高校受験をおよそ一年後に控えた中学二年の晩夏、私の前には大きく分けて二つの選択肢があった。一つはこのまま受験勉強をして高校へと進学する道。もう一つは、土岐坂の家に女官として奉公に行く道だった。
 奉公――そう、時代錯誤だけど、その表現がもっとも正しいと私は思う。私の故郷には土岐坂の分家に生まれた女は二十歳になるまでに三年間、本家である土岐坂家に奉公をしなければならない――そんなばかげた習わしがあった。
 但し、以前は絶対の掟であったらしいそれも今では半ば形骸化し、“できればそうした方が良い”という程度の拘束力しか持っていなかった。無視することも不可能ではないけれど、その場合は親戚で集まった際などに肩身の狭い思いを覚悟しなければならなかった。
 多分昔は一種の人質政策のようなものだったのではないかと私は思う。本家としての力を分家に示し続ける為に、娘を差し出させ奉公させる――但しその形も時代と共に変化し、今では分家と本家は半ば持ちつ持たれつのような関係になってしまっていた。
 土岐坂家は分家に娘を差し出させ、己の屋敷で奉公をさせるかわりに、三年の“お勤め”を終えた後、本人が希望をすれば土岐坂家の息のかかった企業への優先的な就職、もしくは同じく息のかかった私立大への推薦入学(場合によっては授業料も半額以下になるらしい)といった“うまみ”を与える。長い目で見ればそれは分家と本家の絆を強化する事にもなり、本家分家共に得をする取引なのだと言われている。
 そういった家庭の事情もあって、私は自分の進路にずいぶんと悩んでいた。普通に進学してごく普通の高校生活を送る為には“習わし”を無視しなければならず――例外的に18や19からの奉公も認められてはいたけれど、この頃の私はそんな事は知らなかった――将来的にどういった弊害があるのかは予想も出来ない。逆に“習わし”に従えば、“普通の高校生活”こそ送れないまでも、大学進学にしろ就職にしろ圧倒的に優位な立場が約束される事になる。
 ついでに言ってしまえば、中二の時点での私の成績は中の下……下手をすると下の上程度のものだった。程度の低い、生徒数が三学年で百人に満たないような田舎の中学校でこの体たらくだという事がどれほどヤバい事か、私よりも両親の方が心配していた。
 だから、という事もあるのだろう。両親はどちらかといえば、通常の高校進学よりも土岐坂の家に奉公に行って欲しそうな顔をしていた。さらに言えば、私の母は“奉公”の経験者でもあり、言われているほど悪い生活ではないと事あるごとに言っていた。
 逆に父は分家出身の母とは違い、どちらかといえば分家本家といった時代錯誤なヒエラルキーを毛嫌いしている節があった。ただ、自分の主義と娘の幸せは別といった考え方の人でもあった。
 即ち私は“本家の力”なしではまともな進学も就職も出来ないであろうと親にも思われるようなバカだったわけで、愚かしい事にそれをさして欠点だとも思っていなかった。
 そんな馬鹿な私でも自分の進路についてだけは真剣に悩んだ。悩みに悩みに悩み続けて、どうしても自力では答えを出せなかった。
 そして馬鹿な私が馬鹿なりに考えて出した結論は、馬鹿ではない親友に相談してみるというものだった。

 私の育った町は、町と呼ぶのも恥ずかしくなるくらいの田舎で、中学への通学路も六割くらいしか舗装された道がない有様だった。その残り四割の舗装されていないあぜ道の途中に土手から小川へと降りる石段があって、そこは橋の陰で夏場はとても涼しくて人目にもつきにくく、私のお気に入りの場所だった。
 私は学校からの帰り道、親友の柚紀を連れてその石段へとやってきた。理由はもちろん“進路”を相談する為だった。
「柚紀はどうする?」
 私がその場所に柚紀を連れてきて相談を持ちかけたのは、もちろん彼女が同年代で無二の親友であったからでもあるけれど、もう一つ大きな理由があった。
 そう、彼女もまた私と同じ土岐坂の分家出身なのだ。
 ただ、同じ分家出身者とはいっても、私と柚紀では大きな違いがあった。まず第一に外見。幼い頃から男の子の中に混じって山の中を走り回っていた私とは違って、柚紀は女の子の見本のような美人なのだ。
 子供の頃から日に当たることを嫌って、晴れの日でも日傘を差して歩いていた彼女の肌は透き通るように白く、どこか儚ささえ感じさせる。同じく幼い頃から伸ばし続けていた母譲りらしい美しい黒髪と相まって、道行く人に声をかけられる事など当たり前で、柚紀と並んで歩いているとよく弟だと間違われて困ったものだった。……さすがにあまりにそれが続いたから、一時は私も少しは女らしくしようと柚紀の真似をして少しだけ髪を伸ばそうとしてみたけれど、鬱陶しさのほうが勝ってしまって結局ショートカットに戻してしまった。
 私と柚紀との違いは、何も外見だけに限った事ではなかった。その頭の中身の出来も雲泥、成績優秀で先生達からの受けも良く、二年生にして副生徒会長をまかされているほどの優等生だ。私も決して背が低い方ではないけれど、その私よりもさらに拳一つ分高い彼女は足も長くしなやかで、出る所がしっかりと出た体つきは羨ましいの一言だった。
 正直、女性として完璧過ぎて引け目を感じる事も少なくない。幼なじみでなかったら、きっと近づくことすら躊躇ったかもしれない。けれど、私は柚紀自身に打ち明けられて知っている。そんな完璧超人な彼女にも人には言えない悩みがいくつもあって、優等生といえども中身は私と同じ十四歳の女子中学生に過ぎないのだという事を。
「……さっちゃんはもう決めてるの?」
 そう、柚紀は私と違って聡明な女の子だった。だからこそ、質問に対して質問で返してくる事など希で、私は少しばかり驚いてしまった。
「……まだ悩んでてさ。親は本家に行って欲しそうなんだけどね」
 その時、何故だか一瞬だけ柚紀の目の奥が輝いたように感じた。
「ほら、私バカだからさ。今のまんまじゃ市内の公立も結構厳しくって……柚紀と同じ学校に行くためには、そろそろ本気で勉強しなきゃいけないなー……なんて思ってたりするんだよね」
「……私は、多分本家に行く事になると思う」
 柚紀の言葉に、私は一瞬頭が真っ白になった。進路をどうするのかと彼女に尋ねはしたけど、その答えはきっと“普通に進学”に決まり切っていると思っていたからだ。
「えっ……どうして!? だって、柚紀は……」
「うん、本当ならね……進学しようって……そう思ってたんだけど…………ほら、去年……うちのお父さん事故起こしちゃったじゃない?」
 柚紀に言われて、私は思い出した。去年の暮れに柚紀の父親は飲酒運転による事故を起こしていた事を。ただ、誰かを巻き込んだというわけではなく、自分の車ごと川に転落しただけの事故であった筈なのだが。
「……あの事故の時、お父さんの手術代とか入院費とかそういうのをお母さんが本家の人に借りてたらしくて……お父さん、事故の後遺症でほとんど体動かなくなっちゃってるし…………」
「…………。」
 私は柚紀に連れ添って何度か一緒に行った見舞いの時の事を思い出した。おじさんは全身を包帯やギブスで固められ、口や鼻にいくつものチューブをつけていて、ずっと意識不明の状態が続いていた。柚紀はそんなおじさんにずっと喋りかけていたけれど、正直その姿は見ていられなかった。
 そんな献身的ともいえる試みが功を成したのか、意識こそ取り戻したまでもその体は麻痺したままで、ほとんど赤ん坊のような状態になってしまっているらしいと噂で聞いてはいた。
 けれど、そのことが親友の進路にまで影響を与えるなんて、私は考えもしなかった。
「そういう事だから、やっぱり……少しくらい恩返ししなきゃいけないって思ってさ。……高校に行けなくなるのは残念だけど、でもお勤めしながらでも通信教育みたいなので高卒の資格はもらえるらしいし……」
 柚紀が言っている事が強がりであることなど、百も承知だった。それでも、私は彼女の言葉に耳を傾け続ける事しか出来ない。
「それにね、ほら……三年間本家の方に住み込みで働くわけでしょ? それってようは三食寝床つきで、それとは別にお給料までもらえるって事なんだよ? 終わった後は、大学へも推薦で入れたりするらしいしさ、悪いことばかりじゃないと思うんだよね」
 私は知っている。柚紀はただ闇雲に勉強をして、優等生を気取っているわけではないという事を。
「じゃあ、新藤先輩の事はどうするの?」
 などとは、口が裂けても言えなかった。新藤亮――それは一学年上の先輩であり、現生徒会長であり、柚紀の憧れの先輩の名だった。彼と同じ学校に行くために彼女がどれだけ頑張って来たか、私が一番知っている。柚紀が私の問いかけに「普通に進学」だと答えると思っていた一番の根拠がこれだった。
 『先輩と同じ高校に受かったら、告白しにいくんだ』――好きなら告っちゃえばいいのにと、柚紀から秘密を打ち明けられるなりそう言った私に、柚紀が返してきた言葉だった。先輩だろうが芸能人だろうが、柚紀に告白されてノーと言える男なんか居るはずがないと思っていた私は何とか柚紀に告白させようと一時期躍起になったものだけど、思いの外彼女は頑固で自分の考えを変えなかった。
 その柚紀が、本家に行くと言っている。今更その覚悟を問うことなど私には出来なかった。
「……そ、っか」
 そして同時に、私の腹も決まった。
「じゃあ、私も柚紀に付き合って本家に行っちゃおうかな」
「えっ……」
 その“えっ”は驚いたというよりも、“嬉しくてつい声が出てしまった”の方だという事に、思わず苦笑してしまいそうになる。
「さっきも言ったでしょ? 私の成績じゃたとえ高校受かってもその後が不安だしさ。親もそっちのほうがいいみたいな事言ってたし、柚紀が本家に行くっていうんなら、私もそっちでいいや」
「で、でも……」
「あーもう! いいから! 素直に嬉しいって言ってよ! 一人で本家に行くのは不安なんでしょ? だから私が一緒に行ってやるって言ってるの!」
 柚紀の不安は、手に取るように解る。何故ならそれは他ならぬ私が感じていた不安でもあるからだ。

 もしこのとき、私が本家を選ばずに普通に進学する道を選んでいたら。或いはあんなことにはならなかったのかもしれない。でも、このときの私は柚紀と一緒に居られるのが嬉しくて堪らなくて、自分たちを待ちかまえている運命の事なんてこれっぽっちも考えていなかった。 
 

 

 

 

 

『キツネツキ・外伝2』

土岐坂愛奈の退屈な日常

 

 

 

 

 

 


「さっちゃん、さっちゃん……起きて、朝だよ」
「んぁ……もう、朝?」
 柚紀に揺さぶられて、私は夢の世界から現実へと引き戻された。
「あれ……まだ五時じゃない……早すぎるよぉ……」
「昨日さっちゃんが大事なお皿を割っちゃったから、今日から一週間正門前の掃除しなきゃいけないんだよ。ほら、早く起きて」
 あぁ、そういえばそうだった――私は眠い目を擦りながら体を持ち上げ、布団をたたんで押入へとしまう。
「早く早く」
 せかす柚紀に背中を押されながら部屋を後にして、まだ薄暗い廊下を足音に気をつけながら階下へと移動し、洗面台で顔を洗う。幾分眠気がとれたところで部屋に戻って寝間着用の襦袢から女官服(白衣に臙脂色の袴という組み合わせのもの)へと着替え、柚紀と共に竹箒を手に持って正門の外へと向かった。
「むぅぅ……掃除しろったってぇ……葉っぱ一枚落ちてないじゃない……」
「文句言わないの。マジメにやらないとまた怒られるよ?」
 柚紀の相変わらずの優等生ぶりに私は頭が下がる思いだった。考えてもみれば失態をやらかして罰を受ける羽目になったのは私なわけで、彼女がその罰に付き合う必要性は微塵もなく、また手伝って欲しいと言ったわけでもないのに自ら進んで手伝ってくれるのがありがたくもあり、申し訳なくもあった。
「…………今更だけどさ、柚紀……私に付き合って掃除しなくてもいいんだよ? 昨日も夜遅くまで勉強してたでしょ、部屋に戻って寝てなよ」
「そういうわけにはいかないよ。さっちゃんがここに来たのは半分は私の責任なんだから、さっちゃんがやっちゃったことは半分は私の責任なの。掃除も二人でやればすぐだからさ、早いところ終わらせようよ」
「…………そのことは気にしなくていいって何度も言ったじゃん」
 その話をされると全身がむずがゆくなってきて、私はぽりぽりと頬を掻いた。確かに私の本家行きの最後の一押しをしたのは柚紀だけど、そうでなくても(主に学力上の理由から)他に選択肢が無かったようなものだ。柚紀が責任を感じるのは筋違いなのだけど、何度言っても解ってもらえない。
「……だいたいさ、大事な皿なら見習いの私になんか触らせずにちゃんとしまっとけっての」
 私の目にはゴミ一つないように見える石敷きの道を申し訳程度に箒で掃きながら、つい愚痴ってしまう。
「愚痴っても始まらないよ。ここに来ちゃったからにはちゃんとやることやらないと、今度こそ本当にお給料減らされるかもしれないよ?」
「……うん」
 正直、そういった細かい神経を使う仕事は私には向いてないと思った。けれども、私がミスをするせいで柚紀まで尻ぬぐいに付き合わせてしまうのはいい加減申し訳ないとも思っていた。



 土岐坂家別邸での生活は、基本的には判で押したような毎日が続くものだった。
 女官達はそれぞれ邸内の一角にある専用の女官寮で寝起きし、朝は六時起き。洗顔や着替えをすませた後に寮内の食堂で朝食を摂り、そこからは各自割り振られた仕事に就く事になる。屋敷に来たばかりの私たちに任せられるのは基本的に掃除か(女官寮の)炊事、洗濯、もしくは先輩女官達の手伝いだった。
 昼の十二時から一時までが昼食兼食休み、そこからさらに夕方五時までで作業は終了。夕飯は六時、入浴は七時から八時までの間で消灯は一応十時(但し外出をしないのであれば、各自自分の判断で夜更かしは可)。五時から消灯の十時までの間は基本的には自由時間だけど、不必要に部屋から出ないというのが常識らしく、たまに女官寮の周りを散歩したりすると奇異の目で見られたりもした。
 但しこれは“一年目”の生活スタイルらしく、これが二年目、三年目――さらにそれ以上になると朝番、夜番といったものが振り分けられるらしかった。即ち、二十四時間いついかなる時も“主”の要求に応えられるよう常に誰かしらが起きているような仕組みになっているらしい。
 ちなみに携帯電話の類は全て取り上げられて、原則として外部との連絡は禁止。どうしても連絡したいときは屋敷の固定電話を使う事が出来るけど、これも必ず交換手を通さなければならない。里帰りも三年間は原則として禁止、手紙のやりとりは可能だけれど、内容は必ず検閲されるという噂だった。
 屋敷はぐるりと高い塀で囲まれていて、唯一の出入り口である正門には常に二人以上の見張り。まるで刑務所みたいな屋敷だと最初は思ったものだった。
 でも、人間は慣れる生き物だ。それに確かに母から聞いていた通り、女官としての生活は想像していたほど悪くも無かった。先輩の女官達に虐められる様なことは一切無かったし、残業なんかも――こちらが失態をしてしまった場合は別として――殆ど無かった。
 そう、本家仕えの女官になるという話を聞いて、私はてっきり我が儘な主に振り回されるような、そんな日常を想像していた。しかし蓋を開けてみれば主の我が儘どころかその顔すら解らないまま半年が過ぎてしまっていた。

「…………なーんかさぁ、変な屋敷だよね」
 午後五時過ぎ。女官用の女官寮の二人部屋で大の字になったまま、私は独り言のように呟いていた。ちなみに女官用の二人部屋は八畳敷きのどうという事のない和室で、家具は粗末な木箪笥が一つと同じく木製の勉強机が二つ。その上に申し訳程度に電気スタンドが一つずつと、押入の中に布団が二組。これまたまるで刑務所を彷彿とさせるような質素なものだった。
「変って……何が?」
 柚紀は勉強机に向かったまま、私の独り言に返事を返してくる。私は畳の上でごろりと、仰向けから俯せに寝返りをうちながら柚紀の背中へと視線を向ける。
「柚紀は変だって思わないの?」
「だから何が変だと思うの?」
 柚紀の答えで、私は自分が疑問に感じていることが彼女にとっては疑問でも何でもないらしいという事を知った。
「……変だと思ってないならいいや」
「言ってよ。気になるじゃない」
「…………なーんかさ、みんな暗すぎない?」
「暗いって?」
「性格がっていうかさ、無口な人多すぎっていうか……」
 女官寮には、少なくとも百人以上の人間が生活している筈だった。であるのに、こうして部屋でのんびりしていても話し声一つ聞こえて来ることが無い。
 もちろん、五時上がりが出来る“一年生”と違って、“上級生”たちは今尚屋敷のどこかで働いているのだから、静かなのは無口故ではないといえる。
 ただ、私はそれにしても……と思うのだ
「確か、私たちと一緒に入ってきた分家の子も2,3人居たよね。でもさ、ろくに話もしないっておかしくない?」
「どうかな。みんな大人しい子なのかもしれないよ」
 私もどっちかっていうとそうだし――そう言いながらも、柚紀はシャープペンの動きを止めない。ちなみにその机の上には本来高校で習う筈の数学や英語の教科書が広げられていて、柚紀は仕事が終わった後の空き時間の大半をそうやって勉強に費やしていた。
「それにしても……って私は思うな。…………まるで、みんな何かに怯えてるみたい」
 ぴたりと、不意に柚紀のペンの動きが止まった。それはほんの1,2秒だけで、柚紀はすぐにペンの動きを再開させる――が、程なくペン自体を置いた。
「…………あんまり、そういう事言わないほうがいいかも」
 そして私に背を向けたまま、まるで独り言のように呟いた。
「そういう事……って?」
「………………。」
 背を向けたまま柚紀が迷っているのが私には解った。柚紀は迷い、そして意を決したように先ほどまで数式を書き込んでいたノートに何かを走り書き、私の方へとそれを向けた。
『盗聴されてるかもしれない』
 柚紀のノートには彼女の綺麗な文字でそう書かれていた。
「……まっさかぁ」
『噂だけど』
 と、柚紀はさらに付け足した。
『本家の悪口を言ったりしてないかチェックされてるって、だからみんなしゃべらないんだって』
「……噂でしょ?」
『うん』
 と、柚紀は小さく書いた。そして
『あと、このお屋敷にはものすごく怖い人がいるんだって』
 と書き足した。私も立ち上がって自分の机の前に座って、ほとんど新品同様のノートに自分のシャープペンで『だれがこわいの?』と書いて柚紀に見せた。
『わからない』
 と柚紀。
『だけど、なんて呼ばれてるかだけは知ってる』
『なんてよばれてるの?』
『あいなさま』
 あいなさま――おそらくあいなというが名前なのだろう。
『もしかして、そのひとがこのおやしきのヌシ?』
『だと思う。絶対に逆らっちゃだめなんだって』
『もしさからったらどうなるの?』
 柚紀は一拍おいて、そしてノートの両ページにわたって大きく
『ころされる』
 と書いた。それは普段の彼女の文字からはかけ離れたおどろおどろしい字体だった。言うなれば、投獄された囚人が幾多もの拷問を受けた後、己の死を予見して書き残したような――私は文字の意味よりもむしろその字体のほうに恐怖を覚えた。
「…………なーんちゃって」
 てへ、と柚紀は舌を出して、ノートに書いた文字を消しゴムで消していく。
「うーそ、冗談。びっくりした?」
『うそって、どこまでがうそなの?』
「しゃべっても大丈夫だって。盗聴なんかされてるわけないじゃない」
「……え、その噂の話から嘘?」
「ううん、そういう噂があるっていうのは本当。本家の悪口言ったりすると、お給金下げられたり、キツい仕事回されたりするらしいって。だけど、どの話も“そうらしい”っていうだけでさ、実際に誰かがそうなったっていう話じゃないの。だから噂だと思うよ」
「なーんだ」
 ホッとしたような、がっかりしたような、微妙な気分だった。
「てゆーか、一体いつのまにそんな噂聞いたの? 私なんて柚紀以外の人とほとんど話したことないのに」
「お仕事の合間合間とかにね、ちょっと人の気配がする方とかに忍び寄ってみたりとか……ほら、私とさっちゃんみたいにさ、結構“仲のいい者同士”でここに来てる人はいるみたいで、そういう人同士で話をしてるときは、みんな結構おしゃべりみたいだよ」
「……あぁー、そっか。分家っていっても色々あるもんね」
 土岐坂家の分家は両手の指では数えられないほど存在する。その中にはかつて本家に取って代わろうとして失敗した家、またそれを本家に密告した家、さらにそのことを転覆をもくろんだ家に密告した家など、過去にはずいぶんとドロドロとした闘争を繰り広げた分家もあるらしい。中にはきっと「他の分家の連中は信じるな」と口癖のように親に聞かされて育った者も居るだろう。
 そう考えると、この邸宅内の奇妙な冷戦のような状態の謎が解けたように思えた。
「でもさ、分家同士で仲が悪いっていうのは解るんだけど、お屋敷の主の名前すら女官に教えないっていうのは変じゃない?」
「そうだね。私もそれは変だと思った。でも、私たちはまだ見習いなんだし、しょうがないんじゃないかな。“2年生”や“3年生”になれば直接会う機会もあるみたいだけど、やっぱり大変らしいよ」
「…………やっぱりワガママですぐ怒るような人なのかな。こっちが先にカッとなって殴っちゃったりしないように気をつけなきゃ」
 あははと笑って、柚紀が再び机の方を向く。私はそれ以上柚紀の勉強の邪魔をしないよう、黙って横になっていることにした。



 

 
「ごめん、ちょっとのぼせちゃったからさ。夜風に当たってから部屋に戻るよ」
 いつも通りの夕食にいつも通りの入浴を住ませた後、私は脱衣所の前で柚紀と分かれて、女官寮の周りを少し散歩する事にした。それは“女官としての常識”からは外れた行為であり、私の姿を見て奇異の目を向けてくる先輩の女官達が少なからず居た。でも、消灯時間前に女官寮の周りを散歩してはいけませんと明確に禁止されているわけでもないから、私はいつも気にせず散歩していた。
「あーあ……退屈だなぁ……せめてテレビくらい見せてくれればいいのに」
 女官勤めをしていて困ることはいくらでもあったけれど、五時で仕事が上がった後に手持ちぶさたになってしまうのがその一つだった。
(柚紀みたいに勉強するのも……なんだかなぁ……)
 そもそも勉強が嫌いだったからここに来る羽目になったというのに、ここに来てから勉強するというのも変な話だと思うのだ。
「…………テレビが見たいの?」
「当たり前じゃない。もう半年近く見てないんだよ?」
 ここでは、私に話しかけてくるのは基本的には柚紀しか居ない。だから反射的に私は柚紀に返事を返すつもりで答えていた。
 そして数秒後れて、先ほどの声は柚紀ではないという事に気がついた。
「えっ……?」
 慌てて、私は声のした方を振り返った。石灯籠に灯された明かりだけが揺らめく薄暗い屋敷の庭――そこに設けられた巨大な池をまたぐように設置されたアーチ上の橋の欄干に腰掛けている人影が見えた。
 私の視線を感じたのか、人影はぴょんと欄干から飛び降り、飛び石の上を伝って私の側まで近づいてきた。近づくに連れて、そのシルエットが徐々に色を帯び始める。
(うわぁ……)
 闇の中から現れた女の子の姿に、私は思わず見とれてしまった。ずっと柚紀の側に居続けた私は“美人”には慣れているつもりだった。でも、この瞬間私の全身は雷にでも打たれたように痺れてしまって、ただただ彼女に見入ることしか出来なかった。
 美人……うん、美人であることは間違い無いのだろう。それこそ、私なんかとは比べものにならないくらい。 おっとりと優しそうな目元に、整った輪郭。高すぎも低すぎもしない綺麗な形の鼻に、ほんのりピンクがかった小さな唇。色白で、髪も柚紀と同じくらい長くて。ただ微笑んでいるだけで、とても幸せな気持ちにさせられるような、不思議な印象の女の子だった。
(……あと、おっぱいすごくおっきぃ……羨ましい……)
 発育が不十分な私としては、純粋に羨ましかった。あんまりじろじろ見るのも失礼だから、私は意図的に胸から視線を上げた。
 目が合うなり、にっこりと微笑み返されて、私はどうしてか頬が熱くなってしまった。
「はじめまして。貴方、ひょっとして“一年生”?」
「はい。二木幸子といいます」
 多分“二年生”か“三年生”の人なんだろう。 私は可能な限り礼儀正しく名乗り、辞儀をした。
「私は……そうだね。“あーちゃん”って呼んで。ちなみにここに来てもう三年くらいかな」
「三年……という事は、今年で最後ですね」
 自称“あーちゃん”は私の質問には意味深な微笑みを漏らすばかりで肯定も否定もしなかった。
(あ、そっか……三年を過ぎてもそのまま居着いちゃう人も居るんだっけ)
 本人が望む望まないにかかわらず、そういう女官もいるのだと聞いてはいる。この人もひょっとしたらそうなのかもしれない。
「ねえ」
 そして、あーちゃん先輩は愛想笑いというにはあまりに無邪気な――オモチャを買ってもらえると解ったときの子供のような――笑みを浮かべながら、ちょいちょいと私の肩を突いてくる。
「さっきの話の続き。……テレビが見たいの?」
「あぁ、その…………別に……」
「警戒しなくっても大丈夫だよ。告げ口なんかしないから。……ねえ、見たいんでしょ?」
「ええと……はい」
 ここに来て、柚紀以外の人間から向けられる初めての“親しげな声”に、私はすっかり絆されて頷いてしまった。
 アハッ、と。私の返事がよほど嬉しかったのか、あーちゃん先輩は手を叩いてそんな声を上げた。
「だったらさ、今から私の部屋に遊びに来ない?」
「えっ、でも――」
「私もさ、一人で退屈してる所だったの。ね、遊びに来なよ」




 私は先輩に腕を捕まれ、半ば強引に彼女の部屋へと連れてこられた。女官寮ではなく、屋敷の本殿のさらに奥、中庭に面した濡れ縁に沿った障子戸の向こうにそれは在った。
「ほら、遠慮しないで入って?」
 広さ自体は私たちの部屋と大差ないものの、内装はそれこそ雲泥と言ってよかった。ピンクの絨毯が畳の上全面に敷き詰められ、その上には角の丸い三日月のような形をした白いテーブル。部屋の隅にはピンクの小物入れに木箪笥。勉強机はさすがにピンクではなかったが、他にもピンクのカーテンやピンクのクマのぬいぐるみやら何かとピンクの多い部屋だった。
「……おじゃまします」
 あまりのピンクさに私は気圧されながらも部屋へと入り、後ろ手で――仕事中にやろうものならば間違いなく叱られるのだが――障子戸を閉めた。
「ほらほら、座って?」
 先輩はわざわざ押入からクッションまで引っ張り出して、テーブルの横へと置く。断るのも変な話なのでやむなく座ると、すかさずテレビのリモコンを差し出された。
「はいリモコン、と番組表。好きなの見ていいよ!」
「あ、ありがとう……ございます」
「そーだ、お腹空いてない?」
 テレビのリモコンを受け取り、電源を入れるや否や――テレビ自体も初めて見るような大型の薄型液晶テレビだった――またしても間髪いれずにそんなことを尋ねられた。
「いえ、ええと……少しだけ……」
「遠慮しないで。ここのご飯って少ないでしょ? 全然足りてないんじゃない?」
 確かに、先輩の言う通りだった。女官用の食事は常に腹七分ほどにしかならず、一応成長期の私は空きっ腹を抱えて眠れないという事も少なくなかった。
「解った! ちょっと待っててね、お菓子持ってくるから!」
 何も言わなくても、顔色だけで察したらしい。先輩は私が止める間もなく部屋から飛び出していってしまい、そして五分と経たないうちに両手いっぱいのお菓子を抱えて戻ってきた。
「お待たせー、あれ、どうしたの? テレビ見ないの?」
 先輩もまたテーブルを挟んで座り、お菓子の袋を片っ端から開け始める。私もリモコンを操作してチャンネルを贔屓の番組へと合わせた。
「ふぅーん、幸子ちゃんってこういうの好きなんだ?」
「あっ、もしつまらなかったら別のチャンネルでも……」
「ううん、いーのいーの! 幸子ちゃんが見たいのでいいから! あっ、そーだ。ジュース取ってくるね!」
 なんとも忙しなく、先輩はまたしても席を立つと部屋から飛び出して行き、そして程なく1,5リットルペットボトルのジュース二本と氷の入ったコップを二つ手に戻ってきた。
「幸子ちゃんは炭酸が入ってるのと入ってないの、どっちが好き?」
「ええと……じゃあ炭酸が入ってる方で」
「りょーかーい。あ、私が注ぐからテレビ見てていいよー?」
 とぷとぷと炭酸ジュースがコップに注がれ、手渡される。
「ほら、お菓子もどんどん食べていいよ! 足りなくなったらまた持ってくるから」
 やれ食えやれ飲めと、ろくに考える時間すら与えられずに勧められて、私は勧められるままにお菓子を食べ、ジュースを飲み、そしてテレビを見て久方ぶりに大笑いをした。
 私が笑うと先輩も併せて大笑いし、美味しそうにジュースを飲み、そしてお菓子を食べていた。
 そう、さながら古い友人と久しぶりに会って旧交を温めているような――そんな錯覚すら私が感じ始めた頃だった。
「あっ……すみません、そろそろ部屋に戻らないと」
「えっ、どうして?」
 先輩は帰りたがる理由が見当もつかないとばかりにきょとんと首をかしげる。
 そんな彼女の様子を見て、私はうすうす感じていた彼女の正体について、ついに確信を得た。
「……もうすぐ消灯時間なんです。…………“あいなさま”」
 “先輩”の笑顔が一瞬にして凍り付くのが、私にも解った。
「あっ、……気づいちゃったんだ」
 むしろ気づかない方がおかしいと言いたかった。女官寮以外の場所に自分の部屋を持ち、こんな夜更けにジュースやお菓子を調達することが出来て、なおかつその部屋にテレビまで持っている人物が、ただの女官のわけはない。
「あーんもぉ、なんでバレたんだろ。折角女官の服まで使って変装してたのにぃ」
「……本気で言ってますか?」
 何がダメだった、といちいち指摘するのもばからしくて、私はその一言だけを口にした。
「時々ね、こうやってみんなの中に紛れ込んで遊ぶの。私の顔も知らない子だらけだから、結構巧く行ったりもするんだよ?」
 確かに、単純に混じって雑事をしたりする分にはごまかせるかもしれない。
「……まぁ、バレちゃったらしょうがないか。こうなったら率直に命令しちゃうんだから! とりあえず、さっちゃん今から敬語禁止!」
「え……?」
「同年代の友達同士みたいに、普通に私に話しかけること。いーい?」
 あいなが言っている事の意味がわからないのは、私が馬鹿だからなのだろうか。
(正体がバレたから敬語禁止って……)
 逆ならば、解る。でもあいなが雇用上の主であると解った瞬間敬語を禁止される意味が全くわからなかった。
「あの、あいなさ――」
「ダーーーーメーーー! ちゃんと呼び捨てにして、“愛奈”って」
「あい……な……?」
「そう。愛くるしいの“愛”に、奈良の鹿の“奈”で愛奈。ほら、ちゃんと呼んで?」
「愛奈……?」
 “奈良の鹿”の“奈”という説明の仕方はどうなんだろう――そんな疑問をぐっと飲み込んで恐る恐る言われたとおりにすると、たちまち愛奈は笑顔を見せた。
「さっちゃん」
「愛奈」
 えへへと。愛奈は一体何が嬉しいのか、顔を赤らめながらもじもじと体をくねらせる。
 何となくだけど、だんだん彼女がどうしたいのか、私にも解ってきた。
「ねえ、さっちゃん。またテレビが見たくなったらいつでもいいから遊びに来てよ。お菓子とジュース用意して待ってるからさ」
「えと…………いいの? 遊びに来ても」
「うん!」
 愛奈はまるで子供のように大きく頷きながら声を上げる。
「一人じゃ退屈しちゃうからさ。遠慮しないでどんどん遊びに来てね」



 その日から、私は時折就寝前に部屋を抜け出しては愛奈の部屋に遊びに行くようになった。娯楽の少ない女官としての生活の中においては、彼女と過ごす時間はあまりにも魅力的だった。
(……なんだ、全然怖い人じゃないじゃない)
 愛奈と話をすればするほどに、彼女は純粋に“友達”に飢えているのだと解った。聞いてみれば、彼女は年上ではなく私と同い年だという。つまり、本来ならば普通に高校へと通い、楽しい学校生活を送っている筈なのだ。
 私はある日、勇気を持って聞いてみる事にした。何故女官でもないのに、屋敷から出ないのか――と。
 愛奈は少しだけ表情を曇らせて、そしていつも私に向けるような楽しげな声とは違う、何かを押し殺すような声で答えた。
「……私にしか出来ない事があって、それを私にやらせたがっている人たちがいるの」
 この屋敷はそのための檻なのだと、彼女は言った。
「だから、私もあなた達と同じ。籠の鳥なの」
 違う――と、私は即座に思った。私や柚紀は三年過ぎればあとは自分の意思でそれぞれの家に帰る事が出来る。しかし、本家の娘である愛奈は私たちが居なくなった後でもずっと……。
「ねえ、愛奈。私ね、愛奈に紹介したい子がいるんだけど……」
 私は、愛奈に同情していたのだろう。聞けば、彼女は土岐坂家に養女として迎えられて以来ずっとこの屋敷から出してもらえないのだという。そんな彼女に少しでも“友達と一緒に過ごす時間の楽しさ”を味わってもらいたい――そのためには、私一人では役不足だと感じていた。
「ここに一緒に来た私の友達なんだけど……その子ならきっと、私よりももっといい友達になってくれると思うの。愛奈さえ良かったら今度連れてこようと思うんだけど……」
「本当!? さっちゃんの友達ならいくらでも大歓迎だよ!」
 やっぱり、同年代の友達に飢えてるんだろうな――私は飛び上がって喜ぶ愛奈を見てそう感じた。
「ねえねえ、さっちゃん。……その子、可愛い?」
 そして、愛奈は興奮した子犬のように鼻息を荒くしながら、そんな事を聞いてきた。
「可愛い――……と思うよ、うん。可愛いっていうよりは、美人……かな」
「そうなんだぁ……楽しみだなぁ……ねえ、絶対連れてきてよ? 出来るだけ早いほうがいいな……うん、明日にしよう! 明日絶対連れてきてね、約束だよ?」

 消灯時間ぎりぎりになって私は柚紀との共同部屋へと帰って、そして布団を敷いて電気を消した後、柚紀に初めて愛奈と会っている事を話した。
「……どういう事なの?」
 明かりを消した真っ暗闇の部屋の中でも、私には柚紀が目を見開いたのが解った。
「ほら、少し前に散歩に行くって柚紀と分かれた時があったじゃない? あのときにたまたま知り合ってさ。最初は内緒にして欲しいって言われてたんだけど……」
 私は今までの経緯を、なるべく柚紀にわかりやすいように自分なりに整理して説明した。それでもやっぱり肝心なところが説明不足だったみたいで、私は何度も柚紀に質問をされてそれに答えなければならなかった。
「…………っていうわけでさ、愛奈も私たちと同い年で、しかも見ず知らずの家に養女に出されて、ひとりぼっちみたいなの。だから私たちが友達になってあげようよ」
「でも……大丈夫なのかな」
 事情さえきちんと説明すれば、柚紀ならきっと二つ返事でOKしてくれるものだとばかり思っていた。だから、彼女がそんな風に渋るような事を言うのが本当に意外だった。
「大丈夫……って、何が柚紀は不安なの?」
「だって……その子が“この屋敷の主”なんでしょ?」
「そういうことになるのかな?」
 愛奈の話では、彼女を引き取ったという養父、養母は屋敷にはほとんど顔を出さないらしい。愛奈の口からハッキリそうだと聞いたわけではないけど、おそらく彼女がこの屋敷の中での最高権力者である事は間違いがない。
「そんな子と遊ぶなんて……さっちゃんは怖くないの?」
「全然。柚紀も会ってみれば解るって、ちょっと寂しがり屋の普通の女の子だから」
 でも、と。やっぱり柚紀は渋る。
「とにかくさ、一度会ってみなよ。それで柚紀がどうしても無理だって思うなら、私の方から愛奈に断ってあげるからさ」
「うん……わかった。さっちゃんがそう言うなら、そうしてみる」
「それが良いよ! 明日お仕事が終わってお風呂に入ったら早速二人で会いに行ってみようよ」
 うん、と。柚紀は頭まで布団に埋まりながら返事を返してくる。そして、かすかに聞き取れる声で「怖いことにならなければいいんだけど」と呟いた。

