「起きろ」
 冷徹な声と共に、針で刺すような刺激が上半身を襲った。数秒の間を置いて、自分が冷水が頭からかぶせられたのだと理解した。
「うっ……ッ!?」
 急激な意識の覚醒、男は咄嗟に身を起こそうとしたが、それは叶わなかった。続いて襲ってきたのは、後頭部を襲う鈍痛。次に、体中至る所から打ち身のような痛みが襲ってくる。
(何……だ……俺は、一体……縛られてる……!?)
 両腕は後ろ手に縛られ、さらに両足も足首で縛られている様だった。しかも目隠しをされているのか、どれほど周囲を確認しようとしても辺りは闇一色であり、何一つ見えなかった。
 ただ、頬に当たる冷たいコンクリートの感触から、自分は地面に転がされているという事だけは理解した。
「目は覚めたか?」
 頭上から振ってきたのは、思いも寄らぬほど若い声だった。声変わりはしている様だが、しかし間違いなく自分よりは年下――そんな幼さすら残る声が男に怒りを与えた。
「何だ、お前……ガキか!? さっさとこれを解ッ……ごふっ」
 突然、脇腹の辺りに凄まじい衝撃が襲った。
「がっ、……ぐっ……げはっ……がぁっ……!」
 一度では終わらなかった。二度、三度、四度、五度……幼さの残る声からは想像も出来ないほどのすさまじい蹴りに、彼の全身は悲鳴を上げた。それが終わるや否や、今度は前髪の辺りが捕まれ、ぐいと頭が持ち上げられた。
「もう一度聞く。……目は覚めたか?」
「て、めぇ……こんな、事、してッ……ぐぶっ」
 しゃべり終わる前に、顔面をコンクリート地面へとたたきつけられた。重い衝撃が激痛を伴って鼻骨から後頭部へと突き抜け、それは彼の中に蟠っていた怒りを、僅かばかりの虚勢と共に打ち消し、怯えへと変えた。
「ひがっ……ひゃ、ひゃめまひたぁ……」
 前髪を捕まれた頭が、ふたたびぐいと持ち上げられると同時に、男は涙声でそう答えた。おびただしい量の鼻血が唇を伝い、鉄さびの味を彼に与えた。
「よろしい。では質問に移る」
 どこか嬉々とした声で、闇の向こうの少年は言葉を続けた。
「“佐々木円香の件”に関わった全員の名前と住所、連絡先、その他お前が知っている事全てを教えろ。……そうすれば、全てが終わった後、お前だけは生かしておいてやる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『キツネツキ SS−02』

続・佐々木円香の受難

 

 

 

 

 

 

 


