していれば、真央に余計な心配をかけることになるであろうから。
 通話を終え、脱衣所へと向かう。さすが満室というだけあり、脱衣所は半裸全裸の男達でごった返していた。月彦もその中に混じり、服を脱いで大浴場へと向かう。
(……普通の風呂だな)
 大浴場に一歩足を踏み入れるなり、そう感じた。一般家庭の風呂という意味ではない。“普通の大浴場”という意味で、実に特徴の無い光景がそこには広がっていた。一面水色のタイルに覆われ、奥には二十人は同時に入れそうな湯船が見える。入り口脇にはサウナ室への入り口があり、さらに奥には露天風呂へと通じるガラス戸もあった。……別にタイルを真っ赤にしてほしかったとか、ガラス戸にステンドグラスを入れて欲しかったというわけではないのだが、せめてどこかに遊び心くらい欲しかったと、月彦はそんな事を思う。
「……ま、風呂は風呂だし……いっか」
 月彦はまずセオリー通りに体と髪を洗い、湯船へと入ろうとして――止めた。既に入浴していた二人組。幼い子供と、父親と思われる男の、その子供の方が、妙に悦に入った顔で体をぶるりと震わせていたからだ。
 大浴場の湯船を諦め、外に出る。全裸に寒風が容赦なく吹き付けて来、月彦は小走りに露天風呂へと近づき、足先から入る。
(……なんか、温いな)
 “熱すぎた時の覚悟”をしていたからそう感じたのかもしれない。が、その分を差し引いても湯の温度が低すぎる気がするのだ。
(……温泉なのに温いって…………)
 勿論、温泉とはいえ、わき出るお湯をそのまま使っているわけではなく、最低限の温度調節はしているであろうから場合によってはぬるいと感じることもあるのかもしれない。
(…………ていうか、他の客一人も居ないし)
 その事がまさに、ぬるいと感じるのは自分だけではない証左のようにも思える。たしかに寒空の下で、こんな温度の湯に浸かっていたらガチで風邪を引いてしまうかもしれない。
(……って思ってたら、なんか暖かくなってきた?)
 じわじわとであるが、湯の温度が上がるのを感じる。なんてムラの大きい温泉だろうか。しかも今度は熱すぎる。十分も立たないうちに、月彦は逃げるように露天風呂を後にした。

 脱衣所で浴衣に着替え、洗濯物を手に部屋へと戻る。せめて湯に浸かっている間くらいゆっくりしたかったのだが、あんなにムラの大きい露天風呂ではのんびり浸かるなどというのは無理な話だった。
(…………戻りたくないなぁ)
 エレベーターを使わず、わざわざ階段を使って四階まで昇っているのは、ひとえに部屋に戻りたくないが為だった。正確には部屋に戻りたくないのではなく、戻ってナナと顔を合わせるのが嫌なのだった。
 正直な所、月彦にはナナと会った記憶もなければ、ましてや自分が何かをした記憶など微塵も無い。しかし“紺崎姉弟に人生を狂わされた”というナナの言葉には妙に真実味があり、ただの冗談とも嘘とも思えない。
(…………姉ちゃんに捨てられて、大変なことになっちゃった女の子がいるってのは聞いた事あるけど……)
 いわば、由梨子もその一人だ。ナナももしかしたらそうなのかもしれない。
(……でも、だったら“あなたたち姉弟に”なんて言い方はしないよな)
 少なからず“弟”である自分にも関係があるから、ナナはそういう言い方をしたのだろう。しかし月彦には身に覚えが無い。故に、思い悩まなければならなかった。
(ああ……部屋に着いてしまった)
 気ままな一人旅になる筈だった。それが何故こんな事にと思いたくなる。何が悲しくて、こんな針のむしろのような部屋で二泊三日を過ごさなくてはならないのか。
 鍵を差し込み、ドアノブをひねると開かなかった。どうやらナナのほうが先に――鍵は受付で二人分渡された――部屋に帰っていたらしい。月彦はもう一度鍵を差し込み、ロックを解除し、ドアを開ける。
「おっかえりー」
 居間の方から、ナナの声が聞こえた。同時に鼻を擽る芳香。
「ただいまです…………ってうわっ。ナナさんこれどうしたんですか!」
 居間のテーブルの上には、これでもかという程に豪華な料理が並べられていたのだ。中央にでんと置かれた尾頭付きの刺身の盛り合わせに始まり、固形燃料を火種にぐつぐつと煮立っている鍋物。多種多様な天ぷらの盛り合わせに山の幸たっぷりの炊き込みご飯。他にも中身不明の土瓶蒸しやら煮物やらが目白押しだった。
「どうしたって……旅館の人が持ってきてくれたに決まってるじゃん。やー、それにしてもスゴいよねぇ、月彦くんも食べるでしょ? なんか夕飯はいらないーっ、て言ってたらしいけど、他に食べるようなお店もないし、食べるよね? ていうか私一人じゃ絶対無理だし」
「そ……うですね。いただきます……あんまり食欲はないんですけど」
 既に食事を始めているナナの正面にテーブルを挟んで座り、月彦も箸をとる。料理が豪勢に見えるのは、一応旅館側の“詫び”なのだろう。
(…………気のせいかな。なんか泊まりに行く度に、食い切れない程の食い物を出されてるよーな……)
 理由は毎回違うのだが、どうも自分にはそのような縁があるらしい――苦笑混じりに思いながら、月彦は刺身の一切れを掴み、刺身醤油にちょんちょんとつけて口へと運ぶ。
「ん、おいしいですね」
 とは言ったものの、内心では白耀や春菜の屋敷で馳走になったものとは比べものにならないなと思っていた。不味いわけではないのだが、感激するほど美味くもないのだ。
(…………ま、食べられなくはないから、これはこれで)
 どうせ今の気分では何を食べたところで舌鼓を打つということは無いだろうから――月彦は半ば諦観めいた顔で、作業と割り切って食事を進める。
「あー…………」
 そんな月彦の耳に、ナナの声が飛び込んできた。
「あのね、これは言っとかなきゃって、お風呂に入ってる時に思ったんだけど」
「何ですか?」
「さっき、さ。なんか私……いろいろ言っちゃったけど、肝心なこと言い忘れてたんだよね」
「…………。」
 まだ何か言い足りないことがあるのか――月彦はいい加減げんなりする。
「えーとね……確かに私、キミに対していろいろ思う所はあるんだけど、それって別にキミのことが嫌いとか、恨んでるとかじゃないから」
「はあ……」
 としか、月彦は言えない。
「復讐してやるーとか、嫌な思いさせてやるーとか、そういうんじゃないの。そこ勘違いされてたらヤだな……っていうか、キミもヤだろうなって思って」
「でも、人生狂わされたって……言ってましたよね?」
「あはは……アレね、冗談」
「……は?」
 さすがに聞き捨てならなくて、月彦は箸を止めた。
「ち、違った! 冗談じゃなくて……大げさだった、の方! ごめんね、私……あんまり頭がいい方じゃなくってさ……言葉が正しくないのは、大目に見てくれると嬉しいんだけど……」
「えーと……つまり、ナナさんは俺にどうして欲しいんですか?」
 謝って欲しいのか、反省してほしいのか。ナナの言い様では、それすらも伝わってこない。
「……それが解れば、私もこんなに困ってないよ」
「…………いや、意味がわからないんですけど」
「だーかーら!」
 だんっ、とナナが両手に拳をつくり、テーブルに叩きつける。
「…………そもそも、キミが突然現れるから悪いんじゃない。きちんと段階を踏んで、事前に連絡して現れてくれれば、私の方もきちんと覚悟を決められたのに」
「……俺、ナナさんにとって覚悟を決めないと会えないような相手なんですか?」
「月彦くんだって、テレビの中でしか見たことないような芸能人とか、余所の国のお姫様とかが突然目の前に現れて、声をかけてきたら混乱するでしょ?」
「あの、俺……芸能人でも、お姫様でもない普通の高校生なんですけど」
「……ごめん、たとえが悪かったね。忘れて」
 ナナはため息混じりに目を瞑り、首を振る。それは月彦の理解力の無さを責めているというより、自分の説明力の無さを嘆いている様子だった。
「とにかく、私が言いたいのは…………私はキミを恨んでなんかいないってこと! 最初に言った通り! ……だから」
「だから……何ですか?」
「せめて、もうちょっと……笑おうよ。電車で会った時のキミと今のキミ、まるで別人だもん。そんなんじゃ、見てる私の方が辛くなっちゃう」
「……すみません。俺、てっきりナナさんに恨まれてると思ってたんで……」
「確かに私は混乱してるけど、それはキミに対してどう接していいかわからないからっていうのが大半なの。…………私個人の素直な気持ちとしてはさ、積極的にキミに会う気は無かったけど……でも、キミがどういう男の子なのか、すごく興味はあったの」
 そこで一端言葉を切り、ナナは「訂正」と小さく呟いた。
「過去形じゃなくて、今も興味があるの。…………だからキミさえ良かったら、もっといっぱい話をして、キミの事を教えて欲しい」
「それは……別に構わないんですけど……だったら一つだけ条件があります」
「どんな条件?」
「ナナさんの本当の名前を教えて下さい」
「それはだーめ」
 ナナは吟味すらせずに却下する。
「どうしてですか。俺の事を嫌いじゃなくて、憎んでるわけでもないのなら、別に名前を伏せる必要なんて――」
「……その理由が解らないうちは、教えたくない」
 ぷいと、ナナは露骨にそっぽを向く。
「……わかりました。ナナさんがそこまで教えたくないというのなら、もう聞きません」
 月彦の真面目な言い方がナナの琴線に触れたのか。露骨に不機嫌そうな顔をしていたナナがぷっ、と忽ち吹き出すように笑い始める。
「月彦くんって、真面目なんだ。……そんなに肩筋はらなくてもいいんだよ? そもそも、名前ってそんなに重要なこと?」
「重要なことでもないのに、ナナさんが教えてくれないから気になるんです」
「キミがそうやって知りたがるから、教えたくないの」
 これでは埒があかない――月彦はため息をつく。
「それに、キミがどうしても知りたいっていうんなら、私が留守にしてる間に荷物漁ったり、そこまでやらなくても受付に行って聞けば簡単に調べられると思うよ?」
 確かに、ナナの言う通りだ。
 しかし、今度は月彦が首を振る。
「…………いえ、こうなったら是が非でもナナさんの口から教えてもらいたいです」
「……へえ、キミってそういう考え方するんだ?」
 愉快そうに、ナナが口元を歪める。
「私たち、案外気が合うかもしれないね」


 食事を済ませた後も、まるで互いの腹を探り合うような、それでいてお互いにのらりくらりととぼけるような。そんな詐欺師と詐欺師がじゃれ合うような歓談が続いた。
 最初こそナナの強引なやり口に戸惑ったものだが、恨まれているわけでも嫌われているわけでもないと解ると、これはこれでウマの合う相手なのかもしれないと月彦は思い始めていた。
(それに、意外に……)
 部屋に転がり込んできた経緯の強引さや、その後の会話のやりとりの為、まったく気にする余裕が無かったのだが、こうしてまじまじと見ると、なかなかに魅力的な女性であると解る。
 美人――であるのは、電車の中での印象で既に気がついていた。しかし、湯上がりの、浴衣の上に羽織を着ただけのその姿は妙に色っぽく、話をしているだけなのに時折ハッと息をのんでしまう事もあるのだ。
(…………なんていうか、“普通の人”っていう感じなんだけど)
 決して、目を引くほどに巨乳――というわけではない。むしろ、胸は平均以下ではないだろうか。恐らく凝視すれば、僅かな衣類の皺やたわみ方からかなり正確にカップ数を計る自信はあったが、それはやってはいけないことのような気がして、月彦はあまりナナの胸元に視線を向けないように努めていた。
(胸はない……背も特別高くない……けど、色白で、目もぱっちりしてて、唇も柔らかそうで……)
 って! 何考えてるんだ俺――気がつくと、その体を品定めするように観察している自分に気がついて、月彦は慌てて頭を振る。
 歓談の後半は、月彦のほうがそのような感じでドギマギした為、いまいち弾まなかった。
 程なく、旅館の従業員がやってきて、テーブルの上を綺麗に片付け、さらに寝室に布団を敷いて出て行った。当然旅館側は月彦ら宿泊客が友人同士でも恋人同士でもなく、ただの成り行きで同じ部屋に泊まる事になった男女だということは理解している筈なのだが、その点についての配慮などは一切無いらしかった。
 つまるところ、寝室には何の工夫もなく、ただ二組の布団が並べられているだけなのだ。

「…………一応言っとくけど、私……彼氏居るからね?」
 寝室に敷かれた二組の布団を横目で見ながらナナが言う。
「知ってますよ。……それを言うなら、一応俺にも居ますから」
 張り合うように言うと、ナナは目を丸くした。
「マジ?」
「マジです」
「彼女って誰? 名前聞いてもいい?」
「名前って……言ってもナナさん解らないんじゃないですか?」
「そうだけど……じゃあ……年上か年下かだけでも教えて」
「……と……とし……した? ……です」
 意図せず、年下の後ろに“?”がつくような言い方になってしまったのには理由があった。当然月彦としては真央が彼女であるつもりで答えようとしたのだが、いざそう答えようとすると、まるで邪魔をするように雪乃や矢紗美、菖蒲や由梨子らの顔が自己主張をするように脳裏を過ぎったのだった。
「………………なんでそんなに自信なさそうなの?」
「いや……えーと…………いろいろワケがありまして」
「ははーん。そういうコトかぁ。……お姉さん解っちゃった」
「それはナナさんの思い違いです、とだけ言っておきます」
「うんうん、そうだねえ。見栄を張りたい年頃だよねえ、わかるわかる」
 私にもそんな頃があったとでも言いたげに、ナナはうんうん頷く。
「…………話は変わりますけど、ナナさん。露天風呂は入りました?」
「一応入ったけど、すぐ出ちゃった。…………なんか温くって」
「あ、ナナさんもそう思いました? でもアレ、我慢して入ってたらじわぁ〜って暖かくなってきたんですよ」
「……温泉なのに?」
「温泉なのにです」
「…………ま、温泉でも温度調節したりはしてるんだろうけど」
「案外、夜中に入りにいったら水になってたりして」
 月彦の言葉の裏にあるものを察して、アハハとナナが笑う。
「……………………露骨に話題を変えてきたね」
 そして、ぽつりと呟いた。
「………………ナナさん、ひょっとして彼氏さんと巧くいってないんじゃないですか」
 そんなナナの言葉が――意地悪そうな笑い方も含めて――月彦が最も憎んでいる女のそれに驚くほどに似ていて、月彦は反射的に“やり返し”ていた。
「うん、そだよー」
 口にした瞬間、さすがに失礼だったかと後悔したのもつかの間。ナナはけろりとした顔で返してきた。これには逆に月彦の方が言葉を失った。
「……どしたの? そんなの、電話でのやりとり聞いてたら薄々解るっしょ?」
「そ、そうですけど……」
 言葉に詰まる月彦を尻目に、ナナはどっこらしょと腰をあげるや、ごろーんと。掛け布団の上から寝転がってしまう。
「別に、こっちから告白して付き合うようになったわけじゃないし。向こうから言い寄られて、どうしてもーっていうから、それならちょっと付き合ってみようかなって。それだけの関係だよ」
「…………あんまり、好きじゃないんですか?」
「好きだよ。嫌いだったら、そもそも付き合おうなんて思わないよ」
 布団の上に肘をつき、頭を支える――仏陀涅槃像のようなポーズをとりながら、ナナは言う。
「趣味もそこそこ合ったし、話をしてて楽しいと思わないことも無かったんだけどさ。…………正直、“友達”としてなら全然アリとは思うんだけど」
 けど――の後は、あえて口にしないのだろう。その彼氏とやらを慮ってなのか、言うまでもないでしょ?ということなのかは解らないが。
「だったらフっちゃえばいいって思うでしょ? でもね、事はそう簡単じゃないの。バイト先も一緒だから、別れることになったらどっちかが辞めないとバツが悪いだろうし。他にもいろいろとしがらみが、ね」
「…………わかります。相手と生活が密着していると、別れるのも難しいですよね」
 うんうんと、月彦は大きく頷く。別れたいなら別れればいい――事はそう簡単じゃ無いというコトは、身をもって思い知っている。
 雪乃と軽々に関係を切れないのは、そういった理由も少しはあるからだ。
「でも、そのままズルズル“お友達”のままってのも相手に悪いし。…………この旅行は、私なりの踏ん切りのつもり。一週間あちこち回って一人でじっくり考えて、戻ったら結論を出すことにしてるの」
「“恋人”になるか、別れるか……ですか」
「私がどっちを選ぶつもりかは、もうキミにも解ってるでしょ?」
「…………参考までに、どうしてその人じゃ嫌なのか、聞かせてもらえますか?」
 別にナナの彼氏に立候補したいというわけではない。単純に、女性が男性を嫌うポイントを一つでも多く知っておきたかった。
「…………薄っぺらいところ」
「薄っぺらい?」
「言葉も、態度も、想いも。全部がそう感じるの。……でもね、これはその彼が悪いんじゃ無くて、多分……私の方に問題があるんだと思う」
「ナナさんの方に?」
「…………こういうとき、巧く言えないのはもどかしいね。…………例えるなら、打ち上げ花火を見て感動した事がある人は、線香花火を見ても感動なんかしないじゃない?」
「…………線香花火には線香花火の良さがあると思いますけど」
「……たとえが悪かったね。ごめん、忘れて」
 ナナは寝返りをうちながらぺろりと舌を出す。
「そうそう、もう一つ……どうしても我慢できないことがあったの忘れてた」
「我慢出来ないところ……是非聞かせてください!」
 年上の女性が語る、彼氏トーク。その内容に、月彦は徐々に魅了され始めていた。気がつけば居間から寝室側へと身を乗り出すようにして聞き入っているほどに。
「本当はさ、この旅行にその彼もついてくる筈だったの。……ていうか、私は一人で行くつもりだったんだけど、彼はついてくるつもりだったみたい。でも、私が絶対に嫌だって、ついてくるならもう即別れるって言って、断念させたの」
「あれ、でも……趣味は合うし、話をしてると楽しいって言ってませんでした? なのに、一緒の旅行はアウトなんですか?」
「二人でどこかに遊びに行くだけなら全然いいんだけどね。……でも、そこに“お泊まり”の要素が絡むと、ね」
「……あの、何となく……ナナさんが言いたいことわかっちゃったんですけど」
「多分、キミが想像した通りの理由」
 あはは、と。ナナは力なく笑う。
「セックスするのが嫌なの」
 やっぱり。予想通りの答えに、月彦は微かな胸の痛みを感じる。
「正確には、セックスそのものよりも、セックスを迫られるのが嫌、かな。彼とはまだ一度も寝たことないし」
「……いやでも、ナナさん。一応彼氏彼女の関係なら……男はやっぱり、エッチしたいって思いますよ」
「それは解ってるんだけどね。私にだって性欲はあるし、オナニーだってするから、そういうセックスしたい〜〜って気持ちはわかるんだけど」
「あの、ナナさん。……一応ここに年頃の男子高校生がいることも考慮して、言葉を選んでもらえますか」
「あはは。ごめんね、興奮しちゃった? 月彦くんがもう聞きたくないっていうなら止めるけど」
「いえ、大変参考になるので、今後の為に是非続きを聞かせて下さい」
「月彦くんも好きだねー。それとも、男の子全般がかな? …………話がそれちゃったけど、お泊まりに限らず、部屋で二人だけになった時とかさ。もう露骨に押し倒そうとしてくるの」
「あぁ……相手にその気がないのに、無理矢理迫るのは良くないですよね」
 何故だか脳裏に雛森姉妹の顔が浮かんだが、何故浮かんだのかは月彦はあえて考えないことにした。
「最初はさ、今日は生理だからとか、穏便に拒絶してたんだけど……だんだんそれも面倒になって、露骨に嫌がってたらどうして嫌なんだ、って。そんなのこっちにも解らないし、とにかく嫌としか答えられないんだけどさ」
「あの、すみません……」
 いつの間にか正座でナナの話に聞き入っていた月彦は、そっと挙手する。
「はい、月彦くん」
 まるで教師のような口調で、ナナが月彦を指さす。
「えっと……その……もしかして、ナナさんは……」
「私、処女じゃないよ」
 月彦が訊こうとした質問を見透かした上で、さらにあっけらかんとナナは答えた。
「だけど、あんまり愉快な処女喪失じゃ無かったな。……やっぱりそれも関係してるのかな」
「……無関係ではない、と思います」
 ああ、これは他人が容易く触れて良い場所ではない。月彦は悼むような口調で言う。何故ならこれは人ごとではないからだ。
「“あっ、これは訊いちゃいけないことだった”……とか、思ってる?」
「いえ……その……」
「いいよ、別に。……知りたいなら教えてあげる」
 いや、言わなくていいです――そんな月彦の言葉に被せるように、ナナは言った。
「高校の頃にね、友達に誘われて部屋に行ったら、知らない男の先輩がいっぱい居て輪姦されちゃったの」
「っ……」
「友達もグルだったみたいでね。私はその子のこと友達だと思ってたけど、向こうはそうは思ってなかったみたい」
 ナナの口調は、まるで人ごとのようだった。どこまでもあっけらかんと、心の蔭や闇といったものをまるで感じさせない。楽しい物語でも語るような、声。
「同情や慰めはいらないよ、月彦くん。こんなこと、私はなんとも思ってないけど、もしキミがそういう目で私を見たら、私にはそのほうが辛い」
「……わかりました」
「アハハ、なんか暗い雰囲気になっちゃったねー。……やっぱり言わないほうがよかったかな? 私的にはエロいトークのつもりだったんだけど」
「……その、なんて言ったらいいか……」
「ちなみに、今のは彼氏にも、もちろん家族にもしたことがない話。………………ちょっと興奮した?」
「だから……なんで俺を興奮させようとしてるんですか!」
「あは、やっと突っ込んでくれた。……もぉー、一人でボケ続けるの大変だったんだよ?」
「…………ナナさん。もし芸人とか目指してるなら諦めたほうがいいです。ツッコミ入れ辛いです」
「……………………彼氏にも家族にもしてない話っていうのは、本当だよ、月彦くん」
「って、急に真面目な顔でそんなこと言われても……俺はどう突っ込めばいいんですか」
 むぅ、と。ナナは不満そうな声を漏らし、ごろごろと寝返りを繰り返して畳の上へと転がると、そのまま折り返すように転がり直して布団の中へと潜り込んでしまう。
「…………おっかしーなぁ。“彼氏と別れたばかりの女”は一番狙われる筈なんだけどなぁ」
「……まだ別れてないじゃないですか。……それと、言っときますけど。俺には本当に彼女居ますから。だからそういう誘いには絶対乗りません」
「……ひょっとして、月彦くんも彼女と別れようか迷ってる系?」
 にょきりと。布団から顔だけを出したナナは両目を爛々と輝かせながら尋ねてくる。
「残念でした。こっちは毎日ラブラブのイチャイチャで別れる気配すら無いです」
「なのに、一人旅?」
「正確には旅じゃなくておつかいなんです。母から預かった書類を名切神社っていうところに持っていかなきゃいけないんです」
「へぇー、月彦くんも行くんだ。名切神社」
「も、ってことは……ナナさんもですか?」
「そだよー。ていうか、私だけじゃ無くってこの旅館に泊まってる人はみんな行くんじゃないかな? ここら辺で観光するところなんてあそこしかないもの」
「そんなに有名な神社だったんですか…………まったく知りませんでした」
「うん、まぁ……有名っていえば有名かな。………………一部のマニアには」
 微妙に引っかかる言い方だった。
(……まぁ、どうせ明日行くんだ。無理に訊かなくてもいいか)
 同じおつかいでも、楽しみは多い方が良い。そんなに一部のマニア受けをするような神社であれば、より気晴らしにもなるだろう。
「…………名切神社に行くなら、今日はもう寝たほうがいいかも」
「そういえば、母もずいぶんな僻地にあるみたいなことを言ってました。…………寝ますか」
 月彦は居間の明かりを消し、最後に寝室の明かりも消して布団の中へと潜り込む。
「さてと……じゃあ、ナナさん。おやすみなさい」
「ん、おやすみ」
 もぞりと。布団が擦れる音。なんとなく気配で、ナナが肩まで布団を被ったのだろうと察す。
「あっ、そだ。言い忘れてたんだけど」
「何ですか?」
「私、これでも空手二段だから。もし変なコトしてきたら、自覚ありなしに関わらずぶっ飛ばすからね?」
「しませんよ!」


 ――深夜。
 どうにも堪えがたい尿意を感じて、月彦は目を覚ました。もぞりと布団から這い出て、室内トイレへと向かう。
(…………そういや、寝る前にトイレ行ってなかったな)
 その時は別段尿意など感じなかったのだが。夕飯の際に水分を取りすぎたかなと。寝ぼけ頭でそんなことを考えながら、ふらふらとした足取りで布団に戻ろうとして。
 はたと。月彦は立ち止まった。
(……なんだ? なんか、ムズムズする)
 それは不思議な感覚だった。なにやら手の表面――手のひらの辺りに、むずむずとした奇妙な焦れのようなものを感じるのだった。
(なんだこの感覚は)
 月彦自身、一体全体どういうことなのか、自分の状態を計りかねていた。体の方からなにがしかの欲求シグナルは感じるのだが、一体何を求めているのか、それが解らない。
(……おっぱい、触りたい)
 半ば直感的に、そんな事を思う。闇に包まれた部屋のど真ん中に突っ立ったまま、月彦はわさわさと両手の指をざわめかせる。
(それも、ただのおっぱいじゃない。極上のおっぱいだ)
 つい、辺りを見回す。が、不思議と見当たらない。不思議と、と感じてしまうのは、まるでそこに極上の巨乳があって当たり前のように感じているからだ。
 否、と月彦は思う。おっぱいに触れたくなったから、あって当然なのではない。そこにあるから、触りたくて堪らなくなっているのではないか。
(おっぱい……おっぱい……どこだ)
 ある。近くに必ずある。極上の巨乳が。それはさながら、砂漠を渡り歩く旅人が、極限の渇きの中で“水の匂い”を感じとることが出来るようになったようなものだった。
 月彦は本能の赴くままに、確信に近いものを抱いて巨乳を求め歩き、そして――。
「んがっ」
 がつんと。向こう臑で凄まじく堅いものを――恐らく居間のテーブルの角だと思われる――を蹴ってしまい、月彦は畳の上にもんどり打つ。
「おっ、おっ、おっ……」
 堪えがたい痛みに涙が出る。しばし膝をかかえて転がり、漸く痛みが引いたころには、すっかり頭も冷えていた。
(…………バカか、俺は)
 一体全体何がどうして、あるはずもない巨乳を求めてさまよい歩いてしまったのだろう。自分で自分が信じられないとはまさにこのことだった。
 痛みを堪えながら、月彦は布団へと戻る。もちろん、間違えてナナの布団に入るような馬鹿な真似はしない。
(……ほんと、あり得ないよな。…………まあ、寝ぼけてナナさんに襲いかからなかっただけ、まだマシか)
 不幸中の幸いは、あくまで“極上おっぱいの反応”に釣られたわけであり、決して性欲が暴走したわけではないことだった。もし後者であれば、ナナの胸元の寂しさなどおかまいなしに飛びかかっていた事だろう。
(……………………気のせい、だったのかな)
 肩まで掛け布団をかぶり、首をひねりながらもコッチコッチと鳴る居間の時計の音が気にならない程度の眠気に襲われ始めた頃だった。
「……今、何時?」
 ナナの声が聞こえた。どうやら起こしてしまったらしい。
「わかんないです。携帯で見れないんですか?」
「あっちのテーブルの上。…………とってきて」
 障子戸からうっすらと月明かりだけが照らす室内で、布団から手だけが出て居間の方を指し示すのが見える。やむなく月彦は再度布団を出、手探りでナナの携帯を手に取るとその枕元へと起き、布団へと戻った。
「んんー…………」
 もぞもぞと、手探りで携帯を捜している音がする。そして、ぱっと室内が明るくなったのは、画面を表示したからなのだろう。
「……まだ二時」
 がっくりと。時間を確認して安心したというよりは、力尽きたと言ったほうが正しいような、そんな声だった。
「すみません、起こしちゃったみたいで……」
「むー…………」
 それは言葉では無く、ただのうなり声だった。
「……喋ってたら、なんか目が覚めてきちゃった」
「…………すみません」
 話しかけてきたのはナナの方なのだが、起こしてしまったという負い目から、月彦は再度謝罪する。
「ダメだよぉー……しっかり寝ておかないと明日きっと辛いよー……」
「……ですね。しっかり寝ましょう」
 言って、目を瞑る。コッチ、コッチと時計の音だけが鳴り響く。
「……月彦くんさぁ」
 そんな空間だからこそ、ナナの声は小声ながらよく通った。
「初恋って、いつ?」
「…………寝るんじゃなかったんですか?」
「なんか目が冴えちゃって」
 この一貫性の無さ。まるで雪乃のようだと、月彦は密かにため息をつく。
「ね、ね。教えてよ」
「…………教えたら、寝てくれますか?」
「寝る寝る、すぐ寝ちゃう」
「……多分、幼稚園くらいです」
「相手は?」
「……幼なじみの女の子です」
「幼なじみ……同い年?」
「はい」
 頷きながら、はてなと。月彦は微かに引っかかるものを感じた。先ほど、彼女についての質問もそうだったのだが、ナナは妙に年齢に拘っているように思えるのだ。
 それも、具体的に何歳か、ではなく、年上なのか、年下なのかにだけ。
「てことは……彼女っていうのは、その子じゃないんだ」
「残念ながら」
「そっか」
「……ちなみに、ナナさんは?」
「私の初恋? 聞きたい?」
「人に聞いた以上、自分も言うのがセオリーですよ」
「あはは。でも教えなーい」
「ちょ、ナナさんそれは」
 さすがにどうかと。呆れ気味に月彦はナナの方へと体を向ける。とはいえ、障子戸ごしに入ってくる微かな月明かりでは、ナナの布団の輪郭が解る程度の視界しか効かない。
「ていうか、教えたくても無理。だって私の初恋って、多分まだだもん」
「いやいや、そんな言い逃れ……」
「ホントだってば」
 どうやら、ナナはそれで押し通すつもりらしい。あくまでそうなのだと言われれば、月彦としても食い下がらざるを得なかった。
 月彦が黙り、ナナも黙る。コッチ、コッチと時計の音に誘われるように、眠気が笛を吹きながらやってくるのを感じた時。
「ねえ、月彦くん」
「………………寝ましょうよ、ナナさん」
 気分的には、うとうとしているところを突然両肩を掴まれて揺さぶられているかのようだった。
「今、すっごいことに気づいたの」
「それは……今じゃないとダメなんですか。明日じゃダメですか」
「私ね、男の子と二人きりで同じ部屋で寝るの、初めてだった!」
「それは……光栄なことで……」
「どうりでドキドキしっぱなしで眠れないはずだよ!」
 嘘だ。さっきまでスヤスヤ寝てたくせに――月彦は心の中で突っ込む。
「じゃあ、これで慣れたわけですね。旅行から帰ったら……彼氏さんと仲直りできますね」
「それとこれとは話が別」
「そうですか」
 もぞりと、月彦は寝返りを打ち、ナナの方に背を向ける形になる。もう話しかけないで欲しい、という遠回しなボディランゲージだった。……最も、この暗さの中ではたしてナナに見えるのか、見えたとして理解できるのかは解らないが。
「ねえねえ、月彦くん」
 月彦は答えない。
「ねえってば」
 無視する。
「おーい、起きてるのは解ってるんだよー」
 聞き流す。
「こらー、無視するなー」
 なかなかしつこい。頼むから眠ってくれと泣きつきたくなるのを我慢して、月彦は頑なに狸寝入りを続ける。
「ねえってば。…………ホントに寝ちゃったの?」
 もぞりと、布団の擦れる音。背を向けているから確認はできないが、ナナが身を起こしたらしい。
「……寝てるなら、悪戯しちゃおうかなぁ?」
 ちょっと待て。なんでそーなる――月彦は狸寝入りしながらも、心の中で突っ込んでしまう。
「寝てるなら、パンツ脱がされても気づかないよねえ?」
 いや、気づくから。そこまでされたら寝てても間違いなく気づくから。
(って、まさかホントにやったりしないよな?)
 そこはさすがに、ナナという女性の良識常識に縋るしかなかった。勿論、本当にそんなことをしようとしたら、狸寝入りは止めて怒鳴り散らすつもりではあったが。
「おーい……月彦くぅーん」
 さながら、犬の遠吠えのような声だった。声自体は大きくないが、響きがそれに近いのだ。
「……寂しいよぉー……」
 消え入りそうな声。思わず「……ったく、しょうがないなぁ」と甘い顔をしてしまいそうになるほど、憐憫を誘う声だった。
 が、月彦は耐えた。
「………………ぶーっ」
 結果的に見れば、それがナナの最後の言葉だった。恐らく頬を膨らませて頬を尖らせながらであろう不満の声を残して、ナナもまた布団を被る。
  ……朝までは、あっという間だった。



