「やあ、白石君。温泉は好きかい?」
「温泉?」
 級友、倉場佐由からの唐突な質問に、妙子はオウム返しに尋ね返した。誰しも憂鬱に迎える月曜日の朝、自分の席に着席するなりのことだった。
「……条件付きで好きだけど……それがどうかしたの?」
「いや、何。こっちの話だ。…………おーい、英理! 白石君も参加するそうだ」
 くるりと踵を返すなり、英理の方へと手を振りながら歩み去って行く佐由の言葉にただならぬ気配を感じて、妙子は慌てて席を立った。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! 一体全体何の話をしてるのよ!」
「おっと、乱暴はよしたまえ」
 ぐいと、肩を掴んでいる妙子の手を、佐由は優しく払いのける。
「にゃ、たゆりんも温泉旅行行くにゃり? やったー!」
「おんせんりょこお!?……ちょっと、佐由! ちゃんと説明しなさい!」
「いやなに、ちょっとしたツテで期限切れ間近の旅行クーポン券が手に入ったものでね。折角だから、今度の連休にでも温泉旅行としゃれ込もうと、それだけの話なんだ」
「それに、どうして私が付き合うことになってるのよ!」
「温泉は好きだと言ったじゃないか」
「行くとは一言も言ってないでしょ!」
「しかし行かないとも言ってないぞ?」
「……とにかく、私は行かないから。行きたいならあんた達二人だけで行ってきなさいよ」
 話はそれだけだと言わんばかりに、妙子は手をふりつつ席へと戻る。
「しかしだね、白石君」
「にゃ」
 そんな妙子の机を、当然のように二人が挟んで立つ。
「そのクーポン券なのだが、丁度三人分あるんだ」
「……で?」
「正確に言えば、“三人まで無料”な券なんだ。それをたった二人で使うなんて馬鹿げていると思わないか?」
「別に、いいんじゃない。二人だからって損するわけでもないんだし」
「にゃ。たゆりんと一緒に行きたいにゃり!」
「私も出来れば白石君と共に行きたいと望んでいるのだが」
「イヤだって言ってるでしょ。……だいたい、三人までなら丁度いいじゃない。ほら、いつもあんたたち二人が祭り上げてるナントカって先輩と三人で行ってくれば?」
「打診はしたのだが、連休はフルでバイトが入っているらしくてね」
「ムリムリにゃりよ。だからたゆりん、一緒にいこー?」
「イ、ヤ、よ、ってなんべん言わせるの?」
 言葉に、怒気すら孕ませる。そんな妙子の気迫に押される形で、佐由も英理もやれやれというような顔をして自分の席へと戻っていった。
 程なく予鈴が鳴り、担任がやってきてHRが始まった。この件はこれで終わりだと、妙子は思い込んでいた。
 
 

 

 

 

 

キツネツキ 特別編

『ナギリの宿・裏編』

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 


「……ところで、朝の件だが」
 佐由が再び切り出してきたのは、昼食時。学食で丸テーブルを三人で囲んでいる時だった。いつも通りのラジオの話題の後に、巧妙に滑り込ませる形で、佐由は質問を続けた。
「差し支えなければ、どうして参加したくないのかを聞かせてもらえないだろうか」
「…………別に、理由なんて何でもいいじゃない。行きたくないものは行きたくないの」
「にゃー……。たゆりん、温泉嫌いにゃり?」
「いや、温泉は嫌いではないらしい。……ということは?」
「うちらと一緒なのがイヤにゃり?」
「…………そうじゃないわ」
 ここで黙秘ないし、肯定ととられるような態度を示すことは、佐由や英理に失礼すぎると思い、妙子はやむなく否定した。
「わかったわよ。白状するわよ。………………温泉は嫌いじゃないわ。だけどそれは、自分一人だけで入る場合に限るの。他人と一緒に入るのがイヤなの」
「…………。」
「…………。」
 二人が、きょとんと目を丸くし、そして見合わせる。あぁ、この空気がイヤだから言いたくなかったのに――妙子は露骨に二人から視線を逸らす。
「…………まぁ、そういう事情なら仕方ないか」
「……にゃ。」
 そして、それ以上深く追求してこない二人の気遣いが心苦しいと感じる。無意識のうちに、妙子は拳を握っていた。
(そんな風に、気を遣わせたくない、から……)
 だから、にべもなく断ったというのに。妙子が一人ばつの悪い思いに歯噛みしていると、視界の外からいやに明るい声が聞こえた。
「ということは、だ。白石君。君は旅行そのものには反対ではないと、そういうことかな?」
「はぁ!?」
「にゃ。温泉さえ入らなければ、一緒に旅行出来るにゃり!」
「そういうことだな」
 うむりと、佐由が腕組みをしながら頷く。
「ちょっと待って! “温泉旅行”なんでしょ!? 温泉に入るために旅行に行くんじゃなかったの!?」
「もちろん温泉に入るというのも目的の一つさ。しかし、それはあくまでオマケのようなものなのだよ」
「なのだよー!」
「…………あんたたち、一体何しにいく気なの?」
「なに、そう大げさなものでもない、ただの観光さ。……白石君は名切神社という地名を聞いたことあるかい?」
「ない、けど……有名なの?」
「うちもさゆりんに聞くまで知らなかったにゃり。すっごいところにあるお寺にゃり!」
「寺じゃなく神社、だ。“名切神社”だと言っただろう?」
「えへへ、寺と神社って似てるにゃり」
 英理は毛糸の帽子をぽりぽり掻きながら、ぺろりと舌を出す。
「で、その神社がどうかしたの?」
「うむ。それなのだが……なんと!」
「なんと!」
「なんと?」
「3000段もの石段を登った先にある神社なのだ!」
「のだー!」
「……ふーん。………………で、それがどうかしたの?」
 一瞬の間。学食内の喧噪がいやに騒がしく聞こえるその“間”を破ったのは佐由だった。
「三千段だぞ、白石君! 君はそんな石段を登ったことがあるのかい?」
「ないけど……」
「……登ってみたいと、思わないかい?」
「べつに……」
 興味はないと、妙子は露骨に冷めた目で返す。折角の連休に、何故そんな疲れる真似をしなければいけないのか。
「あんたたちは登りたいの?」
「いや、正直私はそれほどでもない。一度くらいは登ってみるのも悪くはないか、という程度だ」
「にゃ! 絶対登るにゃり!」
 妙子ほどではないにしろ、微妙に冷めた返事の佐由に対して、意外にも英理の方が両目から炎を立ち上らせんばかりの勢いで返してくる。
「三千段の石段で、絶対に痩せてみせるにゃりよ!」
「……だ、そうだ」
 佐由は苦笑して、続ける。
「正直、私は温泉さえ入れれば何処の旅館でも良かったのだが、英理の希望によって、名切神社の麓の旅館に決まったようなものなんだ」
「ふーん……ま、いいんじゃない? さすがに三千段も上って下りれば、痩せるでしょ」
 一時的には――その一言だけは、心の中で呟く。いたずらに人のやる気に水を差すのは本意ではないからだ。
「でも、悪いけど私はそういうのあんまり興味ないから。疲れそうだし、やっぱり行かないわ」
「やれやれ……君もなかなかに強情だな、白石君。でも、君のそういうつれないところが私は嫌いではないよ」
「私はあんたたちのそういうしつこいところが結構嫌いだけど」
「これは手厳しい」
 佐由は苦笑し、そしてころりと話題を変えた。
「ときに、白石君。…………“彼氏”とは最近どんな案配かな?」
「はぁ? 悪いけど、一体誰のことを言ってるのかさっぱりわからないわ」
 “彼氏”なんか居ないと、妙子は言外に、威圧すら含めるように言う。が、佐由はまったく気にもしない様子で会話を続ける。
「男っ気のない身としては、羨ましい限りだよ。そういうつれない態度をとりつづけても追いかけてくれる男子がいるというのは。……秘訣があるなら教えてほしいくらいだ」
 何を馬鹿なことをと、妙子は思わずにはいられない。この倉場佐由という女と知り合って、ただの一度も「彼氏が欲しい」といったニュアンスの言葉など聞いた試しがない。男と一緒になるくらいならトランジスタラジオと一緒にヴァージンロードを歩きたいと本気の目で語るような女が言うことかと。
 片腹痛いと思いつつも、妙子は返さずにはいられない。
「彼氏なんか居ない。何度も同じことを言わせないで」
「でもでも、ぴこりんとたゆりん、お似合――」
「似合ってない!」
 だんっ!
 思わず両手の拳をテーブルに叩きつけてしまい、ザワついていた学食内が一瞬で静寂に包まれた。周囲の視線が刺さるのを感じながら、妙子は静かに下を向き、顔を赤くする。
 程なく、学食内に喧噪が戻るのを見計らって、佐由が話を再開させた。
「気を悪くしたなら謝るよ。……つまり、白石君はこう言いたいのかな。紺崎君とはあくまで幼なじみなだけで、彼氏彼女という特別な関係ではないと」
「言いたいのかなもなにも、私は今までずっとそう説明してきたはずだけど?」
「……口ではなんとでも言えるからね」
「なーに? 佐由、あんた私にケンカを売りたいの?」
「怖いな、そう睨まないでくれ。……私はただ、君が“本当は好きだけど、嫌いなフリ”をしている可能性も否定できないと言いたいだけさ」
「あんたたち二人の目の前で、あのバカをブン殴ってやれば証明になるかしら?」
 頭に血が登っていることもあり、妙子もつい挑戦的な言葉を返してしまう。もし仮に冷静なままであれば、佐由が微かに口の端をつり上げた事に気がついたかもしれない。
「そんなのは、後で紺崎君に謝れば済む話さ。なんの証明にもならない」
「そこまで言うなら、一体何をすればその証明になるのか、あんたは知ってるのよね?」
「もちろんだとも」
 佐由は大きく頷く。
「神様に誓うんだ」
「神様?」
「とある神社に、縁切りで有名な神様が祭られているんだ。その神社に参って、紺崎君との縁切りを願うなら、白石君の言い分を信じようじゃないか」
「バカみたい。……何を言うかと思えば……それこそ何の証明にもならないじゃない」
「おや、怖いのかい?」
「怖いなんて言ってないでしょ。そんなのじゃ何の証明にもならないって言ってるの」
「なるさ。少なくとも、私たちは信じるよ。……なぁ、英理?」
「にゃ? うん! たゆりんがちゃんと神様に誓ったら、信じるにゃり!」
「バッカじゃないの?」
 半ば本気で、妙子は思った。紺崎月彦との縁切りを、神様に誓えというこの二人の申し出を、心底馬鹿馬鹿しいと思った。
(……ばかばかしいけど、それで金輪際、この二人にからかわれなくなるなら……)
 その案にのってやるのもアリかとも、思い始めていた。
「………………………………いいわ。馬鹿馬鹿しいけど、あんたたちの案に乗ってあげようじゃない」
「おお! 本当かい?」
「その代わり、私がちゃんと誓ったら、金輪際私の前であのロクデナシの話はしないこと。いーい?」
「解った、誓おう」
「誓うにゃり」
 佐由と英理は目を合わせ、頷き合う。
「……で、その縁切りの神様ってのはどこに居るの?」
 妙子の言葉に、きらりと。それこそその言葉を待ってましたと言わんばかりに、佐由のメガネが光を放った。
「名切神社さ。……おや、奇遇だね。これで白石君も名切神社に行く用事が出来たというわけだ」

 こうして、妙子の連休の予定は二泊三日の温泉旅行に決まったのだった。



 ひょっとしたら――否、ひょっとしなくても、自分はハメられたのだろう。妙子はそのことを自覚していた。自覚して尚、あえてその罠にかかってやろうと思った。ここで引き下がるのは、なにやら負けたような気にさせられるからだ。
 週末の三連休は佐由、英理と共に温泉旅行に赴くことに決まった。そのことについて、妙子は一番の親友である千夏に話したものか迷い、迷った挙げ句――話さないことに決めた。
 深い理由は無い。ただなんとなく、別にわざわざ言うほどのことでも無いかと思っただけだ。それでも、あえて理由を捜すならば、あのカンの鋭い千夏によもや旅行の目的を感づかれはしないかと危惧したというのは、ある。
(……私があんまり旅行とか好きじゃないの、千夏ならよく知ってるはずだし……)
『妙ちゃんのことやから、また巧いこと乗せられたんとちがうー?』――にへら顔でそう言う幼なじみの顔が目に浮かぶようだった。実際その通りであるだけに、千夏にそう問い詰められた場合どう弁明すればいいのか、妙子には全く解らなかった。
 ともあれ、渋々承諾した旅行ではあったが、まったく楽しみでないと言ったら、それも嘘になってしまう。そもそも、毛ほども行きたいと思っていなければ、たとえどんなに巧く乗せられようとも最終的には断っただろう。多少なりとも、この二人とならと思っていたればこそ「まあ、そこまで一緒に行きたいっていうなら……」という気分にもなるというものだった。
 旅行の計画は、言い出しっぺの佐由が全面的に引き受ける形になった。翌日には当日の集合場所と時間と合流の方法。そして準備しておいた方が良い物等々がまとめられたメモが佐由の手によって作られ、配られた。最初はまったく乗り気でなかった妙子だが、週末が近づくにつれて徐々にではあるが仄かな胸の高鳴りすら自覚するようになった。そうなってくると、今度は少しだけ旅行に行くのが待ち遠しくなってくるのだから困ったものだった。
 放課後には、佐由らと一緒に、細々とした身の回りの物などの買い出しに行き、出発の前日である金曜日の夜には、既にキャリーバッグに荷物も詰め終え、準備は万端になっていた。あとは寝坊さえしなければ、何の問題もなく旅行に行けるはずだった。
 ただ一つ。一つだけ、さながら心に刺さる棘のように、ちくちくと無視出来ぬ痛みにも似た信号を発する“何か”。それは佐由たちに半ば騙される形で旅行の約束をして以来、昼夜問わずさながら頭痛の種の如く妙子を不快にさせつづけているものだった。その正体が何なのかについては、妙子はあえて考えないようにしていた。考えて、正体を突き止めればより不愉快な思いをしそうな予感から、どうにか忘れることでその苦痛から逃れようと試みた。
 しかし、旅行の前夜。そして明けて出発の朝となっても、妙子はその苦痛から解放されることはなかった。



 聞き慣れた電子音によって、妙子の意識は覚醒した。もぞりと、寝返りを打ち、なによりもまずは部屋の明かりをつけるべく枕元に置いてある室内灯用のリモコンを掴み、スイッチを入れる。
 ぱっ、と。瞼越しですら軽く痛みを感じるほどの強烈な光に、俄に眠気が薄れるのを感じる。その光から逃れるように布団に潜ってしまいたい誘惑を堪えつつ、今度は目覚まし時計のアラームを止める。先にアラームを止めないのは、そのまま眠ってしまう“事故”を避ける為だ。
 目覚まし時計は、愛用のコンセント式のもの。以前一度だけ目覚まし時計が電池切れを起こしていて、危うく遅刻をしそうになったことがあった。幸い、まだ父親と同居をしていた時だった為、“しそうになった”だけで済んだのだが、それ以降妙子はこのコンセント式の目覚まし時計を愛用していた。停電の際にも内臓バッテリーである程度の稼働時間が保証されており、さらに妙子は機械的な故障によって作動しない万が一の場合を考え、その場合の保険として携帯のアラームを保険としてセットしてもいた。
 とにもかくにも、旅行の当日、妙子は無事起床することが出来た。時刻は午前四時。布団から出ると、思わず悲鳴が出そうなほどに、部屋の中は冷え切っていた。エアコンのスイッチを入れ、布団を畳み、押し入れへと片付け、眠気覚ましも兼ねて熱いシャワーを浴びる。シャワーを終えて戻る頃には、部屋はほどよく暖まっていた。
 セットしておいた携帯のアラームを解除し、昨夜のうちに買っておいた菓子パンとコーヒー牛乳で簡単に朝食をとった後、身だしなみを整え着替えを済ませ、最後にもう一度キャリーバッグの中身を確認する。不備が無いことを確かめてからエアコンを切り、明かりを消し、戸締まりを確認した上で、アパートの部屋を出る。
 部屋を出るなり、布団から出た時とは比べものにならぬ寒気に身が縮むような錯覚すら感じる。愛用の白のダウンジャケットのジッパーを限界まで上げ、さらにマフラーに首を埋めるようにしながら、妙子は最後の戸締まり――施錠をする。
 “寒い”であろうことは、重々予想していた。故に、下は普段買い物に行く時などに穿くジーンズではなく、裏起毛の紺のレギンスパンツを穿いてきたのもそれ故だ。しかしそれでも尚防ぎきれぬ寒気に、何故よりにもよってこんな時間に集合を決めたのかと。佐由に対して怒りにも似た感情が沸く。
 左手首の腕時計へと視線を落とす。時刻は四時半。佐由の決めた旅行計画書によると、集合は最寄り駅のホームに五時となっている。但しこれは妙子の場合であり、英理と佐由の方はそれよりさらに早い時間に二人の自宅付近の駅で合流し、五時二分着の電車に乗って来ることになっている。妙子が時間までにホームに到着していれば、そのまま電車の中で合流する手はずになっていた。
 ガラガラとキャリーバッグを引きながら、駅へと移動する。早朝という時間帯もあり、キャリーバッグの車輪が立てる音が驚くほどに響き渡る。或いは、怒鳴りつけられるのではと内心ヒヤヒヤしながら、妙子は早足に最寄り駅へと向かった。
 