「へぇ、じゃあバイト決まったんだ」
「うん。ピザ屋さんでね、配達じゃなくてピザ作る方のバイト。シフトは平日十時から十六時までのがメインだから、今まで通りちゃんと武士くんと会える時間は作れるよ」
 夕方――と呼ぶには、些か日が暮れすぎた時間帯。どうしても話したい事があるからと、円香は珍しく強引に部活後に武士と会う約束を取り付けた。ファミレスへと入り、注文を済ませるやいなや、早速に自分の近況を伝えた。
「良かったね、円香さん。どこのピザ屋? 今度友達と一緒に買いに行くよ」
「だーめ、恥ずかしいからそれは教えてあげない。それにちょっと遠いところだから、こっそり探しても絶対見つからないよ?」
 実際、円香がバイト先として選んだのは電車で四駅も離れた店だった。それは偏に、かつての同級生や自分を知っている人間が同僚或いは客として現れ得ない場所で働きたかったという理由に他ならなかった。
「遠いんだ……じゃあもし、帰りが遅くなるような時は俺に教えてよ。駅でもバス停でも、円香さんが歩きになる所まで迎えに行くからさ」
「もう、武士くんってば……一応私の方が年上なんだよ? 遅くなる事があっても、一人で大丈夫だよ」
 まるで右も左も解らない世間知らずの少女を心配するような武士の言いぐさに、円香は苦笑を漏らしてしまう。
「うん、解ってるけど……だけどやっぱり、心配だから。遅くなるときは絶対連絡入れて欲しいんだ」
 が、しかし武士のこういった思いやりは円香としても決して不快ではなかった。むしろ心地よすぎて、すぐに甘えてしまいそうになる自分を律さなければならない程に、それは甘美な響きをもっていた。
「……じゃあ、本当に遅くなりそうな時だけ、武士くんに駅まで迎えに来て貰おうかな」
「それでいいよ。どんな時でも、絶対迎えに行くから、円香さんも遠慮なんかしないでね。大雨でも、嵐でも、雪でも、槍が降ってても俺は円香さんに会いに行くから」
「大げさだよ、武士くん。……本当にもう、この間みたいな事にはならないから、安心して」
 そう、武士の立場に立って考えれば、こういった心配も決して行きすぎではないのかもしれないと、円香は思う。先だっての宍戸の一件は、確かに円香にとっても忘れがたい事件だった。それも、今にして思えば最初に宍戸が接触してきた時点で武士に相談を持ちかけていれば、あのような結末だけは避けられたと思えるだけに、どれほど悔やんでも悔やみきれない。
「そうだ、円香さん。バイトに行くのはいつからなの?」
「来週の月曜日からだけど……どうかしたの?」
「実はさ、再来週の水曜日、うちの学校創立記念日で休みなんだ。だから、その……」
 武士の言わんとする所は、勿論円香にもすぐに解った。ここのところ、両親や家政婦の監視の目が強く休日であってもあまり武士と一緒に過ごせない事が多くなっていた。宍戸の件は勿論両親には話していないのだが、暴行を受けた後、産婦人科に行った事がバレているのではないかと円香は推測していた。ひょっとしたら、産科医自身が両親へと連絡をいれた可能性もある。
(でも、平日なら……アルバイトって言って家を出れば……)
 それでいて、バイトの方は休みを貰えば、少なくとも夜までは武士と共に過ごす事が出来る。残る問題は入って早々休みをとらせてもらうという事が出来るかどうかだが、少なくとも円香にとってそれを試すだけの見返りは十二分にある提案だった。
「再来週の水曜日……だね。うん、解った。店長に掛け合ってみるよ。多分大丈夫だと思うけど…………もし、ダメって言われたら、その時はゴメンね」
「一応仕事だしね、その時は俺も諦めるよ。…………そうだ、折角だから、円香さんその日はうちに遊びに来ない?」
「武士くんの家に?」
「うん。ほら……休みの日とかだとさ、姉貴が家に居たりするから、なかなか円香さん呼べないし……」
 確かに武士の言う通りだった。円香としては、武士の部屋に遊びに行くのは決して嫌いではない――むしろ、機会が在れば是非行きたいと思っているのだが、今まではその機会は絶望的なまでに訪れなかった。その理由は武士曰く「家族に見られたら恥ずかしいから」というものだったが、似たような理由で家族が居る時は武士を家に呼べない円香としては、そういう事で在れば無理に行く事はできないと諦め続けていた。
「ふぅーん…………武士くんの部屋に、かぁ…………それってもしかして、エッチのお誘いなのかな?」
 だから、武士の申し出は当然円香としても願ったり叶ったりの所だった。が、そんなことはおくびにも出さず、まるで純朴な少年の下心を見透かすような意地悪な問いかけを口にしてしまうのは、一つには舞い上がってしまいそうな自分の浮ついた気分を落ち着けるためでもあった。
「べ、別に……そんな……そういうわけじゃ、なくて……ただ、俺……もっと二人きりで、円香さんと話とか、できたらって……」
 男性、と呼ぶには幼さの残りすぎている恋人は、そんな意地悪な問いかけに微笑ましいほどに素直な反応を返してくる。円香は今すぐ武士を抱きしめてしまいたい衝動にかられたが、それは再来週までの楽しみにとっておくことにした。
「そっか。じゃあエッチは無しで、普通に話をするだけでいいのかな?」
「ええと……その…………話だけ、っていうのも……ちょっと、アレ……かな……」
 僅かに顔を赤面させ、答えにつまる武士を見ているとそれだけで円香は口元を綻ばせてしまいそうになる。
(もうっ……可愛いなぁ、武士くん)
 こういう反応をされるとトコトン苛めてみたくなる所だが、それも再来週の楽しみにとっておこうと円香は思った。


 