「……眠い」
 小鉢に入っている納豆を、グーで握った箸で練り練りしながら、ナナはぽつりと盛らした。その顔はいかにも眠そうで、今にも舟を漕ぎ出しそうだった。
「…………だから寝ましょうってさんざん言ったじゃないですか」
「だって、眠れなかったんだもん」
 まるで子供の言い訳だった。練りに練った納豆に刻みネギを入れ、さらに練り練り。醤油を少々加え、練り練り。そこでようやく、白米の上へと落とす。
 朝食は夕飯同様、従業員の手で部屋まで運び込まれた。献立は白米に梅干し、海苔に味噌汁。納豆に生卵、焼き魚に白菜の漬け物、刻みキャベツにハムエッグといったもの。昨夜の豪勢すぎる夕飯に比べれば随分質素に見えるが、月彦には特に不満は無かった。
「もー……どうしてくれるのさ。今日は名切神社に行こうと思ってたのに」
「そんなにキツい場所にあるんですか?」
 ナナは月彦の顔を見て、露骨にため息をつく。
「これだもん。……知らないってコトは幸せだよねえ」
「何となく、山の上にでもあるんだろうな、とは予想してるんですけど」
「半分当たり」
「半分しか当たってないんですか」
 山の上にあるだろうという予想が半分当たり。ということは、その山が海の中にでもあるのだろうか。
「山の上にあるっていうのは当たってるの。だけどね、道がないの。のんびりハイキングってわけにはいかないのよ」
「まさか、崖を登らなきゃいけない……とか?」
「それじゃあだーれもお参りになんか来ないじゃない」
「じゃあ、ひたすら獣道を上らなきゃいけないとか」
「それじゃあ遭難者が出ちゃうかもしれないじゃない」
「…………すみません、ギブアップです。何が問題なのか教えてください」
「…………別に、もったいつけるほどのことじゃないんだけど…………ながぁーーーーーい石段を登らないといけないの」
「長い石段……三百段くらいですか?」
「惜しい。その十倍」
「さ、三千段も上らなきゃいけないんですか!?」
「…………ここに泊まってる客で、それ知らないの多分月彦くんだけだと思うよ? むしろ、殆どの客は“それ”目当てで来てると思うし」
 私もそうだし、とナナは付け加える。
「旅の締めくくりに、三千段の石段を登ってお参りしてこようと思ってたのさー」
「なるほど、彼氏とよりを戻せますようにとお参りするわけですね」
「月彦くん、わざと言ってるでしょ?」
 にっこりと。ナナは笑顔でプレッシャーをかけてくる。
「もちろん無事別れられるようにお参りをするの。…………そもそも名切神社っていうのは元々は縁切り神社で、カップルや夫婦じゃ絶対にお参りをしちゃいけないって言い伝えもあるのよ」
「なるほど、だから彼氏さんを一緒には連れて来たくなかった、と……」
「月彦くん、いい加減しつこいよ?」
「…………すみません」
 月彦は素直に謝罪する。そして同時に思った。葛葉が、真央を連れて行ってはいけないと言った理由の真意は、もしやそれではないのかと。
「でも、三千段も石段を登らなきゃいけない神社なのに、夫婦やカップルで一緒にお参りしたら縁を切られちゃうなんて踏んだり蹴ったりですね」
「だから、観光地として流行らなかったんじゃない?」
「…………なるほど」
 駅前の過疎り具合といい、そんな名所(?)があるというのに、宿泊施設が旅館一つしかないことといい。全ての疑問に合点がいく瞬間だった。
(…………御利益って、大事なんだなぁ)
 或いは、もっとうまみのある御利益であれば、何もかもが変わったのかもしれない。詮無い事ではあるが。
「そーとーキツいらしいってのはネットの評判とかでも解ってたの。だから万全の体調で挑みたかったのに」
「えと……そんな目で睨まれても困るんですけど」
 確かに夜中に一度起こしてしまったのは悪いとは思う。が、その後さっさと寝直さなかったのはナナの不手際ではないか。
「…………せっかくここまで来たんだから、登らないっていう選択肢はぜったいあり得ないし……」
「そうですよ。折角ですから、頑張って登って、お参りしましょう」
 どのみち、“おつかい”のある月彦は嫌でも登らねばならない。ならば、一人で黙々と登るよりは、二人で励まし合いながらのほうが幾分はましというものだ。
 月彦は徐に、窓の外へと視線を向ける。
「……雨も降りそうにないですし、絶好の石段日和ですね」

 ナナが調べたところによると、一般的な体力の持ち主はだいたい二時間前後で登り切れるのだという。そして旅館側のサービスで、名切神社にお参りに行く宿泊客に限り、オニギリとお茶をサービスでくれるのだとか。
(…………旅館側にしては、多分旅館に残られて普通に昼飯作らされる方が大変……だよなぁ)
 サービスというよりは厄介払いに近いのではないかという気持ちをぐっと堪えて、月彦はおにぎりとお茶の入った包みを従業員から受け取った。というのも、これもナナからの情報だが、石段を登り切った先には文字通り神社しか存在せず、茶店はおろか自販機すら無いらしいのだ。
「……お二人一緒に登られるんですか?」
 おにぎりとお茶を用意して部屋まで持ってきてくれた従業員は、薄い紫のシェルジャケットに茶のストレッチライトパンツ姿のナナと、まるで近所のスーパーにでも出かけるような微妙にくたびれた青のシャツにジーンズといった出で立ちの月彦を見て、怪訝そうに眉を寄せた。
「その予定ですけど」
「ええと、あの神社は……」
 と口にしかけたところで、別の従業員が小走りに部屋の入り口へと駆け込んできた。見覚えのある――額の後退した、背の低い中年の従業員だった。
「おい、いいんだ。この方達は――」
 ぼそぼそと、もう一人の従業員に小声で何かを吹き込み、そしてにっこりと営業スマイル。恐らく、恋人同士でもなんでもないとか、そんなニュアンスのことを言ったのだろう。
 勿論それが真実なのだから、別に気を悪くしたりはしない。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか、ナナさん。今から行けば多分丁度十二時くらいに上につくでしょうし」
「そだね。ちゃっちゃと行って帰って、そんでお昼寝したいし」
 気が逸っているのか、ナナは早くも屈伸などを始めている。これから石段を登るからだろう、髪は後ろで一つにまとめられ、ポニーテールにされている。
(……あぁ、ポニテは良いものだ)
 屈伸の度に揺れるポニテを見ながら、月彦はつい目を細めてしまう。男がポニテに惹かれるのは、人が野生を忘れていない証なのだという。後頭部を“牝の尻”に見立てることによって、根源的な生殖本能を刺激する――それがポニテ萌えの原理らしいが、真偽は定かではない。
(……今頃、妙子のやつ何やってるのかな)
 ポニテ繋がりで、月彦はふと片思いの幼なじみのことを思い出す。いつか、一人旅ではなく妙子と二人きりで、こういう温泉宿に泊まれたらいいなぁと、そんな妄想の世界にトリップしかけて。
「あっ、そーだ。書類を忘れないように持っていかないと」
 はたと、月彦は我に返った。ここまで来て、三千段の石段を登った後で書類を忘れてましたでは洒落にならない。月彦は別途持ってきた小さめのリュックに書類の入った角二封筒を入れ、ビニール袋に入ったオニギリとお茶のセットも詰め込む。
「月彦くぅん、これもこれもー」
「えっ……」
 月彦は露骨に眉を寄せる。ナナが差し出したのは、ナナの分のオニギリとお茶だったからだ。
「それくらい自分で持ってくださいよ」
「何よ! 月彦くんは半病人に無理しろっていうの!? 信じらんない!」
 むきー!とナナは両手の拳を交互に突き上げながら四股を踏むような動きで怒りを露わにする。そんな怒りの表現を見たのが初めてならば、“寝不足”が病気に含まれるという話も初耳だった。
「…………解りましたよ、俺が持てばいいんでしょう」
「ありがとう、月彦くん。…………ア・イ・シ・テ・ル」
 ぶるりと。最後に付け足された一言に、月彦は悪寒にも近いものを感じる。
「や、止めてくださいよ! 変な汗出ちゃったじゃないですか!」
「あはは、照れるな少年。んじゃ、私のオニギリとお茶よろしくねー」
 じゃ、と手を振り、一足先にナナは部屋を後にする。月彦もそのままナナの後を追おうとして、ハッとしたように廊下に居た従業員に声をかけた。
「あの、すみません。ちょっとお願いしたいことがあるんですけど」



 ナナに遅れること数分。月彦は一階ロビーまで降りてきた。
 旅館の宿泊客は皆、名切神社への参拝が目当てだというナナの言葉は恐らく的を射ていたのではないか。旅館の一階ロビーにはトレッキングスタイルに身を包んだ老若男女で溢れかえっていた。
「おっ、来たねー。…………今更だけど、月彦くんホントにその格好でいくの? 一応山に登るわけだし、かなり寒いと思うよ?」
 ジャンパーくらい持ってきたら?――そう言うナナに、月彦は苦笑で返す。
「いえ、三千段も石段上ってたら体も温まると思うんで、俺はこれでいいです」
「…………風邪ひいても知らないよ? …………ま、月彦くんがそのままでいいっていうんなら、それ以上私は口を出さないけどさ。んじゃ、とりあえず出発しよっか」
「ナナさん、場所知ってるんですか?」
「だいたいはね。ま、解らなくても他の人の後ついていけば着くっしょ」
「…………全員が同じ事考えてなければいいんですけどね」
 ナナと連れ立って、正面玄関を出る。どうも視線を感じると思ったら、周りからはどうやらカップルのように見えているらしい。
「……なんか、見られてない?」
「多分、カップルだと勘違いされてるんじゃないかと」
「私たちが? あはーっ」
 ナナが奇声を上げ、手を叩いて笑い出す。
「そっかそっかそっか。事情を知らない人たちにはそう見えるかもねぇ」
 ただ、カップルが歩いている――だけならば、こうまで見られなかっただろう。しかしそのカップルの行き先が縁切り神社として名高い場所となれば話は別だ。
 ひょっとして知らないのだろうか? 教えたほうがいいのだろうか?――そんな具合にソワソワしている他の宿泊客、観光客を見ていると、むしろこちらのほうが申し訳ない気持ちになるのだった。
「ね、ね、腕組んだりしてみる?」
 しかし、そういった申し訳なさとは、ナナは別次元のところに居るらしい。むしろ今の状況を楽しむように、目を爛々と輝かせながらそんなことを打診してくるのだから。
「……止めましょう。ていうか、すこし離れて、知り合い同士じゃないっぽく歩いたほうがいいかもしれないですね。……余計なトラブルを避けるためにも」
「月彦くんってばノリ悪いんだから。……物事はもっと楽しい方向に考えようよ」
 ぶーっ、とナナは頬をふくれさせる。或いは、ただ自分達が楽しむことだけを考えるのなら、ナナの言う通りにするのも悪くは無いのかもしれない。
(…………でも、どうしても他人の目が気になっちゃうんだよな)
 これはもう性分だと、月彦はため息をつく。



 三千段の石段。それは大きな鳥居の根元からスタートするらしい。側にはガイドマップらしき看板があり、それによると途中何カ所かの休憩所があるとのこと。
「へぇー、記帳するところがありますよ。……折角だし、書いていこうかな」
 屋根付きの門のような所に置かれた、電話帳サイズの台帳には名前や年齢、職業に住所、そしてコメントを書く蘭が用意されている。さすがに住所まで書いている者は少なかったが、名前とコメントについてはかなりの数の書き込みがあった。
 月彦も順番を待ってペンを取り、住所は省略して名前と、コメントを書いた。
『無事頂上まで行って帰ってこれるよう頑張ります』――当たり障りのないコメントだが、本心でもあるからこれでいいだろうと思ってペンを置くと、背後でナナのくすくす笑いが聞こえた。
「月彦くん、それさ。“帰り”に書くんだよ」
「えっ……」
 言われて、月彦は台帳へと再度目を通す。そして気がついた。月彦以外の者が書いたコメントはどれもこれも『一五〇〇段までしかいけなかった! 年内にリベンジする!』だとか『これで今月五回目、まだまだいくぜ!』だとか、ただ一言『疲れた。』だとか。ナナの言うとおり、どれもこれもこの石段を登った後の感想なのだった。
「いやでも……ほ、ほら! 中には登る前に書いてる人もいるみたいですし……べ、別に変じゃないと思うんですけど!」
 ぱらり、ぱらりと以前のページを見ていくと、いくつかは登る前の意気込みを書いているものもあった。が、しかしそれはどう見ても少数派だった。
「……ま、別に“帰り”じゃないと書いちゃいけないってワケでもないんだけどね。……んじゃ、私も月彦くんに倣って、先に意気込みを書いちゃおうかな」
 ふんふんと鼻歌交じりにナナはボールペンを握り、書き込みを始める。
(あれ、でも名前はどうするんだろう……)
 ふと、月彦はそんなコトを思うが、口には出さない。黙って居れば、案外ぽろりとナナの本名を知ることが出来るかもしれないからだ。
 ――が。
「“七篠 奈菜 二十才 女子大生”……って……まさか本名じゃないですよね」
「本名書いたら、月彦くんに見られちゃうじゃん」
 くるくるとペン回しをしながら、ナナは得意げに言う。そして引き続きコメント欄への記入を始める。
「って、ナナさんそれはさすがに……た、タチ悪すぎじゃないですか!」
「いいじゃない」
 ナナがペンを置く。コメント欄には次のように書かれていた。
『今日は彼氏に誘われて来ました。最近不仲だった彼氏とようやく仲直りできそうでうれしいです』
 恐らく――否、間違いなく。これを見た参拝客は「うわぁ……」と口を開くことだろう。
「……これは悪魔の所業ですよ、ナナさん」
「別にいいじゃない。誰かに迷惑がかかるわけでもないんだしさ」
「確かにそうなんですけど……」
「それよりほら、あそこから始まるみたいだよ」
 ナナが石畳の先を指さす。そこには中央に金属製の手すりが設置された石段が延々と。左右を雑木林に挟まれて山の奥へ奥へと続いていた。
「……こいつぁなかなかヘビーな眺めですね」
「ねえねえ月彦くん。……折角だから、上まで競争しよっか?」
「してもいいですけど、もしするなら俺はこの場でナナさんの分のお茶とオニギリを投げ捨てますよ」
「…………一緒にゆっくり登ろっか!」
 微かな舌打ちの音が聞こえたが、月彦はあえて無視して腕時計へと目を落とす。
「……時間は……約9時50分スタートですね。12時までには神社に着けるようがんばりましょう」
「おっけー! ……今まで黙ってたけど、こう見えて私、田舎育ちなのよね。足腰には自信あるんだから」
 遅れるなよ?少年――そう言い残して、いち早くナナが登り始める。
「……あんまり飛ばすとあとでバテますよ、ナナさん」
 その尻を見上げながら、月彦はあくまでゆっくりと。自分のペースで登るのだった。



 

 親切なことに、石段は百段ごとに小さな石柱が立っており、そこに現在何段目かが記されていた。
「ひっひっふー…………ひっひっふー…………」
 そんなナナの荒い呼吸音が聞こえ始めたのは、大体三百段を越えた辺りだった。
(……コレ、ちょっと……予想の三倍くらいキツいぞ)
 息が乱れているのは、月彦も同じだった。まだ、三百段。つまり十分の一しか登っていないのにコレなのかと。己の認識の甘さを呪いたくなる。
「ひっひっふー…………ひっひっふーーーーーー!」
 前をゆくナナのペースも徐々に落ち、いつの間にか並んで登る形になっていた。石段は中央をステンレスの手すりが走っており、その両側がそれぞれ人間二人は並んで登れる程度のスペースがある。何となく、前後を行く他の参拝者たちの動きから、右は登り、左は下りなのだと解り、月彦もナナもそれに倣って登っていた。
「ひっひっふー…………ひっひっふー…………って、いい加減突っ込みなさいよぉ!」
 ぺちーんと後頭部をぶったたかれ、月彦は危うく前につんのめりそうになる。自然と足が止まり、ナナもまた足を止めた。
「そ、そんな余裕なんか無いですよ! こっちだって、息切れまくりなんですから!」
「げっ…………現役、高校生のくせに、この、程度で、ヘバって、るの? だらしないわねー」
「んなこと言われたって……こちとら帰宅部……じゃなくって、一応天文学部、なんですから……そんな余分な体力なんて……」
「天文学部……って、嘘でしょ? 全然似合わない」
「俺だって嘘だと思いたいですけど、事実なんです。…………ちょっとだけ息が楽になってきました」
 足を止めて言い争いをしているうちに、徐々にではあるが呼吸は整い始めていた。が、ナナのほうはまだぜえぜえと息を切らしたままだった。
「うっそ……さすが……若さって……偉大……」
「ナナさんだってそんなに年変わらなそうじゃないですか。二十歳ですよね?」
「ぐぅぅ…………私だって……昔の私だったら……男の子に混じって野山を駆けまわってた頃だったら、月彦くんになんか負けないのに……!」
「一体いつ頃の話ですか。…………っと、ナナさん。後続の人たちの邪魔になりますから、そろそろ出発しましょう」
「ま、待ってよ……まだ息切れたまんま……」
「確か六百段くらいの所に休憩所があった筈ですから、そこまで頑張りましょう」
 ………………。
 …………。
 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 


 ……。
 …………。
 ………………。
「はあっ……はあっ……ここで……やっと、千五百段……ようやく、半分まで……」
 千五百段目――丁度道半ばとなるそこに用意された、丸太組みの休憩所のベンチに、月彦は倒れ込むような勢いでどっかりと腰を下ろす。
「はぁーーーっ………………はぁーーーーーっ………………はぁーーーーーっ………………」
 月彦に遅れること数分。今にも息絶えてしまいそうな、そんなゼエゼエ声を響かせながら、ゆらり、ゆらりとナナが登って来て、そのまま休憩所のベンチの前までくると、月彦同様どっかりと腰を下ろした。
「お疲れ様です、ナナさん。……このペースならなんとか二時間以内に神社まで行けそうですよ」
 腕時計を見ると、10時45分。出発が9時50分であったことを考えると、半分を約1時間で登って来た計算になる。
「はーっ…………はーっ………………ずっ………………ッ……!」
 が、その話もナナに聞こえているのかいないのか。ナナは瀕死の病人のように息を荒げながら、必死に何かを言おうとしているようだった。
「ず?」
「っず…………みずっ……」
 そこでやっと、月彦はナナが求めているものが何なのか解った。脇に置いていたリュックを開け、ナナの分の包みを取り出し、中に入っていた500ミリリットルのペットボトル茶を差し出すや――。
「んぐっ、んぐっ…………んぐっ……………………ぷっはぁーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
 瞬く間に、その半分以上を一気に飲み、快哉のように声を上げる。
「はぁーっ…………はぁーっ…………もっ……喉、渇いて……死にそう、なのに…………月彦くん、全然、気づいてくれないんだもの……」
「それは……すみませんでした。…………俺も少しお茶飲んじゃおうかな」
 確かに喉の渇きを感じる。月彦もまた自分の分のお茶を取り出し、ぐびりと煽る。それを見て、ナナもまたペットボトルに口をつけ、んぐんぐと飲み始めた。
「…………無くなっちゃった」
「早っ…………ナナさん、オニギリ食べる時どうするんですか」
「だって……ホントに喉が渇いてたんだもん」
「ナナさん、ちょっと着込みすぎですよ。寒いのは解りますけど、それじゃあ汗だくになるのも無理ないです」
「…………やっぱりそう思う? 私もちょっと失敗したなぁ、って思ってたトコ」
 月彦の脳裏に、出発前の会話が蘇る。恐らくナナも同じだろう。恥じ入るように顔を赤くしている。
「……くやしいけど、月彦くんの見通しのほうが正しかった、ってことね。……正直、ここまでキツいとは思ってなかったわ」
「それは俺もです。石段を登れば体も温まるだろうとは思ってましたけど、これは予想以上です」
「…………どうしよう、ジャケットだけここに置いてっちゃって、帰りに拾っていくのは無理……かな?」
「…………一応は、神様にお参りしようっていう人たちが使う石段ですから、勝手に持って行っちゃうような人は居ないとは思うんですけど……絶対無いとはいいきれないですね」
「だよねぇ……でも、ほんと暑くって……」
 じぃ、と。なにやら訴えるような目をするナナ。月彦はふいと目を逸らす。
「……月彦くんは、一応男の子だよねぇ」
「そうですね」
「男の子はさ、やっぱり甲斐性がないとダメだと思うの」
「同感です」
「たとえば、目の前に困っている女の子が居たら、迷わず助けるとかさ」
「そうですね女の“子”が困ってたら、俺も助けると思います」
「………………“女性”が困ってても助けよう」
「……“女性”は大人ですから」
「助けよう」
 ずいと、ナナが身を乗り出してくる。さながら、ガンを飛ばすフクロウのように。
「…………助けて、月彦くん」
 そして最後には潤んだ目での泣き落とし。そして月彦は――自分でも認めるほどに、泣き落としには弱い男だった。
「……上着、俺が持ちますよ」
「本当!? ありがとーーー」
 早速と言わんばかりに、ナナは薄紫のシェルジャケットを脱ぎ、月彦に手渡してくる。それはもう触るからに汗だくであり、同時にナナの体温でホッカホカに暖まっていた。
(…………こういうの、好きな人は好きそうだな)
 ふと、そんなコトを思う。女子大生の、汗だくシャツ――買ってでも欲しいという人は少なからず居るのではないだろうか。
「……変なコトに使っちゃダメだからね?」
「変なコトって何ですか。…………呼吸が整ったなら、そろそろ出発しますよ」
「あんっ、まだ早いってばぁ。……もうちょっと休も?」
「いやでも、そろそろ出発しないと二時間じゃ到着できな……」
「休も? 月彦くぅん」
 両目をうるうるさせながらの、おねだり。月彦はやむなく上げかけていた腰を下ろした。
(マズイ……ひょっとして、“弱点”に気づかれたか)
 だとすれば、どこかでガツンと言わなければ延々と良い様に操られてしまう。……しかし、それが解っていても、ガツンと言うことなど出来ないだろうなと。薄々自分の未來を見透かしながら、月彦はただただため息をつくのだった。


 2時間13分。それが月彦とナナが石段を登り切るまでにかかった時間だった。
「はーっ…………はーっ…………つ、疲れたぁぁあ……」
 もはやベンチになど座ってはいられない。――というより、石段を登り切った先にベンチなどという気の利いたものは存在しなかった。そこからはさらに山奥へと続く砂利道があり、ズボンが汚れることなどお構いなしに月彦はその場に座り込んでいた。
「ナナさん、大丈夫ですか?」
 月彦は座り込んでいるだけだが、ナナは完全に大の字になってしまっていた。ぜえはあぜえはあと荒い呼吸を繰り返しながら、なにやら恨み言のような言葉を呟いている。
 そのままたっぷり五分はかけてナナは呼吸を整え、そして漸く体を起こした。
「…………月彦くん。吊り橋効果って知ってる?」
「ええ、もちろん」
「私ね、それに続く新しい効果を発見しちゃった。…………名付けて、“石段効果”」
「……どんな効果ですか?」
「吊り橋効果はさ。吊り橋を渡っているときに感じるドキドキを、異性に対するドキドキと勘違いして惚れっぽくなっちゃうわけじゃない。…………石段効果はね、それとほぼ真逆の効果なの」
「……なんか、聞くの怖いんですけど……」
「もうね、息も苦しくて足の筋肉なんかパンパンなのに、これでもかこれでもかって続く石段を見ていると、こんなもの作ったやつは誰だ! 出て来い、首を絞めてやる!っていう気になるわけだけど」
「いや、それを一般論みたいに言わないで下さい。俺はそんな風になんて一度も思いませんでしたから」
「もー何もかもが憎たらしく思えてきて、元々好きでも嫌いでも無かった人のことまで、親の仇みたいに憎く思えてくるの」
 ナナは血走った目で月彦を見る。完全に本気の目だった。
「…………お茶、まだ俺の半分残ってるんですけど、飲みますか?」
「うんっ、飲む飲むー♪」
 豹変という言葉がこれほど似合う事象も珍しい。さながら、血走った目で包丁を握りしめている鬼女が瞬きのうちにグルグル飴棒を握った笑顔の幼女にすり替わったようなものだった。
 月彦の手からペットボトル茶を受け取るや、間接キスなどお構いなしにナナは口をつけ、ぐびぐびと飲み始める。
「あっ、ごめん……。全部飲んじゃった」
「なっ!? ちょっ……ナナさん何やってんですか!」
「あはは……ごめんごめん、思ってたより喉渇いてたみたいで、つい一気に飲んじゃった」
「喉渇いてるのはナナさんだけじゃないんですよ? お茶全部飲まれて、俺はどうすりゃいいんですか!」
 声を荒げてはいるが、決して本気で怒っているわけではない――のだが、どういうわけか、ナナは忽ち全身を硬直させ、わなわなと震えだした。
「ぁ…………ホントにごめん…………ごめんね、月彦くん……」
「あ、いえ……そこまで真剣に謝られるほどのことでもないんですけど……」
 思いの外ショックを受けてしまったらしいナナを逆に宥めるようなつもりで、月彦は優しく声をかける。
「ていうか、ナナさん本当に大丈夫ですか?」
「…………私、またやっちゃった…………」
「また……?」
 なんでもない――そう言って、ナナは首を振る。
「……月彦くん、本当にごめんね」
「いえそんな、本気で謝らないでくださいよ。お茶くらいどってことないですから」
 それに、と。月彦はリュックを漁り、中から水筒を取り出す。
「こんな事もあろうかと、自前の水筒をちゃーんと準備してきましたから」
「水筒……それってもしかして、家で用意してきたの?」
「水筒はそうですけど、中身は旅館出る時に従業員さんに頼んで麦茶を入れてもらったんです。ほら、石段の途中は自販機とか休めるようなお店とか何も無いってナナさん言ってたじゃないですか。もし途中でお茶をきらしちゃったらまずい事になるなぁ、って、念のために持ってきたんです」
 さすがにちょっと重かったですけど――月彦は苦笑する。
「……月彦くん、キミ……本当に年下の男の子? ちょっと準備良すぎない?」
 まるで化生でも見るような目で見られ、月彦は苦笑を返す。
「そんな……俺なんてまだまだですよ。俺の後輩の女の子なんて、ほんとヤバいくらいやりくり上手で気も利く子で、俺でもびっくりするくらいなんですから」
「月彦くん、私その子と結婚したい! 紹介して!」
「ははは。由梨ちゃんっていう子なんですけど、仮にあの子と結婚なんかしたら、自分一人じゃ何一つ出来ないような夫に調教されちゃうと思いますよ」
 冗談交じりに言いながら、月彦は水筒をリュックにしまい、腰を上げる。
「さて、と。休憩はそろそろおしまいにして先に進みましょうか。確か下にあったガイドマップだと、この先にちょっとした広場みたいなところがあるはずですから、そこでお昼にしましょう」
 ナナの手から空になったペットボトルを受け取り、リュックにしまって月彦は歩き出す。ナナもまた遅れじと、月彦の後に続いた。


 恐らくその広場は、もともとは雑木林であった場所を伐採し、盛土して平らにした後、わざわざ芝生を植えて木柵を設けたものらしい。展望台こそないものの、柵の側までいけばそれなりに遠くを見渡すことも出来、なかなかの眺めだった。
(……山しか見えないけどな)
 ちなみに月彦はその景色に二秒で飽きた。ナナはもう少しばかり感慨深そうに眺めていたが、それでも一分も立たないうちに見るのを止めた。
「……なんかさ。結構な数の人が登ってたと思ったんだけど……こうしてみるとそうでもないね」
 芝生広場は野球は無理でもドッジボールくらいは出来そうなくらいの広さはあった。が、実際にそこで昼食をとっているのは家族連れが二組だけ。当然夫婦そろってはいるが、縁切りしたそうには見えないから、その御利益を知らないか、知ってて気にもしていないかのどちらかだろう。
「日が昇ってポカポカ暖かいですけど、風は冷たいですしね。さっと登ってさっと降りて、暖かい旅館でゆっくりご飯食べたいって人も多いんじゃ無いですか」
 見ると、後から登って来た者達も広場には足を運ばず脇を抜けて山の奥へと消えていく。或いは秋口、春口であれば、この場所ももう少し賑わうのかもしれない。
「俺は折角ですからここでお昼食べようと思うんですけど、ナナさんはどうします?」
「私もここでいいや。もーお腹ぺこぺこ……」
「ですよね。俺もです」
 せめてもうちょっと力が入るような朝食を食べたかった――そんなことを思いながら月彦はリュックを開け、中からアイルランドの国旗のような彩りのレジャーシートを取り出し、広げる。
「そんなものまで持ってきたの!?」
「いや……ひょっとしたら使うかなぁって……」
 たとえばこの場でリュックから据え置き式ゲーム機でも取り出したのなら、ナナの言うように“そんなものまで”と言われるのはしょうがないかもしれない。しかしレジャーシートはそんなに素っ頓狂な声を上げられるほど意外な代物だろうか。
「月彦くんの親御さんってさ、きっとすごく立派な人なんだね」
「いや、褒めるなら俺を褒めてくださいよ! わー月彦くんってば準備がいいのね、って」
「……それともお姉さんの教育が良かったのかしら」
 どうやらナナは意地でも紺崎月彦本人は褒めたくないらしい。
「そのリュック、もしかして非常食とか、サバイバルキットとか、護身用のスタンロッドとかまで入ってたりするんじゃないの?」
「そこまでいくともう準備がいいってレベルじゃないですよね」
 苦笑しながら、月彦は水筒と旅館でもらったオニギリ包み二つをビニールシートの上に並べる。
「他に入ってるのは懐中電灯と十徳ナイフ、方位磁石と笛と……あと絆創膏くらいですよ」
「……それさ。役に立ったことあるの?」
「……………………持ってなかったせいで、後悔したことは、あります。……昔ちょっと遭難したことがあって」
 まぁ、アレは俺のせいじゃなかったんですけど――ぽつりと、月彦は吐き捨てるように小声で呟く。
「……まぁ、天災なんてのはどんだけ気をつけてても、避けられないときは避けられないしね。しょうがないよ、うん」
 ナナがもたれかかっていた木の柵から腰を上げ、どっこらしょー!とばかりにレジャーシートに腰を下ろす。
「どうぞ、おしぼりです」
「………………。」
「なんですかその顔は! オニギリが入ってたビニール袋の中に一緒に入ってたんですよ!」
「ああ、うん……そうなんだ。てっきりこれも月彦くんが自前で用意したものなのかと思って」
「……どうして俺が用意したものだとダメなんですか」
「ダメってワケじゃないけど…………なんていうか、年下の男の子にこれ以上差をつけられてたまるか的な感じ?」
「意味がわからないんですけど……」
 月彦もまた使い捨てのおしぼりで手を拭き、ビニール袋の中からオニギリが入っているパックを取り出す。プラスチックのパックの中にはオニギリが三つ入っており、そのうち一つは炊き込みご飯おにぎりで、もう一つは完全に海苔で巻かれた爆弾おにぎり、最後の一つは典型的な――海苔で大事なところだけ隠しました的な――おにぎりだった。
「月彦くん、お茶もらってもいーい?」
「どうぞ。ここに置いときますんで、好きに飲んで下さい」
「ありがとー。……月彦くんもいい旦那さんになるよぉ」
 どうやら、ナナは喉が渇いて渇いて仕方なかったらしい。水筒のコップに麦茶を注いでは飲み、注いでは飲みと立て続けに二杯飲んで漸く落ち着いたとばかりにほうと息をついていた。
「うん、おにぎりもおいしー。……本当は飛び抜けて美味しいわけじゃないけど、お腹が減ってるから美味しく感じる」
「別に言い直さなくても……」
 苦笑し、月彦もおにぎりを囓る。なるほど、確かに普通のおにぎりだが、空腹のせいでいつになく美味に感じられた。


 昼食の後、さらに山道を十分ほど歩いて漸く目的地、名切神社へと到着した。
「……フツーの神社だね」
「フツーですね」
 入り口に立っている鳥居。そこからのびる石畳。脇には手水舎があり、さらに石畳の奥には拝殿も控えている。が、そのどれにも特徴という特徴がなく、強いて言うならひどく年期が入っているくらいだ。
(……ていうかこれ、人住んでるのか?)
 月彦が気になるのはそこだった。奥の拝殿を見る限り、どう見ても人の気配が無いのだ。
(……神主さんに渡してくれって、母さんには頼まれたんだけど……)
 ここに来てもし留守であった場合、一体どうすれば良いのか。月彦はその可能性を全く考慮にいれていなかった事に、今更ながらに気がついた。
「月彦くん、私……どうしても気になることがあるんだけど」
「ナナさんもですか。俺もです」
「月彦くんも? ……やっぱり不思議だよね」
 えっ、不思議?――月彦は目を見開き、ナナの横顔を見る。
「…………この神社、どうやって建てたんだろ。まさか資材とか全部石段登って運んで来たのかしら」
 むうう、と唸っているナナにどう返したものか。「そうですね、俺も不思議です」――適当にそんな言葉を返して、月彦はとりあえず拝殿へと行ってみることにした。
 賽銭箱はある。が、やはり人の気配は無い。これはいよいよどうするか悩まねばならないと思っている矢先、ちゃりーんと賽銭箱に小銭を投げ入れる音が聞こえた。
 続いてガラガラと鰐口を慣らす音。見ると、ナナが柏手を打って神妙な顔で拝んでいた。
(ああそうか……ナナさんは……)
 そもそも縁切りの為にこの神社に来たのだった。ならば参拝の邪魔をしない方が良かろうと、月彦は一人で神社の関係者を捜すことにした。
(おろ……?)
 と思ったのは、拝殿の脇にくっついている、どう見ても民家風の木造の建物だった。人が居るならここだろうと、喜び勇んで駆けつけたのもつかの間。
「……うげっ」
 つい声に出してしまった。
 玄関先の引き戸に張られた、一枚の張り紙。そこには“春口まで留守にします”の文字。しかも困った事に書き手の名もなければ連絡先すら書かれていない。
「……多分、ここが神主さんの家……だとは思うんだけど…………」
 さすがに勝手に踏み入り、連絡先の手がかりを捜す――というわけにもいかない。どうしたものかと悩んでいると、背後から足音が近づいてきた。
「月彦くぅん、おつかい終わったー?」
「いやそれが……困ったことになっちゃって」
 月彦はかいつまんで現在の状況をナナに説明する。
「ふーん、じゃあさ。その書類が入ってる封筒っていうのを、そこに入れときゃいいんじゃない?」
 ナナが指さしたのは、玄関の引き戸の一部に空いた穴。それはまさに、郵便物などを玄関の内側へと落とし込むためのものだった。
「いやでも、春まで留守にするって書いてありますし……もし急ぎの書類とかだったらマズいじゃないですか」
「じゃあ、携帯でお母さんにどうすればいいのか聞いてみたら?」
「…………携帯、持ってないんですよね」
「え゙っ」
 ナナが怪獣の雛のような声を上げる。
「“持ってきてない”の間違いだよね?」
「“持ってない”んです」
「うっそだー。今時高校生で携帯持ってないなんてありえないってー。……ホントは持ってるんでしょ?」
「仮に持ってたとして、なんでこの状況で嘘つかなきゃいけないんですか! …………ホントのホントに持ってないんですよ」
「…………マジで?」
 唖然とするような、ナナの顔。携帯を持っていないということは、そんな顔をされるほどのことなのかと、月彦は少しばかりショックだった。
(確かに……周りはみんな持ってるし……真央ですら持ってる、けど……)
 あれば便利なんだろうなぁ、とは思う。しかし携帯を持ってしまったら、それこそ今以上に拘束時間が――誰によってかは、あえて伏せる――増えてしまいそうで、やっぱり無い方がいいかなと思うのだった。
「…………今時、高校生で携帯持ってないのなんて……全国捜しても月彦くん一人じゃない? あんまり人に言わないようにしないと、テレビ局が知ったら絶対取材に来ると思うよ」
「人を絶滅危惧動物みたいに言わないで下さい! …………ここ、公衆電話とか……ない、ですよね」
「……もー、しょうがないんだから。……普通なら、絶対人には貸さないことにしてるんだけど……」
 ぶつぶつと不満を漏らしつつ、ナナはズボンのポケットから携帯を取り出し、ちらりとその画面を見るなり、いぃっ、と口を引きつらせる。
「って、圏外になってるんだけどーーーー!」
「…………まぁ、ド田舎の、しかも山の中ですからねー……」
 さもありなん、と月彦はため息をつく。ナナも信じられないと零しながら携帯をしまい、そしてはたと。月彦が手にしている封筒で視線を止める。
「……………………ちょっと待って、月彦くん。その封筒……何か注意書きみたいなの書いてない?」
「え、注意書き?」
 ナナに言われて、月彦は改めて封筒を見る。葛葉から渡されたそれは、典型的な角2サイズの茶封筒であり、口はのり付けされている。その封筒の下方に、確かにナナの言う通りマジックで注意書きらしきものが書かれているのだった。
「“※留守の時は引き戸のポストに!”…………???」
 口に出して読むなり、月彦は大きく首を傾げる。そんな月彦を見て、ナナのほうが不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの? 書いてある通りにすればいいじゃない」
「いや、そうなんですけど……おかしいな……。こんな注意書き、最初からありましたっけ?」
 ナナが怪訝そうに眉を寄せる。
「ごめん、月彦くんが言ってること、まったくわからないんだけど。……ひょっとして、私が悪戯書きしたとでも思ってる?」
「いえ、そういう意味じゃなくって………………すみません。自分でも何言ってるのかよくわからなくなってきました」
 単純に、注意書きを見落としていただけなのだろう。そうに違いない。何より、注意書きの筆跡は明らかに母葛葉のそれだ。何も問題はないと、無理矢理自分を納得させて、月彦は封筒をポストへと落とし込む。
「とりあえず、俺の方の用事はこれでおしまいです」
「ま、なんにせよ無事終わって良かったじゃない。………………そして、またあの石段を下りなきゃいけないのか」
 心機一転。気合いを入れ――ようとして、失敗したらしいナナはがくーっとうなだれる。
「………………マラソンとかだと、上り坂より下り坂の方がキツいって聞きますね」
「……どこかその辺にVIP専用の麓まで直行できる滑り台とかないかしら」
 本気で捜しているのか、ナナは辺りへと視線を走らせる。
「仮にあったとしても、ナナさんはVIPじゃないから使えませんよ」
「その時は色仕掛けでなんとか!」
「ナナさんが?」
 冗談のつもりでフフンと鼻で笑うと、向こう脛をつま先で蹴りつけられた。
「うごぉッ…………ちょっ、そこは昨日……テーブルの角にぶつけたところ…………」
 月彦は臑を押さえてその場に膝を突く。
「色気が無いとか、そういう人が気にしてることは、言わない!」
「いや、俺は何も……」」
 ナナの激昂っぷりは月彦の予想の枠を遙かに超えていた。てっきり「そうだよねー、私じゃ無理だよねー、あははー」くらいの返しを期待していたところへの、臑蹴り。
(気に、してたのか)
 二十歳過ぎの女性にしては胸が無いことや、トレッキングスタイル姿を後ろから見ただけでは――髪型や背の低さに目を瞑る必要はあるが――男か女か判別しにくいということも、口にはしないほうが良さそうだと、月彦は学んだ。
「……と、とにかく……早いところ旅館に戻りましょうか。ナナさんも確か昼寝したいって言ってましたよね」
 漸く臑の痛みが引き、月彦は立ち上がる。数歩歩いてみて、どうやら歩行には支障が無いと解って一安心する。
「……これだけ運動したら、眠気なんか吹き飛んじゃったけどね」
 さっきのやりとりをまだ引きずっているのか、ナナの声は刺々しかった。
「………………そういえば、月彦くんはいいの? お参りしなくて」
 ――が、ナナとしても仲直りの方向へと話を持っていきたいのか。徐々にではあるがその声も普段通りになりつつあった。
「お参り……っていってもここ、縁切り神社なんですよね?」
「誰か、縁を切りたい相手とか居ないの?」
「縁を切りたい相手……」
 ぽんっ。そんな音をたてて真っ先に浮かんだのは、当然“あの女”の顔だった。この神社の御利益とやらがあの妖怪変化にどれほど通じるかは解らないが、やれることは全てやっておいた方がいいかもしれない。
「そうですね、折角ですから……」
 月彦は境内を歩き、拝殿の正面へ行く。財布から小銭を取り出そうとして――不意にその手が止まった。
(…………もし仮に、“御利益”とやらで縁が切れたとしたら……真央はどうなるんだ?)
 同居している以上、真央もまたあの女との縁が切れてしまうのだろうか。
(………………そうなったら、真央は悲しむ……よなぁ)
 攫われ、強姦された自分とは違い、真央は純粋に真狐のことは母親として慕っている。それを引き離すのは、さすがに忍びないと思う。
(………………運の良い奴だ。真央に感謝しろよ?)
 月彦は取り出しかけていた小銭を財布へとしまい、財布もまたリュックへとしまう。
「……お参りしないの?」
「ええ、止めときます」
 個人的には、あの女の顔など金輪際見たくはない。見たくはないが、真央の悲しむ顔はもっと見たくなかった。
 故に、仕方なく。月彦は縁切りを願うことを断念する。
「旅館に帰りましょう、ナナさん」