 翌日、私たちは入浴を早めにすませて八時半頃に愛奈の部屋を訪ねた。
「あーーーーっ! さっちゃんだぁ! そして貴方がさっちゃんの友達の子?」
 障子戸ごしに声をかけただけで、愛奈はたちまちしゅぱーんと戸を開け放って文字通り飛び上がって声を上げる。
「あっ……初めまして……私は――」
「すとーーーっぷ! さっちゃんから聞いてないの? この部屋では敬語禁止!」
「ごめん、私が言い忘れてた。そういうわけだからさ、間違っても“愛奈さま”なんて呼んじゃだめだよ?」
「そ、そうなんだ……じゃあ……よろしくね、愛奈。私は三枝柚紀、果物の柚に紀貫之の紀で柚紀」
「柚紀ちゃんかぁ…………じゃあ、あだ名はキーちゃんだね」
「……っ……」
 ぞくんっ。
 突然、得体の知れない悪寒を感じて、私はぶるりと体を震わせてしまった。そんな私を、きょとんと愛奈が目を丸くして見ていた。
「さっちゃん、どうしたの?」
「えっ……な、なんでもないよ?」
 手のひらに微かに汗をにじませながら、私は必死に愛想笑いをした。一体自分が何に対して悪寒を感じたのか、私自身まったく解らなかった。
「えっと……」
 見れば、柚紀も私に似たものを感じたのか、戸惑うように視線を泳がせていた。
「出来れば、他のあだ名が良いな」
「えぇー? どうして? 可愛いと思うよ? キーちゃんじゃダメ?」
「ダメってことはないけど……」
 ちらりと、柚紀は助けを求めるような目で私を見てくる。私はどっちに助け船を出すべきか悩んだ。
「まぁまぁ、別にあだ名くらい良いじゃない。ゆーちゃんよりはキーちゃんの方が呼びやすいしさ」
 多分、愛奈にとって名前の一字をとってちゃんづけで呼ぶのが友達の証なのだろう。だったら、ここは愛奈の肩を持つのが良いと私は思った。
「……そう、だね。愛奈がそう呼びたいなら私もそれでいいや」
「ありがとう! じゃあ、早速部屋に入って! ほら、今日はお菓子もジュースもいっぱい用意しといたから、遠慮しないで食べてね!」
「わわっ、ホントにスゴい量……こんなに食べさせられたら私たち太っちゃうよ」
「さっちゃんはちょっとくらい太った方が女らしくなっていいと思うよ? ほら、腕なんて筋肉ばっかりで脂肪とか全然ないしさ」
「あっ、やんっ……愛奈ぁ……ちょ、くすぐったいってばぁっ」
 愛奈に腕や脇腹をつつかれて、私も愛奈にやりかえして、今度は愛奈がつかみかかってきて、私もふざけてじゃれ合って。丁度子猫同士がじゃれ合うように絨毯の上で転がり続ける。
 そんな私たちの様子を一人柚紀だけがテーブルの脇に腰を下ろし、困ったような顔で見ていた。
「はぁはぁ……ほら、愛奈……柚紀が困ってるじゃない。友達同士って最初が肝心なんだからさ、もっといろいろおしゃべりしちゃいなよ」
「あーっ、ずるーい! さんざん人のおっぱい触っておいて、キーちゃんに話を振って逃げる気!?」
「柚紀もほら、笑ってないで何とか言ってよ!」
「あっ、ごめんね。……さっちゃんと愛奈、本当に仲良いんだなって思って、つい見とれちゃって……」
「本当!? そんなに仲良さそうに見えた?」
「うん。……くやしいけど、ちょっと嫉妬しちゃった」
「だったら私に加勢してくれればいいのに……散々愛奈に擽られてもうへとへとだよぉ……」
 よろりと、私はなんとか体を起こして柚紀の隣に座り、お菓子の袋を開ける。愛奈も私の隣に座って、三人分のコップにジュースを注ぎ始める。
「ねーねー聞いてもいいかな?」
 三人分のジュースを注ぎ終わり、意味もなく乾杯をした後で、愛奈がもう待ちきれないと言わんばかりに声を上げた。
「二人はどういう関係なの!?」
「どうって……普通の友達だよ?」
「うん」
 私も柚紀も互いに顔を合わせて頷く。
「ひょっとして愛奈……ヤラしい関係とか期待してた?」
「あっ、バレちゃった? ひょっとしたらそうなんじゃないかなーって。だとしたらどっちがタチでどっちがネコかなぁ、って気になっちゃって」
「タチ? ネコ?」
 初めて耳にする単語に、私はコップに口をつけたまま首をかしげた。
「さっちゃんはどっちかっていうとネコだよね。普段は活発だけど、いざとなると受け身に回るタイプだと私は思うなぁ」
「キーちゃんもそう思う? 私もさっちゃんは隠れドMだと思ってるんだよね〜」
「ちょっとちょっとちょっとぉ、二人だけで話してないで私も混ぜてよ! ネコとかタチってどういう意味!? てゆーか、私はMじゃないよ!」
「……まぁ、その話はひとまずおいといて」
 にやにやと意地悪な笑みを浮かべた愛奈に、強引に話をすり替えられた。
「質問の続き、二人はやっぱり親友なの?」
「どうかなぁ……私はそう思ってるけど、さっちゃんがそう思ってくれてるかまでは自信が無いなぁ」
 ちらりと、柚紀が期待するような目で私の方を見てくる。
「私も、自分ではそう思ってるけど、柚紀がそう思ってくれてるかまでは自信がないかな」
 先ほど意地悪をされた仕返しに、私はわざと柚紀の口調を真似てそう返した。
「アハッ、本当に仲がいいんだ? “刎頸の友”ってやつ? 羨ましいなぁ」
「ふんけーのとも???」
 また私の知らない単語が出てきた。私は意味を教えてという意思をハッキリと瞳に込めて柚紀を見た。
「刎頸の交わりで結ばれた友達の事だよ。その人の為なら、たとえ首をはねられても惜しくはないっていうくらい仲の良い友達の事をそう言うの」
 さっちゃんも少しは勉強しようね?――そんな意思をはっきりと瞳に込めて、柚紀が私を見てくる。……大きなお世話だ。
「まあでも、実際そうだよね。走れメロスじゃないけどさ、柚紀の為なら私は喜んで身代わりになるよ!」
「……意外。さっちゃんの口から文学作品のタイトルが出てくるなんて」
 今度はヘビの脱皮を見るような目で言われた。小学校の頃の夏休みの読書感想文の題材で読んだんだ、悪いか!
「でも、どっちかっていうとさっちゃんの方がメロスじゃないかな? “メロスには政治が解らぬ”っていう一文があるくらいだし。それに飛んだり走ったりはどう考えてもさっちゃんのほうが上だし」
「……じゃあ、そんな二人を見て仲間に入れて欲しいって思った暴君ディオニスが私かな?」
「……なのかな?」
 確かに走れメロスは小学生の頃に読んだ。読んだけどもなんとなく友達のために頑張る話ということを覚えているだけで、登場人物の事まではしっかりと覚えているわけではなかった。
「……まあでも、私が暴君ディオニスだったら、あんな猿芝居なんかで感動して二人を許したりはしないけどね。きっちりメロスの首をはねたと思うよ」
 ぴたりと。愛奈の一言で場が静まりかえった。私も、柚紀もお菓子をつまむ手を止めて、視線を動かすことすらしなかった。
「…………なんちゃって。やだぁ、もー二人とも、冗談だってば! シンとしないでよ! こっちが困っちゃうじゃない」
 ばしーんと愛奈に背中を叩かれて漸く私は愛想笑いをする事が出来た。私自身、何故愛奈のたった一言で言葉を失ってしまったのか全く解らなかった。
「……で、でもさ……実際愛奈ってあんまり評判よくないみたいだよ? ひょっとしたら本当に暴君みたいな事してるんじゃない?」
「…………それが私の政治なんだよ、セリヌンティウスちゃん」
 冗談めかした口調で、愛奈が得意気に続ける。
「この屋敷には百人以上の女官がいてさ、そのほとんどが私より年上なんだよ? そんな人たち相手に普通に振る舞ってたらナメられるだけじゃない? だから、本当は怖いんだって、そういう事にして、時々ちょっとだけそういう風に振る舞ったりしてるだけなの」
「じゃあ、愛奈は演技でそういう振りをしてるだけってこと?」
「半分はね。もう半分は、私じゃなくてお父様やお母様の方針。本家の跡取りである以上、下々の者に侮られてはいけませんーとか言うわけ。……もうさ、大笑いしそうになったよ。あなた達は戦国時代の生き残りか何かですか、ってさ」
「ふぅん……いろいろ大変なんだね」
 私は素直にそう思って、ぐびりとジュースを飲み干した。すかさず、愛奈が空になったコップにジュースを注いでくれる。
「本当、いろいろ大変だよ。だからさ、こんな風にさっちゃんやキーちゃんが時々愚痴を聞いてくれたら、すっごく助かるよ」
「愚痴くらいいつでも聞いてあげるよ。ね、柚紀」
「うん。……あっ、だけど……お菓子とジュースはもうちょっと控えめにしない? こんな時間にこんなにいっぱい食べたら太っちゃうし……」
「……といいつつ、クッキーやチョコに一番手を伸ばす柚紀であった」
 ナレーション風に呟くと、たちまち柚紀が顔を赤くして私を睨んできた。
「だ、だって! …………甘いものなんて、ここに来てからほとんど食べてないし……お、美味しいんだからしょうがないじゃない!」
「と、申しておりますが、王様。いかが致しましょう?」
「うむ、苦しゅうない。良きに計らう様、下々の者に言いつけて進ぜよう」
 うぉっほん、と愛奈はまるで架空の王様にでもなったような偉そうな口調でうむりと頷いてみせる。この部屋の中では敬語禁止――それは愛奈の作ったルールだが、こうしてふざけて言う分にはOKらしい。
「それはそうと王様。大変楽しい宴の最中にかような事を申し出るのは恐縮なのでございますが、私どもそろそろ部屋に戻らねばならぬ時間でございます故」
「であるか。楽しい時間というものは得てして光陰矢のごとしであるな」
 王様に、さらに何か別のものが混じってなんだかよくわからないキャラになってしまった愛奈が寂しそうに答える。
 後れて、柚紀が部屋の時計へと目をやり、あっ、と声を上げる。
「あっ、ほんとだ。もうこんな時間」
「キーちゃん、そのお菓子気に入ったならあげるから部屋に持って帰っちゃいなよ」
「えっ、でも……」
「愛奈がいいって言ってるんだから、もらっちゃいなよ」
 柚紀は迷った末、半ば愛奈に押しつけられる形でお菓子の袋を三つほど襦袢の懐に入れさせられていた。
「じゃあ二人とも、また遊びに来てね! ………………あっ、そーだ!」
 部屋の前まで見送られた時に、はたと。思い出しように愛奈が声を上げた。
「キーちゃんってさ、もしかして弟居る?」
「えっ……居ない、けど……」
「柚紀は一人っ子だよ? どうしてそんな事聞くの?」
「…………ううん、なんでもないの。ちょっと残念、ってだけ」
 愛奈はぺろりと舌を出して、手を振って私たちを見送ってくれた。
 その後、布団の中に入ってから二人で愛奈の言った“残念”の意味を考えてみたけれど、結局答えが出る事はなかった。



 

 


 翌朝。軽く驚く出来事が私たちを待っていた。
 女官寮で出される朝の食事はおそらくは栄養学的には的確なものなのだろうけど、それ故に遊びが足りないというか、“きちんとしすぎ”な料理ばかりだった。朝はだいたい納豆や生卵、海苔に焼いた焼き魚――そんなものばかりで、決して不味くはないものの心のどこかで不満を覚えるようなものばかりだった。
 だから。
「あーーーーーっ、プリンだ!」
 いつものように食堂で列に並び、ごはんやおかずが乗せられた盆を受け取るなり、私は子供のように声を上げてしまった。後ろに並んでいる柚紀の盆を見ると、やはり同じように白い皿の上に黄色い山に黒のカラメルソースがかかったプリンがちょこんと乗っていた。
 ひょっとしたら今日は何か祝い事の日なのかもしれないと、暢気な事を考えながら私は柚紀と一緒に席について、そして気がついた。
 プリンの皿が盆にのっているのは、私と柚紀の二人だけだということに。
「……ねえ、柚紀、ちょっと」
「うん、わかってる。とにかく食べよ?」
 女官寮の食堂では、私語などする者はほとんど居ない。故に、ここであれこれ話すのはあまりに人目を引きすぎる――それを柚紀は懸念したのかもしれない。
 私も柚紀も普段より早めに――そしてプリンを隠すようにして食べて食堂を後にした。市販のプリンの味ではない、どうやら手作りらしいその味に、私はとても満足した。


「……ねえ柚紀。あれってやっぱり……」
「うん。そうじゃないかな」
 午前中の作業は女官服の洗濯だった。屋敷には洗濯機などは無く――電気は来てるし、電化製品も少なからずあるのに――洗うのはすべて手作業だった。水も井戸から汲み上げねばならないから結構な重労働で、二人でやるときはそれは私の役目だった。
「……良きに計らうよう下々の者に言うって、私てっきり冗談だと思ってたんだけど」
 朝食のプリンの件はどう考えても愛奈の口利きとしか思えなかった。おそらくは、この屋敷ではろくに甘いものを口にする機会がないという柚紀の話を聞いて、愛奈が取りはからってくれたのだろう。
「…………えへへ、嬉しいけど……なんだか他の人たちに申し訳ないね。私たちだけ贔屓されてるみたいでさ」
 どうせならもう少し気を利かせて私たちだけじゃなく全員の食事にプリンをつけてくれればよかったのにと、私はそんな罰当たりな事まで考えてしまう。
「とにかくさ、今夜にでも愛奈にお礼良いにいかなきゃね。プリンありがとーーーとっても美味しかったよー!ってさ」
「うん……」
 でも、私の声に対して柚紀の返事はひどく小さかった。わしゃ、わしゃと洗濯板に女官服をこすりつけながら、物憂げな顔で何かを考えているみたいだった。
「柚紀、どうしたの? お腹でも痛いの?」
「そうじゃないけど……」
 柚紀は洗濯の手を止め、ふっと視線を地面に落とす。
「なんだか、ちょっと怖くって」
「怖い? 何が?」
 私以上に、甘党の柚紀にとってプリンはごちそうな筈だ。一体全体何が怖いのか、私には全く解らなかった。
「ごめんね、さっちゃん。私もさっちゃんみたいに簡単に考えられたらいいんだけど……でも、どうしても考えちゃうの。……好かれてるうちはいいけど、もし……愛奈に嫌われたら、どうなっちゃうんだろうって」
「愛奈に……嫌われたら……?」
 そんなこと、考えもしなかった。確かに柚紀の言うとおり、愛奈の一言で簡単に食事のメニューが変えられてしまうほどの影響力があるのならば、怒らせでもしたら一体どうなってしまうのか。
「……そっか、愛奈に嫌われちゃったら、逆におかずが減っちゃったりするかもしれないんだ」
 私は真剣に考えて、真剣に心配したつもりだった。でも、柚紀はまるで哀れむような、それでいて羨むような目で私を見て、そしてはぁと大きくため息をついた。
「さっちゃんのそういう所、ときどきすごく羨ましくなるよ」
「あはは……そう? 私は柚紀のほうが羨ましいって思う事だらけだけど」
 多分だけど、褒められてる気がして、私は照れ笑いを浮かべてしまう。
「……それに、昨日言ってた弟が居なくて残念って……どういう意味なんだろう。……さっちゃんは気にならない?」
「気になるけど、考えても解らない事を気にしても仕方ないよ。柚紀もどうしても気になるんなら、今夜愛奈の部屋に行って直接聞いてみたら?」
「うん……そうだね」
 わしゃ、わしゃと再び洗濯を再開させながら、柚紀はなんとも気乗りしなそうな声で頷いた。


 その夜、私たちはお風呂の後、昨日と同じ時間に愛奈の部屋へと向かった。
「居ない……のかな?」
「みたいだね」
 そもそも部屋には明かりがついておらず、念のため声をかけてからそっと中を覗いてみたもののやはり愛奈の姿は無かった。
 仕方なく自分たちの部屋へと帰って、翌日改めて私たちは愛奈の部屋を訪ねた。しかしやはり明かりがついておらず、愛奈は居なかった。
(どうしたんだろう……)
 三日目、同じように訪ねてまたしても留守だった際にさすがの私も不安を覚えた。柚紀が言った「もし愛奈に嫌われたら……」の言葉がずしりと、重しのようにのし掛かるのを感じた。
 朝食には相変わらず私たちの膳にだけデザートが添えられ続けていたけど、それが尚更私たちを困惑させた。
 何とかして愛奈に会って真意を確かめたい。その為には愛奈に会わなければ――四日目の夜も同じように私たちは愛奈の部屋へと赴き、そして明かりがついているのを見て声を上げて喜んでしまった。
「愛奈! 居るの!?」
 障子戸越しに声をかけると、すかさず中から障子戸が開かれた。
「あーーーーーっ! さっちゃんだぁ、ひっさしぶりーーーー会いたかったよぉ!」
 愛奈がオーバーアクションに声を上げて、ひしっ、と私に抱きついてくる。私も愛奈の背に手を回して、しっかりと抱きしめ合った。
「ごめんねぇ、最近ちょっと忙しくってずっと留守にしててさ。今日からしばらくは大丈夫だから、また遊べるよ!」
「そうだったんだ……良かったぁ。私たちてっきり愛奈に嫌われちゃったのかと思って心配してたんだよ?」
「へ……? 嫌われてるって、どうして?」
 きょとんと。愛奈が目を丸くする。
「だって、今まで遊びに来て愛奈が居なかった事なんて無かったからさ。ひょっとして避けられてるのかなぁ、って。ね、柚紀?」
「う、うん……愛奈、本当に怒ったりしてないの?」
「ごめんね、誰かに頼んでしばらく会えないって伝えられれば良かったんだけど……なかなか難しくって。二人に変な心配させちゃったんだね……本当にごめんね」
「そんな、愛奈が謝るようなことじゃないって! 私たちが勝手に勘違いしちゃっただけだしさ。お互い気にしないようにしよ?……あ、そーだ! 愛奈、デザートありがとう! あれって愛奈が言ってくれたんでしょ?」
「あ、バレちゃった?」
 てへっ、と愛奈がイタズラっぽく舌を出して笑う。
「ごめんね、私の力じゃこんなことくらいしか出来なくって」
「ううん、すっごく嬉しかったよ。デザートもすごく美味しかったし」
「喜んでもらえたなら、私も頑張った甲斐があったよ」
 愛奈に促されて、私たちは部屋の中へと通される。いつものようにテーブルを囲んで座り、愛奈が用意したお菓子の袋をあけて、コップにジュースを注いで乾杯をする。
「ほらほら、こないだキーちゃんがいっぱい食べてたカットチョコもいっぱい用意しといたよ! 今日もお土産にいっぱいあげるね!」
「うわ、ほんとにいっぱい用意してるし……愛奈、そんなにチョコばっかり食べたら柚紀鼻血吹いちゃうよ」
「さ、さっちゃんの言うとおり、さすがにそんなにいっぱいは食べられないよ」
「ええーーーーっ……キーちゃんの為に折角準備しといたのにな」
 ぶう、と愛奈が頬をふくらませ口を尖らせる。
「あ、そうだ……愛奈。ごめんね、一つだけ、どうしても聞きたい事があったんだけど……」
「なぁに? キーちゃん」
「この間さ、弟居る?って聞いてたじゃない? あれってどういう意味だったの?」
「あれ? 私そんな事聞いた?」
 きょとんと、まるで覚えがないと言わんばかりの反応に私も柚紀も逆に言葉を失ってしまった。
「ごめんね、多分その時は何か理由があって聞いたんだと思うけど、多分どうでもいいことだったから私も覚えてないや。本当に対したことじゃないから、キーちゃんも気にしないで」
「そう……なの? 愛奈がそう言うなら気にしないようにするけど……」
「ほら、だから私も言ったじゃない。柚紀は細かいこと気にしすぎなんだって」
「あー、確かにキーちゃんって神経質そうな顔してるよね。少しさっちゃんを見習った方がいいよ?」
「無神経の代表みたいに言われるのはちょっとショックだけど……とにかく愛奈の言うとおりだよ。とりあえず体重を気にする所から直していこっか?」
「んっふふ〜それは良いこと聞いちゃった。……ねーねーキーちゃんって今何キロくらいあるの?」
「や、止めて……聞かないで! 食べられなくなるから聞かないでぇ!」
 ひぃーっ、と割と本気っぽい悲鳴を漏らしながら、柚紀が両耳を塞いでイヤイヤをする。
「あはは、でもキーちゃんは本当にそういうの気にしなくていいと思うよ? 別に太ってるわけでもないんだしさ。第一まだ成長期でしょ?」
「そう! 聞いてよ愛奈! 柚紀ったらさ、一緒にお風呂に入るたびにこれ見よがしに胸に手を当ててため息ついたりするのよ? いかにも“また大きくなっちゃった、どうしよう”って顔でさ。イヤミだと思わない?」
「ち、違うよ! そんな事思ってない! それはさっちゃんが勝手にひがんでるだけでしょ?」
「ひがんでなんかないよ! べ、別におっぱいとかどうでもいいし……ただ、私は柚紀が気にしてるみたいだったから――」
「あー…………あのね、おっぱい大きいとそれはそれで大変だよ?」
「…………。」
「…………。」
 でた、“持てる者”特有の余裕。愛奈は私たち二人分の視線を感じて、その胸元の質量を誇るように胸を張り、のしっ。とテーブルの上に乗せてくる。
「……ねえ、割と真面目な話するけどさ、胸ってどうすれば大きくなるの? やっぱり乳製品?」
「ん、知りたい? じゃあさっちゃんにだけこっそり教えちゃおうかなぁ?」
「あーっ、ズルいぃ! 愛奈、私にも教えてよぉ!」



「……はぁぁ……今日もあっという間に時間が過ぎちゃった……。愛奈の部屋の時間の進み方って絶対おかしいよ」
 やいのやいのと話すうちに、気がつけば消灯時間が目前に迫っていた。名残惜しいけど、さすがに女官寮の規則を破るわけにはいかないから、私はお菓子の袋を片づけて帰り支度を始めた。
「そうだね……。浦島太郎の気持ちがよく解るかも……」
 柚紀もまた、名残惜しそうに後かたづけを始める。
「………………ねぇ、二人に相談があるんだけど」
「どうしたの? 愛奈」
「もし良かったらさ、このまま泊まっていかない?」
「「ええぇぇーーーー!?」」
 私と柚紀の声が完全にシンクロしてしまった。
「実はさ、こっそり隣の空き部屋にお布団3人分敷いちゃってるんだよね。……私もまだまだ話し足りないしさ、続きはお布団に入ってからどうかなぁ、って」
「そうしたいのは山々だけど……ほら、部屋に戻らないと……明日も仕事があるし……ねぇ、柚紀」
「う、うん……ごめんね、愛奈」
「大丈夫!」
 ばん、と愛奈は胸を張り、自分でどんと叩いてみせる。
「その辺のことは何にも心配いらないから。泊まってくれるんなら、二人とも明日は丸一日休みにしちゃう! そうすれば一緒に遊び放題だよ?」
「えええええええ……そ、そんな事できるの?」
「余裕」
 と、愛奈はVサインを作って自信満々のご様子。
「ほら、しばらく忙しかったって言ったじゃない? それってお父様に紹介されて来た“客”の相手してたからなんだよ。だから、その代わりにこっちも我が儘言ってやるの。養女だからって、素直にハイハイ言うこと聞くわけじゃないんだぞーって教えてやりたいの。だから二人とも協力してくれない?」
 愛奈の言葉に、私は強烈に魅了されていた。実際巧い言い方をするものだとも思った。仕事をサボるわけではない、ただ自分を助けて欲しいと愛奈は言っているのだ。言いなりになってたまるかと“反抗”してみせる為に、私たちの協力が必要なのだと。
「……どうしよう、柚紀?」
「うん……どうしよっか」
 私も柚紀も迷っていた。愛奈の頼みを聞くのが嫌なわけではなかった。純粋に“美味すぎる話”を前にして私たちは尻込みをしていた。
「お願いっ、私を助けると思ってさ、協力してよ! ちゃんと有給扱いにしてお給金も出るようにするからさ!」
「そんなのはどうでもいいんだけど………………わかった、愛奈が本当にそうして欲しいっていうのなら、私は構わないよ」
「さっちゃんがそう言うなら……じゃあ、私も。……愛奈、本当に大丈夫なんだよね?」
「大丈夫! ここには私に命令できる人なんて誰も居ないんだよ? じゃあ、二人とも泊まっていってくれるの!?」
 キャハっ――愛奈はそんな声を上げて、文字通り飛び上がって喜んだ。そして箪笥の引き出しを開けると、中から三着のそろいの水玉柄のパジャマを取りだした。
「じゃあ、はい! これに着替えて?」
「これって……パジャマ?」
「うん。パジャマパーティの準備! ふっふーっ、二人とも今夜は寝かさないよ?」



 パジャマに着替えて、さらにひとしきりお菓子とジュースを肴に騒いだ後、さすがに眠気を感じて私たちは隣の空き部屋へと移動した。
 眠いのも当然で、時刻は夜中の一時を過ぎていた。
「あんな時間にあんなにお菓子とジュース食べてそのまま寝るなんて……絶対ヤバいよ……ううぅ……」
「ほらほら、もう諦めて布団に入っちゃいなって。……あ、愛奈が真ん中に寝る?」
「もちろん! そこはほら、王様の特権ってやつで是が非でもいかせてもらうからね?」
 王様の特権を使ってまで、川の字に並んだ布団の真ん中が欲しいという愛奈が可愛くすら思えて、私は苦笑いをしながら愛奈の左手側の布団へと入り、反対側には柚紀が入った。
「えへへ……いーなぁ。ずっと憧れだったんだ、こういうの。……ねえねえ、二人ともすぐ寝ちゃったりしないでよ? まだまだいーっぱい話したい事あるんだから」
「愛奈は本当に元気だよねぇ…………どんな話がしたいのかお姉さんに言ってごらん?」
 私たちは全員同い年の十六歳だけど、誕生日の関係で私が一番年上なのだった。
「えへへ。……じゃあさ、さっちゃんは好きな人とか居る?」
「うわ、そう来たか。………………うーん、悪いけど男の子好きになったことって無いんだよね」
「ずるーい! そういう逃げ方は良くないと思うなぁ?」
「いやホント。私初恋ってまだなんだよ。ね、柚紀?」
「あ、うん。愛奈、さっちゃんの言うとおりだよ。さっちゃんはね、誰一人愛する事ができない鋼鉄の女なの」
「……びみょーに悪意の籠もった言い方しないでよ! 一応私にだって好みっていうか。……理想とする男子像はあるの! ただそれにマッチする男の子が居ないから初恋が出来ないだけ」
「……ちなみに、さっちゃんはどんな男の子が好きなの?」
「どんなって言われても困るけど……とりあえず私より背が高くて、見苦しくない程度には格好良くて、スタイルもそれなりで、力も最低限私よりは強くて、学力も中の上くらいは欲しいかな。あとあと、おしゃべりよりは無口の方が良くて、私のことをすっごく大切にしてくれるんだけど、そのくせ友達も見捨てられなくて、困ってる友達を前にするとデートの約束ほっぽりだしていっちゃって、後になって必死になって謝ってくるような――……ちょっと、ちゃんと聞いてる?」
「ぐー」
「ぐー……あ、ごめん。とりあえず、さっちゃんが初恋がまだだっていう事だけはよく解ったよ。本当に」
「ひどい……愛奈が聞くからマジメに答えたのに。……じゃあ、愛奈はどうなの?」
「私よりも先にキーちゃんのが聞きたいな。……ねえねえ、キーちゃんは好きな人いるの?」
 ぐーっ、とさっきに引き続いて柚紀は寝たふりを続けていた。さては、このままこの話題をやり過ごす気だな。
 そうはさせるか。
「愛奈愛奈、あのね、柚紀の好きな人だったら私が知ってるよ」
「えっ、ホント?」
「うんうん、あのね、柚紀は――」
「ダメぇぇーーーーーーー!」
 忽ち柚紀が奇声を上げて掛け布団をはねのけ、愛奈の布団を飛び越して私に飛びかかってきた。
「ちょっとちょっとぉ、良いところなんだからさ。キーちゃんはほら、大人しくしてて?」
 愛奈が意地悪く笑いながら柚紀を羽交い締めにして私から引きはがす。
「だめだから! 言わないで、お願い、さっちゃん!」
 愛奈に羽交い締めをされながらも、じたばたと柚紀は暴れ続けていた。が、よほど愛奈の押さえ方が上手なのか、拘束は一向に外れる気配すらなかった。
「残念だけど、それは無理だよ柚紀。……大丈夫、恥ずかしいのは最初だけだって」
「だーーーーめーーーーー!」
「ほらほら、キーちゃんあんまり大声出すとみんな何事かと思って様子見に来ちゃうよ? いいの?」
「あ、愛奈……お願い、恥ずかしいからホントやめて……」
「だーめ。……ほら、さっちゃん聞かせて?」
「雇い主の愛奈に命令されたら断れないなぁ。……じゃあ、遠慮無く」
 こほん、ともったいぶった咳を一つ。
「柚紀はね、中学時代のいっこ上の先輩の事が好きで、その人と一緒の大学に行く為に毎日勉強してるんだよ」
「あわわ……ああああわわ……」
 柚紀が顔を真っ赤にしたまま目尻にいっぱい涙を溜めてイヤイヤをするようにぶんぶんと首を振っていた。
 あぁんもぉ、可愛いなぁ。
「ちなみに、その先輩には中学卒業の日に告白して、既にOKもらっちゃってまーす」
「きゃーーーーーーっ! キーちゃんやるーぅ!」
「止めてぇーーーーー!」
 愛奈の冷やかし声と、柚紀の悲鳴が寝室中に木霊して、私は思わず耳を塞いだ。
「で、ででで……でも……高校に居る間、先輩に新しく好きな人が出来るかもしれないし……ていうか、先輩ものすごく格好いいから……絶対そうなって、他の人と付き合ったりするし……OKなんかもらっても、何の意味もないっていうか……」
「おやおや幸子さん。これはひょっとしてノロケというやつですか?」
「どう聞いてもそうですね愛奈さん。……あーあー柚紀ってばそういうイヤミな女の子だったんだ?」
「もぉーーーーーーー! 二人ともバカ! バカ! 勝手にバラしたくせにバカ! もぉ知らない! 口聞いてあげないんだから!」
 柚紀は金切り声を上げるや、布団を頭からかぶって丸くなってしまう。
「…………じゃあ、最後の愛奈が好きな人は私だけが聞いちゃおうかなぁ?」
 そんな私の独り言に、ぴくりと。かつて柚紀だった布団のかたまりが揺れた。
「えぇー……私はいいよぉ。やっぱり恥ずかしいし。そろそろ眠くなってきちゃったから私は先に寝るね。おやすみなさーい」
 そんな事をぬかして自分の布団に潜ろうとする愛奈につかみかかったのは私ではなく柚紀だった。
「あーいーなー? 自分だけ言わないなんてそんな我が儘が通ると思ってるの?」
「き、キーちゃん? あれぇ? さっき口きかないって――」
「そんなのはどうでもいいから! 愛奈も好きな男の事ちゃんと言うの! ほら!」
「わかったよぉ……ちゃんと言うから、ほら……二人とも自分の布団に戻って?」
 愛奈に促されて、柚紀も私も渋々自分の布団へと戻った。
「えへへ……じゃあ、言っちゃうね。私が好きなのは…………ヒーくん。……キャーッ、言っちゃた」
「ひーくん?」
「誰? 芸能人?」
「ヒーくんっていうのはね、二歳年下の従兄弟なの。……もうね、すっごく可愛いの!」
 私も柚紀も夢にも思わなかった。
 まさかそこから二時間以上もかけて“ヒーくんの可愛さ”について説明されるなんて……。


 女官にも休日というものは存在する。週に一度、あらゆるお勤めから解放されて自由に過ごす事が出来る日がそれだ。
 但し、“見習い”の私たちは基本的に屋敷の外へ出ることは許されておらず、それでいて屋敷の中には娯楽になるようなものは“原則として”何一つ存在しない。
 よって休日にやることと言ったらひたすら昼寝をして体を休めるか、瞑想にふけるか、はたまた自主勉強くらいしか無かったりする。
 私も柚紀も、昨日まではそうだった。
「まさかここで真昼から寝ころんでテレビを見るような日がくるなんて夢にも思わなかったよ」
 勿論それは昨夜、愛奈の頼みを聞いたからだった。朝、普段よりかなり遅めに起きた私たちは布団を片づけて顔を洗い、そのまま愛奈と一緒に三人で朝食を摂った。ちなみに食事は部屋に直接三人分の膳が運ばれてきて、普段寮で出される食事より何倍も豪華で、私も柚紀も夢中になって食べてしまった。
「そうだね。他の人たちが働いてるのに、なんだか悪い気がしちゃうよね」
 そしてパジャマ姿のままでごろごろしながらテレビを見たり、とりとめのないおしゃべりをしたり。雰囲気はもう完全に“友達の家に泊まった翌日”のような事になっていた。
「でもさ、やっぱり平日の昼間って面白い番組やってないよね。DVDかゲームでもあれば良かったんだけどね」
 そう、きっかけは私のそんな何気ない一言だった。
 きらりと。私は視界の端でクッションを抱いたままごろごろしていた愛奈の目が光るのを感じた。
「…………ゲーム、やりたい?」
「えっ、あるの!?」
「うん。二人とも私についてきて」
 愛奈に先導されて、私と柚紀はその後に続いた。三人ともパジャマ姿で、屋敷の廊下を歩いていると何度も他の女官達とすれ違い、私も柚紀もばつが悪い思いをした。もちろん愛奈はまったく気にもしていない様子だった。
「ここ。ちょっと散らかってるから、足下気をつけてね」
 私たちは愛奈に連れられるままに屋敷の端の端、大仰な蔵の前までやってきた。さながら、時代劇なんかに出てくる米蔵のように巨大なそれは全く同じものが五つ並んでいて、愛奈が足を止めたのはその一番左の蔵だった。頑丈そうな鉄の扉から受ける印象とは対照的に、その扉には錠前がかかっておらず、愛奈は無造作に扉を開けるとそのまま中へと入っていった。
 私も柚紀もその後に続く。ほこりっぽい、学校の体育倉庫なんかでよく嗅いだ匂いに私は思わず口元を覆った。蔵の中はずいぶん高いところに小さな窓があるだけで、そこから柱のように太陽の光が降り注いでいた。
 前を歩く愛奈が壁を手探りし、ぱちりと音が聞こえた途端、裸電球の明かりが蔵の中をほの暗く照らし出した。――瞬間、私も柚紀も思わず声を上げていた。
「すごっ……なにこれ……」
「全部……おもちゃ……?」
 蔵の中、私たちが歩いてきたわずかな幅の道を除いて回り中がありとあらゆるオモチャで埋め尽くされていた。うずたかく積まれて壁のようになっているプラモデルの箱に、戦隊物のロボット、なにかのヒーローの変身セットに、ボードゲーム。もちろんゲーム機本体も私が知る限りのすべてのものがそろっていて、それぞれのソフトがこれでもかと積み上げられていた。
「二階にもいろいろあるから、好きなの持っていっていいよ」
 誇らしげに――というよりは、どこか恥ずかしそうに言って、愛奈は私たちに道を譲るように、体をプラモデルの壁の側へと避ける。確かに愛奈の言うとおり、蔵の中はロフトのような仕組みになっていて、奥には二階へと上がる階段らしきものが見えた。
「いや、ていうかさ……ほんとにこれどうしたの? 全部愛奈が買ったの?」
「買ったっていうか集めちゃったっていうか……一種のストレス解消って言えばいいのかな。時々衝動的にこういうの買っちゃうの。もちろん私は屋敷から出してもらえないから、カタログとか見ながら、手当たり次第に買えるだけ」
「ストレス解消って……」
 さすが名家の養女ともなれば、散財の額も桁違いということなのだろうか。目に見える範囲にあるものだけでも、実家にいた頃の私の小遣い十年分以上の金額は軽く超えているであろうだけに、なんだか複雑な気持ちにさせられる。
「……でも、男の子が遊ぶようなものばかり、だよね、これ……どうして?」
 柚紀のつぶやきに、私はハッとした。確かに言われてみれば、蔵の中にあるオモチャはすべてと言って良いほどに男の子向けのもので満たされていた。これだけあれば一つくらい“お人形”やママゴトセットの類くらいあってもよさそうなものなのに、そういったものはただの一つも見つからなかった。
 或いは、一階は男物で、まだ見ぬ二階に女物のオモチャがあるのだろうか。それとも女物は他の蔵に――私がそんな事を考えていると、愛奈がひどく寂しそうに笑った。
「…………昨日、二人には話したよね。好きな男の子がいるって」
 私も柚紀も、首の動きだけで頷いた。
「オモチャのカタログとか見ながら、“こういうのヒーくん好きかも”って思ったら、つい買っちゃうんだよね。……別に私が買ったからって、ヒーくんの所に同じものが届くわけでもないのにね」
「愛奈……」
「あと、もし万が一ヒーくんが私に会いに来てくれた時に、絶対退屈したりしないようにとか……少しでも長く居てくれるようにとか…………理由はいろいろつけられるけど、やっぱりストレス発散っていうのが一番の理由かな」
 私も柚紀も愛奈にかけてあげられる言葉が見つけられなくて、その場に立ちつくしていた。
 そんな私たちを見かねたように、あっ、と愛奈がおどけたような声を出した。
「ごめんね、ちょっと……引かせちゃったかな。……そういうわけだから、ここにあるのは私は使わないものばかりだからさ。好きなのあったら持っていっちゃって」
「でも……」
「いいから、ね? どうせいつかは捨てなきゃいけなくなるものなんだし……新品のまま捨てるよりはさ、少しでも遊んだ方が勿体なくないじゃない」
「……そう、だね。……確かに愛奈が言うとおり、このままにしておくのはちょっともったいないよね」
 引っかかる所が無いわけではない。けれど、まるで私たちの方が励まされているような、そんな物言いをする愛奈を見ていられなくて、私はあえて彼女の言う通りにする事にした。



 結局私たちは最新のゲーム機本体と、それ用のゲームソフトを二,三本手に蔵を後にした。ソフトはすべて三人で遊べるボードゲーム系のものにした。
「ふぅーん、こうやって繋ぐんだ」
 いつもの部屋へと戻って、てきぱきとゲーム機をセッティングする私たちを愛奈は興味深そうに見守っていた。
「ひょっとして、愛奈ってゲームとかやったことないの?」
「全然っていうわけじゃないんだけど、私はどっちかっていうと外に出て遊ぶ子供だったから」
「そうだったんだ……結構意外。愛奈って日焼けとかも全然してないし、髪も長くしてるし、あんまりアウトドアって感じしないのに」
「外で遊んでたけど、確かに日焼けはほとんどしなかったかなぁ。体質なのかも?」
「いーなぁ。私なんて夏は川とかでよく泳いでたけど、いつも真っ黒だったよ?」
「そうそう。一緒に遊んでる男の子達もみんな真っ黒に日焼けしてて、さっちゃん完全にとけ込んでたよね」
「そういう柚紀は一人河原で日傘差して本読んでたよね。肌が焼けるのも嫌、髪も焼けちゃうからーって」
「あっ、だからキーちゃんの髪ってそんなにさらさらで綺麗なんだ?」
「何言ってるの。愛奈の髪だってすっごく綺麗じゃない。緑の黒髪ってこういうのをいうんだって、愛奈を見て思ったもん」
「ううん、キーちゃんの方が全然綺麗だよ。いーなぁ……ちょっと触ってもいい?」
「あっ、こらっ……ちょ、くすぐったいってばぁ」
「くんくんくん……はぁぁ……いー匂い……ねえ、シャンプーどんなの使ってるの?」
 “髪の話題”にまったくついていけない私は子猫のようにじゃれ合う二人を尻目に一人もくもくとゲーム機の配線作業を続けるのだった。

 お菓子やジュース片手にゲーム三昧――そんな夢のような宴は夜の八時まで続いた。
「さっちゃん、さすがにそろそろ戻った方がいいんじゃないかな?」
 柚紀が言っているのは、寮の入浴時間の事だとすぐに解った。“休日”であっても、入浴時間はちゃんと決められている。ましてや、私たちの場合は特殊な事情から他の“一年生”達と時間をずらしてもらっているので余計に自由度の幅が狭かったりする。
「あっ、そうだね。……ごめん、愛奈。続きはまた今度ね」
「二人とも勝ち逃げなんてずるーい! ね、もう一回だけやろ?」
「ごめんね、愛奈。さすがに明日は休めないしさ、私たちはお風呂に入って部屋に戻らないと……だから、また今度遊ぼ?」
 うーっ、と子供のようにうなる愛奈に別れを告げて、私たちは大急ぎで襦袢姿へと着替え――恐ろしいことにこの時間までパジャマ姿のままだったりする――寮の部屋へと戻った。

「ねえ、柚紀。愛奈の事なんだけどさ」
 入浴を終え、消灯時間も三十分後に迫り、私たちは少し早いながらも布団を敷いて横になっていた。実のところ、昨夜はほとんど寝てない上に昼間も遊び通しで私はすでに結構な眠気に襲われていた。
「なぁに? さっちゃん」
「…………柚紀ってさ、時々お母さんみたいな声出すよね」
「からかわないでよ。……それで何?」
「愛奈のあれ、なんとかしてあげられないかと思ってさ」
「“あれ”って?」
「決まってるじゃない。あんなに好きなのに、想いを伝えられないっておかしいじゃない」
 ああ、と柚紀はどこか気の抜けたような声で返事をした。
「“ヒーくん”との事ね。……私はそっとしておいたほうがいいと思うけど」
「どうして? 愛奈が可哀想だって思わないの?」
「思うけど……でも……」
「でも?」
「あんなに好きなのに、ろくに連絡すらとってないんでしょ? 従兄弟同士なのに…………何か事情があるんじゃないのかな」
 確かに、と私は柚紀の言葉にハッとしていた。
「“養女”なのが、関係してるのかな」
 従兄弟というのは、当然“実家”の方の従兄弟という意味なのだろう。ひょっとしたら、養女となる際に何らかのイザコザがあって、それ故実家の親戚とは縁遠くなってしまったというのは、あり得る話だと思える。
「かもしれないし、他の事が原因かもしれない。……どっちにしろ、私たちが気軽に触れて良い部分じゃないと思う」
「…………。」
 確かに、柚紀の言うとおりだとは思う。愛奈本人が助けて欲しいと助力を懇願しているのならばともかく、一応友達ではあっても、他人の私たちがあれこれと世話を焼くのは逆に迷惑になるのではないだろうか。
 でも、私は――。
「……さっちゃんが考えてる以上に、“好きな人とのこと”って人に触れてほしくないものなんだよ。…………さっちゃんも、誰かを好きになったら、私や愛奈の気持ちがきっと解るようになるよ」
「……確かに、そういう気持ちは……私には解らないけど……」
「この話はもう止めよ。私たちに出来る事なんか何もないよ」
 柚紀は明かりを消して、それ以上の話を拒絶するように私に背を向けて横になる。釣られて、私も柚紀に背を向ける形で横になった。
(柚紀の言いたい事はわかるけど……だけど……ごめん。……私やっぱりほっとけないよ)
 無数のオモチャに囲まれた蔵の中で寂しそうに笑う愛奈の顔が、いつまでも脳裏にこびりついて離れない。あの胸を締め付ける笑顔をなんとか本物の笑顔に変えてあげたい――眠気に負けて意識を失うまで、私はただひたすらその方法を考え続けた。



 愛奈の部屋に“お泊まり”して以来、私たちは週に一度の休日を愛奈の部屋で過ごすようになった。大抵の場合それはとても楽しい一日になって、私たちは一週間分の鋭気を養う事が出来た。
 けれど、たまに愛奈の都合が悪くて一緒になれない時もあった。そういう場合でも愛奈はあの部屋を好きに使っていいよと言ってはくれてたのだけれど、私も柚紀も愛奈が居ない時は素直に自分たちの部屋に帰る事にしていた。そうやって二人きりで過ごす休日は、愛奈と一緒に居る時間にくらべて酷く味気ないものだった。柚紀は大体いつも一日中机にかじりついて勉強をしていて、ろくに話しかける事も出来ないし、下手をすれば私もそれに付き合わされそうになるから尚更堪らなかった。
(あーあ……早く愛奈に会いたいなぁ……)
 いつしか私は寝ても覚めても愛奈の事ばかり考えるようになっていた。