 翌週、月曜日。
 円香は余裕をもって八時半前に家を出て、バイト先であるデリバリーピザ店へと向かった。駅まで歩く時間と、電車での移動時間、駅から店まで歩く時間を考慮しても三十分以上の余裕を持って家を出たのは、初日から遅刻という失態だけは絶対に避けたいからだった。
(……最初が肝心だしね)
 逆の立場になってみればよくわかる。自分が働いている職場に入ってくる新人が初日から遅刻したらどう思うだろうか。間違いなく、この新人は使えない奴だ、だらしがない奴だと思うだろう。それはその後の仕事ぶりを見る目にも影響するし、可能ならば円滑な人間関係を築いていきたいと願っている円香の思惑をも台無しにする愚行だ。
(…………いい人ばっかりだと、いいな)
 不安が全くないと言えば嘘になる。否、不安で堪らないと言う方が正解だろう。宍戸の件の後しばらくは武士と一緒でないとろくに外も出歩けない時期もあった。そんな自分が今こうして全く見知らぬ土地で、見知らぬ人間達と共に働こうとしているというのが円香には不思議で堪らなかった。
(……武士くんのおかげ……だよね)
 武士の前でこそ、以前のように振る舞えるが実際はこうして見知らぬ人間と共に電車に乗る事すら不安で堪らない。宍戸のように、いつ誰が薄笑いを浮かべながら脅迫をしかけてくるかと気が気でなかった。背後でヒソヒソと話し声が聞こえると、自分の事を言われているのではないかと思えて、怖くて振り返る事が出来ない。
 それでも尚、円香が前に進むことが出来るのは、心の奥底で宮本武士という支えがあるからだった。年下の、まだ少年と呼べる程に幼さの残る相手の前でいつまでもメソメソとしているわけにもいかない。いつか武士が胸を張って「この人が俺の恋人だ」と家族に紹介できるような、そんな女性になりたいという思いが、挫けそうになる円香の弱い心をすんでの所で支えていた。
 