 石段の登りでは約二時間かかったが、帰りは一時間足らずほどで麓へと到着した。が、楽だったかと言われれば、決してそんなことはなかった。
「ヤバい……足ちょーがっくがくなんだけど」
「俺もですよ、ナナさん」
 行きに通った記帳用の台帳が置いてある屋根付き門を潜りながら、月彦は自分の両足がかつてないほどに頼りない状態になっているのを痛感せずにはいられない。
 石段の“登り”ではひたすら息切れとの戦いであったが、下りは筋力との戦いだった。つまり、息が切れるようなことはないのだが、両足の――特に太ももやふくらはぎの辺りの負担が尋常ではなかったのだ。
「……旅館に戻ったらすぐ温泉入りたい……温めのお湯にゆっくり……二時間くらい浸かりたい」
「同感です」
 “健全な運動”でこれほど疲れた記憶は、ここ数年では記憶に無かった。が、三千段もの石段を登り、降りきったという達成感が、その疲れを何とも心地よいものに変えていた。勿論その達成感には、無事おつかいを終えることができたというのもある。
「……ていうかさ。このタクシーの多さ……ムカつかない?」
「はは、いいじゃないですか」
 一体どこから沸いたのだろうか。参拝客の「もう旅館まで歩くのも辛い」という気持ちを見透かしたかのような、乗客待ちのタクシーをナナは露骨に睨み付けていた。
「……ていうか、ナナさんはむしろ乗ろうとする方だと思ってました」
「確かに疲れてるし、足がっくがくだし、心引かれるんだけど」
 ナナは目を瞑り、微かに首を振って、笑う。
「……ここまで見え透いた期待をされると、“絶対思い通りに動いてやるもんか”って思っちゃうの」
「その気持ち、解ります」
 苦笑。しかし全員がナナと同じ気持ちではないらしく、やはり参拝客の中にはタクシーに乗り込む者も何人かは居た。
「……ま、これはあくまで私個人の考えだから。乗りたいっていう人を軽蔑はしないし、止めもしないけどね」
「そうですね。そのくらいが丁度良いと思います」
 自分はこうする。だからお前達もそうするべきだ――ではなく。自分はこうするが、お前達がそうしたいなら、別に止めはしない。ナナが言っているのはつまりはそういうことなのだろう。
「ナナさんって、友達多いんじゃないですか?」
「…………どーして?」
 ナナの返事は、不自然なほどに遅かった。
「や、なんていうか……人に合わせるの上手そうだな、って思いました」
「…………そんなことないよ」
 それは耳を澄ましていなければ聞こえない程の、消え入りそうな声だった。
「私、友達作るの……すっごい下手だよ」
「まさか」
「心を許せる友達なんて、一人も居ないもん」
 あれ、ひょっとして俺は地雷を踏んでしまったのでは――月彦は遅まきながらにそのことに気づき、俄に青ざめた。
「…………月彦くん。そこは“だったら、俺がその友達に立候補してもいいですか?”って言う流れでしょ?」
 さっきまでやや斜め後方を歩いていたナナがいつの間にか横に並び、にぃと悪戯っぽい笑顔まで浮かべていた。
「……嘘、なんですね」
「当たり前でしょー? 友達くらい、バイト先や大学のサークルにいくらでも居るに決まってるじゃん」
「……ちなみに。もし俺が……さっきナナさんが言ったみたいなことを言ってたら、ナナさんはなんて返したんですか?」
「“えっ、何言ってんの? キモいんですけど……”………………かな?」
「……前言撤回。……ナナさん、友達少ないんじゃないですか?」
 絡みづらいです――独り言のように言って、月彦は歩くペースを速める。
「あんっ、ちょっと……月彦くん、速いってばぁ」
 露骨に甘えるような声を出しながらナナが追ってくるが、月彦は旅館に着くまでそのペースを緩めることはなかった。



 


 月彦にとっても、ナナにとっても計算外だったのは、大浴場の入浴時間が決まっていることだった。
「ありえなくない!? あれ絶対温泉じゃなくて沸かしてるんだって! 普通温泉っていつでも入れるもんでしょ!?」
 特にナナの怒り様は尋常ではなく、部屋に戻ってからもプンスカと煙を噴きながら声を荒げていた。
「…………決まりならしょうがないですよ。六時からなら入れるみたいですし、それで我慢しましょう」
「六時って、まだあと四時間以上あるじゃない! 一秒でも早く汗を流してサッパリしたいのに!」
「じゃあ、ユニットバス使えばいいんじゃないですか? 狭いですけど、シャワーくらいなら……」
 ぱんっ、とナナは手を叩き、ピッと月彦の方に人差し指を向ける。
「月彦くん、キミ天才。その手でいこう! もちろん私が先ね」
 ナナは早速着替えを手に、バスルームへと向かおうとする――その足を止めたのは、聞き覚えのある着信音だった。
「ああもう……こんな時に……はい、もしもし?」
 苛立ちを隠そうともしない声で、ナナが通話に出る。確認するまでもなく、相手は彼氏さんだろうなと、月彦は察した。
「…………シャワー、先に俺が使いますよ?」
 何となく長引きそうな気配を察して、月彦は先にシャワーを浴びることにした。厚着していたナナほどではないにしろそれなりに汗はかいたし、サッパリしたいという思いだけならナナにも負けないつもりだった。
 とはいえ、あまりダラダラと長く浴びるのも悪い気がして――ユニットバスな為、シャワー中はトイレも使えないから――月彦は必要最低限の時間でさっと汗を流し、体と髪を洗って泡を落とし、体を拭く。浴衣に着替え、手早く洗濯物をまとめてバスルームから出ると、なんとナナはまだ通話中だった。
(あちゃ……もうちょっとのんびり浴びてても良かったのか)
 そういえばと、月彦は思い出した。彼氏の愚痴の際に“無理矢理にでも話を終わらせないと、中身の無い会話に何時間も付き合わされる”――ナナがそう漏らしていたことに。
 恐らく、念願のシャワーを前に足止めされていることで、ナナのストレスはかなり溜まっているのだろう。その声はもう殆ど金切り声と言ってもいいほどになっていた。
「だーかーら! そんなんじゃないって!」
 ナナは居間のテーブルの周りをぐるぐる回りながら大声で喚く。
「電源を切ってたんじゃなくって、圏外の所に行ってたの! 本当だってば」
 ああ、なるほど――月彦は何となく、話が拗れている原因に察しがついた。恐らくは、石段を登り、圏外となっていた時にたまたま彼氏が電話をかけていたのだろう。当然ナナは知るはずも無く、逆に彼氏のほうは意図的に携帯の電源を切って通話を遮断していたのではないかと、いらぬ疑いを持ったのだろう。
(…………俺が証人になれればいいんだろうけど)
 残念ながらそれは不可能だ。仮に自分が彼氏の立場だったとして、何故俺の電話に出なかったんだと問い詰めている最中に知らない男が電話にしゃしゃり出てきて「彼女の言っていることは本当ですよ」と言ったところで信じられるわけがない。
 故に、月彦はそっとテーブルの側に座り、我関せずという顔で菓子入れに入っているまんじゅうを手に取り、かぶりつく。疲れている時は甘いものがいいとはよく聞く話だが、実際に味わうそれは麻薬的なまでに心地よい甘さだった。
「だから……浮気なんかじゃないって……。何回言えば解るの。さっきのは近くにいた旅館の人がたまたま……」
 ん?――ナナの言葉に、ぴたりと月彦はまんじゅうを食べる手を止める。
「違う……違うって……シャワーって言ったんじゃなくて……ええと、だから……」
 戸惑うようなナナの言葉に、月彦は全身から血の気が引いた。
(まさか……さっきの俺の声が……彼氏さんにまで聞こえてた……?)
 一応、抑えめの声で言った――つもりではあった。しかしナナとの距離や携帯電話の向きなどから考えて、聞こえてもおかしくなかったかもしれないと思う。
(や……べ…………)
 背筋が凍る。もちろん月彦もナナも、ナナの彼氏を裏切るような不義理な行為は何一つしていない。それは当事者として断言できる。しかしこの場合、仮に無実であったとしても“疑わしい真似をした”ということ自体が十分に罪なのではないか。
 李下で冠を正さずという故事もある。一端疑いを持たれてしまっては、そもそも彼氏である自分を差し置いてナナが一人で旅行するということ自体、浮気の為なのではないかと。そう疑われても仕方が無いのではないか。
「……待って。その話は旅行から帰ってからするって言ったじゃない。だいたい、電話でする話じゃ……………………だからなんでそうなるの?」
 彼氏のほうの声は聞こえてこない。聞こえてこないが、ナナの声の調子の変化とその内容から、どんどん雲行きが悪い方に向かっていることは明らかだった。
 月彦は完全に萎縮し、畏まり、肩を縮こまらせたまま正座をしてナナの通話が無事終わることを願うことしか出来ない。
「だーかーら! そんなこといつ私が言ったのよ! …………もう、だからちょっと……ねえ、待って……こっちの話も聞いてってば! そんな風に一方的に決めつけられたら…………は? 何ソレ……本気で言ってんの?」
 ナナの声にかつてない程の怒気が籠もる。月彦はもうあわわ、あわわ状態だった。
「…………そ。わかった。そっちがそういうつもりならもうしょうがないね。……なに? 別に怒ってないよ。呆れてるだけ」
「な、ナナさん……」
 落ち着いて――もちろん受話器には絶対に拾われないよう、掠れるような小声で月彦は漏らす。それははたしてナナの耳まで届いたのかは不明だ。
「うん、そっちが言った通り、本当は本命の彼氏と旅行中。ゴメンね、今まで黙ってて。でもバレたならもう隠す必要もないね……え? 別に誰でもいいでしょ。どうせ私が何言ったって信じないんだから、勝手に想像したら?」
 ナナさんダメです! それはダメ!――そんなコトを言える立場ではないことは重々承知の上で、月彦は部屋にあったメモ帳にボールペンで書き殴り、ナナの眼前につきつける。
“ナナさん、ダメ! ゼッタイ!”――月彦が必死の想いで書き殴ったそのメモを、ナナは確実に見た。見た筈だが、ナナはふいとすぐに目を逸らし、そしてそれまで以上の煽り文句を紡ぎ出す。
「何それ。あんたの頭の中ってそのことしか無いの? したに決まってるじゃん。……私そういう女だよ? 堅そうってそっちが勝手に思ってただけでしょ」
 ちょっ、ちょっ! ナナさん落ち着いて!――月彦はそれこそバラエティ番組の裏でカンペを持つADばりにメモ帳に静止の言葉を書き殴る。
「あ、ゴメン。彼氏がもうシャワールームから出て来ちゃったから切るね。……ばいばい、もうバイト先で顔合わせても絶対声かけないでね」
 月彦の必死の想いが通じたのかどうかは定かではない。が、程なくナナはまくしたてるように言い、通話を一方的に終了させる。さらに携帯の電源を落として――
「あーーーーーーーーーーーーーー! ムカつくーーーーーーーーーーーー!」
 思い切り振りかぶり、座布団めがけて叩きつけた。
「ナナさん、すみません! 俺、無神経でした…………まさか聞こえちゃうなんて」
「あーー…………いーのいーの。確かに最初はマズったなぁ、って思ったけど、おかげであの男の本性が解ったから」
「いやいやいや、ナナさんダメですって! 早く彼氏さんに謝って誤解を解きましょう、今ならまだ大丈夫ですって!」
「無理だよ。あいつ完全に浮気だと思ってるもん」
「なら、もういっそ俺が電話に出て事情を説明するってのはどうですか? 最悪、彼氏さんと直に会って話してもいいです。電話じゃ解らなくても、実際に会えば……少なくとも俺みたいなガキが一緒だったって解れば、浮気の疑いも減るんじゃないですか?」
「……あのさ、月彦くん。キミもしかして……私がどうしてあんなしんどい思いしてまで名切神社にお参りしにいったのか、忘れてない?」
「あっ……」
「ていうかさ、御利益凄くない? てか早すぎない? お参りしてまだ二時間も経ってないのに“コレ”だよ? あの神社ヤバすぎだって!」
 間違いなく、ナナは怒って――否、もはや“キレてる”と言ったほうが適切なほどに――いた筈だった。それであるのに、今はもう生まれて初めてUFOを生で見た子供のように目を輝かせ、興奮冷めやらぬといった具合に鼻息を荒くしている。
「って、そうそう! 月彦くんに言わなきゃいけないことがあったの! さっきのカンペ何? 私怒りながら思わず吹き出しそうになっちゃったんだけど! しかも月彦くんめっちゃ慌ててたし…………ぷくくっ……あはははははははっ!」
 その時笑えなかった分を今笑うとでもいうかのように、ナナはテーブルをばんばん叩きながら大笑いを始める。
「えと、あの……ナナさん、ひょっとして怒ってないんですか?」
「いひひひひ……ぷくくっ……え? 怒ってたけど……別にそれは彼に対してだし。……それも月彦くんがあんまり慌ててるからそっちのほうがおかしくって。最初は平気な顔しておまんじゅう食べてたのに、見る見るうちに青ざめて、萎縮しちゃって、正座までしてガクブルしてたよね? 私、電話で怒鳴りながらもう頬のところヒクヒクしてたんだから。もーほんと勘弁してよ、あそこで吹き出したら別れ話が台無しになっちゃうところだったんだから」
 ナナの言葉は気遣いなどでは無く、真実なのだろう。そうでなくては、涙が出るほど笑ったりなど出来るものではない。
「……とにかく、おかげさまで無事別れることが出来そうです。狙ってやったんじゃないんだろうけど、一応お礼は言っとくね。ありがとう、月彦くん」
 ひぃひぃと腹をかかえながら、指先で涙を拭いつつ、ナナはぺこりと頭まで下げてくる。ここに至って漸く、月彦は自分の危惧が全て杞憂だったということを理解した。


 ナナはシャワーを浴びた後、ドライヤーで念入りに髪を乾かして――そのまま寝てしまった。押し入れには布団が入っているのだから、きちんと敷いて寝ればいいのに、座布団を丸めてマクラにするとそのままごろりと横になってしまったのだ。
「…………風邪ひきますよ」
 よほど疲れていたのか、寝不足が効いているのか。横になって五分と立たないうちにナナは寝息を立て始めた。暖房が効いているとはいえ、万が一があってはいけない。月彦は仕方なく押し入れから毛布だけを引っ張り出し、ナナにかけてやった。
(……暇になっちゃったな)
 テレビでも見ようかと思って、リモコンに伸ばしかけた手を止める。折角気持ち良く寝ているナナをテレビの音で起こしてしまうのは悪いと思ったからだが、よく見るとテレビの横にはイヤホンらしきものも用意されていた。
(……でも、そこまでして見たい番組も無いんだよなぁ)
 室内を見回す。何か時間をつぶせそうなものはないかと目を走らせるが、見事に何もない。板間の方のテーブル脇には将棋とオセロのセットがあったが、さすがに一人では遊べない。
「………………。」
 結局することが見つからぬまま、月彦は部屋の壁に凭れて座ると、そのまま足を伸ばして目を閉じた。体が仄かに温かいのは、たっぷりと運動をした余熱のようなものなのだろう。
(…………明日でこの旅行も終わり、か)
 はたして羽は伸ばせたのだろうか。もし誰か他人にそれを問われたら、首を縦には振れないなと、月彦は思う。
 予期せぬ出会いからの、強引な相部屋。そこはかとなく臭わされる因縁――初めはどうしたものかと思ったものだ。
 羽は伸ばせたか?――その問いには素直には頷く事は出来ない。だが、楽しい旅行だったか?――その質問であれば、いくらでも頷くことが出来る。
 そうでなくては、明日のこと――ナナとの別れのことを考えただけで、こうも苦しい気持ちにはならない。
(……結局、どういう関係の人だったんだろう)
 そういえばナナと、ナナの素性についての話は殆どしてなかったなと。月彦は今更ながらにそのことに気がつく。尤も、今となってはもはやナナがどこの誰であろうがどうでもよいという気分になりつつあるのだが。



 六時になった。従業員の話では、大浴場は午後六時から解放されるとの話だった。月彦はちらりと、寝ているナナの方へと視線を送る。
(……起こしたほうがいいのかな?)
 なんとも判断の難しい所だった。既にシャワーは浴びて汗は流し終わった後だ。起こしたところで、もう風呂なんかどうでもいいから寝かせろと言われる可能性も十二分にある。
(……どうするかな)
 しばし悩んで、月彦はナナを起こすことに決めた。一つには、いい加減一人で退屈していたというのもあった。
「ナナさん、ナナさん、起きてください。六時になりましたよ」
「んんぅ……」
 肩を揺さぶると、ナナは不満そうな声を漏らして寝返りを打ち、月彦の方に背を向けるように横になる。
(……ま、無理に起こす必要もないか)
 八時過ぎには夕飯が運び込まれる手はずになっている。その頃になれば嫌でも目を覚ますだろう。
 月彦は替えの下着を手に、一人大浴場へと向かうことにした。脱衣所の人数を見る限りでは若干昨夜より人が多いように感じた。最もこれは宿泊客が増えたわけではなく、単純に時間帯の問題だろう。
 体を洗い、髪を洗い、湯船に浸かろうとしたところで――昨夜の子供の悦に入った顔が脳裏を過ぎる。仮にあの顔が放尿によるものだったとしても、さすがに一日経っているのだから問題は無いはず――そう頭では解っているのに、どうしても湯船に入ることが出来なかった。
 かといって、露天風呂は露天風呂で、昨日のあの温さが頭を過ぎり、気が進まない。結局月彦が選んだのはサウナだった。
 中に入ると、独特のむっとする空気に思わず息を止めてしまいそうになる。既に中には先客が三名。全員が中年の男性であり、うち二人は腰にタオルもつけておらず、あけっぴろげに男性器を晒していた。
 一方月彦はきちんと腰にタオルを巻き、隠すべきところは隠している。一目に晒すのが嫌というよりは、見た者達がギョッと目を剥くのが嫌なのだった。
 サウナに居られたのは、ほんの十分ほどだった。堪りかねて出るなり水風呂に浸かり、体の熱を取る。そして改めて、外の露天風呂へと向かった。
「おっ」
 と思ったのは、昨夜は誰も入っていなかった露天風呂に今日は数人の人影が見えたからだ。期待しながら足先を浸けると、なるほど確かにほどよい熱さだった。
 ひょっとしたら、昨夜の湯の温さを誰かが訴えたのかもしれない。そんなことを考えながら、月彦はゆっくりと肩まで浸かる。
「ふーーー……………………」
 露天風呂は広い。他の客が居ても、十分に手足を伸ばせるスペースがあった。月彦はしばし体の力を抜き、夜空を見上げる。
 田舎の空気は綺麗だという話が本当かどうかは知らない。しかし確かにそこには自宅で見るよりも綺麗な夜空が広がっていた。
(……明日の夜はもう、家に居る……んだよな)
 家に帰るのが嫌なわけではない。むしろ、たった一日半ほどの時間しか離れていないのに、真央の顔を見たくて見たくて仕方が無いほどだ。であるのに、月彦はそれとは矛盾して存在する己の気持ちを無視することが出来ない。
 何か。誰が聞いても「ああ、そういうことなら仕方が無い」と言わざるをえないようなトラブルが起きて、もう少しだけこの旅行が続かないものだろうか。せめてあと一日、この旅館で過ごすことは出来ないだろうか。
 それも出来れば……ナナと共に。


 昼間の疲れを癒やすように露天風呂に長湯した後、いい加減のぼせそうになって月彦は脱衣所へと戻ってきた。体を拭き、浴衣に着替えて、脱衣所を出る。時計は八時前を指している。予定では、部屋に夕飯が運び込まれている筈だった。
「あーっ!」
 昨夜とは違い、階段ではなくエレベーターで部屋に戻ろうとした月彦は、丁度その扉の前でナナと遭遇した。
「酷いじゃない! 一人だけさっさとお風呂入りにいっちゃうなんて! この薄情者!」
「いや……俺はちゃんと起こしましたよ? 起こしたけど、ナナさんが起きなかったんじゃないですか」
「うっそだー! 起こされたなら覚えてるはずだもん。絶対起こされてなーいー!」
「起こしましたって」
「起こされてないってば」
「…………わかりました。ナナさんの言うことが正しいです。一人で風呂に入りにいってすみませんでした」
 こんなところで不毛なやりとりをしていても埒があかない。月彦は一歩譲って、丁度降りてきたエレベーターに乗り込み、ナナもその後に続く。
「ってあれ、ナナさんもお風呂帰りですか」
 てっきり、今から温泉に入りにいくものだと思っていた。が、エレベーターの狭い空間に入ったことでナナがシャンプーの香りを漂わせていることに気づく。
「八時までには戻らなきゃいけないから、一時間も入ってらんなかったけどね。…………あーあ、誰かさんがもっと早く起こしてくれてたらなぁー」
「…………すみません」
 程なく、エレベーターが四階に到着する。405号室へと戻ると、テーブルの上にはずらりと料理が並べられていた。
「……なんか、ショボくない?」
「いやきっと……こっちが普通なんですよ」
 料理を見下ろしながら呟いたナナに、月彦はフォローを入れる。昨夜のアレは、あくまで“お詫びの気持ち”ということだったのだろう。そういう目で見れば、今夜の献立もそう悪くは無い。
「……って言いたいところなんですけど、旅館のメニューとしてどうなんですかこれ」
 一言で言うならば、“とんかつ定食”。まるで近所の定食屋に注文したものをそのまま持ってきたようなメニューだった。
 ごはんに吸い物、冷めて衣がしんなりしたとんかつに、キャベツ、半月状に切られたトマト、たくあん。
 昨夜の舟盛りやら鍋やらとのあまりのギャップに、月彦もナナも露骨に眉を寄せていた。
「…………なんていうか……昨日豪華にしちゃった分、しわ寄せがモロに来た感じ?」
「昨日と今日の夕飯のコストを足して2で割ったら、本来の夕飯のコストになるのかもしれないですね」
 げんなりしながらも、月彦は箸をとる。ナナも箸をとり、それぞれとんかつを一切れずつ口へと運ぶ。
「……イマイチ」
「……ですね」


 なんともテンションの下がる夕食を終え、時間をおいて食器類が下げられる。同時に寝室には布団が敷かれ、否が応にも旅の終わりを実感せざるを得ない。
「そっか。月彦くんとの同居生活も明日で終わりなんだ」
「同居っていうとなんか変な感じがしますけど、そうですね。ナナさんは明日の昼にチェックアウトでしたっけ?」
「うん、月彦くんは何時?」
「俺も昼です。……ナナさんも帰りは電車ですか?」
「電車だけど……多分月彦くんとは真逆だよ」
「ああ、そっか……。ナナさんは旅行の締めくくりにここに来ただけ、でしたね」
 ひょっとしたら、帰りも同じ電車になるのではないか――そんな淡い期待が砕かれた瞬間だった。
「……月彦くんさー」
「何ですか?」
「………………。」
「………………。」
「……………………お酒好き?」
「俺まだ高校生なんですけど……」
「今時の高校生なら、お酒くらい飲むでしょ?」
「そりゃあ、飲んだことくらいはありますけど、別に好きじゃないですよ」
「そっか。……じゃあ、とりあえず乾杯しよう!」
「乾杯……って、何のですか?」
「私たちが出会ったという偶然と、無事彼氏と別れられたっていうお祝い?」
「本当に別れられるかどうかはまだわかんないじゃないですか。……ひょっとしたらこじれにこじれて、ストーカーとかになっちゃうかもしれませんよ」
「……やだ、怖いこと言わないでよ」
「まぁ、仮にそうなってもナナさんなら大丈夫だとは思いますけど。なんたって空手二段ですし」
「ああ、それね。嘘だから」
「だと思ってました」
 月彦の“返し”に、ナナが目を丸くする。
「とっくにバレてたって事?」
「確信はなかったですけど、多分嘘だろうなぁ、とは思ってました。……だってナナさん、手とかすっごい綺麗なんですもん。空手家って感じじゃないですよ」
「むぅー……ツメが甘かったか。でも手が綺麗っていわれたのは、ちょっと嬉しい」
 にん、と笑って、ナナが畳を蹴って立ち上がる。そのまま備え付けの冷蔵庫の扉を開けると、中から二本の缶ビールを取りだした。
「というわけで、飲もう!」
「本気ですか。……俺、余分な現金はあんまり持ってきてないんですけど」
「いーからいーから、これは私の奢り! 最後の夜なんだし、ぱーっと行こうよ」
 半ば無理矢理に缶ビールを渡され、ナナもまた自分の座布団へと腰を下ろすなり栓を開ける。やむなく月彦も栓を開け――
「それじゃあ、かんぱーい!」
「かんぱーい」
 こつんと缶をぶつけ、ぐびりと飲む。ほどよく冷えたビールの独特の苦みが口いっぱいに広がり、今日に限ってはその味も悪くないと思える。
「って、ナナさんは飲まないんですか?」
「え……あ、うん……飲む、けど」
 先に栓を開けたはずのナナはといえば、なにやらテーブルの上に缶を置いたまま、念動力の練習でもしているかのようにじっと見つめていた。そして意を決したように缶をつかみ、ぐびりと口に含み、嚥下する。
「ふはぁっ、効っくぅぅぅ」
「…………大げさですよ。たかだかアルコール度4%のビールじゃないですか」
 雪乃や矢紗美ならば、こんなものは水と一緒だと言うところだ。勿論あのウワバミ姉妹を基準に考えてはいけないことは解ってはいるのだが。
「ふにゅぅぅぅ……」
 ナナは間違いなく一口しか飲んでいない――その筈だった。しかしその顔は目に見えて上気し始めていた。
「あれ……ナナさん……もしかして」
「んゆう?」
「お酒…………弱いんですか?」
 こくりと、ナナは頷いているんだかガックリしているんだかわからないような頷き方をする。
「ちょー弱い…………だからホントは飲みたくなかった……」
「飲みたくなかったって……飲もうって言ったのは……」
「……だって……素面じゃ何も言えないまま終わりになるって思ったんだもん」
「どういう……ことですか?」
「うーん…………何から話せばいいのかなぁ」
「…………素面じゃ言えない話、なんですよね」
「……うん」
 ということは、“因縁”についての話だろうと、月彦は察した。初対面の筈なのに、何故ナナは霧亜の名を、そして紺崎月彦を知っていたのか。
「まず、謝るね。…………私、月彦くんにいっぱい、いーーーっぱい嘘ついてたの」
「……たとえば?」
「空手二段、とか」
「それはさっき聞きました。……他には?」
「彼氏が居る、とか」
「え……それ嘘だったんですか!?」
「ううん、これは本当」
「……ナナさん!」
「あはは、ごめんね。…………ここからはおふざけなしの真面目な話」
「そう願います」
「……そうだね。何から話せばいいのかな。…………考える時間はいっぱいあったはずなのに、いざ言おうとすると、言葉が出ないものなんだね」
「ナナさんが言いやすい言葉で言ってください。……なるべく理解できるよう、俺も努力します」
「うん……ありがとう、月彦くん」
 それきりナナは黙り込み、なかなか口を開かなかった。意図して黙って居るのではなく、どう話を切り出したものか悩んで、話すに話せないといった顔だった。
「……初恋……」
「初恋?」
「昨日の夜……初恋はまだだって……言ったじゃない。……あれも、嘘」
 どうやら、それがナナの選んだ“切り出し方”だったらしい。月彦は黙って耳を傾ける。
「……本当はね、好きな子が居たんだ」