 駅のホームに到着したのは四時四十五分。そのまま二人を乗せた電車が来るのを待ちながら、妙子は奇妙な違和感を感じていた。
「あっ」
 と、その違和感の正体に気づいたのは、電車の到着を告げるベルが駅構内に鳴り響いた時だった。妙子は慌ててダウンジャケットのポケットを探るが、やはり入っていない。そう、いつも通学の際に使っている音楽プレイヤーを持ってくるのを忘れたのだ。
(……忘れ物がないように、って。あんなに気をつけてたのに)
 旅行に無くてはならないというものではない。が、移動中や退屈と感じる時間を減らし、それらの時間を有効に使えるという意味では、必須といえるものだ。
 もう少し早く気がつけば取りに戻ることもできたのだが、さすがに今からでは間に合わない。二人に事情を話して駅で待っていてもらうということも考えたが、他人に迷惑をかけてまで取りに戻るのは筋違いだと思い直す。
 電車が停車し、ドアが開く。妙子は大きくため息をつき、キャリーバッグを持ち上げて乗車する。
「やあ、おはよう」
「たゆりん、おはようにゃりー」
「……おはよう」
 電車の中はがらんと空いていて、すぐに佐由と英理を見つけることが出来た。二人ともボックスシートに対角線を描くように座っており、妙子と挨拶をかわすなり英理が早速と自分のとなりの席に置いてあったキャリーバッグを足下へとどかし、座るスペースを作る。妙子は自分の荷物を網棚の方へと揚げ、英理の隣へと座った。
「……てゆーか、佐由……あんた、その格好で行く気なの?」
「うん? 何か問題でも?」
「問題っていうか……」
 妙子は怪訝な目で、佐由の服装をまじまじと見る。黒のフェドーラハットに、黒のニットコート。その首元からは水色のマフラーを長く垂らし、コートの下は限りなく黒に近い灰色のパンツスーツを着込んでいる。妙子が感じた第一印象は“ギャング”とか“マフィア”といったものだった。佐由自身、そういった印象を与えることを狙っているであろうことが、その脇におかれているどこからどう見ても麻薬取引かなにかに使われそうな黒のスーツケースにもありありと現れている。
「……まあ、あんたがそれでいいってんなら、別に私が口を挟むようなことじゃないんだけど」
 今度は、隣の英理の方へと視線を移す。こちらは佐由のマフィアルックにくらべれば、まだ健全と言える。ただ、しいていうならば少々色が偏りすぎではないだろうか。まず一番目につくのが赤のダッフルコート。そして、赤銅色のベルボトム。首元から僅かに覗いているマフラーも橙色で、何故だかいつも頭に被っている毛糸の帽子だけが、今日に限って緑色という出で立ち。
(…………トマトでも意識してるのかしら)
 と、妙子は思ったが、ファッションセンスについては自分もお世辞にも良い方とは言えないため、口には出さないことにした。
 程なく、列車が発車する。窓の外の景色がゆっくりと流れるのを眺めていると、くいくいと袖を引かれた。
「たーゆりん、キャラメル食べるにゃり?」
「……ありがと」
 英理が広げた菓子袋から、キャラメルの包みを取り出し、開けて口へと放り込む。ヨーグルト味のキャラメルらしく、なかなかに美味だった。
「さゆりんもー」
「頂こう」
 佐由もまたキャラメルを受け取り、口へと放り込む。最後に英理もまた自分の口へと放り、口が開いたままの袋は小窓の下のテーブルへと載せた。
「……ねえ、佐由」
 キャラメルが溶けてなくなったのを一つのきっかけとして、妙子は切り出した。
「なんだい?」
「今更だけど……出発をどうしてこんなに早い時間にしたの?」
「チェックインが昼の12時だからさ」
 佐由の返事は早かった。
「色々情報を集めてみたところ、件の旅館までは電車で約六時間ほどかかるらしいんだ。あとは、チェックインの時間から逆算して出発時間を決めただけさ」
「……チェックインの時間は遅らせられなかったの?」
「可能ではあったよ。しかしそれでは、後の予定に支障が出てしまうからね。12時チェックインというのは、私なりに今後の予定を吟味して割り出した、最適の時間さ」
「………………旅行の予定については、全部あんたに任せるって言った手前、文句をつける気はないんだけど……」
 本当に任せて大丈夫だったのだろうか――今頃になって、妙子は一抹の不安を感じるのだった。
(……ていうか、六時間……か)
 移動にそれだけの時間がかかるということは、何も今始めて知ったことではない。佐由のほうから事前にどういった旅行になるのかの情報は教えられていたから、覚悟はしていた。が、しかし改めてこのまま六時間も電車で移動するのだと思うと、些かげんなりせざるを得ない。
(“普通”だったら……)
 そう、これが“普通の女子高生三人の旅行”だったら。六時間の移動など大した問題ではないのだろう。わいわいととりとめの無い日常会話によって瞬く間に時間は過ぎるに違いないからだ。
 しかし悲しいかな、自分の場合はそういうわけにはいかないだろうなという確信が、妙子にはあった。そして自分ほどではないにしろ、佐由、英理の二人も“普通の女子高生”という枠からはかけ離れた存在であることも知っている。
 少なくとも、この場で二人が「ねえねえ、昨日のドラマ見た? あたしちょー泣けたんだけど」みたいな話を振ってくるとは思えないし、ましてやふられたところで妙子自身答えようが無い。そもそも妙子の部屋にはテレビすら存在しないのだから。
(……ラジオの話題だったら、それこそいくらでも話せるんだろうけど)
 逆にそちらに関しては、普段から不自由なく話をしている為、事ここに至ってあえて話すような事が何も無かったりする。その証拠に、列車が走り出して数分経つというのに、英理も佐由もそれらの話題は一切振ってこない。
 なんとも気まずい――そう感じているのは自分だけかもしれないが――沈黙が、辺りを包む。やはり、アレを忘れたのは痛かったと、妙子が思い始めたその時だった。
「フッ……心配ご無用。こんな事も有ろうかと、用意してきたものがある」
 まるで、妙子のばつの悪さを見透かしたかのように、佐由が中指でメガネを押し上げながら不適な笑みを浮かべる。そして、ごそごそとコートのポケットから何かを取り出した。何のことは無い、それは佐由愛用のポータブルオーディオプレイヤーだった。そのヘッドホンの指し口に、なにやら見慣れない――強いて言うならば、テトラポッドに似た形の――器具が取り付けられている。佐由はさらに逆のポケットから、コードの束を取り出した。よく見るとそれはコードの束ではなく、ヘッドホンの束だった。
 佐由はそれらのヘッドホンを、プレイヤーに取り付けられた器具に空いている穴へと差し込んでいく。結果、一つのプレイヤーにヘッドホンが三つ繋がれるという、なんとも奇怪な代物が完成した。
「ささっ、白石君。これを両耳に装着したまえ」
「……中身は何?」
「聞けば解る」
 妙子は訝しみながら、佐由から差し出されたヘッドホンを両耳へと装着する。
「英理も」
「にゃ?」
 同様に英理も倣い、最後に佐由も自らの耳にヘッドホンをセットし、プレイヤーの再生ボタンを押した。――たちまち、懐かしくも聞き慣れたイントロが、ヘッドホンを通じて流れ込んでくる。
「これって……フィーナイ?」
「にゃ。それも昔のイントロにゃり!」
 確かに、英理の言う通りだった。放送回数一千回を超える超長寿ラジオ番組である、稲光ハシルのフィーリングナイト。その最初期である十数回のみに使われたイントロだった。
「わわっ、ピカリン声若いにゃり。さゆりんよく持ってたにゃりね」
「記念すべき第一回放送さ。自慢ではないが、フィーナイは一つの漏れもなく全てエアチェック済みだ。……ま、最初の方は私ではなく、兄がエアチェックしていたものだがね」
「…………フィーナイの第一回放送くらい、私だって持ってるわよ」
 つい、声を尖らせるようにして言ってしまったのは、対抗意識があった為だ。
「さすがは白石君だ。……しかし、私もわざわざこれを自慢する為だけに持ってきたわけではないということは解ってほしい。何を隠そう、このプレイヤーに入っているのは私が厳選に厳選を重ねた、超傑作選さ」
「傑作選……?」
「長いフィーナイの歴史の中で、これはと思う回。スペシャルウィークの企画の中でも特に優れていると思うモノ、それらを吟味に吟味して作り上げた濃密濃厚な一番搾りさ。このプレーヤーの中に合計で十二時間分入れてある。往路復路の退屈を紛らわすには十分な筈だ」
「わわっ、さっすがさゆりん! ちょー楽しみにゃり!」
「フッ、大いに期待してくれて構わないよ。その期待に応えられるだけのものにはなっている筈だ」
「…………フィーナイ傑作選って……佐由、あんたどんだけ……」
 脳天気に喜んでいる英理を尻目に、妙子は言葉を失いかけていた。一回の放送が120分にも及ぶ番組、それも1000回以上放送されているものの中から、720分を厳選する。その作業は想像するだけに気が遠くなる。
「……折角の旅行だからね。少しでも楽しいものにするために、少しだけ努力してみたというだけさ」
「…………。」
 佐由の言葉の裏にあるものを、妙子は痛いほどに感じ取っていた。自分を含めたラジオバカ三人組が、旅行だからといってやれトランプだのバラエティ番組の話題だので盛り上がれるわけがないということを、佐由もまた察していたのだろう。ただ、妙子と決定的に違うことは、妙子が察しただけで終わらせたのに対し、佐由はそこから先を考え行動したという点だ。
「……そういうことなら、しっかり吟味してやろうじゃない」
 妙子は不敵に笑い、目を閉じてシートに体を凭れさせる。佐由の心意気に応えるには、恐らくは寝る間を惜しんで作られたであろうこの傑作選をしっかりと楽しむことだと、妙子は理解した。



 なるほど、確かに吟味に吟味を重ねた傑作選というだけのことはある――妙子は佐由の基準に納得すると共に、その編集の手腕にも舌を巻いた。途中、何度かの乗り換えがあってその都度聴取が中断されるのがストレスに感じるほどに、すさまじい傑作選だったのだ。
(……でも、まだまだ無駄が多いわね)
 確かに凄い出来であるとは思う。が、コレを入れるならアレは省くべき。またコレを入れるならばアレも入れるべきというように、“自分なりの傑作選”を考えるのがまた楽しく、そういう意味では時を忘れるほど妙子は夢中になっていた。
 時折、隣で聞いている英理はどうだろうかと。妙子は時折薄目を開けて英理の様子を伺ったが、英理は英理で全身全霊傑作選の虜になっているのか、まるで自分の首を絞めようとしているかのように口の周りにぎちぎちにマフラーを巻きつけ、それでも足りないとばかりに両手で顔を覆っていた。小刻みに震えている肩から、必死に笑いをこらえているらしいことがありありと解った。
 乗り換えの途中で昼食を食べ、目当ての駅――名切駅に到着したのは11時半頃だった。その予想以上の人気の無さに驚きつつも、妙子は英理と共に、先頭を切って歩く佐由の後に続いた。
(……できれば、せめてあと五分聞いていたかったけど)
 無人駅を出ての旅館への道すがら、妙子はそんな事を思う。というのも件の傑作選のキリが悪く、隔靴掻痒のもどかしさに襲われているからだ。とはいえ「ラジオのキリが悪いから」などという理由で、折角佐由が立てた予定を狂わせてしまっては本末転倒となってしまう。妙子はむず痒さを堪えつつ、旅館へと向かう。

 受付で手続きを済ませ、部屋へと案内される。部屋の番号は406号室、番号の通り四階の部屋で、内装は十畳敷きの和室に、縦四畳ほどの床の間、寝室用の畳の間となっていた。女三人ならばこんなものかと思いつつ、妙子はキャリーバッグを床の間へと置く。英理と佐由も、まるで新居につれてこられたばかりの猫のようにあちこちの扉をあけては、口々に何かを漏らしていた。
「ふむ……まあ、可もなく不可もなし。値段相応といったところか」
「疲れたにゃりー……お昼ご飯食べたいにゃり」
 ごろーんと。真っ先に寝転がったのは英理だった。赤のダッフルを脱いだその下は赤のセーターであり、妙子は何も突っ込まなかった。
「お昼ならさっき食べたじゃないか」
「アレは朝ご飯にゃりよ!」
「朝ご飯は出発前にコンビニでオニギリを買って食べただろう」
 うぎぐと、英理は言葉に詰まる。妙子は居間のテーブルの脇に腰を下ろすと、中央に置かれている菓子入れの盆を手にとり、そっと英理の方へと差し出した。
「こんなのあるけど、お腹空いてるなら食べる?」
「にゃっ! たゆりんありがとー!」
 がばっとバネ仕掛けの人形のように飛び起きた英理は、菓子盆に盛られているせんべいやらまんじゅうやらを凄まじい勢いで食べ始める。
 やれやれ……と首を振ったのは佐由だ。
「英理、痩せるためにここに来たのではなかったのかい」
「腹が減っては戦は出来ぬ、にゃり!」
「ま、あとで泣くのは私ではないから、別に構わないがね。……さてと、それじゃあ白石君。一足先に私たちは着替えを済ませてしまおうじゃないか」
「着替え……?」
 んん?と、妙子は首を傾げる。目を丸くしたのは佐由だった。
「いやだな、白石君。“運動が出来る服”を持ってくる様、ちゃんと言っただろう?」
「それは聞いてるし、ちゃんと持ってきてるけど……今から着替えるの?」
「もちろんだとも。善は急げ、悪はのんびりと言うじゃないか。……キミ達、まさか旅行の目的を忘れたわけではあるまいな」
「……温泉、じゃないの?」
 英理が菓子をがっついている為、答えたのは妙子一人だった。
「参拝だ! 英理はダイエットの為、そして白石君は己の意思の証明の為に、名切神社に行くのではなかったのか!」
「……――って、佐由……あんたまさか、今から行く気!?」
 名切神社。最初は名すら知らなかったその神社だが、旅行の準備を進めていくに従って、それがどういった神社であり、どういう立地条件にあるのか、妙子も知っている。
 今から参拝に行く――それは即ち、今から三千段の石段を登りに行くということなのだ。
「当然だ。なんのためにこんなに早くチェックインをしたと思ってるんだ。全ては今日、今から参拝を済ませる為さ」
「……私はてっきり明日行くのかと思ってたわ」
 英理と顔を見合わせると、英理も同意見なのか、こくこくと頷いている。
「二人とも何を言ってるんだ。今日行って、明日も行くに決まってるだろう」
「はぁぁぁああああ!?」
「えええええええええ!?」


 三十分後。名切神社へと続く石段の麓に、三人の姿があった。
 倉場佐由はジョギングの際に使用している白のウインドブレーカー上下セット。
 小曽根英理は恐らく部屋着も兼ねている赤のジャージ上下セット。
 そして白石妙子は――
「白石君……いくらなんでもその格好はどうかと思うよ」
「にゃ。……さすがにちょっと恥ずかしいにゃり」
「な、何言ってんのよ! 別に良いじゃない! 英理だって同じジャージでしょ!?」
「確かにジャージという点では同じだが……」
「学校のジャージを持ってくるなんて、たゆりんは肝が太すぎにゃり」
「太くないし、恥ずかしくない! 何よ、それを言うならあんたたちだって、さっきまでの格好酷かったじゃない!」
 さすがに二人がかりで変だ変だと言われ、妙子は顔を真っ赤にしながらも反論する。旅行の準備をしている際には特に何も思わなかった学校指定のねずみ色のジャージが、今は全裸と下着に次ぐレベルで恥ずかしい格好に思えてならなかった。
「……白石君、私たちを非難したからって、君の格好がまともになるわけではないのだよ?」
「う、うるさいうるさい! いいのよ別に、人目も殆ど無いんだし! だ、だいたいあんたたちも学校のジャージ来てれば、一人浮くことも無かったんだから!」
「たゆりん……さすがにそれは暴論にゃり……」
「ああもう! いいからほらっ、出発するわよ!」
 妙子は半ば駆け出すようにして、石段を登り始める。その後ろから、やれやれといった具合に佐由が、最後に英理が続いた。
 ………………。
 …………。
 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 ……。
 …………。
 ………………。
 石段の登頂には、妙子は二時間半の時を費やした。事前に妙子が佐由から聞いた情報では、一般的な体力の持ち主であれば、およそ二時間で登り終えるという情報に照らし合わせると、これは人並み以下のタイムということになる。
「はーーーーっ………………はーーーーっ………………はーーーーっ…………」
 額からこめかみから滝のように滴り落ちる汗をタオルで拭いながら、妙子はようやくのことで最後の三千段目を登り切り、そのまま力尽きるようにごろりと。石畳の上に大の字になる。
「やれやれ。やっと白石君が来たか。…………英理はまだ下なのかい?」
「だいぶ、した」
 呼吸を整えながら、やっとのことで妙子は言う。三千段の石段――そのキツさは妙子の想像を遙かに超えていた。そこには、単純な山登りなどとは全く違う、予想だにしない苦難の連続が待ち受けていた。
(……っ…………今日ほど…………!)
 ぎりぎりと、歯を鳴らす。今日ほど、“己の体の一部”が憎く思えたことは無かった。過去にも、マラソン大会に始まる各種持久走の時など、コレさえ無ければと思ったことはある。しかし、今日この時ほど、憎たらしく思ったことはない。
 こうして、仰向けになって息を整えている間ですら、その重さを自覚せずにはいられない。途中、何度この脂肪の塊をちぎって捨てたいと思ったか解らないほどに、妙子の憎しみはその両胸に集中していた。
「まったく、二人とももう少し普段から運動をしたほうが良いんじゃないのかい。いくらなんでも時間がかかりすぎだと思うよ」
 そう言う佐由は、恐らく二時間以内に颯爽と登り切ったのだろう。佐由の言う通りかもしれないと思う反面、だったらアンタも首から鉄アレイでもぶら下げて登ってみろと言いたくなる。
(…………これだから、嫌なのよ…………どうして、私ばっかり……こんな……)
 佐由や千夏のように、胸元が涼しげであれば、どんなに生きやすいだろう。運動の際に、ブラがみしみしと軋む音に怯えることもなく、サイズが合わなくなったからと買い換えるような事も無い生活はどんなにすばらしいことだろう。
(……“アイツ”だって、きっと私に絡んでこなくなるはずだわ)
 こんなもの、ハンデ以外の何物でもない。こんな重苦しいものを背負わせるなら、せめて人より優れた才能の一つでも与えられなければやってられないと思う。
「しょうがない。少し様子を見に戻ってみるか」
 ため息混じりに言って、佐由は颯爽とした足取りで石段を下りていく。妙子はむくりと体を起こして、その後ろ姿を見送った。さすがに自分もついていこうとは思わなかった。
 そのまま石段の三千段目部分に腰掛け、呼吸を整える。休日である為か、五分に一人十分に一人といった調子で、ちらほらと登ってくる者がいる。その殆どが年配者で、中にはどこか体調が悪いのかと、声をかけてくる者も居た。
「大丈夫です。友達を待ってるんです」
 妙子は慣れぬ笑顔を浮かべ、そう返した。これが若い男で、下心丸出しであれば目も合わさないところだった。
 妙子の視界に、見覚えのある二人の姿が映ったのは、佐由が降りていってからさらに三十分ほど経った頃だった。さすがに汗も引き、じっとしていると凍えそうなほどに寒かった為、自分も様子を見に行こうかと丁度立ち上がった時だった。
 英理は見るからにグロッキーで、佐由に肩を貸してもらう形でどうにかこうにか登っているといった様子だった。
「ほら、あと十段だ。英理、がんばれ」
「にゃ、にゃああ…………」
 ラスト十段に至っては、一段上る度に十秒休むといったペースで、それでも英理はちゃんと三千段目まで登り切った。登り切るなり、妙子がそうなったようにぐでーんと大の字に転がってしまった。
「英理、おつかれさま」
 気分的には、飲み物の一つも手渡してやりたいところだが、生憎妙子の手にあるのは汗ふき用のタオルのみだった。
(……自販機くらい置いとけばいいのに)
 妙子自身も激しい喉の渇きを感じていた。こんなことなら水筒でも持ってくればよかったと後悔したが、ただでさえ自分の胸の重さに苦しんだ経験を持つ者としては、水筒の重さに耐えながら登ることは果たして、それで得られる水分で帳消しになるのだろうかという疑問を捨てきれない。
「……すごい湯気だな。風邪をひかなければいいんだが」
 佐由の言う通りだった。ごろんと大の字になった英理の全身からは、それこそ湯気のように白いモヤが立ち上っているのだった。
 ぜえはあ、ぜえはあと大きく体を揺らしながら呼吸を整える英理を尻目に、ぽむと。佐由が肩を叩いてきた。
「英理はしばらくはこのままだろう。先に私たちはお参りを済ませてこよう」
 予想外に時間を食って時間が押してるんだ――そう零す佐由に手を引かれる形で、妙子は立ち上がる。
「……じゃあ、英理。先に行ってるからね」