 そして、ある日。私はとうとう決心した。休日、いつものように愛奈の部屋で遊んでいた際、たまたま柚紀が席を立ってトイレに行き、私は今しかないと思い切って愛奈に訪ねてみることにした。
「…………ねえ愛奈。“ヒーくん”の事だけど」
 その名を口にするなり、愛奈がびくりと大きく体を揺らしたのが解った。“ヒーくん”とやらはそれほどまでに彼女の中でウェイトを占める存在なのかと、私は少し嫉妬してしまった。
「一応従兄弟なんだよね? 連絡とったりとかはしないの?」
「れ、連絡って……どうやって……?」
 愛奈が舌をもつれさせる事など滅多にない。あからさまに挙動不審になる彼女に苦笑しそうになりながらも、私は言葉を続ける。
「普通に電話でいいじゃない。連絡先くらい知ってるんでしょ?」
「で、電話って……だ、ダメだよ! 絶対ダメ! 電話をかけていきなりヒーくんが出ちゃったりしたら、私……心臓が爆発しちゃう…………」
 思わず触ってみたくなる程に愛奈は顔を真っ赤にしてぶんぶんと首を振る。
「じゃあ……メールとかは?」
「……携帯は持ってるけど、ヒーくんのアドレスが解らないよ」
「そっか……でも住所くらいは解るよね? だったらもう手紙でいいじゃない。とにかくさ、それだけ好きなら行動しなきゃ!」
「で、でも……」
「ね、愛奈。私も応援するからさ、頑張ろうよ!」
「本当? 本当に応援してくれる?」
「するする、私に出来ることなら何だってするよ!」
 そこまで言った所で、きし、きしと廊下を微かにきしませながら足音が近づいてきた。柚紀が戻ってきたんだとすぐに解った。
「ごめん、愛奈。今の話柚紀には内緒にしといて」
「どうして?」
「柚紀に、この話はしちゃだめだって言われてるの。だからお願い!」
 私は両手を合わせて懇願した。
「…………キーちゃんが、ヒーくんの話しちゃだめって言ったの?」
 その時、一瞬――ほんの一瞬だけ、私は寒気に似たものを感じた。まるで一瞬時間を止められて、その隙に悪魔が目の前を横切ったような――そんな奇妙な感覚だった。
「う、うん……ていうか愛奈? どうしたの? なんか怖いよ?」
「えっ、怖いって何が?」
 そう言う愛奈はいつもの愛奈だった。一体何が怖かったのか、私自身にも解らなかった。ただ、背筋が凍って両手の掌から汗が滲むのを止められなかった。
「と、とにかく……柚紀には秘密だよ?」
「何が秘密なの?」
 丁度その時柚紀が部屋へと入ってきた。あわわ、あわわと慌てる私を愛奈は右手で制して、いつもと変わらない口調で言った。
「何も秘密じゃないよ。二人きりでこっそりキーちゃんの誕生日祝うだなんて、そんな計画考えてなんかないもんねー、さっちゃん」
「そ……そうそう! 私の誕生日は五月だからもうとっくに過ぎちゃってるけど、柚紀は十一月でもうすぐだから、今から準備すれば間に合うね〜なんて話は誰もしてなかったよ」
「…………二人とも、反応に困る話は止めてくれない? 誕生日なんて……別にどうでもいいし……」
 などといいつつ、柚紀は髪を弄りながらちょこんと座る。髪を弄るのは照れている時の柚紀のクセなのだ。
(さっすが愛奈、ごまかし方が巧いなぁ……)
 このテクは見習わなければと。私が思った時だった。
「ねえねえ、キーちゃんも戻ってきた事だし、新しいゲームやらない?」
「あ、うん。私は別に良いよ、何にする?」
 既に何度か蔵と部屋を行き来して、めぼしいゲームソフトはこっちに持ってきている。まだ箱をあけていないものも四,五本はあった。
「これなんか、結構面白そうなんだよね。ほら、前にやった人生ゲームのやつの続編だよ」
「あー、あれね! 確かに面白そう! 柚紀もそれでいい?」
「私は別にいいけど……」
 先ほどの誕生日を祝うの祝わないのの話題を引きずっているのか、相変わらず柚紀が髪を弄りながら答える。
「……ねえ」
 愛奈がパッケージを開け、DVDソフトを取り出しながら、にんまりと笑う。
「折角だからさ、ビリになったら罰ゲームをするっていうのはどう?」
「いいね! 面白そう! どんな罰ゲームにするの?」
「最初にそれを考えてみんなで紙に書いて、このお菓子の空き箱にいれておくわけ。それでビリになったら自分でくじを引いて、書いてあるのを実行するの!」
「面白そうだけど……あんまり過激な罰ゲームはやめようね?」
 不安そうに釘を刺したのは柚紀だった。そんなこと言われなくても私も愛奈も解ってる。皆まで言うな、というやつだ。
「じゃあ、クジ用の紙とハサミをもってくるから、ちょっとだけ待っててね」
 

 私たちはそれぞれ5つずつ罰ゲームを紙に書き、折りたたんでお菓子の空き箱へと入れ、ゲームを開始した。
 ゲームの内容は以前にやった人生ゲームの続編ではあったものの、マップやイベントが大幅に追加されほとんど別物になっていた。
 私たちは一喜一憂しながらも最終ステージまで進み、そして結果発表――総資産額が多かったキャラクターから順に順位が発表された。
 一位は私、二位は柚紀、そしてビリは愛奈だった。
「あぁーん! もぉ、最終ステージまではトップだったのにぃ」
「愛奈は折角一位なのにリスキーな事やりすぎなんだよ。……じゃあはい、罰ゲームの時間だよー?」
 私は罰ゲームクジが入った箱を愛奈の前へと置く。愛奈が渋りながらもくじを引き内容を読み上げる。
「えーと……四つんばいになってテーブルの周りを三回回ってワンと鳴く。……ひどーい! こんなの書いたの誰!?」
「あ、私が考えたやつだ。愛奈、自分で言い出した事なんだからちゃんとやらなきゃだめだよ?」
 愛奈は酷いと言うけれど、私なりに丁度良さそうな罰ゲームを考えたつもりだった。愛奈は躊躇いながらもきちんと四つんばいのままテーブルを三回回り、わんと鳴いた。
「じゃあ次いくよ!? 今度は負けないんだから!」
 鼻息荒く意気込む愛奈に促されて、私たちは再度ゲームをやった。今度は一位は柚紀、二位が私、そしてビリが……またしても愛奈だった。
「あはは、今度は最初から張り切りすぎたね。……じゃあ、はい。罰ゲーム」
 一回目の時に比べて、愛奈は明らかに序盤から無謀な賭を繰り返し、ぶっちぎりの最下位だった。しゅーんと肩を落としている愛奈の前に、私はそっとクジの箱を置く。
「えーと……腕立て伏せを十回やる……」
「あ、それも私だ」
「……地味にキツい罰ゲームだね。さっちゃんって結構陰険?」
「柚紀には言われたくないなぁ。……柚紀こそ、ものっすごい陰険でいやらしい罰ゲーム書いてるんでしょ? あ、愛奈。腕立てできないなら代わりに腹筋10回でもいいよ?」
「……さすがに十回くらいは出来るけど……ひーん……」
 愛奈は泣きそうな声で言って両手を絨毯の上につくと、きっちり十回の腕立てをこなした。
「もぉーーーーー! 次は絶対負けないんだから! 私本気出しちゃうからね!?」
 ぷんすかと気炎を吐く愛奈をなだめながら、ゲームは三回目に突入した。さすがに三連敗させるのは忍びなくて、私は少しだけ手を抜いて、多分それは柚紀も同じだったんだと思う。
 結果、愛奈が一位、私が二位、柚紀がビリということになった。
「あーあ、負けちゃった……」
「ふっふー……キーちゃん? お待ちかねの罰ゲームの時間だよぉ?」
「うわ。愛奈ったらすっごい悪い顔してる!」
 愛奈が喜々として柚紀の前に箱を置き、柚紀がそれを引く。
「えーと……大きな穴を掘る……」
「あ、それ私が書いたのだ」
 愛奈が挙手をしながら言う。
「穴を掘る……って、どういうこと?」
「そのまんまの意味だよ。二人ともついてきて」
 愛奈が席を立って、そのまま廊下へと出て行く。私も柚紀も頭から大きな?を出しながら愛奈の後に続いた。
 愛奈は途中でサンダルに履き替え、庭へと出てしまった。仕方なく私たちもサンダルに履き替えてその後を追った。
「んー、この辺でいいかな。スコップもってくるからちょっと待っててね」
 そうして連れてこられたのは屋敷の裏手の片隅、屋敷の壁と高い塀に挟まれた、一日の大半が日陰となるであろう薄暗い場所だった。五分と経たずに愛奈が戻ってきて、身長の半分ほどもある大きなスコップをはいと柚紀に手渡した。
「深さは……そうだねぇ。二メートルもあればいいかな。じゃあ罰ゲームお願いね」
「えっ……?」
 聞き間違いかと思ったのは私だけではなかったと思う。柚紀もまた、愛奈の発言が信じられないとばかりに体を硬直させていた。
「愛奈、冗談だよね? 深さ二メートルの穴なんてさすがに……」
「冗談じゃないよ? ちゃんと紙に書いてたでしょ? 大きな穴を掘るって」
「そうだけどさ……そんなことやってたら時間もかかるし……」
「別にいいじゃない。じゃあキーちゃん、私たちは先に部屋に戻ってるから頑張ってね」
 愛奈は半ば強引に私の手を引いて歩き出してしまう。
「ちょ、ちょっと愛奈!」
 ぐいぐいと腕を引かれながら、私は必死に愛奈を呼び止めようとしたけど、頑ななまでに愛奈は足を止めてくれなかった。
(…………愛奈……ひょっとして、怒ってるの?)
 その可能性を考えて、私はひやりとした。表面上は喜々として罰ゲームに興じていたように見えて、その実。腸は煮えくりかえっていたのではないか――。
「じゃあ、さっきの話の続きをしようか」
 内心恐々としていた私をあざ笑うように、愛奈は部屋にもどるなりころりと笑顔をこぼしてテーブルを挟んで座った。
「あ、愛奈……?」
「さっちゃんどうしたの? 座らないの?」
「あ、うん……」
 愛奈に促されて、私もクッションに腰を下ろす。こうして向かい合って見ている限りは、愛奈は普段通りで、とても怒っているようには見えなかった。
(考えすぎ……かな)
 考えてみれば、“罰ゲーム”の内容を考えたのは愛奈が二連続罰ゲームを受ける前だ。それに、仮に頭に来ているとしてもその矛先は私に向くべきで柚紀に八つ当たりするのはおかしい。
「ねえ、さっちゃん。さっちゃんはどうすればいいと思う?」
「えっ……? ど、どうって……?」
「もー! 私の話を聞いてなかったの? さっきの話の続きだよ! ……協力、してくれるんでしょ?」
「あっ……」
 そういえば、ゲームの前にそんな話をしていたことを私は思い出した。
「う、うん……もちろん協力するよ」
「じゃあさ、一緒に考えてよ。私はどうすればいいと思う?」
「それは……やっぱり、連絡をとらない事には始まらないんじゃないかな。電話やメールが無理なら、無難に手紙が一番だと思うけど……」
「手紙かぁ……うん、手紙ならなんとか書けそう!」
 それは名案だと言わんばかりに愛奈が頷く。
「ね、ねぇ……愛奈。……ひょっとしてさ、その話をする為に柚紀に穴を掘らせたの?」
 だとしたら、さすがにちょっと酷いと思う。いくらなんでも、内緒の話をするためにあからさまに一人をのけ者にするなんて。
「ううん? あれはただの罰ゲームだよ?」
「で、でも……さすがに二メートルの穴なんて厳しすぎない?」
「そうかな?」
「そうだよ! 二人じゃゲームの続きも出来ないしさ、罰ゲームは何か他の簡単なものにして柚紀を迎えに行こうよ」
「うん、それも悪くないかもしれないね」
 うんと頷いて、愛奈がにっこりと笑う。
「でも、まずは先に手紙の内容考えようよ。ねえねえ、さっちゃんならどんな風に書く?」
「あ、愛奈……」
 私は言葉を失ってしまった。愛奈と私の考え方には決定的な齟齬があると痛感した瞬間でもあった。
(愛奈には……“ヒーくん”しか見えてないんだ)
 私は、愛奈の想いの深さを甘く見ていたのかもしれない。それは柚紀の言った通り、軽々しく触れてはいけないものだったのだ。



 愛奈の熱意に押される形で、私も一緒になって手紙の内容を考えて、大まかな草案が出来た頃にはすっかり日も暮れてしまっていた。
「……こんな感じかな。あとは愛奈が自分の言葉できちんと手紙にすれば、きっと返事がもらえると思うよ」
「うわぁ、ありがとう、さっちゃん! 早速今夜書いてみるよ!」
 愛奈は私が書いた大まかな草案の書かれた紙を抱きしめてくしゃくしゃにしながら喜びに打ち震えていた。
(……多分、私じゃなくて柚紀だったら……もうちょっとちゃんとした内容を考えてあげられるんだろうけど)
 私が考えた手紙の草案というのは、自分で言うのも何だけどひどく陳腐な代物だった。いきなり愛の告白から入ろうとする愛奈を説得して、そんな手紙を送られても引かれるだけだからと、当たり障りのない内容の手紙で“文通”から入ることを彼女に勧めた。
 手紙の内容もまずは簡単な季節の挨拶から始めて、些細な日常の出来事などを書き、気が向いたらでいいから貴方の方の出来事なんかを添えて返事が欲しい――そんなありふれた内容の草案にもかかわらず、愛奈は文字通り飛び上がって喜んでいた。
「とりあえず、そうやって少しずつ仲良くなっていけばさ、そのうち携帯の番号とかメアドとか教えてもらえるから。好きって伝えるのは、それくらい仲良くなってからのほうがいいと思うよ」
「わかった! さっちゃんありがとーーー!」
「じゃ、じゃあさ……手紙の内容も決まった事だし、そろそろ柚紀を迎えに行かない? ほら、もう日も暮れちゃうしさ」
「あっ、そうだね。すっかり忘れてたよ」
 てへっ、と。愛奈は自分の頭をこつんと叩いて舌を出し、部屋を後にする。私も愛奈の後に続いて、柚紀が居る裏庭へとやってきた。
「あっ……」
 私と愛奈の姿を見るなり、柚紀はホッとしたように息を吐いて、そしてすぐに目をそらした。それは私からではなく、愛奈から目をそらしたのだとすぐに解った。
「わぁー、キーちゃんいっぱい掘ったねぇ」
 罰ゲーム開始から三時間以上は経過している。真面目な柚紀はきちんと二メートルの深さの穴を掘ろうとしたのだろう、すでに自分の肩口ほどまである深さの穴を掘り、普段着代わりの女官服も泥まみれになっていた。
「でも、まだ二メートルには達してないね。もうちょっとだから頑張って」
 またしても私は愛奈の言葉に耳を疑った。柚紀のほうも、てっきり「もう終わりでいいよ」という言葉を期待していたに違いなかった。
「あ、愛奈……深さ二メートルなんて無理だって! もう日も暮れちゃったし……」
「えぇー……でも、私は罰ゲームちゃんとやったんだよ?」
「そうだけど……でも深さ二メートルの穴掘りなんてきつすぎるよ。こういうのは遊びの罰ゲームでやることじゃないよ」
「……いいよ、さっちゃん。最初にきちんと罰ゲームはどういうものにするかって決めなかった私たちも悪かったんだし……愛奈の言うとおり、しっかり最後までやるよ」
 柚紀には、外見に似合わず意地っ張りなところがある。それは主に柚紀のプライドの高さに起因するものだけど、とにもかくにもこのままじゃ愛奈と柚紀の間に決定的な溝が出来てしまう気がして、私は声を張り上げずにはいられなかった。
「ねえ、愛奈! 私たち友達でしょ? 友達にこういうことさせるのはおかしいと思わないの?」
 その時の愛奈の表情を、私は一生忘れることができないだろう。まるで初めて耳にする言語を聞いた時のように、愛奈はきょとんと目を丸くしていたのだ。
「さっちゃんはおかしいと思うの?」
「思うに決まってるじゃない! お願いだから――」
「わかった。じゃあキーちゃん、もう掘らなくていいよ」
 えっ、と。私も柚紀も思わず口にしてしまった。
「あれ、どうしたの? 私何か変なこと言った?」
「う、ううん……解ってくれてありがとう、愛奈。……ほら、柚紀」
 私は自らが掘った穴の底にいる柚紀に手を差しのばして穴の外へと出してあげた。どうやら見た目以上に疲れ切っているらしいという事を、腕を引く柚紀の重さで私は知った。
「とりあえず、部屋に戻ろう? 泥まみれの格好をなんとかしなきゃ」
「ちょっと待って」
 その場を去ろうとする私たちを、愛奈の言葉が止める。
「穴は掘らなくていいって言ったけど、掘った分はちゃんと元通りにしてくれなきゃ」
「あっ、そうだね……じゃあ私が埋めておくから、柚紀は先に部屋に――」
「掘ったのはキーちゃんでしょ?」
 私がスコップを拾おうと手を伸ばした瞬間、ひょいと。愛奈が一足先にスコップを取り上げ、柚紀に向けて差し出した。
「ま、待ってよ! 柚紀はもう――」
「いいよ、さっちゃん」
 私を制するように柚紀は一歩前に歩み出て、愛奈からスコップを受け取る。
「愛奈が言ってることは何一つ間違ってないよ。私が掘ったんだから、私が埋めなきゃ」
「柚紀……」
「そうそう、やりかけた仕事は責任もって最後までやらなきゃね」
 愛奈の言葉を無視するように、柚紀はスコップで小山のように盛られている土を掬い、自らが掘った穴へと落としていく。
「ぁ……じゃあ私たちも手伝うよ! ね、そうしよ愛奈! 三人でやればすぐ終わるよ!」
「うん、そうだね」
 愛奈が微笑んで、大きく頷いてみせる。
「でも、泥で汚れちゃうし、それにこんなに暗い中で三人でスコップ使ってたら怪我しちゃうかもしれないから私たちは見てようよ」
「え……」
 確かに愛奈の言うとおり、屋敷の裏庭に当たるこの場所にはろくに明かりも届かず、日が落ちた今となっては星明かりで微かに物の輪郭が解る程度でしかない。そんな中、三人でスコップを振り回せば、誰かが怪我をするかもしれないという愛奈の理屈は解る。
 解るけど……。
「さっちゃん、私は大丈夫だから」
「柚紀……」
「ちゃんときちんと埋めてから私も戻るからさ、愛奈と二人で先に部屋の方に戻ってなよ」
「キーちゃん、悪いけどそれは出来ないよ」
 柚紀の言葉を、愛奈が目を瞑ってゆっくりと首を振り、拒絶する。
「こんなに頑張ってるキーちゃんを放って私たちだけ部屋に戻るなんて友達として出来ないよ。ちゃんと最後まで側で見ててあげるから、安心して」



 

 三時間かけて掘った穴を一時間かけて埋め直し、漸く柚紀は苦役から解放された。結局寮の夕飯の時間には間に合わなくて、私たちはきちんと後かたづけをする事を条件に台所を使わせてもらって、自分たちの食事を用意した。
「私がご飯の準備するからさ、柚紀は先にお風呂入ってきなよ」
「……うん」
 普段の柚紀だったらかならず「でも……」と食い下がる所なのに、柚紀は素直に頷くと着替えを手に脱衣所へと向かった。多分、汗まみれ泥まみれの女官服を早く脱いでしまいたかったんだろうと思いながら、私は余り物を使って精一杯の夕飯を作った。
 冷やご飯を使って作った焼きおにぎりと、お総菜の余りを小麦粉で溶いて焼いた“何でも焼き”の二つを作り終わった頃、柚紀が入浴から戻ってきた。
「……やっぱり何でも焼きかぁ。絶対作ってると思った」
「ごめんね。でも、味は保証するから!」
 実家にいた頃から、私は冷蔵庫の余り物を使ってよくこの“何でも焼き”を作ってはご飯代わりに食べたり、おやつ代わりにしたりしていた。ちなみにそんなもの美味しくないに決まってると言う柚紀に一度無理矢理食べさせてからは、彼女もまた“何でも焼き”の虜になっている。
「どう? 久しぶりに作ってみたんだけど、ちゃんと出来てる?」
「うん……肉じゃがと卵焼きと……あときんぴらゴボウかな。全部いっしょくたで結構カオスな感じだけど美味しいよ」
「よかったぁ。お代わりはないけど、もし足りなかったら私の分あげるからどんどん食べちゃって」
「さっちゃんじゃないんだから、そんなには食べないよ」
 苦笑しながら食事を続ける柚紀の手元を見て、私は気がついてしまった。時々羨ましくなるくらい、白くしなやかで女の子らしかった柚紀の掌にはいくつものマメが出来て、さらにいくつかはつぶれて血が滲んでしまっていた。
「……救急箱とってくるね」
 私は即座に席を立ち、寮長さんの部屋に行って薬箱を借りて食堂へと戻った。そしてマメの一つ一つに絆創膏を巻いてあげた。
「……ありがとう、さっちゃん」
「こんなになるまで頑張らなくて良かったのに……」
「あはは、そうだね。……なんだか、途中から意地になっちゃって……私の悪い癖だね」
「……今日の愛奈、ちょっと酷かったよね。急にどうしたんだろう」
 絆創膏を巻き終えて、私はつい漏らしてしまった。考えていることを時々そのまま口から出してしまう――柚紀に言わせれば、これが私の悪い癖だった。
「……あんまり悪く言わない方がいいよ。たぶん……きっと、悪気は無かったんだと思うし」
「でも……三時間もあんな事させて……しかも自分で埋めさせるなんて……」
「単純に加減が解らなかっただけなんじゃないのかな。……ほら、愛奈って養女としてもらわれてから、ずっとこの屋敷で独りぼっちだったわけじゃない。……友達との距離感とか、どこまでやっていいのか、だめなのかとか、そういうの……解らないんじゃないのかな」
 柚紀の言葉に、何故か私は救われる思いだった。てっきり柚紀は愛奈を酷く恨んでいるものだとばかり思っていた。この先、そんな風にぎくしゃくしてしまった二人をどう仲直りさせればいいのだろうと。そんな事ばかり考えていた私にとって、柚紀は天使かなにかのようにすら見えてしまった。
「良かった……じゃあ柚紀、愛奈のこと恨んでないんだね」
「全く……って言ったらちょっと嘘になるけどね。……でもほら、最近お菓子の食べ過ぎで体重計乗るのが怖かったからさ、ある意味丁度良かったかなぁって、そう考えることにしたの」
「うんうん、あれだけ大きな穴掘ったんだもん。きっと五キロくらいは痩せてるって!」
「それはそうと、さっちゃんはお風呂いいの? そろそろ“時間”だけど」
「あっ、もうそんな時間!? ごめん、柚紀食器の片づけだけやっといてくれる? 洗うのは戻ってから私がやるから」
 今の柚紀の手では洗い物は無理だから、私がやるしかない。でも、“入浴時間”の方が逼迫していて、後回しにせざるを得なかった。

 入浴を終えて、食事の後かたづけもすませて部屋に戻ると、柚紀はすぐに布団を敷いて寝てしまった。いつもなら日課の勉強すらそっちのけで布団に入る辺り、やっぱり疲れてたんだろう。
「…………愛奈、今頃手紙書いてるのかな……」
 私も布団に入ったまま、不意にそんな事を考えた。愛奈は今夜早速書いてみると言っていた。彼女のことだから、きっと手紙は何よりも優先させて書き上げるだろう。
(…………今日みたいな事はもうしないように……明日、しっかり言わなくちゃ……)
 そう、“今日みたいな事”はたまたま起きた事故のようなものだと。
 このときの私はそう思っていた。



 翌朝、柚紀は全身が酷い筋肉痛で布団から出るのも辛そうだった。
「柚紀……今日は休ませてもらったほうがいいんじゃない?」
「でも、自業自得だから」
 柚紀は油の切れたロボットみたいに歩きながら、私にそう強がってみせた。柚紀がそう言うのなら無理に休めとは言えなくて、私たちは食堂で朝食を済ませた後、いつも通りの時間に寮を後にした。
「あれ、そういえば今日はどこの掃除だったっけ」
「中庭だよ。洗濯よりは楽だから、ちょっとだけ助かるね」
 確かに、今の柚紀には水仕事は難易度が高すぎる。もし今日の仕事が洗濯だったら、私の方から先輩の女官に申し出て、柚紀を休ませてあげなきゃと思う所だった。
「さっちゃんにキーちゃん。おっはよー!」
「っ……愛奈!?」
 いつも通りに竹箒を手に中庭へと出た私たちは、突然物陰から飛び出してきた愛奈に腰を抜かしそうになった。
「あははっ、驚いたー? 二人は今日はここの掃除だって聞いてさ、朝から隠れて待ってたんだよ?」
「そ、そうなんだ……ごめんね、愛奈。今日は仕事があるから、遊ぶのは無理なの」
「違う違う、遊びの誘いに来たんじゃないの。……昨日のこと、キーちゃんに謝りたくって」
 あっ、と。その時まで半身を私の体に隠すように後ろにいた柚紀が、ちょっとだけ嬉しそうな声を出した。
「……大丈夫、私は全然気にしてなんかないよ」
「ホントに!? 良かったぁ……私キーちゃんに恨まれてたらどうしようって心配だったの」
 ホッと、愛奈は文字通り胸をなで下ろす。そんな彼女を見て、私も安堵のため息をついた。
「良かったね、愛奈。やっぱり友達同士は仲良くしなきゃダメだよ」
「うんうん、さっちゃんの言うとおりだよね。昨日の私はどうかしてたよ……本当にごめんね」
「ううん、こっちこそ変に意地になっちゃって……ごめんね、愛奈」
「じゃあ、仲直りの握手しよ?」
 と、愛奈が右手を差し出してきた瞬間、俄に場が固まった。
「あ……ごめんね、愛奈。柚紀、今……手、ちょっと怪我しててさ」
「そうなの? あっ……もしかして昨日無理させちゃったから?」
「ん……大丈夫……握手くらいならなんでもないよ」
 柚紀は躊躇った後、絆創膏だらけの右手を差し出してそっと愛奈の手を握ろうとする――その時、私は悪寒にも似たものを感じて、咄嗟に止めに入ろうとした。
「うわっ、無理! 無理だって! そんな手じゃキーちゃん痛くて堪らないでしょ?」
 けど、柚紀が握るよりも先に、逆に愛奈の方が手を引いて握手は成立しなかった。そんな様子を見て、私は今朝二度目の安堵の息を吐いていた。
「本当にごめんね、キーちゃん。手だけじゃなくて、体の方も筋肉痛なんじゃない? シップの匂いすごいよ?」
「うん……実はけっこう、歩くのも大変なんだよね。だけど、今日の担当は掃除だからなんとかなるよ」
「無理しちゃダメだよ! 元はといえば私のせいでそうなっちゃったんだもん! …………そーだ、良いこと思いついた! 二人ともちょっと待ってて、すぐ戻ってくるから」
 愛奈はそう言って小走りに屋敷の方へと走っていった。すぐ戻ってくる、と言った割には愛奈の帰りは遅く、私たちは仕方なく竹箒で掃除をし始めた頃になって、漸く戻ってきた。
「はぁはぁっ……ごめんね、遅くなっちゃって……こっちはすぐ見つかったんだけど、CDの方がなかなか見つからなくってさ。みんなにあちこち手分けして探してもらってやっと見つけてきたの」
 息せき切って戻ってきた愛奈の手にはカセットテープも再生できる小型のCDプレイヤーが握られていた。どうやら電池内蔵式でコンセントが無くても動くタイプのものらしいそれを小脇に抱えたまま、愛奈は私たちを連れて屋敷の方まで戻り、丁度濡れ縁から玉砂利へと降りる階段がある場所に、そのCDプレイヤーを置いた。
「少し前にね、テレビでやってたの。筋肉痛には、ラジオ体操が一番なんだって」
 愛奈がスイッチを操作すると、誰もが聞き覚えのある独特のイントロが両脇のスピーカーから流れ始める。
「キーちゃん筋肉痛でお仕事辛いでしょ? だから、今日は特別にお仕事ナシ! 代わりにこれでしっかり体操やって、ばっちり体治すといいよ」
「え、え? ちょっと待って、愛奈……どういう事?」
 愛奈の言葉になかなか理解力がおいつかなくて、どうにか私が口に出来たのはそんな言葉だった。
「だから、今日はお仕事の代わりにラジオ体操でいいって言ってるの。ちゃんとそういう許可も出してるから、誰からも怒られる事はないよ」
 悪意などひとかけらも無い。百パーセント純粋な善意の申し出だと言わんばかりに、愛奈は両目をきらきらさせて私と柚紀を見る。そう、たとえるならママゴトをしていて、自分が作った泥ダンゴを、本物のごちそうだと思いこんで勧めてくる無邪気な子供のような――そんな目だった。
「ご――」
 柚紀もまた愛奈の言葉と行動に呆気にとられていたらしく、言葉を詰まらせていた。
「ごめんね、愛奈……私の体の事を心配してくれるのは嬉しいんだけど……でも本当に大丈夫だから。掃除くらいならちゃんと出来るからさ……ね、さっちゃん」
「そ、そうだよ! 折角用意してもらって悪いけど、さすがにそこまで特別扱いされるのは他の人たちにも悪いし……」
「でも、二人が担当してた中庭にはもう他の人配置しちゃったし、今から戻るのは無理だよ?」
 愛奈の言葉に、私たちは言葉を失った。
「元々は洗濯担当の人たちだったのを、無理行って中庭の掃除に回ってもらったの。だからさっちゃん達がどうしても仕事の方がいいっていうのなら、洗濯になっちゃうんだけど……」
「それ、は……」
 私はともかく、柚紀の手では洗濯は無理だ。私たちが渋っていると、突然「あーっ!」と愛奈が大声を上げた。
「ごめんね、私も朝のお勤めがあるから急いで行かなきゃ! とにかくそういう事だからさ、キーちゃんは午前中は音楽に合わせてラジオ体操。さっちゃんはキーちゃんがサボったりしないようにきちんと見張ってる役ね。じゃあ、私は行くけど、二人ともちゃんとやらなきゃだめだからね?」
「あっ、待ってよ愛奈!」
 止める間もなく、愛奈は早口に言い終えると、白足袋で屋敷の廊下を滑るようにしてどこかへと消えてしまう。後に残されたのは私と柚紀と、淡々とラジオ体操の音楽を流し続けるCDプレイヤーのみだった。
「……どうしよう、柚紀」
「……とりあえず、言われたとおりにやるしかないんじゃないかな」
 気乗りしていないのは柚紀の顔を見るまでもなく明白だった。こんな場所で、周りでは先輩の女官達があくせくと働いている中、たった一人でラジオ体操をし続けるのは晒し者以外の何者でもない。
「あ、じゃあ……私も一緒に……」
「ううん、さっちゃんはそこに座って、ちゃんと見てて。…………そうするようにって、愛奈言ってたじゃない」
「でも……」
「仕方ないよ。愛奈は昨日のことの償いのつもりでやってるんだもん。…………友達なら、その気持ちを汲んであげなきゃ」
 そう言って、柚紀はCDがループ再生に入ったところで、音楽に合わせてラジオ体操を始める。
(…………昨日のことの償い……か……)
 本当にそうなのだろうか――私は胸の奥がザワつくのを感じながら、けなげに体操を続ける柚紀を見守り続けた。


 ただのラジオ体操とはいえ、エンドレスで、ぶっ続けで一時間も二時間もしていると、さすがに厳しいものらしい。ましてや、柚紀は昨日限界に近いほどに体を酷使し、全身が筋肉痛になっている所だ。その苦痛は健全な体に比べるべくもない。
「……柚紀、ちょっと休憩しようか」
 意地っ張りな柚紀に任せておくと、本当にプレイヤーの電池がきれるまでやり続けかねない。私はプレイヤーの停止ボタンを押して音楽を止め、柚紀に止めるように促した。
「……っ……」
 柚紀は苦痛に顔を歪めながら、ふらりとその場に膝を突きかけるも辛うじて踏みとどまり、そのままよろよろと私が腰掛けている階段状の足場まで歩いてきて、重そうに腰を落とした。
「ちょっと……思ってたより……キツかった、かも……」
「さすがに休憩無しはムチャだって。愛奈もそういうつもりで言ったわけじゃないと思うし……」
「そう、かな……」
「それにほら、どうせもうすぐお昼の時間だしさ。一旦寮の方に戻って――」
 パンッ――そんな何かが爆ぜるような音に、私の言葉は遮られた。
 さらにパン、パンと立て続けに音が聞こえ、続いて隣に座っている柚紀が小さく悲鳴を漏らした。
「ゆ、柚紀!? どうしたの?」
「…………あーあ、ダメじゃない。勝手に止めちゃ。さっちゃんもキーちゃんがサボらないようにちゃんと見張っててって言ったでしょ?」
 反射的に私は背後を振り返って――そして目を疑った。
 緋色の袴に白足袋、金の刺繍が入った白衣――そこに立っているのは紛れもない愛奈。しかしその手に握られているのは――
「あうっ!」
 愛奈が手にしている拳銃の引き金を引くと、パンッと発砲音の後にまたしても柚紀が苦痛の声を漏らす。もちろん実物ではない。オモチャの銃――エアガンだった。
 でも、それを柚紀に向けて撃つなんて。
「愛奈、止めなよ! 一体どういうつもりなの!?」
 さすがに怒りを感じて、私は立ち上がって愛奈に詰め寄っていた。
「それはこっちのセリフだよ。どうして勝手に体操を止めてるの?」
「どうしてって……あんなの、ずっと続けられるわけないじゃない! ただでさえ柚紀は全身が痛くてほとんど動けないんだよ?」
「でもそれは体操で治ったでしょ?」
 本気で言ってるとしか思えない――そんな目だった。ゾクリと、私はそんな愛奈に恐怖すら感じた。
「……体操なんかで……そんなにすぐ治るわけ無いじゃない。……ううん、そんな事関係ない……どんな理由があっても、エアガンで人を撃つなんて絶対やっちゃいけない事だって解らないの?」
 きょとんと、またしても愛奈は目を丸くする。惚けているわけじゃない、本当に私が何を言っているのかわからない――そういう目だった。
「そうなの?」
「そうなの……って、愛奈、本当に解らないの? エアガンで撃たれたらものすごく痛いんだよ? それにもし目とかに当たったりしたら失明するかもしれないんだよ? 愛奈はそういう危ないものを柚紀に使ったんだよ?」
 どうしてこんな当たり前の事が解らないのか――私は涙を堪えながら愛奈の肩を掴んで必死に叫んでいた。愛奈を嫌いになんかなりたくない。だから愛奈には酷いことなんかしてほしくないのに。
「……失明したら、何か困るの?」
 愛奈の言葉に言葉を失ったり、肝を冷やしたりすることは今までにも何度もあった。けれども今回ほどショックを受けた事はなかった。
「何を……言ってるの? 失明って目が見えなくなるって事なんだよ?」
「それくらい知ってるよ?」
 くらりと、私は立ち眩みにも似たものを感じた。愛奈の事が解らない。愛奈の言っている言葉が理解できない。愛奈の考え方が理解出来なかった。
「……解ったよ、さっちゃん」
 愛奈の事が解らなくて言葉を無くしてる私とは対照的に、愛奈はふっと……まるで聖母かなにかのように優しい笑みを浮かべる。
「とにかく、これでキーちゃんを撃ったらさっちゃんが嫌がるってことだけはよく解ったから、もうやらない」
 愛奈は無造作に庭に向かってエアガンを投げ捨てる。中に鉛が入っているタイプなのか、それは玉砂利の上に落ちて大きな音を立てた。
「だけど、“言いつけ”を守れなかったんだから、罰として二人ともお昼は抜きね。あと、さっちゃんには昼から私の仕事を手伝ってもらうから」
「え……愛奈の仕事の手伝い……?」
 それは、本来ならば“三年生”ですら就くことが出来ない重要な仕事の一つだ。
「さっちゃんが手伝ってくれるなら、キーちゃんはもう自分の部屋に帰って休んでていいよ。どうする?」
 私は混乱から立ち直りきっていない頭で、愛奈の言葉を必死になって理解しようとした。
「私が……手伝えば……柚紀は休んでていいの?」
「うん。さっちゃんがどうしても嫌っていうのなら、午後もラジオ体操でも私は構わないけど」
「……手伝う。何でもするから、柚紀はもう休ませてあげて」
 それはもう二択ですらなかった。愛奈は嬉しそうに頷いて、早速と言わんばかりに私の手を引いた。
「こっち、ついてきて」
 愛奈に腕を引かれながら、私は精一杯体をひねって後ろを振り返った。柚紀も階段の所でうずくまったまま、心配そうに私の方を見ていた。