 電車を降り、時計を確認すると店長に来るように言われた時間までまだ二十分以上も余裕があった。あまり早く行くのも逆に迷惑をかけるような気がして、円香は迷わぬよう気をつけながらあえて遠回りをし、丁度十分前に店の裏手へと回ったところで掃除をしていたらしい店長とばったり出くわした。
「おっ、佐々木さん。早かったね、今日からよろしく」
「はい、よろしくお願いします!」
 早速店長に声をかけられ、円香は可能な限りハッキリとした声で挨拶を返した。まだ四十には届いてなさそうな年齢の男性店長ははにかむように笑うと「着替えは中のロッカー室で空いてる所を自由に使って」と言って自らも店内へと戻っていった。
 円香も後に続き、ロッカールームで着替えを済ませるや、早速調理場へと案内された。
「もう少ししたら他のスタッフも来るから。作業の手順とかはだいたい解ってるよね?」
「はい。大丈夫です」
 だいたいの作業手順は予め渡された手引き書でばっちり予習をしてある。少なくとも、右も左も解らない、という事は無い。無論、材料や調理器具がどこにしまわれているか等については、これから慣れなくてはならないだろうが。
(……ここが、私が働く場所……)
 綺麗に清掃された調理場には独特の臭気があった。例えるなら、学校の家庭科調理室の臭いをもっとトマトソース系に傾けたような、そんな空気を胸一杯に吸い込み、円香は深く深呼吸をした。
(…………新人だし、掃除とかしたほうがいいのかな)
 しんと静まりかえった調理場に一人でいるのは不安だった。いっそ、店長が先ほどやっていたように店の周りを――と思って、それをやるならばもっと早くに来るべきではなかったのかと、円香は早くも少しだけ後悔をした。自分なりに早く来たつもりではあったが、もしかすると新人は一時間前には来て掃除をするのが常識であり、それを堂々と破った最初の一人が自分なのではないかと、そんなわけのわからない不安すら襲ってくる。
(やだ……怖い……私、もう帰りたくなってる……)
 店長は人の良さそうな感じの男性でかろうじて話をする事が出来るが、もし他のスタッフというのがとても馴染めそうにない人達だったらどうしよう。否、それだけではなく、もし“あの動画”を知っていたら――。
 がちゃりと、静かな調理室内にドアノブが回る音が響き、円香は反射的に身をすくめながらドアの方へと視線をやった。
「あっ、佐々木さん。彼女が鐘巻さん。うちでは一番長い人だから、何か解らない事があったら彼女に聞いて」
 言うや否や、店長は鐘巻と呼ばれた女性を残して忙しそうにすぐさま事務室の方へと戻ってしまう。年は恐らくは二十台だろうか、背は円香よりも低く、それでいて肉付きはやや太めであり、そばかすに度の強そうなメガネ、そして化粧気も無くただひとまとめにして後ろで束ねただけの髪型は自分は着飾る事には興味が無いと暗に語っていた。
「……よろしく」
「はい! よろしくお願いします!」
 思いの外低い声でぽつりと独り言のように呟かれた言葉に、円香はあわてて挨拶を返した。
(…………気むずかしそうな人だなぁ……やだな…………)
 挨拶をしつつ、円香はひそかにそう思った。最も、“最悪のケース”に比べれば全然マシではあるのだが。
「ピザ屋で働くのは初めて?」
「はい。……ていうか……その、言いにくいんですけど……アルバイト自体初めてなんです」
「そう。……言っとくけど、うちはキツイよ」
 ぽつりと、これまた独り言のように呟かれた言葉に、円香は胃がキュッと絞まるのを感じた。
「三日続かない人が多くてね。お願いだから、一日で来なくなったりしないでね」
「は、はい……がんばります……」
 がんばる、とは答えたものの、円香はもう半分泣きそうになっていた。仕事がキツイ云々よりも、この人と一緒に働かねばならないのかという不安の方が耐え難く思えてくる。
 そんな円香の心中をまるで見透かしたかのように鐘巻はふっと笑顔を零した。
「……なんてね。そんなに肩に力入れなくても大丈夫よ。仕事がきつく思えるのは最初だけだから、慣れちゃえばなんてことないし。店長も言ってたけど、解らないことはなんでも私に聞いてね」
「あっ……はい! ありがとうございます!」
 ひょっとしたら、結構いい人なのかな――と、円香はそばかす眼鏡な先輩を見る目を少し改めた。再び、鐘巻がくすりと微笑む。
「ねえ、佐々木さんってさ…………前に男で酷い目にあったクチでしょ」
「えっ……」
 ドキリと、心臓が撥ねた。
(どうして解ったの?……まさか――)
 円香が必死に平生を装う努力をしている最中、鐘巻は微笑みに憂いを混ぜた。
「なんとなく解るのよね、そういうのって。……私もそうだったから」
「…………ええと……」
 どうやら、危惧したような事ではないらしいと解っても、それはそれでなんと返していいのか、円香は言葉に詰まった。
「ああ、別に慰めて欲しいとか、逆に慰めてあげるとか、そういうのじゃないの。ただ、うちって調理の方は店長以外殆ど女の子だから、そこは安心して、って。そう言いたかったの」
「……ぁっ……」
 それはある意味で、円香が最も欲していた情報だった。勿論、鐘巻もそういった円香の不安を見透かした上で、あえて言ったのだろう。
(……この人と一緒なら、巧くやっていけるかもしれない)
 眼前の先輩に尊敬の念を抱くと共に、勇気を出してバイトを始めてよかったと、円香は思った。