 


 佐由と共に訪れた名切神社は、特にこれといった特徴の無い、実に神社らしい神社だった。きっとこのような特殊な場所にさえ無ければ、一度も足を向けることは無かっただろう。
「さてと、いよいよ参拝となるわけだが」
 佐由が本殿の方へと向き直る。石畳の延びた先に賽銭箱、そして鰐口がある。そういえば小銭を持ってくるのを忘れたことに、妙子は今更ながらに気がついた。
「白石君。ここまで連れ出してきて、こんなことを言うのも何なのだが」
「なによ、改まって」
「別に参拝しなくても私は構わないよ」
「はぁ!?」
 一体全体、この女は何を言い出すのかと。妙子は声を裏返らせる。
「あんたが証明して見せろって言ったんでしょ!?」
「そんなのは、君を旅行へと連れ出すただの口実さ。事ここに至ってしまえば、参拝しようがしまいが私はどっちでもいいんだ」
「……やるわよ。あんたがどっちでも良くても、私はそれを証明するためにこんなところまで来たんだから」
「………………本当に、いいのかい?」
 佐由が急に声のトーンを落とす。否、声だけではない。その眼差しには、どこか憐憫すら感じさせた。
「この神社が縁切り神社というのは本当なんだよ。軽い気持ちや、ただの意地で参拝をしようとしているのなら、絶対に止めたほうがいい」
「なによ、佐由。あんたまさか……御利益とかそういうオカルトを信じてるの?」
 意外だと思わざるを得ない。倉場佐由という女子から受ける、普段の印象としては、科学こそ絶対であり、超常現象などは一切信じない類いの人物だったからだ。
「これはそういう問題ではないよ。この神社が超常的な力を宿していて、それによって本当に紺崎君との縁が切れてしまうかどうか、問題はそこではないんだ」
 君が、と。佐由は言葉をそこで一度句切る。
「君自身が、そのことを許容できるかという問題なんだ」
「私が……?」
「軽い気持ちや、ただの意地での参拝なら止めた方がいいというのはそういうことだ。確かに、今日ここで君が紺崎君との縁切りを願ったとしても、紺崎君にそのことが伝わることはないだろう。しかし、君自身の心に必ず楔は残るよ」
「………………。」
「この先、紺崎君と出会う度。話をする度に、君は今日この日の事を思い出すだろう。そしてそのことが彼に対する負い目になるよ。……必ずそうなる。なんと言っても、白石君は真面目だからね」
 佐由の言う通りかもしれない――ふと、そんな事を思う。いくら、あの男が嫌いだとはいえ、このような場所で神頼みで縁切りを願ったということ自体が負い目になる――それはありうると、妙子は思う。
(…………考えてみたら、丑の刻参りみたいなものだし)
 願うのは、縁切りか、相手の不幸かという違いだけ。確かに佐由の言うとおり、これはあまりフェアなやり方ではないかもしれない――妙子は己の気持ちが傾くのを感じる。……まるで、本心ではそうなる事を望んでいたかのように。
「……佐由がそこまで言うなら……」
 さも、しぶしぶといった具合に、妙子は後退る。
「…………確かに、こういうのはフェアじゃない気もするし。それに“縁切り”を願うほど、決定的に嫌いってワケでもないし……。あいつ自身の事は嫌いでも、その母親の葛葉さんの事は嫌いじゃないし、いろいろお世話にもなってるし……第一、アイツと縁が切れちゃったら、千夏達とはどうなるんだっていう不安もあるし、それに考えてみたら今日は小銭も持ってきてないし……」
 ぶつぶつと、独り言のように呟きながら、妙子は踵を返す。
「……まったくもう。しなくていいならいいって、出発する前に言ってほしかったわ。とんだ骨折りじゃない」
 不満げではあるが、妙子はどこか清々しいものを感じていた。肩の荷が下りた――とでも言うべきか。三千段もの石段を登り終えたという達成感が、今頃になってやってきたかのような、そんな晴れ晴れとした気分だった。
 自然と――少しだけ――顔に笑みが浮かぶ。
「すまないね。でも、旅は道連れと言うじゃないか。旅館に一人で残ってるよりは良かったと思うよ」
 英理のところに戻ろう――佐由に促されて、妙子もまたその後に続いた。



 英理と合流し、石段を下ること約一時間。行きとは違い、下りはほぼバラけることなく、最後まで降りきることになった。
 が。
「……っ……」
 ひたすら息切れとの戦いであった登りとは対照的に、下りはひたすらに自重との戦いだった。休憩を挟みつつやっとのことで一番下まで降りきったものの、妙子は自分の両足が小刻みに震え歩くことすらおぼつかない状態であることを自覚せずにはいられなかった。
「あ、足ががくがくするにゃり……」
「二人ともだらしがないな。……確かに少々キツい負荷だったが、そこまでではないだろう?」
 三人の中で、やはり佐由だけが平気そうな顔をしていた。三人の中で、単純に体重が一番軽いから負荷も軽いだけなのでは――妙子はそんなことを考えるも、或いは本当に運動不足なのかもしれないという可能性も考慮し始めていた。
 さすがに佐由に肩を貸してもらうのはプライドが許さず、妙子はあくまで自分の足で歩き、ある意味出発地点とも言える屋根付きの門が立っている場所へと戻ってきた。ある意味、というのは、そこから石段が始まるわけではないのだが、門の下には台帳が置かれ、石段の感想などを名前と住所入りで記帳することが出来るのだ。
「ふむ。折角だから何か書いていくか」
 最初に佐由がペンを持ち、すらすらと書き込んでいく。それを横目で見ながら、妙子は思わず突っ込んだ。
「“倉田佐由利”って、誰の名前よ」
「偽名さ。個人情報は守らないとね。こんな場所で本名を書いて、あとでどかどかとDMを送られたくはないからね」
 得意げにペンを回しながら言い、佐由はさらに住所までデタラメに書き込み、感想を書き込む。
(……頂上に自販機設置希望って……そりゃあ私もそうしろって思ったけど)
 それは感想なのだろうか。要望ではないのだろうか。悩む妙子をよそに、佐由はペンを置き、台帳の前を英理に譲った。
「うにゅう……」
 英理は一度はペンを持ったが、すぐに首を振ってその場に置いた。口には出さない、出さないがその顔はこんなものに記帳する元気もないと雄弁に語っていた。
 最後に妙子がペンを取り、記帳するかしまいか、少しだけ悩んだ。
(……多分、二度と来ないし)
 これも記念だと思うことにした。名前は佐由がそうした通り、本名を適当にもじったもので、住所もデタラメ。感想蘭には一言「疲れた。」と書いた。



 

「では行ってくるよ」
「行ってくるにゃりー」
「はいはい、行ってらっしゃい」
 部屋の入り口で二人を見送り、妙子は一人室内へと戻る。時刻は午後六時をやや過ぎている。佐由の話によれば、この旅館の大浴場は午後六時に開放されるらしい。二人とも石段の疲れを癒やすために、意気揚々と出掛けていった。
 が、妙子は一人部屋に残った。この件については、佐由にも英理にも出発前に断りをいれておいたから、無理に誘われるという事もなかった。
 正直に言えば、温泉自体は嫌いでは無い。たとえば貸し切りで、一人だけで入れるのなら、それこそ何時間でも浸かっていたい程に体は疲れている。しかし大多数の他人と同時の入浴となれば話は別だ。
 妙子は着替えを手に、バスルームへと入る。便座と一体化したユニットバスであるが、この際贅沢は言えない。たっぷりと汗を吸ったジャージと下着を脱ぎ捨て、熱いシャワーを全身に浴びる。汗を流し、体を洗い、髪を洗う。泡をシャワーで流し終えた後、そのまま湯を溜めて風呂に入ってしまおうかという誘惑を感じるも、結局妙子は断念した。もし長風呂をしている間に二人が帰ってきてしまったら、最悪の事態になるかもしれないからだ。
 三十分ほどでシャワーを終え、ドライヤーで髪を乾かし、髪留めでくくって浴衣に着替え、脱衣所を出る。二人はまだ戻って来ておらず、妙子はさらに羽織りに袖を通し、部屋の隅に重ねられている座布団を一つ、テーブルの脇へと置き、腰をおちつける。テーブルの上のリモコンへと手を伸ばし、テレビをつけるが、別段見たい番組があるわけでもない。
(…………一緒に行けば良かったかな)
 ちらりと。少しだけそんな事を思う。折角三人で旅行に来ているのだから、風呂くらい二人に合わせるべきではないかと。しかし思うだけで、実際に行動には移せないであろうことを、妙子は十二分に理解していた。
 しばらくすると、ノックの音がし、旅館の従業員がぞろぞろと部屋の中へと入ってきた。何のことは無い、夕食が運び込まれているのだ。妙子は座布団から腰を上げ、部屋の隅へと移動してそれらの一部始終を見守った。
 なんともてきぱきとした作業で配膳が終わり、従業員達はそそくさと部屋を後にしていく。後に残されたのは、三人分の食事。炊き込みご飯に、刺身。吸い物、揚げ物、和え物、なるほど見栄えはそれなりだなと、そんな事を思いながら、妙子は二人を待った。腹は空いていたが、さすがに一人先に食べ始めるようなことはしたくなかった。
 さらに二十分ほど待ってようやく、部屋の入り口の方から聞き慣れた話し声が聞こえてきた。
「まったく、不愉快極まりない話だ。折角の温泉が台無しではないか」
「本当にゃり。あれじゃあ風邪ひいちゃうにゃりよー」
「……おかえり、二人とも。もう夕飯来てるわよ」
 二人はプンスカと憤慨しながら着替えをしまい、テーブル脇に用意された座布団へと腰を下ろす。
「やあ、白石君。待たせてしまったようですまない。……少々許しがたい事があってね、クレームをつけにいってたんだ」
「クレーム?」
「露天風呂のお湯が温すぎだったにゃりよ! 折角のお風呂が台無しにゃり!」
「温い露天風呂って……最悪じゃない」
「全くもってその通りだ。客をバカにしているのかと言いたい」
「てゆーか、実際言ってきたにゃり」
「ふぅん……シャワーのお湯はちゃんと熱かったけど」
 実際にその温さを目の当たりにしていない妙子としては、まさしく「ふーん」といった感想以外持ちようが無かった。
「これで食事まで不味かったら、ネットの評価欄にボロクソに書き込まざるを得ないな」
 言いながら、佐由は箸を手に取る。隣を見ると、英理は既に食べ始めていた。
「お腹がぺこぺこだから、何でも美味しいにゃり! ていうか、これっぽっちじゃ全然足りないにゃりよ!」
 がつがつと、凄まじい勢いで食べ続ける英理は、早くも自分の前にある分量の半分近くを食べ終わろうとしていた。
「そうか、英理はダイエットをしにきてたのだったな。ではその揚げ物は私がもらってやろう。代わりにカロリーの低い刺身をあげようじゃないか」
「あっ、ちょっ……さゆりんダメにゃり! その唐揚げは最後の楽しみにとっておいた……あーーーーーーーーーーーーっ!!」
 ひょいぱくひょいぱくと、瞬く間に佐由は英理が残しておいた唐揚げを摘み上げ、己の口の中へと消してしまう。
「だから刺身をやると言ってるだろう。等価交換だ」
「ヒドいにゃり! てゆーか、さゆりんはただお刺身が嫌いなだけにゃり! 全然等価交換になってないにゃり!」
「別に刺身が嫌いなわけじゃない。生魚が苦手なだけだ」
「同じにゃり! 唐揚げを返せーーーーー!」
「ちょっと、ちょっと英理……暴れないの。唐揚げなら私のあげるから」
「白石君、それはいけない。ここで英理に唐揚げをあげるのは、優しさではない。甘やかしだ」
「でも……」
「しかし、私の刺身を食べてくれるというのなら、それは優しさだ」
「さゆりん、ズルいにゃり! ズルいにゃり! ズルいにゃりーーーーーー!」
「ズルくなどない。これは正論というんだ」
「ああ……もう……」
 妙子は軽く目頭を押さえる。
「じゃあ、英理は唐揚げは我慢しなさい。その代わり、佐由もきちんとお刺身を食べる。それでいいじゃない」
 これこそが本当の正論だと言わんばかりに、妙子は切って捨てる。英理も佐由もさすがにぐうの音も無く、その後の食事は粛々と進行した。



 食事が終わり、食器が片付けられると同時に、寝室に三組の布団が敷かれた。が、さすがに時刻が九時前では、布団に入るには早すぎる。
「ところで、白石君は留守中のエアチェックはどうしてるんだい?」
「どうするもなにも、やりようがないわ。……別にいいのよ、是が非でも聞かなきゃいけないってワケじゃないんだから」
「良かったら、後で欲しいものを言ってくれれば融通するよ。私は出発前に、全てパソコンの方で予約済みだから」
「…………パソコンってそんなことも出来るの?」
「出来るらしいにゃり。うちも時々さゆりんにエアチェック頼んでるにゃりよー」
「兄からのお下がりで、私も使いこなしてるわけではないから、あまり頼りにされても困るけどね」
 ラジオ好きの三人が集まれば、やはり自然と話題はラジオの方へと向かってしまう。それはそれで楽しいから決して悪くはないのだが、これじゃあ休み時間の教室と同じだなと、妙子が思った時だった。
「…………ところで二人とも、一つ尋ねたいことがあるのだが」
「なによ」
「にゃ?」
「折角の旅行の夜じゃないか。……ただ漫然と、それこそ学校の教室でも出来るような話を続けるより、より刺激的な夜にする気はないかい?」
 ニヤリと、佐由が意味深な笑みを浮かべる。
「さゆりん、悪い顔してるにゃり!」
「し、刺激的な夜って……何よ、何をする気?」
「フフフ……決まってるじゃないか」
 そう言って、佐由は意味深にテレビのリモコンを手にとり、テーブルの上へと置く。
「このリモコンを良く見てほしい。有料となっているチャンネルがあるだろう?」
「あっ、それ知ってるにゃり! エロいやつにゃり!」
「佐由、まさか……」
「そのまさかさ」
 佐由はリモコンを手にとると、迷わずその有料チャンネルを押す。たちまち画面が切り替わり、なにやら男女が絡み合っている画面が映し出される。
 同時に、テロップが表示される。このチャンネルは有料であること、このまま視聴を続ける場合、プリペイドカードを挿入する必要があることが告げられる。そして画面は一分ほどで消え、佐由はリモコンでテレビの電源を落とした。
「部屋の外の自販機で売ってる千円のプリペイドを買えば見れるらしいんだ。……どうだい?」
「ど、どうって言われても……英理はどうなの?」
「うにゅ……たゆりんとさゆりんが見たいなら、別に反対はしないにゃり」
 卑怯な言い方だと思いつつも、そういう意味では自分も同じかもしれないと、妙子は思う。
「先に言っておくが、このプリペイド代千円は私が持とう。言い出しっぺだからね。……二人はただ、“同意”さえくれればいい」
 サディスト笑み――とでも言うべきか。佐由がなんとも意地悪な笑顔を浮かべる。妙子は返事に窮するように英理を見るが、英理もまた返事に困り切った様子で妙子の方を見ており、互いに目が合って慌てて逸らす――そんな乙女事情。
 妙子には、英理の気持ちが痛いほどに理解できる。即ち、興味はあるが、それを口にすることには躊躇いを感じるのだ。
「人生、どこでなにが役に立つか解らないものだよ。……特に、こういう知識はある程度は身につけておかないと、土壇場で恥をかくことになると、私は思うがね」
「うっ……」
「さゆりんはどうにゃり? 見たいにゃり?」
「そりゃあ、私だって花の十代の乙女だ、異性の裸や交わり方には興味しんしんさ。でも、二人が見たくないというのなら、無理強いはできないからね」
「……あんたが見たいなら、勝手に見ればいいじゃない。……別に止めはしないわよ」
「“止めはしない”では困るな。……はっきりと“私も見たい”と言ってくれないと」
「だから! 私は別に……!」
「うにゅう…………見たいにゃり」
 そっと、控えめに挙手をしながら、英理が言う。うむと言いたげに、佐由が頷く。
「白石君は?」
「…………っ…………わかったわよ、見たいって言えばいいんでしょ! 私だって……興味くらいあるわよ……だから何!? それが悪いの!?」
「悪いとは言ってないだろう? むしろ、それがごく当たり前のことなんだ。むしろ、ここで興味が無いと言うような人間は、人として大切なものが欠落してると思うよ」
 そんなことは言われるまでもなく解ってる。だというのに、それを口にしてしまったせいで、妙子は自分が何か大事なものを失ってしまったような気がするのだった。