 仕事を手伝ってもらう――そう言っていた筈なのに、私が連れてこられたのはいつもの“遊び部屋”だった。
 愛奈は迷わず障子戸を開けて部屋の中に入ると、部屋の中央のテーブルの前あたりまできたところでくるりと振り返った。
「さっちゃん、これ! 読んでみて!」
 そして懐から封筒を取り出し、私の方に差し出してきた。
「これは……?」
 封筒に封はされておらず、中には便せんの束が折りたたまれて入れられていた。それも半端な数ではなかった。おそらく十枚以上もの便せんが入れられていて、その厚みで封筒はパンパンに膨らんでいた。それらは引っ張り出すのもなかなか大変で、私は便せんを破らないように慎重に封筒から引き出し、目を通した。
 それは紛れもない、愛奈から“ヒーくん”に宛てたラブレターだった。
「どうかな? 私的には結構巧く書けたと思うんだけど」
 愛奈は目を爛々と輝かせながら、私の感想を心待ちにしている様子だった。反面、私は言葉を失っていた。
 手紙を書く――ということは、昨日の時点で言っていたから別段驚くような事ではない。今日の夜辺りにでも愛奈に呼ばれ、こっそり手紙を見せられたなら素直に感想も言えただろう。
 でも、ついさっき私の目の前で起きた出来事が――そして今の状況とのギャップが、私から言葉を失わせた。
「……愛奈、先に一つだけ聞いてもいいかな。…………仕事の手伝いって、この手紙を読む事だったの?」
「そうだよ? 私、今日のお勤めは午前中で終わりだから、出来るだけ早くさっちゃんに読んでもらいたくって、ちょっとだけ嘘ついちゃった。ごめんね」
 愛奈がぺろりと舌を出す。彼女にとって、柚紀をオモチャの銃で撃った事よりも、些細な嘘をついた事のほうが罪悪感があるのだろうか――そんな事ばかり考えてしまって、私はまともに手紙を読む事が出来なかった。
「……ごめん、愛奈。今は私……この手紙読めない」
「どうして?」
「愛奈……さっき柚紀に酷いことをしたよね。愛奈がああいうことをするなら、私……愛奈に協力なんか出来ないよ」
 きょとんと、またしても愛奈は私の言葉がわからないと言わんばかりに首をかしげる。
「どういう事? 一緒に手紙の内容を考えてくれるって言ったじゃない。さっちゃんは嘘をついたの?」
「私が協力するって言ったのは、愛奈のこと友達だと思ってるからだよ。でも、愛奈がこれからも柚紀にああいう事するのなら、私は愛奈と友達でいられないよ」
 これはきっと、誰かが言わなければならないことなのだ。恐らく愛奈は友達との接し方をまだ知らなくて、それ故にああいった突拍子もない事をしてしまうに違いないのだ。
「……さっちゃん、私がキーちゃんをエアガンで撃ったから怒ってるの?」
「そうだよ。ああいうものは友達に向けて撃ったりしちゃいけないんだよ。……ううん、友達でなくても向けちゃダメ。危ないし、撃たれたら痛いから、嫌な思いさせちゃうでしょ?」
 意図せず、まるで幼い子供を諭すような口調になってしまう。或いは、こういう事に関しては愛奈は本当に子供なのかもしれないと私は思い始めていた。
「……わかった。さっちゃんがそう言うなら、私はもうエアガンを人に向けたりなんかしないよ」
「本当? 本当に解ってくれた? もう絶対柚紀に意地悪したりしないって約束してくれる?」
「うん、絶対に意地悪はしない。約束するよ」
 愛奈は真剣な顔で大きく頷いて見せる。私の言葉は本当に通じたのだろうか――少しだけ不安もあったけれど、ここで愛奈を疑っては何も変わらない。
「解った。愛奈がちゃんと約束してくれるんなら、私も友達として、愛奈の手紙を読んであげられるよ」
「ありがとう、さっちゃん! 大好き!」
 愛奈に抱きつかれながら、私はその場に腰を下ろして改めて手紙へと目を通した。
(うわっ……)
 と、うっかり声に出してしまいそうになるのをなんとか我慢して、私は必死に便せんへと視線を落とす。うっすら青みがかった可愛らしい便せんに黒のボールペンでびっちりと文字が書き込まれていて、それはまるで呪いの文章かなにかのようだった。
 文字自体はとても丁寧で漢字もきちんと使われているのに、文字と文字の間隔が極端に狭く“てにおは”の使い方が狂っているせいで、何が書いてあるのかさっぱり解らない。句読点の位置もおかしく、文章というよりは暗号に近いのではないかと思える程だった。
 どうにかこうにか一枚目の便せんを読み終えても、文章の意味がほとんど解らない。これほどまでに読み手を困惑させ、不安な気持ちにさせる文章を読んだのは生まれて初めてだった。
「……ねえ、愛奈。ひょっとして……国語苦手だったりする?」
「あっ、やっぱり解る? 実は小学校の頃からずっと苦手だったんだよね。“この作者の気持ちが表れている部分を書き出しなさい”なんていう問題とかさっぱりだったよ」
 そうだろうな、と。私は奇妙な納得を覚えた。
「うーん……この手紙、このまま出しちゃうのはちょっとマズいかも」
「そっか……結構自信あったんだけどな……。……じゃあさ、どの辺直したらいいかな?」
「どの辺って言われても……」
 気分としては、真っ黒に焦げてしまった料理を出されて「どうやったら食べられるかな?」と言われてるようなものだった。
「まず量が多すぎるよ。いきなりこんな枚数の手紙なんて送られたら相手の男の子も引いちゃうと思うよ?」
「ええぇー……それでも大分減らしたんだよ? 元々はその三倍あったんだから。でもそれだと封筒に入らないから、なんとか枚数を減らして、今の枚数になったんだよ」
 なるほど、文字の間隔が極端に詰まってるのは少ない枚数に出来るだけたくさんの文章を書き込もうとした結果だったのか。
「……愛奈が“ヒーくん”の事が本当に好きだっていうのは、よく伝わってくるよ。だけど、やっぱり枚数が多いよ。便せんの数は一枚か、多くても三枚くらいにしたほうがいいよ」
「三枚!? それじゃ何にも書けないよ!」
「全部を一度に書かなくてもいいんだよ? とりあえず文通友達になって、そこから少しずつ、何回かに分けて気持ちを伝えていけばいいんだよ」
 愛奈がやろうとしている事は、知り合ったばかりの相手にいきなりプロポーズをしているようなものだと、私は言葉を変えて何度も繰り返し教えた。
「……解った。さっちゃんがそうした方がいいって言うのなら、そういう風に書いてみるね」
「うんうん。あと、文字と文字の間隔はもうちょっと空けた方が読みやすいよ。折角綺麗な字が書けるんだからもったいないよ」
「解った。それも気をつけてみる」
 愛奈は早速と言わんばかりに便せんを取り出して、テーブルの上に広げて手紙を書き直し始める。
「あ、ほら……“私は”の“は”は、“わ”じゃなくて“は”って書くんだよ。あと、ちゃんと“、”も使わなきゃ」
 私もお世辞にも勉強が出来る方ではないのだけれど、愛奈の文章の書け無さはそれこそ小学生以下だった。
 おかげで午後の間中、私は愛奈につきっきりで“まともな文章”の書き方を教えなければならなかった。

「できたーーー! これでいいんだよね? さっちゃん」
「うん、これなら…………きっと返事がもらえると思うよ」
 便せん二枚にまとめられた手紙の内容に目を通して、私は思わず安堵の息を吐く。さりげない季節の挨拶から始まって、些細な近況報告と続き、最後には是非とも返事が欲しいという内容で締めくくられたそれは、私の目から見ても“相手に引かれないラブレター”として上出来に仕上がっていた。
「あとは封筒に入れて、のり付けして……」
「あっ、愛奈待って!」
 私は慌てて止めたけど、間に合わなかった。愛奈は新品の封筒に便箋を入れ、のり付けをしてしまったのだ。
「…………普通は先に封筒に宛名書いてから便せんをいれるんだよ」
「えっ、そうなの?」
「そうしないと、宛名書いた時に便せんに痕が残っちゃうでしょ?」
「あ……そっか……どうしよう、さっちゃん!」
「……別に手紙が読めなくなるわけじゃないから大丈夫とは思うけど、次からは気をつけた方がいいよ。……相手の住所は解るんだよね?」
「うん! 目を瞑っても書けるよ!」
 愛奈は自信満々に頷いて、やや厚みを持った封筒の上から、羨ましくなる程に綺麗な字で宛先と宛名を書き込んでいく。
(……へぇ……“ヒーくん”の本名は“紺崎月彦”っていうんだ。……ツキヒコだからヒーくんなのかな)
 封筒の表と裏に必要事項を書き終えるなり、「できたー!」と愛奈は万歳をするようにしてそのままごろりと仰向けに寝ころんだ。
「お疲れ様、頑張ったね、愛奈」
「うん! ヒーくんの為にちょー頑張ったよ! こんなに一生懸命手紙を書いたのなんて生まれて初めてだよ!」
 がばっ、と。まるでねずみ取りのバネみたいな動きで愛奈が体を起こす。そして宛名を書き終えたばかりの封筒を手にとって、愛しそうに頬ずりする。
「ふふふっ……この封筒をヒーくんが触るんだよね。手紙を読んでくれるんだよね。ヒーくんが感激して、いきなり電話かけてきたらたらどうしよう、心の準備しておかなきゃ」
「あ、愛奈……? ほら、あんまり興奮しないで……落ち着いて?」
「ていうか、気がついたらもう夜だよ! 日が暮れちゃってるよ! そういえばお昼も食べてないよ! さっちゃんお腹減ってない!?」
「お腹は……うん、減ってるよ、かなり……私もお昼食べてないし」
「そういえばそうだったね、ごめんね、付き合わせちゃって。お詫びに夜ご飯は一緒にごちそう食べよ?」
「え、ごちそうって……」
「手紙が出来たお祝い! すぐ準備してもらうからちょっとそこで待ってて!」
 愛奈が席を立ち、部屋から出て行こうとする――その背を、私は必死に呼び止めた。
「待って! 愛奈! …………ごちそう食べるならさ、柚紀も呼んで、三人で食べない?」
「キーちゃんも? 何で?」
 惚けているわけじゃなく、本当にわからないという愛奈の反応に、私は軽い失望を覚えてしまう。
「ほら……昼間、酷い事しちゃったじゃない。あれ……ちゃんと謝らないとダメだよ。だから、柚紀も呼んで、ちゃんと謝って、そして三人で一緒にご飯食べて仲直りしたほうがいいと思うの」
「そっか……そうだね! 解った! ごちそうは三人分ここに持ってきてもらうから、さっちゃんはキーちゃん呼んで待ってて!」
「解った。じゃあ柚紀呼んでくるね」
 私も愛奈と共に部屋を後にして、寮の自室へと向かった。

「ただいまー。柚紀、居る?」
 軽くノックして中に入ると、柚紀は机に向かって勉強していた。すぐに振り返って「おかえり、さっちゃん」と微笑んでくれた。
「あのね、柚紀。愛奈が夕飯は特別にごちそう用意してくれるんだって。……昼間のことも謝りたいって言ってたからさ、一緒に部屋に行こうよ」
「愛奈が……?」
 柚紀が、露骨に表情を曇らせる。気乗りをしていないのはすぐに解った。
「うん……ほら、柚紀も昨日言ってたじゃない。あれ、本当だと思うの。多分愛奈には解らないんだよ。どこまでがやっていいことで、どこからがやったらダメな事なのかとかさ。……多分、あんまり同い年の友達とかと遊んだ事無いんじゃないかな。だから、今日みたいな事はもう二度と絶対やっちゃダメって、私が叱っておいたから、もう大丈夫だよ」
「…………。」
「ね、行こ? 柚紀もお昼食べて無くてお腹ぺこぺこでしょ?」
「…………ごめん、さっちゃん。私はいいや」
 低い声で呟いて、柚紀は机の方を向いてしまう。
「柚紀……やっぱり怒ってるの?」
「そりゃあ、ね。……見てよ」
 そう言って、柚紀は女官服を捲し上げて腕や、首筋に出来た“痣”を私に見せた。
「それ……あのときの……」
「……物凄く痛かったよ。……もしこのまま痕が残ったりしたら、私は絶対に愛奈を許さない」
「柚紀……」
 ナルシスト――という程じゃないけれど、柚紀は自分の体を大切にしている節がある。日焼けすら厭う程に自分の肌を大事にしている柚紀にとって、痣が残るほどの目に遭わせられたというのは、多分私が考えていたよりもショッキングな事だったのだ。
(ひょっとしたら……手のマメも……)
 昨日に引き続いての今日で、温厚な柚紀もさすがに堪忍袋の緒が切れた――という事なのかもしれない。
「……しばらくは愛奈の顔も見たくないの。だから一緒にご飯食べるならさっちゃんが一人で行ってきて」
 背を向けたままの柚紀にかける言葉が無くて、私は仕方なく一人で愛奈の部屋へと戻った。



「えっ、キーちゃん来なかったの?」
「うん……やっぱり、昼間のことがショックだったみたいで…………しばらくは愛奈の顔も見たくない、って……」
「そっか。残念だね。折角三人分用意してもらったのに」
 本来部屋の中央にあったテーブルは片づけられ、その代わりに黒の足つきの膳が三つずつコの字を描くように並べられていた。私の右側に本来ならば柚紀が食べる分までもが配膳されているけれど、肝心の柚紀の姿はもちろん無い。
「これね、本膳料理って言うんだよー? 本当は五つの膳を順番に出して、それぞれ椀物だとかいろいろ細かい決まり事があるんだけど、面倒だから適当に美味しい物だけ乗っけて出してもらったの」
 友達同士なんだし、いいよね――そんなことを呟きながら、愛奈はもう我慢できないとばかりに箸を手にして食べ始める。
「……いただきます」
 愛奈に後れて私も箸をとったけど、自分でも不思議なほどに食べ物が口に入らなかった。料理自体が不味いというわけではない。むしろ、寮で出される食事よりも何倍も美味しいのに、お腹も極限近くまで減っているのに、何を食べてもほとんど味がしなかった。
「キーちゃん来ないなら伊勢エビのグラタンもらっちゃおーっと。これ大好きなんだよねー」
 ひょいと、愛奈が伊勢エビの殻を器にして作られたグラタンを柚紀の膳からとりあげ、食べ始める。
「あっ、愛奈……それ好きなら、私のも食べる?」
「えっ、いいの? じゃあもらうね! …………あれ、さっちゃんどうしたの? 全然食べてないみたいだけど」
「うん……ちょっと、ね……」
「ひょっとして口に合わなかった? 何か他の作ってもらおうか?」
「ううん、すっごく美味しいんだけど…………柚紀の事が気になっちゃって……」
 あまり食べないのは折角ごちそうを用意してくれた愛奈に悪い――そんな義務感から、私はお椀の一つを手にとって、無理矢理にごはんを口に押し込めた。食べて初めて気がついたけど、それは松茸をふんだんに使った炊き込みご飯だった。それも、スーパーで売ってるような“松茸ご飯の素”を使って作ったようなものではない。厚めに切られた松茸がごろごろ入っているような豪勢なものだった。他にも、色とりどりの山菜の天ぷらやだし巻き卵、赤身や白身がつやつやと輝くほどに光沢を放っているお刺身。ナナメに切られ、門松のように飾られているのは生春巻きだろうか。中に入っているのは棒状のチーズと梅肉らしい。他にも見たこともないような食材の煮付けやごま和えなどが小さな椀に乗せられていて、柚紀を交えて三人で食べれば、それこそ嬉しい悲鳴が絶えないような楽しい時間になったと思えるだけに、それだけに本当に残念だった。

 結局用意された膳の半分ほどしか私は食べられなかった。逆に愛奈は自分の分と、柚紀の膳の好物だけをぺろりと平らげ、すっかりご満悦の様子だった。
「あーーー美味しかったぁ。キーちゃんも来れば良かったのにね」
 そうだね、と。私は短く返事を返した。柚紀が来なかったのは愛奈が意地悪をしたせいだと、せめてもうすこし自覚を持ってほしい所だけれど、あんまりしつこく言うのも悪い気がして口には出来なかった。
 そして膳が片づけられてテーブルが元に戻されると、愛奈はしまっていた封筒を再び取り出して頬ずりを始めていた。
「えへへ……明日になったら速達で出してあげるからね。急いでヒーくんの所に行くんだよ? ちゃんと読んでもらって、返事もらって来なきゃだめだからね?」
 頬ずりをしながら、まるで封筒に言い聞かせるように独り言を呟く愛奈の姿は、見る人によっては気味が悪くすら感じられるだろう。
 正直、私もちょっとだけ引いてしまったけど、でもきっとそれだけ“ヒーくん”の事が好きなのだろうと考えると、微笑ましく見えてくるから不思議だった。
「……それじゃあ愛奈、そろそろ私は自分の部屋に帰るよ。お風呂入ったりもしなきゃいけないしさ」
「うん、今日はありがとう! また遊びに来てね!」
「愛奈こそ、ごちそうありがとう。あんまり食べられなくてごめんね」
 またね――軽く手を振って私は愛奈の部屋を後にした。少しだけ急ぎ足で自分の部屋へと戻ると、柚紀の姿は無かった。
「…………柚紀、もうお風呂に入りに行っちゃったんだ」
 私と違って、柚紀は他の子達と同じ時間に入っても何の問題も無いから、別に不思議な事ではなかった。私が何時に愛奈の部屋から帰ってくるかも解らないから、待ってて欲しかったと考えるのも傲慢だって解ってる。
 けれど……少しだけ、私はモヤモヤした。
「あっ、さっちゃん。早かったね」
 部屋で自分の入浴時間が来るのを待っていると、湯上がり卵肌になった柚紀が戻ってきた。
「ごめんね、何時に戻ってくるか解らなかったから、先に入りに行っちゃった」
「ううん、気にしないで。……じゃあ、時間になったから私も行ってくるね」
 “体の都合”で他の子達と一緒に入れない私は、みんなの入浴が終わった後に15分だけ特別に時間を作ってもらっている。だからその間に入浴をすませなければならない。
 そうして私が入浴をすませて戻ると、消灯位置時間前だというのに部屋の明かりが消えていた。布団はしっかり二人分敷かれていて、部屋の入り口の方に背を向ける形で柚紀が自分の布団で横になっているのが見えた。
「…………。」
 私はそっと忍び足で自分の布団に入って、そのまま目を閉じた。きっと柚紀は少しでも早く体を治したくて布団に入ったのだろう。ひょっとしたら、勉強のしすぎで疲れたからなのかもしれない。
 そんな事を考えているうちに、私の方も眠気が襲ってきて、不思議なほどにあっさりと眠ってしまった。



 


 それからしばらくは穏やかな日々が続いた。私は相変わらず暇を見つけては愛奈の部屋に通っていたけれど、“あの日”以降柚紀は一度も私に同行する事は無かった。最初は私もなんとか二人を仲直りさせようとしたけれど、意地を張ってしまっている柚紀の前にはその努力も無駄だった。
 愛奈も柚紀の事は気にもしていないのか、二人で居る時に話題に上る事も無かった。ひょっとしたら相性の悪い二人をくっつけようとしてしまったのかもしれないと、私はそんな風に考え始めた。

「……ねえ、さっちゃん。手紙の返事って、だいたいどれくらいで帰ってくるの?」
 愛奈が思い詰めたような顔でそんな事を聞いてきたのは、丁度手紙を出してから一週間が経った頃だった。
「うーん……」
 私は返事に困ってしまった。そもそも私自身、誰かに手紙を出した事なんてほとんど無いのだ。せいぜい年賀状か、あとは小学校の頃に学校の授業の一環で知り合いに手紙を出したくらいしか経験が無い。
(だいたいは電話か、メールで済むし……)
 私も柚紀も、携帯電話くらいは持っている。ただ、寮に入る際にそういったものはすべて預けなければならないと言われて――変だとは思ったけれど、そういう習わしなのだと言われては従う他無かった――今は手元にはない。それこそ、今の愛奈のような状況で無ければ手紙などというもの使わないのだ。
「向こうの都合とかもあるだろうし、気長に待った方がいいんじゃないかな」
 そんな当たり障りの無い答えしか返せなかった。
「そっか……そうだね」
 愛奈はそう言って寂しそうに笑ったけど、内心は納得してなさそうだった。

 それから三日後、愛奈の部屋に遊びに行くと再度手紙の話が始まった。
「ねえ、ひょっとして……届いてないんじゃないかな」
「それは無いと思うけど……もうちょっと待ってみたら?」
「ううん、きっと配達屋の人が間違って他の人の所に配っちゃったんだよ。そうじゃなかったらうっかり捨てちゃったりとか」
「そんな事は無いって。きっと忙しくて返事が書けないだけだよ。もうちょっと待ってみようよ」
「……私、もう一回書いてみる」
 どうやら私の言葉は愛奈の耳には届いていないらしかった。愛奈は何かに追い立てられるように大あわてで机の引き出しから便せんを取り出すと、鬼気迫る顔で手紙を書き始めた。
「愛奈、愛奈、おちついて! 焦って書いたらまた呪いの文章みたいになっちゃうから……どうしても書きたいっていうなら、また一緒に内容考えてあげるから、とにかく一回深呼吸しよ?」
「うん……解った……深呼吸、する……」
 すう、はあ。
 すう、はあ。
 私も一緒になって深呼吸をして、なんとか愛奈の気持ちを落ち着ける。
「……それじゃあ、一応前の手紙が届いてないかもしれないって事を前提に書いてみようか」

 私たちは二通目の手紙を書き上げ、愛奈は翌朝簡易書留で郵送した。そして郵便局への問い合わせで、手紙を出した二日後に間違いなく相手方の住所へ到着したことを電話で確認した――という話を、私は愛奈から聞かされた。
「えへへ……これで今度は絶対返事が来るよね!」
 手紙がきちんと到着した――ただそれだけですぐに返事がもらえるものだと確信しきっている愛奈に、私は一抹の不安を覚えた。
「そうだね。でも……そんなに早くは来ないかもしれないから、気長に待った方がいいと思うよ」
「そんなことないよ! ヒーくんなら絶対すぐにお返事返してくれる筈だもん。あぁぁ……楽しみだなぁ……写真とか入れて送ってくれたりしないかなぁ……くふくふっ……」
「愛奈……」
「あっ、そーだ! 次の手紙に今度は写真を入れて送ってくださいって書けばいいんだよね! 代わりに私の写真とかも入れて送ってあげなきゃ!」
 ダメだ、今の愛奈には何を言っても言葉が届かないということを私は思い知って、とりあえず好きなようにしゃべらせて、相づちだけを返す事にした。
 こと“ヒーくん”が絡んだ時の愛奈の行動力はすさまじくて、次の日には写真屋を呼んで本格的に自分の写真を撮っていた。普段は化粧ッ気の無い愛奈も、このときばかりは写真写りを良くするために薄くメイクまでして、いつもの巫女服とは違うピンク色の晴れ着まで持ち出して何枚も撮影していた。
「ついでだから、さっちゃんも何枚か撮っちゃう?」
 完全にお祭り気分で浮かれきっている愛奈に誘われたけど、私は写真には興味がないからと断った。愛奈も無理には勧めてこなかったから、結局その日は一日愛奈の写真撮影を手伝って終わった。

 そして、さらに三日が経過しても、手紙の返事は来なかった。



「絶対におかしいよ。どうして返事が来ないの?」
 二通目の手紙を出してから一週間。目に見えて愛奈は苛立っていた。
「手紙ってさ、いざ出すとなると結構面倒くさかったりするし、学校とかもあるだろうしさ。きっと部活とかが忙しくて、ついつい返事を出すの忘れてるだけだって」
「そんなのおかしい。ヒーくんはそんな子じゃない」
 おかしい、おかしいと口癖のように呟きながら、愛奈は部屋のテーブルの周りをぐるぐると回る。
「ねえ、さっちゃん。もう一回手紙出してみるのはどうかな?」
「え、また……? 前の手紙はちゃんと届いてたんでしょ?」
「ヒーくんちには届いてるけど、もしかしたらヒーくんの目には触れてないかもしれないじゃない。たとえば叔母さんが受け取って、そのままヒーくんに渡すの忘れちゃったりとかさ」
「それは……あり得ないわけじゃないとは思うけど……」
「だからさ、もう一回書いて出してみる。今度は封筒もおっきくして目立つようにしてさ、この前とった写真もいっぱい入れて、絶対にヒーくんの目に止まるようにするの!」
 名案でしょ?――そう言いたげな愛奈に水を差すような事は私には言えなかった。
「わかった……じゃあ、私も一緒に内容考えてあげる」
「ありがと! そーだ、封筒おっきくするんだから、便せんの枚数も増やしていいよね?」
「それは……止めたほうがいいんじゃないかな」
「じゃあじゃあ、代わりにポエムとか入れちゃっていいかな?」
「ポエム……?」
「さっちゃんポエム知らないの? 詩のことだよ。ほら、さっちゃんに手紙の書き方を教えてもらってから、いろいろ自分で書いてみるのが楽しくなっちゃってさ。ちょくちょくノートに書き留めてたらあっという間に一冊埋まっちゃったの。これを手紙と一緒に封筒に入れようかと思って」
「えと……愛奈、そのポエム……私が見てもいい?」
「それはダーメ! 恥ずかしいから絶対ダメ! ヒーくん以外には見せないって決めてるんだから!」
「そ……っか…………でも、私はそういうのはもうちょっと親しくなってからにしたほうがいいと思うな」
「大丈夫! ヒーくんならこのポエムの良さ解ってくれるよ! ヒーくんの事はさっちゃんより私の方が詳しいんだから、絶対大丈夫だって」
「愛奈がそう言うなら……私も反対は出来ないけど……」
 可愛い小鳥の卵だと思って暖めていたものから孵化したのは気味の悪い爬虫類の様な生き物で、しかも成長するにつれてどんどん不気味な姿に変わっていき、だんだん手に負えなくなっていく――そんな類の不安に、私は気が気でなかった。
 三通目の手紙の内容については、もう私はノータッチでほとんど愛奈の好きなように書かせた。枚数も十枚を超え、愛奈はそれを書類などが丸ごと入る角2封筒に入れて自作のポエムノートと写真も同封し、翌朝には郵送していた。
 愛奈は今度こそ返事がもらえるものだと確信しているようだったけれど、多分返事はもらえないだろうなと私は思っていた。。
 そんな私の予感はある意味当たって、そしてある意味では外れた。
 三通目の手紙は、ヒーくんからではなく、思いも寄らない人物からの返事を呼び込んだのだった。


 それは愛奈が手紙を出してから三日後の夜。私たちがいつものように愛奈の部屋でまったり過ごしていた時に舞い込んできた。

「んっふふ〜……今頃ヒーくん一生懸命お返事書いてる頃かなぁ」
「そうだね。……きっとそうだよ、愛奈」
「ヒーくんの写真が届いたら、さっちゃんにも見せてあげるね。もうね、ほんっっと可愛いんだから!」
「ありがとう……愛奈。……でもさ、愛奈が知ってる“ヒーくん”って五歳くらいまでなんでしょ? それから十年近く経ってるんだし、さすがに“可愛い”って事はないんじゃないかな?」
「あ、そっか! ヒーくんももう中学生なんだよね。あぁん、中学生のヒーくんなんて想像できないよ」
 一体何を想像しようとしたのか、愛奈は顔を真っ赤にして手で覆い、イヤイヤをするように体をくねらせる。
「…………そーだ。ねえ、さっちゃん。昔のヒーくんの写真見る?」
「写真……あるの?」
「あるに決まってるじゃない! ちょっと待ってて、すぐにとってくるから」
 愛奈は止める間もなく獣のような俊敏さで部屋から飛び出すと、五分と経たずに戻ってきた。手には一冊の、重そうなアルバムを大事そうに抱えていた。
「ホントは写真立てとかに入れてさ、ずっと側に置いときたいんだけど……ヒーくんの写真見てると鼻血が止まらなくなっちゃうからアルバムにしまってあるの。……はい、私は向こう向いてるから、好きなだけ見ていいよ」
 愛奈はそう言って私にアルバムを手渡すと、くるりと背を向けて座ってしまう。
「愛奈は見ないの?」
「言ったでしょ? ヒーくんの写真見てると鼻血が止まらなくなっちゃうの。それにわざわざ写真を見なくても、目を瞑ったら瞼の裏に焼き付くくらい見てるから、今更写真なんか見なくてもいいの」
 見なくていい、と言うわりには、愛奈は見たくて仕方がないといった風にソワソワと時折私の方をチラ見していた。
「愛奈、見たかったら見てもいいんだよ?」
「もぉっ! だから私はいつも見てるからいいの! いいからさっちゃんこそ早くヒーくんを見てあげて」
「う、うん……わかった。じゃあ、アルバム開けるね」
 黒いくて分厚い革の表紙をめくり、最初に目に入った写真を見て――私はゾッと背筋を冷やした。
「あ、愛奈……これ……」
「どうしたの? ヒーくん見つけた? 可愛いから一発で解るでしょ?」
「そうじゃなくって……このアルバム、誰かが悪戯したみたい……写真が……」
「悪戯?」
 聞き捨てならないとばかりに愛奈がくるりと振り返って、私と一緒にアルバムをのぞき込んでくる。
「ああ、これは私がやったの」
「え……愛奈が?」
「うん。邪魔だったから切り取っちゃった」
 そう、写真に写ってるのは幼い男の子とそれより少しだけ背の高い女の子の二人。ただ、背の高い方の子供は首から上だけカッターかなにかで切り取られていて、顔の判別が出来なかった。ただ、服装から恐らく女の子ではないかと推測できるに過ぎない。
「ほらほら、そこに写ってるのがヒーくんだよ! あーーーーーんもぉ、ヒーくん可愛い過ぎ! ねっ、ねっ、さっちゃんもそう思うでしょ?」
「そ、そうだね……ほんと、女の子みたい……」
 あらかじめ男の子であると知っていなければ、間違いなく女の子だと思っていた所だった。写真の年齢は三歳か四歳くらいだろうか。隣に立っている女の子の陰に隠れながら、不安そうに半身を覗かせている様など、私ですら保護欲をかき立てられるかわいらしさだ。
「ほらっ、早くページめくって! ヒーくん可愛い過ぎて見とれちゃうのは解るけど、他にもっともっと可愛い写真があるんだから! 早く早くぅ!」
「う、うん……」
 愛奈に急かされて、私はアルバムのページをめくる。どうやらアルバムは“ヒーくん専用”らしく、余白をたっぷり残す形で一つのページに多くて二枚、通常一枚のペースでひたすらに“ヒーくん”の写真だけが貼られていた。
(……ていうか……これ、全部……)
 しかし、“ヒーくん”単独の写真は一枚たりとも存在せず、一部の集合写真を除いて殆どが“顔のない女の子”とのツーショットばかりだった。そしてどれほどアングルが変わろうとも必ず女の子が“ヒーくん”とカメラの間に割り込むような形で写っており、“ヒーくん”もよほど頼りにしているのか、片手ないし両手で常に女の子のスカートを握りしめていた。
「ねえ、愛奈……この女の子は……」
「あ、さっちゃんも気持ち悪いって思った?」
「気持ち悪いっていうか……」
 どの写真も顔が切り取られていたり、切り取られていなくてもカッターで何度も何度も顔の所だけ縦横無尽に切り刻んだ後が残っていたりで、一つとして無事な写真は無かった。強いて言うなら、愛奈のその行動自体が気持ち悪いと思ったけれど、さすがに口にはできない。
「実際、いつもこんな感じだったよ。四六時中つかず離れずいっつも一緒でベタベタしててさ。トイレに行くにもご飯食べるのも一緒で、見てて吐き気するくらい気持ち悪かったよ」
「この子……一体誰なの?」
 恐る恐る訪ねた――その時だった。障子戸の向こうに誰かが座ったのが、気配でわかった。
「失礼致します、愛奈さま。……今、よろしいでしょうか?」
「いいよ。どうしたの?」
 すっ、と――正確にはそんな音すら聞こえないほど静かに――障子戸が開かれ、女官の一人が顔を覗かせる。一度も顔を合わせた事のない人だけれど、一応“先輩”には違いがないから、私は小さく頭を下げた。
「その……愛奈さまにお電話が」
「私に電話? 相手は誰? 優巳?」
「“コンザキ キリア”という方からです。お知り合いですか?」
 ざわっ……。
 その瞬間、私は全身が総毛立つのを感じた。背骨にツララをねじ込まれたような感覚というのはこういうものなんだと――反射的に愛奈の隣から転がるように飛び退きながら――私は理解した。
「わかった、すぐ行くから待ってて」
 返事を返した愛奈の声は普段通りのものだった。すっくと立ち上がって、愛奈は障子戸の所まで歩いてから、思い出したように私の方を振り返った。
「あっ、私はちょっと電話に出てくるから、さっちゃんはアルバム見てていいよ」
 笑顔で言い残して、愛奈はぴしりと障子戸を締めて女官と共に廊下の奥へと消えていった。
 愛奈が去ってから初めて、私は自分が歯を鳴らしていた事に気がついた。



 愛奈の戻りは思いの外早かった。時間にして十分あるか無いか――たったそれだけの時間で、愛奈は部屋に戻ってきた。
「ごめーん、さっちゃん。お待たせ」
「あ、うん……おかえり、愛奈」
 そして予想に反して、愛奈は上機嫌だった。ニコニコと、今にも鼻歌でも歌い出しそうな程に。
 何の電話だったの?――その言葉を口にしかけて、私はハッと唇を噤んだ。それはさながら、底の見えない谷底に向けて大きく足を踏み出すような――それにも似た行為のように思えたからだ。
「どうしたの? さっちゃん。顔色悪いよ?」
「そ、そう?」
 実際、体の震えが止まらなかった。先ほど、女官の口から“コンザキ キリア”の名が出た瞬間に愛奈から感じたものが一体何なのか、私には察しすらつかない。怒気や殺気と呼ぶのすら生ぬるい、もっと濃くて禍々しい、例えるなら不可視の触手で体中を撫で回されたような、そんな感覚だった。
「ふふっ、でもさぁ、驚いちゃったよ。こういうのも虫の知らせっていうのかな? ああ、それとも“噂をすれば”の方かな? まさかさっちゃんに名前を聞かれた途端電話がかかってくるなんて、すごい偶然だと思わない?」
「え、じゃあ……写真の子は……」
「紺崎霧亜。私と同い年のヒーくんのお姉ちゃんだよ」
「へ、へぇ……そうなんだ」
 笑顔のまま喜々として語る愛奈に、私はそんな当たり障りのない相づちしか返せない。
「あっ、ひょっとして手紙の件の電話だったの?」
「えぇー! すごい! どうして解ったの!?」
「すごいって……簡単な推測だよ。……でも、本人じゃなくてお姉さんが電話してくるなんて」
「いつもそうなんだよ。あのヒトブタはね、いっつも私とヒーくんの仲を邪魔するの」
 ぶちっ。
 そんな音が聞こえて、私は咄嗟に音源――愛奈の右手を見た。その手にはピンク色の、かつて絨毯の一部だったものが握られていた。
「手紙の返事がどうして来なかったのかも解ったよ」
 ぶちっ。
 ぶちっ。
 愛奈の手が再び絨毯の生地を摘み、尋常ではない力で立て続けに二度、三度とむしり取る。
「手紙は全部、ヒーくんの目に触れる前に燃やして捨ててるんだってさ。私とさっちゃんが一生懸命考えて書いた手紙を、全部。私の手紙を。あのヒトブタがッ」
「あ、愛奈……?」
 ぶちっ。
 ぶちっ、ぶちっ。
 本来女の手で毟る事など出来るはずがない、絨毯の堅い生地が恐ろしい早さで毟られていく。――否、それを行う愛奈の指の方も相応の負荷がかかっているらしく、指先には早くも血が滲んでいた。
「何通出しても無駄だからあきらめろって! 同封した写真も全部燃やしたって! 薄気味の悪いポエムなんか書くなって! ヒトブタのくせに! ヒトブタのくせに! ヒトブタのくせに! ヒトブタのくせに!」
「愛奈、愛奈……止めなって……ほら、手が血だらけになってるよ? 落ち着いて」
「うるさい!」
 突き飛ばされるというよりは、まるで暴風かなにかに煽られたようだった。私は部屋の壁で背中を打って、激しく咳き込んだ。
「ヒトブタ気持ち悪い……ヒトブタ気持ち悪い……ヒトブタ気持ち悪い……ヒトブタ気持ち悪い……ヒトブタ気持ち悪いヒトブタ気持ち悪いヒトブタ気持ち悪いヒトブタ気持ち悪いァァァァァァァァァァァァァァッァアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!!」
 雄叫びのような声を上げるや、愛奈は立ち上がり様に勉強椅子の背を持ち、それを高々と持ち上げるや液晶テレビの上へと振り下ろした。
「きゃあっ!」
 勉強椅子の一撃を受けて、液晶テレビは派手な音を立てて不自然にひしゃげ、破片を辺りに飛び散らせた。
「ァァァッァアアアァァァァァァアアッ!!!!」
 愛奈はさらに叫び、椅子を振り回して障子戸を粉砕し、テーブルをたたき割り、最後には壁に椅子を叩きつけて大穴を開けると同時に椅子自体も壊してしまった。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ…………ぅっっ、ぁっ、ぁっ、ぁぁぁぁっぁああああああああッ!!」
 狂獣のような声を出しながら、愛奈はさらに暴れる。目についたものを片っ端から持ち上げては壁に叩きつけ、ありとあらゆるものを粉砕した挙げ句、勉強机を倒し箪笥を倒し、壊れた椅子の背で蛍光灯まで叩き割ると、そのまま外へと走り出していった。
「あ、愛奈!」
 壁に背中をすりつけるようにしながら震えていた私は、愛奈が部屋から飛び出していって漸く少しだけ冷静さを取り戻した。
(追わなきゃ……!)
 私はすぐに愛奈の後を追おうとした。でも、明かりが消えて、しかも割れた蛍光灯の破片が部屋中に散らばってて、なんとか足場を確保して部屋から出た時には愛奈の姿は完全に見失っていた。
 ――それでも、愛奈が何処に居るのかはすぐに解った。中庭の方から狂ったような雄叫びと、何かを打ち据えるような音がひっきりなしに響いていたからだ。
「どうしよう……」
 すぐに愛奈の側に行こうと、部屋の前の濡れ縁から飛び出しかけて、私ははたと足を止めた。愛奈の様子は尋常ではない、私一人で行くよりも誰か人を呼んできた方がいいのではないか――。
「……どうして? どうして誰も来ないの?」
 その時になって、私は気がついた。先ほどの大暴れは間違いなく、屋敷中は無理だとしても近くで雑事をしている女官達には聞こえた筈だ。本来ならばすぐにでも“主”の様子を見に来るべきではないのか。
 今もそうだ。庭の方であれだけ騒いでいるというのに、誰一人庭の様子をうかがう者すら居ない。まるでこの広い屋敷に私と愛奈しか存在しないのではないかと思いたくなるほどに、辺りは静まりかえっていた。
(ダメだ……やっぱり放っておけない)
 誰かを呼びに行くなんて間怠っこしい事は出来ない。私は土足で濡れ縁から降りて中庭へと走り、愛奈の姿を探した。
 中庭とは言っても、その広さは私の実家の敷地の何倍もある。そこにさらに巨岩が置かれ庭木が植えられ、ちょっとした森のような様相を呈していた。もちろん庭師が毎日手入れを欠かさず行ってるから、草が伸びすぎていたり美観を損ねる程に枝が伸びすぎているという事もない。――そんな中庭だから、逆に簡単に後を追う事が出来た。
 まるで怪獣が通った後のように枝葉が折れ曲がり、石灯籠が倒され或いは破壊され、無意味に土の一部が掘り返されてコケが抉られた“道”を辿るだけで、すぐに愛奈の後ろ姿が見えてきた。
「死ネッ!」
 愛奈はどこかの庭木から折ってきたらしい、自分の腕ほどもある太い木の枝を一心不乱に振るい、眼前のクヌギの木を打ち据えていた。
「死ネッ、キリア死ネッ、死ネッ!」
 叫びすぎて喉が枯れてしまったのか、言葉の意味こそわかるものの、その声は普段の典雅な響きすらある愛くるしい声とはかけ離れていた。まるで数百年の時を生きた魔女のような嗄れた声で、愛奈は呪いの言葉を吐き続け、クヌギの木を打ち続ける。
 その身に一体どれほどの憎悪を溜め込んでいるのか。愛奈の体からどす黒い気炎が立ち上るのが私の目にも見えるようだった。
「死ネ! 死ネ! 死ネ! キリア死ネ! キリア死ネ! キリア死ネ!」
 狂ったようにクヌギの木を打ち続ける愛奈に、私は声をかける事も出来ずにただただ棒立ちすることしかできなかった。声をかけたが最後、今度は私があのクヌギのようにめった打ちにされるのではないかとすら思えるほどに、愛奈の様子は尋常ではなかった。
 何度も、何度も木の枝を振るい続け、やがて枝の方が根負けしたように半ばから折れてしまい、それすらも不愉快だと言わんばかりに愛奈は叫び声を上げ、折れた木の枝を叩きつけるように投げ捨てる。
「死ネッ、死ネ、死ネェェェェェェエ!!!」
 そして木の枝を捨てるや、今度はガリガリと木の表皮を自らの爪で引っ掻き始めた。力の加減など皆無で、爪は瞬く間に剥がれ、ささくれ立った表皮がむき出しになった爪の下の肉に突き刺さり、みるみるうちに愛奈の両腕は肘まで血の色に染まった。
「愛奈! ダメだよ、もう止めて!」
 さすがに見ていられなくなって、私は背後から羽交い締めにして愛奈を止めようとした。でも、凄い力で強引にふりほどかれて、私の体は地面に転がされた。
「あ、愛奈……?」
 地面に転がされた私は愛奈の方を見上げるなり竦み上がった。そこには自分の頭よりも大きな――漬け物石大の石を両手で持ち上げ、私めがけて振り下ろそうとしている愛奈の姿があったからだ。
「ひぃっ」
 悲鳴を言うが早いか、私はすぐさま地面を横に転がるようにして逃げた。どすんっ、と鈍い音を立てて、つい一秒前まで私の頭があった場所に、私の頭よりも大きな石が落ちる。
「愛奈……止めて、私だよ……幸子だよ、ほら、落ち着いて」
 立ち上がって距離をとりながら、私はなんとか愛奈を落ち着かせようとした。――でも、そんな私の目の前で、愛奈は血まみれの手でたった今自分が放り投げた石を拾い上げ、私の方へと向き直る。
「だ、だめっ」
 石が振りかぶられた瞬間、私は咄嗟に逃げようとした――でも、実際にはその場から動かなかった。愛奈が明後日の方向へと石を投げたからだ。
「池……?」
 辺りには光源となるものは夜空で雲に隠れ時折見え隠れする三日月しか無く、石が水に落ちる音で、私はすぐ側に庭池がある事を知った。愛奈はまるでその石の後を追うようにざぶざぶと庭池の中へと入っていき、そして動きの鈍い鯉の一匹を捕まえると、その口に指をかけて――
「ァァァァァ、ァァァアアアアアアアッ!!!!!!」
 叫び声と共に、びりびりと縦に引き裂いてしまった。
「フーッ……フーッ…………フーッ………………」
 縦に裂けた鯉の死体を池の中に放って、愛奈は漸くにその動きを止めた。腰まで庭池に浸かったまま両腕をだらりと下げ、肩を大きく上下させながら呼吸を整えているように見えた。
「……っっ……ゥゥゥ……ぁぁぁぁぁ……あああああ……ぁぁぁ……うぁぁぁぁああああああああああァァ!!!」
 一度は呼吸をおちつけた愛奈が再び声を上げる。私はてっきりまた暴れ出すのかと思った。けれども違った。それはもう雄叫びではない――慟哭だった。
 愛奈は泣いていた。腰まで庭池に浸かったまま天を仰ぎ、子供のように大声を上げてわんわん泣いていた。
「えぐっ……うぐっ……うぁあ……ぁぁぁぁぁ……ァァ……ぁぁぁああああああああァァ!!」
 ヒック、ヒックとしゃくりあげながら泣き続ける愛奈の側に駆け寄って、慰めてあげたかった。でも、一歩踏み出しただけで私の足は役立たずになってしまった。腰が抜けてしまっているのだと、遅れて理解した。
 愛奈はそのまま一時間以上にもわたって泣き続け、泣きながらざぶざぶと庭池の水をかき分けて屋敷の方へと戻っていった。
 私は、その後を追えなかった。ただただ、遠ざかる愛奈の背を見守る事しか出来なかった。