「その子はね、すっごく綺麗な子で、髪が長くて、肌なんて雪みたいに白くって。……私が持ってないものを全部持ってるような子だった」
「……えと、すみません。一つだけ聞いてもいいですか?」
「なーに?」
「…………男の子、ですよね?」
 ナナは目を瞑り、静かに首を振る。
「私の初恋の相手は、女の子。……でもね、その子にはもう、好きな男の子が居たの」
「その男の子がナナさんのことを好きになれば、綺麗な三角関係になりますね」
 ただの冗談――のつもりで言ったのだが、ナナはまるで雷でも受けたように体を硬直させ、目を見開いて月彦の方を見る。
「あ、れ……俺、なんか変なコト言いました……?」
「…………ううん。その手があったなぁ、って思っただけ」
 悪戯っぽくナナが笑う。
「でも、実際の私は……その子の恋の応援をしたの。その子は綺麗で、行動力もあった。……多分、頭も良かったんだと思う。でも、それ以上に――」
「それ以上に……?」
「……巧く言えない」
 ナナは頭を抑え、首を振る。
「その子はね、本当の本当に相手の男の子のことが好きだったんだと思う。想いが強すぎて、大きすぎて、自分自身でもどうにもならないくらいに。側で応援してただけの私ですら、“怖い”って、何回思わされたか解らない」
「……綺麗な子にそれだけ想われたら、その男の子も本望でしょうね。……それで、結局その二人はどうなったんですか?」
「…………私のアドバイスで、相手の男の子に三回手紙を出したけど、一度も返事はもらえなかった。……その子とはそのあと疎遠になって、それっきり」
「……てことは、疎遠になったあと、もしかしたら両思いになってる可能性もあるわけですね」
「それはないよ」
 ナナの否定は早かった。
「疎遠になった後も連絡とってるんですか?」
「とってないけど、解るの。…………あの子の愛は、人間には重すぎる」
「………………。」
 まるで、自分の初恋相手が人間以外のものであるかのような言い方だった。
「あの、ナナさん。一つどうしても気になることがあるんですけど」
「……なに?」
「その子、綺麗で……しかも行動力もあったんですよね。なのに、どうしてわざわざ手紙なんかでアプローチしたんですか?」
「手紙を書いたのは、その男の子が住んでる場所が遠くて、とても直接会いにはいけなかったからだよ。……最初は電話かけてみよう、って話になったんだけど、その子が直接声なんか聞いたら心臓が爆発しちゃうって嫌がるから、まずは手紙のやりとりから始めようって流れになったの」
「なるほど……純情っていうか……恥ずかしがり屋な子だったんですね」
「…………多分、それだけじゃなかったんだろうと思うけどね」
 意味深に言って、ナナは右手に持っている缶ビールを口元へと運びかけて、唇まであと数センチというところで止める。喋りすぎて口が渇いたから水分は欲しいが、酒は体のほうが拒絶していて近づけることが出来ない――そんな動きだった。
「……お茶でも入れましょうか?」
「ううん、大丈夫」
 そう言って、ナナは意を決したように目を瞑り、缶ビールに口をつける。ぐいと缶を傾け、ごくりと。その喉が鳴る音を、月彦は聞いた。
「ふあぁぁぁ……」
「だ、大丈夫ですか?」
「ま……まだ平気……」
 頭をグラグラさせながら、ナナは笑う。
「…………“彼氏”のこと……どうして好きになりきれないのかって、そういう話も、したよね?」
「ええ……薄っぺらい感じがする、とか言ってましたね」
 そしてそれは自分――ナナのほうの問題であるとも。
「……どうしても、比べちゃうの」
「もしかして……」
 うん、とナナは頷く。
「“あの子”がどれほど男の子のことを想って、一生懸命手紙を書いて、何度も書き直して、返事を楽しみにしてたのか、私はずっと側で見てた。男の子の写真ばかりが綴じてあるアルバムを開きながら、楽しそうに話すのも聞いてた。……あの子の“想い”に比べたら、この人の口にする“好き”はなんて軽いんだろう、薄っぺらいんだろう、って。どうしてもそう感じてしまうの」
 ナナの話を聞きながら、月彦はナナのした例え話を思い出していた。打ち上げ花火を見て感動した人間は、線香花火を見て感動はしない――ナナは自分でたとえが悪かったと言ったが、一連の話を聞いた後でなら、言わんとすることが理解出来る。
「わかってる。本当は解ってるの。あの子が特殊なだけで、それと同じものを普通の男の人に求める方が間違ってるって。……だけど、どうしても……忘れることが出来ないの」
「…………ナナさんは、本当にその子のことが好きだったんですね」
 単純に“友達”の恋を応援していただけならば、そうまでナナの心の中で大きなウェイトは占めないだろう。その女の子のことが本当に好きで、一挙手一投足魅入っていたからこそ、そこまでナナの内側を占拠してしまったのだろう。
「…………ナナさん、その子は……ナナさんの想いには気づいてたんですか?」
「多分、ね」
 ためらいがちに、ナナは頷いた。
「……でも、全然振り向いてなんてくれなかったし、私も振り向いてほしいなんて思ってなかった。だって、割り込む余地なんて全然無かったもん」
「ナナさんの話を聞く限り……確かに割り込む余地は無さそうですね」
「でしょー? 困っちゃうよねえ」
 人ごとのように言って、ナナは笑う。が、その笑みは長くは続かなかった。
「不思議だよねぇ。そんなにその子のことが好きで、相手の男の子のせいで振り向いてくれないのに、嫉妬とかそういう気持ちが殆ど起きなかったんだよね。……むしろ、この子をそんなに夢中にさせるなんて、どんな男の子なんだろうって気になったくらいだよ」
「……ナナさん、もしよかったら……その、ナナさんの“初恋の女の子”の名前、教えてもらえませんか?」
 その瞬間、ナナが微かに目を見開いた。
「いやその……“その子”とか“あの子”とかじゃいまいちピンとこないというか、ナナさんも話しにくいんじゃないかと思って」
「……その子の名前、か。…………本当に言っちゃっていいのかな?」
 えっ――月彦がそんな言葉と共に固まると、ナナはくすくす笑い出す。
「月彦くんってさ、準備もいいし、気配りも出来るけど、肝心なところでカンが鈍いところがあるよね。…………私、月彦くんに教えてもらう前から、月彦くんにお姉さんがいることや、そのお姉さんの名前も知ってたんだよ?」
 これがどういうことか解る?――酒気を帯びたナナが、雅に笑う。
「も、もし……かして……」
「うん?」
「その子……って……俺の知ってる子……ですか?」
「うん」
 ざわっ……。
 全身の毛が総毛立つのを感じる。喉が渇き、咄嗟に右手に持っていた缶ビールを煽り、胃袋へと流し込む。
「ま、まさか……」
「うん?」
「……姉ちゃん、ですか?」
「月彦くんのお姉さん? あははー、その答えは予想してなかったなぁ。……残念、ハズレ。私はキミのお姉さんとは会ったことないって言ったよ?」
「ち、違うんですか……」
 月彦としてはド本命の推理だっただけに、ナナの答えには耳を疑った。知り合いの女性で、ナナと年が近くて、しかも美人で女性に惚れられる魅力の持ち主といえば、真っ先に姉が浮かんだからだ。
(……あ、でもそっか……“片思いの男の子”が居るんだよな)
 そう考えれば、霧亜ではあり得ないとわかる。
 では、一体誰なのか。
「……名前、言おっか?」
「いや、待ってください。………………なんか、すごく嫌な予感がするんですけど」
 ざわざわと、先ほどから鳥肌が立ちっぱなし悪寒が走りっぱなしなのだ。聞くべきではない、聞いてはいけないと。全身の細胞が悲鳴を上げているようだった。
「じゃあヒント。……イニシャルはA.T」
「A.T?」
 ナナのヒントに、ホッと、安堵の息が出る。脳裏を過ぎった、最悪のイニシャルではなかったからだ。
(いや待てよ、確か……名字が変わったって――前に優巳姉が……)
 新しい名字は何であったか。
 確か、と――
「ぶーっ、時間切れ。…………その子の名前はね、愛奈。……土岐坂、愛奈」
「ときさか、あいな――」
 オウム返しに呟いた瞬間、月彦は口元を抑え、バスルームへと駆け込んでいた。



「……大丈夫?」
 ナナに背中をさすられながら、月彦は必死に呼吸を整えていた。目の前には、今し方自分が吐いたばかりの吐瀉物が便器にこびりつき、ツンと鼻を突く異臭を放っている。
「だ、大丈夫……です……うぷっ……」
「……もしかして、月彦くんもお酒……苦手だったの?」
 月彦は口を押さえながら、首を振る。この嘔吐はアルコールのせいなどではない。名前を呟いた瞬間、脳裏をよぎった顔と、笑い声。それらが到底耐えられない負荷を心身に与えたために起きた、いわば拒絶反応だった。
「ちょっと……ビックリしただけです…………まさか、ナナさんの口から……愛姉の名前が出るなんて」
「……そっか。…………やっぱり苦手なんだ」
 月彦の反応を見て、全てを察したような顔だった。
「いや……苦手っていうか…………」
 頭で、あの女のことを――同じ“あの女”でも、真狐のことではない――考えるだけで、震えが止まらなくなる。歯が鳴って止まらなくなる。
「……愛奈はね、言ってたよ。自分と“ヒーくん”は相思相愛なのに、ヒト――“キーちゃん”が邪魔するって」
「や、止めてください! ちょっと、もう……ホントに勘弁してください……愛姉の話だけは、聞きたくないです」
「……わかった。先に戻ってるね」
 ナナがバスルームを出て行く。
(……そっか。“あのとき”のナナさんはこんな気持ちだったのかもしれない)
 月彦は考える。ナナが何故、それこそ苦手な酒の勢いを借りてまで、“初恋”の話など振ったのか。ひとえに、“心の準備”の時間を作るためだったのだ。愛奈の存在を、徐々に臭わせることで。
(……ただ、俺が鈍かった……それだけのことだ)
 ナナは言った。“紺崎月彦”との出会いが急すぎたと。心の準備をする時間が欲しかったと。そうならない様、ナナなりに必死に考えてくれたのだろう。共に夕食を食べ、眠り、石段を登り、温泉に入る間、ナナは自分とはまったく違うことを考えていたのだという事が、途端に申し訳なく思えてくる。
 月彦はしばしうなだれたまま呼吸を整え、口をゆすぎ、後始末をしてから居間へと戻った。ナナはテーブル脇の座布団の上に戻っていて、月彦もテーブルを挟んだ自分の座布団の上へと座る。
「……すみません、みっともない所を見せちゃって」
「ううん、私の方こそゴメンね。まさかそこまで苦手だなんて思ってなかったから」
「いえ……ナナさんのせいじゃ……」
 月彦は静かに首を振る。
「……てことは、もしかして話の中に出て来た“男の子”っていうのは――」
「うん、キミ」
「ま、待って下さい! それはおかしいです! 俺は……愛姉から手紙なんてもらったことないですよ!?」
 そんな覚えがあれば、ナナからその話を聞いた瞬間にピンと来たはずだ。しかしどれほど記憶を探っても、そのようなおぞましい記憶は蘇ってこない。仮にそんなものをもらっていれば、忘れているなどということは絶対にない筈なのに。
「手紙は出したけど、キミまでは届かなかったんだよ。…………全部、お姉さんが燃やしたんだって」
「……初耳、です」
 それは一体いつ頃の話なのだろうか。自分の知らないところで霧亜と愛奈がそんなやりとりをしていたことに、月彦は今更ながらに恐怖を覚える。
「愛奈は、“ヒーくん”に避けられてるんじゃないかなぁって思ったのはその時かな。私はキミのお姉さんには会ったことはないけど、弟に宛てられた手紙を勝手に燃やすなんて絶対おかしいもん」
「…………姉ちゃんが居なかったら、俺はとっくに愛姉に苛め殺されてたと思います」
 黒須愛奈――土岐坂愛奈と最後に会ったのは、十年以上前。故に、月彦の中にある愛奈の姿は、まだ十歳にも満たない少女だった。しかしそんな少女にすら、今でも敵う気がしない。
「一つだけ、いいかな」
「何ですか?」
「月彦くんが、愛奈にそこまで苦手意識持ってるのって……もしかして愛奈の体のことが関係あったりする?」
「愛姉の体…………っていうと、“あのこと”ですか?」
 それだけで、ナナには伝わったらしい。
「…………そんなの、俺が愛姉にされたことに比べたら、全然どうでもいいレベルのことです。そんなことくらいで、ここまで苦手意識を持ったりなんてしません」
「そっか、良かった」
 ナナは笑って、頷く。
「もしそうだったら……私、月彦くんのこと軽蔑するところだった」
 ナナの手が伸び、テーブルの上に置きっぱなしになっていた缶ビールへと伸びる。栓を開けて大分経っており、缶の表面にはびっしりと水滴がつき、テーブルを濡らしていた。恐らく炭酸もかなり抜けてしまっているだろう。
「……うん、やっぱり、月彦くんしかいない。……キミ以外あり得ない」
「な、何がですか?」
「けじめ……それともこういう場合、踏ん切りっていうのかな。……ゴメンね。私……国語の成績あんまり良くなくって、思ってることを巧く言葉に出来ないの。…………さっき、言ったよね。私の中にある愛奈の存在が大きすぎて、まともな恋愛が出来ないって」
「……聞き、ましたけど……」
「だから、キミに責任をとって欲しいの」
「へ……?」
「…………ごめん、言葉が悪かったね。………………愛奈のことを忘れる手助けをして欲しいって言ったらいいのかな。……こんなこと、事情を知らない他人になんて絶対に頼めない。……適任者はキミしか居ないの、月彦くん」
「ま、待って下さい! ナナさんが言ってることがイマイチわかんないんですけど……一体全体俺に何をさせたいんですか?」
 まさか、土岐坂愛奈と会う為の橋渡しでもしろとでもいうのか――軽く想像しただけで、月彦は全身に鳥肌が立つ。
「……ああもう、焦れったいなぁ……どうして私はこんなに頭が悪いんだろう」
 そう言って、ナナは意を決したように缶ビールを握りしめると口につけ、殆ど真上を向くようにして一気飲みを始める。
「な、ナナさん!? ちょっ、そんなに飲んだら……」
 一口飲んだだけで、顔を赤くするほど酒に弱いナナが、一気のみなんかしたら――月彦は膝立ちになり、慌てて止めようとする。――が、そんな月彦の目の前に、だむと空になった缶ビールが叩きつけられた。
「……とにかく、わたしが……いいたいのは!」
「は、はい!?」
「こんや……わたしと……せ、せっくす…………して、ください…………おねがい、します……」
 そこまで言い切るや、ナナはぐらり、ぐらりと頭を揺らし、ごつんとテーブルに頭突きをするように伏せてしまった。
「ちょっ、ナナさん!? 大丈夫ですか!」



「うー…………ぎもぢわるい………………」
「大丈夫ですか? いっそ吐いたほうが楽になりますよ」
 ナナの体を布団の上に仰向けに寝かせ、よく冷やしたおしぼりを額の上に載せる。一応万が一の為に、布団の側には洗面器もスタンバイさせてある。
「だいじょぶ……そこまでじゃないから………………少し横になってれば……楽になると思う」
「お酒弱いのに一気飲みなんて無茶ですよ…………急性アルコール中毒にでもなったらどうするんですか」
「………………だって、お酒の勢いがないと……とても言えなかったんだもん」
 ぷいと、ナナは月彦から目を逸らすように障子戸の方を向いてしまう。
「……ええと、なんて言ったらいいか…………さっきのは……言葉通りの意味……って捉えていいんですか?」
「……っっっ……」
 かああと、明らかに酒気とは違う赤色に、ナナの顔は両耳まで染まる。
「……やめて、よ……そんなこと……いちいち、確認なんてとらないでよ」
 キッと、月彦の方を向き直るや、ナナは鋭く睨み付けてくる。
「そもそも冗談なんかで言える、わけ……ないでしょ!」
「す、すみません……で、でも……」
「でもじゃない! ………………なによ、嫌なら嫌だって……そう言ってよ…………それなら、それで……私だって――」
「い……嫌なんかじゃないです!」
 月彦は首を振りながら、ナナの声に被せるように言う。
「嫌じゃ……ないです。……俺だって、男……ですから。…………ナナさんみたいに綺麗な女性とエッチしたいっていう願望はその、勿論あるわけで……」
「じゃあ、何が不満なの?」
「不満とかじゃなくて……どうしても気になるだけです」
「だから、何が」
「………………俺は、愛姉の代わり、なんですか?」
 ハッとしたように、ナナが口を閉じる。
「愛姉のことを忘れるために抱いて欲しいって言うのは、つまりそういうことですよね」
「ち、違――」
 言いかけて、ナナは口を噤む。首を振り、そして言い直した。
「……そう、だよ。私が好きだった愛奈が好きな月彦くんと寝れば、私の中で踏ん切りがつくんじゃないかって、そう思ったの。……でもね、月彦くんを選んだのは、それだけじゃないよ?」
 ううん、そうじゃない――ナナは再度首を振る。
「もしかしたら、“愛奈が月彦くんのことを好きだから”っていうのもただの建前かもしれない。……私はね、月彦くん。愛奈からキミのことを聞かされて、一体どういう男の子なんだろうって、気になって仕方がなかったよ。だって、“あの愛奈”がゾッコンになるような男の子なんだよ? ひょっとしたら、愛奈なんて問題にならないくらいぶっ飛んでる男の子かもしれないじゃない」
「あ、愛姉よりも………………な男の子、ですか」
 それはもう想像することすら不可能。想像上ですらモザイクがかかったままで、しかもモザイク越しでもその全身は返り血まみれだと解ってしまうような――少なくとも月彦が想像したのは、そんな“怪物”だった。
「興味はあったけど、自分から会いに行こうなんてとてもじゃないけど思えなかったよ。…………でもね、実際に会ったキミは普通の男の子で、普通に思いやりがあって、普通に気が利いて、一緒に居てすごく楽しい子だった。私としてはむしろそれが拍子抜けで、逆にちょっと物足りなかったよ」
「…………愛姉よりもスゴい男の子を想像してたなら、そうでしょうね」
 としか、月彦には言えなかった。
「………………月彦くんから見て、私はどうだったかな。年の割に幼い……っていう風に見えたんじゃないかな」
「……えーと…………」
 月彦は悩み、ためらいがちに頷いた。
「言い訳するとね、普段の私はもう少し落ち着いてて、口数も少ないんだよ。……だけど、はしゃいでるように見えたなら、それはキミと一緒に居るのが楽しかったから」
 そこまで言って、ナナは微かに声のトーンを落とす。
「…………私ね、事情があって……高校に行かずに直接大検受けて、大学に行ったの。……だから、今回月彦くんと同じ部屋に泊まることになって……もし、高校に行ってたら……男の子の友達とこんな風に部屋で二人きりになってドキドキしたり、ちょっとエッチな話をしたり……そういうコトも出来たのかなぁって。そう思ったら……自分の年のことなんて忘れちゃってた」
「……俺も、楽しかったです。本当は、一人旅でのんびり羽を伸ばす筈だったんですけど……全然知らない人に強引に割り込まれて、正直最初はげんなりしてました」
「あはっ、してたしてた。この世の終わりみたいな顔してた」
「でも、ナナさんが意外に悪い人じゃないって解って、それからはすごく楽しかったです。…………多分、一人で居るより、全然楽しかったと思います」
 そこまで口にして、月彦は気がついた。布団に寝ているナナ。その脇にあぐらを掻いて座っている自分。――何気なく足の上に置いていた手に、ナナの手が触れていることに。
「…………愛奈の代わりっていうのが引っかかるんならさ」
 ナナの手は、少し汗ばんでいるようだった。まるで初めて触る生き物の感触を確かめるような、辿々しい手つきで、月彦の手を握りしめてくる。
「単純に、純粋に、キミという男の子と一緒に居られて楽しかったから、生まれて初めて、この相手になら抱かれてもいいって…………ううん、キミに抱かれたいって。そう思ったから……そういう理由なら、どう……かな」
 語尾に行くにつれ、自信が無くなったのか、ナナの声は消え入り、最後の方は殆ど聞き取ることが出来なかった。
「……ごめん。私……本当にこういうの慣れてないの。…………ぎこちなくて、本当にごめんね。……エッチに誘うのって、難しいんだね」
 彼氏のことを笑えない――自嘲気味にそんなことを呟きながら、ナナが握っていた手を離す――が、今度は月彦の方が、ナナの手を握った。
「……月彦、くん?」
 そのままナナの腕を引いて体を起こさせ、抱きしめる。
「………………言葉で巧く言えないなら、“行動”でいいんです。…………ナナさん、本当に良いんですか?」
「……それは、私の台詞。…………私はもう別れたからいいけど、月彦くん、彼女……いるんでしょ?」
 うっ――耳元で囁かれたナナの言葉に、月彦は体を硬直させる。くすりと、小さく笑う声が耳の側で聞こえた。
「……いいよ、黙っててあげる。……そもそも、月彦くんの彼女とは面識ないし。…………私からお願いしたんだし、ね」
 返す言葉が無い。そんな月彦の心の隙をつくように、ナナが僅かに体を離す。
「今夜一晩だけの秘密。……絶対、誰にも喋っちゃダメだよ?」
 年上の悪女を気取ろうとするも、照れ笑いを浮かべてしまって失敗――そんな笑顔。
「……解りました。一生の秘密に、します」
 再度、ナナの体を抱き寄せる。物欲しそうに濡れた唇を奪おうととして――ハッとしたように、月彦は動きを止めた。
「……? …………どうしたの?」
「いえ、その……すみません。……俺、さっき吐いたから……」
 一応口を濯ぎはしたが、さすがに躊躇う。――そんな月彦の逡巡を見透かしたように、今度はナナのほうが月彦の体を引き寄せた。
「……っ……!?」
 唇が重なる。微かに――しかし確かに。ナナの唇の感触を感じた。



「んっ……んっ……」
 啄むようなキスを繰り返しながら、月彦は徐々にナナの体を布団へと横たえる。
「んぁ……やだ……月彦くん、慣れてる」
 背中が布団につくや、ナナは顎を引き、やや呆れるような口調で言った。
「ひょっとして……初めてじゃないの?」
「……まぁ、そうです。人並みには経験あります」
「そっか。……じゃあ、月彦くんにリード任せちゃおうかな」
 私、初めてだから――頬を染めながら、消え入りそうな声でナナは言う。
「…………っていうことは、昨日のあの話も嘘……だったんですか」
「輪姦されたっていうのはね。……でも、気分的には似たようなものかな」
「……訊いてもいいですか?」
 ナナは首を振る。
「ごめん。あのことは……あの夜のことだけは、キミにも言えない。私がされたことも、私がしたことも。…………私は、処女じゃない。だけど、“経験”は無いの。……私に言えるのは、それだけ」
「…………解りました。すみません、嫌な事を思い出させてしまって」
「本当だよ。…………でも、キミが忘れさせてくれるんでしょ?」
 期待してるから――そう言ってナナは笑い、月彦の首へと両手を絡めてくる。
「んっ……」
 体が抱き寄せられ、唇が重なる。
「……キスは、正真正銘、キミがファーストキスだよ」
 言って、またキス。次第に唇が触れている時間が長くなる。
「んっ、んっ……はぁっ……んっ……」
 ちゅっ、ちゅっ――そんな水音がするのは、舌を使い始めたからだ。先ほどのがファーストキスだというナナの言葉は嘘では無かったのだろう。完全なキス初心者のナナをむしろ導くように、月彦は“動き”で優しくレクチャーをする。
「ちゅっ……んっちゅ……んっ…………ぁっ、待って……」
 髪を撫で、頬を撫で、高所から低所へ水が流れるような自然な動きで、月彦の手がナナの胸元へと触れようとした時。ハッとしたようにナナはキスを中断し、月彦の手を掴む。
「もうちょっと……もうちょっとだけ、心の準備の時間……頂戴…………は、初めて……だから」
「…………わかりました」
 苦笑――というよりは、ナナを安心させる為の笑顔。月彦は胸元にあてがいかけていた手を退かせ、代わりに肩や腕などを愛撫し、さらにキスを重ねてナナの気持ちを落ち着かせるべく苦心する。
(…………あれ、今日は……ブラ、つけてないんだな)
 昨夜は間違いなく、浴衣の下にブラをつけていた。しかし今、浴衣の胸元から覗くかぎりでは、それらしき布地は見えない。換えの下着が無かった――とは考えにくい。恐らく風呂から上がって浴衣に着替える段階で既に、ナナは決心を固めていたのだろう。
「んっ……だい、じょぶ……もう………………あっ、……明かりは、先に消して……ね」
「明かり……」
 寝室の方は元から明かりはついておらず、六割ほど閉まった状態の襖の向こう、居間の明かりが入ってきているに過ぎない。が、それを消す為には一度立って居間の方に移動し、電灯の紐を引く必要があった。襖を閉め切るという手もあるが、居間の明かりはつけっぱなしになってしまう。それはそれで気が散るような気がして、月彦はやむなく立ち上がって居間の明かりを消し、念のため襖を閉めたうえで、寝室の明かりを常夜灯だけつけた。
「ご、ごめんね……最初に言えば、良かったんだけど……」
 この“中断”を申し訳なく思ったのか、ナナが泣きそうな声で言う。
「いえ、むしろ俺が気を利かせるべきでした。……すみません」
 気分を害すはずも無い。この慣れなさ、初々しさは間違いなく“初めて”だと確信できるからだ。月彦は再度ナナに被さり、その唇を奪う。奪いながら、慎重に右手を――胸元へと這わせていく。
「んんっ…………」
 唇を重ねたまま、ナナが喉奥で噎ぶのが解る。体も硬直させているようだった。さながら、注射が苦手な子供が針を直視できず、ただただその瞬間に耐えているような――そんな様子。
 月彦の手が、浴衣の内側へと入り込む。指先に確かな手応え――柔らかい乳房の感触を感じ、それをやんわりと、揉む。
「っはッ……んっ…………」
 不自然な呼吸。まだ体が硬い。その緊張自体を解きほぐすように、月彦はやんわりと右手全体で円を描くように揉む。
「おっぱい……小さくて、ごめん、ね……」
 掠れたような声だった。ナナのその言葉で、月彦は自分の気遣いがナナに誤解を与えてしまったことに気がついた。
「……そんなことないですよ。……確かに大きくはないですけど、全然フツーじゃないですか」
「嘘……揉めるほど大きくないって……自分で解ってるもん」
 いや、もっと無い人(?)を知ってますから――という慰めは、この場合慰めにならないだろう。否、慰めにならないばかりか、この場に関係無い人物の評判まで貶める最悪のフォローではないだろうか。
(……そういや、同じ女子大生の優巳姉も胸無かったな)
 ナナも女子大生。この符号は一体何を意味するのだろうか。大学という場所は、女性のおっぱいを吸い取る魔物でも住み着いているのだろうか。
「……おっぱいなんて、大きければいいってものじゃないですよ」
 月彦なりの精一杯のフォローだったが、信条に大きく反したその言葉はビックリするほどに薄っぺらく、説得力に欠けていた。
 自分でもそう思うのだから、ましてやナナには通じるはずも無かった。
「ううぅ……やっぱり月彦くんも大きい方が好きなんだ……」
「いや、えとその………………………………はい。大きいおっぱいのほうが好きです」
 これ以上自分を偽ることに意味はない。月彦は観念し、自白した。
「でもそれは、大きくないとダメっていう意味じゃなくって…………むしろ大きなおっぱいは目の前にあると平常心が保てないっていうか……け、決して良いことばかりじゃないんですよ!」
「止めて。なんかフォローされるたびに傷口が大きくなってる気がするから、もう止めて!」
 ナナが両手で両耳を塞ぎ、イヤイヤをする。
「ま、まぁ……おっぱいなんてものは、揉めば大きくなりますから、大丈夫ですよ」
「……それ本当? 本当に大きくなるの?」
 もはや“確証の無い俗説ですけど”とは言えないほどにキラキラした目で見つめられて、月彦は頷く事しか出来なかった。
「……但し、これって自分で触っても意味がないらしいんです。他人――それも異性じゃないと。なんでも女性ホルモンが関係してるらしいんですけど」
 こうなったら嘘を貫き通すしかないとばかりに、月彦はデタラメを並べ立てる。並べ立てながら――ナナのちっぱい気味な美乳を手のひらで潰すように、揉む。
「んっ、んっ……ふっ……んっ……」
 揉めば、おっぱいは大きくなる――それを信じたのかどうかは、月彦には確認しようがない。が、少なくとも先ほどより体の固さは取れたようだった。
「……ナナさん、もし痛かったら言ってくださいね」
「んっ……大丈夫……もう少し、強くしても……平気…………んっ……」
 ナナの物欲しそうな唇を察して、再度キス。
「んはっ、んっ……ちゅっ、んっ……」
 ペロチュー気味のキスを重ねながら、右手でナナの胸を愛撫する。ピンと立った先端を手のひらで潰すようにしながら、時折優しく擦りながら、ナナを愛撫になれさせていく。
「んっ……」
 喉奥で、切なげにナナが噎び、内股で踏ん張るように両足に力を込める。もしかして痛みを感じたのかと、月彦が慌てて唇を離すと、ナナは照れるように視線を逸らした。
「ち、違う……痛かったんじゃなくて……その……」
 もじもじと、太ももを擦り合わせながら、ナナは言葉を続ける。
「いつも……オナニーするときは下着脱いでしてたから……下着が濡れちゃうのが……ちょっと、違和感あった、だけ……」
 そこまで言って、ナナはかああと耳まで顔を真っ赤にする。
「って! 何言わせてんのよ、ばかぁぁぁああ!」
「痛っ、いててっ……な、何でおれを叩くんですか!」
 ぽかぽかと、だだっ子パンチを見舞われながらも、月彦はニヤニヤが止まらなかった。もちろんナナもただの照れ隠しで、本気で殴ったりはしない。ぽかぽか叩く手には、攻撃力など殆ど無かった。
「おいたはダメですよ? ナナさん」
 だだっ子を窘めるような声。月彦はナナの両手首を掴み、頭の上で布団に押さえつける。
「……暴力を振るう人にはお仕置きです」
「お、おしおき……? って、ちょっと!」
 ナナが慌てて逃げようとするが、手遅れだった。変則万歳をするような格好のナナのがら空きの脇へと顔を近づけ、れろりっ、と舐める。
「ひゃんっ」
 体を大きく揺らしながら、ナナが声を上げる。くすりと、月彦は笑う。
「…………ナナさんって、そんなに高い声出せたんですね」
「なっ……ば、バカッ……」
「いつもは低い――っていうほど低くもないですけど、ちょっと男っぽいしゃべり方するせいか、ナナさんの高い声って、なんかすっごいレアなものを聞いた気になります」
 反論しようとナナが口を開いた瞬間を見計らって、れろり、れろりと脇を舐めまわす。
「はぅんっ……やっ、ちょ……あぅん!」
 どうやら、ナナは脇が弱いらしい。月彦は得意になって舐め回し、さらにキスをするように吸い付き、吸い付いては舐め回す。
「や、やだぁ……それ、ホントにだめ…………からだ、力入らなくなっちゃう……」
「……仕方ないですね」
 五分も続けた頃には、ナナは息も絶え絶えに泣きを入れてきた。月彦とて鬼ではなく、ナナがそこまで言うのならばと。“左脇”から“右脇”へと愛撫の対象を変えた。
「ちょっ……つ、月彦くん!?――ひぁっ!?」
 ナナの声は裏返っていた。構わず月彦はれろり、れろりと今まで手つかずだった方の脇を舐めまわす。
「だめっ、だめっ…………やめっ…………ひぁぁぁぁぁああっ!!」
 年上の女性の悲痛な叫び声を耳にしながら、むしろ意気揚々と愛撫を続行する月彦だった。



 