『あぁんっ、あぁぁっ……いいっ、あんっ!』
 テレビ画面では、裸の男女が絡み合っている。互いの性器へと手を伸ばし、時折卑猥な音さえ立てながら悶えている。
「…………。」
「…………。」
「…………。」
 三人、横並びに座布団に座ってのAV観賞。今更ながら、妙子は何故自分がこんなことをしているのだろうと疑問に思わざるを得ない。
(…………考えてみたら、別にこの子達と一緒に見る必要性なんて無いのに)
 またしても佐由の口車に乗せられてしまったのだろうか。まるで、この機会を逃したら二度とAVを見て勉強することなど出来ないような気さえしてしまい、断腸の思いで“同意”したものの、そもそも別に旅先でやらなければならないことでもないではないか。
(それに……肝心な所は全然見えないし)
 男も、女も、局部にはモザイクが入っている。AVといえばこういうものなのだろうが、何となく拍子抜けの気もするのだった。
『あぁぁーーーーいい! そこいいーーー! あんっ、きもちいいーーー!』
 そして、妙子の気持ちをさらに冷めさせるのが、演技バレバレの女優の喘ぎ声だった。酷い時などは、四つん這いになって男優に背後から突かれながら声を上げてはいるものの、どうやら途中で抜けてしまったらしく男優が慌てて挿入し直そうとしている最中ですら、キモチイイを連呼しているのだった。
「…………なんというか、アレだね。いざ見てみると、期待していたほどではないというか……」
「べつに……期待なんかしてないけど…………佐由の言いたい事は、なんとなく解るわ」
 単純に、男優女優が未熟であるというのもあるだろうが、それに加えて監督の撮り方も稚拙なのではないだろうか。
(……それとも、気分的な問題なのかしら)
 しかし見れば見るほどに、なんだかなぁという気にさせられる。これならばまだ、映画などのラブシーンのほうがよほどドキドキさせられると、妙子は思う。
「……まあでも、だいたいこういうものだという一つの目安にはなるな」
「どうかしら……人に見せる為のセックスと、自分たちのためのセックスは全然別物っていう気がするけど……」
「へぇ……言うじゃないか。さすがは白石君だ」
「さすがの意味がわからないんだけど……常識的に考えてそうでしょ?」
「……まさかとは思うが、白石君……ひょっとして、“経験済み”ということは無いだろうね?」
「はぁ!?」
「ははは、冗談だよ。……ただもしそうなら、いろいろと教えて欲しいことがあったのだが」
「…………仮にそうでも、あんた達には絶対そんなこと教えないわよ」
 そんな、自ら弱みを晒して短剣を差し出すような真似を誰がするかと。
「てゆーか、英理どうしたの? さっきから一言も喋らないけど」
「はにゃっ!? な、何か言ったにゃり?」
「おやおや……私たちの話も耳に入らないくらい夢中で見てらしたとは……」
「む、夢中になんてなってないにゃり! ただちょっと……圧倒されてただけにゃりよ!」
「それを夢中になってたと表現したのだが……ふむ」
 佐由が言葉を切り、何かを考えるように腕組みをする。
「そうだな。せっかくこうして“見本”があるんだ。…………実際に私たちもやってみようじゃないか」
「はあぁ!?」
「はにゃ!?」


「ちょっと……ねえ、本当にこんな練習必要なの? 役に立つの!?」
「役に立つかどうかは、未来の君が判断してくれるさ」
 佐由は意地の悪い笑みを浮かべ、くつくつと笑う。その顔に影が差しているのは、妙子に覆い被さるように四つん這いになっているからだ。
 そう、妙子は今まさに敷き布団の上に仰向けに寝かされているのだった。
(なんか、また……巧く乗せられてる気が……)
 佐由の言う“実際にやってみる”というのは、“エアセックス”のことだった。AV俳優達の動きを参考にしつつ、女役、男役に別れて布団の上での動き方を練習するというものだ。
 何となくその場の流れでとりあえず佐由が男役、妙子が女役、英理がアドバイザーというような形になってしまっていた。
「なるほど。女を押し倒すというのは、男の方からだとこういう感じなのか」
 佐由の両手は、妙子の頭の両側の布団につかれ、妙子の側からすれば、完全に佐由に押し倒される形。勿論“エア”であるから、妙子も佐由も服装は浴衣に羽織という出で立ちのままだ。
(そして、これが…………“女”の視点……)
 正確には、押し倒される側の、だが。
「白石君、何か感想はあるかい?」
「感想って……」
 佐由に見下ろされ、妙子は自然と頬が上気するのを感じる。
(……っ……やだ……なんで……)
 これはただの遊び。AVを見て、ちょっとふざけて真似ごとをしているだけに過ぎない。であるのに、妙子は不思議な鼓動の高鳴りを感じていた。
「別に……どうってことないわ……」
「ほう?」
 そんな、楽しむような佐由の声。不意にその膝頭が、妙子の太ももの間に割って入ってくる。
「ちょ、ちょっ……佐由!?」
「ほら、もう少し足を開きたまえ。その方が雰囲気が出るだろう?」
「あ、あんた……悪のりもいい加減に…………ひっ……!」
「足を開け、と言ってるんだ」
 耳元に息を吹きかけるように言われ、妙子は思わず背を逸らしてしまう。
「ほら、どうした。早くしないと、そのたわわなおっぱいを鷲づかみにしてしまうよ?」
 わさ、わさと。見る者に嫌悪感すら抱かせる卑猥な手つき指つきをあえてアピールしながら、佐由が意地悪く囁いてくる。その手が徐々に胸元へと接近し――
「っっっっっ…………調子に乗るな!」
 触れるか触れないかというところで、妙子は思いきり佐由の体を突き飛ばした。
「わきゃっ」
 と、変な悲鳴が聞こえたのは、突き飛ばした佐由がその後ろで観察していた英理にぶつかったからだった。
「ふみぃぃぃ……頭と頭がごっつんこにゃりー!」
「あいたた……白石君、酷いじゃないか」
「うるさい! 何がエアセックスよ! こんなの絶対何の役にも立たないわよ!」
「そんなことはないさ。……少なくとも、紺崎君に押し倒された時の視点は味わうことが出来ただろう?」
「っっ……そんなの、とっくに――………………ッ」
 ハッと、妙子は両手で口を押さえる。
「白石君……君はやっぱり……」
「ち、違う! 違うっていうか……とにかく、私はもうこんなのやらないから! やりたいならあんたと英理でやりなさいよ!」
「にゃ? じゃあたゆりんがアドバイザーやるにゃり?」
「それもやらない! だいたい、英理だって何もアドバイスしてなかったじゃない」
「まあまあ、落ち着きたまえ。ではこうしよう、三人でじゃんけんをして、勝った者から順番に好きな役どころを選べることにしよう」
「ことにしよう、じゃないわよ! 私はもうやらないってば」
「さんせーい! 男優役やってみたいにゃり!」
「私は是非女優役をやってみたいな。いやしかし、英理と白石君のカラミのアドバイザーというのも捨てがたいな」
「だーかーら、あんたたち二人でやれって言ってるの!」
「たゆりんたゆりん、じゃーんけーん」
「ぽんっ」
 英理と佐由の言葉に急かされるように、妙子は思わず手を出してしまう。英理はチョキ、佐由もチョキ、そして妙子はパーだった。
「あっ……ち、違っ……」
「……手を出したってことは、提案に乗ったということだね」
「違う! あんたたちが急に言うから!」
「たゆりんは三番手にゃりねー。じゃあさゆりん、じゃんけんするにゃり!」
「望むところだ!」
「あ、あんたたち……私は絶対やらないからね!?」



「ううぅ……なんで、こんなこと……」
 妙子は歯を食いしばり、時折唇すら噛みながら、布団の上に四つん這いになっていた。結局じゃんけんに勝ったのは佐由であり、あろうことか佐由は前言を撤回して男優をやると言い出したのだ。しかも、女優には妙子を指名して。
「にゃ、たゆりん! 両手は手のひらをおふとんに着くより、肘でついたほうがいいにゃり! AVではそうしてたにゃりよ」
「……わかったわよ……」
 言われるままに、妙子は布団に両肘をつく。
「やあ、これは良い眺めだ。…………白石君の四つん這い姿を見下ろすことが出来るなんて感激の極みだよ」
「うるさい! うるさい! これでもう気が済んだでしょ!?」
「何を言ってるんだ、白石君。お楽しみはこれからじゃないか」
 体を起こそうとするも、その背中が佐由によって押さえつけられ、妙子は再度四つん這いの姿勢に戻される。
「ふふ、なんだか興奮するね。バックが好きな男性が多いというのも解る気がするよ」
「っっ……だったら、あんたが自分で四つん這いになりなさいよ! ……ひっ!?」
 突然、両脇をがっしりと掴まれ、妙子は素っ頓狂な声を上げてしまう。
「掴むとしたら、大体この辺りかな。……そして――」
 とんっ、と。佐由の腰が、妙子の尻へとぶつかってくる。
「こんな感じで、腰を打ち付けるわけだね」
 さらに、とん、とんとリズミカルに腰をぶつけられ、妙子は怒りにも似た感情がわき起こるのを感じる。
「〜〜〜〜〜〜っっ……佐由、あんた……あとで覚えてなさいよ」
「怖いな。そう睨まないでくれたまえ…………本当は白石君も興奮しているのだろう?」
「誰が! いいからさっさと手を退け――ひゃんっ!」
 無理矢理体を起こそうとすると、衣類の上から脇腹を擽られ、妙子は全身から力が抜けてしまう。
(くっ………………どうして、私がこんな目に……っ……)
 そもそもどうして四つん這いになどなってしまったのだろう。いくら佐由の口車に乗せられたとはいえ、あまりに軽率すぎたと言わざるを得ない。
(こんな……犬みたいな、格好……)
 そう、これはまさしく動物の交尾だ。実家で何匹もの犬を飼い、何人ものブリーダー達とも父親を通じて知り合った妙子にとって、動物の交尾というのは時折目にはするも、どこか気恥ずかしく、そしてほほえましいものだった。
 しかし、実際に自分がその片割れになってみると、ほほえましいどころの話ではなかった。
「フフ、どうした白石君。急に大人しくなったじゃないか。…………やはり、この体位が好きなのかい?」
「佐由ううぅぅ!」
 もはや、脇腹がくすぐったいなどと言っている場合ではなくなった。妙子は自分の腰を掴んでいる佐由の手を掴むや、強引に引っ張り、その体を布団の上へと引き倒してしまう。
「し、白石君!?」
 よほど虚を突かれたのだろう、佐由は抵抗らしい抵抗もなく、妙子の代わりに布団に仰向けになる。入れ替わりに妙子は体を起こし、佐由の“上”へと陣取る。
「さーゆ? 随分好き勝手やってくれたじゃない」
「白石君……誰がどの役をやるのかはじゃんけんで決めるルールだろう?」
「それはあんた達が勝手に決めたルールでしょ。悪いけど、ここからは私がルールを決めるわ。……英理」
「にゃ?」
「ちょっと、マクラの方に回って、佐由の両手抑えてて」
「了解にゃり!」
「こ、こら! 英理! 了解じゃないだろう……白石君、悪ノリをしすぎたことは謝る、どうか手荒な真似は……うひぁっ!」
 英理に両手を押さえさせるや否や、佐由は途端に甲高い声を上げ、ビクンと背を逸らす。
「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃっっ! やめっ……ちょっ、ソコはっ……ぎゃははははははっっ!!」
 無防備になった佐由の横腹を、妙子はこれでもかと擽り倒す。佐由は早くも涙をにじませながら笑い転げ、足をばたつかせながら悲鳴を上げる。
「ゆ、許してくれ、白石君……どうか……ひゃああああっっ!! ひっ、ひひひひひひひひひひひひひっ! し、死ぬっ…………死ぬぅっ!」
 どうやら、佐由は“くすぐったがり”らしい。少しこちょこちょと擽ってやるだけで、面白いほどに笑い転げるのだから。
「ほら、ほら、どう? 佐由。脇腹を擽られると、体に力なんか入らないでしょ? そんなに暴れて、下着が丸見えになっちゃっても知らないわよ?」
 事実、両足をばたばたと暴れさせているせいで、先ほどからちらちらと淡いグリーンの下着が見え隠れしているのだった。妙子はさらに佐由に恥辱を与えるべく――あくまで報復のつもりで――その両足を掴み、ぐいと。佐由の頭の方へと持ち上げる。
「ほおら、佐由。あんたの大好きな“エアセックス”の恥ずかしい体位よ。どう? 恥ずかしいでしょ? 足の付け根どころか下着まで丸見えよ?」
 佐由の両足のアキレス腱のあたりを掴み、ぐいとマクラの方へと押し倒す。それはマット運動でいうところの、開脚前転の終わり際。俗に“まんぐり返し”と呼ばれる姿勢だった。
 佐由も、英理も。顔を真っ赤にしたまま呆気にとられてしまっていた。そんな二人のリアクションを受けて、妙子もまた――無意識のうちに愉悦の笑みまで浮かべていた――顔と体を凍り付かせた。
「ぁ……えと…………つ、つまり……私が言いたいのは……」
 ぱっ、と佐由の足から手を離すと、佐由はたちまち足を折りたたみ、まるで“乱暴された少女”が悪漢の視線から体を隠そうとするかのように、浴衣の裾を伸ばして足首の辺りまで隠した。
 そしてそのまま、怯えるように英理と身を寄せ合い、二人そろって汚いものでも見るような目を向けてくる。
「ちょ……止めてよ! 何よ、その目は! もとはといえば最初にあんた達がふざけるから悪いんでしょ!」
「………………さすがにドン引きにゃり」
「さすがに“無い”よ、白石君」
「う、うるさいうるさい! あんた達にだけは言われたくない!」


 AV観賞も、その後の“おふざけ”も終わり、敷かれた布団に入ってしまうと驚く程にあっさりと寝入ってしまった。それは恐らく佐由、英理も同じだったのだろう。無理矢理起こされて乙女話恋話に付き合わされるということもなく、妙子は朝までぐっすりと快眠を続ける事が出来た。
 そう、目が覚めるまでは、何一つ問題は無かったのだが。

「ぐ、ぎぎ……」
 えっちらほっちら、なんともぎこちない足取りで、妙子は床の間から朝食の用意されたテーブルの脇へと移動し、殆ど尻餅をつくようにして腰を下ろす。
 そう。朝、目が覚めて驚いたのは、全身を襲う凄まじいばかりの筋肉痛だった。
「……大げさだね」
 その様子を眺めながら、一足先に朝食を食べ始めた佐由が珍しそうに言う。
「う、うるさい……筋肉痛なのよ! あんたは平気なの?」
「そりゃあ、全くの平気というわけではないがね。白石君のように歯を食いしばらなければ歩くことも出来ないという程ではないかな」
 普段から運動をしていないからだよ――そんな言葉を呟きながら、佐由は味噌汁を啜る。妙子もまた箸をとり、朝食に取りかかる。幸い、筋肉痛になっているのは主に下半身な為、食事には全く支障は無い。
 と、その時。トイレの方から水の流れる音が聞こえ、同時にどたーんと何かが倒れる音が響いた。
「あ、あうう……」
 見ると、バスルームの前に倒れているのは英理だった。そのまま、文字通り這うようにして、ずりずりとテーブル脇まで移動してくる。
「足が……足が痛くて歩けないにゃりよぉぉ……」
「英理もか。全くだらしがない。……言っておくが、今日もあの石段に登るのだよ?」
「はぁ!? 無理! 絶対無理だから!」
「たゆりんの言う通りにゃりよ! 行きたいならさゆりん一人で行くにゃり!」
 まさかの猛反発に、佐由は驚いたように目を丸くしていた。
「……白石君はまあ、しょうがない。別段石段に登る理由があるわけではないからね。……だが英理、君は違うだろう。この旅行中に3キロは痩せてみせると言ったのは嘘だったのかい?」
「ううう……だって、行きたくても足が動かないにゃりよぉ……」
「甘ったれるな! ダイエットというものは、辛いのが当たり前だ!」
「ううぅ……」
 しゅーんと、英理はうなだれてしまう。一人では体を起こすこともできないのか、テーブル脇に伏せたままのその姿は殆ど要介護者と変わらない。
「佐由、あんたの言い分も解るけど、実際まともに歩くことも出来ないくらい筋肉痛が酷いみたいだし、さすがにあの石段を登るのは無理じゃないかしら」
「…………確かに、白石君の言うとおりかもしれないね。やれやれだ……本当なら今日は午前と午後、石段を二往復する予定だったのだが」
 折角の予定が台無しだと言わんばかりに、佐由はお手上げのポーズを取る。
「さ、さゆりん〜……ちょっと、手を貸してほしいにゃり……一人じゃ起きれないにゃりよ」
「……しょうがないな」
 佐由は立ち上がり、英理の両脇を抱えるようにして、座布団の上へと座らせる。
「そうなると、今日の予定がまるまる空いてしまうことになるな。しかも、英理は殆ど自力では動けないときたものだ。どうしたものか……」
「あー、ごめん、佐由。私も出来れば、今日は部屋から動きたくないわ。英理みたいに歩けないってほどじゃないけど……」
「……君たちは旅行を何だと思ってるんだ。…………仕方ない、今日は別行動にしよう」
「佐由、一人で石段に行くの?」
「まさか。私は今の自分の体重に不満があるわけでもなし、誰かと縁を切りたいわけでもなし。一人で石段に登る理由など何もないよ。……適当に、辺りを観光してくるさ」
「観光……って、この辺何もなさそうだけど」
「電車で一駅か二駅行った所の側に古墳があったはずだ。他にも何か観光できそうな所があったかもしれない。あとで旅館の人に聞いてみるよ」
「古墳……ねえ」
「た、たゆりん……ちょっと、醤油とって欲しいにゃり……」
 手を伸ばしたままピクピク震えている英理の手に、妙子は醤油さしを握らせる。
「……うーん、やっぱり私は部屋にいることにするわ。英理一人置いていくと、トイレもままならないかもしれないし」
「それが良いかもしれないね。……ま、一人旅は慣れているから、気にしなくていいよ。ゆっくり体を休めてくれたまえ」
 佐由は一足先に食事を終え、早速とばかりに出発準備を始める。
「た、たゆりん……お茶を……」
「はいはい」



 