 その日から、柚紀を倣って私も愛奈の部屋へは行かなくなった。私の行動の変化について柚紀は何か聞きたそうだったけれど、私はあえて気づかないフリをする事にした
 あんな大騒ぎがあった後だというのに、屋敷での毎日は全くといっていいほどに何も変わらなかった。ひょっとしたらあれは悪い夢だったんじゃないかと思いたくなる程に、誰一人、あの夜の事のうわさ話すら口にしなかった。
 そう、表面上は平生を装ってはいたけれど、私は内心気が気でなかった。ひょっとしたら、私は絶対に見てはいけないものを見てしまったのかもしれない。
 他人に対して、これほど恐怖を感じた事は初めてだった。愛奈はおかしい。少なくとも私や柚紀とは一線を画す人間だという事をあの晩、私は思い知った。
 私は、触れてはいけないものに触れようとしていたのだ。……願わくば、まだ手遅れではない事を祈りながら、私はただひたすらに毎日が平穏無事に過ぎる事を祈り続けていた。

 十月に入って、徐々に朝の布団からの脱出が困難になり始めた頃。
 “それ”は来た。
「あれ、誰だろう」
 一週間に一度の休養日。愛奈の部屋に遊びに行かなくなった私たちは、彼女と知り合う前のように自室で息を潜めるようにして連日の雑務の疲れを癒していた。そんな私たちの部屋に来客がある事など本当に希で、月に二,三度しか聞くことのないノックの音に首をかしげながら、私は勉強をしている柚紀の代わりにドアを開けた。
「あっ、さっちゃん! ひさしぶり!」
 ドアの前に立つ愛奈の姿に、私は冗談抜きで心臓が止まるかと思った。
「ぁ……ぁ……」
「最近ちっとも遊びに来てくれないんだもん。だから、私の方から来ちゃった。今日は休みだよね? 中に入ってもいい? ほらほら、前にやったゲームも持ってきたんだよ?」
 愛奈が小脇に抱えたボードゲームの箱を見せながらそんな事を言うも、私の方は両足が震えて、立っているのがやっとだった。私の前に立つ愛奈はいつも通りの愛くるしい笑顔を浮かべていて、とてもあの夜大暴れした鬼女と同一人物とは思えない。
 その“落差”が、私には怖くて堪らない。
「さっちゃん、どうしたの? 中に入ってもいい?」
 私が返事を返さないから、愛奈は不思議そうに首をかしげながら再度尋ねてくる。
「えと……うん、いいよ。入って」
 愛奈の申し出を断った途端、あの夜のように怒り出すような気がして、私にはそうとしか答えられなかった。
「えへへ、おじゃましまーっす。あ、キーちゃんも久しぶりだね、勉強中なのかな?」
「…………。」
 柚紀はちらりと愛奈の姿を見るや、露骨に無視をするように背を向け、再び机の方を向いてペンを走らせ始める。
「アハッ」
 自分が無視されたという自覚がないのか、それとも解っていて楽しんでいるのか。愛奈はなんとも嬉しそうな声を上げて、跳ねるような足取りで柚紀の机の側まで歩み寄る。
「なになに、どんな勉強してるの?」
 その手元を愛奈が覗き込もうとした瞬間、柚紀は露骨に大きな音を立ててペンを置き、ノートと参考書を閉じた。
「さっちゃん、ちょっと散歩に行こう」
「えっ、でも……」
「ここ、空気悪いから。ちょっと外に出ようよ」
 ぐいと。柚紀にしては珍しく強引に私の手をとって、部屋のドアの方に歩いていく。
「あっ、お散歩するの? じゃあ、良いところに連れて行ってあげる!」
 柚紀の行動を見れば、愛奈を避けようとしている事は明らかだった。それが解らないほどに鈍感なのか、愛奈はボードゲームを畳の上に置き、いけしゃあしゃあと柚紀の隣に並んで部屋を出ようとして――ぴたりと、柚紀が足を止める。
「…………はっきり言わないと解らないの?」
「なになに? キーちゃんどうしたの?」
「私はもうあなたの顔なんて見たくもないの。話もしたくないし、二度とここには来ないで欲しい。悪いけど帰ってくれない?」
 柚紀は愛奈が置いたボードゲームの箱を手に取ると、愛奈の胸に叩きつけるようにして返した。そんな柚紀の行動に、私の方が震え上がった。前に玩具の銃で撃たれて以来、柚紀が極度に愛奈の事を嫌っているのは私も知っている。だけど、それはダメだ。そんな事を言ってもし愛奈を怒らせでもしたら――
「……そっか! ごめんね!」
 でも、私の予想に反して愛奈は怒らなかった。ばつが悪そうに笑いながらぺろりと舌を出して、そして素直に一人、ドアの前へと歩み出る。
(あっ……)
 その時、私は気づいてしまった。愛奈の両手の指先に、今尚包帯が巻かれたままであることに。やはり、あの夜のことは現実だったのだ――ずしりと、まるで胃の中に重たい石を放り込まれた様だった。
「あ、愛奈! 待って!」
 一人ドアから出て行った愛奈を、私は慌てて追いかけた。女官寮の部屋が両脇に並ぶ廊下の途中で私は愛奈に追いついて、愛奈もすぐに足を止めて振り返った。
「ごめんね、あんまり気を悪くしないでね。柚紀はほら……前に愛奈にされた事ずっと気にしててさ。それで――」
「うん、解ってる。私が悪いんだからしょうがないよね」
「あと、私もさ……最近ちょっと仕事の方がキツくって、なかなか愛奈の部屋に遊びに行けなくって――」
「大丈夫、ちゃんと解ってるから」
 愛奈は掌を出して、私の言葉を止めた。
「引いちゃったんだよね。ごめんね。私、頭に来ると時々癇癪起こしちゃうの。前からいる人たちはもう慣れてるから別に驚いたりしないけど、初めて見たらやっぱり引いちゃうよね」
 みんなもう慣れている――ではあれはあの夜一度きりのことではなかったのか。他の女官達は前にも何度か愛奈の狂行を見ていて、見て見ぬふりをしていたということなのだろうか。
「すぐには無理かもしれないけどさ、さっちゃんの気持ちの整理がついたらでいいから、また遊びに来てね。……私、待ってるから」
 愛奈はそう言って、再び背を向けて歩き出す。その寂しそうな背中に、何か言ってあげなければと思って、後を追おうと私が一歩踏み出した時だった。
「…………ねえ、さっちゃん。私の“お勤め”ってどんなのだか知りたくない?」
 ぴたりと、愛奈の方が足を止めて、背を向けたままそんな事を言った。
「えっ……愛奈の、お勤め?」
「うん。どうして私が土岐坂の家の養女として招かれたのか、こんな屋敷に監禁されて何をさせられてるのか。知りたくない?」
 興味がないと言えば、嘘になる。けれど、私は肯定も否定も出来なかった。どっちにしても恐ろしいものを見せられる気がして、何も言えなかった。
「明日見せてあげるから、楽しみにしててね」
 何も言えなかった私に愛奈はそう言い残して、そのまま振り返らずに去ってしまった。
 私は震える全身をなんとか動かして部屋に戻った。柚紀は、いつものように机に向かって勉強していた。
「おかえり、さっちゃん。愛奈と何を話したの?」
「……ちょっと、ね。色々」
「そう」
 柚紀はそれだけ言って、再びペンを動かし始める。そして、ぽつりと。まるで独り言のように漏らした。
「あの子とはもう関わらないほうがいいよ。絶対後悔することになると思う」
 それは解っている。けれど――やっぱり遅すぎたのかもしれない。



 

 翌朝、私はてっきり“使い”が来て愛奈の所に呼び出されるものだとばかり思っていた。でも、結局そういう話はなにも無くて、私たちはローテーション通りの屋敷の庭の掃除を言いつけられて、二人とも竹箒を手に庭へと出た。
「柚紀、こっち落ち葉大分たまったよー」
「りょーかい。ちりとり持っていくね」
 柚紀が竹箒を側の庭木へと建てかけ、足下に置いてあった庭掃除用の大きめのちりとりを手に私の方に歩み寄ってくる。――その時、私は信じられないものを見た。
「……愛奈……?」
「え、何?」
 私の呟きが小さすぎたのか、柚紀が訪ね返してくる。その背目がけて、私たちと同じように竹箒を手にした愛奈が猛烈な勢いで走り込んでくる。
 私はてっきり、愛奈も掃除を手伝うつもりで来てくれたのかと思った――けど、その予想は最悪の形で裏切られた。
「どーん!」
 まるで、子供同士がふざけて相手の背中を突き飛ばすような――そんな喜々とした声をあげながら、愛奈は何の迷いもなく竹箒で柚紀の頭に殴りかかったのだ。
「ゆ、柚紀!」
 無防備の所を突然背後から殴りつけられ、柚紀は悲鳴すら上げずにその場へと倒れた。その背に、頭に、愛奈がさらに無慈悲に竹箒を振るい、打ち付ける。
「あ、愛奈! 止めなよ! 止めてよ!」
 私はすぐに二人の側まで駆け寄って制止を懇願した。それ以上のことは――喜々として竹箒を振るって柚紀を打ちのめす愛奈を実力で止めるなんてことは、私には出来なかった。
 柚紀はただただ亀のように身を縮め、両手で頭を守るように蹲っていた。その手が、髪が、愛奈が竹箒で打ち据える度に赤く染まっていく。
「止めて! 愛奈、お願いだから止めて!」
 必死に叫んでも、愛奈の動きは惑いもしなかった。あの夜のように力の加減など一切なしに何度も何度も柚紀を打ち据え、それは竹箒が折れるまで続いた。
 否。愛奈の狂行は、そこからが本番だった。
「だ、ダメぇ!」
 私はどうして、竹箒が折れたら愛奈が手を止めてくれると、勝手に思ったのだろう。そんな確証など何処にもないのに。
 愛奈は半ばから折れた竹箒の柄を、槍を突き出すような手つきでそのまま柚紀の右肩の辺りへと突き刺したのだった。
「ぎゃっ、ァァァァア!」
 今まで悲鳴すら漏らさずにジッと耐えていた柚紀がたまりかねたように悲鳴を上げ、じたばたともがき出す。
「アハハハハハハハハハハハハッ!!!!」
 そんな柚紀を指さしながら、愛奈が笑う。さながら、手足や羽を切り落とされた昆虫が藻掻く様を見て笑う子供のように。
「愛奈……どうして……」
 あまりの光景に、私は呆然と立ちつくしていた。一体何故柚紀を殴りつけねばならなかったのか。昨日のやりとりの復讐だとしても度が過ぎている。
 本当は今すぐにでも柚紀の元に駆け寄って手当をしてあげたいのに、私は動くことが出来なかった。そう、“まだ終わりじゃない”という事を、全身の悪寒が私に伝えていた。
「さっちゃん、約束通り見せてあげるね」
 愛奈は私の方を見て、にっこりと微笑むと藻掻いている柚紀の背を踏みつけ、突き刺さっていた竹箒の柄を力任せに引き抜いた。
 ぎゃっ、と柚紀が短い悲鳴を上げ、藻掻くのを止めた。その背――柄が刺さっていた辺りは出血もおびただしく、本来白が基調の女官服がみるみるうちに朱に染まっていく。
「“これ”が、私が養女に迎えられた理由だよ」
 愛奈は柚紀の側にしゃがみ込み、その背に掌を当てる。
「えっ……」
 その時、愛奈の手が微かに光ったように見えた。そして次の瞬間、私は我が目を疑った。
 破れた女官服の隙間から見えていた痛々しい傷口が、まるでビデオの早回しのような速度で塞がっていく。現実離れした光景に、私は唖然としていた。
「……ふう」
 数分後、傷口が完全に塞がるなり、愛奈がそんな息を吐いてゆっくりと立ち上がる。
「“ヒーリング”とでも言えばいいのかな。こういう事が出来る子供がいるって知った人たちが、こぞって私を祭り上げて養女にしたってワケ」
 先ほど柚紀を喜々として打ち据えていた時とは対照的な、ひどく気怠い、今にも倒れそうな程にフラつきながら、愛奈はさらに言葉を続ける。
「だけど、この力は自分の傷は治せないの。だから、ほら」
 そう言って、愛奈は未だ包帯が巻かれたままの自分の手を私に見せてくる。
「口で言ってもなかなか信じてもらえないと思ったからさ。だったら目の前で見せてあげればいいと思って」
 そう、確かに信じがたい出来事だった。けれど、私は自分でも不思議なほどにこの光景を事実としてあっさりと受け入れていた。
 その理由は、多分子供の頃から母に聞かされていた話のせいだろう。かつて私の母も私と同じように本家に奉公して、“土岐坂の巫女”と呼ばれる女性の身の回りの世話をしたと言っていた。そしてその巫女は天気読みをしたり、なくしてしまった物の場所を言い当てたり出来る不思議な力を持っていた――と。
 だから、愛奈の力をトリックだともイカサマだとも思わなかった。彼女には間違いなくそういう力があって、だからこそ養女に迎えられたのだろうとむしろ納得した。
(そっか……そういうことだったんだ)
 私はずっと気になっていた。何故この屋敷にはただの一人も“男”が居ないのか。さらに言うなら、先だって愛奈が呼んだ写真屋までもが女性だった。その理由も愛奈が“土岐坂の巫女”だからなのだ。
(……お母さんから聞いた事がある…………)
 巫女は処女でなければならない。よって処女性を失う可能性は排除されなければならない。即ち、愛奈は屋敷から出る事を許されず、また屋敷に男が入る事も許されない。
「……いつまで蹲ってるの? 傷は治したんだからいい加減立ちなよ」
 どん、と。愛奈が庭用のサンダルで容赦なく柚紀のお尻の辺りを蹴りつける。――が、柚紀はくぐもった声を漏らしただけで立ち上がろうとはしなかった。
「あ、そっか。傷は治しても痛みはしばらく取れないんだっけ。アハ、自分の傷は治した事ないから忘れてたよ」
 どん、どんっ。愛奈はさらに立て続けに柚紀の背を、足を蹴りつける。
「ムカつくよね、こいつ。折角私が優しくしてやってるのに偉そうに上から目線でさ」
「や、止めて! 愛奈、もう止めてよ!」
 今更、と言われても仕方のないタイミングで、私は愛奈と柚紀の間に割って入って、愛奈の両肩を押さえるようにして柚紀から引き離した。
「あ、そーだ。さっちゃん前に失明がどうとか言ってたよね。あれも多分怪我してすぐだったら治せると思うよ。試してみる?」
「試さなくていい! そんな怖いこと言わないでよ!」
「でも、さっちゃん信じてないでしょ? 信じてたら、いつもみたいに“すごーい!”って驚いてくれるよね?」
 私はもう、涙を溢れさせながら首を振る事しか出来なかった。
「信じるとか、信じないとかじゃないよ。愛奈はちょっとおかしいよ……どうしてこんな事が出来るの? こんな事をしてどうして平気でいられるの?」
「……さっちゃんこそおかしいよ。どうしてさっちゃんが泣くの? 私、さっちゃんには何もしてないのに」
「そんなの、友達を酷い目に合わせられたからに決まってるじゃない! 柚紀は親友なんだよ? 親友にこんな酷いことをされたら、私だって苦しいに決まってるよ!」
「だったら、どうしてもっと早く止めなかったの?」
 愛奈の言葉が、刃物となって私の心臓を指し貫いた。
「最初に殴りつけたときに間に合わなかったのはしょうがないとしても、その後すぐに止めに入ろうと思えば出来たよね? でもさっちゃん、止めてって言うだけで、自分は動かなかったよね。それなのに酷いことをされたって泣くのはおかしいんじゃない?」
「それ、は……」
「あ、私は別にそれが悪いって言ってるんじゃないよ? さっちゃんはそういう子だって、私は最初から解ってたし。ああ、この子は土壇場になったら絶対裏切る子だって。でも、私はさっちゃんのそういうところ好きだよ。人間くさいっていうかさ、見てて飽きないもん」
「ち、違う……」
「違わないよ。現に今だって“保身”で動かなかったんでしょ? いざとなったら“友達なんか”より自分の安全を優先しちゃうんだよ。さっちゃんはそういう女の子なんだよ? 自覚ないの?」
 両足が、震える。愛奈の言うことは真実だと、私の中の私が肯定する。私の根本が崩されていく。ガラガラと、今まで積み上げてきたものが崩れ去っていく恐怖に耐えかねて、私は――。
「うるさい!」
 気がついたときには、目の前の愛奈の頬を思い切り張っていた。
「愛奈にそんなこと言われたくない! 愛奈と会うまでは、私も柚紀も二人でちゃんと巧くやってたの! それなのに、愛奈がワケわからないことするから……だからッ……おかしいよ。愛奈は狂ってるよ! 頭のおかしい愛奈に私のこと非難する資格なんかない!  あんたがおかしいから、“ヒーくん”も会ってくれないんだよ! あんたがおかしいから、ヒーくんのお姉さんもあんたから“ヒーくん”を守ってるんだよ! それが解らないの? 解らないから“ヒーくん”に嫌われるんだよ!」
 それは“反論”ですらない、ただの八つ当たりだった。今、私が知りうる限りの情報の中から、もっとも愛奈が傷つくであろう言葉を手当たり次第にぶちまけただけの八つ当たりだった。
「…………さっちゃんも国語が苦手なのかな? それ、反論になってないよ」
 挙げ句、愛奈にまでそれを指摘される始末。ゾクリと。頭に上っていた血が一気に冷えるような、そんな冷たい声だった。
「あっ……」
 そして、今更に私は後悔した。図星を言い当てられてテンパって、自分がとんでもないことを口走ってしまったことに気がついて、絶望、した。
「ねえさっちゃん。覚えてる? 前に三人で“走れメロス”の話をした時の事を」
 突然何を言い出すのか、私には愛奈の意図がわからなかった。解らないけれど無視することも出来なくて、私は小さく頷いた。
「あの時さ、さっちゃん言ったよね。キーちゃんがメロスなら自分はセリヌンティウスだって。……あれ逆だったっけ? まぁいいや。とにかく、さっちゃんはキーちゃんの親友で、その気持ちは今も変わってない?」
 私は少しだけ逡巡して、そして頷いた。
「解った。じゃあ試してあげる」
「ため……す……?」
「私が暴君ディオニスの役をやってあげる。さっちゃんたちに無理難題を押しつけて、二人の友情を試してあげる」
 えっ――愛奈の言葉に、私はかすれた声しか出せなかった。
「実験は明日から始めるよ。楽しみにしててね」
 愛奈はそう言って、止めるまもなく踵を返して屋敷の方へと鼻歌交じりに歩いていく。私は後を追いかけて、すぐに足を止めた。『いざとなれば“友達なんか”より自分の安全を優先する』――愛奈の言葉が頭の中に響いて、蹲ったままの柚紀の元へと私は駆け寄った。
「柚紀、大丈夫……?」
「……うん」
 柚紀は気絶していたわけでも、動けなかったわけでもないらしく、愛奈が去ってからはほとんど私の助けも無く立ち上がった。頭をかばっていた手の傷も綺麗に消え、かすり傷一つ残っていなかった。
「…………信じられないけど、信じるしかない、か」
 自分の体を見ながら、柚紀がそんな言葉を呟く。
「ねえ……柚紀……さっきの話、聞いてた……よね」
 恐る恐る尋ねると、柚紀は小さくうんと頷いた。
「……心配しないで、さっちゃん。私……私も、さっちゃんには少しだけそういう所はあるって、解ってたから」
 ドキリと、心臓が跳ねるのがわかった。掌から汗が滲んで、私は柚紀をまともにみれなくなかった。
「でもね、私にも……そういう所、少なからずあると思う。私が気づいていない私の欠点にさっちゃんは気づいてるけど、黙っててくれてるって事が、絶対あると思う。だから、私は気にしないよ」
「柚紀……」
「あんな背後からいきなり殴りかかるようなキチガイの言うことなんか真に受けちゃダメだよ。おかしいのはあの女の方なんだから。……あの女に何かちょっかい出されても、私たちの関係は何も変わらない。そうでしょ?」
「うん、そうだよ! 私は絶対に、絶対に柚紀を裏切ったりしない!」
「私もだよ、さっちゃん。私はさっちゃんを裏切ったりしない。絶対に」
 柚紀が私を抱きしめて、私も柚紀を抱きしめた。あぁ、私たちはやっぱり親友なんだと、改めて私は実感した。
 愛奈がどんなイヤガラセをしてきても、それだけは変わることはない。私たちには不滅の友情があるのだから。


「二人で穴を掘って」
 翌朝、私たちは愛奈の使いに呼ばれて、愛奈の部屋の前の庭まで連れてこられた。そこで愛奈の手から一本ずつスコップを渡されて、そう言われた。
「そこに、それぞれ一つずつ。日が暮れるまでに出来るだけ大きな穴を掘って」
 愛奈は部屋の前の濡れ縁に腰掛けて、そことそこ、とむき出しの赤土の部分を指さした。
「……どうしてそんなことをしなきゃいけないの?」
 スコップを足下に捨てながら、柚紀が愛奈に食ってかかる。昨日、あんな目に遭わされたばかりだというのに、愛奈に対して恐れを抱いていない柚紀を私は純粋に凄いと思った。
「昨日言ったでしょ。実験だって。キーちゃんとさっちゃんは紛れもない親友だって所を見せてほしいの」
「バカじゃないの? 誰があんたの言うことなんか――」
「ちなみに、二人とも穴を掘らなかった場合はさっちゃんだけ罰ゲームね」
 柚紀の言葉を遮って、愛奈が“ルール発表”を続ける。
「何よそれ、どうしてさっちゃんだけ……」
「あと、より大きな穴を掘った方も罰ゲームね。はい始め」
 ぱん、と愛奈が手を叩く。どうやらそれが開始の合図らしかった。
「そうそう、言い忘れたけど私の許可なく私の目の届かないところに行ったら、それもやっぱりさっちゃんの罰ゲームにするから。トイレに行くときとかは、きちんと私に声かけてから行ってね。今日は一日暇だから、私はずっとここに居るよ」
 そう言って、愛奈は部屋の中から文庫小説を二,三冊かかえて戻ってきて、縁側で読み始める。
 どうしよう――そういう目で、私は柚紀を見た。柚紀は明らかに苦渋の顔をしていた。
 今日の夕暮れまでそれぞれ穴を掘れ。穴が大きかった方は罰ゲーム。但し二人とも掘らなかった場合は私だけが罰ゲーム。愛奈の許可無く席を外したら、それも私だけが罰ゲーム。
 何故そんなルールなのか、正直私には理解出来なかった。単純に私の方が柚紀よりも愛奈から嫌われていて、“その差”なのだろうか。
「きゃっ……痛ッ」
 スコップを手にしたまま考え耽っていると、パンッ、と破裂するような音と共に、体に鋭い痛みが走った。
「これも言い忘れてたけど、私が本から顔を上げたときにどっちかがサボってたら、こうやって気まぐれにさっちゃん撃つから」
 左手に文庫小説、右手にはいつか見たものとは違うデザインのエアガンを握って――多分、蔵にあったものだろう――愛奈が意地悪く笑う。
「……っ……どうしてさっちゃんなの!? 私たちが気に入らないなら素直に二人とも罰を与えればいいじゃない!!」
「解らないの? キーちゃんもうちょっと頭良い子だと思ったのに、案外バカなのかな?」
「……っっっ!」
 私は知っている。柚紀は、自分は他人よりも頭が良い事を自覚している。だから、他人にバカだと言われると、びっくりするくらい腹を立てる。
「……人のことバカ扱いするのは勝手だけどさ。あんたこそ自分が言ってる言葉の意味ちゃんと解ってるの? 大きい穴を掘った方が罰ゲーム? そんなルールで誰が頑張って掘るっていうの?」
「別に掘らなくてもいいよ? 自分だけ助かりたいなら好きなようにすれば?」
 ムキになって食らいつく柚紀に対して、愛奈はどこか大人びた余裕すら見せ、微笑む。
「私は二人の友情を信じてるからこのルールにしたんだよ? 自分のことより親友のことの方が大事なら、親友が辛い目に遭うのなんて耐えられるわけないよね?」
「ッ……最ッ低の発想だわ。どういう頭をしてればそういう腐った発想が出てくるの?」
「はいはい、無駄口はそこまでね? 早くスコップ拾って」
 ぱんぱんと愛奈が手を叩いて促し、それでも柚紀が動かないのを見て、再び玩具の銃を手に取る。
「ほら、早くスコップ拾って」
 パンッ、と愛奈があっさりと引き金を引き、私の腕に痛みが走る。
「拾わないとさっちゃん撃つよ?」
「ッ……卑怯者っ」
 吐き捨てるように言って、柚紀がスコップを手に取る。そのまま地面にスコップを突き刺し、穴を掘り始める。
「柚紀……!」
「さぁ、さっちゃんはどうするのかな? そのままずっと見てる? もしスコップから手を離して棒立ちしてるって約束するなら、さっちゃんを撃つのは止めてあげるよ?」
「……っ……」
 愛奈の言葉に触発されて、私も柚紀のようにスコップを地面に突き刺した。
「あははー! そうだよね、そうするしかないよね? ほら、二人とももうちょっと離れて掘らないと途中で穴がくっついちゃうよ? その時は私の気分でどちらか一人だけ罰ゲームにするから、気をつけてねー?」
 

 地獄のような時間が続いた。私も柚紀も、ほとんど休憩をせずに一心不乱に掘り続けた。少しでも手を休めると、容赦なく愛奈が玩具の銃で撃ってくるからというのもあるけれど、それよりも――。
「……なんかさっちゃんの動き遅くない? わざと小さく穴を掘ろうとしてるんじゃないのかなぁ?」
 時折本から顔を上げてそんな事を言われたら、意地でも休憩するわけにはいかなかった。愛奈の揺さぶりなんかで、私も柚紀も互いの友情を疑ったりはしないけれど、それでもやっぱり柚紀が一生懸命掘っている以上、私だけが休むわけにはいかない。
「……柚紀、もういいよ。しばらく休んでて」
「さっちゃんこそ、休みなよ。大丈夫、あんな女の言葉なんて、私は全く気にしないから」
「それは私も同じだよ。何を言われても、私は絶対に柚紀のこと信じてるから」
 キャハハッ!――そんな声を上げて、愛奈がぱちぱちと拍手を始める。
「いーないーなぁ! 二人とも本当に親友同士なんだね!」
 私は愛奈の言葉を無視して、柚紀も無視した。それでも愛奈は一人で勝手に喋り続ける。
「親友のために、自分が罰を受けるために二人とも頑張ってるんだよね? これぞまさに“走れメロス”だよね。私感動して涙出ちゃいそう! キャハハハハハハッ」
 キャハキャハと声を上げて笑う愛奈の声が、唐突に止まり、私は思わず足下から顔を上げてしまった。
「あ、ごめん。時々そっちにも土が飛ぶと思うから、バカみたいに口を開けて笑ってるとそんな風になるよ」
 そして、土まみれになった愛奈と柚紀の言葉で、何が起きたのかを理解した。
「ぺっ、ぺっ……………………………………いいね、すっごくいいよ」
 愛奈は口に入った土を吐き出すや、にっこりと微笑む。
「初めて見た時から雰囲気が似てるって思ったけど、中身まであのヒトブタに似てるなんて嬉しい誤算だよ」
「誰の事を言ってるのか知らないけど、あんたは私が今まで見てきた女の子の中でダントツでナンバーワンのクズよ。“虎の威を借る狐”って難しい諺知ってる?」
「安い挑発をするのは勝手だけど、手が止まってるよ、キーちゃん」
 愛奈はエアガンを手に取るなり、立て続けに私目がけて三度、引き金を引いた。
「さっちゃん!」
「似てるけど、やっぱり本物とは全然違うね。がっかり。あのヒトブタもキーちゃんくらい頭が悪かったら色々楽だったんだけどなぁ」
 パンッ、パンッ。喋りながら、愛奈は何度も、何度も引き金を引いて、その度に私の体には鋭い痛みが走った。
「止めなさいよ! 私にムカついたなら私を撃てばいいじゃない!」
「だから頭が悪いって言ってるんだよ。キーちゃんがそうやって無駄口を叩いてる限り私は絶対に止めないよ?」
 ハッとして、柚紀は唇をかみしめ、そして“穴掘り”を再開する。
「そうそう、それでいいんだよ。さっちゃんのことが大事なら、黙って穴を掘ってればいいんだよ」
 愛奈はエアガンを濡れ縁に置き、さらに読んでいた本を逆さにして上に乗っていた土を落とし、栞を挟んで同じく縁側に置いて立ち上がる。自分の服にかかった土も払い落として、そのまま私の方へと歩いてくる。
「えっ、何……きゃあ!」
「さっちゃん!」
 突然愛奈に突き飛ばされ、私は自分が掘った穴の中へと転がり落ちた。愛奈はさらに二度、三度と踏みつけるように蹴りつけてきて、私は訳もわからず亀のように身を縮めた。
「止めてよ! さっちゃんは何もしてないでしょ!?」
 スコップを放り出し、柚紀が愛奈を羽交い締めにするようにして止める。
「……ああもう、ほんっと頭悪いなぁ。ヒトブタみたいに無駄に狡猾なのもイライラするけど、キーちゃんみたいに利口を気取ってるバカを相手にするのも同じくらいイライラするよ」
 それは、まるで手品でも見ているようだった。背後から愛奈を羽交い締めにしていた筈の柚紀の体がくるりと宙を舞い、私の上へと落ちてきたのだから。
「ぎゃあッ」
「っ……さ、さっちゃん! ごめん、大丈夫!?」
「さっきのは、私に土をかけた分のペナルティ。私に何かしたらその分は全部“相手”に行くってそろそろ理解しなよ」
「っっっ……あい、なぁぁ!」
 柚紀が本気で怒った声を、私は初めて聞いた。愛奈に放り投げられた事よりも、よりにもよって私をクッション代わりにするような場所に投げられた事の方が頭に来ているみたいだった。
「柚紀、ダメだよ!」
 止める暇なんか無かった。柚紀は穴の縁に立っている愛奈につかみかかって――そしてその勢いのまま、苦もなく投げ飛ばされ、赤土の上に背中から落ちた。
「かはぁっ」
「言っとくけど、私けっこう強いから。多分二人がかりでも勝てないよ。……そしてぇ」
 愛奈が、私の方を向く。
「ひぁっ……あっ……」
「私に手を出したらこうなるって、どうして解ってくれないかなぁ?」
 愛奈がサンダルで私の頭を踏みつけ、ぐりぐりと穴の底にねじ込むように体重をかけてくる。
「さっちゃんも大変だね。あんな頭の悪い親友が居てさ。そろそろ嫌になってきたんじゃない?」
 私は抵抗も、反論もしなかった。すれば、それは私ではなく柚紀に返る。愛奈なら絶対にそうする確信があった。
「アハッ。そうだよ? さっちゃんかしこーい! どっかのバカ女とは大違いだね」
 そんな私の思惑を、愛奈は苦もなく悟ったようだった。
(……そこまで、私が考えてる事が解るのに)
 私は、愛奈は他人の気持ちが全く解らない子なんじゃないかと思っていた。人間なら誰もが当たり前に持っているその機能が欠落した子なのではないかと。
 だけど、それは間違いだった。少なくとも、私や柚紀にとって何をされるのが一番苦痛で耐え難いかを、愛奈は私たち以上に理解している。そうでなかったら、こんな“実験”は絶対に思いつけない。
「ほら、二人とも早く立って。早くしないと日が暮れちゃうよ」
 ぱんぱんと手を叩く愛奈に急かされて、私は辛くも立ち上がる。
「キーちゃん、立つのが遅い」
 そう言って、愛奈が私を蹴り落とす。柚紀が苦渋の顔をしながら慌てて立ち上がるのが、私にも見えた。
「そうそう。素直に言うとおりにしてくれれば私ものんびり本を読んでられるんだよ。じゃあ、はい。穴掘りタイムスタートだよ」
 ぱんっ、と愛奈の手の音に弾かれるようにして、私たちはスコップを手に握った。



「はーーい、それじゃあけっかはっぴょうーーーーー!」
 愛奈の声と同時に、私はその場に尻餅をついた。見ると、柚紀もスコップを杖代わりに項垂れていた。私も柚紀も、朝からほとんど休憩もなしに飲まず食わずで穴を掘らされ続けて限界だった。そんな私たちを見張っていた愛奈は時折席を外してはジュースやらお菓子やらを持ってきて、本を片手に食べ漁っていた。
「ほらほら、二人とも審査の邪魔だから穴から出て」
 元気一杯の愛奈に追い立てられる形で私たちは自分が掘った穴から出て、その場に腰を下ろした。私も柚紀も全身泥まみれ汗まみれで、スコップを使っていた手は豆だらけで少し動かしただけでも激痛が走った。いつかの柚紀の気持ちが、私は今なら解る気がした。
「うーーーん、びみょーな差だけど、これはさっちゃんの勝ちかなぁ」
 良かった、私の穴の方が大きかったんだ――或いは、愛奈の中での憎しみが私の方が大きかったという事かもしれない。とにかくこれで柚紀に“罰ゲーム”をさせなくて済むと、私は安堵の息を吐いた。
「というわけで、罰ゲームはキーちゃんの方ね。ぱちぱちぱち〜」
「えっ……ま、待って……愛奈! 私の穴のほうが大きかったんじゃないの?」
 愛奈の言葉が信じられなくて、私は疲れ切った体をなんとか動かして立ち上がる。
「違うよ? さっちゃんの方が小さかったから、さっちゃんの勝ちなんだよ」
「そん、な……」
「アハッ! さっちゃんはやっぱり頭いいね! わかりにくいように手を抜いて、僅差で小さい穴を掘るなんてなかなか出来る事じゃないよ?」
 違う、そんなつもりで掘ったんじゃない。私も柚紀も、心底相手よりも大きい穴を掘ろうと必死で頑張ったから、こんなにも疲れて、手を豆だらけにしているのに。
 多分、愛奈もそのことは解ってる。解っているのに、そんな言い方をしてるんだ。
「そーだ、勝ったさっちゃんには何かご褒美あげなきゃいけないよね。ごめんね、何にも考えてなかったから、手元にはこれしかないや」
 そう言って愛奈が差し出してきたのは、さっきまで愛奈が口をつけていた炭酸ジュースだった。グラスに七割ほど残っているそれを見るなり、私は反射的に喉を鳴らしてしまった。
 朝から休憩無し、お昼ご飯も無しで穴を掘らされ続け、お腹はもとより喉も極限までカラカラに渇いていた。今ならバケツ一杯の水さえ飲み干せそうなくらいだ。そんな私の前に、愛奈はジュースを差し出してくる。
「……っ……」
 体の乾きは限界だった。文字通り喉から手が出そうな程に飲みたかった。でも、私は最後のプライドを振り絞って、ジュースの受け取りを拒否した。
「……私に逆らったらどうなるか忘れちゃったのかなぁ?」
 この子は本当に悪魔だと、その時私は痛感した。私のささやかな矜持も、心の動きさえ見透かしているような絶妙なタイミングだった。
 私は仕方なく――そう、仕方なくグラスを受け取った。そしてそのまま口をつけて―― 一息に飲み干した。
「あれ? さっちゃん一人で全部飲んじゃったの?」
 そんな私に、愛奈は驚くような声を上げた。
「喉乾いてるのはさっちゃんだけじゃないんだよ? キーちゃんに半分あげようとか考えなかったの?」
 愛奈の言葉に、全身の血の気が引いた。
「そんな、だって……」
「私はキーちゃんには飲ませちゃダメなんて一言も言ってないよ? 友達だったら、普通こういうとき相手に譲ったりするものじゃないの?」
 ザクザクと、愛奈の言葉が容赦なく私の心を切り刻んでくる。確かに愛奈の言うとおり、喉が極限まで渇いているのは柚紀も同じ筈だった。ジュースの受け取りを拒否できないのなら、せめて半分柚紀に飲ませてあげたいと――愛奈が許可するかどうかはともかくとしても――言うべきだった。
 なのに、私はそのことを考慮すらせずに、一息に飲み干してしまった。
「ヒドいなぁ。やっぱりさっちゃんって自分優先な所あるよね」
「……っ……」
 愛奈の言葉に、私は反論出来なかった。柚紀に累が及ぶからではない、純粋に何も言葉を返せなかった。
「まぁ、さっちゃんにあげたものだし。どうするかはさっちゃんの気分次第だよね。ごめんね、口を挟んじゃって」
 ごめんねとは言いつつも、愛奈は全くすまなそうではない態度で、キャハっと声を上げて笑って柚紀の方を向いた。
「そういうワケだから、キーちゃんは明日罰ゲームね。内容は明日になってのお楽しみ♪…………そうそう、負けたキーちゃんは穴を元通りに埋めてね。明日の朝見てきちんと埋まってなかったら、さっちゃんに酷いことするから」
「ま、待って……愛奈! こんな大きな穴二つともなんて一人じゃ無理だよ! 私も手伝――」
 私が喋り終わるより前に、愛奈は柚紀の側まで歩み寄り、いきなりその背を蹴り飛ばした。スコップを支えに辛うじて立っていた柚紀は小さく悲鳴を漏らして地面に転がる。
「柚紀……!」
「さっちゃんは勝ったんだから部屋に戻っていいって言ってるんだよ。あと三つ数えてもそこに居たら、もう一回キーちゃん蹴るよ?」
「あ、愛奈……柚紀……」
「いーち」
 愛奈の声に、びくんと。体が震えた。
「にーい」
 私は慌てて踵を返して、その場を後にした。逃げる私の背を、愛奈の哄笑がいつまでも追いかけてきた。


 女官寮に戻った私は、手当たり次第に“先輩”の女官達に声をかけた。なんとか柚紀を助けてほしいと懇願した。けれど、誰一人私の頼みを聞くどころか、話すらも聞いてもらえなかった。
 私は藁にも縋る思いで寮長の部屋を訪ねて柚紀の件を訴えた。寮長は四十歳前後で、私の知る限りこの屋敷の中でもっとも年長者だったけど、愛奈の名前を出した途端強引に扉を閉めて、二度と開けてはくれなかった。
 皆が愛奈を恐れているのだと、すぐに解った。今にして思えば、この屋敷の奇妙な秘密主義も、こういう時の事を見越しているのではないかとすら思えた。
 私も柚紀も、女官の見習いであるにもかかわらず、直属の上司というものが存在しないのだ。洗濯も、掃除も、そのほかの雑事も、ほとんど毎回別の“先輩”に仕事を教わり、誰か特定の人物と親しくなるという事は無かった。それでいて同期で入った他の女官達と仕事場が重なる事も無く、必然的に私も柚紀もお互い以外に“親しい相手”というものが出来なかった。
 最初は、それは分家同士のいざこざを考慮してそのようになっているのではないかと思っていた。でも、それは間違いだった。ひょっとしたらゼロではないのかもしれないけど、本来の目的は“こういうとき”に誰も頼れないようにする為ではないのか。
 そう、実際私は愛奈の所業について一体誰に訴えればいいのか見当もつかなかった。屋敷は外部から完全に隔離されていて、携帯電話は没収され、固定電話も必ず交換手を通さなければ外とは話せない仕組みだ。
 即ち、ここは愛奈の城なのだ。文字通り彼女は暴君であり、私と柚紀は愚かにも王に楯突いた奴隷なのだ――。


 私は部屋で柚紀の帰りを待った。布団も敷かず、毛布もかぶらず、部屋の隅で三角座りをして震えながら、柚紀の帰りを待ち続けた。
 やがて時計の針が10を過ぎ11を過ぎ、12を過ぎて1を過ぎた頃になって漸く、私は廊下の方から何かを引きずるような音が近づいてくる事に気がついた。
「柚紀!?」 
 私は待ちきれずに部屋から飛び出して、壁にもたれかかりながら足を引きずりながら歩いている柚紀を抱きしめた。そのまま肩を貸して部屋へと連れ帰り、布団を敷いて寝かせた。柚紀は泥まみれの女官服のままだったけれど、布団に横になるなりまるで気絶するように目を閉じた。
「柚紀……柚紀、柚紀……ごめんね、ごめんね……」
 ボロボロになった柚紀の手を前にしても、私には手当をしてあげることすら出来ない。こんなことなら通りもしない嘆願なんかしないで、せめて薬箱を借りておけばよかったと、私は自分の不明を恨んだ。