 他のスタッフが揃い、店が営業時間に入ると忽ちいくつかの注文が入り、調理場はてんやわんやの忙しさになった。かと思えば突然注文が途絶えて時間が空いたりと、円香が想像していたよりもメリとハリがはっきりした職場だった。
 それでも、初日は不慣れな事もあり、六時間の労働時間はあっという間に過ぎた。最初に鐘巻の言った通り、他のスタッフも女性ばかりで、男性スタッフも居るには居るのだがひっきりなしに配達に行っている為顔を合わせる事自体殆ど無かった。
「佐々木さん、お疲れ様。明日からは来るのもう少し遅くてもいいから。頑張ってね」
 店長のその言葉だけで円香はもう、このバイト先を選んで良かったという気になってしまった。
(鐘巻さんも思ったよりいい人だったし、他の子も優しいし……勇気を出して来て良かった)
 仕事内容も思っていた程きつくはなかった。というよりは、最初に鐘巻に脅しめいた事を言われて覚悟を決めていた分楽に感じただけではないかと円香は思った。
 夕方からのスタッフと入れ替わる形で円香は調理場を後にしてロッカールームへと向かった。
「あっ、佐々木さん。今はダメ」
 が、先ほどまで一緒に働いていた女性スタッフの中村優佳がロッカールームに入ろうとする円香の腕を掴んで止めた。
「えっ……何がダメなんですか?」
 と、円香が尋ね返すと、優佳はなにやら苦い顔をしてちらりと目配せをした。が、円香にはその意味が分からない。立ちつくしている間にロッカールームのドアが開き、中から鐘巻が出てきた。
「……ごめんなさい。もういいわよ」
「あっ、鐘巻さん。おつかれさまです!」
 既に調理場でも既に挨拶は済ませていたが、円香は改めて頭を下げた。鐘巻は「おつかれさま」と早口に言い、逃げるように店の裏手のドアから出て行ってしまった。
(あれ……?)
 もしや、自分は何かまずいことをしてしまったのだろうか――円香がそんな不安に苛まれかけた時、ぽんと優しく肩を叩かれた。
「気にしないで、佐々木さん。あの人いつもああなの。あの人が着替えてる時は誰もロッカールームには入っちゃいけないのよ」
「えっ……どうしてなんですか?」
「それは……ちょっと……ね。とにかく、気にしないで」
「は、はい……わかりました」
 釈然としないものを感じつつも、円香は渋々了承し、優佳と共にロッカールームへと入った。疑問は残るが、初日からあまり同僚のプライベートに踏みいるのもどうかと思ったからだ。
 しかし、それはあくまで円香がそう思っただけで、他人までそう思うとは限らない。
「佐々木さんてさ、この辺の人?」
「いえ……家は……ちょっと遠いんです」
「そうなんだ。まだ高校生くらいでしょ? 学校とかどうしてるの?」
「…………学校は、行ってないんです。……大検は受けるつもりなんですけど……」
「あっ、そうなんだ……ごめんね」
 まずいことを聞いてしまったと言わんばかりに優佳はいったんは口を噤んだ。が、それも一瞬の事だった。
「実はさー、私も浪人生なんだよね。って言っても、私は本当は受かってたの! 受かってたんだけど、一緒に受けた彼の方が落ちちゃってさ……それで、一人だけ浪人するのは嫌だーって泣きつかれて――」
 既に着替えが終わり、円香としては日が暮れる前に早く帰ってしまいたかったのだが、どうやら優佳の話はまだ続きがあるらしかった。
「――で、結局親には私も落ちてたって言ってさ……だけど、さすがに私の我が儘で生活費とか面倒見てもらうの悪いから、こうしてバイトしてるってわけ。……ちなみに佐々木さんは彼氏とかいる?」
「はい……一応……」
「そっかー、佐々木さん美人だもんねー。……胸もかなり大きいし、いいなぁー……ほら、私なんてこんなだよ? 佐々木さんくらい大きかったら彼の挟んであげたりとか、いろいろ出来るんだけどなぁ」
 ぐい、と。優佳は自らの胸を寄せてあげてみせては、はあと自虐気味なため息をつく。そのボリュームはいいところBカップといった所だった。
「あっ、ごめんね。佐々木さんひょっとしてこういう話苦手?」
「い、いえ……そんな、事は……」
 円香は慌てて否定をしようとしたが、どうしても舌がもつれてしまう。
(……妙子ちゃんとは、違う……)
 年下の、それも気心の知れた妙子相手であれば、気さくにも話せるし冗談めかしてお姉さんぶったりもできる。が、しかしまだ出会って間もない、しかも年上の女性相手ではどうしても気後れのほうが先に立ってしまう。
「本当にごめんね。友達にもよく言われるの、あんたはもう少し女らしさを磨けーって。でもね、どうしても黙ってられない性格なのよね」
「わ、私は……いいと、思います。…………うらやましいです」
 そう、それは円香が無くしてしまって久しいものだ。そして、それを再び取り戻す為には――恐らくは想像を絶する時間がかかることだろう。
「ま、なんにせよこれから一緒に働くわけだし、改めてよろしくね。ってやだ、もうこんな時間! 彼が帰ってくる前にアパートに戻って夕飯の支度しなきゃ!」
 散々長話をした挙げ句、優佳は大あわてで身支度を整えると火事場泥棒のような勢いでロッカールームを飛び出していってしまった。後に残された円香はきょとんとしばし惚けつつも、くすりと口元に笑みを浮かべていた。
(…………あの人とも、仲良くやれそう……かな)
 多少時間はかかるかもしれないが、ゆくゆくは普通の友達としての付き合いが出来るのではないか。妙子に、そして優佳。そうして普通の友達を少しずつ取り戻していけば、いつかきっと――。
(…………だけど、鐘巻さんは……一体どうして……)
 ロッカールームを後にしかけて、円香ははたと考える。優佳は自分のことを“黙っていられない性格”と言った。その優佳が言いよどむ何かが鐘巻にはあるという事なのだろうか。
(…………気にしない方がいいわ。……だって、そんなことを言い出したら)
 自分こそ、人に言えない秘密の多い女ではないか。それを赤の他人に掘り起こされる事を想像すれば、鐘巻がどういうつもりで着替えを見せないにせよ、そのことには触れまいと思えるのだった。