 やはり、多少無理をしてでも佐由についていくべきだっただろうか――朝食を終えてから約一時間。部屋に一人残された妙子は窓際の籐椅子に腰掛けたまま、そんな事を考えていた。
(…………英理、一人で大丈夫かしら)
 そして同時に、先ほど脂汗を垂らしながら部屋を出て温泉へと向かった英理のことも気にかけていた。聞いた話では、午前中の七時から十二時までは温泉に入れるらしいのだ。十二時を過ぎると一端入浴は出来なくなり――理由は、清掃や水質管理の為らしいが――午後六時から再び解放という流れらしい。
 尤も、これは温泉に入るつもりのない妙子には関係のない話ではあるのだが。
(温泉、か……)
 この筋肉痛まみれの体で、ゆっくりと温泉に浸かることができたらどれほど気持ちいいだろうか。全く心惹かれないと言えば、それは嘘になる。
「……はぁ……」
 ため息混じりに、妙子は部屋の窓からの景色へと視線を落とす。恐らくは石段へと向かう一団だろう、動きやすい格好に身を包んだちょっとした行列が、ぞろぞろと歩いているのが見えた。
(……そっか、普通は“今日”行くのね)
 恐らくは、名切神社への参拝目的の宿泊客なのだろう。自分たちのように、着いたその日のうちに参拝するというのはどちらかといえばレアなケースだったに相違ない。道理で他の参拝客が殆ど居なかった筈だと、妙子は納得した。
(……ていうか、佐由の計画もムチャクチャよね。何よ、今日の予定石段二往復って!)
 それはもう旅行では無く、ダイエット合宿ではないか。
「………………。」
 妙子はしばしそのまま、窓からの景色を見続ける。やがて飽き、大あくびをする。
(………………暇だわ)
 こんな事なら、文庫本の一つも持ってくるのだったと後悔する。ラジオでも聞こうかと思うも、自分の音楽プレイヤーは家に忘れてきたことを思い出す。
(……ていうか旅行に来てまでやることじゃないわよね)
 折角友達二人と共に旅行に来たというのに、一晩明けてみれば見事にバラバラの単独行動となってしまっている辺り、自嘲気味な笑いがこみ上げざるを得ない。自分を例外とする気はないが、あの二人もやはりそうとうな変わり者だと、妙子は思う。
(…………千夏に電話でもしてみようかしら)
 もし、手の届く範囲に携帯があれば、或いはかけたかもしれない。しかし、携帯はキャリーバッグの中へとしまってあり、それを取り出すには一度椅子から腰を上げねばならない。それは今の妙子にとって、例えようも無い苦痛を伴う作業だった。
(……英理、戻ってこないかしら)
 もし英理が部屋に戻ってくれば、窓際へと呼ぶついでに、携帯を取ってきてもらえるのにと。そんな事を考えて、妙子は己の愚かさに苦笑する。そもそも英理が戻ってくれば、退屈を紛らわす為に電話をかける必要などなくなるではないか。
「ふぁ……」
 再度、あくびがでる。そういえば、昨夜はあまり眠れなかった――寝不足も相まって、妙子は次第にうとうとと舟をこぎ始める。
(……“アイツ”は、今頃何やってるのかしら)
 眠りの淵へと転がり落ちる寸前、妙子はそんな事を思った。



 十二時前になって、漸く英理は戻って来た。温泉の入浴時間が終わるからというよりは、昼食がまちきれなくてといった様子だった。
「あっ」
 しまった――と妙子が思ったのは、昼食が三人分用意されていたからだった。そう、佐由は一人で観光に出掛けており、当然そんなことまで旅館側が知るわけはない。さすがに一人分要りませんと、配膳の段階で言うのも気が引け、従業員らが去った後、妙子はぽつりと盛らした。
「どうしよう……二人で半分ずつ佐由の分も食べる?」
「えっ、たゆりんそんなにお腹空いてるにゃり?」
 英理の意外そうな言葉に、妙子は小首を傾げた。何か、英理との間に奇妙な齟齬を感じた。
「えと……私は出来れば、自分の分だけで済ませたいんだけど」
 午前中ほとんど窓際でじっとしていた為か、空腹感はさほどに感じていないのだった。出来れば、自分の分もあまり食べたくはない程に。
「なら、うちがさゆりんの分も食べるにゃりよ!」
 そう言う英理の目は、爛々と輝いていた。
「このままじゃ残飯になってしまうにゃり! 仕方なく、にゃり!」
「そ……そうね。英理の言う通り、このまま残しちゃうのも旅館の人に悪いわね」
 仕方なく――という割りには、いやに嬉しげに英理は佐由の分まで昼食を食べ始める。その勢いや凄まじく、自分の分すらもてあましていた妙子はさりげなくそれを勧めることで英理に処分してもらった程だ。
「はぁぁ……大満足にゃり」
 昼食の後も、英理はテーブルの上の菓子盆に盛られた茶菓子を食べ続けていた。その様子を窓際の籐椅子から眺めながら、英理にはダイエットは無理だろうなと。妙子は思うのだった。


 佐由は、五時過ぎになって漸く戻って来た。
「ただいま……」
 しかも何故か、両目を赤く腫らして。
「おかえり……って、佐由! どうしたの!?」
「さゆりん! おめめが真っ赤にゃりよ!」
「ん? ああ……これか。気にしないでくれたまえ」
「気にしないでって言われても……」
「気になるにゃりよ」
 妙子と英理の言葉を無視する形で、佐由は自分のキャリーバッグの側まで移動し、そそくさと着替えを始める。
「……本当に説明したくないんだ。きっと私の言葉では、あの感動の十分の一も伝えることは出来ないだろうから」
「感動……?」
「さゆりん、映画でも見てきたにゃり?」
「まぁ、それに近いね。……正確には、歴史資料館に行ってきた」
「資料館と映画、何の関係があるのよ」
 近くに資料館があるという話は初耳だった。恐らくは、旅館の従業員に尋ねて知った、新たな観光スポットなのだろう。
「資料館自体は、どうということのない代物だったのさ。この辺りで出土した土器だとか、鏃だとかが展示されて、町の歴史なんかが箇条書きにされているだけの、ありふれたものさ。資料館そのものは入場無料だったのだが、一部有料の施設があってね。有料といってもほんの数百円だったのだが、ともかくそこで名切神社にまつわるエピソードを映像として見ることが出来たんだ」
 語りながら、佐由の両目がうるうると潤いを帯び始める。佐由はすかさず箱ティッシュをむしり取り、ちーんと鼻をかむ。
「……それは映像とは名ばかりの、紙芝居のような挿絵にナレーションがついただけの、素人が作ったようなお粗末な物だった。だけどね、それはとても悲しい話で……」
 ぶわっ、と。今度は堰を切ったように涙が溢れ出してきて、佐由はそれきり口を噤んでしまった。
 呆気にとられている妙子の横で、ぽつりと英理が囁くように言った。
「…………さゆりんって、実はけっこう涙もろいにゃり。“泣ける話”にはメチャクチャ弱いにゃりよ」
「こらっ、英理! デタラメを吹き込むな!」
 どうやらその“囁き”が聞こえたらしく、佐由がすかさず――両目から涙を溢れさせながらがーっと喚く。
「私が感動するのは、“実話”だけだ! 作り話などでいくら泣かそうとされても、屁とも思わん!」
「でも、神社の話にゃりよ? 絶対眉唾にゃり」
「何だと……実際に見聞きもしていない英理に何が解る!」
「ちょっとちょっと、二人とも落ち着いて! 別に良いじゃない、佐由は感動したって言ってるんだから、英理も別に難癖つけなくたって」
 このままではつかみ合いのケンカに発展しかねない。妙子はすかさず仲裁の手をさしのべる。
 ――が。
「別に難癖じゃないにゃり。さゆりんは時々チョロいって言ってるだけにゃりよ」
「なっ……五十円の駄菓子に釣られて誘拐されかかったことがある奴に言われたくはない!」
「あっ、あれは誘拐じゃないにゃり! 本当に親戚のおじさんだったかもしれないにゃりよ!」
「親戚のおじさんが、私が声をかけただけで逃げるか? しかもあれは中二の時だぞ! 小学生ならいざ知らず、中学二年生が菓子で釣られるな!」
「それを言うならさゆりんだって――」
「だから! 二人とも止めなさいって言ってるの!」
 ばんばんとテーブルを叩いて、妙子は強制介入する。
「ほら、もうすぐ六時よ? 温泉入れるようになるんだから、さっさと行ってきなさい。八時前には夕食が来るんだから」
「くっ……仕方ない。一時休戦だ」
「お風呂の方が大事にゃり」
 佐由も英理も顔を合わせ、こくりと頷くやいそいそと入浴の準備に取りかかる。
(……この子達、温泉でケンカの続きをしなければいいけど)
 不安に思うも、それはそれでもはや自分には関係無いと、妙子は割り切るのだった。


 二人は温泉、妙子だけが備え付けのUBでシャワーを浴びる。結局最終日もそんな不自然な入浴方式となった。実のところ、少しだけ温泉に入ってみようかと心は動きかけたのだが、結局妙子は無難な方法を選んでしまった。
(……温泉って、筋肉痛に効くのかしら)
 と思ったのは、昼間に比べて若干ながらも英理が歩くのを苦にしないからだった。とはいえ、温泉から戻ってきたときもまだえっちらほっちらとぎこちない歩き方ではあったから、やはり人間の体というものはそう劇的には回復しないものらしい。

「しかし、明日でもう旅行もおしまいか。なんだかしんみりしてしまうな」
 箸を手に、佐由がしみじみと言う。
「……考えてみたら石段と温泉以外の思い出が殆ど無いにゃり」
「それは君たち二人が旅館から出ていないからだろう。歴史資料館も、古墳見学も、それなりに面白いものだったよ」
「……AVもイマイチだったしね」
 苦笑混じりに、妙子もそっと二人の意見に付け加えた。
「……まあでも、いろいろな失敗も含めて旅行の醍醐味というものだ。今回至らなかった点は次に活かせばいいのさ」
「次は石段登らなくていい場所がいいにゃりねえ……」
「…………この旅館を選んだのは、そもそも英理がダイエット出来るような場所がいいと言いだしたからなのだが……」
「…………そういうところには、一人で行って欲しいわ」
 完全に巻き添えを食う形となった妙子としては、切に願う所だった。
「まあ、次に行くなら、部屋に露天風呂がついているような場所だな。そういうところであれば、白石君も遠慮無く温泉に浸かれるだろう」
「……っ……私はべつに……」
「そうにゃりねえ。お部屋に温泉がついてれば、うちらが外出してる間にたゆりんはのんびり入れるにゃり」
 和気藹々と話す二人の間で、妙子は不自然なまでに顔が赤くなるのを感じる。そんな妙子に気づいてか無意識のうちか、佐由がころりと話題を変えた。
「そういえば、英理。さっきは何の話をしていたんだい?」
「にゃ?」
「露天風呂に浸かっていた時のことだ。知らない女性と何か話をしていただろう?」
「ああ」
 ぽんと、英理が手を叩く。
「なんかため息ばっかりついてるおねーさんが居たから、どうしたにゃりーって声かけたにゃりよ」
「…………知らない人に?」
 こくりと、英理は頷く。自分には絶対に出来ないことだと、妙子は目を丸くする。
「それで、何を話したんだ?」
「にゃ。なんか、同じ部屋に泊まってる男の子に告りたいけど、なかなか勇気が出なくてーって悩んでるみたいだったにゃり」
「…………旅館の、それも同じ部屋に泊まってる時点で、告るもなにも無い気がするのだが」
 佐由の呟きに、妙子も同意する。男女で同じ部屋に泊まるなど、確実に友達以上に見ている証ではないのだろうか。
「細かいところは忘れたにゃり。でも、ニュアンスとしては合ってる筈にゃりよ」
「で、英理はなんとアドバイスしたんだい?」
「勇気が出ないなら、いっそお酒の勢いで襲っちゃえー! ……とか言った気がするにゃり」
「それ、アドバイスなの?」
 妙子は眉を寄せる。
「愚かなことを……。英理、何故その場で私に相談してくれなかったんだ」
「だって、さゆりんもずっと地元のおばちゃん達と話しっぱなしだったにゃり」
「ム……確かにそうだが……」
「佐由もか……あんたたちのその謎の社交性は何なの」
 少し分けて欲しいくらいだと、妙子は思う。
「しかし、その女性……巧くいっていればいいが。そんな手を使って失敗した日には目も当てられないぞ」
「でもでも! だったら……さゆりんなら、どうアドバイスしたにゃり?」
「…………友達を使って、脈があるかどうか遠回しに確かめるとかかな」
「無理にゃりね。二人だけで泊まってて、共通の友達とかも居ないらしいにゃり」
「……ずいぶん詳しいのね」
「いっぱいお話ししたにゃりよ!」
「……まあ、確かに酒の勢いで……というのはあながち間違いではないかもしれないな。同じ部屋に泊まるくらいだ、少なくとも嫌われてはいないのだろう」
「……でも、大丈夫かしら」
「ちなみに白石君なら、どうアドバイスをするんだい?」
「えっ、私!?」
「にゃ。是非聞きたいにゃり!」
「………………ダメ。何も思いつかないわ」
 妙子は素直に白旗を振る。自分でも不思議なほどに、この問題について解決策を見いだせる気がしなかった。
「……まあ、それもそうか。白石君は言うなれば自分も当事者のようなものだしね」
「だ、誰が当事者よ! いい加減その話でからかうのやめてよね!?」
「あーっ、ぴこりんのことにゃりね」
「英理まで……」
 早くこいつらに男友達の一人も出来ないものかと、妙子は切に願わずにはいられない。
(……その時はもう、これでもかっていうくらいからかって、囃し立ててやるんだから)
 臥薪嘗胆。
 妙子はその時を夢見ながら、今はただただ屈辱に耐え忍ぶのだった。