 翌朝、予想通り私たちは愛奈の呼び出しを受けた。私たちを呼びに来た女官も、あからさまに“同情はするけど、私は巻き込まないで”といった複雑な表情をしていた。
「柚紀は今日は寝てなよ。その体で行くのは無理だよ」
「でも、私が行かないと……あの女、さっちゃんに何をするかわからないから」
 確かに柚紀の言う通りではあった。愛奈のルールでは、私たちのどちらかが愛奈の不興を買えば、その報いは自分ではなく相手のほうに行く。柚紀が愛奈の呼び出しに応じなければ、その報いは私が受ける事になる。
「私なら平気だからさ。柚紀は昨日いっぱい頑張ったんだから、今日は私が頑張る番だよ」
「さっちゃんが私の立場だったら、大人しく寝てる?」
 柚紀の言葉に、私はハッと息をのんだ。立場が逆だったら、私は間違いなく柚紀だけ行かせたりなんかしない。愛奈が言うように、“自分優先”になんて考えない――。
「ね? だから、止めても無駄だよ」
「で、でも……柚紀……」
「あとね。昨日のことなら気にしなくてもいいよ」
 きのうのこと――“アレ”しかないと、私は肩を縮こまらせる。
「あいつが、あの女が私たちの仲を割ろうとしてるのなんて見え見えじゃない。私はそんな手には絶対引っかからないから。どんなときでもさっちゃんを信じてるから、だから安心して」
「柚紀……!」
「ほら、早く行こう? 大丈夫、私は前に一回やって慣れてるからさ。手の皮だって厚くなってるから、むしろさっちゃんより怪我は軽いんだよ?」
 そんな筈はない。私は昨日、柚紀の手を見てどれだけ酷い状態になってたかを知っている。その証拠に、“ほら”と言いつつ、柚紀は自分の手をほとんど見せなかった。
 だったらせめて――そう食い下がって、私は寮長の部屋に行って薬箱を借りて、柚紀の手の手当をした。柚紀はその後で私の手にも絆創膏を巻いてくれた。
 
「おっそーい! 待ちくたびれちゃったよ」
 愛奈が私たちを呼び出したのは、意外にも彼女の部屋だった。柚紀は知らないけど、この部屋は一度愛奈の手によって原型を残さないほどに破壊されている。でも、その記憶の方が間違っていたのではないかと思うほどに、壁も絨毯も見事に修繕されていた。愛奈に叩き割られた32インチの液晶テレビも新品に代わり、箪笥も勉強机も椅子もすべて新品に変わっていた。
「……私は何をすればいいの?」
「そう喧嘩腰にならないでよ。昨日は私もちょっとやりすぎたかなーって反省してた所なんだから。とりあえずこっち来て座りなよ。外は寒かったでしょ? 一緒に炬燵に入ろ?」
 そう、以前と変わった点があるとすれば、部屋の真ん中のテーブルが炬燵になっている事だった。私たちは警戒しながら恐る恐る足を入れ、それが掘り炬燵であると知った。
「二人とも昨日いっぱい穴掘って疲れてるんじゃない? だから今日はね、のんびり三人でカードゲームでもしようかと思って」
 愛奈はそう言って、テーブルの上に新品のトランプを出した。
「あとほら、みかんと、お菓子と、ジュースも用意したよ。遠慮しないでどんどん食べてね」
 どういう事だろうか――私は困惑して柚紀を見た。柚紀も同じ思いらしく、あからさまに戸惑った顔で私の方を見る。
(もしかして……)
 昨日やりすぎたと反省したというのは本当ではないのか。反省して、そして愛奈なりに考えて、私たちと仲直りしようとしているのではないか――。
(今更、そんな事……)
 昨日の仕打ちを簡単に忘れられるわけがない。今更謝られて、仲良くしようと言われても無理な話だ。そして、それは私よりも柚紀の方がより強くそう思っているだろう。
「ここであんたの遊びに付き合うのが罰ゲームなの?」
「もぉー、そんなんじゃなくって、これは本当にただの遊び。ジュースだってほら、毒なんか入ってないよ?」
 そう言って、愛奈はコップにジュースを注ぎ、自ら飲んでみせる。
「ね?」
 そして他の二つのコップにも同じように注いで、それぞれ私たちの前に置いた。
「それともなぁに? 二人ともまた穴を掘るほうがいい? 私はそれでも構わないんだけど」
 くっ、と唇を噛んで、柚紀が最初にコップに口を付け、遅れて私も口を付ける。今日もまた穴掘りなんて絶対に無理だ。柚紀は元より、私の体もマメと筋肉痛でボロボロだった。
「アハッ、脅すような事言ってごめんね。でも、ホントに私はただ一緒に遊びたいだけなの。前みたいに楽しくやろうよ」
 それは無理――私がそう言えば、柚紀が何かされるのだろうか。そう思うと、迂闊に口を開く事も出来ない。
「ねーねー、何やろっか。キーちゃんは何がいい? 三人だから大富豪とか七並べはちょっと微妙かな? 単純にババ抜きでいいかな?」
 私と柚紀は顔を見合わせ、そして同時に愛奈の方を向いて頷きだけで同意した。
「じゃあカード配るねー。…………そうそう、ビリになった人はねぇ、罰としてぇ……」
 ああ、ほら、やっぱりそういう事だったんだ――恐らく柚紀も同じ事を考えただろう。負けたら罰ゲーム――それがいつもの愛奈の手口だからだ。
「ジュース一杯一気のみの刑ね」
 えっ――と、私たちは同時に口から漏らした。
「ジュースを一杯飲むだけ?」
「そだよ? それくらいなら簡単だよね?」
 確かに、いかにも罰ゲームらしい罰ゲーム――そして愛奈らしくない罰だった。
「ジュースもちゃんと飲みにくい炭酸じゃなくって、リンゴジュースにしたんだよ? ああ、一気飲みって言ってもコップ一杯だけだから安心してね」
 その気配りが逆に怖い――と、私は思った。何か、私たちの気がつかない所に罠が用意されてるのではないかと。
 そんな私たちの思惑をすべて知った上で愛奈は「アハッ」と笑い、そしてカードを配り始めた………………。

 予想に反して、愛奈は何も仕掛けてこなかった。ただ普通にババ抜きをして、負けたらジュースをコップ一杯一気のみ。もしかしたらコップやジュースに何か仕込まれてるのかもしれないという私たちの思惑は完全に外れて、拍子抜けするくらいに何事もなく時間が過ぎていった。
 ひょっとしたら、愛奈は本気で私たちとの和解を望んでるんじゃないか――そんなことを考え始めた頃だった。
「……ごめん、ちょっと席外す」
 柚紀が手札を伏せ、早口に言って立ち上がった。トイレなのだと、私にもすぐに解った。ババ抜きのペナルティで柚紀は私や愛奈の何倍もジュースを飲まされていたから、トイレが近くなるのも無理は無かった。
「あっ、そーだ」
 柚紀が席を立つなり、愛奈が今思い出したと言わんばかりに声を上げる。
「すっかり言い忘れてたね。昨日の罰ゲームだけど、キーちゃんは今日はトイレ使用禁止ね」
 私は耳を疑った。それは障子戸に手をかけていた柚紀も多分同じだった。
「どうしたの? 二人とも。私何か変な事言った?」
 唖然としている私たちを尻目に、愛奈はにこにこと笑みを絶やさない。付き合っていられないと思ったのか、無言で柚紀が部屋を出て行く。
「あっ、私も……」
 何故だか放っておけなくて、私も席を立って柚紀の後を追った。

 私は小走りに柚紀に追いついて、一緒に愛奈の部屋から一番近いトイレを目指した。この屋敷には私が知ってるだけでも三カ所のトイレがあって、愛奈の部屋から一番近い所なら歩いてすぐの所にあった。
 そのトイレの入り口の引き戸の前に、一人の女官が立っているのが見えた瞬間、私は嫌な予感がした。
「ちょっと」
 無視して中に入ろうとした柚紀を、女官の手が止める。
「貴方はダメです」
「どうしてですか」
 柚紀は驚きながらも食い下がる。
「そういう命令です」
 私たちよりも五つほど年上に見える女官はまるで機械のような発音で言った。
「そんな馬鹿なこと……」
 柚紀は絶句して強引に通ろうとするが、女官も自分の体を引き戸にかぶせるようにして頑として動かない。
「どうしたの? 何か問題?」
 背後から聞こえた声に、私も柚紀も体を震わせて振り返った。
「あ、愛奈……なんとかしてよ、この人が通してくれないの」
「大丈夫。さっちゃんは通れるよ。通さないのはキーちゃんだけ」
 私も柚紀も言葉を失った。じゃあ、やはりこれは愛奈の――。
「二人ともなんで驚いてるの? さっきちゃんと言ったじゃない。キーちゃんは今日はトイレ使用禁止だって。私は昨日の夜のうちにちゃんと決めて、朝そういう風にみんなに指示を出しておいたんだよ?」
 得意気――自慢するような愛奈の言葉を最後まで聞かずに、柚紀が踵を返した。愛奈の脇を抜けて、そのまま早足に遠ざかっていく。
 他のトイレに行くつもりだと、私にはすぐに解った。
「無駄だよー?」
 私の背から聞こえてきた言葉を無視して、私も柚紀もほとんど小走りに――まるで愛奈から逃げるようにその場を後にした。



 愛奈の言葉は本当だった。屋敷のトイレにはすべて見張りが立てられ、最後の望みだった女官寮のレストルームすら、二人がかりでその入り口は守られていた。
「ここまでするの? あの女は……」
 愛奈の念の入れように柚紀は唖然としていた。私も同感だった。柚紀一人をトイレに行かせないために、十数人もの女官を屋敷中のトイレの入り口に張り付かせているのだ。もはや正気の沙汰ではなかった。
(……みんな、愛奈が怖いんだ)
 こんな馬鹿な命令に盲目的に従事する先輩女官達を見ていると、そうとしか思えなかった。恐らく、“こういうこと”は過去にも何度もあり、その都度愛奈の命令に逆らった者が粛正を受けたのだろう。
 そう、今の柚紀のように。
「あーっ、ここにいたんだー?」
 鼻歌交じりにやってきた愛奈が、柚紀を指さしてわざとらしく声を上げる。
「愛奈……どういうつもり? 一体私にどうしろっていうの?」
 柚紀の声はうわずっていた。姿勢も不自然で、顔中に浮いた脂汗が限界がそう遠くないことを如実に物語っている。
「うわー、キーちゃんすごい汗だよ? 息も荒いし、どこか悪いの?」
「ふざけないでよ! こんな、こんな陰険なやり方……恥ずかしいと思わないの?」
「威勢が良いなぁ。その様子ならまだまだ大丈夫なのかな? ねえ、ちょっと」
 愛奈はトイレの戸の前に立っている女官の一人を指さし、呼びつける。
「キーちゃん押さえつけてて」
 はい、と。女官は感情を感じさせない声で返事をするや、柚紀の背後へと周り、両脇の下から腕を差し込み首の後ろへと回す形で羽交い締めにする。
「えっ、えっ……?」
 柚紀も一応抵抗はしようとしたのだろう――ただ、その動きは普段に比べて著しくぎこちなかった。その為あっさりと拘束され、身動きを封じられた。
「いやっ……いやっ……何、するの……?」
 そんな柚紀の前に、愛奈が鼻歌交じりに踊るような足取りで近づいていく。私は初めて、柚紀の怯えた声を聞いた。
 もちろん、柚紀が嫌がったからといって愛奈が躊躇する筈もない。柚紀の目の前まで歩み寄ると、その手で優しく柚紀のお腹の辺りを触り始める。
「んー……服の上からじゃよくわからないけど、膀胱ってこの辺だったっけ?」
 愛奈の手が何かを探るように、愛撫するような手つきで柚紀の下腹をなで回す。
「っっ……」
 そして、柚紀がわずかに反応を返した場所でぴたりと、愛奈が手を止め、笑う。
「あっ、この辺かな? ふふふっ……ねえ、思い切り押してあげようか?」
「っっっ……やめ、て……そんな、事……されたら…………」
「されたら?」
「ぁっ、ぁっ、いやっ、いやぁぁぁぁ!」
 ぐっ、と愛奈が柚紀のお腹を押し込み――そしてすぐに手を戻す。
「ッッッ…………はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
 柚紀は歯を食いしばって耐え、そして愛奈が手を引くや息も絶え絶えに肩を上下させる。あの様子では、“次”は耐えられないかもしれない――その時、愛奈がくるりと踵を返して私の方を向いた。
「さっちゃん。キーちゃんを助けたい?」
「えっ……」
「友達なんだもん。助けたいに決まってるよね?」
 どうしてか、すぐには即答できなかった。柚紀は間違いなく友達なのに。間違いなく助けを必要としているのに。
 私は、すぐには頷けなかった。もし頷いたら、今度は私が――。
「どうして黙ってるの? ひょっとして――」
「っ……どうすれば、柚紀を助けてくれるの?」
 愛奈にそれ以上の言葉を言わせたくなくて、私は意を決して口を開いた。愛奈が、満足そうに小さく頷くのが解った。
「そうだねぇ。八方ふさがりっていうのは私の趣味じゃないんだよね。キーちゃんにもちゃんと助かる道を作ってあげないとね。……………………さっちゃん、ここで裸になれる?」
「はだか、に……?」
「そ。ここで全裸になって踊りの一つも見せてくれるなら、キーちゃんをトイレに行かせてあげてもいいよ」
「ぁ……っ……」
 私は全身から嫌な汗が出るのを堪えきれなかった。もしかして、愛奈は――。
「もちろん知ってるよ? さっちゃん体に大きな痣があるんだって? だからお風呂の時間みんなとずらして入る許可もらってるんだよね? ちゃんと知ってるから、服を脱げって言ってるんだよ?」
 やはり、愛奈は知っているのだ。私が、自分の裸を人に見られるのがどれだけ苦痛なのかを見越した上で、こんな要求を出しているのだ。
 本当は体に痣なんてない。でも、こんな所で裸になんて絶対になれない。あれを愛奈に見られたら――見られた時の事を想像するだけで、私は涙が溢れそうになってしまう。愛奈のことだ、きっと喜々として私を嘲り、そしてそれをネタに私をいたぶろうとするだろう。
「ゆ、柚紀……」
 無駄だと分かり切っているのに、私は柚紀の方を見てしまう。柚紀も、縋るような目で私を見ていた。口にこそ出さないまでも、その目が如実に語っていた。『助けて、さっちゃん』――と。
「…………っ……」
 私は女官服の帯に手をかけ、解こうとした。けれど、その手は途中で止まってしまった。柚紀の事は助けたい――けれど、どうしても手を動かすことができない。
「う……っ……」
 足から力が抜けて、私はその場に膝を突いてしまった。アハッ――そんな笑い声が、頭上から振ってきた。
「そうそう、それでいいんだよ。さっちゃんは友達より自分を優先させる賢い子だもんね。……残念だねぇ、キーちゃん。さっちゃんはキーちゃんの事見捨てるってさ」
「ち、違う! 私は――」
「違わないよ。今自分でハッキリと選んだじゃない」
 愛奈が、再び柚紀のお腹に手を当てる。
「やっ、嫌ッ……止めて、…………さ、さっちゃん……助けて…………」
 とうとう柚紀がハッキリと、声に出して私に助けを求めてきた。でも、柚紀の声を受けても、私は立ち上がる事も――服を脱ぐ事も出来なかった。
「いやっ、いやっ……イヤッ……イヤァァァァァァァァァアアアアッ!!!」
 柚紀の絶叫から逃げるように、私は必死になって耳を塞いだ。その絶叫と入れ替わるように始まった愛奈の哄笑はいつまでも、いつまでも続いて、塞いでいる手を通して尚耳にこびりついて離れなかった。


 愛奈は私たちに床の掃除を命じて、二人の女官を伴って女官寮を去っていった。衆目の前で失禁させられたことがよほどショックだったのか、柚紀は床に崩れ落ちたまま一時間以上ぴくりとも動かなかった。呼吸も、瞬きも忘れてしまった人形のように、呆然と座り続けていた。
 私も、そんな柚紀にかけてあげられる言葉が無くて、その場に座り続けた。私たちの時間が動き出したのは、愛奈が去って約二時間後、見かねたように寮長が現れた時だった。
 寮長は遠回しな同情の言葉と、特別にお風呂を使ってもいいとだけ言って、すぐに寮長室に戻っていった。多分、それが彼女に出来るギリギリの采配だったのだろう。
「柚紀……お風呂、使ってもいいってさ」
 私は勇気を振り絞って、柚紀に話しかけ、肩を揺さぶった。でも柚紀からの反応は無くて、私は何度も、何度もしつこいくらいに、最後には乱暴に柚紀の体を揺さぶった。
「柚紀、柚紀……しっかりして!」
「……………………うん…………大丈夫だよ、さっちゃん」
 やっとの事で柚紀はそれだけを言い、よろよろと立ち上がると二階の自室へと歩き出す。
「そっちじゃないよ。寮長がお風呂使ってもいいって言ってくれたから、柚紀はお風呂入ってなよ。着替えは後で私が持っていくからさ」
 うん、と柚紀はまるで魂のない人形のように返事を返して、頼りない足取りで脱衣所へと向かう。
 私は寮長にバケツと雑巾を借りて柚紀が汚してしまった床を丁寧に掃除して、その後柚紀の着替えを手に脱衣所へと行き、代わりに籠に入っていた柚紀の服を洗濯した。
 柚紀は、たっぷり一時間近く経ってから浴室から出てきた。まるで示し合わせたように丁度すべての作業が終わった私は柚紀を伴って自室へと戻った。
 柚紀は相変わらずの放心状態で、部屋に戻っても勉強机の前に座ったまま、何をするでもなく呆然と惚けていた。私もそんな柚紀にかける言葉が無くて、視界から柚紀を外すように部屋の壁に背をつけ、座り込んでいた。
 そのまま日が暮れて、明かりをつけていない部屋の中は真っ暗になった。私が照明のスイッチを押そうと腰を上げたとき、不意にぽつりと柚紀が漏らした。
「どうして……」
 柚紀が呟いたその一言に、私は身動きが出来なくなった。
 どうして――その言葉の続きは一体何なのか。どうして私がこんな目に遭わなければならないのか。どうして愛奈はこんな事をするのか――推測はいくらでも出来る。
 でも、私にはこう聞こえた。『どうして、さっちゃんはあのとき私を助けてくれなかったの?』――と。


 その後も、愛奈の“実験”は続いた。
「屋敷の中で一番綺麗な石を拾ってきて。負けた方は罰ゲームね」
 ある日はそう言われ、私たちは一日中屋敷の中を彷徨っては、愛奈の気に入りそうな小石を拾って彼女の元へと持っていった。
「一番大きな鯉を捕まえて。素手でね」
 そう言われた時などは、女官服のまま庭池へと入り、寒さに奥歯を鳴らしながら一日中鯉と追いかけっこをした。
 私たちはもう、愛奈には一切逆らわなかった。彼女に目をつけられてしまった私たちに残された道は、出来るだけ従順に彼女の命令をこなし、一日でも早く“飽きてもらう”ことだけだった。
 そうしようと私に提案をしてきたのは他ならぬ柚紀だった。プライドの高い柚紀にとってあの罰ゲームはよほど堪えたらしい。愛奈への怒りも、憎悪もすべて打ち消して従順にしてしまう程に。
 もちろん私も柚紀の提案に異を唱えたりはしなかった。愛奈に逆らってはいけない――その点について、まったく同意見だったからだ。
 でも、そうやって従順になった私たちにも、愛奈は一切容赦をしなかった。早いときには二日に一度、間があいても五日に一度は呼び出されて、私たちは無理難題のような実験に付き合わされた。その殆どは達成不可能か、愛奈のさじ加減で勝敗がどうとでもなってしまうようなものだった。
 そして愛奈の気分で勝敗が決まる時は、かならず柚紀が負けにされた。

「どうして……どうしてなの? さっちゃんと同じようにちゃんと大人しくしてるのに……どうして私だけ……」
 明日“罰ゲーム”ね――そう言われて自室に戻ると、柚紀はいつも震えながらそう漏らしていた。
 愛奈の“罰ゲーム”はいつも違う内容だったけれど、肉体的な痛みを与えるようなものは一度も無かった。大体は何らかの単純作業を長時間強いられるか、そうでない場合は生理的嫌悪を伴う作業――例を上げるなら、生きた爬虫類をミキサーにかけたものをジュースに混ぜて飲むなど――を強いられていた。
 そんな事を何度も繰り返されて、正気を保てという方が無理な話なのかもしれない。柚紀は明らかに憔悴し、そして自室に居る時は常に机にかじりついているようになった。そうやって勉強をする事だけが、今の状況から救われる唯一の道であると信じているかのように。


「んー……これは甲乙つけがたいなぁ。んーーーんんんんーーーーよし、今日はキーちゃんの勝ち!」
 意外すぎる愛奈の言葉に、私も柚紀も耳を疑った。いつもの“実験”――今日のテーマは「私が気に入りそうな葉っぱを取ってきて」という、いつにもまして酷い内容で、私も柚紀も徒労と知りながら屋敷の庭に散り、愛奈が気に入りそうな葉っぱを手にしては彼女の元へと持っていった。徒労とは解っていても、真面目に“実験”に取り組まねば、さらなる罰があると知っているからだ。
 だから、私たちは出来るだけ殊勝に、従順に、愛奈の不興を買わないように、盲目的に葉っぱを拾い、愛奈の元へと運んだ。案の定愛奈は気に入らない、を繰り返し、その作業は日暮れまで続いた。
 そして漸くOKが出て――そしていつもの結果になるものだとばかり、私も柚紀も半ば決めつけていた。
「そういうわけだから、さっちゃんは明日罰ゲームね」
 そう言って、愛奈は縁側から立ち上がると屋敷の奥へと消えていった。明日は私が罰ゲーム――愛奈のその言葉に、私はどこか安堵のため息をついていた。
「柚紀、良かったね!」
 口にこそ出さないものの、柚紀も安堵しているようだった。
(愛奈の罰ゲームは怖いけど……)
 その怖い罰ゲームを今まで柚紀は殆ど自分一人で受けつづけてきたのだ。私がそれを代わりに受けることで少しでも柚紀が休む事ができるのなら本望だった。


 翌朝、私たちは愛奈の指図で中庭の一角へと呼び出された。今日は木登りでもさせられるのかなと――怯えていなかったと言ったら嘘になるけど――どんな無理難題でもどんと来いと、私は大きく構えていた。
 何せ、今日罰ゲームをやるのは柚紀ではなく私だ。いつもいつも見ていることしか出来ず、歯がゆい思いをした。柚紀が無理難題を押しつけられると、私の方まできゅうと心臓を絞られるように苦しかった。今日はあの思いを味わわなくていいと思うだけで気が楽だった。
「ごめんね、二人とも」
 でも、恐々と構えている私たちに、愛奈が口にしたのは意外すぎる言葉だった。
「今日はいい罰ゲームを思いつかなかったから、二人はいつも通り中庭の掃除してて」
 ぺろりと舌を出して、愛奈はくるりと踵を返すと、手を引っ込めた袖をぶらぶらさせながら屋敷へと戻っていった。
「……どうして、さっちゃんの時だけ……」
 柚紀のその呟きは、私の耳にもハッキリと聞こえた。


 その日から、柚紀だけが連敗を重ねるという事はなくなった。その代わりになんだかんだと理由がつけられて罰ゲームが中止になる事も多くなった。
 中止になるのは、必ず私が担当の時だった。
「ねえどうして? どうしてさっちゃんだけ贔屓されるの?」
 ある夜、たまりかねたように柚紀が言った。
「わ、私にも解らないよ……愛奈に聞いてみないと……」
「嘘。本当はさっちゃん、愛奈とグルなんでしょ? 二人でグルになって私を虐めようって言われてるんじゃないの?」
「違うよ! 柚紀自分が何を言ってるかちゃんと解ってるの? 柚紀にそういう風に思わせるために愛奈はわざとやってるんだよ!」
 そんな簡単なことも解らなくなるくらいに、柚紀は精神的に参っているらしかった。そうなるに十分な仕打ちを、柚紀は愛奈にされていた。
「わからない……もう何もわからないよ……どうすればいいの? ねえ、私はどうすればいいの? 教えてよさっちゃん!」
 あの柚紀が。聡明で理知的で、私がどんな質問をしても必ず明確な答えを返してくれていた柚紀が。泣きながら、私につかみかかりながら膝から崩れ落ちた。
 柚紀はもう限界だった。

 翌々日、私たちは愛奈に呼び出されていつものように彼女の無理難題に振り回されて夕暮れを迎えた。。
 負けたのは柚紀だった。
「…………じゃあ、明日の罰ゲームはキーちゃんね」
 “実験”が終わって、愛奈がそう言った瞬間、柚紀は狂ったように悲鳴を上げた。そして絶叫にも似たそれが途絶えるや、そのまま一歩歩み出て赤土の上に膝を突き両手をつき、愛奈に深々と頭を下げた。
「お、おねがい、します…………もう、ゆるして、ください……」
 それは紛れもない土下座だった。愛奈に追いつめられた柚紀に出来る――現状を打破するために一番の方法だと、柚紀が導き出した答えがそれだった。
「……いきなり何の真似?」
 愛奈は微笑を浮かべたまま、何の感情も込めていないような無機質な声で呟いた。
「い、いままでのことはあやまります……つぐないもします……だから、だからもう……いじめないでください」
 柚紀は泣きながら、額を赤土にこすりつけながら何度も何度も繰り返した。許して欲しい、もう虐めないで欲しい――それは端で聞いていた私のほうが涙を零しそうになる程に胸に迫る嘆願だった。
 ジッとしていられなくて、私も柚紀の横に膝を突いて、手を地面について頭を下げた。
「私からも、お願いします……許してください」
 今ここで愛奈の許しを得なければ、柚紀はきっと壊れてしまう。取り返しのつかない事になってしまう。
 私は、私たちは必死になって愛奈に頭を下げて嘆願を続けた。
「二人とも、顔を上げて」
 多分、十分以上はそうやって頭を下げ続けたと思う。頭上から振ってきた愛奈の優しい声に、私たちは恐る恐る顔を上げた。
「罰ゲームの内容、ずっと考えてたんだけど……やっと決まったよ。キーちゃんは明日から勉強禁止ね」
 私には、愛奈の言葉が理解できなかった。今までの事は謝るからどうか許して欲しい――私たちの嘆願と、愛奈の返事はあまりにもかけ離れすぎていて、そのどうしようもないほどの齟齬に私は混乱した。
「ちょっと、誰か来て」
 パンパンと愛奈が手を叩いて人を呼び、忽ち4,5人の女官が集まってくる。
「この二人の部屋から、勉強机と、あと参考書とかいろいろ。勉強に必要なもの運び出して全部捨てちゃって」
 かしこまりました――女官達は感情のない声で言って、速やかに散っていく。「ああぁ」――そんな呻き声が、私の隣から聞こえた。
「止めて! 止めてください! それだけは、それだけは……」
「アハッ、やっぱり“お勉強”がキーちゃんの心の拠り所だったのかなー? ………………前にさっちゃんに教えてもらった通りだね」
 びくんと、柚紀がまるで電気でも流されたように上体を跳ねさせて、私の方を見る。
「……さっちゃん、どういう事……?」
「ま、待って柚紀! 言ってない、私はそんな事言ってないよ!」
 少なくとも、“柚紀の弱みは”といった言い方は絶対にしていない。でも、愛奈の言い方だと、まるで私がそういう意味で告げ口したようにとらえられても――。
「あっ、これ言っちゃまずかったんだっけ? 少し前にキーちゃんの弱みを教えるから私には罰ゲームしないでーってさっちゃんに頼まれたんだけど……ごめん、バラしちゃった」
「違う! そんな事言ってない! 柚紀、信じちゃダメ!」
「そうそう。友達の言う事は信じてあげたほうがいいよ? 土壇場では自分を優先させるような子でも、一応は親友なんでしょ?」
 言うだけ言って、愛奈はぴょんと濡れ縁に上がるとそのまま屋敷の奥へと消えた。
 その後、私たちはどちらともなく寮の自室へと帰った。部屋からは、愛奈の命令通り勉強机と筆記用具、参考書の類がすべて持ち出されていた。その光景を目の当たりにするなり、柚紀ががくりと膝から崩れ落ちた。
「どうして……」
 呟いて、そして柚紀は私を見る。――ううん、“見る”なんて生やさしい目じゃなかった。柚紀の目は、完全に私を睨み付けていた。
「どうしてこんな事になったの? ねえ、教えてよさっちゃん!」
「それは……愛奈が……」
「違う!」
 柚紀は立ち上がるなり、私につかみかかってくる。そのまま私は畳の上に押し倒されて、柚紀に胸ぐらを捕まれたまま何度も何度も揺さぶられた。
「私一人だったら、絶対こんな事にはならなかった! 私一人でここに来てたら、絶対こんな事にはならなかった! さっちゃんが居たから、さっちゃんがあの女を呼び込んだからこんな事になったんだよ!?」
「それ、は……」
 柚紀の言葉は、ある意味では的を射ていた。私が愛奈と関わりを持たなかったら、確かに今のような状況にはならなかったかもしれない。
「でも、でも! 私は愛奈とちゃんと巧くやれてたんだよ!? 柚紀だって、ちょっと玩具の銃で撃たれたくらいで怒らないで愛奈と仲良くしてたら――」
「違う違う! さっちゃんが愛奈と巧くやれてたのは、私を悪者にしてたからなんでしょ?! 私、ちゃんと覚えてるんだよ? あの日、私がトイレに行ってる間に、本当は何か私の悪口を愛奈に言ったんでしょ? だから愛奈はいきなり罰ゲームとか言い出したんじゃないの?」
「悪口なんて言ってないよ! あれは……あれは愛奈が可哀想だったから……だから、柚紀はダメって言ってたけど、愛奈に……愛奈が好きだって言ってた男の子に手紙出してみたらって……」
 でも、その試みは失敗した――そう言った途端、柚紀が再び鬼の首をとったようにわめきだした。
「ほら、やっぱりさっちゃんのせいじゃない! それが失敗したから、愛奈はさっちゃんを恨んで、そのとばっちりで私まで恨まれたんじゃないの? だから止めた方がいいって言ったのに! さっちゃんはバカなんだから私の言う事だけちゃんと守ってればそれでよかったんだよ!」
 柚紀の言葉が、鋭く私の胸に突き刺さる。確かに私はバカだけど、面と向かってこうやって罵倒されるのは、正直平気じゃいられない。
「確かに……私は柚紀みたいに頭はよくないけど……だけど、こんな風になったのは全部私のせいっていうのは酷すぎるんじゃないの? 柚紀の方が酷い目に遭わされるのは、単純に柚紀の方が愛奈を怒らせたからじゃないの?」
「その愛奈を連れてきたのがさっちゃんなんでしょ? だからさっちゃんが全部悪いって言ってるのになんで解らないの? そんなにバカなの? ちゃんと考えて喋ってよ!」
「違う……違うよ、柚紀。悪いのは愛奈なんだよ。そこをはき違えたら、私たち本当に友達じゃなくなっちゃうよ?」
「友達……?」
 柚紀の声が、一瞬愛奈のそれと重なって聞こえた。そう、まだ愛奈と知り合ったばかりの頃、何度も聞いた独特のイントネーション。
 まるで、生まれて初めて耳にした単語をオウム返しに呟くような――。


 その日以降、私たちは殆ど会話をしなくなった。私が話しかければ柚紀は答えてくれるけど、柚紀の方から私に話しかけてくることは全く無くなった。
 捨てられた勉強道具について、柚紀は再度支給してもらえるように申請を出していたけど、それは通らなかった。却下されたわけではなく、『支給には時間がかかる』と言われ、それきりなしの礫だった。
「このままじゃ、先輩と同じ大学に行けなくなっちゃう……」
 勉強が出来ないという状況は多分、愛奈が思っている以上に柚紀にダメージを与えていた。柚紀は自由時間の間ずっと部屋の中をぐるぐると歩き回ったり、貧乏揺すりをしながら爪を噛んだり、酷いときは壁に頭を打ち付けたりしていた。見るに見かねて私が止めると、今度は半狂乱になって暴れて、私の体は柚紀のひっかき傷だらけになった。
 私は一か八か、女官寮の他の人たちに勉強道具を分けてもらえないかと頼んで回ったけれど、それもやっぱり愛奈の手が回っているのか、誰一人、鉛筆一本消しゴム一個すらすら貸してくれなかった。
 消沈して部屋に戻ると、ドアの前に柚紀が仁王立ちで待ちかまえていた。
「一人でどこ行ってたの?」
「何処って……ちょっと、ね」
 柚紀のために勉強道具を借りに回っていた、と説明するのは恩着せがましい気がして、私は答えをはぐらかした。
 それがいけなかった。
「言えないの? また愛奈の所に行って何か告げ口してきたんじゃないの?」
「ち、違うよ! ていうか……また、って……何度も言うけど、私はそんな事してないから」
「違わないよ。私には解ってるんだから」
 そう言って柚紀は強引に会話を終了させ、部屋の隅に座ってしばらく大人しくしていたかと思ったら、突然奇声を上げて暴れ始めた。
「柚紀、柚紀! ダメだって!」
 放っておくと柚紀は手や額が傷つくのもおかまいなしに壁を殴り続ける。私はいつものように羽交い締めにして止めさせ、尚も暴れる柚紀にいくつもひっかき傷を作られた。
 まるで狂人と生活しているようなものだった。そんな生活がずっと続いていたら、きっと私の方が参ってしまっていただろう。
 でも、どういうわけか愛奈からの呼び出しはあの夜以来ぴたりと途絶え、そのまま二週間が経過した。そのおかげか、柚紀の状態は徐々にではあったけれど介抱に向かっていて、このまま何事も無ければきっと元の柚紀に戻ってくれると。
 私が、安堵しかけた頃だった。

 愛奈は、人の心の動きというものを知り尽くしているのではないだろうか。私が――そして恐らく柚紀も――ひょっとしたらもう愛奈は私たちに飽きてくれたのではないか。このまま当たり前の毎日を過ごせるのではないか――そう思い始めた頃を見計らったかのように、
「こんばんはぁ〜♪」
 唐突に、私たちの部屋を訪ねてきた。
「ひぁぁっ、ぁぁぁっ、あああ!」
 愛奈の姿を見るなり、柚紀は怯えた子供のような声を上げ、部屋の隅で頭を抱えて蹲ってしまう。
「あれ? キーちゃんどうしたの?」
 自分を見て震え上がる柚紀を見て、愛奈は不思議そうに首をかしげる。惚けているにしてはあまりにも演技が巧く、理由が本当にわからないとしたら、愛奈はもはや人間ではないと私は思った。
「つれないなぁ、今日は折角キーちゃんにプレゼント持ってきてあげたのに」
「プレゼント……?」
「そうだよ。さっちゃん、もしかして忘れちゃったの? 私はちゃんと覚えてたのに」
 そう言って、愛奈は背中に隠していたものを「じゃーん!」と声つきで柚紀の前へと出した。それは包装紙を袋型にリボンで縛ったもので、見た目には確かに“プレゼント”の形をしていた。
「十六歳の誕生日おめでとう、キーちゃん」
 愛奈の言葉で、私は思い出した。今日は、確かに柚紀の誕生日だった。
「あっ……」
 柚紀自身もそのことを忘れていたのか、そんな惚けたような声を出していた。
「だから、プレゼント。ほら、受け取って?」
 愛奈が差し出した包みを、柚紀はなかなか受け取ろうとしなかった。それはさながら、何度も何度も虐待を受けた動物が人間を信じられなくなっている状態に似ていた。
 それでも最終的に柚紀が受け取ったのは、愛奈の不興を買うと恐ろしい目に遭うと骨身にしみていたからだろう。
「開けてみて」
 恐る恐る受け取った柚紀に、愛奈は微笑みながら促した。愛奈の事だから、動物の死体でも入れているのかもしれない。それを見て驚き、或いは怯える柚紀の姿を見て高笑いをするに違いない。
 或いは柚紀も私と似たような想像をしていたのかもしれない。まるで爆弾でも解体するような慎重な手つきで包みを開けていく――その手が、唐突に止まった。
「こ、これ……」
「うん。キーちゃんが欲しいんじゃないかと思って」
 私は包装紙の中身を見て、自分の目を疑った。包装紙に包まれていたのは大学ノートが二冊と、参考書が数冊、そしてシャープペンや消しゴムなどの筆記用具一式だった。
「こ、これ……本当に、もらっても……」
「もちろんだよ。キーちゃんへの誕生日プレゼントだもん」
 愛奈の言葉に、柚紀は声にならない声を上げた。
「ありがとう……ありがとう、ございます……ありがとう、ありがとう……」
 そして、柚紀はプレゼント一式を抱きしめながら涙を流し、何度も何度も愛奈に頭を下げる。そんな光景を見て、私は怖気が走るのを止められなかった。
 柚紀の感謝は見せかけではない。あの涙も心の底から感謝をしている証だ。きっと柚紀の中では、愛奈が天使か神様のように見えている事だろう。
 それが、怖いと思う。柚紀が、私の知っている柚紀ではないものに作り替えられていく――。
「喜んでもらえて私も嬉しいよ。…………ああそうそう、最近忙しくってなかなか相手してあげられなかったけど、明日からまたしばらく暇になるからさ。実験再開するよ?」
 上げて、落とす。それはもう見事なものだった。感涙に噎び泣いていた柚紀の顔が瞬く間に凍り付き、涙の理由が切り替わる。
「いや……いやっ、実験は嫌です……それは、もう……お願いですから……」
 袴を掴んで、必死にイヤイヤをする柚紀に、愛奈は優しく――聖母のような微笑みすら浮かべながら語りかける。
「明日の実験は久しぶりに穴掘りにしよっか。キーちゃんもさっちゃんも手のマメはもうとっくに治ってるでしょ? ……ああ、もしキーちゃんが負けたら、そのプレゼントは全部没収ね」
「ま、待って……!」
 すがりつく柚紀の手を振り切って、愛奈が部屋から出て行く。そしてドアの脇に棒立ちになっていた私の横を通る際、愛奈はわざと柚紀に聞こえるような大きな声で「友達の誕生日も忘れちゃうなんて最低だね」と漏らした。
 否定は出来なかった。でも、それを気にかける余裕すら無くすほどに私たちを追い込んでいるのは愛奈じゃないか――そう叫びたかった。
「………………さっちゃん、解ってるよね」
 柚紀は愛奈にもらった勉強道具一式を、まるで宝物のように抱きしめながら、言った。
「明日は絶対負けてよ。解った?」
 私には、頷く事しか出来なかった。


 翌朝、私たちは前の時と同様、愛奈の部屋の前の庭に呼び出された。
「二回目だし、ちょっとルールを変えるよ。とりあえずさっちゃんはそこで待ってて」
 愛奈はそう言って、柚紀にスコップを持たせてどこかへ行ってしまった。私は仕方なくその場で待ち続け、やがて十分ほど経ってから愛奈だけが戻ってきた。
「お待たせ。じゃあ改めて、さっちゃんにもルール説明するね。基本的には前と同じ、大きな穴を掘った方が負けね」
「…………柚紀を何処につれていったの?」
「キーちゃんは今頃裏庭で穴を掘ってるよ。ほら、最初にキーちゃんに掘らせた場所」
 あんな寒い所に――と、私は柚紀の体を心配した。十二月も間近に迫り、気温は明らかにあの頃より下がってきている。
 風邪を引かないといいのだけれど……。
「言ったでしょ? ルールを変えるって。今回はね、別々の場所で掘ってもらうことにしたの。…………その方がお互いに気兼ねせずに“本音”で動けるでしょ?」
「…………。」
「罰ゲームをしたくなかったら、今日は別に掘らなくてもいいよ。エアガンで撃ったりもしないし、なんなら部屋に上がって一緒にテレビでも見る?」
 バカにするな!――そう叫びたかった。叫んだところで無駄だし、下手をすると柚紀に累が及ぶ可能性があるから、私は歯を食いしばってスコップを地面に突き立てた。
「あれ、掘るの? キーちゃんより大きな穴を掘っちゃったらさっちゃんが罰ゲームなんだよ?」
 そう、頑張れば頑張るほど自分が災難に近づく――本当に腐ったルールだと言わざるを得ない。こんな発想が出来る愛奈は、やはり狂っている。
「ふふふ、いつまで続くかなぁ?」
 煽るような言葉を残して、愛奈はさっさと部屋に戻ってしまった。ぴしりと障子戸まで締めて、多分炬燵で暖を取っているのだろう。
(……いっそ…………)
 このままスコップを手に部屋に乗り込んで、愛奈の首に突き立ててやろうか――そんな誘惑が、徐々に。しかし確実に私の中で首を擡げ始めていた。
 愛奈は怖い。恐ろしい。しかし見た目は私や柚紀と変わらない、十六歳の女の子だ。何か護身術の類をやっていたらしいという事は解っているけど、武器を手に不意打ちをすれば殺すことは出来るのではないか。
「……っ……」
 雑念を、首を振って払いながら、私はスコップを地面に突き立てる。愛奈は、私の大事な親友を傷つける“敵”だ。それだけに、愛奈を殺すという想像はなんとも甘美で抗いがたいものがある。
 けれど、現実問題としてやはりそれは不可能だった。いくら憎い相手とはいっても、多分私には愛奈は殺せない。殺せる状況までもっていけたとしても、きっと最後の一手を躊躇ってしまう。自分でそれが解る。
 だから、掘る。こうなったら愛奈も、そして柚紀も驚くほどに大きな穴を掘ってやる。私は、柚紀の為にここまで頑張れるという事を二人の目に見える形で見せつけてやる。