「はぁっ…………はぁっ…………はぁっ…………はぁっ…………」
 両手を挙げたまま、ぐったり。その手はもはや押さえつけられていないというのに、ナナはその姿勢のまま身動きすらせず、ただただ息を荒げていた。左と、右。両脇を合計十分以上舐め回された結果だった。
「……汗びっしょりになっちゃいましたね。……風邪を引くといけませんから」
 等と言いながら、月彦はナナの浴衣の前をはだけさせ、そのまま襟元を両手の肘まで下ろしてしまう。
「ちょっ……つきひこくん?」
 浴衣の腰から上を割り開かれ、殆ど半裸状態にされる間も、ナナは抵抗をしなかった。正確には、しなかったというより出来なかったという様子だった。
「……へえ、これがナナさんのおっぱいですか」
 そして改めて、常夜灯の明かりの下へと晒されたナナの両胸を、月彦はまじまじと観察する。白い肌にうっすらと盛り上がった白い肉。乳輪はやや小さめだろうか。それでいてピンと勃った乳首はいかにも美味そうで、食欲にも似たものを感じずにはいられない。
「こ、こらっ……そんなに、見る、なぁ……」
 見るなと言われたら見たくなるのが男の性というもの。処女には――もとい、“初めて”の女の子には優しくせねばという信条もどこへやら。月彦はナナの両胸をガン見しながら、勃起した先端部へと、舌を這わせる。
「ひゃあんっ」
 忽ち、ナナはビクンと背を反らせながら、甲高い声を上げる。
「……ナナさんの声、超可愛い。いつもと全然違うじゃないですか」
「ば、ばぁっ……出したくて、出してる、ワケ……んんっ、んんっ!」
 さらに乳首を咥え、吸う――ナナは咄嗟に右手で口元を覆い、声を押し殺してしまう。
「……ナナさん、それはダメです」
 罰です、とばかりに月彦は再度ナナの右手を挙げさせ――浴衣が引っかかった為、一度袖から手を抜かせて――右脇をれろりと舐めあげる。
「ひゃはっ……ひぁぁぁぁあっ!」
 左手でナナの右手を持ち上げるようにして、そのままチロチロと脇を舐めまわしながら、右手でナナの乳首を刺激する。人差し指と親指でつまみ上げ、コロコロと転がすように擦り、時折強くつまみ上げてはクイクイと引っ張り上げる。
「あっ、あっ、あっ……あぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!」
 まるで別人のように甲高い声を連発するナナを、月彦はさらに責める。ナナが口を塞ごうとすれば、塞いだ方の手の脇へと“仕置き”をし、ナナが観念したように口を塞ぐのを止めると、これでもかとばかりに両胸の頂を舐め回した。
「ちょっ……待って……少し、休ませ…………息、できなっ…………はひゃぁああっ!」 
 胸も弱い――が、やはり脇のほうが弱いらしい。れろりとひと舐めしただけで、ナナは甲高い声を上げながら面白いように体を跳ねさせる。
(……でも、あんまり責め続けるのも酷、か)
 相手は真央ではなく、経験の浅い女の子――もとい、女性なのだ。全身をほんのりピンクに染め、珠のような汗を浮かべたままぜえはあ、ぜえはあと喘いでいるナナを見かねたように、月彦は俄に仏心を起こす。
「……ナナさん、少しだけ休憩、です」
 言って、ナナに優しくキス。恐らく苦しくてそれ以上のキスは出来ないだろうとの判断だった。ナナの背中に手を回し、軽く抱き起こすようにしながら、ナナの呼吸の妨げにならない程度に唇を重ねつつ、髪を撫で頬を撫で、肩を撫で。そして時折、胸元を優しく揉みながら、その呼吸が整うのを待った。
「……落ち着きました?」
「………………〜〜〜〜〜〜っっっっ……!」
 ナナの呼吸が整ったのを見計らって声をかけると、何故だか凄まじい目で睨み付けられた。
「……怖い顔をするのは止めましょう、ナナさん」
 否。むしろそういう顔をするナナに、またあの“別人のように高い声”を出させたい――そんな欲求がムラムラと月彦の中で大きくなる。再度、ナナの脇を責めてやろうと、手を上げさせようとした矢先――。
「させないっ!」
 がっちりと、ナナが肩を抱くようにして両脇をガードしてしまった。
「がるるるるるるっ」
 そして露骨に威嚇するような、そんなうなり声。――もしも“相手の男”がそういった女性の扱いに不慣れであれば、或いは効果があったかもしれない。
「やっ……ちょっ……んっ……」
 自ら両手を封じたナナの唇を奪うのは容易いことだった。月彦はあっさりとナナを押し倒し、その唇を蹂躙する。
「んぁっ……やぁっ……んっ、ふぁっ……んっっ……んんっ……!」
 イヤイヤをするように顔を背けるのを、さらに追いかけ、唇を奪う。ナナとて、心底キスを嫌がっているわけではないということは月彦にも解っていた。本当に嫌ならば、唇にかみつくなりなんなりすればいいのだ。
 あまりにも一方的にやられすぎて、プライドが傷ついた――故に、一時的に拗ねているだけ。その月彦の看破は正しかった。
 その証拠に。
「んっ……んっ……ちゅっ、じゅるっ…………んっ……」
 程なく、ナナのほうから舌を使い出し、さらにはがっちりと脇をガードしていた手を解き、月彦の後頭部まで手を回してくるではないか。が、完全に“許した”わけではないらしく、キスをしながらさりげなく脇腹に手を当て、そのままゾゾゾと脇まで登らせようとすると、忽ちがっちりと脇を締められガードされる。
(まあ、それならそれで)
 いくらでもやりようはある。無理に責めるばかりが能ではない。月彦はナナの脇責めを諦め、キスと胸への愛撫に集中する。
 脇を舐められるのは極度に嫌がるナナだが、胸への愛撫は大分慣れたらしい。ならば、そろそろ“その次”へ移る段階かと、月彦は思う。
「あっ」
 驚いたような声。月彦の手が、初めてナナの太ももへと触れた瞬間、ナナは体を硬直させる。無論、これまでの流れから、その場所へと触れたことが何を意味するのか解らぬ筈が無い。
「や、やだ……っっっ……」
 止めようと手を離しかけて、やはり脇をガード。それは脇の方が弱いから――というよりも、自分から誘ったのだからと思い直したように見える動きだった。
 月彦は太ももを撫でた手を一度腰帯の辺りまで移動させ、そこから徐々に南下させていく。指先がやがてショーツに触れる。たっぷりと湿り気を帯びているのを確認してから、ショーツ越しに揉むように刺激する。
「っっはッぁぁぁ…………!」
 肺に溜まっていた息を慌てて押し出すような声。
「やっ、う、嘘っ……こんなにっ…………はぁっぁぅ……!」
 ショーツ越しの刺激に、ナナは明らかに戸惑っていた。月彦は指先に力を込め、割れ目に沿って刺激する。
「〜〜〜〜〜っっっっ!!!」
 ナナは呻きとも喘ぎともとれない声を上げ、体を震わせる。徐々にではあるが、月彦の指の動きに合わせるように腰をくねらせ始めていた。
 頃合いか、と。月彦はショーツの中へと、指を潜り込ませる。
「ま、待って……やんっ!」
 今度は、月彦は止まらなかった。指先に触れる恥毛、そしてぬらついた媚肉の感触。
「はっ……ァンッ! あっ、あっ……あっ!」
 指で直接愛でると、ナナの反応はさらに良くなる。
「やっ……ちょっ……ゆ、指……ンッ……ま、待って……そこ、敏感、だから……ッ!」
「…………ナナさんの感じ方、すっげー可愛いです」
 普段とのギャップが大きい、というべきか。そういう意味では由梨子や矢紗美なども結構な落差の筈なのだが、ナナの喘ぐ姿は尋常では無いほどに興奮をかきたてるのだった。
(やっぱり、声……なのかな)
 感じた時にナナが出す、別人のように高い声。それがどうやら、月彦のツボにどんぴしゃらしい。
「ば、ばかっ……何、言って……あッ、アッ! アぅンっ!」
「…………ナナさんの中、すげーうねってます。……自分で解りますよね?」
 まだ、中指一本だけ。くちくちと蜜音を立てながら、それを徐々に埋没させていく。軽く指を抜き差しするように鳴らしながら、月彦は薬指を入れるタイミングを計っていた。
(…………処女じゃ無いっていうのは、本当だったんだな)
 出来れば、自分がナナにとって最初の男でありたかった――そんな想いが全く無いと言えば、それは嘘になる。が、しかしこれはこれで、ナナを痛がらせること無く、最後までやれると考えれば、悪いことばかりでもない。
「ナナさん、指……増やしますよ」
「ま、待ってってば……ちょっ……ひぁっ……! ンッ……!」
 中指に続いて薬指までも埋没させる。指がふやけそうな程に際限なくあふれ出る恥蜜を、ぐじゅ、ぐじゅとかきだすように動かしながら、ナナの弱いポイントを探っていく。
「だめっ、だめだったら……そんなに、動かさないで……やぁっ……だめっ、だめっ……」
 はぁっ、はぁっ、はぁっ――石段の時のように激しく呼吸を荒げながら、ナナは月彦の肩を掴み、イヤイヤするように首を振る。
「……わかりました」
 このまま無理矢理にでもイカせるのも一興――しかし、あえて月彦は愛撫の手を止め、ぬろりとショーツから引き抜いた。……ひとえに、ナナにもっと恥ずかしい思いをしてもらうためだ。
「……そろそろ、脱がしますよ」
「……っ……」
 ショーツに指をかけると、途端にナナは全身を強ばらせた。
「ま、待って……」
 またしても、ナナから“待った”がかかる。本来ならばテンポが悪くなる、或いは狂うと気分を害しかねないところだが、月彦は逆にこの“面倒さ”を楽しんでいた。
 そう、流れが悪いというのは、ひとえにナナが慣れていないから。そんなナナの初々しさを楽しもうと思えばこそ、こういった流れの悪さも楽しめるのだった。
「で、でんき……」
「電気……明かりのことですか?」
 ナナは頷く。
「全部、消して……くれない?」
「どうしてですか?」
「……っっっ…………そっちは、おっぱいより……自信ない…………から」
 はてなと、月彦は首をひねらざるを得ない。恥ずかしいから消して欲しいというのは解る。が、“自信がない”とはどういう意味だろうか。
「……そんなの、気にする必要ないですよ。どのみち明かり無しじゃ続きはできないですし」
 方便だった。障子戸越しの月明かりさえあれば――むしろ無くても――十分にやることはやれる。最悪完全に手探りでも、月彦にはやり遂げる自信はある――が、この場合は好奇心が勝った。
(……さっき触った感じじゃ、そんなに変わってるようには感じなかったけど)
 しかしナナが気にするからには、何がしかの理由はあるのだろう。月彦はどういう結果になっても動じないよう覚悟を決めた。
「…………絶対……笑わないでね」
 ナナはそれだけ言って、諦めるように体の力を抜く。月彦は体をずらし、ナナの足の間へと体を入れる。
「……っ……」
 浴衣の下。下着に包まれたその場所への視線を感じたように、ナナが足を強ばらせる。
「っ……やっぱり無理っ……明かり、全部消すね」
「ナナさん、大丈夫ですから」
 ナナが体を起こし、蛍光灯の紐へと手を伸ばす――が月彦は止める。
「俺を信じて下さい」
 わかった、とはナナは言わなかった。代わりに、先ほど同様布団に体を横たえた。
「……脱がしますよ」
 一応断ってから、改めてショーツに指をかける。毎度のことながら、この女性の下着を脱がすという行為は、実にテンションの上がる作業だった。極度に興奮する、と言い換えてもいい。
「少し腰を浮かせてもらえますか」
 言われるままに、ナナが腰を浮かせる。その隙にショーツを太もも、膝下まで脱がしてしまう。片足だけしか抜かなかったのは、両足を抜くのが面倒だったのではなく、ただのポリシーだった。
「やっ……」
 ショーツを取り去り、改めて月彦はナナの股ぐらへと顔を近づけ、まじまじと観察する。ナナが膝を立て、足を綴じようとするのを両肩で防ぎながら、じぃと凝視し続ける。
「だ、だめっ……恥ずかしい…………恥ずかしくて、死んじゃいそう……!」
 とうとうナナが両手で月彦の頭を押しのけようとしてくる。が、月彦はあらがい、むしろナナの太ももを両手で抱えるようにして固定するや、れろりと。ワレメに沿って舌を這わせる。
「ひんっ」
 ナナの反応は抜群だった。何とも耳に心地よい“高い声”を上げながら、腰をビクンと跳ねさせる。
「や、やだっ……そんな、とこ……舐めっ……あんっッ……舐めっ、ああンッ!」
 両手の親指でワレメを広げながら、月彦は舌技の限りを尽くして、ナナに声を上げさせる。
「だめっ、だめっ、だめっ……お、音……立てないでぇっ……やだやだやだっ……すごい音してるぅ……!」
 じゅるるっ、じゅるっ。
 ぴちゃっ、ぴちゃっ、じゅるっ、じゅっ。
 れろれろれろれろっ。
 じゅるるるるるるるるっ!
 音を立てるなと言われれば、より凄い音を立てるのが、月彦という男のやり方だった。恐らくナナは顔を真っ赤にして耳を覆い、イヤイヤをしていることだろう。
「だめっ……ンッ……だめだって、ばぁ……やぁっ……ンンッ……あ、はぁぁっ…………だめっ………あンッ……だめっ……」
 頭を抑えるナナの手から、徐々に力が抜けていく。体を挟み込んでいた太ももの圧力も和らいでいく。ナナが快楽を受け入れ始めている――月彦は全身でそれを感じ取っていた。
 体を起こす。秘所をたっぷりと責めた結果なのだろう、ナナの顔は未だ真っ赤で、その両目からは涙が溢れた跡すらがある。
「……私の……ヘンじゃなかった?」
「いいえ全然」
 むしろ、何故ナナがああもコンプレックスを感じていたのか、月彦には全く理解出来なかった。
(強いて言うなら……少し毛が薄いくらい……かな?)
 それ以外は形といい、彩りといい、何も恥じる所など無いと、太鼓判を押したいくらいだ。
「…………私、ね……十八まで………………は、生えてなかったの……だから……」
「……大丈夫ですよ。今はほら、ちゃんと生えてますし、全然ヘンじゃないです」
「本当……? ホントのホントに変じゃない?」
「大丈夫です。俺が保証します」
 どん、と胸を叩いて断言すると、ナナはやっと笑みを零した。勿論完全に信用したわけではないのだろうが、それでも気休めくらいの効果はあったらしい。
(……そっか。多分そういうのも、彼氏さんにセックスを迫られたときに嫌だと感じる原因だったのかもしれない)
 ナナの言葉の通りなら、“誰にも言えない理由”で処女を失い、さらにそういった体の悩みも加わったのなら、他人とのセックスを極度に恐れたのも無理からぬ事のように思える。
(…………今夜の事は、本当に……ナナさんにとっての“踏ん切り”なんだろうな)
 月彦は少しだけ悲しくなった。別にナナの口説き文句を全て真に受けたわけではない。それ以外の事情も勿論あるのだろうとは思っていたが、実際にそれに気づくと少しだけやりきれない気分になる。
(ナナさんが抱かれたいのは、“俺”じゃなくて、“愛姉が好きな男の子”なんだろうな)
 自分が愛して止まなかった、しかし手が届かなかった女の子。その子が求めても得られない相手と、寝る。そこには自分に振り向いてくれなかった愛奈に対する隠れた嫉妬のようなものが込められているのではないだろうか。
「つき、ひこ……くん?」
「あっ……す、すみません……その、いざとなったら……気後れしちゃって」
 ナナの言葉に、月彦は我に返る。そうだ、ナナの思惑がどうあれ、そうして欲しいというのならば、最大限答えるのが男というものではないか。
「……本当に、俺でいいんですよね?」
「………………ここまで好き勝手しといて、それはないんじゃない?」
 ぷいと、ナナは体を隠すようにうつぶせになりながら唇を尖らせる。
「…………ダメなら、下着脱がされる前に大声で助け呼んでるよ」
 そして顔まで背けながら、小声で独り言のように呟く。
「……すみません。……でも、ナナさんの言葉で、俺も覚悟が決まりました」
 すぱぱーんと、月彦も浴衣を脱ぎ捨て、トランクスまで取り払う。月彦の脱衣の気配を察したように、うつぶせのままナナはちらりと、横目で盗み見るように見てきて――
「いっ」
 と、口を引きつらせた。
「な、何ソレ……う、嘘でしょ……?」
「いいえ、嘘じゃないです」
「前に……一度だけ……目の前で、見た事、あるけど…………それより…………」
「ナナさん、今更“ダメ”なんて無しですよ?」
 怯える目をするナナの足首を掴み、再び仰向けにひっくり返す。
「ちょ、ちょっと待って……それ、裂けちゃったりしないよね? も、もし無理そうだったら……ちゃんと止めてくれるよね?」
「大丈夫ですから。ナナさんの体を傷つけるようなことにはなりません、安心してください」
 ナナの両膝を持って開かせ、その間に体を入れる。――すると忽ち、ナナが声を上げた。
「すとっぷ、すとーーーっぷ! する前に、ちゃんとつけて」
「つける……?」
 とぼけているわけではなく、月彦には本当に解らなかった。
「ゴム! 避妊具! 持ってるでしょ? まさか持ってないの?」
 ハッと。冷水を浴びせられたような思いだった。
(……そ、っか……。普通は……ちゃんと避妊、するんだよな……)
 そう、これは大事な事だ。普段が普段であるから完全に失念していたが、一夜限りのこっそりエッチだからこそ、妊娠などは絶対に避けねばならないではないか。
「……すみません、持ってないんです」
「…………………………。」
「……な、無かったら……さすがにダメ……ですよね」
 ほんの少し――五%ほど「無いならしょうがないね、生でもいいよ」という答えを期待しつつ、ちらりとナナの方を見るが、そう甘くは無かった。
(…………ううぅ、普通はそうだよなぁ)
 むしろここで泣き落としが通じる雪乃の方がどうかしてる。否、どうかしているという言い方はさすがに失礼だが、ここで許してくれる雪乃の存在がいつになく得がたく感じられたのも確かだった。
「…………コレ、使って」
 妙な経緯で雪乃の株がうなぎ登りしつつある中、ナナは布団の下から取り出した小さな箱を差し出してきた。
「こ、これは……避妊具……ですか?」
「…………ひょっとしたら、月彦くんが持ってないかも、って……さっき、こっそりバッグから出して、布団の下に隠しといたの」
「……旅行前に、予め用意してた……ってコトですか?」
「わ、私が買ったんじゃないの! 大学の友達が…………一人旅するなら、いつどこでいい男に会うかわからないんだから、後悔しないように持っていけ、って……ほとんど無理矢理……」
「…………じゃあ、帰ったらその友達さんに感謝ですね」
 月彦は箱を受け取り、開封して早速に装着する。
(うぐぐ……き、きっつ……)
 歯を食いしばりながら、月彦は無理矢理にスキンを装着する。ここまできておきながら、ヤれずに撤退などは我慢出来ない。是が非でも最後までヤりたい――男はそう願う時、無限の力を発揮することが出来るのだ。
 なんとか体積をコントロールし、スキンが裂けてしまわぬ様、ギリギリの大きさを維持する。窮屈だが、この窮屈さに耐えなければヤれないのならば、それはもはや二択ですら無い。
 つけて窮屈なままでやるか、つけて窮屈なままでやるか、だ。
「ナナさん、ちゃんとつけましたから、これでもう大丈夫ですよ」
「……ホント、ごめんね。……私のせいで、何度も何度も中断させちゃって……」
 確かに、いつになく中断は多かった。が、そのどれもが決して無視することが出来ないものばかりであるから、月彦にもナナを責める気持ちは毛頭無かった。
「……初めてなんですから、しょうがないです。俺は何とも思ってませんよ」
「月彦くん……キミは……優しいね」
 月彦の体を受け入れるように、ナナは自ら足を開き、両手を伸ばしてくる。月彦もナナに誘われるままに体を重ね、互いの背中へと腕を回す。
「…………なんだか、愛奈がキミに惚れちゃった理由がわかった気がする。……愛奈にも、そうやってキュンってさせたんでしょう?」
「……それはつまり、ナナさんもキュンってなってくれた……と解釈していいんですか?」
「……バカ、聞かなくてもわかるでしょ」
 くちっ、とナナが啄むようにキスをしてくる。
「……俺はナナさんの口から、ナナさんの言葉で、ちゃんと聞きたいんです」
 今度は月彦の方がナナの唇を奪い、離れる。それを追ってナナが唇を重ねてくる。
 徐々に、唇が重なっている時間が長くなる。どちらともなく舌を使い出し、絡め合いながら互いの髪を、体を撫で始める。
「月彦くん……」
 来て――そんな囁き。ナナの手が、剛直に触れるのを感じる。
「わかりました」
 月彦は俄に腰を引き、剛直の先端をナナの秘裂へと宛がう。
 そして、一気に――。


「んぃっ……あっ、くっ……ふぅぅぅっ…………!」
 悲痛めいたナナの喘ぎに、月彦は挿入を中断する。
「ナナさん? もしかして痛いんですか?」
 ぶんぶんと、髪がぺちぺち当たるくらいに強く、ナナは首を振る。
「痛くは、ない、の……ただ、キツ、くて……んっ……やっ、だめ……私の、中……広げられちゃう……!」
 痛いわけではない――その言葉を聞くや、月彦は再び挿入を開始する。確かにナナの中は狭く、スキン越しですら思わず声が出そうな程に摩擦が強烈なのだ。
「っ……ナナさんの中、狭い割りに……奥が深いっていうか……なんか、飲み込まれてる、感じが……」
「ばっ……ばかっ……そういうコト、い、言わないで…………ンッ……ほ、ホントに奥、まで……く、来るっ……」
 ゾクゾクゾクッ――剛直を押し込んでいくと、ナナが背筋を振るわるのが伝わってくる。
「あっ、はっ、ぁ……ふっ……んんぅ…………あっ、アンッ!」
 ゆっくり、ゆっくりと深くまで挿入し、最後にとんっ、と優しく奥を小突くや、ナナは一際甲高い声で喘いだ。ぎゅうっ、と。背に回ったナナの手に力がこもる。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……おな、か……苦しくて……息、あんまり……吸えない……」
 はっ、はっ、はっ――ナナは肩を小刻みに揺らしながら、浅い呼吸を繰り返す。
「大丈夫、その辺は慣れですから。……少しずつ動きますよ」
「う、うん…………び、敏感なトコだから……や、優しく……ね? ……あっ……ゥン!」
 頷いて、ゆっくりと腰を引く。さながら、名のある奏者によって引かれたバイオリンの弦のように、剛直の動きに合わせてナナは甲高い喘ぎを漏らす。
「ンンッ……ンゥ……ふぅぅっ……っくっ、ぅん…………や、やだ……これ、スゴい…………んんっ……!」
 最初は十秒かけて五ミリ引き、十秒かけて元の位置まで戻す――それくらいの慎重さで動き、徐々に、徐々に動かす距離を長く。スピードを速めていく。
「ぁっ、ぁっ、ぁっ、ぁっ……あっ、あんっ……あっ、あっ……んっ、ンンッ……ンンッ!!」
 キスをしたくなって――というよりは、物欲しげなナナの唇に誘われる形でのキス。たっぷりと舌を絡め合いながら、その動きと連動するように、剛直でナナの中をかき回す。
「んんっ、んっ、んんん〜〜〜〜ッっっっっ!」
 唇を奪われたまま、ナナが噎ぶ。腰を何度も小刻みに跳ねさせ、スキン越しでも解るほどにヒクヒクヒクッ――と締め付けてくる。
「……ナナさんの中……超気持ちいい、です」
 ふはっ、と糸を引きながら唇を離すと、ナナがこつんと。軽く額をぶつけてくる。
「……ばか」
 その怒ったような言い方が堪らなく可愛くて、月彦は大きく腰を引くと――
「っ……アッ、あん!」
 トンッ――やや強めに、ナナの奥を小突いた。
「こ、こらっ……や、優しくしてって……あんっ! あっ、ぅんっ!」
「……優しくしたいのは山々なんですけど」
 月彦は上体を起こし、ナナの腰のくびれを掴んで――突き上げる。
「ひぃあっ!? ひっ、ンッ! あんっ! あんっ! あんっ!」
 立て続けに二度、三度とナナの奥を小突く。堪りかねたように“高い声”で喘ぐナナ。――そのなんとも艶やかで雅な声に、月彦は身震いするほどの興奮を覚える。
 その声をもっと聞きたくて。さらに甲高い声で鳴かせたくて。
 月彦は巧みに角度を変えながら、ナナの中をほぐすように、剛直を行き来させる。
「ああァッ! ァッ! はぁはぁはぁ…………やだっ……なに、これ…………ンンッ……あぁぁっ! ひぅンッ! ひぁっ……はぁはぁ……こ、腰、が……勝手に、跳ね、ちゃう……!」
 何度も。
 何度も。
 ナナの反応を伺いながら、“より良くなる”様に、月彦は腰を使う。
「……ナナさんのエロ可愛い声、ちょっとツボすぎて……ヤバいです」
 次第に、限界が近づくのを感じる。まだ挿入して十分も経っていないというのに、早くも腰の辺りにシビレが走り始めていた。
「こ、声、なんて……好きで、出し……ひんっ……〜〜ッっっ……か、勝手に……でちゃっ……うッンッ……んんっ! だ、だめっ……つ、突くの、待っ……あんっ!」
 ナナもまた、全身をほんのりピンク色に上気させながら、喘ぎ混じりの息を漏らし続ける。スキン越しの肉襞の震えから、ナナもまた絶頂が近いことを、月彦は敏感に察した。
「ナナさん……ナナさん……ナナさん!」
 月彦はもう完全に“出すモード”になり、ナナの体を押さえつけるように固定し、腰の動きを早めていく。
「あっ、あっあっ、あっあっあっあっアッッ! あぁぁっ、やぁっ……やぅっ……やっ……だ、だめっ……奥っ、ばっかり、やぁぁっ……だめだめだめっだめっ……やめっ……」 ナナは体を押さえつける月彦の腕を掴み、イヤイヤをするように首を振り、髪を振り乱す。
「ナナさん、ナナさん、ナナさん!」
「やぅっ、やんっ! あっ、あんっ、あんっ、あんあンッあンッ! あっ、あっあっ……あッ! あッ! あッ! あぁっ、あぁぁぁっ、あぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
 ビクンッ。
 ビクッ。
 ビクゥッ!
 ナナの声が叫び声に近いものになり、その体が大きく跳ねる。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっっ!!!!」
 ナナの中が痙攣するように激しくうねる――その瞬間を狙うように、月彦は一際強く突き上げ、白濁汁を打ち出した。


 まるで体が出し惜しみをしているかのように。絶頂とは裏腹にスキンの先端部分に溜まっている量は普段とは比較にならなかった。月彦は取り外すや漏れ出さないようキュッと結び、新しく封を切ったものを装着する。
「ふぇ……? ま、待って……そんな、すぐには…………んぃぃッ!!」
 力の入っていない手で抵抗をするナナを組み伏せ、剛直を挿入する。
「ンはぁっ……あぅっ、くぅっ、んぅっ!」
 とんっ、とんっ。
 優しく子宮口を小突くと、ナナは高い声で鳴く。その声が何とも耳に心地よくて、月彦はより良い声でナナが鳴くように、角度や速度、強さを調節する。
「はっぅっ……ぅん! はあうっ……ひンっ……あぁぁっ……これっ、凄っ……ごりごりって、強く、擦られっっ……あハぁぁああッ!!」
 ナナが布団を握りしめながら、腰を大きく跳ねさせる。
 成る程、“そこ”かと。月彦は口の端を歪める。
「んひィッ! やっ、だめっ、だめっ……そこ、っ……アハぁッ! ひんっ……ひんっ……ぁふっ……あァァン!」
 ビクビクビクッ――ナナが腰を跳ねさせ、さらに膣内がうねる。スキン越しでしか感じられないのが残念な程に、ナナの中は熱く、汁気に満ちていた。
(昼寝をして、休息はばっちり。食事も済ませて、さらにお風呂で体もホカホカ。ほんのり酒気まで帯びて、タイミングとしてはばっちりこの上ないしな)
 さらに言うなら、いつになく前戯には余念が無かった。最高のタイミングで、可能な限りの下準備まで施したのだ。これはもう一生の思い出となるくらい、最高の夜にしてやらなければと――かつて由梨子に言われた事も忘れて――月彦は鵜の目鷹の目で、もっとナナを喜ばせる方法は無いかと模索し続ける。
「……ナナさん、失礼しますね」
 言ってから、月彦はナナの足を跨ぎ、さらにもう片方は担ぐようにして、その体をうつぶせへと変化させる。そして、腰を掴んで引き寄せ――。
「んっ、ああっっ……ああぁっ!」
 ぱんっ、ぱんと尻肉が鳴るほどに強く突き上げる。
「あぁぁっ……い、嫌っ……こんなっ、格好……んんっ……!」
 突き上げながら、ナナの様子を具に見る。どうやら、後背位が特に感じやすい――ということは無いらしい。
(いやいや、すぐには解らないもんだ)
 結論を出すのは、たっぷりと突いてからでもおかしくはない。月彦は緩急交えて、今度はバイオリン初心者が最も良い音が出る弦の擦れ方を捜すような繊細さで、ナナの反応を調べていく。
「んぁっ……やっ、だ、だめっ……」
 いろいろ試す中で、特にナナが過敏に反応したのは、被さって胸元を触った時だった。巨乳とはお世辞にも言えないナナだが、こうして四つん這いの姿勢になれば、それなりのボリュームにはなる。それをやんわりと揉みながら――正確には揉むほどは無いのだが――指先で先端部をつまみ、コリコリと刺激しながら、剛直でかき回す。
「はッ、くっ……んくっ……だ、めだったら…………だめっ、だめっ……やっ……」
「ナナさん、もしイきそうになったら教えて下さいね。…………その方がこっちも合わせやすいですから」
「お、教える……って、どうやって……」
 ぜえはあ。
 ぜえはあ。
 月彦の動きが止まるや、ナナは上半身だけで布団に伏せ、怒ったような声で言う。
「そのまんまです。“イきそう”とか“イく”って言ってくれれば、それで伝わりますから」
「む……無理っ……そんな恥ずかしいこと…………ひンっ!」
 無理じゃないですよね?――そう念を押すように、奥を小突く。小突きながら、月彦ははてなと。不思議な既視感を感じていた。
(…………前にも、こんなやりとりをしたような――)
 それもナナ同様、処女を喪失したばかりで、エッチに不慣れな年上の女性に対して――はて誰だったか。雪乃ではないと思うのだが、どうにも思い出せない。
(…………まあいいや。今は……ナナさんだ)
 女性を抱いている時に、他の女性のことを考えるのは失礼だ。月彦は眼前のことに集中する。
「……すぐには無理でも、少しずつ練習していきましょうか」
「練習、って……ンッ……」
 ぐりんっ。腰を大きく、8の字を描くようにくねらせる。
「あくっふっ……あ、あんまり強くしないで……だ、ダメっ……ソコ弱っ……あぃぃぃッ!!」
 膝立ちから俯せへと、“腰”を逃がそうとするのを、勿論月彦は許さない。腰のくびれをしっかりと掴み、むしろ引き寄せるようにして――突く。
「ひんっ、んぅっ、あぁっ、あふっぅ!」
 ナナは突かれる度に仰け反るようにして声を上げる。背中に浮いた珠のような汗は突き上げる度に衝撃で飛沫となり、香しい女の体臭として鼻腔を突く。
「はぁはぁっ……だ、だめぇっ……またっっ……はぁはぁはぁ…………んんっ……はぁはぁっ……」
 ヒクヒクッ、ヒクッ。
 スキン越しに感じる痙攣にも似た締め付けで、月彦は全てを察した。
「……ナナさん、イきそうな時はちゃんと教えてくださいね?」
 ナナの絶頂気配を察して、月彦は腰の動きを止める。――が、ナナは布団に伏せたまま、口を開く気配は無い。
「ナナさん?」
「んくっ、ぅ」
 一度だけ、大きく突く――が、ナナはキッと。体をひねり、揺るぎない意思の籠もった目で月彦を睨んでくる。
 ゾクリと、思わず月彦は身震いをする。
(……やべっ、そんな目で見られたら……)
 是が非でも言わせたくなる――ムラムラと獣欲が高まるのを、月彦は感じる。そして同時に、そのためにはどうすべきかを考える。
「……解りました。ナナさんがそんなに嫌なら、俺も無理には言いません」
 あっさりと引き下がり――否、正確には引き下がったフリをして。
 抽送を再開する。
「あっ、あっ、あっ!」
 布団を握りしめながら、ナナが声を荒げる。絶頂が近いのはわかりきっている。ここはあえて――小細工無しにイかせる。
「あっっ……〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっっ!!」
 ナナがマクラに顔を埋め、噛みながら声を押し殺す。なるほど、後背位ではそうなるのかと、月彦は学習した。
 ならばと。月彦は体を後ろへと倒し、背面騎乗位へと移行する。
「くっ……ンぅぅ! ま、まって……今はっっ……くぅぅぅぅっぅッ!!!」
 ズンッ――先端に、ナナの体重を感じるほどに強く突き上げる。堪りかねたように悲痛な声を漏らすナナ。その体が弾むほどに容赦なく突き上げる。
「アッ、アッ、あァッ!」
 ナナの声がいっそう高くなる。
「ま、待っ……これっ、強すっ……ぎぃッ!」
 腰を浮かせて逃げようとするナナの太ももの付け根を押さえつけ、小刻みに突き上げる。
「ああああああああアアぁぁぁぁ……!」
 ナナには“焦らし”は効かない。少なくとも“今”は。ならばまずはその体に徹底的に快楽を覚え込ませる。
「ひぃっ……ひぃっ…………ひぁっ……ひはぁっ……んぁぁっ……やめっ……らめっ…………はぁはぁはぁ……ッ!」
 息も絶え絶えにナナは喘ぎ続ける。その“ナカの具合”から、月彦は次の絶頂が近いことを察した。そして自らもそれに合わせるよう、スパートをかけていく。
「あんっ! あんっ! あんっ! あんっ!」
 ぱちゅんっ、ぱちゅんと飛沫が跳ぶ程に強く突き上げ、ナナに声を上げさせる。その声は甲高くそして甘く。聞いているだけで身震いするほどに甘く切ない響きだった。
「っ……ナナさん!」
「あっ、あひぁっ……あふぁっ…………ああああァァ〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっっ!!!!」
 ナナが天を仰ぎ、絶叫する。同時に月彦も――スキンの内側に、であるが――精の滾りを放っていた。
「はぁーー…………っ………………はぁーーーーーっっ………………はぁーーーーっ………………」
 ナナはそのまま、殆ど倒れるように前方へと伏してしまう。月彦はそんなナナの下から抜け出し、スキンを新品へと取り替える。
「そ、んな……まだ、するの……?」
「します」
「やっ……ちょっ……やぁぁああっ!!」
 怯えて竦み上がっているナナに、微塵の躊躇も無く。
 月彦は襲いかかった。


「あっっ…………あぁぁぁぁぁッ!!!」
 背後からナナの体を抱きしめながら貫き、もはや何度目か解らないナナの絶叫を耳にしながら、月彦もまた果てる。
 剛直を抜き、スキンを外して結ぶ。すぐさま新しいものを装着しようとして――月彦の手が止まった。
「……あ、れ…………空っぽ?」
 箱の中には何も入っておらず、その代わりにとでもいうかのように、辺りには封を切られた十二個のかつてスキンが入っていた袋が散らばっていた。
「……えと、ナナさんすみません。……使い切っちゃったみたいなんですが……」
 ナナはといえば、ぐったりと布団に伏したままぜえはあぜえはあと息を切らしていた。もはや体を起こす力すらないのか、首だけで月彦の方を見る。
「あ……あたりまえ……でしょ………………一体、何回…………」
「いやでも、まだ全然物足りなくて……」
 そう、射精回数的には十分な数の筈なのだが、“射精量”という観点から見れば、その総量は普段の二回分あるかないかといった所だった。
 精力の多寡が獣欲に必ずしも比例するわけではないのだが、堅苦しい理屈云々よりも、まだまだナナを抱き足りないと感じていることのほうが重要だった。
「う、嘘……でしょ…………私は、もうむり……むりだから…………」
「…………そんなにつれないことを言わないでください」
 無いものはしょうがない。まさかこれから買いに行くわけにもいかない。そもそも売っている場所があるのかも解らない。
 となれば。
「……ナナさん。俺、ナナさんにお願いがあるんですけど」
 にじり、と寄るや、ナナは怯えたように体を起こし、片手で胸を片手で股間を隠すようにして身を丸める。
「だ、ダメっ……絶対、だめ!」
「……まだ何も言ってないんですけど」
 苦笑しつつ、ナナににじり寄り、その腕を掴み、抱き寄せる。案の定、ナナの体には余力らしい余力は残って居らず、容易くその体は月彦の腕の中へと収まった。
「い、言わなくても……わかる……目に、書いてある……」
 あぐらを掻いている月彦の腕の中にすっぽり収まるような形で捕まりながらも、ナナは気丈にもわめき立てる。
「へえ……俺の目にはなんて書いてあったんですか?」
 ぎゅっと、ナナの体を抱きしめ――その背に屹立しっぱなしの剛直を押し当てながら、月彦は尋ねる。ひぃと、ナナが怯えるような声を漏らすことすら楽しみながら。
「と、とにかく……絶対、ダメ……だから……ちょ、ちょっと……ダメだって言ってるでしょ?!」
 ナナの薄い胸元をサワサワしながら、右手をヘソの下へと潜らせる。濡れた恥毛をかき分け、ちゅくりと。中指と薬指を埋没させる。
「い……いやっ…………だめっ……おねがい、止めて…………ンッ……」
 ちゅくっ、ちゅくっ。
 くちゅっ。
 微かに音が漏れる程度の動きで優しくかき回すと、忽ちナナは無口になった。しかし言葉こそ発しないまでも、押し殺したような声が。――否、呼吸音に混ぜて誤魔化そうとしてもしきれない、艶っぽい喘ぎが、月彦の興奮をますますかきたてる。
「……ナナさん、俺……ナナさんともっとしたいです」
「だ、めっ…………ゴム無しじゃ……っ……やぁっ……だめっ……かき回さないで……!」
 ナナは身をよじる――が、腕の中からは決して逃がさない。クチュクチュと際限なく股間を弄られ、その声も徐々に高く、切なげなものになる。
「ナナさん」
 こういう時は、こちらもやや切なげに言ったほうが効果的だと――主に雪乃との行為中に学んだのだが――月彦は知っている。事実ナナとヤりたくてヤりたくて仕方が無いのだから、切羽詰まっているという意味では嘘ではない為、その声も実に説得力のあるものになる。
「だめ、だってばぁ…………ンンッ……やぁっ、んんっっっ……んっ……」
 あくまでゴネるナナの唇を奪う――が、ナナは身をよじって逃げる。さらに詰めより、殆ど布団に押し倒すような形で横になり、強引に唇を奪う。
 ちゅくっ、ちゅっ……ちゅっ……。
 今度はもう、ナナも嫌がらなかった。舌を絡め合いながら、それと連動させるように指を動かす。どうもナナは“コレ”が好きなようだと、月彦は悟った。
「ナナさん、一回だけ。…………一回だけでも、ダメですか?」
「…………っっっ…………ぅぅぅ……」
 ナナは答えに窮しているようだった。これならば脈はあると、月彦は再度唇を奪う。
「んんっぅっ…………んふっ……んんっ……んんっ……!」
 渾身の舌使い。ナナとヤりたいという思いの丈を全てぶつけるような全身全霊の舌技+、指使い。ただ激しく責めるのではなく、むしろやんわりと。ナナの方も欲しくて欲しくて堪らなくなるように――そう、仕向ける。
 ちゅはっ、と唇を離すと、ナナはすっかり瞳を蕩けさせていた。
「ナナさん、一回だけ」
 再度、頼み込む。ナナは観念するように目を閉じ、小さく頷いた。
「……いいんですか! ありがとうございます!」
 月彦は早速とばかりに体を起こし、ナナの足を開かせ、剛直を宛がう。先端部をナナの秘部へと合わせ、ゆっくりと埋没させていく。
「ふっぅ……ンッ……や、やだっ……さっきより……っっっ…………」
「くはっ……やっべ……さっきまでと、全然違う……」
 “感想”がかぶった。スキン越しではない。文字通りナマの肉襞の感触に背骨がとろけそうになる。
「ナナさんの中……洒落になんないくらい気持ちいいです…………」
「ば、か……っ……そういうの、言わなっ……んんっ……」
 これは一気に入れてしまうのはもったいない。じっくりとナナの中を押し広げていく感触を楽しみながらいくべきだと。月彦はあえて挿入ペースを落とす。
「はぁはぁはぁっ…………う、うそ…………はぁはぁっ…………き、気持ち、いい…………」
 ナナ自身、“ナマ”の感触に戸惑っているようだった。その瞳は戸惑いに揺れ、動いているわけでもないのに、その息は弾み始めていた。
「ナナさん……ちょっと体温高めですか? ……なんだか、すげぇ暖かい…………」
 今までスキンをつけていたから、そう感じるのだろうか。あえて挿入ペースを落とした月彦だったが、今度はそれが焦れったく思えて、一気に――。
「あっ、ンッ!」
 ナナの奥を小突く。
「……ナナさん、すみません……今回俺、早いかもしれません」
「えっ……ンッ……あンッ!」
 先に白状して、月彦は抽送を開始する。先ほどまでさんざん味わった筈のナナの体だが、たった薄皮一枚脱ぎ捨てただけでこうも印象が変わるのかと、感動すらしていた。
「はぁあっ、ぁああっ……ンッ……さっ、さっきと……当たるところが、ち、違っ…………あぁんっ! ……こ、これ……絶対、さっきより、おっきぃ…………はぁはぁ……」
「……それは、あるかもしれません。……アレ、すっげぇ窮屈でしたから」
 スキンに無事収める為に、少しばかり膨張率を抑える必要があった。その封印が解放された今、月彦の興奮の度合いを指し示すように、剛直はふくれあがっていた。
「ひぃはっ……ひぃはぁっ……ひ、引く、時に……弱い、トコ……引っかかれて……んんぅぅぅっ……か、勝手に、腰、浮いちゃう……はぁはぁ…………だめっ……こんなの、すぐにっっ……」
「すぐに……何ですか?」
「……すぐ、に………………イッちゃう…………」
 既に、ほんのりピンクに染まっている顔が、文字通り真っ赤になる。最終的に焦らして、焦らして、無理矢理言わせるつもりだったが、これはこれでアリ――というより。
(やっべ…………ナナさん、超可愛い…………)
 興奮という名の石炭で走る機関車が、凄まじい警笛音を響かせ車輪から火花を散らしながら爆走するのを感じる。
 こうなってしまったらもう、いくところまでいってしまうのが月彦という男だった。
「ナナさん!」
「きゃあっ!? ……つ、つきひ――……あああァン!」
 深く、深く挿入。予期せぬ子宮口突きにナナが体を強ばらせた瞬間、その体を抱きかかえるようにして持ち上げ、胡座をかく。
 そう、“いつものやつ”――だ。
「ナナさん、ナナさん」
「やっ、やんっ……あんっ、あんっ……あんっ!」
 ナナが何事かを言おうとする――が、それすらも許さないほどに、月彦はナナの尻を掴んで上下に揺さぶり続ける。
「あっあっ、あっ、あんっ! あっ、あんっ! あんっ! はぁはぁはぁ……あぁんっ! やんっ! んぅっ! あっ、あぁんっ!」
 ナナは喘ぎ、喘ぎながらかぶりを振る。両手を月彦の脇の下から背中へと回し、指を引っかけるようにしながら、喘ぎ続ける。
「ナナさん、ナナさん、ナナさん!」
「はぁはぁっ……だっ、めっ……ちょっ……ンッ……あんっ! ……こ、これ……ヤバっ……あんっ! はぁはぁ……だめっ、待って……まさかっ、このままっっ……」
 ハッとしたように、ナナの顔に怯えが走る――が、抵抗は無意味だった。
「だ、めっ……中はダメっ……中はだめぇっっ……はぁはぁっ……ねっ、月彦っ、くっ……き、聞いて……ホントにダメぇぇっ!」
 中はダメ――そうは言うが、ナナは抵抗らしい抵抗をしなかった。否、やろうとはしていたのかもしれない。しかし既に三桁に届きそうなほどにイかされ、四肢にろくに力が入らない状況ではそれも難しく。
 そして何よりも、ナナ自身。生の挿入によってもたらされる快楽に翻弄されているようだった。
「ナナさん……!」
 そして、一際深い突き――こつんとナナの奥を突き上げての、吐精。
「だっ、めっ……あっはぁぁぁぁぁああァァッ!!……………………〜〜〜〜〜っっっ!! …………………………っっっっ!! ンンッ………………!!!」
「くっ……はっ…………」
 ごびゅっ。
 ごぷっ、びゅぐんっ!
 いつになく凄まじい勢いで白濁液が迸るのを感じる。それは“分身”の叫びのように、月彦は感じた。
 何度も何度も“栓”つきで思うように射精出来ず、堪っていた鬱憤を晴らすような。
 そんな凄まじい射精だった。
「あ、熱っ……い…………はぁぁぁぁっ……す、ご……ンッ……こ、れ……全部……精液……? んっ……お、多すぎ……パンク、しちゃう…………!」
 ああ、そうなのだ。俺は今、ナナの中に射精をしているんだ――そんな実感が、遅れてやってくる。先ほどのナナが余りに可愛くて、理性が完全に消し飛んでいたが故のタイムラグ。
 月彦はたっぷりと欲望の滾りを迸らせながら、ナナを征服したような喜びに打ち震える。
「んぁあっ……ぁあんっ……な、何……何を、して……るの……?」
 今までで最も凄まじい絶頂の余韻で舌がうまく回らない。そんな感じのナナの言葉に答えるよりも、月彦は“マーキング”を優先する。
 そう、この女はもう自分のモノだと、宣言するように。
(あぁ……でも、ダメだ…………こんなんじゃ、全然足りない……)
 まだまだ。もっともっと注ぎ込んで、この女の子宮を精液漬けにしてやりたい――そんな欲望が、ムラムラとわき起こる。もちろん月彦の頭には「一回だけ」と約束したことなど、微塵も記憶に残ってはいなかった。
「ね、ねぇ……中に出しちゃ……ヤバいよぉ……は、早く抜い――……きゃ!?」
 再び、ナナを押し倒す。それが、もはや何ラウンド目かも解らない勝負の始まりだった。