「さあ、昨夜は失敗に終わったが、今度という今度は、夜のガールズトークに花を咲かせようではないか!」
 昨夜とはうってかわって、早めに布団に入ろうと言い出した佐由は、部屋の明かりを落とすなり高らかに宣言した。
「ふぇ!? そんなの知らないにゃり! 昨日もやったにゃり!?」
「いや、やってないから失敗って言ってるんじゃないの?」
 どうやら英理も自分同様、布団に入るなり寝てしまったクチなのだろう。
「二人とも、布団に入るなりあっという間に寝てしまったからね。まあ、石段の疲れがあったのだろうと、あえて起こしはしなかったが。……だが、今日はあえて言おう! 二人とも……朝まで寝かせないよ?」
「朝までは勘弁してよね」
「あんまり夜更かしすると、明日の電車の中で眠くなっちゃうにゃりよー」
「まあまあ、そこはあれだ。言葉の勢いというやつだ。……とにかく時間が惜しい、早く誰それが好きだとか、そういう乙女っぽい話をしようではないか!」
「じゃあじゃあ、言い出しっぺのさゆりんから言うにゃりよ!」
「いや、悪いが気になる男子は居ない」
 けろりと。まるで昨夜の夕食のメニューでも発表するかのようにあっさりと、佐由は言った。
「というわけで、次は英理の番だ」
「うにゅう…………うちもべつに……」
「…………。」
「…………。」
 流れる沈黙。そして妙子は暗闇の中で、自分の両脇に敷かれている布団から視線が集中するのを感じた。
「……聞かれる前に言っておくけど、私もそういうの、居ないから」
「………………あのなぁ、君たち。女子力が低すぎるにも程があるぞ。この期に及んで浮いた話の一つも出来ないとはどういうことだ!」
「その言葉、そのまんまさゆりんにお返しするにゃりよ」
「くっ……仕方が無い。ここは私たちの中で最も男性経験が豊富な白石君が先陣を切って、紺崎君とのデートの話などを……」
「しないわよ! てゆーか、男性経験が豊富とか、誤解されそうな言い方は止めてくれる!?」
「でも、事実にゃり」
「何言ってんのよ! あんたたちだって、男子の幼なじみの一人や二人くらい居るでしょ!?」
「いや、居ないが?」
「居ないにゃりよ?」
「…………嘘でしょ? 一人も居ないの?」
「確かに、居るには居たが……中学に上がる頃にはすっかり疎遠になってしまったな」
「同じくにゃり」
「………………。」
 はてなと、妙子は小首を傾げる。ひょっとすると、今まで切れずに繋がっていた自分たち四人組の方がレアケースなのだろうかと。
「で、でも……あんたたちはクラスの男子達とも時々話したりしてるじゃない!」
「そりゃあ、クラスメイトだしね、話くらいはするさ」
「そんなのを“男性経験”の中に含めるのはズルにゃり。野球ゲームしかない人が、プロ野球選手を自称するようなものにゃりよ」
「それはちょっと違うんじゃ……」
「まあようは、私も英理も、クラスメイトの男子をはっきり“異性”として感じた事は無いということなのだよ」
「……それはそれで問題があるっていうか、あんたたちに問題がありそうっていうか……」
「そもそも、うちは共学になりたてて、男子の数は少ないしね。それでも際だって魅力的な男子生徒でも居るのなら話は別だが、誰も彼も大同小異の青びょうたんばかりだ。惹かれるものなど何もないよ」
「勉強の出来る男子には興味が湧かないってコト?」
「うちに入学してる時点で、勉強など出来て当たり前だ。勉強の出来不出来で男に惚れていたら、それこそ処女膜が何枚あっても足りないよ」
「しょ、処女膜って……あんた、もうちょっと言い方を考えなさいよね! ……だったら、あんたが男に惚れる基準ってのは何なのよ!」
「さゆりんは、驚かせてくれる人が好みにゃりよー。ねー、さゆりん」
「…………英理の言い方だと誤解を受けそうだが……あながち間違ってはいないな。鳥が飛んでも驚かないが、亀が飛んだとなれば話は別だ。私はそういう空を飛ぶ亀のような男性に心惹かれるのさ」
「空飛ぶ亀ねぇ……」
「ちなみに英理は料理が趣味な男性……だったかな?」
「えへへ、あなた作る人わたし食べる人、にゃり。それがしあわせの形にゃり」
「……そう。いい人見つかるといいわね」
「とまあ、人にはそれぞれ好みのタイプというものがあるわけだが。……はてさて、白石君の好みのタイプはどんな男性かな?」
「私は……特にそんな、好みなんてないわよ。普通なら、それでいいわ」
「うわっ、たゆりん……卑怯にゃり」
「ものの見事に逃げたね」
「に、逃げたって何よ! だいたい、好きな男のタイプなんて、実際に人を好きになってみないと解るわけないじゃない!」
「ふむ、確かに白石君の言うことも一理あるな」
「でもでも、たゆりんって見た感じは完全にダメ男にハマるタイプにゃりよ!」
「なっ、英理! なんで私がそんな地雷に引っかからなきゃいけないのよ!」
「ああ、解る解る。白石君みたいな女性はアレだ、“この男は私が後ろで見ててやらないと”っていう男性に弱そうだね」
「佐由まで! あんたたち、ほんといい加減にしなさいよ!?」
「でもでも、そういう意味では、ピコりんじゃちょっと役不足気味にゃり?」
「そうだね。何度か会った時の印象だと、意外とまともというか、普通っぽい感じだったな」
「っっ……それはあんたたちの見る目が無いだけ! アイツはほんっとーにダメ男なんだから!」
「…………となると、英理の推測が正しいことになってしまうわけなのだが」
「たゆりん、やっぱりダメ男スキーにゃり! ピコりんに母性本能働きまくりにゃり!」
「あんたたち! それ以上言ったら、力ずくで黙らせるからね?」
 ひぇっ、と両側から声がして、それきり二人は黙り込んでしまった。ふう、と大きくため息をつき、妙子は叫ぶと同時にまくりあげた掛け布団をもどしつつ、布団に体を横たえた。
「……ったくもう。言っとくけどね、私はあんたたちと違って頭の出来が悪いから、毎日の授業についていくので精一杯なの。そんな色恋沙汰なんて考える余裕が全く無いんだから」
 いい加減下らない邪推はやめろと、妙子は言外に言い含める。
「……それはひょっとしたら、順序が逆なのではないだろうか」
 不意に、沈黙していた佐由がぽつりと。独り言のように語り始める。
「これはとある好事家に聞いた話なのだが」
「にゃ?」
「胸の大きさと、性欲の強さは比例するらしい」
「はぁ!? 何よそれ、とんでもない言いがかりじゃない!」
「あーー、何となく解るにゃり。たゆりんって、性欲強そうにゃり」
「英理まで何言ってるのよ! 勝手な憶測で人に何枚も変なレッテル貼らないでくれる!?」
「確かに憶測だ。この説が正しいという証拠はどこにもない。――が、間違っているという証拠も、同様に存在しない」
「三段論法以下のとんでもない暴論ね。話にならないわ」
「つまりだ。私が言いたいのは――……白石君は本来ならば我々など比較にならないレベルで優秀な筈であるのに、色恋沙汰に熱中するあまり本来のスペックを発揮出来ていないのではないかと――」
「だ れ が 色恋沙汰に夢中になってるのよ!」
 ガーッ、と吠えかかる勢いで、妙子は佐由の発言をぶった切る。
「そもそも、彼氏なんかいたら折角の三連休に女同士での旅行に参加したりなんかしないわよ! それだけでもう私は色恋沙汰なんか無縁の独り身で、あんた達と同類なんだって解りそうなものでしょうが!」
「……いや、偽装工作かもしれない」
「なんであんたたち相手にそんな工作しなきゃいけないのよ! 偽装工作で三連休潰すって、犠牲が大きすぎでしょ?!」
「にゃー。ひょっとして、たゆりん本当はぴこりんと一緒に連休過ごしたかったにゃり?」
「なんだ、そうだったのか。そうならそうと先に言ってくれれば……」
「……ああもう、この話は終わり! おしまい! それ以上悪ふざけするなら、あんたたちとは一切口利かないから!」
 キリがないと、妙子は頭まで布団を被ってしまう。
「……やれやれ。白石君は解ってないね、……これはいわば税金のようなものなのだよ」
「にゃ。女子グループの中で最初に彼氏作った子はからかわれる運命にゃり」
 作ってないし、そもそも“アイツ”と知り合ったのはあんたたちと知り合うより前だし、と妙子は布団の中で思ったが、相手をするとまたつけあがるので、あえて黙る。
「……ところで英理。話は変わるが、男子の間では童貞を三十才まで守ると魔法使いになれるという言い伝えがまことしやかに囁かれているらしいじゃないか」
「まことしやかっていうかもう周知の事実にゃりね。…………なんで男だけにゃり?」
「そこだよ、問題は! 女にだって同じ伝説があってもいいだろう! 三十まで処女を貫いた者は魔女になれるとか!」
「魔女っていうよりは、喪女って感じにゃりね」
「…………いいのか英理。そんな事を言っていると、そのうち笑えなくなる日が来るぞ?」
「そもそも、どうして女にだけ処女膜があるにゃり? どうして男には童貞膜が無いにゃり? 女だけ生理があったり、処女喪失や出産で痛い思いするのは理不尽にゃり!」
「………………その代わり、女がセックスで得られる快楽は男の数十倍らしいわよ。そんなの一体誰が比較したんだとか、そもそもそれが出産の苦しみの代替要素になるのかは解らないけど」
 布団を被ったまま、つい妙子は口を挟んでしまう。たちまち、英理も佐由も黙り込んでしまった。
「…………白石君。私たちは真面目な話をしているんだ。いきなりしゃしゃり出て来て、下世話な話にすり替えるのはやめてくれないか」
「はぁ!?」
「たゆりんえっちぃにゃりー」
「あんたたち何言ってるのよ! そもそもあんたたちがそういう話してたんでしょ!?」
「私たちはただ男女の体のしくみの違いについて議論していただけさ。そこにいきなりセックスだとか、快感量の違いだとかの要素を持ち込んできたのは君じゃないか」
「なっ……そ、それは……」
「やっぱりたゆりんはムッツリにゃり。本当はエロい話大好きにゃりね」
「〜〜〜〜〜〜っっっ! もういい! あんた達とは口利かない! おやすみ!」
 再度妙子は布団を被り直し、口を閉じる。その後も、英理と佐由は――恐らくわざとやっているのだろうが――妙子がツッコミを入れたくてうずうずするような、そんな隔靴掻痒じみた話を続けた。
 が、妙子が一切反応を返さず黙って居ると、やがて飽きたのか、二人とも黙って布団を被ってしまった。
 コッチ、コッチと時計の音だけが響く中、妙子もまた徐々にではあるが眠気が忍び寄ってくるのを感じる。
 最初に英理が寝息を立て始め、続いて佐由。妙子もまたうつらうつらと意識を失い始めた――その時だった。

『……っ……ぁ………………あんっ……!』

 そんな、甘く切なげな声が、耳に飛び込んできたのは。



 眠りの淵に落ちかけていたというのもあり、最初は一体何が起きたのか全く解らなかった。ひょっとしたら、そのまま何事も思わずに眠ってしまった可能性も十二分にあった――が、妙子の意識は、凄まじい勢いで覚醒した。
(………………えっ? 寝言?)
 最初にその可能性を疑った。二人の内どちらかが寝言を言っているのではないかと。妙子はそっと体を起こし、佐由と英理の寝ている方へと耳を傾けてみる。が、二人とも規則正しい寝息をたてこそすれ、寝言など全く盛らしていない。

『…………ッ……ぅんっ………………あっ、……ンッ……!』

 そんな妙子の耳に、またしても聞こえた――正体不明の声。かぁ……と、顔が熱くなるのを感じる。その反応が、“何の声か”を何よりも雄弁に妙子自身に理解させた。
(えっ……えっ……?)
 混乱する。妙子は完全に体を起こし、掛け布団を被ったまま敷き布団の上に女座りをする形で、室内を見回す。テレビは――ついていない。或いは、佐由がこっそり昨夜のようにプリペイドカードでのAVを観賞してそのままつけっぱで寝てしまったというような、そんなありえないながらも無くも無い可能性も消えた。

『あぁぁっっ…………あぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜っっ!!』

 先ほどよりも、さらにはっきりと聞こえる声に、妙子はつい身を伏せて寝たふりをしてしまう。が、そんなことをしたところで何の意味もなかった。
(やだ……何これ…………まさか……)
 隣の部屋の宿泊客が、大音量でAVでも観ているのだろうか。それならば十二分にありうることだ。
(……でも……)
 妙子は昨夜3人で観たAVの内容を思い出す。確かに男優女優の裸はこれでもかと露わになり――局部にはモザイクが入っていたが――声も上げていたが、“こういう声”ではなかった。
 それこそ、演技だとはっきり解るような声に、こんなもので本当に興奮出来るのかと、妙子は冷めた視線すら向けた。
 だが。

『あっ、んっ……ンッ……ンンッ……ンンッ……ンぅぅう!!』

 壁越しに聞こえる、女性の甘い声。同じ女だからこそ解る、“この声”は気のない演技などで出せる声ではないと。
(…………となりで…………してる、の……?)
 漸くにしてその結論に至り、妙子は息が弾む程に、胸の奥が高鳴っている自分に気がつく。今、この壁一枚隔てた向こうでは、顔も知らない男女が体を重ねている。セックスをしている――そう考えるだけで、眠気など完全に吹き飛んでしまった。
(……ちょっと、止めてよ……そういうのは、ちゃんとそういう場所で……)
 ラブホテルとか、自宅とかで――そんな事を考えながらも、妙子は耳を澄ませずにはいられない。確かに声は聞こえはするが、それはよほど大きな声に限られるらしい。どうやらセックスをしている二人は、喘ぎ声を挟んで時折会話をしているようだが、そちらのほうは微かにモニョモニョと“何かを喋っているらしい”ということが解るのみで、その内容などは全く聞き取ることができなかった。特に男の方の声は――男女の声の高低の差もあるだろうが――微かな振動となって伝わるのみで、どういう声をしているのかすら解らない。

『ンッ……あっ……アッ! アアッ!!』

 何かに弾かれたような、女の声。ただ声を聞いているだけで、女が激しい快感を受けて、体を跳ねさせているのが伝わってくる。
(……っ…………止めてよ……こんなの、聞きたくなんてない……)
 妙子は布団を被り、まるで天災に怯える子供のように身を縮めて必死に眠ろうと試みる。が、先ほどまでの眠気はどこへやら。カフェインたっぷりのコーヒーを10杯立て続けに飲んでもここまではっきり目は覚めないというほどに、全く眠れる気がしなかった。

『あんっ……あん! あんっ! あんっ!』

 布団を被っても漏れ聞こえる、その声。微かながら、ぎしぎしと畳が軋むような音が聞こえる。否、音というよりは、振動。恐らくは同じように畳の上に敷かれた布団の上で、男に激しく突かれているであろうことが、その僅かな振動を通して伝わってくる。
(……なんだっていうのよ、もう……寝たいんだから……寝かせてよ……!)
 布団を被ったまま、妙子は何度も寝返りを打ち、自分の体を抱きしめるように悶える。AVなどよりも、“生の声”のほうが遙かに危ういと、身をもって理解しはじめていた。
 そんな調子で、布団を被ったまま約一時間。早く終われ早く終われという妙子の願いむなしく、いつまでたっても隣から聞こえてくる嬌声は止まなかった。

『ああぁぁッ! ぁっ……んんっ、! あぁっ……あっ! あーーーーーーーッ!!!!』

 もはや何度目か解らない、女の絶叫。妙子のイライラは極限に達し、何度壁を蹴りつけてやろうと思ったか知れない。
(………………っっ……いつまで続ける気なのよ! この色狂いバカップルがッ!)
 男女がセックスにかける時間は、平均でおよそ二時間だと、妙子は何かの書物で読んだ。それは二時間ぶっ続けで腰を振り続けるという意味ではなく、キスを含めた前戯から本番、そして終わった後の後戯を含めての二時間だと解釈していた。
 が、声を聞く限りでは、どう考えても“本番”のみで二時間を超えようとしていた。
(ああもう……明日は帰らなきゃいけないのに! 今のうちに寝ておかないと絶対辛いのに!)
 イライラが募り、体が爆発してしまいそうだった。仮に、隣が単純に宴会などを催しており、それがうるさくて寝られないというのであれば、ここまでイライラは溜まらないだろうと妙子は思う。が、何故女の声がうるさくて眠れない方がイライラが溜まるのかについては、妙子はあえて言及しないし、しようとも思わなかった。
(…………本当に蹴ってやろうかしら)
 何度そう思ったことか。事実、壁に向かって足を振りかぶる所までは、何度かいった。が、さすがに行動に移すには躊躇いを禁じ得ない。それは単純にマナー的な理由もあるが、何よりも“仲むつまじいカップルに嫉妬しているのではないか”と、自分の良心からの突き上げが怖いのだった。
(……大丈夫。もうすぐ終わる……もうすぐ終わる…………)
 妙子は枕元の携帯で時刻を確認する。既に深夜1時を過ぎている。いくらなんでももう終わる筈だと、深呼吸を繰り返す。

『ンンッ! あぁあぁっ……やぁっ……も、もう無理ぃっ……やめっ……あぁーーーーーーーーーーーーッ!!!!』

 そんな妙子の淡い期待を裏切るように、“振動”と、女の声がセットでやってくる。その後も断続的に女の甘い声が響き続け、妙子にはそれがもう「まだまだ続くよー?」という煽り文句にしか聞こえなかった。
「………………ッ………………」
 ぎりっ、と歯を食いしばる。ふと隣を観れば、佐由の幸せそうな寝顔が見える。逆サイドには、同じく幸せそうに寝ている英理の姿が。
(…………こうなったら……)
 死なばもろとも。二人とも地獄に引きずり込んでやろう――妙子は、二人を起こすことに決めた。



「……何だい、白石君……まだ夜中じゃないか」
「にゃあ……たゆりん、トイレなら一人で行ってくるにゃりよー……」
 二人とも、大あくびをしながら眠たげに目を擦り擦りしつつ、不満の声を漏らす。何故自分たちが起こされたのか解ってない様子だった二人も、一分と立たずに“異様な場の空気”を感じ取った。

『あんっ! あぁん! あぁんっ! んっ! んっ! あんっ!』

 そんな、壁を震わす嬌声が響くや、二人ともハッとしたように表情を凍らせた。
「これは……」
「え、えっちの声にゃり!」
 暗くて解らないが、二人とも顔を赤くしているようだった。この苦境を共有できる仲間が出来た事に、妙子は少なからず満足した。
「……もうかれこれ二時間以上ヤリっぱなしなのよ」
「……何故二時間前に起こしてくれなかったのか。……恨むよ、白石君」
 ジッ、と。本気で恨むような目で見据えられ、妙子は言葉を失った。恨まれるだろうとは思っていたが、まさかそんな理由で恨まれるとは思ってもみなかったからだ。
「わっ、わっ……スゴいにゃり……生エロボイスにゃり! AVと全然違うにゃり!」
 一方英理は英理で興奮しきっており、鼻息荒く目を輝かせている。
「英理の言う通りだ。……これは大変貴重な体験だ。…………なんというか、スゴいな、うん」
「二人とも喜んでないで、何か解決策考えてよ。これじゃあ寝られないわ」
「……別に解決などしなくていいのではないか?」
「はぁ!? 寝られなかったら明日寝不足になっちゃうでしょうが!」
「でもでも、たゆりん! こんなの、滅多に聞けないにゃりよ!? しっかり聞いて、今後に活かした方が絶対いいにゃり!」
「こんなのをどう活かすっていうのよ!」
 どう考えてみても、他人のセックス中の声を聞いた経験が活きる“何か”など、妙子には想像もつかない。
「いや英理の言う通りだ。……例え声だけとはいえ、いろいろと学ぶ事は多い筈だ」
「あんたたち頭湧いてんの!? こんなのに学ぶことなんてあるわけないじゃない!」
「それは我々の心がけ次第だよ。…………なるほど、こっちの部屋から聞こえてきてるのか。……出来ればもっと、息づかいや、男の方の声も聞きたいものだが」
「にゃ、壁に耳くっつけてみるにゃり?」
「おお、それは良い考えだ。早速コップを持ってこよう」
 と、立ち上がろうとする佐由を、妙子は力尽くで引き倒す。
「や、め、な、さ、い! さすがにそこまでやったら、人として終わるわよ!」
「…………白石君、どうやら君とは価値観が違うようだ。私はあくまで好奇心として――」
「私の価値観だと、そこまでやったらそれはもうのぞきや痴漢と同レベルよ!」
「むぅ……」
「たゆりん、キツキツにゃり。真面目にも程があるにゃり」
「白石君は私たちを起こしてどうするつもりだったんだい?」
「それは……一体どうすれば止めさせる事ができるかって、相談したかったのよ」
「そんなのは、壁ドンで一発だろう?」
「そ、そこまではしたくないの! もっと穏便に、それとなく、迷惑だって解らせたいのよ!」
「やれやれ、君はワガママだね」
「たゆりん、ワガママにゃり」
「だって、しょうがないでしょ! このままじゃ寝られないし、いつまでたっても終わらないんだから!」
「耳栓をするというのは?」
「持ってないし、さっきティッシュを丸めて詰めてみたけど、ダメなの。どうしても聞こえるのよ」
「にゃ。旅館の人に言って注意してもらうのはどうにゃり?」
「どうかな。個人的には勧められないな。…………そもそも、だ。他人の情事を邪魔したいという考え方自体、私は賛同できない」
「そんなの、時と場合によるでしょ?」
「そう、白石君の言うとおり、時と場合による。……これがたとえば自宅側の公園で、とかなら、私だって遠慮無く警察に通報するさ」
「……旅館の部屋なら許せるっていうの?」
「夜の公園よりは、といったところかな。…………それにね、もしかしたら深い深い事情があるかもしれないじゃないか。……白石君、仮に君が、数年間恋人と離ればなれだったとしよう」
「……なんで私を例えに使うのか聞きたいけど、それはいいわ。……数年間離ればなれになってたらどうだっていうの?」
「相手の男性は長期の海外出張で、しかも出世頭だ。いつかは戻ってきてくれると信じながら、君は待ち続けるわけだ」
「……それで?」
「そしてやっと、会社から三日間の休みがもらえた。彼氏は喜び勇んで日本へと帰り、真っ先に君の所へ向かう。今まで一人待たせた詫びにと、その足で一泊二日の温泉旅行へと向かった! 夜は当然セックスだ。数年間の空白を埋めるような激しい激しいセックスをするわけだ! しかし! そんな二人に突然の悲劇が!」
「……ねえ、どうして真っ先に旅行に行くの? 時間が無いんだからそれこそ自宅でいいじゃない」
「しっ。たゆりん、口をはさんじゃダメにゃり」
「数年ぶりのセックスはなんと、心ない隣の宿泊客によって阻害されてしまったのだ! 二人はそれ以来気まずくなり、やがて破局。決して互いの事が嫌いで別れたわけではない二人は、生涯怨み続けることだろう。……あぁ、あの隣に宿泊した三人の女子高生さえ居なければ、と」
「ねえ、それあんたの妄想よね? 今隣でヤッてる二人がそういう経緯で泊まってるわけじゃないのわよね?」
「そういう可能性もある、ということさ。何より、もし自分たちが邪魔されたらと想像してみたまえ。絶対に嫌だろう?」
「それ、は……そうだけど……だけど!」
「それに、仮に苦情を申し入れて止めさせられたとしても、後々必ず話のネタにされると思うよ。“ねー、あの子達って絶対あたしらの事妬んで文句言ってきたよねーブゲラ”という具合にね。白石君はそれでもいいのかい?」
「……むしろ、そういう連中ならまったくの気兼ねなく壁を蹴れるんだけど」
「たゆりん心狭すぎにゃり。……ひょっとして、本当に妬いてるにゃり?」
「だっ」
 図星――ではない。図星だとは、絶対に認めない。
「誰が、妬いてるっていうのよ! そもそも、私だったらこんなっ、他人に迷惑がかかるような場所じゃ絶対にしないわよ!」
「どうかな。いざとなれば、お互いの事しか目に入らないのが恋愛だよ」
「たゆりん性欲強いから、尚更にゃり」
「だから! 勝手に人に変なレッテル貼るなって言ってるでしょ!?」
「と言いつつ、本当は触発されて興奮しまくりなのだろう?」
「はぁ!? 誰がよ!」
「たゆりん、悶々にゃり?」
「英理まで……ふざけたこと言ってると、ぶっ飛ばすわよ!?」
「おお怖い。いい加減素直になりたまえ、白石君。…………本当は体が疼いて疼いて仕方ないのだろう? 紺崎君に慰めて欲しくて堪らないのだろう? しかし、紺崎君は側に居ない、だからそんなに気が立っているのだろう?」
 ブチブチブチッ――そんな音を立てて、妙子は堪忍袋の緒が切れるのを感じた。
「………………殺す!」
「あわわっ、さ、さゆりん言い過ぎにゃり! たゆりんマジギレにゃりー!」
「おっと、落ち着きたまえ、白石君。ほんの軽いジョー……ぐぇっ」
「たゆりん! たゆりん! 首締めるのはまずいにゃり! さゆりん本当に死んじゃうにゃりよ!」
「うるさい! あんたも同罪よ、英理! 二人仲良く口を利けなくしてやる!」
 ………………。
 …………。
 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 ……。
 …………。
 ………………。
 窓の向こうは夜明けの空。夜という名のカーテンが徐々に、濃紺から紫、そして淡い水色へと変わりゆく中。
 妙子はかつてないほどに、怒りを溜め込んでいた。
「い、い、か、げ、ん、に、しろぉぉぉ…………」
 血を吐くような声で、妙子は呟く。隣の布団には佐由が。逆サイドには英理が。それぞれ寝ているような、気絶しているような、何とも曖昧な定義のまま横になっている。それをやったのは他ならぬ妙子なのだが、しかし姦しい二人を黙らせたからといって、自分が眠れるというわけでもなかった。