「あれ、佐々木さん。まだ居たの?」
 ロッカールームを後にするや、円香は再び店長と顔を合わせてしまった。
「す、すみません! すぐ、帰りますから……」
「ああ、そうか。中村さんに捕まったんだな。……あの子もいい子なんだけど、時々話が長いからなぁ……あんまり気にせず、適当な所で話の腰折っちゃっていいからね」
 全てを察したような店長の言葉に、円香は苦笑混じりの笑顔を返してぺこりと頭を下げた。
 その時だった。
「ちーっす。すんません、遅くなりました」
 一人の男が、店の裏口からあわただしく入ってきた。その声を聞いた瞬間、円香はぶるりと、背筋が震えるのを感じた。
(えっ……この、声……まさか……)
 数年ぶりに耳にした声に、円香は戸惑いを隠せなかった。そんなバカな、たまたま似た声の人なだけだと、己に必死に言い聞かせる。
「おう、奈良原。やっと来たか。次から遅れる時はもうちょっと早めに連絡よこせよ」
「うぃっす。すんませんした。…………ああ、そういや店長。今日入った新人ってもう帰りました?」
 奈良原――やっぱり。円香は己の推測が間違っていなかった事を悟るや、咄嗟にロッカールームの入り口の物陰に身を隠した。そこならばとりあえず男――奈良原恭哉からの視線には入らない――筈だった。
「ん、ああ、いや……まだ居るが……そんな事より早く着替えて配達に――」
「おっ、まだ居るんすか!? だったら会わせて下さいよ! すげー可愛い子が入るって店長言ってたじゃないっすか!」
 鼻息の荒そうな声を上げながら、恭哉が事務室の方へと歩いてくる。店長へと向けていたその目を、傍らで立ちつくしている女の方へと向けてきたのは、至極当然の事だった。
「あれっ……」
 円香と顔を合わせた瞬間、恭哉はぎょっと身をすくませた。それは、円香も同様だった。
 何故なら、この男はかつて――自分を――。
「ひょっとして…………円香ちゃん?」

 


 