「はぁはぁはぁっ……ンぁぁああっ! はぁはぁっ……あっ、あっ、あっ!」
 太ももを押さえ、下から突き上げると、ナナは踊るように上体をくねらせ、声を荒げる。
「だっ、めえっ……も、無理っ……ホントに無理、だからぁっ……あん!」
「……そう言いながら、腰動いちゃってますよ、ナナさん」
「ああぁんっ……」
 自分の意思とは無関係に動く腰を恥じるように、ナナが目を伏せる。その実、腰の動きは止まらず、ぐちゃにちゃと卑猥な音を立てながらナナは腰を振り続ける。
「だ、だって……これっ……ホントに気持ちいぃ…………こんなの、知らない…………ンぁあッ!」
 トンッ、と下から突き上げてやると、ナナは体を浮かせながら天を仰ぎ、高い声で鳴く。
「あぁぁんっ……スゴ、いぃ……体、内側から溶かされてるみたい…………トロトロになって、溢れちゃってるみたいに、気持ちいい…………」
 男である月彦には、ナナの感覚はわからない。が、その口ぶりからかつて無いほどに感じてくれているのだということだけは理解できる。
「はぁはぁ……気持ちいい…………気持ちいいよぉ…………はぁはぁ…………」
「……“食わず嫌い”だったみたいですね」
 もし、“彼氏”が強引にでもコトに及んでいれば、ナナの価値観も変わったのかもしれない。今更詮無い事ではあるが。
「……ナナさんがそうやって動くから、俺の方もそろそろヤバいです」
 ハッとしたように、ナナの腰の動きが止まる――否、“緩やか”になる。
「だ、ダメ…………絶対、ダメ……だから……これ以上は、絶対だめぇ……」
「………………でも、俺はナナさんの中で出したいです」
 懇願するように、小刻みに突き上げる。
「やぅっ、やんっ、あんっ! だ、だめだってばぁっ……あんっ、あんっ……あん!」
 ダメならダメで、逃げるなりなんなりいくらでも方法はある筈だった。太ももの付け根を抑えているとはいえ、ナナが本気になれば逃げられる程度の力しか込めていない。
 故に、月彦はそれは遠回しな“承諾”だと理解する。
「やぁっ、だめっ、だめっ……中で出さないで……だめっ、だめっ……だめっ……ンッ……やぁっ、やんっ、やんっ! あんっ……あっ、あっ、あっ、あっ、あっ……!!」
 スパートをかけるように、何度も何度も突き上げる。ナナの上体が弓なりに反り、跳ね回り、汗が飛沫となって飛び散る。
「あっ、あっ、あっ……あァァァァアア〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ……!!!!」
 そして、絶頂。半分悲鳴のような鳴き声を上げながら、ナナがイく。その膣内に月彦もまた、惜しげも無く子種を注ぎ込んでいく。
「あぁっ……あっ…………ンッ……ま、た………こんなに…………っっ……くひぃぃぃ…………」
 ナナが苦しげに呻く。行き場を無くした白濁汁が結合部から溢れるのを感じる。それでも構わずに、ナナの中へと注ぎ込んでいく。
「も、もう……どんだけ……出す、のよ……ばかぁぁっ…………」
 最後には呆れるように呟きながら、ナナはぐったりと脱力するように体を重ねてくる。はあはあと息を荒げるナナの体を抱きしめながら、月彦はマーキングを行う。
「ンぁっ……だ、めっ……敏感に、なってるからぁ……動かさないで……」
 ナナはそう言うが、月彦としてもここだけは譲れない。いわばこれは儀式のようなものだからだ。
「はぁーーーーっ…………はぁーーーーっ…………はぁーーーーーっ…………んむっ、んっ……んんっ……」
 マーキングも終わり、ナナの呼吸が落ち着いてきたところを見計らって唇を重ねる。その舌使いの緩慢さで、ナナにはもう本当に余力が無いことを、月彦は知った。
「あふっ……もぉ、ダメ……ホントに限界……」
 キスを終えるなり、ナナは呟いて月彦の胸板をマクラ代わりに伏してしまう。そして目を閉じ、呟く。
「…………似たもの同士」
「似たもの同士?」
 オウム返しに聞き返した月彦の言葉への返事はくすりという微かな笑み。そして笑みのあとで、ナナは独り言のように呟いた。
「……なんでもない。忘れて」


 

 恐らくナナはそのまま眠ってしまいたかったに違いない。が、月彦はそう出来ない理由を指し示した。
「ナナさん、朝です」
 気がつくと、障子戸越しに光が入ってきているのだ。この季節に夜が明けているということは、どんなに楽観的に見積もっても七時前後であるということになる。
「八時には朝食が運び込まれますから、今寝るのは非常にマズイです。寝るならせめて朝食の後にしないと」
 ナナは絶句しているようだった。そんなナナをほとんど抱え上げるように起こして、月彦はバスルームへと向かう。
「ちょ、ちょっとちょっとちょっと……解ったから、ちゃんとシャワー浴びるから、離して!」
「ダメです。ナナさんが疲れてそのまま眠って倒れたりしたら大変なコトになるかもしれませんから。俺も一緒に入ります」
「そんなの無理だって! こんな狭いユニットバスなんかで同時にシャワー浴びるの絶対無理だから! 第一、こんな明るいところで……」
「……今更恥ずかしがる仲でもないと思うんですが」
 月彦は強引に浴槽の中へとナナを押し込み、自らも入る。確かにナナの言う通り、ユニットバスの浴槽は立って入るにしろ二人では手狭感があった。が、決して不可能な狭さというわけでもなかった。
「やだっ……こっち見ないでよ」
 ナナは胸と股間を両手で隠しながら背を向ける。ナナの要望で常夜灯の明かりの下でしか見れなかった肢体が、今は蛍光灯の下で露わになっている。その白い肌も、小ぶりながらきちんと肉のついた尻も。
 全てが。
(…………着やせするってワケじゃないけど、こうしてみると……ナナさんもちゃんと“女性のライン”をしてるんだよな)
 つまり、無いのは胸だけということだろうか。そして、闇の中でしか拝むことが出来なかったナナの裸に、収まりかけていた獣欲がムラムラとわき起こるのを感じる。
「あんっ……もぉ……垂れてきちゃった……」
 キミ、出し過ぎ――そんな愚痴を零しながら、ナナが蛇口をひねり、シャワーを浴び始める。その背後で、自分の後ろ姿を見ているケダモノが息を荒げながら股間を屹立させていることなどまるで気づいていないようだった。
「ひっ……ちょ、ちょっと……」
 そんなナナの体を、背後から抱きしめる。自然と、膨張した分身をナナの背中にすりつける形になる。
「やだっ……えっ……ま、まさか…………」
「……すみません。ナナさんの後ろ姿見てたら……またしたくなっちゃって」
「いっ……いいかげんにしてよ! キミ、どんだけ…………ちょ、やだ……ダメだってば、もうおしまい!」
 ナナが暴れる――が、それは何ともか弱く、むしろ月彦の興奮をかきたてる材料にしかならなかった。
「ひぁっ……ンッ……!」
 背後からサワサワと胸元、お腹、脇を触る。そして、秘部――くちゅりと指を入れると、まだ暖かくどろりとした液体が指先に絡みついてくる。
「だめっ……ダメだったら……ンッ……は、早くシャワー終わらせて……片付け、しないと……」
「……どのみち、布団をあんなに汚しちゃってたら隠しようがないです。俺の布団はまっさらですけど、ナナさんの布団はもうびしょびしょだったじゃないですか」
「だ、誰のせいで――ァンッ……ちょっ……もぉ……やだ……男の子ってみんなこうなの……?」
「そうです、と言いたいところですけど…………半分はナナさんのせいなんですよ?」
「私の、せい……?」
「あれだけヤッてもまだヤり足りないって思っちゃうのは、相手がナナさんだからです」
「………………〜〜〜〜〜っっっ!」
 ナナが怒ったような顔で振り返り、睨み付けてくる。が、心なしか抵抗が弱まったように感じる。そんなナナの怒り顔が可愛くて、月彦は蜜を絡めた指先をナナの口元へと持って来て埋めていく。
「んぷっ、んんっっ……!」
 ナナは嫌がるように顔を背けるが、強引に指を埋めさせ、しゃぶらせる。ゆっくりと優しく抜き差しをすると、ナナは観念したように指を舐め始めた。
「ナナさん……」
 そんなナナを愛しげに、空いている左手で抱きしめながら、ナナの耳の裏を舐め、耳たぶを食む。耳の内側へと舌を這わせると、ナナは指をしゃぶったまま微かに喉を震わせた。
「……ナナさん、壁に手をついてください」
 囁くように言うと、ナナはしぶしぶといった動作で壁に手をついた。
「お尻、もう少し上げられますか?」
 ナナはもう観念したらしい。言われるままに月彦の方へと尻を差し出すように上げる。そうして無防備に差し出された秘裂へと、月彦は剛直を宛がい、待ちかねたように先端部を埋める。
「ンぅっ……んんっ! あっ……あんっ……!」
 ナマの膣の感触――それを骨の髄まで味わいながら、月彦は根元まで押し込んでいく。
「くっ……はぁ…………ナナさんの中、マジで最高です。キツくて、深くて。……こんなの、俺でなくっても猿になっちゃいますよ」
「うっさい……黙って……ンッ……」
「わかりました。……黙って、やるべきことをやりますね」
 ナナの腰のくびれを掴み、引き寄せながら、突き上げる。
「んくっ……んんっ……あっ、あっ……ぅんっ!」
 寝室の時よりやや声が控えめなのは、バスルームが明るい場所だからだろうか。それはそれで初々しくていいものだと、月彦はつい笑みを漏らしてしまう。
「あっ、あっ、あんっ……あんっ、あっ、ンッ!」
 最初はあまり乗り気には見えなかったナナも、徐々にだが甘い声を上げ始める。剛直に絡みつく肉襞の感触からも、それは明白だった。
(……つま先立ちになってるのも、なんか可愛いなぁ)
 尻をもう少し上げて欲しいとお願いしたからなのだろう。律儀につま先立ちをして高さを合わせてくれてるのが嬉しくもあり、そんなナナに報いなければとも思う。
「きゃっ!?」
 ナナの右足へと手を這わせ、抱え上げる。
「や、やだっ……何するつも……ンンッ!」
 そうやってナナの片足を抱え上げながら、突く。そうすれば少なくとも左足だけは踵をつけて楽になれるはず――と思ったのだが。
(考えて見たら、俺が片足を抱え上げたところで、ナナさんの身長が伸びるわけでもないんだよな)
 それでいて、片足を抱えたまま突くというのは地味に大変で、それでいてバランスも危うくデメリット目白押しだった。
 が、メリットが無いかといえばそうでもない。
(……締まる……ッ……)
 片足を持ち上げたことで、内部が圧迫されるのか。それとも不安定な体勢のせいでナナが力を込めるのか。そのどちらかかもしれないし、両方かもしれない。とにもかくにも、剛直への圧力が増したことで、摩擦による快楽が膨れあがったのは事実だった。
「あ、危ない、からっ……早く下ろしっ……ンッ! やっ、あんっ、あぁんっ、あぁっ、あっあっ、あっ、あァァッ!!」
 そしてそれは、強制的に圧力を高められ、そこを押し広げられるナナも同じらしかった。突然増した快感に戸惑うように、その声は加速度的に高くなる。
「ナナさん、そういう声出されると……俺めっちゃ弱いんですけど……」
 苦笑混じりに言って、さらに突くペースを上げる。
「あん、あんっ、あんっ! あんっ、そ、そんな……ンッ……す、好きで……ぅんっ! はぁはぁはぁっ……あぁんっ! あんっ! あンッ!」
「ナナさんっ……ナナさんっ……!」
 譫言のように呟きながら、月彦はさらにペースを上げる。ナナの体が震え、痙攣するのを感じる。
「やぅっ……も、もぉ……だめっぇっ……〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっ!!!」
 ビクビクッ、ビクビクビクッ!!
 片足を抱え上げられたまま、ナナが体を震わせる。収縮する膣内を強引にこじ開け、剛直を根元まで挿入し、子種をぶちまける。
「あハッ……ぁぁぁぁあっ……だか、らっ……中に、出す、なぁぁ…………ンンッ……もぉ……バカぁぁ…………」
 ビクンッ、ビクッ。
 射精を受けながら、ナナは体をビクつかせる。月彦は呼吸を整えながらナナの足を下ろし、剛直を抜く。
「……ナナさん、こっちを向いてください」
「……? ……って、キミ、まさか」
 胸と股間を手で隠しながら振り返ったナナを浴室の壁に押しつける形で足を開かせ――。
「あぁああっ……!」
 挿入する。同時にナナの尻へと手を回し、その体を持ち上げる。
「あ、危なっ……こ、こらぁっ……ホント、いい加減にしないと怒っ……ンぅっ……だ、だから……あんっ!」
 怒るナナの体を揺さぶり、強引に言葉を途切れさせる。その不安定さにやむなくナナは月彦の首へと手を回して来、両足を腰に絡めるような形になる。
「あっ、あんっ、あっンッ……やっ、こ……これ、すごい……ズン、ズンって、奥、にっ……んぁぁああッ!!」
 首に捕まりはしたが、その手にもう力が入らないのだろう。やもすればずるりと落ちそうになるナナを支える意味でも、月彦はナナの体を浴室の壁へと押しつけ、突き上げる。
「あぁんッ! あぁっ、ああっあっ……はぁはぁっ……もぉ……一体、いつまで……はぁはぁはぁ…………んんっ、んふっ……ンンッ……」
 ナナの体を浴室の壁に押さえつけながら、唇を奪う。ぐちゅり、ぐちゅっ、にちゅっ。何度も何度も中出しされた膣内からは、腰をくねらせる度にごぽり、ごぽりと白濁色の液体があふれ出す。そうして剛直でかき回すようにしながら、同様に舌を絡め合う。
「んぷぁっ……んぷっ……んんっ、ぷっ……じゅるっ……じゅぷっ……んんっ……はぁはぁはぁ……んんっ……れろっ……んんんっ……!」
 力のこもっていなかったナナの手が、後頭部へと回ってくるのを感じる。ただ捕まるだけであった手に握力が戻り、しっかりと後頭部を掴み、抱き寄せようとしてくる。
「んふっ、んふっ……んんんっ……ンンッ!! ンンンンンッ!!」
 ヒクヒクッ、ヒクヒクヒクッ。
 剛直に絡みつく肉襞の痙攣と共に、ナナが喉奥で切なげに鳴き始める。頃合いかと、月彦は唐突にキスを中断した。
「んはぁっ……あぁっ! あぁあっ! あぁぁぁっ! ひぁっ……ひぃっ……ひぃっ……あはぁっ……あぁあっ!! ぁあああっ!!」
 キスを中断した後のナナの声は、一際大きくなっていた。結合部から漏れ出す白濁液はいつのまにか限りなく透明に近いものとなり、白く泡立ってはグプグプと卑猥な音を響かせる。
「んひぁっ、ひぁっ、あはぁぁあっ、ひぅっ……ひぅぅっ……もぉ……ゆるひてぇ……こんなの、続けられたら……ホントにおかしくなるっ……ンぁぁあっ……はぁ−−−−−−−−っ……はぁーーーーーーーっ…………あッ……ぁあんっ! あぁん!」
 先ほどまでの“仕方なくエッチに付き合っている”という体ではない。もはや完全に快楽の虜になったような、悦に入った声。
 そんなナナの姿に、微笑を一つ零して、月彦は意地悪く囁く。
「……そういえば、さっきから“外”で物音がしますね。……ひょっとしたら、旅館の人たちがもう部屋に来て、朝食の準備をしてくれてるのかもしれません」
 あんまり大きな声を出すと聞こえちゃうかもしれませんね――ぼそりとそんな言葉を囁くと、ナナの顔は忽ち真っ赤になった。
「やっ……そん、な……ひぁっ……ッ………………ンッ………………ンンンッ!!」
 快楽にとろけきった顔をしていたナナは慌てて口を噤み、唇を噛み締めるように頑なに閉ざす。それをこじ開けようとするかのように、月彦はナナの体を抱えながら、突く。
「ンンッ……ンンッ……ンンンッ……………………ンンンッッッ!!!!!!」
 ナナは目を瞑り、精一杯声を押し殺しながら、首を振る。そんな状態も長くは続かなかった。
「……っっっっっっっ……………………だ、だめっ…………こんなの、……無理っ……声、抑えるのなんて、無理ぃっっ…………」
 その“弱音”が分岐点だった。月彦はあえて一度腰の動きを弱め、そして唐突に――スパートをかける。
「ああアァァッ!!」
 それはもう、壁を越えて三つとなりの部屋にまで聞こえたのではないかという、すさまじいサカり声だった。
「ああァァッ! ああァァッ! アアアッ!!!」
 開き直った――というよりはもはやヤケクソに近いような大声で、ナナは快楽のままに声を上げる。
「ああぁぁあっ、あぁぁあっ…………ああアアッ!! ……気持ちいい………………気持ちいいのぉ……ああぁぁっ、ぁぁああっ!!!」
 もし本当に従業員が部屋に入っていたら、ギョッとしていることだろう。月彦はせめてものナナへの気遣いとして、シャワーのお湯の勢いを強め、少しでもその声がかき消えるようにする。
 その上で――突く。
「あぁぁっ、あんっ! あぁっ、んんっ!」
 何度も、何度も。執拗なまでに突き上げる。
「あぁぁあっ、いいっ……イイッ……そこ、イイッ……はぁぁぁぁあっ……イイッ……いぃっ……気持ちいいっ……気持ちいいっ…………こんなのっ、知らない……クセになっちゃう……クセになるぅぅ!」
 突きながら、ナナの好きなポイントをしつこく刺激してやる。亀頭で、カリ首で、引っ掻くように擦ってやると、ナナは目を白黒させながらあられもない声を上げる。
「あっあっ、あっ……あンッ! あンッ、あンッ! あっ、あっ……らめっ……らめっ……も、イく……イクッ……イクッ……イクッ……!!」
 ハイライトを失い、どろりとした両目から涙を溢れさせながら、ナナは喘ぐ。舌を突き出しながら、涎すら溢れさせながら、ただただ快楽の虜となってしまった淫らな獣のように、はしたない言葉を垂れ流す。
「イクッ、イクッ、イクッ……あぁーーーーーーーーーーーーーッイクッ、イクイクイクイクッ……イクゥゥゥッ!!!!」
 ぎりっ、と。首の後ろに爪を立てられ、その痛みに歯を食いしばりながら、月彦もまたナナの体を味わい尽くすべく腰を振るい、そしてナナのイく瞬間を見計らって――突き上げる。
「あッッッッッ…………あァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッッッッッッ!!!!!!」
 絶叫。耳を劈くナナの叫びを聞きながら、月彦もまた果てる。精液を搾り取ろうとするように痙攣する膣肉の動きに促されるままに何度も何度も射精を繰り返しながら、月彦は全身から力が抜けていくのを感じた。
(や、べ……ちょっと、調子に乗りすぎた、か……)
 ずるずると。ナナを抱えたままその場に崩れ落ち、膝を突く。どうやらナナは失神してしまったらしい、ただただ荒い息を上げながら、その体は重力のままに月彦にもたれかかってくる。
(お、俺も……意識、が……)
 瞼が重く、抗うことが出来ない。月彦はナナを抱えたまま浴室に尻餅をつき、そのまま気を失った。
「………………いな……」
 意識までもが泥の沼に沈んでしまった闇の底で、月彦は微かな呟きを聞いた気がした。



 幸い気絶していたのはそう長い時間ではなかった。シャワーのお湯がいい気付けになったというのもある。月彦はナナを起こし、今度こそ普通にシャワーを浴びた後、体を拭いて改めて浴衣に着替えた。とはいっても、ナナのほうは髪を乾かす必要もあり、随分と長くバスルームに籠もっていた。
 肝心の部屋の方はといえば、寝室は片付けられ居間のテーブルには朝食の用意がされていた。布団の惨状を知っている月彦としては、ひょっとしたらチェックアウトの際に何かしらの罰金的なものを払わされるかもしれないと思ったが、今更嘆いたところで始まらない。
 朝食は昨日のそれに似たりよったりの和食。せいぜいおかずの何品かが違う程度だった。気分的にはごはんを五杯ほどお代わりしたい所だったが、お代わり用のおひつなどは用意されてはおらず、月彦は腹二分ほどで満足せざるを得なかった。
 時間をおいて従業員が後片付けに来た時にはもう、ナナは畳の上で横になって寝息を立てていた。よほど消耗したらしい。三時間後にはチェックアウトしなければならないというのに、目覚ましになりそうなものの準備もせず、座布団をマクラにすることすらなく横になっているのだから。
 昨日同様、毛布をかけてやろうとしたが押し入れの中は空っぽになっていた。やむなく月彦は自分が浴衣の上から着ていた羽織をナナに掛け、自分もナナに倣って時間まで――備え付けの目覚まし時計を11時にセットして――少し眠ることにした。

 目覚まし時計の音で、月彦と共に目を覚ましたナナはひどく不機嫌そうだった。
「……寝足りない…………寝不足で、二日酔い、筋肉痛、なんか喉も枯れてるし、筋肉痛も明らかに石段で使った場所じゃないところまで痛いし……」
 病気や怪我、そして酷い生理痛を除いて、人生で最悪のコンディションだと、ナナは恨みがましく言った。
「す、すみません……」
「………………。」
 じろりと、ナナが凄まじい目で睨み付けてくる。すみませんで済む問題じゃないだろうと言いたげな目だった。
「……大人しそうな顔して……一皮剥けばとんでもないケダモノだなんて。まるで誰かさんみたい」
「いや……男はみんなそうですよ」
「………………。」
「………………?」
「てゆーか……いくら何でもゴム無しは……そりゃあ確かに、誘ったのは私のほうだけど……」
「す、すみません……」
「もうっ………今更言ってもしょうがないから、昨夜のことは、教訓として……胸に刻んどく」
「そ、そうですね………………俺も、昨夜のことは一生モノの思い出です」
 はははと、苦笑笑い混じりに言うと、なにやらナナが顔を赤くする。
「……それに、ナナさんも最初は恥ずかしがってましたけど…………後半スゴかったですよね」
「………………覚えてない」
 テーブルの菓子入れから、まるでクマのシャケ取りのような荒々しい手つきで袋入りのせんべいをむしり取りながら、ナナは言う。
「覚えてないって……ナナさんが失神したのは最後だけじゃないですか」
「覚えてない」
 ナナは乱暴に袋を破り、せんべいをかじる。
「…………バスルームでの事もですか?」
「覚えてない!」
 だむっ! テーブルに両手の拳を叩きつけながら、ナナは叫ぶように言う。その顔は耳まで赤くなっており、せんべいごと握りつぶした右手の震えを見るに、月彦はそれ以上口を開くのを止めた。これ以上言えば、その拳は間違いなく己の左頬にめり込むと、簡単に予想できたからだ。
(……でもホント、すっごい乱れ方だったな……)
 こうして面と向かって普通に話している姿からは全く想像出来ない程に、昨夜の――特に後半の――ナナの乱れ様は凄かった。
(……って、思い出すだけで……また……)
 むくむくと股間がやる気を出し始めるのを察知して、月彦はさりげなく窓の外へと目をやる。
「…………今日、ちょっと天気悪いですね。雨降らなきゃいいんですけど」
 適当に天気の話などを振ると、はぁ、と。ナナが大きくため息をついた。
「てゆーか……キミは疲れてないの? なんか昨日よりイキイキしてるように見えるんだけど」
「いやぁ……一応二時間くらいは寝ましたし、ナナさんのおかげでリフレッシュも出来ましたから。結構調子いいみたいです」
「…………何ソレ、ありえない。一体どういう体してるの?」
 男の子ってみんなそうなの?――バケモノでも見るようないぶかしい目をしながら、ナナがぶつぶつ呟く。
(……確かに、真央とシた後みたいな変な脱力感は無いな)
 一応ながらも夜通しヤりつづけたワケで、疲れは間違いなくあるはずなのだが、どういうわけか体の調子は悪くない。
(……まあ、前半は殆ど遊びみたいなものだったし……その分余力があるということだろう)
 油断をすれば主導権を奪われかねない雛森姉妹や、油断をしなくても時折主導権を奪われてしまう真央相手とは、体力の消耗具合が違って当たり前だと、月彦は結論づけた。
「っと、それはそうとそろそろ準備しないと、あと一時間もしないうちにチェックアウトですよ」
「……もっかい熱いシャワー浴びて目を覚ましてくる。月彦くんはその間、部屋の掃除をお願いね」
「えぇっ……そ、掃除はちゃんと二人で――」
「月彦くん。掃除、お願い」
「……はい」
 何故だかナナの言葉に逆らえず、月彦はしゅんと肩を落としながら、いそいそと室内の清掃作業に入る。とはいえ、もともと極度に散らかしていたわけではない為、改めて掃除をするという程のことはない。せいぜい自分の荷物をまとめた後の忘れ物のチェックくらいだ。



 
「あっ」
 と、月彦が声を上げたのは、部屋の片付けも終わり、互いに荷物もまとめ終わった後。そろそろ部屋を出て一階ロビーに向かおうかという時だった。
「ナナさん、おみやげって、どこか売ってますかね」
「おみやげ?」
 うーんと、ナナは人差し指を唇につけ、考え込む。
「……そういえば昨日、神社に向かう途中の道にも、そういうお店とか一件も無かったわね」
「そうなんですよね。……もうちょっと観光地として力を入れればいいのにとも思うんですけど」
「駅前にも何にも無かったしね。……そういえば、一階ロビーの隅に売店があったような……」
「本当ですか!?」
「多分、だけど。……どうせこれから下に降りるんだし、見てみればいいじゃない」
「そうですね。じゃあ、そろそろ出ましょうか」

 エレベータで一階ロビーへと降り、受付でつつがなくチェックアウトの手続きを済ませる。幸い、月彦が危惧したような布団のクリーニング代などの請求は無かった。
(…………あれだけメチャクチャにしてたのに、何も言ってこないのは……客商売だからなんだろうか)
 それとも、曲がりなりにも見知らぬ二人をいっしょくたに泊まらせた引け目故にだろうか。気にはなるが、あえて確認する気も起きず、月彦はそのまま受付を離れた。
「月彦くん、ほら、あれ」
 と、ナナが指さしたのは、一階ロビー正面玄関の脇にある売店スペースだった。
(狭っ……)
 最初に驚いたのが、そのスペースの小ささだった。何せ駅にある売店ほどのスペースしかない。畳にしておよそ六畳分だろうか。そのスペースも殆どが週刊誌やら日用品やらで、土産らしいものは全くといって言いほど置かれていない。
「これは……」
「あっ、月彦くん。これなんかどう?」
 ナナが半笑いで指さしたのは、いかにもお土産ですといった箱に入ったまんじゅうだった。
「……縁切り饅頭って……」
 こんなものを土産ですと差し出したら、相手との縁が切れてしまうのではないだろうか。
「六個入りのやつ、一つ買っちゃお」
「マジですか!?」
 どうやらマジらしい。ナナは六個入りの箱を一つ手に取ると、愛想の悪い女性店員の待つレジへと向かう。
「俺は……いや、止めとこう」
 一瞬、雪乃の顔がちらりと浮かんだが、さすがにタチが悪すぎる。仮に縁を切るにしても、こんな嫌がらせのような方法ではなく、きちんと口で言うべきだ。
(…………口で言った……筈なんだけどな)
 それなのに、何故自分はまだ雪乃との関係が続いているのだろう。不思議に思いたくなる、が答えは記憶の中にある。
 全ては節操の無い下半身が悪いのだ。
(…………煩悩と縁を切る、っていうのはアリかもしれない)
 そんなことを考えるも、今より煩悩が減ってしまったら、はたして真央の相手は勤まるのだろうかという不安がよぎる。妙案のように思えた考えだが、意外に八方ふさがりである事実に月彦はため息しか出ない。
「月彦くんはどうするの?」
「俺は……やめときます」
「そっか」
 さらに店内を捜したが、他にふさわしい土産は見つからなかった。どこにでも売ってそうなキーホルダーや玩具の類いはそもそも候補にすら入らない。
(……ま、途中何度か乗り換えもあるし。それなりに大きな駅の売店とかで何か捜してみるか)
 そんな事を考えながら、月彦はナナと共に売店を、そして旅館を後にした。