『あーーーーーッ!! あーーーーーッ!! あぁぁぁっ……ひぁぁっ……も、許してっ……ゆるひてぇえええええ!!』

 隣から聞こえる、相も変わらぬ叫び声。許して欲しいのはこっちだと、妙子は歯ぎしり混じりに思う。
(いつまで……いつまで続ける気なのよ! もう朝よ!?)
 夜通し。文字通りの夜通し。どんだけセックスが好きなんだと。妙子は幾度となく隣の部屋に乗り込み、裸の男女を正座させて説教をしてやろうかと思った。しかしギリギリのところで踏みとどまり、あと5分で終わるはず。あと10分でさすがに終わる筈だと希望を持ち続けて、結局完徹してしまったのだった。

『あひぁぁあっ! ひぃっ……あぁああっ! 壊れるっ……壊れちゃう!!!』

 だったら止めろ、と妙子は叫びたかった。それとも、女の方は本当に止めたいのに、男が離してくれないのだろうか。
(どんだけ、よ……それともなに? 遠回しに自慢してるの?)
 イライラの極みにある妙子はにはもう、何もかもが腹立たしくて仕方なかった。
(彼が絶倫過ぎて困っちゃうーとか言いたいワケ? 本当に嫌なら、止めてほしいなら爪を立てるなり噛みつくなりして止めさせればいいでしょうが!)
 いらいらいら……かつてこれほどに腸を煮えさせたことがあるだろうか。仮にサンドバックのようなものが手近にあれば、それこそ両手の拳から血が噴き出すまで殴りつけたい気分だった。
(ううん、サンドバックじゃなくてもいい……“アイツ”でいいわ)
 紺崎月彦。どういうわけか、隣から女の甘い絶叫が聞こえる度に、チラチラとあの男の顔が脳裏を過ぎるのは何故なのか。妙子はこの不可思議な現象の説明を、脳が「アイツを殴ればスッキリできるよ!」と推奨しているに違いないという方向に理解していた。
 それほどまでに、今の妙子は冷静さを欠いているのだった。
「はぁぁぁぁぁ…………」
 呪わしげに息を吐く。一端矛先を紺崎月彦に向けてしまえば、全ての元凶があの男であるように思えてくる。あのバカ男がまた成績不振でも起こして、葛葉から家庭教師の依頼でも入っていれば、それを理由に旅行を断る事だって出来た。
 だから、今こんなにイライラする目に遭っているのは、すべてあの男が悪いのだ――暴論にも程があるが、今の妙子はそうとでも考えねば心の均衡を保てなかった。
(……会いたくない時は、煩わしいくらいにつきまとってくるクセに!)
 こういう必要な時に限って居ない、本当に使えない男だと、心底思う。あの男のへらへらとにやついた顔を、今すぐにでも殴りつけてやりたい。さらに蹴りつけて、地面に這わせてやりたい。土下座をさせて、踏みつけながらごめんなさいごめんなさいと言わせたい。
「ぁぁっ……」
 甘美な妄想に、ゾクリと背筋が震える。それは実に良い考えだと思う。あの男は、一度キッチリ調教――躾直してやるべきなのだ。本来ならば親である葛葉がやらねばならないところだが、あの優しい母親には“厳しさ”が足りない。だから代わりに自分がやるしかない。
「んっ……」
 そうだ。躾の基本はまずは“お手”だ。あのバカ男を正座させ、“お手”から仕込む。ああその前に、着ているものを剥いでしまおうか。“犬”には衣類など必要無い。お情けで下着だけは残してやろう。そして首輪をつけてやるのだ。大型犬用の首輪をしっかりとまきつけ、リードをつけて部屋の中で引き回してやろう。
「っ……くっ……ふぅ……」
 体が熱い。掛け布団すら煩わしく感じ、妙子は悶えるように寝返りを繰り返しながら、毛布を蹴り飛ばすように掛け布団の外へと押し出してしまう。
「はぁっ……ぁふ……ぅ……」
 浴衣の布地の上から、自分の体を触る。自分でも驚くほどに火照っていた。怒りは体温まで上げるのだろうか。そうして浴衣の上から体を触っているだけで、思わず声が漏れそうになる。指が這い、裾から浴衣の下へと勝手に潜り込む。

『あぁぁぁあっ! あぁぁぁぁあーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!』

 ビクッ、と。一際大きな嬌声が聞こえた瞬間、妙子の意識は朦朧状態から俄に覚醒した。反射的に、浴衣の下へと這わせかけていた手を握りしめ、がばっと体を起こす。
「はぁぁぁぁあっ…………私……今、何……して……」
 “あの男”を嬲る妄想を抱いたところまでは覚えている。“それ”に合わせて、一体何をしようとしていたのか――妙子は己の行いに、恐怖すら感じた。
「……っ…………」
 つん、と。ブラの生地と突起が擦れるのを感じる。直に手で触れたい――そんな誘惑を、かぶりを振って否定する。ほら、やっぱり性欲が強い――そんな囁きを聞いた気がして、妙子は咄嗟に気絶したままの二人を睨み付ける。が、気絶している二人がそもそも言葉を発するわけがない。

『あっ、あっ、あっ……あァァァァアア〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ……!!!!』

 また、絶叫。妙子は思わず自分の顔をかきむしりそうになる。歯を食いしばりながら携帯の時計を見ると、7時過ぎとなっていた。もはや完全に朝だ。
(…………まさか隣、朝食の時間になっても続ける気なのかしら)
 驚嘆の一言だった。怒りを通り越して、呆れすらする。人はそんなにも長い間、交尾に没頭できるのだろうか。
 ……セックスとは、そこまで人を熱中させるものなのだろうか。
「………………。」
 不意に尿意を感じ、妙子は立ち上がる。
 ――が。
「…………っ…………!」
 違和感――妙子が感じていたものの正体は、尿意などではなかった。赤面。つい、二人の方へと視線を向けてしまうが、やはり気絶したままだった。
 トイレではなく、シャワーを浴びよう――妙子は方針を変え、忍び足でキャリーバッグの元へと移動し、着替えを手にバスルームへと向かった。


 


 


 どうやらこの旅館の部屋は、同じ部屋が並んでいるのではなく、壁を挟んで左右対称の部屋が1セットで並べられているらしい。理由は恐らく水回り関係だろう。つまり、配管上の都合から各部屋のユニットバスは壁一枚を通じてくっつき合う形で配置されているに違いないと、妙子が思ったのには、勿論理由があった。

『んはぁっ……あぁっ! あぁあっ! あぁぁぁっ! ひぁっ……ひぃっ……ひぃっ……あはぁっ……あぁあっ!! ぁあああっ!!』

 それは、先ほどまでとは違う、まるで耳元で直に喘がれているかの如く、はっきりと聞こえる声だった。
(ちょっ……ええぇえ!?)
 既に脱衣を済ませ、シャワーを浴び始めていた妙子はそのあまりの音量に思わず体を硬直させた。どんどんと微かに壁を叩かれているような音が聞こえるのは、どちらかの体が壁にぶつかっているからなのだろう。シャワーを止めれば、二人の息づかいまで聞こえてきそうなほどに、生々しい距離だった。
(……いい加減にしてよ! いったいどんだけすれば気がすむのよ!)
 赤面しながらも、妙子は顔が引きつるのを感じる。するにしても、バスルームまでついてくるなと言いたかった。勿論ただの偶然なのだろうが、妙子にしてみれば、カップルが嫌がらせの為にあえて声が聞こえやすい場所に移動してきたかのように思えてならない。
『んひぁっ、ひぁっ、あはぁぁあっ、ひぅっ……ひぅぅっ……ンぁぁあっ……はぁ−−−−−−−−っ……はぁーーーーーーーっ…………』

 ひょっとしたらこれは壁越しではなく、天井の換気口から聞こえてきているのだろうか。声を聞いているだけで、うっとりと快感に蕩けている女の顔が目に浮かぶようだった。単純に、純粋にシャワーだけを浴びるつもりでバスルームに入ったというのに、薄壁一枚向こうでは裸の男女が絡み合っていると思うだけでもう、平常心を保つ事など不可能だった。
(……ぁ……男の、声……?)
 シャワーの水音に混じって、微かに男の声が聞こえる。叫ぶような女の嬌声とは違い、囁くような、モニョモニョとした声に、何を喋っているのかまでは聞き取れない。

『やっ……そん、な……ひぁっ……ッ………………ンッ………………ンンンッ!!』

 途端に、女の声が小さくなる。そのため、妙子には先ほど男が何を囁いたのか、容易に推測することが出来た。
(……まさか、こっちがシャワー浴びてるって、向こうにも聞こえてるってこと?)
 恐らく「あんまり大きな声を出すと、隣に聞こえるぞ?」的な事を囁いたのではないだろうか。そうでなければ、女が急に声を抑え始めた理由がつかない。
(……っ……だからって、別に……こっちが遠慮することなんか……!)
 シャワーを止めかけて、妙子はそう思い直す。そう、こっちは純粋にシャワーを浴びているだけなのだ。何を遠慮することがあると。むしろシャワーの音を強くして、堂々と全身に湯を浴びる。

『ンンッ……ンンッ……ンンンッ……………………ンンンッッッ!!!!!!』

 隣から聞こえる、必死に押し殺しているであろう声。壁に当たっている体の音も相変わらずだが、苛立っての抗議と勘違いされたくはないから、妙子は極力自分の体が壁に当たったりしないように配慮する。
 髪を洗い、体を洗っていると、再び女の声が大きくなった。

『……っっっっっっっ……………………だ、だめっ…………こんなの、……無理っ……声、抑えるのなんて、無理ぃっっ…………』

 そんなに?――妙子は体を洗う手を思わず止めてしまう。そんなに、良いのか。セックスというのは、声が抑えられないほどに、気持ちいいものなのか。

『ああアァァッ!!』

 それはもう、雄叫びのような声。ずくんと、下腹の奥が思わず疼くような、トロけきったメスの声。

『ああァァッ! ああァァッ! アアアッ!!!』

 女の声だけで、女性器に男性器が突き刺さっている様までありありと想像出来そうな程に、生々しい嬌声。
 AVの演技などでは到底真似出来ない。身も心も快楽に溶かされているものにしか出すことの出来ない声。
 はぁはぁと、妙子は知らず知らずのうちに、己が息を乱していることを知った。

『ああぁぁあっ、あぁぁあっ…………ああアアッ!! ……気持ちいい………………気持ちいいのぉ……ああぁぁっ、ぁぁああっ!!!』

 女は叫ぶように「気持ちいい」を連呼する。よくもまぁ、こんな言葉をはしたなく連呼できるものだと呆れる反面、「そんなになの?」と思わざるを得ない。……キュッと、太ももが綴じ、胸の先が痛い程に堅くなるのを感じる。
 だめだ、こんな声を聞いていたら、頭がどうにかなってしまう――そう思い直して、妙子は一刻も早くバスルームを出るべく、体についた泡を落とそうとシャワーを頭から浴びる。

『あぁぁっ、あんっ! あぁっ、んんっ!』

 そんな妙子の心情などまったく無視して、嬌声は続く。声だけでなく、ぶつかり合う肉と肉の弾ける音すら聞こえてくるようだった。互いの体を抱きしめあい、舌を絡め合いながら、快楽のままに声を上げつづける二匹の獣の姿が、脳裏に浮かんだまま消えようとしない。
「っ……んっ……」
 妙子は思わず、右手でシャワーヘッドを握ったまま、左手で己の体を撫でつける。忌々しいほどに育った胸元から、最近ちょっと肉付きがきになりつつある腹部。そしてその下へと向かいかけて、慌てて手を引く。その動きが、妙子の思考の流れを如実に現していた。

『あぁぁあっ、いいっ……イイッ……そこ、イイッ……はぁぁぁぁあっ……イイッ……いぃっ……気持ちいいっ……気持ちいいっ…………!』

 “そこ”というのが一体どこなのか――妙子は熱に浮かされた頭でつい想像してしまう。胸なのか、それとも女性器なのか。まるで自分自身の体で“そこ”を捜すように、妙子は無意識のうちに身をくねらせ、腰を振るように前後させてしまう。
(そんなに……そんなに、イイの……? そんな……譫言みたいに……他のコト何も考えられなくなっちゃうくらいに)
 そんなものは知らない。昨夜までは、知りたいとも思わなかった。
 しかし今は。

『あっあっ、あっ……あンッ! あンッ、あンッ! あっ、あっ……らめっ……らめっ……も、イく……イクッ……イクッ……イクッ……!!』

 聞こえてくる声がいっそう甲高く、甘く切ない響きへと昇華する。その切羽詰まった声に、否が応にも女の絶頂が近いであろうことが伝わってくる。
「っ……やめてぅ……もう、やめてっ…………」
 掠れた声で言いながら、妙子は壁を引っ掻くように爪を立てる。はぁはぁと息を乱しながら、まるで自分自身が背後から突かれているかのように、淫らに腰をくねらせながら。
(だめっ……だめっ……こんなの、気が変になる……!)
 気を抜くと、指が勝手に体を這いそうになる。事実、何度もそうなりかけて、その都度妙子は鋼の自制力で持ち直し、ギュッと拳を握るようにして堪え続けていた。
 しかし、その自制心も限界に近い。

『イクッ、イクッ、イクッ……あぁーーーーーーーーーーーーーッイクッ、イクイクイクイクッ……イクゥゥゥッ!!!!』

 体が、勝手にくの字に曲がる。まるで強烈な暗示でもかけられているかのように、体の奥がキュン、キュンと疼き、それを堪える為にギュッと太ももを綴じ、腹痛に耐えるような姿勢になる。
「いっ……ヤッ……もっ……許して……!」
 それは一体、誰に対しての懇願なのか。妙子は殆ど泣くような声で呟く。

『あッッッッッ…………あァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッッッッッッ!!!!!!』

 そして、絶叫。
「………………っ……ンッ……!」
 ピンと、足が伸びる。くの字に折れていた体が、今度は弓なりに反る。咄嗟に妙子は右手で口を覆った。
 何故そうしたのかは、妙子自身にも解らなかった。