「えっ、それじゃあ……円香さん、昔の彼氏……が居る所にバイトではいっちゃったって事?」
「元彼なんかじゃないよ。あの人とは…………あの人には、私が一方的に熱を上げちゃってて、それで……捨てられただけだから」
 バイト初日の衝撃的な再会から一週間後の月曜日、円香は武士の部活が終わるのを待ち、喫茶店へと誘った。勿論、“男の件”を相談するためだ。一週間も時間が空いてしまったのは、単純にこのことを武士に言うべきか、伏せておくべきか一人で悩み続けたからだった。
(……迂闊だったわ)
 今更ながらに、己の不明が悔やまれてならない。そう、確かに記憶を掘り起こせば、かつて――まだ自分があの男に熱を上げていた頃、突然連絡がとれなくなった事に堪えられなくなって尋ねていったアパートと、あのデリバリーピザ店はさほどの距離がないではないか。
(……でも、だからって……こんな偶然……)
 誰が予想しえただろうか。何より、円香自身宍戸の一件や、その前の学校を辞める原因になった事件の事に執着するばかり、かつて自分を弄び捨てた家庭教師の事など全くと言ってもいい程に忘れてしまっていた。
「……それで、円香さん……どうするの? バイト辞めるの?」
「…………うん、最悪、それも仕方ないかなって思ってる……」
 しかし、実際の所どうするべきなのかは円香にも判断がつかなかった。というのも、初日に気まずい顔合わせをしてからというもの、特にこれといった接触をされていないのだ。これが露骨に避けられたり、逆に旧友を暖めようとされたりしていれば、逆に辞めてしまおうと決心も固まるのだが。
(……シフトも昼と夜で違うし、ひょっとしたらこのまま……何もないかもしれないし)
 相手の立場になって考えてみれば、向こうとしても自分とはあまり顔を合わせたくないのではないかと円香は思うのだった。極端な言い方をすれば、伏せておきたい過去の事柄、汚点とも言うべきものに、自分は分類されているであろうから。
(…………どうして、あんな男……好きになっちゃったんだろう)
 一時の気の迷い――と思いたかった。当時、“初めて”を捧げた男に手酷く振られたばかりであり、優しく慰めてくれる年上の家庭教師が頼もしく見えて仕方が無かった。この人ならば、と。半ば熱病のように想いを傾け、体を捧げた。
(確かに……優しかったし……バイクでいろんな所につれていってくれたりしたけど……)
 そう、初めは優しかった。が、次第に恭哉の態度は変わり、円香にも相手の心が徐々に離れていくのが分かった。だからこそ、円香は必死になってその心をつなぎ止めようとした。そして、最後には――円香は、自分はそもそも相手にもされていなかった事を思い知った。
「……その人……円香さんに何か言ってきたの?」
「ううん……初日にちょこっとだけ喋って、それから一度も顔を合わせてないの。……私の事覚えてないっていう事は無い筈なんだけど」
「そ……っか……。………………円香さんは……どうなの?」
「どういう意味? 武士くん」
「いや、その……」
 武士は何か、重い塊でも飲み込むように顔を歪め、そしてぽつりと漏らした。
「円香さん……その人のこと……まだ、好きなの?」
「えっ……?」
 円香には一瞬、武士が何を言っているのか理解ができなかった。
「ちょっと待って、武士くん。何か勘違いしてるみたいだけど、……確かに、昔は好きだったけど、今はもう私は何とも思ってない人なんだよ?」
「……そうだといいんだけど」
 そんな武士の言葉に、円香は少しだけかちんと来てしまう。
「武士くん……酷いよ。私がどれだけ武士くんの事好きなのか知ってて、そういう事言うの?」
「……傷つけちゃったのならごめん、円香さん。だけど……」
「武士くんにも前に話したでしょ? 私が…………昔、付き合ったことのある男の子達の事……あんな風に二股かけて、私を捨てた男の事なんて、私はもう何とも思ってないんだよ?」
「うん……そうだったね、本当にごめん、円香さん。…………多分俺、嫉妬してるんだ。その……昔の彼氏って奴に。またそいつに円香さんがとられたらどうしよう、って……そんな事ばかり考えてる自分が嫌になるよ」
「武士くん……」
 ああ、やっぱりそうなのだと、円香はホッと胸をなで下ろした。そしてテーブルの上でそっと武士の手を握った。
「大丈夫だよ、武士くん。どんな事があっても、私が一番好きなのは武士くんだから」
「俺も……何があっても、一番好きなのは円香さんだけだよ。……だから、二度ともう……あんな事は――」
 ぎり、と。武士は唇を噛みながら、円香の手を握り返す。
「……もし、また何か……円香さんが酷い目に遭うような事があったら……っっ…………今度は絶対、そうなる前に俺、円香さんを守るから」
 例え――と、武士は声のトーンを落として続ける。
「人を殺す事になっても、俺は躊躇しない。円香さんの為だったら、俺……何でも出来る」
「………武士、くん……」
 ぞくりと、円香は背筋を震わせた。眼前のまだ幼さの残る恋人が口にしている言葉は単なる虚勢でも強がりでもなく、揺るぎない決意であると感じ取ってしまったからだ。
「………………もうっ、武士くんったら、大げさなんだから。そうそう何度も悪いことばかり起きる筈ないでしょ?」
「……そうだけど。でも、俺……本当に心配なんだ」
「大丈夫だって。もし、また何か危ないことになりそうだったら、その時は今度は真っ先に武士くんに相談するから。ね?」
 一にも二にも武士の不安を取り除いてやりたくて、円香は精一杯の笑顔でそう返した。返しながら、密かに思った。もし、また万が一“そういう事”に巻き込まれそうになった場合、武士を殺人者にするくらいならばきっと自分は密かに消える方を選ぶだろうな――と。