「はーーい、しゅーりょー! そこまでー!」
 てっきり日暮れまでやらされるものだとばかり思っていた。だから、夕暮れ時に愛奈がオタマでナベを叩きながら現れたときは少しだけ驚いた。
「あんまり暗くなると判定が難しくなるからね」
 そして、愛奈はまたしても私の心を見透かしたようにそんな事を言った。私はもう驚かなかった。
「わぁー……さっちゃんずいぶん頑張ったねぇ。前の時の1,5倍くらいおっきいんじゃない? こんなに掘っちゃうと埋めるのも大変だよー?」
 別に構わないと思った。今度穴を埋めるのは柚紀ではなく私なのだから。
「さ、それじゃあ一緒にキーちゃんの方見に行ってみようか。キーちゃんはどれくらい頑張ってるかな?」
 私はスコップを地面に突き刺して愛奈の後に続いた。
(大丈夫……だとは思うけど)
 両手の感覚は、すでに無かった。自分では間違いなく柚紀よりも大きな穴を掘ったという自信はある。――でも、ひょっとしたら。もしかしたら――そんな不安に苛まれながら、私は愛奈の後に続いた。
「居た居た。おーい、キーちゃん、もう終わりだよー」
 殆ど日の当たらない裏庭は凍えるような寒さだった。こんな場所で穴を掘らされ続けた柚紀に、私は心の底から同情した。
(大丈夫だよ、柚紀。今日はもう、帰って休めるから)
 勉強道具を取り上げられる事もない。いくら愛奈でも私への罰ゲームと称して柚紀の道具を取り上げたりはしないだろう。
 そして、柚紀の側まで近寄って、私の最後の懸念は晴れた。柚紀の掘った穴は前回彼女が掘ったものよりも大きかったけれど、間違いなく私の穴よりは一回り小さかった。
 私はホッと安堵の息をついて、そして愛奈の目を盗んで柚紀にそっと微笑みかけた。大丈夫、安心していいよ――そういうつもりで送った合図だったのだけれど、柚紀はちらりと私の方を見ただけで微笑み返してはくれなかった。
「はい、二人とも穴の大きさはよく見たね? それじゃあ次、さっちゃんの穴に行くよ」
 柚紀を連れて、三人で愛奈の部屋の前まで戻る。私が掘った穴の大きさを見れば、きっと柚紀も安堵してくれる筈――そう思っていた。
「はい、こっちがさっちゃんの掘った穴。…………これはどう見ても、さっちゃんの穴の方が大きいかな?」
 よし、と。私は小さく拳を握った。掌に出来たマメの痛さなんかなんでもなかった。
 とにかくこれでもう柚紀は――
「というわけで、今回もまたキーちゃんの負けね」
「え……?」
 愛奈の言葉に耳を疑うのは何度目だろうか。私は思わず訪ね返して、愛奈の方を見た。
「どうしたの? さっちゃん」
「どうして柚紀の負けなの? 私の穴の方が大きいじゃない!」
「そうだよ? だからさっちゃんの勝ちだって言ってるんだよ?」
 わけがわからなかった。最初に大きな穴を掘った方が負けだと言ったのは愛奈なのに。
「酷い……酷いよ、さっちゃん……今日は負けてって…………あんなに、あんなに頼んだのに!」
「まって、柚紀! 違うの! だって、愛奈が――」
「私はちゃんと最初に言ったよ? 今日はルールを少し変えるって。今日は“大きい穴を掘った方が勝ち”って。キーちゃんにもちゃんと説明したよね?」
 こくりと、柚紀が頷く。そんな馬鹿なと、私は目眩すら感じた。
「そんな、違う! 私は、私は聞いてない! 私は大きな穴を掘ったほうが負けだって、そう聞かされたから――」
「何言ってるの?」
 敵意すら籠もった声で、柚紀が続ける。
「愛奈は最初にちゃんと今日はルールを変えるって言ってたよ。それなのに前と同じルールと勘違いするなんてありえないよ。そんな言い訳で私が納得すると思ってるの?」
「ほーんと、ヒドいよねぇ。穴が大きい方が勝ちって言った途端これだもん。見てよキーちゃん、この大きな穴。前の時の1,5倍くらいあるよ? やっぱりさっちゃんはあのとき手を抜いて掘ってたんだよ」
「……っっっ……あい、な……」
 ハメられた――漸くにして、私はそのことを理解した。私と柚紀を分断したのはこのためだったのだ。
「待って、柚紀……本当に、本当に私は反対のルールを聞かされてたの! 今度こそ柚紀には負けさせたくないから、だから一生懸命頑張ったんだよ? 信じてくれるよね?」
「……さっちゃん本当はこんなに大きな穴を掘れるのに、前の時はどうして掘らなかったの? 愛奈の言うとおり、自分は罰を食らわないように手加減してたとしか思えないよ」
「違う! 手加減なんてしてない! 私は、今度こそはって、死ぬ気で……!」
「はーい、そこまでー! キリがないからもう結果発表しちゃうね。勝ったのはさっちゃん。負けたのはキーちゃん。……罰は、勉強道具の没収ね」
 ぼっしゅう……柚紀がオウム返しに呟いて、その場に膝を突いてしまう。
「あと、負けた方は恒例の後かたづけね。……キーちゃん大変だねぇ、こんなに大きな穴埋めなきゃいけないんだ。さっちゃんももう少し手加減してくれれば良かったのにね」
「っっっ……あんたが――……」
 カッと、頭に血が上って、私は衝動的にスコップを握りしめて振りかぶっていた。
「何それ。そのスコップをどうするつもり?」
 愛奈は、逃げも隠れもしなかった。余裕の笑みすら浮かべて、スコップを振りかぶった私を見据えていた。
 ああ、やっぱりだ。やっぱり、私は振り下ろせない人間なんだ。そしてそれを愛奈にも見抜かれているのだろう。だから愛奈は逃げないのだ。
「でも、さっちゃんの行為は本当にどうかと思うよ。自分が罰ゲームになりたくないからってここまでやるかな、普通。…………キーちゃんは可哀想だね、ずっとさっちゃんのせいで酷い目に遭ってきたんじゃない?」
 地面に座り込んだまま放心している柚紀の側へと歩み寄り、優しく肩を撫でながら――愛奈はまるで敬虔な信徒を唆す悪魔のように囁きかける。
「同情するよ、キーちゃん。キーちゃんは本当は賢くて頭の良い子なんだもんね。さっちゃんとは元から釣り合ってなかったんだよ。キーちゃんもそう思うでしょ?」
 こくりと、微かに柚紀の顎が上下した。……見間違いだと思いたかった。
「さっちゃんと違って私は優しいよ。優しいから、特別に後かたづけは無しにしてあげる。今日は帰ってゆっくりお風呂でも入って休むといいよ」
「ぁ……」
 放心状態だった柚紀が、そこで初めてハッキリとした反応を返した。両目一杯に涙を浮かべて、縋るように愛奈を見上げていた。
 柚紀が何を考えているのか、私にも解るほどに。
「悪いけど、それはダメ。罰ゲームはちゃんとやるよ。………………だけどね、キーちゃん。私は優しいから、猶予をあげる」
「ゆう、よ……?」
「そ。罰ゲームを執行するのは三日後の夜。今から出す宿題をそれまでにキーちゃんが終わらせられたら、罰ゲームは無しにしてあげる」
「しゅく、だい……」
「“キーちゃんにとって一番の友達は誰?”…………これが宿題だよ。簡単すぎるかな?」
 ついと、愛奈は柚紀の耳元から体を引き、一歩、二歩と後ずさる。
「これが正真正銘最後のチャンスだよ。よーく考えてね? きちんと答えられたら机も道具も返してあげるし、実験も金輪際無しだよ。でもね、三日後、もし答えられなかったり、答えを間違えたりしたら怖いことになるから気をつけてね」
「えっ、やっ……ま、待って……」
「あ、片づけはさっちゃんお願いね。じゃあね、キーちゃん。三日後を楽しみにしてるよ」
 すがりつく柚紀を振り切って、愛奈は屋敷の奥へと引っ込んでしまう。
私は自分でも気がつかないうちにおろしていたスコップを再度握りしめて、自分が掘った穴を埋め始める。
「…………柚紀、愛奈がああ言ってるんだし、先に戻ってなよ」
 柚紀は返事をしなかった。ただ無言で立ち上がって、フラフラと女官寮の方に戻っていった。
 

 穴を埋めながら、私は自分なりに考えてみた。愛奈の言う“宿題”とやらの答えをだ。
(……愛奈は多分、自分だって言わせたいんだ)
 愛奈の言動を見ていれば、柚紀と私の仲を裂こうとしているのは明白だ。柚紀自身の口からそうはっきりと言わせる事で最後の絆まで壊してしまおうと、そういう魂胆なのだろう。
(…………それなら、それでいいかもしれない)
 それしか柚紀が救われる道がないのなら。私との絆を斬られる事でしか柚紀がかつての自分を取り戻せないのなら。それでもいいと思い始めていた。
(…………大丈夫だよ、柚紀。柚紀が私を捨てても、私は柚紀を恨んだりはしないから)
 私は、柚紀が愛奈に何をされてきたのかをずっと見てきた。あんな目に遭わされて正常な思考を保っていられる方がおかしい。もし柚紀と私の立場が逆だったら、ひょっとしたらとっくの昔に正気を失っているかもしれない。
 だから、柚紀がどんな答えを出しても許せる。それは愛奈に強要されて無理矢理言わされたのと同じ事なのだから。

 二つの穴を埋め終わった頃にはもう午前一時を回っていた。朝食以降殆ど飲まず食わずの重労働で今にも倒れそうになりながらも、その苦痛を忘れまいと噛みしめる。柚紀は、こんな思いを何度もさせられたのだと。
 女官寮に戻った私は、鍵がかけられていない正面玄関に寮長の心遣いを感じた。決して表立ってはかばってはくれないけれど、それでも十分だと、心の中で感謝して自室に戻った。
 柚紀は寝ていた。布団も敷かずに、まるで何かに怯えるように部屋の隅で、毛布をマントのようにくるんだまま手足を縮めて眠っていた。私は柚紀が風邪をひかないよう、その上から掛け布団だけをかけてあげた。いい加減眠気と疲れで動くのも限界だったから、とにかく泥まみれ汗まみれの女官服を脱いで、下着だけになって毛布と掛け布団にくるまって私も眠った。
 朝までは、あっという間だった。


 翌日。柚紀の心は完全に“宿題”に捕らわれているようだった。
「間違えたら怖いことになる……間違えたら怖いことになる……」
 まるで呪文のように、仕事中も部屋に居るときも、柚紀は繰り返し呟いていた。どうなるかを具体的に言わず、漠然と“怖いこと”という表現をしたことが――無論愛奈はわかっていてそういう表現を用いたのだろうけど――柚紀を一層追いつめていた。きっと頭の中では想像力の働く限りの怖い未来を想像し、その度に心から震え上がる――そんなことを繰り返しているのだろう。
 私は、柚紀が答えを出すまでの間、あえて関わるのを止めた。話しかけず関わらず、極力空気のような扱いに徹した。それが柚紀のためになると思ったからだ。
(……私が下手なことを言って、柚紀を迷わせちゃいけない)
 柚紀を気遣うような事を言って、万が一“答え”を間違ったら――それが私は怖かった。私から積極的に柚紀に嫌われるようなことが出来れば良かったのだけれど、さすがにそれだけは演技でも出来なかった。柚紀は紛れもない一番の友達で、こんな事にさえならなかったら柚紀もきっとそう思ってくれてたに違いないから。
 
 そう、柚紀は三日後に私じゃなくて愛奈を選んで、解放される――私はそう思っていた。
 だから。

「さっちゃん、さっちゃん」
 夜中に柚紀の声で起こされて、私はしばらくそれが現実だと気がつけなかった。柚紀の方から私に話しかけてくるなんて何日ぶりかわからないくらい久しぶりの事だった。
「柚紀……? どうしたの?」
「どうしよう……宿題の答えがわからないよぉ……どうしよう……」
 ぽろぽろと涙をこぼす柚紀は、とても私と同じ16歳には見えなかった。
「…………柚紀が思った通りに答えればいいんだよ。それが“答え”だよ」
 ハッキリと“愛奈を選べ”と言うのはさすがに抵抗があった。でも、柚紀は顔をくしゃくしゃにして首を振る。
「それでもし“違う”って言われたらどうするの!? 自分は関係ないからっていい加減な事言わないでよ!」
 突然、柚紀が鬼のような顔で叫んで――そしてハッと表情をゆるめて、小声で「ごめんね」と呟いた。
「……ねえ、さっちゃん。一緒に逃げよ?」
「え……逃げ、る……?」
 うん、と柚紀は涙を拭いながら頷く。
「もうね、限界なの……このままここに居たら、私おかしくなっちゃう。……ううん、もうおかしくなってるのかもしれない…………そうじゃなくても、きっといつか愛奈に殺される。この“宿題”も、本当の答えなんて無いに決まってる。私が何を言っても、愛奈は“違う”って言うに決まってる。今までだってそうだったじゃない、あの子は私を虐めるのが楽しいだけなんだよ。だからもう、逃げるしか……」
 柚紀の気持ちは、痛い程に解る。この様子ではとてもあと二年ここで過ごすのは無理だ。それでいて外界と隔絶された今の状況では助けを呼ぶ事も出来ない。私たちがそういった行動を取ろうとしただけで、あの女はすかさず手を回してくるだろう。
「でも、柚紀……お父さんの事はいいの?」
 柚紀がハッと息を飲むのが解った。そもそも柚紀がここに来たのは、父親が本家の世話になっているからだ。
「…………仕方、ないよ。だって、ここにはもういられないよ……さっちゃんなら解ってくれるでしょ?」
「……うん」
 今の柚紀の状態を見て、“もっと頑張れ”なんて言えるわけがない。
「さっちゃん……今までごめんね。私、いっぱい酷いこと言ったよね。ごめんね、本当にごめんね……」
「大丈夫だよ、柚紀。ちゃんと解ってるから。柚紀は何も悪くない。柚紀をそういう風に追いつめた愛奈が悪いんだよ」
 私はそっと柚紀の背に手を回して、優しく抱きしめた。柚紀の体は驚くくらいに華奢だった。
「でも、柚紀……ここから逃げるってどうするの? 門の所にはいつも誰かが居るんだよ?」
 この屋敷は周囲をぐるりと二メートル以上はある高い塀で囲まれている。出入りは原則として正面玄関のみ。もちろん道具を使えば塀に上る事はできるかもしれないけど、今度は降りるのが一苦労だ。
「……勝手口から、出られないかな?」
「勝手口? そんなものがあるの?」
「この前、裏庭で穴を掘らされた時、私見たの。小さな木の扉が丁度茂みで隠れるみたいに死角になってて……鍵がかかってて開ける事は出来なかったけど、多分あそこから外に出られると思う」
「でも、その鍵はどうするの?」
「マスターキーなら……開けられるんじゃないかな。ほら、備品室にあるあの鍵束なら」
「……そういえば」
 私は、改めて柚紀の記憶力に感心した。備品室はその名の通り様々な備品が仕舞われている部屋で、柚紀の言う通り確かにそこにはマスターキーらしい鍵束があったのを私は思い出した。
「でも、柚紀……確かその鍵って……」
「うん。ケースに入ってる……鍵付きのね」
 そう、私の記憶の通りで在れば、マスターキーは壁についているガラスのケースの中――丁度船などにある、緊急用の手斧が仕舞われているようなケースに似ている――に仕舞われている筈だった。おそらくは、あのマスターキー自体が予備のもので、本来のものは愛奈か、もしくは女官長の誰かが持っていて普段は使わないのだろう。そしてどうしてもあれが必要な非常事態となれば、どこかにあるそのケース用の鍵で開けて取り出すか、さらにせっぱ詰まっていればガラスごと割って取り出すのだろう。
(でも、私たちには“ガラスを割って取り出す”っていうのは無理だ)
 この屋敷にも防犯装置くらいはあるだろう。そうでなくてはああも堂々とガラスのケースになど入れている筈がない。そもそも、備品室には常に最低でも一人は女官が詰めている。その一人に私か柚紀がなれれば問題のいくつかは解決されるけど、あいにくと入って一年目の私たちにはそんな大事な仕事は分担されない。
「大丈夫だよ、さっちゃん。私、見たの。前に備品室で先輩の手伝いをした時に、備品室の金庫の扉の裏側に鍵がぶら下がってるのを」
「え……金庫の扉の裏に?」
「うん。そんなところに?って思うでしょ? あの金庫はその為の金庫なんだよ。だっていつも見てたけど、中にはどうでも良さそうな書類しか入ってないし、しかも鍵すらかかってないんだよ」
「でも、その鍵がケースの鍵って決まったわけじゃないよね?」
「あ、うん……そうだけど……」
 柚紀の推理に水を差すのは気が引けた。けれども、穴は指摘しなければならない。
「それに、あそこはいつも誰か居るじゃない。マスターキーを盗むのは難しいと思う」
「そっか……そういえばそうだよね」
 しゅんと、柚紀が肩を縮こまらせる。本来なら私なんかより百倍頭の良い柚紀がこんな簡単な穴に気がつかないわけがない。きっとこの屋敷から逃げ出したいという思いが高じる余り、無意識のうちに目を背けてしまったのだろう。
「…………でも、二人なら……なんとかなる、かな」
「え……?」
「柚紀が何とか理由をつけて見張りの人連れ出してさ。その隙に私が忍び込んで鍵を取る……単純な作戦だけど、多分いけると思う」
 誘い出す口実は「愛奈が呼んでいる」とかで十分だろう。この屋敷の女官ならば誰しもその一言で愛奈の元へと飛んでいく筈だ。
「でも、もし金庫の鍵がケースの鍵じゃなかったら……」
「その時はイチから作戦の練り直しだね。違う鍵かもしれないけど、柚紀の推理通りケースの鍵っていう可能性も低くはないんだし、試してみる価値はあると思うよ」
 もちろん、問題は他にいくらでもある。仮に巧く鍵を盗み出して屋敷からの脱出が出来たとしても、その後が大変だ。うまく実家まで逃げ帰れたとして、私はともかく柚紀の方は父親の件があるだけに尚更だ。
(いざとなったら……)
 愛奈が屋敷の中でやっていることを取引材料に、本家に掛け合う事になるかもしれない。もしかしたら私たち二人とも、家族ごと本家から絶縁処分にされるかもしれない。
 土岐坂の本家が私たちにどう対処するかは正直読めない。でも、このままここに居続けたら柚紀の体が持たないという事だけははっきりしている。
 やるしかない。
「柚紀、やるなら早いほうがいいよ。明日の夜やろう」
「さっちゃん……ありがとう、さっちゃん!」
 私たちは互いの体を抱き合い、そして子供の頃のように、久しぶりに同じ布団で眠った。


 

 

 
 私たちの計画はごく単純なものだった。夜を待って、備品室の見張り(というよりは、正しくは雑務に従事している女官)の数が減るのを待ってから、柚紀が見張りを誘い出し、その隙に私がマスターキーを取る。
 その後はすぐに例の裏庭――私は勝手口の場所を知らないから、柚紀が穴を掘らされた場所で落ち合って、一緒に逃げる。
 屋敷から抜け出してしまえば、あとはどうとでもなる自信はあった。問題は抜け出すまでだ。
 私たちは昼間の仕事を極力自然にやり過ごした。もし担当が中庭の掃除だったら、こっそりと勝手口の場所を確認しに行く事も出来たのだけれど、運のないことに今日の私たちの担当は洗濯だった。怪我をしている手が辛いけど、そんな生活も今日で終わりだと思うだけで洗濯板に衣類をこすりつける手も力がこもるというものだった。
「さっちゃん、私……ちょっと行ってくるね」
「うん。“お花摘み”だね?」
 出来れば私も一緒に行きたい所だったけど、二人同時に担当場所を離れる事は禁止されている。私は一人で黙々と洗濯を続ける。
「おっ、頑張ってるねー。関心関心」
 ゾクリと。この声を聞くだけで、背筋が冷えてしまう。私は顔を上げて声のした方を見た。愛奈が微笑みながらゆっくりと歩いてくるのが見えた。
「あれ、キーちゃんは? トイレ?」
「……はい」
「様子はどう? “答え”解ったって言ってた?」
「いえ……」
「期限は明日までだよ? 大丈夫なのかなぁ?」
「…………解りません」
 私は愛奈と目を合わさないようにしつつ、洗濯を続ける。
「なぁんか今日はいつもと態度が違くない?」
「ひっ」
 下を向いて洗濯板に衣類をこすりつけている私を覗き込むように愛奈が屈んできて、私は思わず悲鳴を上げて仰け反ってしまった。
「あはは、さっちゃん驚きすぎだって。………………何か悪いことでも企んでるんじゃないの?」
「別に……そんな……」
「そう? 本当に企んでない? ホントのホントに?」
 企んでなんかいない――そう答える事自体マズい気がして、私は愛奈の視線から顔を背けながら作業を続ける。
「……………………なぁんか悪い予感がするから、今夜は屋敷の見回りの数を三倍に増やそっかなぁ」
「……っ……」
 愛奈の独り言に、私は危うく洗濯の手を止めてしまう所だった。
「アハハ! なーんてね、冗談だよ。キーちゃんが戻ってきたら、明日の解答楽しみにしてるって伝えてね」
 愛奈は手を引っ込めた袖をぶらぶらさせながら、鼻歌交じりに廊下の奥へと消えていった。入れ替わりに柚紀が帰ってきたけれど、もちろん愛奈の伝言は伝えなかった。
 くたばれ、土岐坂愛奈――あの女の顔を洗濯板にこすりつけているようなつもりで、私は洗濯を続けた。

 夜になり、夕飯も入浴も済ませて、私たちはさらに皆が寝静まるのを待った。消灯時間を過ぎ、屋敷の中で起きている人間の数がもっとも少なくなる時間帯を待って、そっと女官寮から抜け出した。
「…………良かった、一人だ。じゃあ柚紀、お願い」
「うん、巧くやってみる」
 備品室の窓から中に居るのは一人だというのを確認して、柚紀が一人で部屋に向かう。程なく、中にいた女官と共に出てきて、そのまま屋敷の奥へと消えていった。
 二人の姿が見えなくなったのを確認してから、私は備品室の中へと入った。
(あった、マスターキー)
 入ってすぐ左側の壁にガラスケースに入った鍵束を見つけて、念のためそのままでもケースが開かないかどうか試してみた。でも、それはやっぱり徒労に終わった。
(金庫は……)
 入って右手側には事務机。さっきの女官がつけていたのか、日報のようなものが広げられたままになっている。左手側のケースの奥にはロッカーが並んでいて、右手側も事務机の奥にはロッカーが並んでいた。
 ぱっと見、この部屋には金庫なんか無いように見える。でも、私は柚紀に聞いて知っている。
(……あった)
 金庫は、柚紀に教えられた通り、事務机の下にあった。そして柚紀の言った通り、金庫には鍵もかかっていなかった。
「えっ……」
 金庫の扉を開けて、私は思わずそう口にしてしまった。金庫の扉の裏には柚紀の言ったような鍵なんかついていなかった。金庫の中身も柚紀の話とは違っていた。
 そこに入っているのは書類なんかじゃなかった。束になった一万円札――札束が、三つ。
 がちゃりと、備品室のドアノブが回る音が聞こえたのはその時だった。
「どっ、こっ、にっ、いっ、るっ、のっ、かっ、な〜?」
 その声で、私は考え得る最悪の人物が部屋に入ってきた事を知った。
「ここかなぁ?」
 備品室には人が隠れる場所なんてロッカーの中か机の下くらいしかない。ましてや、元々そこに隠れるつもりで入っていたわけでもない私は事務机の椅子を部屋の中央の方に押しやっていた。
 だから、部屋の中に誰かが居るのなら机の下に違いないと愛奈が推理したのは解る。
 問題は――。
「アハッ、さっちゃんみーーーっけ」
「あっ、あぁ……」
「そして、金庫破りの現行犯だね」
 違う、金庫の鍵は最初から開いていた――そんな言い訳が通じる相手ではなかった。私は愛奈が呼んだ二人の女官に両腕を捕まれ、備品室から引きずり出された。



 そこは、初めて見る部屋だった。二十畳くらいの和室で、部屋の隅にある靴箱大の棚の他には家具らしい家具は一切なかった。照明装置も無くて、代わりに燭台が四つ、部屋の四隅にそれぞれ設置されていた。
 天井には等間隔にフックつきの金具が並んでいた。そこから下がった鎖の先は私の手錠に繋がっていて、私は丁度万歳から少し手を開いたような状態で拘束されていた。畳の隙間からも同じようなフックが出ていて、両足もそこから伸びた鎖に繋がれていた。その処置をしたのは先輩の女官達だったけれど、妙に手慣れた手つきに私はこうやって吊されるのが私が初めてではないという事を確信した。
 あぁ、一応足はきちんと畳についているから、吊されているというのは語弊のある言い方かもしれない。けれど、“吊し上げられる”という意味では、多分あっていると思う。
 部屋には今は私しか居ない。女官達は私を今の状態にしてからすぐに退室した。そのまま五分ほど待たされて、部屋と廊下とを隔てる障子戸に影絵のように人影が浮かび上がり、それがゆっくりと移動して――障子戸が開かれた。
「おまたせ、さっちゃん」
 いつもの白衣に緋色袴という出で立ちにさらに桃色の上着を羽織った愛奈が部屋に入ってきて、続いてその後ろにもう一人。柚紀が伏せ目がちに部屋へと入ってくる。
「やったねぇ、キーちゃん。ばっちり情報通りだったよ。……さっちゃんも馬鹿な事やったねぇ。金庫のお金なんか盗んでどうするつもりだったの?」
 成る程、それが愛奈の筋書きか。柚紀を利用して、私を罪人に仕立て上げて、拷問でもするつもりなのだろうか。
「あれ、驚かないの? さっちゃんが今日お金盗みに来るってキーちゃんが私にチクッたんだよ? あれれー?」
 私の反応が意外なのか、愛奈が首をかしげながら顔を覗き込んでくる。私は愛奈から顔を背け、その後ろに隠れるように立っている柚紀を見た。
「柚紀……一つだけ教えて。屋敷から逃げたいっていう話は嘘だったの?」
「…………何言ってるの、さっちゃん。変な言いがかりつけないで」
 柚紀の言葉で、私はすべてを悟った。全ては私を金庫まで誘導するための演技で、多分勝手口の話も嘘なのだろう。
(……そういうことだったんだ)
 “これ”こそが、柚紀の“解答”だったのだ。多分、単純に言葉で言っただけでは愛奈が納得しないとでも思ったのだろう。だから、誰の目にも明らかな形で、“誰が一番の友達か”を愛奈に示したのだ。
「私をどうする気なの」
「…………なんかあんまり面白くないなぁ。さっちゃんは信じてた友達に裏切られたんだよ? 普通もっとショック受けて口がきけなくなったりするものじゃないの?」
 愛奈の言うとおり、ショックでない筈がなかった。いくら正常な状態でないとはいえ、柚紀が保身の為に私を罠に嵌めるなんて信じたくはなかった。
 それよりも、目の前に女に対する怒りが勝っているだけの話だ。私が大好きだった柚紀をこんなにまで変えてしまったこの女が。
「ねえキーちゃん。私、さっちゃんが泣きながらごめんなさいって言う所が見たいなぁ」
 ビクッ、と。愛奈に声をかけられただけで柚紀は怯えるように身を震わせる。
「どうすればいいと思う? 私、殴ったり蹴ったりとかそういうのは好きじゃないの。……ねえ、キーちゃんは何か知らない?」
「ぁっ……っ……」
「キーちゃんは私の友達になるって決めたんだよね? だったら何をすればいいか解るよね?」
 愛奈は思わせぶりに言いながら、部屋の隅にある靴箱大の棚の引き出しから、裁縫用の大きな鋏を取り出し、しゃきんと大きく鳴らす。
「解らないんだったら、また穴を掘る? 今度はずーっと、ずーーーっと掘らせるよ。ひとりぼっちで、日が暮れてもずーーっと掘らせるよ?」
「ひぃっ」
 しゃきん。しゃきん。
 愛奈は柚紀の耳本で鋏を鳴らしながら、逆の耳に囁きかける。鋏の音に怯えながら、柚紀は恐る恐る愛奈の手から鋏を受け取り、何かを決心したようにゆっくりと私の方へと歩み寄ってくる。
「ゆず、き……?」
 私は咄嗟に逃げようとして、自分の両手が拘束されている事を思い出して恐怖した。刃物を持った人間が接近してくるというのに、身動きが出来ない事がこれほどまでに恐ろしいとは知らなかった。
「何、するの……? 柚紀、いやっ、やめて……」
 暴れても、両腕の鎖はかちゃかちゃと音を立てるだけでびくともしない。そんな私の体に――正確には私の女官服の袖に柚紀は鋏を当て、じょきんと。大きく切れ目を入れる。
「やめて、やめて」
 じょきん。じょきん。女官服の上着が、柚紀の手で斬られていく。続いて帯が斬られて、袴が落とされる。さらにインナーが斬られ、五分と経たないうちに私は下着だけの姿にされた。
「あーっ、そういえばさっちゃん裸見られるのすごい嫌がってたよねぇ。大きな痣があるんだっけ? でもおかしいなぁ、そんなの何処にもないよ?」
 愛奈が態と、私をなぶるようにぐるぐる回りながらそんな事を呟く。今思い出したなんて嘘に決まってる。最初から覚えていて柚紀を誘導したくせに――と、私は唇を噛みしめる。
「ひょっとして、その痣はブラジャーの下にあるのかな? キーちゃん、それもとっちゃって」
「やっ……!」
 抵抗することも、逃げる事も出来ない。鋏がカップの間の紐を挟み、ひやりとした金属が直接肌に触れる。
「やめて! 柚紀、止めてよ!」
 じょきん。
 無慈悲な音と共にブラジャーの紐が断ち切られる。さらに肩口の紐も斬られて、はらりとブラジャーが足下に落ちた。
「あははーーーー! ちっちゃいけど綺麗なおっぱいだねーーー。でもやっぱり痣は見えないなぁ……てことは、下かなぁ?」
「い、いやっ……止めて、愛奈、お願いだから止めて!」
 無駄だと解っていても、懇願せずにはいられなかった。裸を見られるのは嫌だ。特に愛奈には絶対に嫌だ。柚紀もそれを解ってる筈なのに。私が他人に裸を見られるのがどれだけ嫌なのかを柚紀は知ってる筈なのに。
 それなのに、どうして。
「一気に下までおろしちゃってもいいんだけど…………キーちゃん、まずは片方だけちょきんってやっちゃって」
 柚紀はもう、愛奈の言葉で動くロボットと化しているようだった。下着の腰回りの左側の部分にだけ鋏を入れ、容赦なく寸断する。
「やっ、やぁぁぁぁぁ! やめて、やめてよ! 痣なんてないから! だから止めてよ!」
 咄嗟に足を閉じて下着が落ちないようにしながら、自分でも驚くくらいみっともなく私は叫んでいた。
「アハッ、いい感じになってきたねー? じゃあキーちゃん、もう片方もちょきんとやっちゃって」
「イヤッ……嫌だよ、柚紀! お願い、止めて! それだけは止めて! 柚紀は知ってるでしょ? ねえ、私のことほんの少しでも友達だって思ってるなら止めてよ!」
 柚紀は、戸惑いすらもしなかった。愛奈の言葉の通りに鋏をいれて、迷わず鋏を閉じた。
「嫌ぁぁぁぁぁぁアアアアアアア!!!!」



 

 


「アハッ、なーるほどねぇ。それが“さっちゃんの秘密”かぁ。…………ほら、もっと足開いてよ」
 愛奈が私の前にかがみ込んで、強引に足を開かせて、覗き込んでくる。
「ぅくっ……ぅっ……くっ……」
 私は涙が溢れてくるのを堪えられなかった。愛奈に見られた。柚紀以外誰も知らなかった私の秘密を。柚紀以外の誰にも知られたくなかった秘密を。
 よりにもよって、愛奈に見られた。
「うわー、すごーい……これ剃ってるわけじゃないんでしょ? パイパンっていうんだっけ? 私初めて見たよ」
 愛奈は態と私の前にかがみ込んで、覗き込むように凝視しながら声を上げる。私に恥辱を与えているつもりなのだ。それは解っている。解っているのに、私は泣くのを止められなかった。
「でも、正直ガッカリ。あんなに嫌がってたのに、“その程度のヒミツだったの?”って感じだよ。折角見せてもらったのにあんまり驚いてあげられなくてごめんね、さっちゃん」
 愛奈の言葉に、私は傷口に塩を塗り込まれているような気分だった。私が涙に濡れた目で睨み付けると、愛奈は楽しそうに笑いながら信じられない言葉を口にした。
「ねえさっちゃん。これ治してあげよっか?」
 尋ねながら、愛奈が腰を上げる。その時の私の目はきっと丸くなってたと思う。
「前にヒーリングって説明したけど、私の力はどっちかっていうと生体コントロールに近いんだよ。今までにも脂ぎったオジサン達の薄毛とかハゲ頭を治したりしたことはあるし、多分その気になれば出来るとは思うよ」
 それはきっと、“普通の状態”なら。或いは愛奈と友達だと思っていた頃だったら。すがりついてでも頼んだかもしれない。
「“愛奈さま、お願いします。私のみっともないパイパンを治してください”って。ちゃんと言えたら治してあげるよ。ほら、さっちゃん?」
「っっっっ…………地獄に堕ちろ」
 吐き捨てて、私は眼前の愛奈の顔に唾を吐きかけてやった。愛奈は避けもせず、右の頬で私の唾をうけとめて、そして――
「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!!!!! いいよぉ! すっごくいいよ、さっちゃん! さっきまでグスグス泣いてたのに“地獄に堕ちろ”だって。決まりすぎておっかしい! アハハハハハハハ!!!」
 本当にこの女は悪魔だと思う。こんな女を、たとえ一時でも友達だと思っていたなんて。
「さて、と。キーちゃん、そろそろ仕上げに入ろうか」
 愛奈はひとしきりお腹を抱えて笑った後、袖口で唾を拭った。そして鋏を手にしたまま、一歩引いた距離で立ちつくしていた柚紀の方へと向き直る。
「鋏はそこに置いて、代わりに棚の……一番右下の引き出しに入ってるものを取ってきて」
 柚紀は言われるままに鋏を足下に置き、棚の方へと歩いて引き出しを開ける。一瞬、引き出しの中身を見た柚紀が固まるのが、私にも解った。
「あ、あの……」
「迷うことはないでしょ? 引き出しの中には“アレ”しか入ってないはずだよ? 早く持ってきて」
 愛奈の言葉は絶対――少なくとも柚紀の中ではそうなのだろう。命令通りに柚紀は引き出しの中から黒いモノを取り出して、愛奈の側まで戻ってくる。
「それをさっちゃんによく見えるように目の前に出してあげて」
 恐る恐る――そんな手つきで、柚紀が手にしていたそれを私の前へと出してくる。――途端、私は戦慄した。
「何、それ……愛奈、まさか……」
「アハッ。顔色が変わったね、さっちゃん。ってことは、コレが何か解ったのかな?」
 解らないはずがない。柚紀が手にしていたそれは勃起した男性器を模した黒いディルドーだった。そんなものの使い道は一つしか考えられない。
「うそ……でしょ? 嘘だよね?」
「さっちゃんどうしたの? 急に弱気になっちゃってさ。腰が引けてるよ? ねえねえ、コレを私はどうすると思う?」
 出来るはずがない。使う筈がない。いくら愛奈でも、そんなことをしたら本当に取り返しがつかないことになると解ってる筈だ。
 そう、出来るわけが――。
「くすっ。……キーちゃん、まずはさっちゃんの口に突っ込んでやって」
「やめっ……ングッ」
 柚紀が容赦なくディルドーを口に押し込んでくる。
「そのまま、ゆーっくり前後させて。フェラチオするみたいにさ、アハッ」
 プラスチック製なのか、何かの樹脂制なのかはわからない。柚紀が容赦なくディルドーを前後させるたびに、無機質な味が口の中いっぱいに広がって、私は吐きそうになった。
「もういいよ。それくらい濡らせばきっと大丈夫だよね」
 柚紀が私の口からディルドーを引き抜く。そして迷うように、愛奈の方を振り返った。
「どうしたの? キーちゃん。何か言いたいことでもあるの?」
「……ぁ……っ……」
「キーちゃんにとってさっちゃんはもう友達でもなんでもないんでしょ? だったらそれをきちんと証明して見せてよ」
「……っ……でも……」
「まさか、こんなチャチな罠に嵌めたくらいで私が納得するとでも思ってるの? そんなんじゃなくってさ、もっと決定的な所を見せてよ。さっちゃんの体と心に取り返しのつかない傷を付けて、一生恨まれるくらいの事をやっても平気だって所を見せてくれないと、私は信用してあげないよ?」
「でも……でも……!」
「わかった。キーちゃんは私よりスコップの方が好きなんだね? すぐにとってくるからここで待ってて」
 くるりと愛奈が踵を返した途端、ひぃぃと柚紀は言葉にならない悲鳴を上げた。
「……まって……ください……やる、やります、から……だから……」
「だったら早くしてね。言っとくけど、私はあんまり気が長い方じゃないから」
 愛奈が、再び私の方へと向き直る。そして愛奈と私の間に、柚紀が立ちはだかる。
「さっちゃん……ごめんね……ごめんね」
 そしてディルドーを手に、私の前にかがみ込む。
「柚紀……謝らないでよ……謝るくらいなら止めてよ!」
 愛奈が怖いのは解る。
 けれど――。
「愛奈! 止めさせてよ! もう十分でしょ、こんな……こんな事して、一体どうなるっていうの?!」
 愛奈は何も答えなかった。まるで実験を見守る科学者のように冷ややかな目で私を、そして柚紀を見下ろしていた。
 そう、まさしくこれは彼女にとって“実験”なのだ。そして、モルモットは私たち――。
 柚紀の手が、私の足に触れる。ぐいと体を割入れるようにして、強引に私の足を開かせてくる。冷たいディルドーが、私の大事な場所に触れる。
「ま、待って……止めてよ、柚紀……ねえ、柚紀は知ってるでしょ? 私……まだ、誰ともしたことないんだよ? 初めてなんだよ? なのに、そんな……そんなの嫌だよ!」
 柚紀はもう謝らなかった。指で割れ目を広げて、そこにディルドーを宛い、ゆっくりと押し込んでくる。
「いやっ、いやっ……止めて、ホントに止めてよ、柚紀……お願い正気に戻って! い、痛っ……だめ、それ以上はダメっ……」
「…………さっちゃん、ごめん」
 かすれるような声で柚紀が呟いた瞬間、ぶつりと。私は体の中から何かがちぎれるような音を聞いた。