 十二時にチェックアウト。そこから駅に向かい、電車に乗って最寄り駅まで帰ってくる。月彦の頭の中での予定ではそうなっており、また移動には鈍行を使うつもりであったから、特に時間などは気にしていなかった。
 故に、無人駅へと到着し、電車の時刻表――電光掲示板ですらない立て看板式の――を見て――思わず目を見開いた。
「ついさっき出たばかり…………次の電車まで二時間て!」
「えっ、月彦くん電車の時間確認してなかったの?」
「いや……いちいち確認なんかしなくても、どうせ三十分も待てば来るだろうって……」
「田舎のローカル線舐めちゃダメだよ。二時間に一本とかまだマシなほうだよ? 場所によっては一日二本とかだったりするんだから」
「そういうナナさんは帰りの電車の時間確認してるんですか?」
「当たり前じゃない。ほら、12:44のがあるでしょ? これに乗るつもりで、チェックアウトの時間を十二時にしたんだもの」
「…………まさか、そんな……ナナさんらしくない……」
「あーのーねぇ。私はこれでも二十歳で、今日をいれて一週間一人で旅をしてきたの。旅館の予約から電車の時間まできっちり計画を立てて、寸分の狂いも無くやってきたの! 一昨日、あんなことになったのは私のせいじゃなくて、旅館側のミスなんだから」
「それは聞いてましたけど……でもナナさんが……」
「ちなみに、こういう無人駅から乗る場合はきちんと整理券をとっておかないと、始発駅からの運賃を払う羽目になるからね?」
「そ、それくらい知ってます! こんなことくらいで勝ったと思わないで下さいよ!?」
「へっへーん、最後の最後に一本返してやった」
 得意げに笑うナナ――だが、やはり体は相当に疲れているのか、キャリーバッグを小脇に置いて駅のベンチへと腰掛ける。
 何か飲み物でも買ってきましょうか?――ナナの体を気遣ってそう言おうとした矢先、駅の構内には自動販売機すら無いという事実を思い出す。
 やむなく、自分もベンチへと腰掛ける。ナナとの間に椅子一つ分空けたのは、特に意味はない。自分はそこに座れるほど、ナナと親しい関係では無いと思っただけだ。
「あっ、雨降ってきたね」
「やっぱり降っちゃいましたか」
 無人駅とはいえ、屋根のあることに感謝する瞬間だった。
「もし一日ずれてたらエラい事でしたね。傘さしながら石段登らなきゃいけない所でした」
「そうだね、昨日はいい天気だったし、そういう意味ではツイてたね」
「もし雨が降ってたら、それでもナナさんはお参りに行きました? 俺はどのみちおつかいがあるから行きましたけど」
「そだねぇ……どうしたかなぁ。あの石段のキツさを知らない頃だったら、間違いなく行っただろうけど、知っちゃった後じゃ絶対行かないだろうなぁ」
「……ですよね。下りの時とか、足が滑って危なそうですし」
「あんなところで足滑らせたりしたら、下手すりゃ死んじゃうよね。そういう事故って起きたことないのかな?」
「その為の手すり、なのかもしれませんね」
 当たり障りの無い話。極めて日常的な話とも言える。ナナとそういう話をするのが嫌なわけではないはずなのに、何故だか焦りにも似たものを感じる。
 違う。俺が言いたいのはこんな話じゃない――そういう焦りだ。だが、一体何を言いたいのか、自分自身でも解らない――二つの焦りが混ざり合い、月彦は苛立ちにも似たものを感じていた。
「……そういえば――」
「うん?」
「…………すっかり失念してました。……俺、まだナナさんの名前教えてもらってないです」
「あははっ、すっごい今更だねー。………………私も言うの忘れてた。私自身“ナナさん”が本名のつもりになってたよ」
「……ていうか、そもそもどうして名前を伏せたんですか? 今考えてみたら、別に名前を伏せる必要性は無いじゃないですか」
「……だってほら、あの時はまだキミがどういう男の子かわからなかったし……本名名乗って大丈夫かどうか確かめてからじゃないと、怖いじゃない?」
「……俺ってそんなに危ない人間に見えるんですか」
「あとは……そうだね。……名乗らなかったのは、単純に私が自分の名前好きじゃない……っていうのもあるかな。さらに付け足すなら、キミに少しでも私に対して興味持って欲しかったっていうのもあったと思うよ」
「確かに……一体どういう関係の人なんだろうってスッゲー気になりましたけど……だけどもう良いですよね? 俺が極めて善良な男子高校生だということも解ってもらえたと思いますし、本名教えても何の問題もないですよね!?」
 月彦が声を荒げた時だった。駅構内――正確には屋根を支える柱に固定されたスピーカーから、据え置き型電話機の着信音にも似た音が鳴り響いたのだ。続いて流れる、『まもなく列車が参ります』のアナウンス。
「あぁー……時間切れだねぇ。……電車、来ちゃった」
 にぃ、と。これ以上ないというくらい意地の悪い笑顔。
「……ナナさん、せめて最後に……教えて下さい。でないと、俺……」
 ゴォォ――風と水しぶきを引き連れて、二両編成の列車が目の前へとやってきて、ブレーキ音を響かせながら停車する。
「……よっ……こら、せっと」
 筋肉痛の為だろうか、ナナが妙にゆっくりとした動作で立ち上がり、キャリーバッグに手をかける。
「ナナさん!」
 意図せず、月彦の声は悲痛めいたものになる。泣き声とまではいかないまでも、その一歩手前。さながら、家に一人残されて仕事に行く母親を見送る幼子のような。
「…………ふふっ」
 背を向けたままのナナの口から、そんな声が漏れるのを、月彦は聞いた。次の瞬間、ナナの体がふらりと揺れた
「……どっこいしょー」
 そして、ぎしりとベンチが軋む音。ナナがどっかりと腰を下ろしたのは、先ほど月彦が座るのを躊躇った“隣の椅子”だった。
 プルルルルルル――電話の着信音にも似た音。続いて、空気が抜けるような音と共に列車の扉が閉まる。
「……ナナ、さん?」
「…………一本遅らせることにした。そうでもしないと、キミが泣きそうだったんだもん」
「な、泣きませんよ! 何言ってるんですか!」
「あははっ。うそつけー、目とかうるうるになってるくせに」
「なってません!」
「ならこっち向いてみ? ほれほれ、お姉さんとにらめっこ出来るかい?」
 くっ――月彦は唇を噛みながら、うりうりと脇を突いてくるナナから必死に顔を背ける。勿論それはナナの言うことが真実――などではなく、寝不足であくびをかみ殺してしまったのを誤解されたくないだけだ。
 頑なに体を背け続けていると、漸くナナは諦めたらしく、突いてくる手を止めた。代わりに、がさごそと、ビニール袋を漁るような音がした。
「って、ナナさん! 何開けてるんですか! それお土産に買ったんじゃなかったんですか!?」
「だって、電車見送っちゃったし。本当はどこかの駅で一端降りて駅弁でも買おうと思ってたけど、それも最低二時間お預けになっちゃったから」
 ナナは先ほど買った縁切り饅頭の包みを開け、恐らく抹茶かヨモギ辺りが混じっていると思われる深緑色の饅頭を摘み始める。
「月彦くんも食べる?」
「……これ、確か……縁切り饅頭ですよね?」
「私と縁切れちゃうのが嫌なの?」
 月彦くんって意外と信心深いんだ――そんな事を呟きながら、ナナが一つ目の饅頭を食べ終え、二つ目をつまみ上げる。
「…………俺はあの神社の“御利益”を目の前で見ちゃいましたからね」
「あははっ、アレは早かったねー、うん。スゴかった! アレを狙わずにやれるんだから、キミも大したものだよ」
「…………もし、ナナさんが彼氏さんと別れようとしてるんじゃなかったら、それこそ洒落にならないですから、笑い事じゃないんですよね……」
「…………あの時はああ言ったけどね。…………本当はこの旅行が終わったら、彼氏とやり直そうかな、っていう気も、少しはあったんだよね」
「えっ……?」
「でもさ、私が浮気したって勝手に決めつけて、言い訳を聞こうともしないで一方的にわめき立てられて、そういう“やり直したい気分”も吹き飛んじゃった。……確かに誤解されるような事をした私も悪かったんだろうけど、そういうことはこの先だっていくらでも起きるだろうし、その時に私を信じてくれない人とは、巧くやっていく自信がないよ」
 だから、本当にあれでよかった――そう言って、ナナは二つ目の饅頭を食べ終える。
「………………月彦くん、何か飲み物もってない?」
 そして、なんともげんなりした顔をする。饅頭一つの大きさはさほどでもないが、立て続けに二つも食べれば、さすがに喉が渇いたということなのだろう。
「……俺もさっき飲み物買おうと思ったんですけど、ここ自販機も無いんですよね」
「そうなのよね。……あーんもうこんなことならあの売店で何か飲み物も買っておけばよかった!」
「………………ナナさん。実はこんなものがあるんですが」
 そう言って、月彦はリュックから石段登りの際に使った水筒を取り出す。
「月彦くん、まさか……」
「さっきナナさんがシャワー浴びてる間、部屋にある電気ポットのお湯とティーバッグでお茶を作って入れておいたんです。…………電車に長く乗ってることになるから、もしかしたら必要になるかと思って」
「キミ、本当に最高! 月彦くんのそういうところ、私大好き!」
「ははは……ありがとうございます。………………折角だから、やっぱりおまんじゅうもらってもいいですか」
「いいよいいよ、好きなだけ食べていいよ。但し、三個までね?」
 水筒の蓋をコップにして、交互に飲みながらのお茶会。末期の酒ではないが、それに限りなく近いナナとの最後の時間を、月彦は噛み締めていた。


 

 ナナが本来乗るはずだった12時44分の電車を見送った為、次の電車――時刻は14時55分となっている――まで、リミットは伸びた。しかし月彦の乗る電車の方が14時20分には到着してしまうため、延びた時間は実質二時間にも満たない。尤も、月彦も同じ様に電車を見送ればその限りでは無いが、それでは終電までに最寄り駅まで戻れない可能性が出てくる。
 しかし、気分的にはそれでも構わないと、月彦は思い始めていた。
「……というわけで、いい加減名前を教えてください!」
「キミも拘るねー。……名無しのナナさんじゃそんなに不服かい?」
「当たり前です! そもそも俺の方はちゃんと名乗ったんですから、ナナさんだって名乗るべきです」
「そうなんだけどね。ここまで引っ張っちゃうと、それも何だかなぁって思うんだよね。……どうせこれっきり、もう二度と会うことも無いんだしさ」
「…………それは、そう、なんですけど……」
 もう二度と会うことも無い――ナナの口からはっきりそう言われると、月彦は胸に痛みにも似たものを覚える。やはり、ナナにとっては一夜限りの遊びに過ぎなかったのかと。共に石段を登った事も、神社に参った事も、それらもただの旅行の思い出として処理されるだけのものなのかと。
 それがもどかしくて切なくて、苦しく感じるのだ。
(…………でも、また会って下さいって…………言える立場でもない、よな)
 そもそもが、現状ですら手に負えないほどの“相手”を抱えているのだ。これ以上、ナナと会うような余力がどこにあるというのか。
「……なーに? ひょっとして私……惚れられちゃったのかな?」
「っっっ……」
 耳が熱くなるのを感じる。月彦は咄嗟にそっぽを向くが、空気を読まない耳がナナのくすくす笑いを拾ってくる。
「ほっ……惚れたとか、そういうんじゃなくて、ですね……」
 あああダメだ。こういうときに“言い訳”をしても説得力は皆無だと。解っては居ても、月彦は口を開いてしまう。
 半分は照れ隠しだからだ。
「ナナさんってほら、大学生ですから……俺も……この先の進路の事とかでアドバイスもらえたら……って……」
「ふぅーん?」
 あぁ、信じてない。それどころかナナはうすら笑みすら浮かべている。昨夜とは完全に立場が逆転している。
 もしかして、これはその復讐なのだろうか?――そう思える程に。
「連絡先、教えてほしい?」
「いえ、べつに……」
 ナナの挑発的な物言いに、月彦はつい強がってしまう。
「キミのそういうところ、すっごく可愛いよ。…………でも、そうだね。確かに“これっきり”にするには、ちょっと惜しいかなぁ」
 まるで独り言のような呟き。月彦は強がりついでに視線を外したまま、微かに胸の弾みを覚えた。
「私も独り身になっちゃったし。……時々なら、年下の男の子と遊ぶのも悪く無いかも?」
 不意に、膝小僧の上に置いていた手に、ナナの手が重なってくる。ハッと気がつくと、ナナは微かにもたれかかるように体重をかけてきていた。
「……ひょ、ひょっとして……ナナさんって、意外と肉食系ですか? 第一……そういう、エッチとかあまり好きじゃなかったんじゃ……」
 手のひらに汗が滲むのを感じる。どぎまぎしながら、月彦は視線を逸らしたまま言うと、視界の外でナナの笑い声が聞こえた。
「私は遊ぶのも悪く無いって言っただけで、エッチするなんて一言も言ってないよ?」
「っっっっっ!」
「あははっ、耳まで赤くなっちゃってー。…………でも、そうだね。……月彦くんとだったら……もう1回くらいシちゃってもいいかなぁ」
「もう1回だけ……ですか?」
「それ以上は、さすがに……ね。……“彼女”にも悪いし」
「ま、まぁ……そう、ですね……。仏の顔も三度までと言いますし……」
 過ちも二度までなら許される筈――ナナの遠回しな誘いに心がグラついている月彦は、そんな謎理論で良心からの突き上げをかわす。
「ていうか、さすがにそれいじょうシちゃうと、私の方がどうにかなっちゃいそうだし。…………ただでさえ、月彦くんとのエッチで人生観変わりそうになっちゃってるのに」
「ははは、さすがにそれは大げさですよ、ナナさん。昨夜なんて、ちょっと軽く流しただけじゃないですか」
「…………? 軽く流しただけ?」
 呆れを通り越してしまったような、ナナの目。
「あんなに、ケダモノみたいに何度も何度もしつこく求めてきて、“軽く”?」
「す、すみません……そんなにしつこかったですか?」
「しつこいっていうか……………………ま、そういう所もキミの魅力の一つなのかもね。プラスかマイナスかは人によって評価別れそうだけどさ」
 言いながら、ナナはバッグから手帳を取り出し、ボールペンでさらさらと書き始める。そしてページを破り、二つ折り三つ折り四つ折りと折っていく。
「これ、私の住所と連絡先。ついでに月彦くんが知りたがってた本名も」
 ナナは指先に挟んで差し出してくる――が、月彦が受け取ろうとするや、さながら踏切の遮断機のような動きで、ナナの手が遠ざかる。
「ナナさん?」
「……ごめんね。月彦くん…………これを渡す前に、一つだけ……約束してくれないかな」
「何ですか? 俺に出来ることなら……」
 言いながら、月彦は言いしれぬ不安を感じていた。先ほどまで楽しげに話していたナナが、メモに住所を書き終えるなり笑顔を無くしてしまったからだ。
「今すぐ……ううん、帰ってすぐにとは言わない。だけど、出来るだけ近いうちに……」
 ナナが、そこで一度言葉を切る。その先を言うことを躊躇うかのように、一端息を吐き、そして吸う。
「…………一度だけでいいから、愛奈と連絡をとってあげてくれない? 人づてや、手紙なんかじゃなく、キミが直接電話をかけて、声を聞かせてあげて欲しいの」



 どうやら、ちょっとした前後不覚状態に陥っていたらしいということを、月彦は耳鳴りの後に徐々に聞こえ始めた雨音で理解した。
 それほどに、ナナの頼み事は月彦の予想の範疇を超えていた。
「な――」
 一体どれほどの時間気が遠のいていたのだろう。ナナがさほど不審がっていない所を見るに、恐らくほんの十数秒なのだろう。
「なに、を」
 言葉が巧く紡ぎ出せない。いつのまにか、口の中が極度に渇いてしまっていたらしい。舌が張り付くのを感じる。
「何を……言ってるんですか? ナナさん…………どうして、そこで愛姉の名前が出てくるんですか」
 全身の産毛を、不可視の触手で撫でつけられているような、そんな不快感。自然と、歪んだ笑みを作ってしまう。何故そんな笑みを浮かべてしまうのか、月彦にも解らない。
「連絡先教えるから、愛姉に電話しろって……一体どういう事なんですか?」
「それは……」
 ナナの顔には困惑が色濃く出ていた。そういう質問が帰ってくるとは全く予想していなかった――そういう顔だった。
「別にいいじゃない……ちゃちゃっと電話かけてあげるだけでいいからさ。きっと、愛奈はすっごく喜ぶと思うの」
「全然良くないです。俺がどれだけ愛姉が苦手なのか、ナナさんだってよく解ってる筈ですよね?」
「それは……知ってる、けど……でもさ、ほら……キミだって昔のキミとは違うでしょ? それと同じように愛奈だって――」
「無理です」
 ナナの言葉をぶった切る形で、月彦は断言する。
「いくらナナさんの頼みでも、それだけは聞けません」
「月彦くん……」
 ナナはさらに言葉を続けようとして、唇を噛む。何か言いにくい事を言おうとしているのだと、月彦にも解った。
「…………これは、キミだから……キミにしか言えないことだけど。……私もね、一時期……すごく、愛奈を憎んでた事があるの。だから、キミの気持ちは、私にもよくわかる……だけどね」
「俺の気持ちが……解る? 今、そう言いましたか?」
 カッと、頭に血が上るのを感じる。かつて無いほどの憤りに、月彦は思わず椅子から立ち上がる。
「そんなことを軽々しく言わないでくれますか。本当に俺の気持ちがわかるなら、愛姉と電話で話をしろなんて口が裂けても言えない筈ですよ」
 解るはずが無い。解ってたまるか――そんな思いが、月彦に拳を握らせる。
 一体誰に対しての拳なのかも、何のための拳なのかも解らぬままに。
「……月彦くんが、愛奈に酷いことをされたっていうのは解る。よほどの事をされないと、そこまで嫌いになんかならないよね。……でもね、それはキミのことが嫌いで、憎くてやったんじゃない。キミのことが好きすぎて、愛奈自身その想いを止められなかっただけだと思うの」
「“好き”なら何をやってもいいっていうんですか。……“好き”っていうのは、免罪符の代わりになるんですか」
「そこまでは言ってない。……私はただ、愛奈にもチャンスをあげてって言ってるの。確かに月彦くんの言う通り、愛奈は普通じゃないと思う。酷いことだって平気で出来る子だとも思う。…………だけどね、キミなら……そんな愛奈を変えられると思うの」
「……冗談でしょう?」
 まるで、怒りという名の焚き火に、次々と可燃物を放り込まれているような気分だった。
 血が沸騰したように沸き立つのを感じる。月彦は、声を荒げずにはいられなかった。
「ナナさん、自分が何を言っているのか解ってますか? ナナさんは俺に人柱になれって言ってるんですよ?」
「人柱って……そんな……」
「大げさだと思いますか? もしそう思うなら、“あの女”に対するナナさんの認識が甘いか、本性を知らないだけですよ」
「……っっ……私だって!」
 月彦の“熱”が伝播したかのように。ナナもまた、激情に駆られるように立ち上がる。
「私だって……愛奈には酷い目に遭わされた! キミのお姉さんが愛奈の手紙を燃やして捨てた時、私の友達は……キミのお姉さんに雰囲気が似てるってだけで、腹いせに苛められて……そのとばっちりで私まで巻き込まれたの!」
「だけど、許した。だから俺にも愛姉を許せと言いたいんですか?」
 ナナの目が、驚愕するように見開かれる。
「ひょっとして、同情するとでも思ったんですか? それとも俺が“信じられない。いくらなんでもそんな酷いことをするはずがない”と言うとでも? とんでもない話です。ナナさんには悪いですが、俺はこう思っただけです。“ああ、あの女ならやりかねない。やっぱり何も変わってないんだな”って。………………むしろ、ナナさんに聞きたいです。そんな目に遭わされて、どうしてまだ愛姉のことを好きだなんて言えたんですか? ……まさかとは思いますけど、悪いのは愛姉じゃなくて、手紙を燃やした俺の姉だなんて思ってないですよね?」
 月彦は思い出す。最初にナナと出会った夜、ナナが言ったことを。
『あなたたち姉弟のせいで人生を狂わされた』――後に、ナナは冗談、大げさな表現だと言った。ということは、ささやかなりともそう思っているということではないのか。
 そしてそれこそが、ナナの“本音”だったのではないかと。
 だとすれば、この二日間のナナの行動の意図は根底から覆ることにはならないか。
「……そっか。……そういうこと、だったんですね」
「………………なに? 急にどうしたの?」
「忘れてました。ナナさんは嘘つきなんだって。…………だから、あの時も嘘をついたんですね」
「嘘……?」
「昨日、ナナさん言ったじゃないですか。……愛姉のことを忘れさせて欲しいって」
「っっ……言った……けど、でもそれは嘘じゃ――!」
「嘘、ですよね。だって、全然忘れられてないじゃないですか」
 ナナの顔から、見る見るうちに色が失われていく。それが言葉よりも何よりも雄弁に“真実”を月彦に物語る。
「ああ、それとも……ナナさんは本気で忘れたかったのに、俺がその役目を果たせなかっただけなんでしょうか。だとしたら申し訳ないです」
「……もうやめて、月彦くん…………私は、キミとケンカがしたいわけじゃないの…………私は……私は……!」
「………………俺だって、ナナさんとケンカなんかしたくないです。……だけどナナさんが俺を騙して利用しようとしてたとなれば、話は別です」
「騙す……って」
「一体どこからどこまでが演技だったのかなんて、俺には解りません。…………でも、ナナさんは明らかに俺に気があるフリをして、俺に気を持たせて、それを利用して愛姉とコンタクトとらせようとしましたよね?」
 “怒り”の理由が切り替わるのを感じる。眼前の女に騙されていたのだという思いが、月彦に止めどなく非情な言葉を紡がせる。
「……俺、バカだからナナさんの言葉を完璧に鵜呑みにしちゃってましたよ。考えてみたら、ナナさんみたいな綺麗な人が、いくら“初恋相手の好きな相手”だからって、会ったばかりの俺に抱いて欲しいって頼むこと自体おかしいですよね。彼氏さんにすら抱かれるのを嫌がってたのに」
 ナナはもう、何も言わなかった。色を失った顔に悲痛の表情を浮かべたまま、肩を抱くというよりは腕を押さえているという仕草。棒立ちのまま、月彦の言葉を、ただ聞いていた。
「ひょっとして……その彼氏さんが居るっていうのも、俺を騙すための小芝居だったんですか? だとしたらご苦労様としか言い様がないです」
 ナナは何も答えない。ただ、その顔に僅かな笑みを浮かべる。
「さすがに、予約がブッキングして泊まる部屋が無くなったっていうのは偶然……ですよね? 偶然じゃなかったとしたら、旅館の人たちまで口裏を合わせてたことになりますし。そうなると電車で向かいの席に座ったのも計算ずくってことになって、となると俺が母からおつかいを命じられた事からして………………はは、疑いだしたらキリがないですね」
 何かが壊れる音が聞こえる。
 それは時には何よりも堅く、そして時には何よりも脆くなってしまうもの。
 そして一度壊れてしまえば、決して元には戻らないもの。
「…………私が、愛奈に言われて、キミと愛奈の仲を取り持たせる為に、全部仕組んだ…………そういうことなら、キミは納得してくれるのかな?」
「ああ、当然その可能性もあるわけですね。……そうだったんですか?」
 ナナは瞼を閉じ、静かに首を振る。真実がどうであれ、そう答えるに決まっているのだから、愚問だったと、月彦は思う。
 沈黙。雨音と、雨樋から溢れる水の音だけが響く中、ナナの言葉がそれを破った。
「……おっかしぃなぁ…………こんな筈じゃなかったんだけどな」
 呟き、ナナが目を開ける。眩しいくらいの笑顔を添えて。
「再会を誓い合って、楽しい気持ちのまま……そしてちょっぴり切ない気持ちを抱いたままお別れをする筈だったんだけどな」
「…………ナナさんが愛姉の話なんて持ち出さなければ、そうなってた可能性は高かったですけどね」
「あはは、そうだね。………………すごく、後悔してる」
 うん、と。ナナは頷く。
「…………キミが愛奈のことを嫌ってるっていうのは十分知ってた筈だったのにね。……キミが嫌だって言ったときに、素直に引いとけばよかったんだよね。……私も途中からムキになっちゃってさ、ダメだね。私の一番ダメなところ。直さなきゃいけないって解ってるのに、全然直せてなかった。……あの時も、それで失敗したのに」
「………………。」
「今更言っても無駄かもしれないけどさ……今回のこと、愛奈は本当にノータッチだから。私がたまたまキミと知り合って、勝手に気を利かせようとしただけだから。…………だから、愛奈の事は……これ以上嫌いにならないであげてね」
「あの女を今以上に嫌いになれる方法があるのなら、むしろ教えてほしいくらいです」
 鼻で笑いこそしなかったものの、気分的にはそんなつもりで月彦は言う。意外にもナナは気を悪くするでもなく、むしろ嬉しげに言った。
「……やっぱり、キミ達似てるよ」
「似てる……?」
「好きにしろ嫌いにしろ、そこまで誰かのことを強烈に想い続けることが出来るって、私は凄いと思う。……私も愛奈にはずいぶんな目に遭わされたけど、憎み続けることなんて出来なかったもん」
「…………………………。」
 ナナの言葉に、落ち着いたはずの怒りが再燃するのを感じる。知った風な口をと、怒鳴りつけたくなるのを、歯を食いしばって耐える。
「…………ナナさん、俺の姉は……今入院してるんです」
 これは、他人にするような話ではない。ましてや、“あの女”の手先かもしれない相手ならば尚更だ。
 しかし、月彦は言わずにはいられない。
「入院したのは、スキーで骨折をしたからです。でも、本当ならもうとっくに退院してる筈なんです。だけど病院の階段から落ちてしまって、退院の日が延びてしまったんです」
 発言の意図を計りかねるように、ナナが微かに首を傾げる。しかしそれも、次の月彦の言葉を聞くまでだった。
「“誰か”に階段で突き落とされたんです。姉は何も言いませんけど、犯人ははっきりしてます。“あいつら”です。正確には愛姉本人じゃない、その妹です。あいつらは姉妹そろって悪魔なんです。背中を押して階段から落とすなんて、それだけでも卑劣極まりない所業だとは思いませんか。しかも、それを怪我人相手でも平気でやる……そういう連中なんですよ」
「……愛奈たちがやったって、証拠は……あるの?」
「残念ながら」
 月彦は首を振る。
「でも、“本人”から言質はとりました。愛姉じゃない、実行犯の優巳姉のほうですけど。……ただ、肝心の姉があくまで自分一人で階段から落ちてしまったって言い張るので、警察沙汰にはなりませんでした」
「お姉さんは……どうして嘘を? ……ううん、その前に愛奈達はどうしてそんなことをしたの?」
「わかりません。姉には姉の考えがあるんだろうとは思います。愛姉達が何を考えているのかについては、もはや見当もつきません。大方遊び半分だったんでしょう……昔から姉の事を疎んじてましたから。……たとえそうしなければならない理由があの二人にあったのだとしても、俺は絶対にあいつらを許すことは出来ません」
 仮に――月彦は言葉を続ける。
「もし、仮に……あの二人がそういうちょっかいを一切してこなかったら。簡単にはいかないでしょうけど、十年後、或いは二十年後には、あの時に感じた恐怖も怒りも憎しみも和らいで、いつかは風化してしまったのかもしれません。……だけど、あいつらは現在進行形で悪魔としか思えないような事をやり続けてるんです」
 俺だって好きで憎み続けているわけじゃない――吐き捨てるように、月彦は付け加える。
「月彦くん……ごめんね……私、そんなの知らなか――」
「だから!」
 月彦は、強引にナナの言葉を遮断する。
「“そんな連中”に似てるなんて言われて、俺……凄くショックです」
「……ぁっ……」
「もう謝罪はしなくていいです。……だからもう、あいつらの話をするのは止めてください。……これ以上食い下がられたら、本気でナナさんの事が嫌いになってしまいそうですから」
 膝から崩れるように、月彦はベンチへと腰を下ろす。遅れて、ナナも腰を下ろした。
 二人の間に、椅子一つ分のスペースを空けて。



 プルルルルルル――そんな音がスピーカーから流れ出し、程なく雨粒を弾きながら列車がホームへと入ってくる。月彦は脇に置いていた荷物を肩にかけながら立ち上がる。
 ちらりとナナの方へと視線を落とす。ナナはベンチに座ったまま、肩を落とし両手を膝の上で合わせるようにして握っていた。まるで、人生の局面を変えるような面接で失敗をしてしまった後、待合室で茫然自失としているような――そんな座り方だった。
 しかし、月彦にはかける言葉が無い。ナナが消沈している原因を作ったのは他ならぬ自分だからだ。
(………………こんな結末は、予想してなかった)
 そう思わざるを得ない。ナナが言ったように、もっと楽しく別れられる筈だった。ほんの一時間前までは、ナナとこれほどまでにギクシャクすることになるとは夢にも思っていなかった。今となっては、ナナの部屋に泊まりに行く話をしていたことが遠い昔のことのようにすら思える。
「…………。」
 空気が抜けるような音と共に、列車のドアが開く。もたもたはしていられない、ここで乗らなければ、最悪終電までに最寄り駅まで到着出来ない可能性も出てくる。
 ナナへと背を向け、列車へと歩み出した、その時だった。
「あっ……」
 “待って”でも“待ちなさい”でもなく。月彦の歩みを止めたのは、そんな弾かれるように出たナナの一言だった。
 振り返る。ナナはベンチから腰を上げ、まるで祈りでも捧げるように両手を胸の前で握りしめていた。
「……ナナさん?」
 不安そうな――怯えていると言ってもいい、ナナの目。胸の奥を内側から引っかかれるような、そんなザワザワとしたむず痒さに、月彦はつい声をかけてしまう。
「………………これ」
 そう言って、ナナは右手を差し出してきた。ゆっくりと指が開かれ、手のひらに乗せられていたものが露わになる。
 それは先ほど、ナナが連絡先と本名を書いて折り畳んだ紙片だった。
「……もう、要らない……かな」
「………………。」
 咄嗟に右手が動きかけて――止まる。痙攣にも似たその動きは、ナナにも見られたかもしれない。その目に、期待にも似た光が点る。
「…………受け取れません」
 しかし、月彦は静かに首を振った。
「それを受け取る条件は、愛姉へ電話をかけることだった筈です。……だから、受け取れません」
「……そ……っか」
 電話の事なんかどうでもいいとは、ナナは言わなかった。月彦の言葉はただの建前であり、拒絶の理由は他の所にあると見抜いているようだった。
 月彦は列車に乗り、ナナの方を向き直る。
「……ばいばい、楽しかったよ」
 ナナは笑って見送り、そして手を振る。
「………………さよなら、ナナさん」
 月彦の声は、ドアの閉まる音にかき消された。手を振り返すことも出来ず、月彦は列車が動き出す前にその場を離れ、空いている座席へと座る。
 列車が出発し、駅を離れるまで。月彦は一度もナナの方を見ることが出来なかった。



 六時間という移動時間は、頭を冷やすには十分過ぎる時間だった。月彦は幾度となく路線を乗り換え、時には立ったまま、時には座席に座りながら、ナナとの事を考えていた。
 それは或いは後悔――そう呼べるものだったのかもしれない。冷静になって考えれば考えるほどに、ナナが初めから騙すつもりだったとは思えなくなったのだ。
 もちろん、ナナに対する好意につけこんで愛奈に電話をさせようとしたであろうことは揺るがない事実だ。だがそれはあくまであの場で即興的に思いついたことであり、少なくとも初めからそれを狙っての事ではなかったのではないかと。
(……それに、あそこまで言わなくてもよかった)
 頭に血が上るとは、まさにああいうことを言うのだろうと、月彦は猛省した。ナナの提案など、笑って受け流せばよかったのだ。それこそ「いくらナナさんの頼みでも、それだけは聞けません」の一点張りで。
 思い返せば、それはごく簡単なことに思える。しかし、自分はその簡単なことすら出来ず、恐らくはナナを深く傷つけてしまったのだという事実が、月彦の心中に重石のように残り続けていた。

 雨雲の動きがどういうものなのかは、想像することしか出来ない。ただ、最寄り駅に近づくにつれて徐々に雨足が弱まっていったことは確かだった。
 往路では随分と手間取った乗り換えもスムーズに終わり、午後九時前には月彦は最寄り駅へと到着した。
 雨はすっかり止んでおり、見上げれば綺麗な半月が辺りを照らしていた。
「…………そういや、土産……何も買ってないな」
 何故月を見上げてそのことを思い出したのか、月彦自身解らなかった。忘れてしまったものはしょうがないと、苦笑混じりに月彦は駅のホームを後にする。
 そのまま人混みに流されるように改札を抜け、駅を後にしようとしたところで、はたと。月彦は思いも寄らぬ人物の声を聞いた。
「…………月彦?」
 自信なさげに呟かれたその声に、月彦はギョッとしつつも振り向いた。
「た、妙子……?」
「…………何よ、あんたもどっか出掛けてたの?」
「まぁ、な。……“も”って事は、妙子もか?」
 妙子も左手にキャリーバッグの取っ手を握っていた。恐らくは、僅かな差でやってきた反対方向の電車に乗って帰って来たのだろうと、月彦は推測した。さすがに同じ電車に乗っていたのなら、ホームに降り立った段階で気がつく筈だからだ。
「まーね。友達二人と旅行に行ってきたの」
 妙子の答え方で、月彦は一緒に旅行に行った相手というのが千夏や和樹ではないと察した。
(……多分、倉場さんと小曽根さんの二人だろう)
 軽く目を瞑るだけで、仏頂面の妙子の腕を掴んで引っ張り回す二人の姿が容易に想像出来る。
「そうか。……楽しかったか?」
「それなり。……あんたは?」
「それなり……だな」
 月彦の脳裏に、ナナとのホームでのやりとりが蘇る。別れ際のナナの張り詰めた顔を思い出すだけで、胸の奥が鋭く痛んだ。
「……ねえ、あんた……さ……晩ご飯、食べた?」
 ナナのことで頭がいっぱいだった月彦は、その言葉を理解するのに若干の間を要した。妙子からかけられる言葉として、およそ予想し得ないものであったというのも、理解するのに時間がかかった要因の一つでもあった。
「いや、食べてないけど」
「そう。…………私も、まだなんだけど」
 ???――月彦は思わず首を傾げそうになる。眼前の幼なじみが一体何を言わんとしているのか、まったく理解出来なかったからだ。
(……なんだ、妙子のやつ……いやに思わせぶりだな)
 これではまるで、夕食に誘ってるみたいに聞こえるじゃないか――そのことがなんとも訝しく、あの妙子が自分から夕食の誘いなど持ちかけるはずがないという先入観が、月彦の状況把握をより困難なものにしていた。
(……いや、待てよ。案外本当に夕飯に誘ってるのかもしれないぞ)
 月彦は冷静に状況を分析する。妙子は旅行帰り。それも荷物の大仰さからいって、泊まりがけの旅行だったことは明白だ。そして連れはあの二人。
(……食事にかこつけて、旅行の愚痴とかをぶちまけたい、ってコトか)
 月彦は、察した。勿論それは本当の意味での不平不満による愚痴ではないだろうということまで察していた。思っていることを素直に表に出すのが苦手なこの幼なじみが時折“嬉しげ”に愚痴を言うところを、過去に何度も目にしていたからだ。
(…………いつもだったら、茶化し半分に聞いてやれるんだが……)
 さすがに今日ばかりは、そういう気分になれそうになかった。何より、月彦は恐れていた。ナナとの時のように、カッとなった勢いで口論をし、この幼なじみとの縁まで切れてしまうことを。
「…………悪い。多分、母さんが晩飯用意してくれてると思うからさ」
 旅行の話なら、千夏や和樹としてくれ――月彦は暗にそう言い含めるように、丁重に断った。本来ならばそれこそ千載一遇、妙子から食事の誘いを持ちかけられることなど、この機を逃せば今世紀中には二度とないのではないかとすら思える。
 しかし、そんな好機よりも、月彦は妙子というかけがえのない存在を失ってしまうことを恐れた。
 妙子自身、月彦の返事がよほど意外だったのか、呆気にとられたように目を丸くしていた。しかしどこかホッと安堵したような様子すら窺える。或いは、妙子も内心ではあまり乗り気ではなかったのかもしれないと、月彦が推測した時だった。
「じゃあ、さ。…………ちょっとだけ、うちに寄っていかない?」
 え?――ついそんな言葉が口から飛び出そうになる。既に夜、時刻は九時にさしかかろうという時間帯だ。そんな時間に、いくら幼なじみとはいえ異性を部屋に呼ぶというのがどういうことになるのか。もちろん“そういう意味”でないことなどわかりきっているが、それにしても無防備過ぎではないかと思う。
(…………いつもの、俺、だったら……)
 それこそ、二つ返事でついていったことだろう。たとえば翌日に大事な試験ないし面接が控えており、今すぐに帰って勉強なり予行練習なりをしなければ確実に落とされることが明白であったとしても、嬉々として誘いにのったことだろう。
(…………ヤバいな。……なんか、妙子との距離感まで狂っちまってるのか?)
 体調がおかしいのか、それとも神社の“御利益”で何かが狂わされているのか。それとも、ナナとのことがショックで、精神的に歪んでしまっているのか。
 とにもかくにも、月彦の目には、まるで眼前の幼なじみがなんとも隙だらけな、さながら野原に仰向けに寝そべり、さあどうぞと言わんばかりに柔らかそうなお腹を晒したままお昼寝中の子ウサギかなにかにしか見えなかった。。今の妙子ならば、部屋に上がり込むなり容易く押し倒し、そのたわわな胸を好き放題に揉みまくれるのではないかと思える程に。
(……っ……ダメだ。マジで今の俺はおかしい……)
 難攻不落の戦闘要塞のような鉄壁さで男を寄せ付けない妙子をそのように感じてしまうこと自体、精神状態が狂っている何よりの証といえた。或いは、ナナと共に食べたあの饅頭の中に何らかの幻惑物質でも混ざっていたのではないかとすら、月彦は思い始めていた。
「…………悪いな。今日はちょっと、そういう気分じゃないんだ。……またな」
 殆ど捨て台詞のように言って、月彦は妙子に背を向けるや逃げるように足早にその場を去った。