 シャワーを終え、髪を乾かして着替え、髪を結んで部屋へと戻ると、丁度従業員が布団を回収に来たところだった。
「……ほら、二人ともいい加減起きなさい」
 妙子はぺちんぺちんと往復びんたをする形で、二人を無理矢理起こした。が、尚動きの鈍い二人をごろごろと転がすように部屋の隅へと追いやり、従業員の仕事の邪魔にならないようにした。
 布団が回収され、さらにてきぱきと朝食が運ばれてくる。仕事を終えて去って行く従業員に、昨夜の出来事を言おうかと思うも、結局妙子は黙っていることにした。こんな苦情を言われたところで、旅館側も困るだろうと思ったからだ。
「ううん……なんだ、もう朝か……」
「まったく寝た気がしないにゃり……ふぁぁ……」
「……それはこっちの台詞よ。二人ともグースカ寝てたくせに!」
 正確には妙子が締め落とし、そのまま寝ていたのだが、眠れぬ夜を過ごした身としては結果的にぐっすり眠れたらしい二人が恨めしくて仕方なかった。
「もう朝食が来てるじゃないか」
「先に顔洗ってくるにゃりー……」
 箸を握る佐由。顔を洗いに行く英理。先ほどシャワーを済ませた妙子は、佐由の向かいで箸を握った。
「……おや、白石君。なかなか酷い顔じゃないか、昨夜は眠れなかったのかい?」
「………………そりゃあね。眠れなくもなるわよ…………信じられる? 結局あのあと朝までぶっ通し、ついさっきまでヤッてたのよ?」
「……………………ああ! 隣の件か。すっかり忘れていたよ」
「もう……ほんっっっっと信じらんない。本当はAVか何かだったんじゃないかしら……」
「朝まで休憩なし、かい?」
「朝まで休憩なし、よ!」
 ばんと、箸をテーブルに叩きつける。きょとんと、佐由が目を丸くした。
「私に当たられても困るのだが」
「……ごめん。とにかく頭がどうにかなりそうだったわ」
「成る程ね。超スピードだとか催眠術だとか、そんなチャチなものじゃ断じてない、もっと恐ろしいものの片鱗を味わったのだね?」
「……寝不足のせいかしら。あんたが言ってる言葉の意味がさっぱり理解できないわ」
「そんなこともあるさ」
 佐由が笑う。バスルームのドアが開き、英理が戻って来た。
「英理……下着見えてる」
 だらりと。浴衣の片側が大きく着崩れ、橙色のフリル付きのブラが丸見えになっていた。が、英理は顔を洗って尚眠いのか、軽く着直すような仕草をしただけで自分の膳が置かれている前へと座った。
 そして座った衝撃でまたでろーんと、浴衣がはだけてしまった。
「うー、寝足りないにゃり…………さゆりん、チェックアウトって何時にゃり?」
「三時の予定だ。本当なら、今日も午前と午後、石段を二往復した後、帰る予定だったのでね」
「………………今度から、旅行の計画立てるときは、私もスケジュール決めに参加することにするわ」
 佐由に丸投げしたが故に、危うくとんでもない旅行に付き合わされる所だった。次があるかは解らないが、もしあれば必ず口を挟むことにしよう――妙子は心に誓った。
「あれ、でも……三時にチェックアウトでちゃんと帰れるにゃり? 終電間に合うにゃり?」
「その点は心配ない。事前に時刻表をチェック済みだ。行きと通る路線はがらりと変わるが、似たような時間で地元まで帰り着けるはずだよ」
 ちょっとした時刻表トリックだ――佐由は誇らしげに胸を反らす。
「……なんでもいいけど、三時までここに居るなら、少し眠りたいわ……」
「たゆりんも寝不足にゃり?」
「ほら、アレだよ。昨夜はお隣がお楽しみだっただろう?」
「ああー!」
「白石君は律儀にも、眠らずに終わりまで聞き続けたそうなのだよ。なんと、朝まで続いたそうだ」
「ひゃー! スッゴいにゃり! 絶倫にゃり! たゆりん物好き過ぎにゃり!」
「…………人が好きで起きてたみたいに言わないでくれる? こっちは寝たいのに眠れなかっただけなんだから!」
「でも、別にそこまでうるさいという程でも無かっただろう?」
 確かに佐由の言う通り、あれを単純に音――騒音というもので判断するなら、うるさくて寝られないという程のものではなかった。
「……そんなこと言われたって……勝手に目が冴えてきちゃうのよ」
「まあ、言わんとすることは解らなくもないがね。……それは恐らく、生物としての本能的なもので、理性ではどうにもならなそうだ」
「たゆりん、ムラムラしちゃったにゃりねー」
「ムラムラなんかしてない! イライラしただけ!」
「ムラムラして眠れないのなら、いっそ自分で自分を慰めてしまえばよかったのに。……私も経験があるが、驚く程スッキリと眠れるよ?」
「…………あんたと一緒にしないで。……ていうか、ムラムラなんかしてないって何度言わせる気。……言っとくけど、私今かなり頭に来てるんだからね。からかう気なら相応の覚悟しときなさいよ」
「ひっ、思い出したにゃり! さゆりんが目の前でたゆりんに締め落とされてたにゃりよ!」
「…………昨夜の記憶が曖昧なのはそのせいか。……てことは多分英理もやられたな」
「……………………警告はしたわよ」
 充血した目でキッと睨み付け、妙子はもそもそと朝食を口へと運ぶのだった。


 朝食が終わり、室内の簡単な清掃などをしつつ、帰り支度をする。それらが一通り終わると、妙子は浴衣姿のまま座布団マクラにこてんと横になった。佐由の話では、チェックアウトは三時だが、昼食は出ないらしい。つまり邪魔さえ入らなければ、このまま時間ぎりぎりまで寝ていられる――筈だった。
 しかし。
(………………眠れない)
 眠気はある。それこそ、目を開けているのが苦痛でたまらない程に。だというのに、目を閉じても一向に眠れる気がしない。
 言うなれば、体は疲れ切っているのに脳だけがギンギンに目覚めているような、そんな状態だった。そして眠れない理由がもう一つ。
(……なんか、耳に残ってる…………)
 そう、もうあの悪夢のような夜は明けた。お隣さんもさすがに今頃は疲れはてて寝ているであろう筈なのに、あの喘ぎ声が耳にこびりついて離れないのだ。それこそ、空耳だとわかりきっているのに、無視することが出来ない。
 そんな眠りたくても眠れない状況に、イライラが募る。そのイライラのせいでさらに眠れなくなるという悪循環。
「……だめ、眠れない。…………ねえ佐由、英理。二人とも睡眠薬とか持ってない?」
「生憎持ってないな」
「持ってないにゃりー」
 窓際でチェスに興じている二人は、揃って首を横に振る。
「……白石君、これはからかうわけではなく、完全に善意から言わせてもらうが………………一度スッキリしてから、心置きなく眠るのがベストだと思うよ?」
「…………絶対に、嫌」
 吐き捨てるように言って、妙子は寝室の襖を閉め、ごろりと横になる。が、やはり眠れる気がしない。
 眠れない、眠れないと何度も寝返りを打ち続け、そして気づいた時には襖の向こうから声をかけられた。
「白石君、そろそろ時間だよ。着替えてくれたまえ」
「…………わかった」
 携帯で時刻を確認する。二時半をやや過ぎていた。確かに佐由の言う通り、着替えて帰り支度をせねばならない時間帯だった。
 頭が重く、まるで酔っ払っているかのように視界が揺れる。歩くと、まるで雲の上でも歩いているかのようにふわふわと落ち着かない。疲労の局地だ。そんなにも疲れ果てているのなら寝させてよと、妙子は叫びたかった。


 着替えを済ませ、最後に忘れ物の確認をしてから、部屋を出る。一階へと下り、佐由がチェックアウトの手続きを済ませる間、妙子はずっとロビーのソファに腰掛けてぐったりしていた。
「そういえばさゆりん、おみやげはどうするにゃり?」
「何か買いたいというのなら止めはしないよ。……私は昨日一人でいろいろと見て回ってみたが、特に欲しいと思えるものは何も無かったから今回はスルーだな」
「むー……確かに、品揃え悪すぎにゃりね。……おまんじゅうなんか要らないにゃり」
「ほら、白石君。ぐったりしてないでそろそろ行くよ? 電車に遅れてしまう」
「……わかってるわよ」
 のそりと。ゾンビのような緩慢な動きで妙子は立ち上がり、キャリーバッグを手に旅館を後にする。そのままやや早足の佐由に先導される形で、駅へと向かう。
「あっ、昨日のおねーさんにゃり」
 改札口を潜り、駅のホームでベンチに座っている人影を見るなり英理がそんな事を呟く。慌てて駆け寄ろうとして――その足が、3歩と進まずに止まった。
「…………?」
 妙子は単純に、英理の様子の不審さに首を傾げた。続いて、英理の視線の先へと目を向けて、英理が何故足を止めてしまったのかを理解した。
「…………そっとしておこう。私たちに出来ることは何もない」
 佐由が小声で、英理に言った。英理も頷き、ベンチに腰掛けたまま肩を揺らして泣いている女性の視界には決して入らぬ様、ホームの片隅で電車を待った。
(…………確か、告白する……って言ってた人なのよね)
 それを、英理が勇気が出ないなら酒の勢いで〜と助言したという話を、昨夜聞いた。その女性が今、一人で泣いている。
(…………ダメだったんだ)
 これが知り合いであれば、慰めの言葉もあるだろう。しかし同じ旅館に泊まり――英理と佐由だけだが――辛うじて面識がある程度の関係では、かける言葉もない。むしろ、向こうに余計な気を遣わせてしまうことになるのではないか。
(……佐由の言う通りね)
 恐らく、英理は責任の一端を感じているのだろう。電車を待つ間、一人泣きそうな顔をしていた。あんたが責任を感じるようなことじゃない――妙子はそう言ってやりたかった。告白をしたいが、勇気が出ない――そう悩んでいる女性に、踏ん切りがつくようにアドバイスをすることは、決して悪いことではない。仮にその告白が失敗に終わったとしても、それはアドバイスをした者の責任ではないのだから。
(……告白をしたほうがいいのか、で悩んでたなら、話はちょっと変わると思うけどね)
 詮無い事だと思う。ふああ、とあくびをしたその時、目当ての電車がやってくるアナウンスがホームのスピーカーから流れた。
 妙子はちらりと、ベンチに座っている女性の方を見た。遠くから電車がホームへと入ってくるのが見えるが、女性が立つ素振りは無かった。どうやら、同じ電車に乗るわけではないらしいと、少しだけホッとした。
「って、あれ……佐由。これ、電車逆じゃないの?」
 と思ったのは、電車の向きが、最初にこの駅に来るときに乗っていたものと同じ向きだからだ。これでは帰るどころかむしろ遠ざかってしまうのではないか。
「行きとは違う路線で帰ると言っただろう? 寝不足の白石君はもう何も考えずに、私たちに着いてくれば大丈夫さ」
「……そーね。悪いけどそうするわ……もう、本当に眠くて……」
 或いは、電車のシートでなら、眠れるかもしれない。
 そんな淡い期待をかけながら、妙子はキャリーバッグを手に乗車した。



 結論から言えば、妙子はまったく眠ることが出来なかった。コトンコトンという小気味の良い振動に揺られて、あぁこのままなら眠れそうだと思った矢先での乗り換えだったり、そういうときに限って電車が混んでいて座る事が出来なかったりとさんざんだった。
 佐由と英理は、行きに佐由が持ってきた音楽プレイヤーでフィーナイの録音ラジオを聞いているようだったが、妙子はこれは断った。それより何より、眠りたかった。
 が、眠れない。途中、佐由が駅弁を買おうと言いだしたときも、妙子は食欲がないからと断った。同様に英理も今は食欲がないと言い、結局佐由も駅の売店で買った固形栄養食で簡単に済ませていた。佐由はともかく、英理が食欲が無いと言うのは非常に希な事であるが、理由ははっきりしているから特に疑問にも思わなかった。


「じゃーねー、たゆりん。寝過ごしちゃだめにゃりよー!」
「家に帰るまでが旅行だぞ、白石君」
「はいはい。じゃあ、明日学校でね」
 手を振って、一足先に電車を降りる二人に別れを告げる。行きに使ったルートを真逆に辿っていれば、先に降りるのは妙子のほうになった筈だった。しかし、帰りに佐由が使ったルートではそうはならず、佐由達の最寄り駅の方を先に通ることになった。
 とはいえ、妙子が降りる駅とそう離れているわけでもない。ほんの十分少々我慢すれば、最寄り駅につく。あとは少し歩けば自宅アパートだ。さすがに自宅まで帰り着けば、ぐっすり眠る事が出来るだろう。何にもまして、妙子はそのことが有り難く、その瞬間を待ちわびるように、電車の窓から流れる夜景を眺め続けた。

 電車が停車し、ドアが開く。丁度ホームの向こう側にも逆向きの電車が停車しており、雑多とした人混みに溢れていた。それらに半ば流されるように改札口を抜けたところで――はたと。
 妙子の足は止まった。
「……え?」
 人混みに紛れるように歩く、見覚えのある後ろ姿。まさかと思い、妙子は早足に追いかける。
「…………月彦?」
 恐る恐る声をかけると、ギョッとした顔で月彦もまた振り返った。
「た、妙子……?」
「…………何よ、あんたもどっか出掛けてたの?」
 月彦はリュックを背負っており、その大きさからしてただ知り合いの家に遊びに行った――というわけではなさそうだった。泊まりがけの旅行でなければ、このサイズを使うことはないだろう。
「まぁ、な。……“も”って事は、妙子もか?」
「まーね。友達二人と旅行に行ってきたの」
「そうか。……楽しかったか?」
「それなり。……あんたは?」
「それなり……だな」
 どこか自嘲気味に、月彦は言う。
 ぽぅ、と。なにやら胸の奥に不思議な熱を感じたのはその時だった。何故だか、眼前の男に例えようのない引力のようなものを感じる。
「……ねえ、あんた……さ……晩ご飯、食べた?」
 疑問に思うよりも先に、そんな言葉が口から飛び出た。妙子自身、自分が何故そんな話を振ったのか解らなかった。一刻も早く自分の部屋へと帰り、寝たかったはずなのに。
「いや、食べてないけど」
「そう。…………私も、まだなんだけど」
 自分の行動が、自分で理解できない。これではまるで、食事に誘っているようではないか。
(……何かしら、この感じ……)
 うずうずと、胸の奥が疼く。体の細胞の一つ一つが、“何か”を求め訴えるような、そんなもどかしさ。
 目の前に居るのは、紛れもない紺崎月彦。ただの幼なじみ――の筈なのに、ただその性別が男であるというだけで。生物として自分とは対を成す存在であるというだけで、不思議な“揺さぶり”のようなものを感じるのだ。
(……ダメッ……なんか、おかしなことになってる)
 事ここに至って、妙子は漸くにそのことを理解した。昨夜から今朝にかけて、あまりに異常な状況に長時間置かれすぎたせいで、頭がおかしくなっているのだ。
 そうでなければ、こんな。こんなにも。
 “男が恋しい”という気分になるわけがないではないか。
「…………悪い。多分、母さんが晩飯用意してくれてると思うからさ」
 恐らくは、妙子の言葉の意図するところが伝わったのだろう。月彦は遠回しにそんな断りを入れてきた。
 ホッと、妙子は安堵の息をつく。断られてよかったと思う。もし承諾されていたら、或いはそのまま取り返しのつかないことになっていたかもしれない。
 良かった、本当に――。
「じゃあ、さ。…………ちょっとだけ、うちに寄っていかない?」
 は?――自分で言っていて、思わずそんな声が出そうになる。たったいま月彦が断りを入れたことに、安堵したばかりではないかと。
 何故また、自分を窮地に追い込むような提案をするのかと、妙子は大げさでなく、混乱した。
(ちょっ……私の頭、どうしちゃったの……?)
 あまりの事に、妙子は赤面すらしてしまう。脳裏に、今朝までさんざんに聞かされた顔もしらない女性の喘ぎ声が木霊する。それらは徐々に、徐々に輪郭を帯び、最終的には喘がされているのは妙子本人の形へと変化する。
(……っ…………ちょっと、ダメよ、そんなの……!)
 男が、恋しい。その肌に触れたい。側に居たい。声を聞いていたい、その体臭を肺一杯に吸い込みたい――そんな肉体的な欲求に総却下を出しながら、妙子はギリっと歯を食いしばる。
 人間と動物の一番の違いは、理性があるかないかだ。理性を失えば、それはもはや人間とは呼べない。ここで肉体の欲求に身を委ねてしまうのは、人間から動物に堕落することに他ならない。
 そう、人間は自制できるのだ。己を律することこそ、人間が人間である証だとも言える。
(……っ……)
 しかし、妙子は予感していた。もし仮に今夜。この男を部屋に上げてしまったら。そのままいつぞやのように組み伏せられてしまったら。
 自分はきっと、抵抗出来ないだろうと。そしてそのまま、あの顔も解らぬ女性のように、あられもない声を上げさせられるのだろうと――。
「…………悪いな。今日はちょっと、そういう気分じゃないんだ。……またな」
「あっ……」
 しかし、“そう”はならなかった。紺崎月彦にしてはあまりにもあっさりと――珍しく、胸元にチラリとも目を向けてこなかった――踵を返し、駅から吐き出された人混みの中へと紛れていく。
 安堵。
 なによりも安堵を、妙子は感じた。
「………………。」
 月彦の姿が見えなくなるまで目で追って、妙子もまた歩き出した。駅を出るなり、凍えるような寒気が全身を包み、慌ててキャリーバッグの中にしまっていたマフラーを取り出し、首の周りに巻いた。
 寒い。本当に寒いと、妙子は思う。
 まるで、胸にぽっかりと穴でも空いたかのようだった。


 

 

――翌朝。


「………………おはよー……」
「あっ、たゆりん! おはようにゃり!」
「おはよう白石君。……どうした、風邪でもひいたのかい?」
「……ちょっとね。湯冷めしちゃって」
 コンコンとマスクの内側で咳き込みながら、妙子は自分の机の上へと鞄を置き、着席する。実は微熱もあるのだが、ギリギリ学校に行けるレベルの体調であると判断して、なんとか登校してきたのだった。
「ふむ、見た所、睡眠は十分にとれたようだね」
「……十分、じゃないけど。……帰った後、温めのお湯に長風呂してから布団に入って、漸く眠れたわ」
「なるほど、それで湯冷めをしてしまったのか」
「まーね……そんなとこ……」
 コンッ、と咳き込みながら、妙子は鞄の中身を机の中へと移す。
(……そうよ。眠れたのはゆっくり長風呂したせいなんだから)
 間違っても“あの男”は関係ない。確かに、あの男がいつになくつれない態度であっさりと踵を返した瞬間、妙子は自分の中に蟠っていた熱量のようなものが瞬く間に拡散するのを感じた。じりじりとひりつくようだった神経の高ぶりも収まり、家に帰り着いた時には気分はすっかりニュートラルに戻っていた。
 しかし、そのことと“あの男”は全く関係がない。友人二人と別れ、“旅行気分”に浮かれていた体が普段の生活スタイルへと移行することで、自然とおちつきを取り戻し、その途中でたまたまあの男が現れ、そして去っていっただけだというのが、妙子の見解だった。
(…………むしろ、それ以外の何があるっていうのよ)
 まさか、体はあの男に抱かれることを切に望んでいて、それが果たされないと解った瞬間全てを諦めて自然体に戻った――等という馬鹿馬鹿しくオカルトに満ちた考えは、そもそも念頭にすら浮かべたくはなかった。
「……ひょっとして、湯冷めをしてしまったのは、“湯冷めをするようなこと”を長々とやっていたからではないのかな?」
「…………悪いけど、今日はあんたの軽口に言い返す気力もないわ」
 授業が終わったらすぐに帰って寝たいと、妙子は咳まじりに呟く。
「えええーー! 今日は学校終わったらたゆりんの部屋に遊びに行こうと思ってたにゃりよ! 旅行の話とかもしたいにゃり!」
「……それはまた、もうちょっと体調のいい時にして」
 コンコンと咳き込んで、妙子は机の上に伏せる。気配だけで、佐由と英理がやれやれと首を振って席から離れていくのが解った。
(…………当分、旅行なんてこりごりだわ)
 担任がやってきて、HRが始まるまでの、ほんの僅かの時間。妙子は眠りながら、そんなことを思った。


 



 

 

 

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