「ぁぁぁぁぁぁァァアアアアアアッ!!!!!!!」
 気がつくと、私は絶叫していた。想像を絶する痛みと、そして大切なモノを散らされてしまった悲しみに、叫ばずにはいられなかった。
「うわーっ、痛ったそー……キーちゃん容赦ないねぇ。血も出てるし、さっちゃん大丈夫ー?」
 愛奈のおどけたような声など、もはや耳に入っていなかった。涙に濡れた視界の向こうで、柚紀が私の中からディルドーを引き抜くのが解った。
「おめでとう、キーちゃん。これでキーちゃんは晴れて私の友達だよ。約束通り勉強道具も全部返してあげるし、言ってくれれば新しい参考書も用意してあげるよ」
 勉強道具、参考書。
 そんなものの為に、私は処女を散らされたのか――そう思うと、思わず奥歯を噛みしめたくなる。
 一番悪いのは愛奈。それは解ってる。
 だけど。
 でも。
「さっちゃんもさすがにその姿勢疲れたでしょ? おしおきも終わったから枷外してあげるね」
 愛奈が懐から鍵を取り出して、私の両手と両足の枷を外す。途端、私はその場に崩れ落ちてへたり込んだ。太股に一筋、赤いものが伝っているのが見えた。
「くすっ、災難だったねぇ、さっちゃん。……私は知ってるよ? さっちゃんはさっちゃんなりにずーっとキーちゃんを大事にしてたんだよね。かばってきたんだよね。なのにこんな目に遭わされるなんて理不尽だよね」
 愛奈が白衣(びゃくえ)の上に纏っていた上着を脱いで、私の背中にかけてくる。
「これこそまさに“走れメロス”だよね。やっぱりセリヌンティウスはキーちゃんじゃなくてさっちゃんだよ」
 愛奈の言葉を半ば聞き流しながら、私は顔を上げて柚紀を見た。咄嗟に柚紀は私から視線を反らして、一歩後ずさった。その顔には明らかな安堵が浮かんでいて、私にはそれが信じられなかった。
 柚紀のことはずっと親友だと思っていた。関係がぎくしゃくしても、柚紀の気持ちが離れても、それは愛奈のせいで柚紀が悪いワケじゃないと思っていた。
 柚紀や愛奈の言うとおり、私には土壇場で自分を優先してしまう悪癖があることも自覚した。それもなんとか治そうとした。
 柚紀に騙されて泥棒に仕立て上げられても、仕方ないと思った。悪いのは愛奈だ。柚紀をそんな風に変えてしまった愛奈がいけないんだ。
 そう思うことで、私は柚紀を憎まないようにしてきた。
 でも。
「私も“暴君ディオニス”は自分にぴったりだと思ってるよ。そしてキーちゃんはメロス、態と遅れてセリヌンティウスを見殺しにするメロスだね」
 愛奈はきっと、私の気持ちを見抜いているのだろう。だからこんな話をするのだ。
「ねえさっちゃん。今でもキーちゃんの為に命を投げ出せる? こんな事をされて、胸を張ってキーちゃんのことが親友だって言える?」
 悪いのは愛奈。
 悪いのは愛奈。
 悪いのは愛奈。
 わかってる。それは間違いない。
 柚紀は何も悪くない。あんな目に遭わされたら変わってしまうのも無理はない。
 でも。
 でも――!
「さっき、キーちゃんにはもう何もしないって言ったけど、あれは条件付きで取り消すよ。ごめんね、キーちゃん」
「え……そん、な……」
 愛奈の言葉に耳を疑うように、柚紀はその手にしていたディルドーを畳の上に落とした。
「大丈夫、条件付きだって言ったでしょ? 私は暴君ディオニス。人を信じることが出来ない悲しい王様なの。……だから、キーちゃんとさっちゃんの不滅の友情を見せてもらえたら、感動させてくれたら、二人には何もしないって誓うよ」
 愛奈は一体いつからこのシナリオを考えていたのだろうか――私はそんな事を思っていた。いくら何でも偶然とは考えられない。いつからかは解らないけど、愛奈は“この状況”を作り出す為に私たちを動かし続けていたのだろう。
「そんなに不安そうな顔をしないでよ、キーちゃん。さっちゃんが一言“キーちゃんを許す”って言ってくれれば、それで約束は守るって言ってるんだから」
 愛奈は、本当に私の気持ちが解ってる。
 万に一つでも私がそう答えるわけはないと察しているから、そんな条件を出せる。
 そんな愛奈の思惑通りに動いてやるものかと、思う。
「私は、柚紀を――」
 今にも泣き出しそうな目で私を見る柚紀。でもその目には早くも安堵の光が在った。私は“許す”と言うに決まってると決めつけているような目。
 そんな柚紀を、私は愛奈よりも許し難いと感じる。
「――同じ目に遭わせてやりたい」


「えっ……え? 嘘……嘘でしょ、さっちゃん……」
 私の答えが信じられなかったのか、柚紀は後ずさりながらうわずった声を上げる。
「私のこと、親友だって言ってたじゃない! 許すって、許すって言ってよ!」
「悪いけど、無理。…………さすがにもう愛想がつきたよ、柚紀」
 最後の、私を見る柚紀の目が決定打だった。もしあそこであんな目で私を見なければ、或いは私は愛奈の思惑を裏切る方を選んだかもしれない。
 でも、あそこで自分の保身しか考えないような女を――例え愛奈にそうし向けられたとしても――私は友達だと認めたくなかった。
「アハッ、さっすがさっちゃん。そう答えてくれるって私は信じてたよ?」
 愛奈が、柚紀の方を向き直る。ひぃと悲鳴を上げて、柚紀が咄嗟にその場から逃げ出すも――その腕がすんでの所で愛奈に捕まれる。
「往生際が悪いなぁ。……疲れるから本当はやりたくないんだけど、暴れられても面倒だし、シビレさせちゃうよ?」
「ぎゃうっ」
 愛奈が首筋の辺りに手を当てた瞬間、突然柚紀は蹴られた犬のような悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。
「ぁっ、ぁっ……」
 それでも尚、柚紀はなんとか這って愛奈の側から逃げようとする――その背を、容赦なく愛奈が踏みつける。
「アハっ、まだ動けるんだ。結構思い切りやったんだけどなぁ。やっぱり“他人”には効きが悪いや。…………ねえさっちゃん、こっちに来て手伝ってくれない?」
 愛奈の命令に従うのは癪だった。けれど、柚紀を許し難いという思いの方が勝った。私は愛奈の言葉通りに側へと寄って柚紀を仰向けに寝かせ、その両腕を頭の上で押さえつける。
「やっ……いやっ……止めて、止めてよ……どうして……私、愛奈の言うとおりにしたのに……どうして、どうして……」
「ふふっ、いい顔だねぇ、キーちゃん。ゾクゾクしてきちゃうよ。……折角だし、キーちゃんは私が頂いちゃおうかな」
 愛奈の言葉の意味が、私にはわからなかった。愛奈は一旦柚紀の側から離れると、自らの衣類を脱ぎ始めた。
「二人にはいっぱい楽しませてもらったから、特別に私の秘密を教えてあげる」
 白衣を脱ぎ袴を脱ぎ――やがて愛奈が一糸纏わぬ姿になるや、私も柚紀も驚かずにはいられなかった。
「え……おと、こ……?」
「両性具有って聞いたことないかな? これでも一応女なんだよ? 生えてるけど」
 体つきは女性そのもの。但し、その股間には隆々とヘソまで反り返った男性器があった。
 愛奈はそれを自ら扱くようにしながら、ゆっくりと柚紀に歩み寄っていく。
「ひっ……い、イヤッ……そんなの嫌ぁ! 止めて……さっちゃん、止めさせてよぉ!」
 暴れる柚紀の手を、私は無言で押さえ続ける。そんな私に愛奈は笑みを漏らして、柚紀の服を脱がせていく。
「やめて……やめて……初めては……初めては先輩にあげるって決めてるの! お願い、他のことなら何でもするから、だからお願い!」
「本当? 本当に他のことなら何でもする?」
 愛奈の呟きが本意ではないという事は、私にもすぐに解った。
「し、します! なんでも、します!」
 でも、柚紀にはそうは聞こえなかったらしい。救いの言葉とでも思ったのか、忽ち笑顔を浮かべて何度も頷いた。
「じゃあ、しゃぶって」
 えっ、と。柚紀の笑みが凍った。
「何でもするんでしょ? だったら口で私を満足させてみてよ。そしたら止めてあげる」
「は、はい……わかりました……」
 愛奈の言葉は、少なくとも柚紀の中では説得力があったのだろう。私は愛奈に促されて柚紀の手を離し、まだ痺れてよく動かないらしい体を支えて膝立ちの姿勢にさせてやる。
「……ふふ、そういえば優巳以外の子にさせるのって初めて。……なんだか私の方までドキドキしてきちゃった」
 愛奈が棚に凭れるようにしながら促し、柚紀は躊躇いながらもペニスに唇をつける。
「ンッ……いいわよ、続けて?」
「は、はい……」
 多分、感じ方も男の子のそれと同じなのだろう。柚紀が舌を這わせるたびに愛奈も徐々に吐息を荒くしていく。
「んふっ、んっ……んぷっ……」
 柚紀は丁寧に亀頭部分を舐め上げ、時折しゃぶるように深く加えこむ。彼女のそんな様を見て、少なからず私も鼓動が高鳴るのを感じた。
 柚紀が――かつては親友だった女の子が、男のものを舐める様を間近で見ているのだ。自分がとんでもなく異常な状況に居る事に、私は今更に気がついた。
「んぁっ……んっ……はぁっ……んっ……」
 恐らく、柚紀はフェラチオというものはどうすれば相手が喜ぶのか、知識としては知っているのではないだろうか。さすがに経験は無いとは思うものの、柚紀のやり方は少なくともどうすればいいかを知っている者の動きに見えた。
(……っ……)
 目の前でねちっこくペニスをなめ回す柚紀を見ていると、下腹の辺りが熱くなるのを感じた。徐々にではあるけれど、私の呼吸も乱れ初めていた。
 そもそも、本物の男性器など目の当たりにしたのは初めての事だ。本や学校の授業でおおよそどういった形をしているかは知っていたけれど、実際目の辺りにしたそれは酷くグロテスクで――同時にとても美しく見えた。
「んはぁっ、んんっ、……ンンッ、んんっ……!」
 必死になって、愛奈のペニスをしゃぶりつづける柚紀。その様は滑稽にも見えるし、どこか同情を誘うものだった。そんなに必死になった所で、どうせ運命を変えられはしないのに。
「キーちゃん、“ごめんなさい”って言って」
「え……?」
 突然愛奈が何を言い出したのか、柚紀も、そして私にも解らなかった。愛奈は熱っぽい目で見下ろしながら、再度促した。
「しゃぶりながら、ごめんなさいって言うのよ。ほら」
「は、はい!……んぷっ……んぷっ……ごめん、なさい……」
 言われるままに、柚紀はペニスに舌を這わせながら、謝罪の言葉を口にする。
「もっと、誠意をこめて。あと、口のなかに咥えたまま言って」
 無茶な要求だと思う。けれど、柚紀は必死に愛奈の要求通りにしようとペニスをほおばり、ほおばりながら……謝罪する。
「んぁっ……ごえんなひゃい……んぷっ……んんっ……ごえんなひゃい……」
「……っっっっ〜〜〜〜〜〜!!!」
 そんな柚紀を見下ろしながら、愛奈がぶるりと体を震わせる。両手でたわわな胸元ごと肩を抱き、「はあぁ……」と熱っぽい息を吐きながら、ぺろりと舌なめずりをする。
「イイわぁ……次はこう言うのよ“手紙を燃やして、ごめんなさい”って」
「んぷっ……んんっ……ふぇ、ふぇはひ……ほはひへ……ほへんははい」
「アハッ、咥えたままじゃ何言ってるかわかんないよ。ほら、もっとはっきり言ってみなさいよ」
 さっきは咥えたまま言えといい、今度はそれでは解らないと言う。そんな愛奈の掌返しにも、もはや柚紀は異論すら唱えない。
「んちゅ、んっ……ごめん、なさい……手紙、燃やして……ごめんなさい……んぷっ、んんっ……」
「ふふっ……ダメよ、許してなんかやらないんだから……はぁはぁ…………」
「んぷっ、んんんっ、ンンッ!!!!」
 息を荒げながら、愛奈は柚紀の髪の毛を掴むと、まるでその口を女性器に見立てるように腰を振り始める。
「ンンンッ!! んんっ、んぶぶぶっ、んんーーーーー!」
 ぐぷぐぷとくぐもった音がかき消える程に噎びながら、柚紀が両目から涙を溢れさせる。柚紀のそんな様を見下ろしながら、愛奈はぺろりと舌なめずりをし、喘ぎ混じりの吐息を漏らしながらますます腰の動きを早めていく。
「ぁっ、ぁっ、ぁっあんっ、あんっっ……あぁっ、出るっ、出ちゃうっ……あぁぁぁぁあーーーーーッ!!!」
 愛奈が一際甲高い声を上げた瞬間、柚紀の口から硬くそそり立ったペニスが引き抜かれ、同時にびゅるりと溢れたものが柚紀の顔を白く汚した。
「あンッ……あンッ…………あはぁぁぁあ……」
 愛奈は左手で柚紀の前髪を掴み、顔を背けられないように固定したまま、右手で握ったペニスの先を柚紀の頬に擦りつけるようにしながら射精を続ける。
「はーっ…………はーっ……ふふ……ふふふっ……アハハハハハハハ! ざまーみろ! ばーか! アハハハハハハハハハ!」
 びゅるっ、びゅっ。
 ペニスを自ら扱きながら、執拗に柚紀の顔目がけて精液を飛ばし、さらにペニスの先端でそれらを塗り込むようになぞりながら、愛奈が鬼の首をとったように声を上げる。
「ほら、もっぺん言ってみなさいよ。ごめんなさいって。精液まみれにされて、顔中にぬりつけられながら、ごめんなさいって言いなさいよ」
「ごめん……なさい……これでもう……許して、下さい……」
 勿論柚紀にも、自分が誰かの代わりにされているのかは解っているのだろう。だからこそ逆らわず――そうでなかったとしても、柚紀が逆らうとは思えないが――従順に、愛奈が望むままに振る舞う。
「……勝手にセリフを変えるんじゃないわよ」
 私も、そして柚紀も。“愛奈の不興を買わない”という事がどれほど難しい事なのかを、この瞬間に再度思い知った。
「えっ……きゃあ!」
 白濁まみれの顔を涙に濡らしながら謝罪する柚紀を、唐突に愛奈が乱暴に突き飛ばす。
「ぁっ……ご、ごめんなさい……ごめんなさい!」
「ダメ、許さない。……ほら、いいから横になってさっさと足を開きなさいよ」
 えっ、と。柚紀が絶句しながら、愛奈を見上げる。
「当然でしょ。口で満足させられなかったんだから」
「で、でも……!」
「“でも”?」
 愛奈が露骨に声色を変えてオウム返しに聞き返しただけで、柚紀はひぃぃと悲鳴を上げて身を縮こまらせてしまう。
「……さっちゃん、そういうわけだから」
 私は最初からそうなるだろうと思っていた。だから、愛奈に促されるまでもなく、柚紀の両手を掴んで、さっき同様に畳の上へと押さえつけ、仰向けに寝かせた。
「やっ、いやぁぁぁぁッ!! ま、待って……もういっかい……もういっかいだけやらせてください! 今度は――」
「だーめ。もうフェラは飽きちゃったし…………それに、どっちみちキーちゃんの処女は頂く予定だったし」
 そんな、と絶句する柚紀の両腕を押さえつけ、動きを封じる。同時に愛奈が柚紀の袴を脱がせ、下着も乱暴にずりおろしてしまう。
「ふんふん、キーちゃんはちゃんと生えてるんだねぇ。関心関心。あっ、ちょっと塗れてる……キーちゃんフェラしながら興奮してたんだ?」
「ち、違う……やっ……止めっ、い、挿れないでぇ!」
 柚紀は痺れている体をめいっぱいに動かして抵抗するも、殆ど意味を成さなかった。
「やめっ、止めてぇ! おね、がい……そ、そーだ! エッチしたいなら、さっちゃんとしたほうがいいよ! さっちゃんは、もう処女じゃないんだし、ね? 愛奈、そうしようよ!」
 突然何を言い出すのかと、私は手を押さえながら呆れていた。自分が助かりたいからってさすがにそれは無いだろう。これがこの女の本性か。
「うんうん、なかなか魅力的な提案だけど却下ね。さっきキーちゃんがさっちゃんの処女奪う所見てたらすっごく興奮してきちゃってさ。……久しぶりにあの感じを味わいたいって、そう思っちゃったもの」
 愛奈は柚紀の両足を大きく開かせて、怒張しきったペニスをその付け根へと宛う。――不本意ながら、私は固唾をのんで、その様子に見入ってしまった。
「やめて! やめてやめてやめて! 初めては、初めては先輩にあげるの! お願い止めて! さっちゃん、どうして止めてくれないの!? お願いだから止めさせてよ!」
 以前ならば心が痛くなるほどの柚紀の叫びにも、私は全くの無感動だった。それよりも愛奈の行動に私は完全に見入っていた。
「ふふ……キーちゃん、私が“女”にしてあげる」
 愛奈が微笑み、ゆっくりと腰を勧めていく。その埋没具合に比例するように、柚紀が体をこわばらせていく。
「い、いや……やめ、て……ひっ……」
「アハッ、これキーちゃんの処女膜だよね? ふふ……ほら、いま私のが触ってるの解るでしょ? ほぉら、破いちゃうよぉ? ほらほら」
「ひぃっっ……やめ、て……おね、がい……」
「アハッ、止めて欲しい? ホントのホントに止めて欲しい?」
 こくこくと、柚紀が涙を溢れさせながら頷く。
「でも止めてあげなーい。どーん!」
 ふざけたような口調で言いながら、愛奈が一気にペニスを根本まで突き挿れる。あぎぃ――そんな悲鳴が、微かに柚紀の口から聞こえた。
「アッハーーーーー! キーちゃんすっごくいい顔してるぅ! “終わった……”っていう感じ? ううん、違う“汚された……”かな? ほらほら、目の焦点とか全然合ってないもの!」
「うっ……うぅ、ぅ……ひど、い……どう、して……」
「アハッ、キーちゃんそれマジ泣き? マジ泣きでしょ? ちゃんと心に刻んでる? これがキーちゃんの“初体験”なんだから忘れちゃだめだよ? 貴重な体験ができてよかったね、顔中に精液塗りつけられて、しかも“親友”に両腕押さえつけられながらレイプされる初体験なんて普通体験できないよ?」
 愛奈は柚紀にかぶさるようにその顔を覗き込み、はあはあと吐息を乱しながら食い入るように見つめる。
「あぁん……もったいないなぁ……キーちゃんがもうちょっと美人だったら――……ううん、あのヒトブタに似てたら……もっともっと気持ちよかったのに……あのツンって取り澄ましたヒトブタをこんな風に………………ぁンッ……」
 愛奈が肩を抱きながら、ぶるりと身震いする。愛奈はもう、柚紀を見ていなかった。ううん、柚紀の顔を見ながら、それを“誰か”に重ねていた。
「も、う……いい、でしょ……早く、抜い……」
「はぁ? キーちゃんなに言ってるの? 折角気持ちよくなってきたのになんで抜かなきゃいけないの?」
「あっ、あぎっ……やっ、う、動かなっ……あぐぅっ……!」
「アハハ! ほら、痛い? 痛い? 初めての時って痛いんでしょ? でもね、私はすっごく気持ちいいよ? ほらっ、ほらっ、奥の方ぐりぐりってしてあげる」
「ぁっ、あぁぁぁぁぁああっ!!」
 柚紀が叫び、私が押さえつけている両腕に込められる力で、その苦痛の程が私にも伝わってくる。
 それはもう、見るに耐えない陵辱劇だった。そしてその劇を固唾をのんだまま見入ってしまっている私も、或いは柚紀と同じく正気を失っていたのかもしれない。
「あぁぁんっ……やっぱり処女だからかな? 優巳とするときのあのぬちょぬちょってしゃぶられてるみたいな感じはないけど、すっごく締まってこれはこれで病みつきになっちゃいそ……ンッ……そろそろ出ちゃうかも」
「……っ……まさか」
「ん? もちろん中出しするつもりだけど?」
 惚けたような口調で言って、愛奈は徐々に腰の動きを早めていく。さながら、射精が近い事をほのめかすかのように、態とらしく。
「だ、だめっ……ゴム、つけて、ないのに……中は、だめ……止めて……」
 柚紀の声は掠れていた。その声は半分望みが通らないことを諦めている声だった。
「止めてほしいなら、もっときちんとお願いしなきゃ」
「あっ、ぁっ……中は、中に出すのは……やめて、ください……」
「ンッ……それじゃダメ、もっと大きな声で……」
 はあはあと、息を荒げながら、キスでもするように愛奈が柚紀の顔を覗き込む。
「な、中に出すのは、止めてください!」
「もっと、もっと大きな声で言わないと止めてあげない……はぁはぁ……ほらっ」
「なっ……中に出すのは止めてください!」
「アハッ、そんなに中で出されるのはイヤなんだ? ひょっとしてキーちゃん今日危険日? ねえねえ教えて? 危険日なら止めてあげるから」
「は、はい……そ、そう……です……危険日、なんです……だから――かはっ」
 愛奈の手が、唐突に柚紀の喉を掴み、ギリギリと締め上げる。
「一つ、教えてあげる。……私ね、そうやって適当にハイハイ言われるの、すっごく嫌いなの。………………危険日なんて嘘でしょ?」
 まぁ、嘘じゃなくても中出ししちゃうけど――右手を離し、ケホケホと噎せる柚紀への気遣いなどまったくなしに、愛奈は腰を使う。
 柚紀はもう力無く口をぱくぱくさせるのみだった。
「はぁはぁ……ほらほら、出しちゃうよ? すっごく興奮してるから、多分さっきのよりずっと濃いのが出ちゃうよ。ほら、もっと嫌がって、暴れてよ、ほらっ」
「あっ、あっ……い、や…………ぁっ、あぁぁぁぁぁああッ!!!!」
 それはもう、“中出しが嫌”で暴れているのではなかった。愛奈に“もっと嫌がって、暴れろ”と言われたから、そうしているだけのようにしか見えない、絶望に満ちた抵抗だった。
「あぁぁぁ……出るっ……出るぅっ……あぁぁァァッ!!!」
「いっ……やっ……ぁぁぁっ……!」
 ズンと愛奈が突き上げ、動きを止める。柚紀が目を見開いて、声を掠れさせる。
 それだけで、私は何が起きたのかを理解した。
「あはッぁ……ンッ……す、ごい……いっぱい……あぁんっ…はぁはぁ………やっ、ちょ……あぁン! はぁはぁ……だめ、興奮しすぎて……射精……止まんな……あっ、あっ、……だめっ、だめっ……やっ……これ、気持ちいぃ……ああぁン!」
 ビクン、ビクンと愛奈が体を震わせながら何度も甘い声を漏らす。その都度、柚紀も掠れたような声を上げ、体を揺らしていた。
「や……ほ、ホントに、出し……ぁぁ……」
「ンッ……はぁぁぁ……すっごぉい……いっぱい出たよぉ……キーちゃんも解るでしょ? お腹の中、ドロッドロになってるのが。ほら、こうやって動かすだけでぐちょぐちょ凄い音がするもの」
 愛奈が小刻みに腰を動かし、そして唐突にぬろりとペニスを引き抜いた。途端、その後を追うようにピンクがかった乳白色の塊がごぽごぽとあふれ出した。
「あっ、あっ……」
「ほら、キーちゃんもさっちゃんも見える? 一回でこんなに出したの私初めてだよ。……なのにほら、見て。まだ全然収まらないの」
 そして、そそり立ったままの男根を誇張するように前に出す。
「くすっ、続きは後ろからしよっか」


 

 一般的な男子の精力なんか、私が知るわけ無い。知るわけないけど、多分……愛奈はいわゆる絶倫と呼ばれる部類なんじゃないかと思った。
「やめ、て……もぉ、やめてよぉ……!」
 無理矢理四つんばいにさせられ、背後から犯されながら、柚紀は悲鳴を上げ続ける。形式上、私は柚紀の両手を押さえつけているけれど、その手にはもう殆ど暴れる意思なんか籠もってなかった。
「だーめ。止めない。まだまだシ足りないもの」
 すでに三回、バックで射精しているにもかかわらず、愛奈の精力は殆ど衰えをみせていなかった。ギンギンにそそり立った分身を柚紀の中に突き立て、細くくびれた腰を掴んでは好き勝手に腰を振っていた。
「てゆーか、キーちゃんもそろそろ“良く”なってきたんじゃないの? 声が段々色っぽくなってきてるよ?」
 それは、私もうすうす感じ始めていた事だった。愛奈に抱かれ続けて凡そ二時間、柚紀の様子は少しずつではあるけど変わりつつあると。
「そん、な……そんな、こと、な――……あぁん!」
「ほら……今、キーちゃんイッたでしょ?」
「い、イッてなんか……っっ…………」
「ホントに? 一度もイッてないの?」
「っ……ぅ……ンッ……ぁああッ!」
 愛奈の動きが変わる。自分が快楽を得るためだけの動きから、柚紀を感じさせる動きに――端で見ている私にも、それが解った。
「い、いやっ……なんかっ……っ……だ、だめっ……」
「ほら、ほら……ここらへんキーちゃん弱いでしょ? イきそうなんじゃない?」
「っっっ……あァン!」
 柚紀は必死になって首を振るが、執拗に――おそらくは弱いという場所を――擦り上げられて、堪りかねたように声を荒げた。
 アハッ、と愛奈が声を上げて笑う。
「素直じゃないなぁ。…………素直じゃない子にはお仕置きしたくなってきちゃったなぁ」
 そう言って、愛奈は何故か私の方を見た。
「さっちゃん、そっちに鋏が転がってるでしょ。取ってくれる?」
「え……鋏……?」
「そ。早く取って」
 一体何をするつもりなのだろう。私は仕方なく片手で柚紀の手を押さえながら鋏を拾い、愛奈に渡した。
「な、何……何を、するの……?」
 柚紀が怯えた声を出すのも無理はなかった。すでに衣類は全てはぎ取られ、鋏で切るようなものなど何も無いのだ。
 あるとすれば、それは――。
「…………キーちゃんさぁ、綺麗な髪してるよねぇ」
 しゃきん、しゃきん。愛奈が鋏を鳴らしながら、とんでもない事を呟く。そして柚紀の後ろ髪を束ねているリボンを、しゃきんとアッサリ斬ってしまう。
 はらりと。リボンでまとめられていた柚紀の長い髪が広がる。幼い頃から手入れを欠かさず、自他共に認める緑の黒髪。背の中程まで伸ばしたその髪にかけられたであろう労力と時間は途方もないものだろう。
 ぺろりと。愛奈がピンク色の舌を覗かせ、ゆっくりと舌なめずりをする。
「あ、愛奈……うそ……うそでしょ……?」
 柚紀の怯え方は今までの比ではなかった。がちがちと歯を鳴らしながら、顔色も蒼白になっていた。
「これだけ長く伸ばすのは大変だったんじゃない? ほら、私も結構伸ばしてる方だからさ、その苦労はよく解るよ」
 言いながら、愛奈は柚紀の髪をもてあそぶように撫で、そして一房ほど左手に握り、持ち上げる。
「くすっ」
 じょきんっ。その音はいやに鋭く、室内に響いた。愛奈は斬った柚紀の髪を、態と柚紀の目に見えるように、その目の前にはらはらと落とした。
「いやぁァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!」
 それはもう叫びではない、絶叫だった。愛奈の哄笑すらかき消し、思わず私も耳を覆いそうになってしまうほどの絶叫だった。
「大丈夫、斬ったのは隅っこの方ちょこっとだけだから。……キーちゃんが嘘つくからいけないんだよ? 気持ちいいなら気持ちいいってちゃんと言わなきゃ」
「ぁ、ぁ……う、そ……こんなの、ぜったいうそぉ……」
 柚紀は目の前に散った黒髪をかきあつめながら大粒の涙をこぼし続ける。――私はもう、柚紀の手を押さえつける事は出来なかった。
「ひっ……!? あっ、うっ、あぁぁあっ!」
 そして、そんな柚紀を愛奈は容赦なく犯し始める。柚紀の頭を押さえつけ、畳にすりつけるようにしながら腰を振るい、ぱんぱんと尻が鳴るほどに強く、何度も。
 髪を切られ、絶叫しながら泣き叫ぶ柚紀の姿に興奮をかきたてられたのか、前にもまして荒々しく、喘ぎ混じりの吐息を漏らしながら。
「あっ、あっ、あっあぁぁっ!」
 柚紀のそれはもう、泣いているのか喘いでいるのか私にも判別のつかない声だった。
「あ、愛奈……さすがに、髪を切るのはやりすぎじゃ……」
 そんな私の呟きにも似た声は、きっと愛奈の耳には届いていなかった。夢中になって腰を振り続けるそれはもう、愛奈の形をした一匹のケダモノにしか見えなかった。
「あはぁっ、キーちゃんの反応すっごくいいよぉ……この髪、本当に大事だったんだね。ごめんね、そんなに大切だって知らなかったの。でも安心して、ほらほら、まだこんなに残ってるから」
 柚紀にかぶさり、柚紀の髪の一部を掴み、安心させるように目の前まで持ってきて。
 じょきんっ。
「いやぁぁぁぁぁあぁぁああ!!!」
 柚紀が、再度泣き叫ぶ。愛奈が笑う。
「あぁぁぁあっ……締まるっ……ぅぅ……いいっ、すっごくいいよぉ……だめっ、さっき出したばっかりなのにっ……興奮しすぎてまた出ちゃいそう……キーちゃん、ねえキーちゃんも気持ちいい? イきそう? 一緒にイく?」
「ぁっ……ぅ……き、きもちいい、です……だから、だからもう……」
「アハッ、やっと素直になったね? じゃあイくのは一緒だよ?」
 はぁはぁと息を荒げながら愛奈がスパートをかけ始める。
「ほらっ、キーちゃんの弱いところいっぱい擦ってあげるっ……んっ……イきたくなったらすぐイッていいよ? 私も、すぐにっ……ンッ……ぁっ、出るっ……うっ……!」
 びくんっ!愛奈の体が震え、そのままギュウと柚紀の体を抱きしめながら、立て続けにビクビクと震える。
「ふぁぁ……気持ちいい……ねえ、キーちゃんも気持ちよかった?」
「は、い……すごく、よかった……ですぅ……」
「はい嘘ー。キーちゃん今イッてないよね? だからおしおき」
 じょきんっ。また一房、柚紀の髪が切り取られ、目の前に散らされる。
「いやっいやぁぁああ! やめっ、て……も、髪は……髪は切らないで……」
「くすくす……いいよぉ、すっごくいい。……わかるよ。髪は女の命だもんね。………………えいっ」
 じょきんっ。
 また一房、柚紀の目の前にはらりと。
「ぁっ……ぁ……わたしの、かみ…………せんぱいが…………せんぱいが綺麗だねって……褒めてくれた、かみ…………」
 柚紀はただただ、大粒の涙をホロホロと零しながら、畳に散らばった髪をかき集めるように両手を這わせる。
「アハハハハハハハハハハハ! レイプされて処女じゃなくなって、大事に大事に伸ばしてた髪まで切られちゃったんだ? ねえねえ、キーちゃんどんな気分? 教えてよ、教えてくれないとまた髪切っちゃうよ? アハハハハハハハハ!」
 ………………。
 …………。
 ……・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 その後も、愛奈は柚紀を犯す手を止めなかった。向きを変え体位を変え、何度も柚紀を犯し、そしてその反応が薄くなると髪を切り落として無理矢理叫ばせていた。それは明け方近くまで続いた。
 止めようと思えば、多分不可能ではなかった。でも、私には止められなかった。柚紀に対する憎しみも、途中からは完全に消え失せていた。しかし彼女を哀れだとも思わなかった。
 むしろ、私は愛奈の方にこそ同情した。常軌を逸した彼女の行動が、私にはいつかの夜の凶行に重なって見えたからだ。
 愛奈を突き動かしているのは私や柚紀への好悪の情でも、そして“本物のキーちゃん”への憎しみでもない。その身を焦がすほどの想いを胸に秘めながらも、それが成し遂げられない苦しさこそが彼女の凶行の原動力なのではないだろうか。
 巨大すぎる質量故に歪み、潰れ、最後にはブラックホールと化し、周囲にある全てのものを漆黒の闇の中へと飲み込んでしまう――人の意思程度ではどうにもならない重すぎる愛に、愛奈は狂わずにはいられないのではないか。だとすれば、それはあまりにも悲しくて、切なくて、苦しい事だと私は思う。
 もちろんそれはただの私の推測に過ぎない。例えそれが真実だとしても、愛奈を全面的に擁護する気もない。彼女は私の目から見れば明らかに異常者であり、私と柚紀の仲を割いた張本人には違いないのだから。


 それからのことは、あまり記憶に残っていない。何か配置転換のようなものがあって、私と柚紀は別々の部屋に振り分けられて、それぞれ違うルームメイトと同じ部屋になった。それから約二年後、私が三年間の勤めを終えて屋敷を後にするまで、私と柚紀は屋敷の中では何度も顔を合わせたけれど、一度も会話をする事はなかった。
 あれほどしつこかった愛奈からの呼び出しも、新しい部屋に住むようになってからは一度も無かった。新しいルームメイトも分家の子で、特別親しくはしないまでも、いがみ合うこともなく、残りの二年間はトラブルらしいトラブルは一度も無かった。その子も柚紀のように自由時間は勉強ばかりする子で、私も一人の時間をもてあますようになって、結局残りの二年間は勉強の虫になってしまった。おかげで高卒の資格もとれて、本家の推薦で大学への進学も決まった。
 ただ、私がそうやって過ごしている間も、屋敷の中では、常に誰かしらが愛奈に目をつけられ、退屈しのぎに弄ばれていた。勿論私は私の時がそうであったように、その現場を目撃しても極力関わらないように努めた。
 どうやら愛奈は柚紀のケースですっかり味をしめてしまったらしい。時折気に入った子を見つけては、あの手この手で手込めにしているという噂を私は何度も耳にした。彼女の体の事は、もはや公然の秘密となりつつあった。
 余談になるけれど、どうやら愛奈の“アレ”は相当に“良い”らしい。というのも、そうやって愛奈に抱かれた女官達は私の知る限り一人の例外も無く、愛奈から離れられない体にされていた。
 勿論、あの柚紀もだ。

「あぁ……愛奈さま……どうか、どうかお情けを……お願いします……愛奈さまに抱いていただかないと……もう、もう…………」
「……また柚紀か。あんたはもう飽きたからいいよ」
 愛奈は足下に縋り付く柚紀を容赦なく蹴り飛ばし、そのまま濡れ縁から庭まで蹴り落とす――そんな様を、私は何度も目撃した。
 そう、柚紀は変わってしまった。今度こそ、完全に私の知らない柚紀だった。愛奈に切られた髪を短く切りそろえ、愛奈がそうしろと言えば裸で外を走り回ることも厭わない。身も心も愛奈の虜にされてしまっていた。
 縁側で読書をしている愛奈の指をひざまずいてしゃぶりながら、必死に自慰をしている柚紀を見かけた時は、さすがに涙が出そうになった。それほどまでに愛奈に心酔しながらも、柚紀は一度も愛奈に抱いてもらってはないらしかった。
 あんたにはもう飽きた――愛奈は柚紀を蹴りながらいつもそう言っていた。そして愛奈はあの夜以来、ただの一度も柚紀の事を“キーちゃん”とは呼ばなくなった。それが髪型のせいなのか、柚紀が変わったせいなのかは私にも解らない。唯一解るのは今の柚紀にとっては愛奈に仕える事こそが、何物にも勝る無上の喜びらしいという事。三年の勤めを終えて尚、屋敷に残るというのだから、その忠誠心はたいしたものだ。恐らく、“先輩”の事など頭の片隅にも残っていないに違いない。

 三年の勤めを終えて屋敷を去る際にも、別段送別会などは開かれない。そういえば屋敷に来たときにも歓迎会などは無かったなと。私は屋敷を経つ当日もそれなりに交流のあった女官や女官長にだけ簡単な挨拶をして、そのまま屋敷を出た――否、出るつもりだった。
「さーっちゃん、久しぶり」
 正門へと歩く道の途中で、ぴょんと茂みから飛び出してきた愛奈に私は単純に驚いた。愛奈に話しかけられる事など、殆ど二年ぶりだったからだ。
「出て行くの、今日なんでしょ? 見送ってもいいかな?」
「……うん、ありがとう」
 自分でも不思議な程に自然と感謝の言葉が出た。少なからず私は動揺していたのかもしれない。てっきり私のことなんか忘れているものだとばかり思っていたのに。
「さっちゃん、ここを出るのにその格好なの?」
「うん。なんだか面倒くさくって」
 屋敷を出るにあたって、最初にここに来た時の洋服は入らなくなっていた。希望をすれば本家が着替えを用意してくれたらしいのだけど、何となくおっくうで私は家まで女官服のままで帰るつもりだった。
「そっか。さっちゃんらしいや」
 そう言って、愛奈は無邪気に笑った。元から綺麗な顔立ちではあったけど、この二年でぐんと女らしくなったと思う。……うっかりすれば見とれてしまいそうになる程に。
 自分が女であることを少しだけ恨めしく思いながら、私は愛奈と一緒に正門への道を歩いた。屋敷が広いとはいっても、屋敷の玄関から正門までは歩いて十分もかからない。その短い時間、私の隣を歩きながら愛奈が声を抑えて聞いてきた。
「そういえばさ、さっちゃん。…………アレ、生えた?」
 いやな質問だと、私は露骨に表情を曇らせた。実は、まだ生えていない。
「じゃあ、ちょっとだけ目を瞑って」
「……どうして?」
「いいから。大丈夫、変な事はしないからさ」
 ここで変に固辞して、またいつかのように関係が拗れるのもイヤだったから――無いとは思うけど、最悪“勤め”を延長なんかされてはたまらないから――私は大人しく目を閉じた。
 愛奈の手が、私の体に触れるのが解った。さわさわと体を撫でていた手が、不意に――
「ひゃ!?」
 白衣と袴の間へと滑り込んできた手が、そのまま下着の中まで入ってきて、私は咄嗟に悲鳴を上げて愛奈から飛び退った。ただ触られただけではない、なんだか電気でも走ったみたいに、ヒリヒリと、むず痒くなるのを感じた。
「あはは、ごめんね。でも、これでもう大丈夫だと思うよ。しばらくは痒いかもしれないけど我慢してね」
 まさか――と。私は記憶を掘り起こした。『それ、治してあげようか? 多分治せると思うよ?』――愛奈がそう言っていた事を。
「どうして……」
 まさか、その為にわざわざ見送りに来てくれたのだろうか。
 そんな筈はないとは解っていても、私は不思議な胸の高鳴りを感じずにはいられなかった。
 愛奈への想いなんて、とうに冷え切っていた筈なのに。
「ん、ただの気まぐれ。今日さっちゃんが実家に帰るって聞いて、ああそういえば――って思い出しただけだから」
「………………。」
「いっぱい酷いことをしてごめんね。私、さっちゃんの事そんなに嫌いじゃ無かったよ。本当だよ」
 ばいばい――愛奈は手を振って、そのまま屋敷の方へと走り去っていく。
「……愛奈、待って!」
 遠ざかるその背に、私は反射的に声を上げた。愛奈が足を止め、振り返る。
「一つだけ……最後に、一つだけ聞かせて。……愛奈にとって、私たちは……ううん、私は何だったの? 最初からただ退屈しのぎに弄ぶだけの存在だったの? 最初からそうするつもりで声をかけてきたの?」
 自分がどうしてそんな質問をしたのか解らなかった。そしてどんな答えを望んでいるのかも。
 ――ううん、違う。少なくとも、愛奈になんて答えて欲しいかは解っていた。もし、どこかで何かが違っていたら、全く別の結末になったのではないかという可能性を、私は信じたかったのだ。
「………………質問が三つに増えてるよ、さっちゃん。それに、二年以上も前の事だよ、どういうつもりだったかなんて、細かいことはいちいち覚えてないよ」
 それに――と。愛奈は声のトーンを少し落として、続ける。
「三つの質問の一つには、もう答えてるよ。私に言えるのは、それだけ」
「愛奈……」
 私は、胸を押さえずにはいられなかった。今、目の前に居るのは柚紀と私の中を割いた憎き“敵”の筈だ。なのにどうして、こんなにも胸が苦しくなってしまうのだろう。別れを惜しんでしまうのだろう。
「ねえ、もし愛奈が――」
「すとっぷ。質問にはもう答えたでしょ? そろそろお開きだよ」
 愛奈の言葉に、私は開きかけた口を噤んだ。
「今度こそさようなら、さっちゃん。もう二度とこんな所に来ちゃだめだよ」
「………………うん。……さようなら、愛奈」
 愛奈の言葉には、有無を言わせない響きがあった。私は踵を返して愛奈と別れ、そのまま正門を後にした。

 

 いびつな形だったけれど。
 きっとそれは初恋と呼ばれるものだったのだと。
 胸の痛みと、溢れてくる涙で、私は知った。

 

 

 

 

 


 


 

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