 一応この辺りも雨は降ったのだろう。所々に出来た水たまりを避けながら懐かしい我が家へと帰り着くなり、月彦は全身にどっと疲れを感じた。
「……ただいまー」
「あら、おかえりなさい。……旅行はどうだったかしら?」
 靴を脱いでいると、パタパタとスリッパの音を響かせて葛葉が出迎えてくれた。
「凄く楽しかったよ。…………お土産買ってこようと思ったんだけどさ、なんか縁起の悪い饅頭しか売ってなくって、結局買わなかった」
「あらあら、“縁切り饅頭”でしょう? 名物も昔と変わってないのね」
「有名なの?」
「有名よ? 一緒に食べた相手と本当に縁が切れちゃうって評判なの」
「はは、そりゃあ買って来なくて良かった」
 そして出来れば、その話は出発する前に聞きたかった――月彦は心の中で独りごちる。
「そういや、風呂は沸いてる?」
「今ちょうど真央ちゃんが入ってるところよ。……先にご飯食べるなら準備出来てるわよ?」
「んじゃそうする。昼飯食いそびれちゃってさ、お腹ぺこぺこなんだ」
 月彦は荷物を手に自室へと上がる。これからリュックの中身を片付けねばならないのだが、それはもう夕飯のと風呂の後――否、後日でいいやと思う。
「…………なんだこりゃ」
 自室に入ると、勉強机の上に何かの紙くずがこんもりと山を作っていた。一体なぜこんな事になっているのか、多分真央なら知っているだろう。わざわざ紙くずを手にとってそれが何かを確かめようという気にはならなかった。
 もはや“考える”ことすらも億劫なほどに、全身に疲れを感じていた。

「あっ、父さま! おかえりなさーい! 旅行どうだった!?」
 階下へと降りると、湯上がりホカホカ、尻尾をぶんぶん振りながら真央が飛びついてくる。
「おおっと、ただいま、真央。……一日顔を合わせなかっただけなのに、また一段と可愛くなったな」
「えっ……ほ、ホント……?」
 冗談を本気にしたのか、真央は頬に手を当てて顔を赤らめる。こうなってはもう、冗談などとは言えない。
「ホントだ。見違えたぞ?」
「…………父さまも、なんだかりりしく見えるよ。大人っぽくなったみたい」
「……“色々”経験したからな」
 その色々の中には、行きずりの女性とのエッチも含まれるのだが、そんなこととはつゆ知らずの真央は尊敬の眼差しすら向けてくる。
「そういや、真央はもう晩飯は食べたのか?」
「うん……父さまを待ってたんだけど……お腹がすいて……さっき食べちゃったの」
「いいさ。また明日からずっと一緒に食えるんだから」
 真央の頭にぽむと手を置き、撫でてやる。リビングへと移動すると、葛葉が温め直したおかずやらごはんやらが月彦の席の前へと置いている所だった。
「っと、今夜はハンバーグか。なんだか凄く懐かしいな…………みゃーこさんが泊まってた時以来かな? こいつぁ美味そうだ。いただきまーす」
 箸を取り、早速ハンバーグを切り分け、口へと運ぶ。美味い、さすがだと思う。自分でもそこそこのハンバーグが作ることは出来るが、葛葉のそれは別格だ。
「まだ焼いてあるのがいくつかあるから、欲しかったら言いなさいね」
「じゃあ、早速もう一個もらおうかな。……お腹減っちゃってハンバーグ一個じゃとても足りないよ」
 あらあら――葛葉は微笑を浮かべながら、タッパーに入れてある加熱処理済みのハンバーグを小皿へと移し、電子レンジへと入れる。真央はといえば、自室には戻らず、月彦の隣――本来の自分の席に座ったまま、じぃ、と意味深な目を向けてくる。
「どうした、真央。……旅の話が聞きたいのか?」
 こくこくと頷く真央。
「そうだなぁ、何から話したものか……………………そーだ、母さん! あの神社の石段のこと、知ってて黙ってただろ!」
「…………石段? なんのことかしら」
 きょとんと、台所に立ったまま、葛葉はふざけているように首を傾げる。
「父さま、石段って?」
「母さんに頼まれて行った神社がさ、三千段も石段を登った先にあったんだよ! 登るのに二時間以上かかって、息は苦しいし帰りは足がガクガクになるしで本当に大変だったんだ」
「三千段! すごーい!」
 ぶんぶんぶん!――椅子に座ったままの真央の尻尾が揺れるのを微かな振動と風の動きで感じる。
「…………私も行きたかったなぁ」
 真央のその呟きには、羨望と、葛葉に対する仄かな怨み。そして可能ならば次は自分も連れて行ってほしいという“甘え”が混じっていた。
「行くなら一人で行った方がいいわよ、真央ちゃん」
 葛葉は洗い物をしながら、そんなことを呟く。やはり母はあの神社のことを知っているのだと、月彦は確信した。“名物”のことも知っていたのだから当然といえば当然なのだが。
「……どうして一緒に行っちゃダメなの?」
「…………連れて行ってやりたいけどな、その石段の先にある神社っていうのが、縁切り神社なんだ。…………しかも、洒落になんないくらい御利益の強い神社なんだよこれが」
「縁切り神社……?」
「カップルで――いや、“男女”でお参りをすると、別れさせられちまうらしいんだ。丁度一緒にお参りをした人が、二時間も経たないうちに彼氏から電話がかかってきて別れ話されてたんだ」
「…………女の人と一緒にお参りしたの?」
 ゾクッ。
 普段と何ら変わらない筈の真央の口調。その裏に得体の知れぬ迫力を感じて、月彦は思わず箸を落としてしまう。
「……たまたま、参拝するときだけ一緒だっただけだ」
「じゃあ、どうして二時間経たないうちに彼氏から電話がかかってきたって解ったの?」
 ぶふっ――危うく口にしていたハンバーグを吹き出しかけて、慌てて口を押さえて止める。
 確かに真央の言う通りだった。月彦は己の発言の支離滅裂さに泣きたくなる。
「えーと……俺の言い方が悪かったな。その人とは、参拝のときにちょっと話をしただけで、彼氏から電話がかかってきてーっていう話もその時に聞いたんだ。ようは、“前の彼氏”と別れた時の話を聞かせてくれたんだな。んで、今の彼氏とも同じように穏便に別れたいからっていうことで、昨日改めて参拝に来てる人だったんだ」
「ふぅん……」
 真央は納得がいったのかいかないのか判断のつきにくい声を漏らして、それきり黙り込む。故に、うまく誤魔化しきれたのかも解らず、月彦は恐々としながら夕飯を食べねばならなかった。

「……ごちそうさま。ハンバーグすごく美味しかったよ」
「そんなこと言われると、また作ってあげたくなっちゃうわね」
「その時は、折角だからみゃーこさんも家に呼ぼうよ。みゃーこさん、ハンバーグ大好きだから」
「そうねぇ、都ちゃん一人でちゃんとやれてるのかしら」
「…………今度、俺が様子を見てくるよ」
 さすがに失踪――はしてないと思いたいが、確かにあの都がきちんと一人暮らしが出来ているのか気になるところだった。
「さて、と。じゃあ風呂に入ってこようかな」
「はい父さま。お着替えもってきたよ!」
「さんきゅ、真央。気が利いてるな」
「…………私も、もう一回入ろうかなぁ」
 そして甘えるような声で、すすすと真央も寄り添ってくる。
「……悪い、真央。今日は長旅でさすがに疲れてるから、一人でゆっくり入らせてくれ」
「うん……わかった。…………いっぱい石段登ったんだもんね、父さま、疲れてるよね……」
 しゅーんと耳と尻尾をしおれさせて、真央はとぼとぼとリビングを出て行く。そんな真央の後ろ姿に密かに心を痛めながら、月彦は脱衣所へと向かった。

 久しぶりの自宅の風呂は格別――ということはないが、やはり落ち着けるという意味では段違いだった。月彦はいつもより長めに浸かり、いい加減体が茹で上がりそうになったところで、湯船から上がる。
 リビングへと戻ると、丁度葛葉が洗い物と片付けを終えた所だった。エプロンを外し、畳もうとしている葛葉に、月彦は小さく声をかけた。
「あのさ、母さん…………優巳姉の携帯の番号って、解るかな?」



  廊下に置かれた電話機の前に立ち、月彦は考える。言うまでも無く電話機は地べたに直接置かれているわけではなく、電話機専用の棚の上に置かれているのだが、今の月彦にはその受話器は同じ体積の鉛よりも重く感じられる。
 受話器を手に持ち、思いとどまって置く。そんな動作を何度繰り返した事だろうか。
 まだ必要な手順の手前、いわば準備の準備の段階だというのに、それすらもためらいを禁じ得ない。
 自分が何故こんなことをしようとしているのか――月彦自身不思議で堪らなかった。そもそも深く考えてのことではない。一人で湯船に浸かっていて、ふと“やってみるか”という気になっただけだ。
 受話器を手に取りながら、自嘲気味に口元を歪めてしまう。我ながらなんと天の邪鬼なのだろうと思う。ナナに言われた時は、あれほどまでに嫌がり、血の上った頭で罵倒したというのに。
「……ナナさん」
 ふと、ナナの事を考える。旅先で偶然に出会った、土岐坂愛奈に縁のある女性。始まりはともかく、一緒に居て楽しいと思える女性だった。だからこそ、それが演技だったのかもしれないと解った時には無性に腹が立った。
 本当にそうだったのだろうか?――電車の中でさんざんに考えたその疑問はもはや無意味だと気づいた。今となっては、どちらであっても取り返しなどつかない。そして何よりも、月彦はナナとの会話で二人の間に走る決定的な溝に気がついてしまったのだ。
 溝――壁と言っても良い。それは“愛奈を許容できるか否か”という一つの境界線だ。ナナは許せる側に立っており、月彦はそちらに行くことは出来ない。そして紺崎月彦という男にとって、その価値観を共有できない相手とは決して相容れることが出来ないのだ。
 月彦は思い出す。バスルームでナナを抱き、前夜からの強行軍にさすがに精根尽き果て膝から崩れ落ち、意識を失いつつある中。同じく精根尽き果てたはずのナナが愛しい者でも抱きしめるようにしがみつきながら、呟き漏らしたその言葉は、愛奈の名ではなかっただろうか。
 結局の所、ナナは土岐坂愛奈に心底惚れ込み、そして忘れたいという思いが本当であったにしろ嘘であったにしろ、忘れることなど出来なかったのだろう。それどころか、“初恋の相手の好きな男”に抱かれながら、ナナ自身愛奈に抱かれることを夢想していたのかもしれない。ナナにその自覚があったのかどうかまでは定かではないが、“似たもの同士”という言葉を使ったことからして、愛奈の影を重ねていたことは間違いない。
 “深み”にハマる前に、気づいて良かったと心底思う。ナナが求めていたのは紺崎月彦ではなく、土岐坂愛奈の匂いを感じさせてくれる相手なのだと。
「…………。」
 深呼吸をする。電話機の隣にある、手書きの電話帳をめくると、葛葉が言った通り“く”の蘭に黒須優巳の携帯番号が書かれていた。
 震える指で、番号を一つずつプッシュする。相手が相手なだけに、夜更けだからとか、そういった遠慮は一切無かった。
 ガチャンッ。番号の半分ほど押したところで、思わず受話器を戻してしまう。
 やはりやめよう――心の中で、何者かがそう呼びかけてくる。そもそも一度は断ったことだ。心の傷を抉るような真似をして得られるものなどなにもないというのに、一体全体俺は何をしてるんだろうと、月彦は自嘲の笑みが止まらない。
 息切れがする。頭痛もだ。ただ優巳に電話をかけるというだけならば、ここまで体に負担はかからない。相変わらず苦手意識はあるが、少なくとも話をするくらいならば耐えられる。
 だが、愛奈は別だ。同じ姉妹でも、その苦手意識は天と地ほどの開きがある。かつてのトラウマ、双子姉妹に苛められた記憶ではどれも主犯は姉の愛奈だった。優巳はただその手伝い、或いは愛奈を焚きつける役。許しがたい相手ではあるが、幾度かの邂逅でその怨みも若干ながらも和らいでいる。
 受話器を持ち上げ、再度ボタンを押す。聞いた話では、愛奈は本来の実家に居るわけではなく、養子に出されたのだという。それも実家の面々ですら手を焼き扱いかねたが故の事実上の放逐という黒い噂もあるのだとか。念のため葛葉にも尋ねたが、さすがに養子先となる土岐坂家の連絡先までは知らないらしい。
 或いは、姉ならば知っているかもしれない。しかし、仮に知っていたとしても知らないと答えるのは明白だった。姉は、霧亜は、黒須姉妹と紺崎月彦が接触することを極端に避けようとするからだ。
 ならばと、月彦が見出したのが優巳の存在だ。双子の妹である優巳ならば、姉の愛奈の携帯の番号くらいは知っているはずだ。それに愛奈へ連絡したいという申し出を優巳が断るとも考え憎い。ベストな人選だ。
 問題は、愛奈との精神的距離に比例するようにわき上がる不快感、悪寒、震え、微熱、吐き気、腹痛に耐えられるかどうかだ。
 ナナの為――ではない。初恋の相手の影を別の男に重ねて、自分の気持ちを慰めるような女のために、こんな苦行は行わない。しかし、旅行先で偶然知り合い、共に艱難辛苦を乗り越えた女性の為なら、自分の心ない言葉で傷つけてしまったかもしれない、本当の名すら知らない女性の為なら、動いてみようかという気にもなる。
 贖罪などというつもりはない。あくまでそうしてみようかという気がしただけだ。
 脂汗を流しながら、震える指で数字の書かれたボタンを押し込む。あと二つ。あと一つ――やっとの事でメモされちえる優巳の番号を押し終える。
 程なく、呼び出し音が聞こえてくる。一回、二回――。
『はい、もしも――』
 受話器の向こうから優巳の声が聞こえた途端、月彦は反射的に受話器を置いてしまった。置いた後で、俺は何をやってるんだと嘆く。
(……意気地無しにも程がある)
 自分で自分を笑いたくなるとはこの事だった。如何にあの悪魔が恐ろしいとはいえ、その連絡先を尋ねることすら出来ないのか。月彦は両頬にビンタをして気合いを入れ直す。
「うわっ」
 気合いを入れたのもつかの間。今度は家の電話が鳴り出して、月彦は情けない声と共に尻餅をついてしまう。表示されている電話番号は、優巳の携帯のものだった。恐らく今の通話を不審がり、着信履歴を見てかけ直してきたのだろう。
 ここで無視をするわけにはいかない。月彦は意を決して立ち上がり、受話器を取る。
「……もしもし」
『ヒーくん?!』
 驚いたような優巳の声。手のひらに汗が滲む――大丈夫、まだ大丈夫だ。
『びっくりした……てっきりおばさんだと思ってたから……どうしたの? こんな時間に』
 意外にも元気そうな優巳の声に、月彦は奇妙な安堵をする。そういえば、前回優巳と会ったのは霧亜の退院が伸びた時で、さんざんに脅しをかけてやって以来だということを思い出す。
(…………なんだか人が変わったように大人しくなってたから、気にはなってたんだよな。元気そうならなにより――……なのか?)
 いや、安堵してはいけない。霧亜は否定したが、霧亜を突き落とした実行犯は優巳なのだ。とぼけた声を出しておきながら、頭の中ではあざ笑っている――こいつらはそういうやつらなのだと思い直す。
 手短に、用件だけを言おう――そう思い、切りだそうとするが、舌が巧く動かない。
『ヒーくん? もしもーし』
 沈黙を不審に思ったのか、優巳がそんな声を出す。今だ、言うんだ、言うしかない――月彦はカラカラに渇いた唇を舌先で舐め、用件を切り出そうとするが、それは声にならない喘ぎにしかならない。
『あれ、また切れちゃったのかな? ヒーくん、聞こえてるなら返事してー』
「聞こえてる」
 どうにかそれだけを言うも、月彦は目眩を覚えて壁に肩をすりつけるようにして寄りかかる。
 我ながらひどいザマだと思わざるを得ない。本人を前にしたわけでもない。声を聞いたわけでもない。ただ連絡先を聞こうとしただけで、このていたらくなのだから。
『んもう、どうしたっていうのさ。…………あっ、ひょっとして…………デートのお誘いとか?』
 優巳の茶化すような言い方にふざけるなと怒鳴りつけたくなる。が、そんな事を言ったところで事態は一ミリも先には進まない。月彦は何度も深呼吸を繰り返す。
「あの、さ」
『うん?』
「あ――」
『あ?』
「あ、あい……」
『ああい?』
 はあっ、はあっ、はあっ――心臓が不自然な鼓動を繰り返し、息切れが酷くなる。手足の先が痺れるのは、過呼吸のせいだろうか。
 目眩も酷い。頭痛もする。熱まで出てきたのか、頭がぼーっとし、腹までグルグルと痛み始める。脂汗が滲み、手のひらは汗ばみ、両足は震え、鏡がないから確認は出来ないが、きっと顔色も真っ青になっていることだろう。
『…………ひょっとして……愛奈に用事?』

 キーーーーーーン………………優巳の言葉は、そんな耳鳴りの中にかき消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「キャハハハハハハハハッッッ!!!!!」
「キャッハハハハハハ!!!」
 二人分の笑い声が聞こえた。忘れもしない、黒須姉妹の声だ。
「うわー、ヒーくんホント女の子の格好が似合うねぇ。本物の女の子みたい」
「すごいすごーい! はくしゅー!」
 薄暗い場所。そう、ここは黒須家の庭にある蔵の中だ。黒須姉妹はその蔵の鍵を持ち出し、“じっけんしつ”と名付けて、悪逆非道の限りを行っていた。
「あぁんっ……ヒーくんちょー可愛い…………はぁはぁはぁ…………」
 目の前に立ち、息を荒げている黒と白のゴシックロリータ調のフリルつきワンピースを身にまとっているのは忘れもしない、黒須愛奈。
「アイナったら、ヒーくんの事になるとすぐハァハァ言い出すんだから。……ほーら、ヒーくんのパンチラだよー?」
 そして背後に立ち、逃亡を阻止するかのように両肩を掴んでいるのが――視界の外にいるが、確かめるまでもない――姉と同じ服に身を包んだ、黒須優巳。
 ばさっ、と。背後に立つ優巳にスカートがまくられる。それを見て、目の前に立つ愛奈がキャアと悲鳴を上げ、両手で顔面を覆う――が、その実。指の合間からしっかりと見ているから、顔を隠したのはただのポーズだ。
「や、やめてよぉ…………姉ちゃんの所に帰らせて……」
「だーめ。キーちゃんは今パパ達の手伝いで忙しいの。…………だから私たちがヒーくんの面倒を見てあげるの」
「くひひ。巧くいったね、アイナ。キーちゃんってば、今頃ヒーくんのこと心配でオロオロしてるよきっと」
「いっつも私とヒーくんの間に割り込んで邪魔ばっかりする天罰だよ。…………ヒーくんだってあんな女のこと、本当は嫌いなんでしょ?」
「……っっ……」
「嫌い、でしょ?」
「嫌いって言いなよー。……アイナを怒らせると怖いって解ってるでしょー?」
 また“死んだキリギリスごっこ”したい?――そんな囁きに、月彦の恐怖は頂点に達した。
「ひぃぃぃぃぃぃぃっっ!! ね、姉ちゃんのこと…………きらい、です……」
「だよねー、……じゃあ私のことは?」
 大きく頷きながら、愛奈が詰め寄ってくる。
「す、好き……です……」
「きゃーっ、言っちゃった! よかったねー、アイナ。両想いじゃん」
「私も大好きだよ、ヒーくんのこと」
 さらに一歩、もう一歩、愛奈は近づいてくる。七才と四才、身長は頭一つ分は相手の方が大きい。
「ヒーくんは私のことが好き。私もヒーくんのことが好き。二人は大人になったらケッコンするんだよ、何があっても」
 何があっても。その一言に身震いするほどの強制力を感じる。さらに無理矢理に小指を絡ませられ、指切りをさせられる。
「私それ知ってる! イイナズケっていうんだよ?」
「ユミは物知りだね。…………じゃあ、ヒーくんと私は今日からイイナズケだね?」
「……っ…………」
「返事は?」
「う、うん……」
「………………なーんか、イヤイヤ言わされてるっぽい感じ?」
 背後で両肩を押さえつけるようにつかんでいる優巳が言うや、月彦はぶんぶんと凄まじい勢いで首を振る。
「す、好き……です…………ぼ、ぼく……アイ姉ちゃんとけ、ケッコン、したい!」
「あぁぁぁんっ…………ヒーくぅん…………大好き!」
 愛奈は飛びつくように抱きついてきて、そのまま唇を重ねてくる。
「んっ、んっ……」
 チュッ、チュッ、と唇を吸われるのを、月彦はされるがままに耐える。下手な抵抗をして二人の怒りを買えば恐ろしい事になると知っているからだ。
「わぁーーーっ、わぁーーーーーっ……アイナってば大胆…………いいなぁ……私もキーちゃんとそういうのシたいなぁ」
「んっ、ちゅっ…………あんな女とキスしたいだなんて、ユミってば、趣味悪すぎ……ねー、ヒーくん。……ちゅっ、ちゅっ」
「えぇー、いいじゃん。……キーちゃんを動けないように縛ってさ、嫌がる顔を舐め回したり、おなか蹴ったり、楽しそうって思わない?」
「……どうせ縛るなら、そんなんじゃなくってパンツ脱がしちゃおうよ。そんでお尻丸出しの写真撮っちゃうの」
「わぁー、アイナのほうが趣味悪いよぉ……でも、お尻丸出しの写真とられて悔しそうにしてるキーちゃん……ちょっとイイかも……」
「それに、お腹蹴るなら、その前にいっぱい水飲ませてやろうよ。あの女が鼻水垂らしながらげぇげぇ吐いてなくところなんて、想像しただけで興奮してきちゃう」
「いいねいいね、それすっごくやりたい! はぁはぁ……キーちゃんが、いっつもつんって澄ました顔してるキーちゃんが鼻水垂らしながら吐いてるところなんて……全然想像も出来ないよ……見てみたいよぉ……」
 耳の後ろで、ハァハァと優巳が息を荒げているのが解る。同様にキスを繰り返している愛奈もまた、興奮しているのか顔が赤い。
「その後は首に縄つけてさ、スカートとパンツ脱がしたままそこら中引きずり回してやろうよ。そんでそんで泥まみれにしてやって、最後におしっこかけてやるの!」
「ええええっ……キーちゃんに、おしっこかけちゃうの?」
 背後から聞こえる優巳の声は、興奮に震えていた。同時に、月彦は眼前の悪魔がさらに口元を歪めるのを見た。
「……それもさ、私たちだけじゃなくて、ヒーくんにもかけられたら、いくらあの女でも泣いちゃうと思わない?」
「きゃーーーーっ! きゃーーーーーっ! アイナったらひっどぉーい! どうしてそんなにワクワクするアイディアがぽんぽん出せるの? もぉ、双子なのに私嫉妬しちゃう! すごいよアイナ、天才だよ!」
 ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、優巳が声を上げる。そして二人のテンションにただ一人、全くついて行けない月彦の耳元で、ぼそりと。
「……ほーんと、アイナにだけは嫌われたくないよね。ヒーくんだってそう思うでしょ?」
 同意を求めるように、優巳に肩を揺さぶられる。……そして、月彦は頷いた。頷いてしまった。
「ふふふ、ほら……ヒーくん、もっとチューしよ? あの女が居ない時しか出来ないんだし」
「わぁぁ、アイナってば舌まで使ってるし…………ひょっとして、勃っちゃってるんじゃない?」
 優巳の言葉にハッとしたように、愛奈は唐突にキスを中断し、離れる。
「あ、図星なんだー」
「だ、だって……ヒーくんとチューしてるんだもん…………どうしてもおっきくなっちゃうよ……」
 愛奈はキスを中断し、一歩、二歩と後じさりをする。そしてスカートの上から股間の辺りを抑え、もじもじと太ももをすりあわせる。
「…………ねえアイナ、折角だからさ、今日はヒーくんに鎮めてもらおうよ」
「そんな…………ヒーくんにだなんて…………ダメだよぉ……恥ずかし過ぎるよぉ!」
「いいじゃん。二人はケッコンするんだし。イイナズケなら、ちょっとエッチなことするくらいあたりまえだよ」
 優巳に肩を押さえつけられ、板張りの床の上に強引に膝をつけさせられる。
「あぁん、でもでも…………やっぱり恥ずかしいよぉぉ……」
「じゃあさ、ヒーくんに目隠ししてもらおうよ」
 そう言って、優巳は自分の髪をくくっているリボンを取る。それがはらりと頭に巻かれ、視界は真っ暗になる。
「ほら、これでもう恥ずかしくないよ、アイナ」
「……ユミのばかぁ。…………これ見せるの……ホントに恥ずかしいんだよ……?」
「だから目隠しさせたじゃない。ほらほら、早く脱いでよアイナぁ」
 衣擦れの音。背後できゃあきゃあと囃し立てるような声が聞こえる。
「ほらほらアイナ、スカート持ち上げて見せて? わぁーーーわぁーーー! アイナってば顔真っ赤になっちゃってるーーーー!」
「や、止めて! それ以上言ったらユミでも怒るからね!」
「ほらほらヒーくん、手を伸ばして。優しく掴んであげて?」
 言われるままに、右手を暗闇の中へと伸ばす。背後で小刻みに「もっと右」とか「もうちょっと下」といった指示が聞こえ、恐怖に怯えながらも従わざるを得ない。
 そして、等々手が“それ”に触れる。暗闇の中で触れる“それ”は想像よりも遙かに大きく、太く、凶悪なものに感じられた。
「あんっ……もっと、優しく触ってよぉ……」
「ヒーくん、思い切り握っちゃダメだよ。アイナ、すっごく敏感なんだから。……ゆっくり、上下に優しく擦ってあげて?」
 優巳に言われるままに、上下にやさしく擦る。
「あっ、あっ、あっ」
「わぁーーーーーアイナの目、すっごいうるうるしちゃってる……気持ちいい? アイナ気持ちいいの?」
「う、うん…………すっごく、気持ちいい…………」
 はあはあという荒い息が背後からも、前からも聞こえる。右手で握っている“それ”も時折喜んでいるように、ピクピクと反応を返してくる。
「ねえねえ、私がしてあげるのとどっちがいい? どっちが気持ちいい? アイナ答えて!」
「ユミにされるのもイイけど……ヒーくんの方がイイ…………ヒーくんの方が気持ちいいよぉ……」
 きゃっはー!そんな雄叫びにも似た声が背後から聞こえる。
「わぁぁ……アイナったら自分で腰を動かしてる…………えっちぃんだぁ」
「だ、だって……勝手に動くんだもん…………あんっ」
「じゃあさ、今度はヒーくんにぺろぺろしてもらおうよ!」
「だ、だめだよぉ…………ヒーくんにそんなことされたら……私、気持ち良すぎて失神しちゃうよぉ」
「見たい見たーい! ヒーくんにおちんちん舐められてキゼツするアイナ見てみたーい! ねっ、ねっ、ヒーくんだって見たいでしょ? あっ、目隠ししてるから見れないんだっけ、キャハハ!」
 背後に立つ優巳の手が、後頭部に添えられ、ぐぐぐと前へと押される。
「ほらぁ、ヒーくん口開けて? アイナはね、手でされるより口でされるほうがスキなんだよ? いつもは私がしてあげてるんだけど、今日は特別にヒーくんにもさせてあげる」
「く、口で………………い、イヤ、だよ……それは……それだけは、やめて……」
 だあめ。これ以上ないというほどに悪意の籠もった、優巳の声。
「アイナ。アイナもヒーくんに口でシて欲しいでしょ?」
「………………うん……ヒーくんに、シて欲しい…………」
「ほら、アイナもああ言ってる。 ヒーくんはアイナのイイナズケだから、アイナを気持ち良くしてあげるギムがあるんだよ?」
「で、でも……」
「…………優しく言ってるうちに言う事聞いたほうがいいよー?」
「ひっ……」
 優巳の声に、電撃のような恐怖が走る。反射的に、口を開けてしまう。床の微かなきしみは愛奈の足音だ。右手に持っている“それ”が、徐々に口へと近づいてくる……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『おーーーーい、もしもーーーし。ひーーーくーーーん?』
 耳鳴りが治まった所に、飛び込んでくる優巳の声。
「……うぷっ」
 次の瞬間には、強烈な吐き気を感じて、月彦は口元を抑えていた。
「……悪い、優巳姉。今の電話は忘れてくれ」
『えっ、えっ? ちょっ、ヒー――』
 ガシャンとと叩きつけるように受話器を置き、トイレへと駆け込む。
「うげぇぇえええっ……!」
 先ほどの夕食で食べたものを全て便器へとぶちまけ、流水レバーを倒す。さらに吐き、流す。
「うげぇっ……」
 胃がひっくり返るような吐き気――だが、もはや何も出て来ない。ぜえぜえと呼吸を整え、ふらりとトイレを後にする。電話機からはひっきりなしに呼び出し音が鳴っており、月彦は苛立ちまぎれに電話線を引っこ抜く。
「………………ッ……」
 そのまま、その場に膝を突く。電話線を握った手の震えが止まらない。我ながらなんてザマだと笑いすらこみ上げてくる。まるで、全身の細胞が一つ残らず土岐坂愛奈という女を拒絶しているかのようだった。
(……ナナ、さん)
 試みは、不可能だと悟る。目を瞑り、深呼吸。くっ、と歯を食いしばりながら辛くも立ち上がる。そのまま壁沿いにもたれ掛かるように階段を上がり、自室へと向かう。
「父さま、どうしたの?」
「……どうもしない」
 部屋に入るなり、真央がぎょっと目を見開いた。よほど顔色が悪かったのだろうが、月彦はその理由について口にする気はなかった。殆ど膝から崩れ落ちるように、ベッドへと腰掛ける。
 父親の憔悴しきった様子に、真央は理由を尋ねたそうにソワソワしていたが、「どうもしない」と言い切られた手前、聞くに聞けず、なんとももどかしそうな顔をしていた。
 そんな真央を見るに忍びなくて――話を逸らす意味でも――月彦は机の上へと目をやった。
「そういや真央。あの机の上のゴミはどうしたんだ?」
「あっ、あれはね……………………母さまが…………」
「真狐が……捨てていったのか?」
「うん……」
「ったく、アイツは……」
 月彦は重い腰を上げ、机の上に散乱している大量の紙くずの一つを手に取る。
「なんだこれ……宝くじ……か?」
「あのね、ほら……父さまが出かける前に、母さまに宝くじ買ったって言ったでしょ?」
「……そういや言ったな」
「丁度父さまが出掛けた後くらいから、母さまがいろんな宝くじをいっぱい買ってきて、先に当てて見せびらかしてやるーって……」
「………………あの時言ってた“急用”って、そのことだったのか」
 月彦は多種多様なくじを拾い上げては、その内容を確認する。どうやら真狐が買ってきた宝くじというのは、大半がスクラッチ形式のものらしい。つまり、すぐに結果が解る類いのものばかりを買ってきたということなのだろう。
「でも、ちっとも当たらなくって……今日の夕方、最後のくじもダメで、怒って帰っちゃったの」
「…………アイツ……いったいいくら使ったんだ……」
 机の上に散乱しているクジの数はざっと見ただけでも百枚や二百枚では済まなそうな枚数だった。
「…………“遊園地”で集めたお金全部使ったって言ってた」
「……………………まあ葉っぱの金とかじゃなくて、一応なりとも自分で稼いだ金を使って散財したんだったら、そこだけは褒めてやるか」
 ため息混じりに、月彦は机の前の椅子へと腰掛ける。机のすぐ脇にゴミ箱はあるのだが、見るとそちらも既に紙くずで溢れかえっていた。見れば、紙くずはどれもこれも必ず半分以下にちぎられており、まったく当たらないくじに苛立ちながらちぎっているあの性悪狐の顔が目に浮かぶようだった。
「………………。」
「ご、ごめんなさい……父さま。父さまが帰ってくる前に片付けようと思ってたんだけど……」
 恐らくは、溢れかえったゴミ箱と机の上に散乱した紙くずを見て、父親が機嫌を損ねているとでも思ったのだろう。真央の声は恐々としていた。
 が、実際に月彦の心を満たしていたのは、そういった苛立ちとは全く逆の感情だった。
 そう、自分という人間の情けなさ、その感情のままならなさを鏡と向かうが如くまざまざと見せつけられ、気分的には最悪に近いというのに。狐の母娘がせっせと二人がかりでくじの当落をチェックしている様を想像するだけで、思わず笑いがこみ上げてきそうになるのだった。
「………………よし、とりあえず、寝る前に二人でこのゴミをかたづけるか。真央、母さんから大きめのゴミ袋もらってきてくれるか?」
「うん!」
 語気から、父親が気分を切り替えたのを察したのだろう。真央は元気よく部屋から飛び出すと、階下へと降りていった。そんな真央を見送って、徐に視線を机の上にこんもりと盛られた紙くずの山へと移す。
(…………………………今度、アイツが来たら……茶くらい出してやるか)
 そんな気まぐれを起こした自分に自嘲気味に笑いながら、月彦はやれやれとため息をつくのだった。


 

 

 

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