 喫茶店を出て、円香を家まで送った後、宮本武士は一人帰路についた。
「…………大丈夫かな、円香さん」
 帰り道、武士はつい独り言を呟いてしまった。つい口から出てしまう程に、武士は円香の身を案じていた。
(……何も無ければいいけど)
 円香は大丈夫だと言った。本当にそうならどれほど良いかと武士は思う。
(……っ、バカッ……悪い方に考えすぎだ。……今までが、どうかしてたんだ)
 武士の知る限り、円香は既に二度、言葉にしがたいような目に遭っている。そのような事がそうそう円香の身にばかり続く事など、あり得ないではないか。
(そうだよ……その元彼って奴だって、別に円香さんに酷いことをしたってわけじゃないんだし……)
 否、酷いことをしたといえば、そういうことにはなるのだろう。何せ、れっきとした彼女が居るのに、家庭教師先の教え子に手を出していたのだから。しかしその後に起きた事があまりに凶悪過ぎて、どうしても“その程度の事なら”という見方をしてしまう。
(…………本当なら、そんな奴が居るバイトなんて、辞めて欲しい、って……言いたい)
 しかし、そんなことまで円香に要求する権利は自分には無いと武士は思う。円香は円香できちんと自分で考え、大検を受けるという目的のために努力をしているのだ。そんな円香の決意、行動に水を差すような事は出来ない。
(…………それも、みっともない嫉妬なんかで)
 そう、これは嫉妬――或いはただの邪推なのだ。自分の見ていない所で昔の男が円香に手を出すのではないかと。顔も知らない男が想像の中で円香の手を握り、抱き寄せ、その唇を奪う――そんな光景を思い描くたびに、武士は近くにあるものに手当たり次第拳をぶつけてやりたい気分にさせられる。
(畜生っ…………何で俺は中学生なんだ)
 己の甲斐性の無さが悔しくて堪らない。金の事なんか何も心配はいらない、円香さんが働く必要なんてない――そう言ってやれないもどかしさに、武士は時折歯ぎしりをしたいほどの焦燥を感じてしまう。
(円香さんは……分かってない。……自分がどれだけ隙だらけなのかって事を)
 異性――男である武士には、それが分かりすぎる程に分かってしまう。昔はどうあれ、あの日、歩道橋の上で円香を保護してからというもの、それはずっと武士が感じ続けている事だった。
 無防備――これほどこの言葉がハマる状態も珍しいだろう。服装がどうこうという話ではない。雰囲気やちょっとした仕草などが、如実に“あれ、この女意外に簡単に落とせるんじゃね?”と思わせるようなオーラを如実に出してしまっているのだ。しかも、本人はどうやらその事には全くの無自覚らしいというのが、武士には二重に心配でならない。
(…………俺が、守らなきゃ)
 円香に関して言えば、片時でも目を離してしまうのは危険だと感じた。叶うならば、円香の体を小人サイズにまで縮め、鍵のかかった小箱にでも大切にしまい、肌身離さず身につけていたいとすら、武士は思っていた。
(………バカな妄想だ。もっと現実的に、どうすればいいか考えるんだ)
 この手の事を考える時に、真っ先に思いつくのが部活を辞めてしまうという案だった。部活を辞めて帰宅部となれば、自然と円香と過ごせる時間は増える。至極、他の男達の魔の手から円香を守れる時間も増えるというものだ。
(…………だけど、円香さんは反対するだろうな)
 今までにも何度か部活を辞めようと思っている旨を円香にほのめかした事はある。が、その都度武士は円香の強い反対に遭い、渋々部活動を続けてきた。
 円香が反対する主な理由というのは単純だった。一つは、「キーパーをしている時の武士くんはカッコイイから」というものであり、もう一つは「部活動は絶対やっていたほうがいい」という、円香の人生訓から出たらしいものだった。その上さらに、勝手に部活を辞めたりしたらもう二度とエッチはさせてあげないと脅されては、曲がりなりにも男性器を持つお年頃の中学生としては、逆らう事など出来る筈がない。
(はぁ……どうすりゃいいんだ……)
 確実に前へ、前へと進もうとしている円香に比べ、自分は安穏とごく普通の学校生活を送るしかないのか。それではいつか円香に見限られ捨てられるのではないか。
 そんな漠然とした不安に苛まれながら、武士はとぼとぼと自宅へと帰り着き、玄関のドアを開けた。
「……ただいま」
 そして靴を脱ぎながら、おや?と思った。いつもならば、先に帰宅した姉が夕飯の準備をしている筈なのだが、小気味の良い包丁の音も、揚げ物をする油の弾ける音も何も台所から響いてこないのだ。
「姉貴……帰ってないのか?」
 変だなと思い、武士は台所を除いてみた。――そして、ぎょっと身をすくませた。
「あ、姉貴……何やってんだよ!」
「………………?」
 由梨子はといえば、扉があいたままの冷蔵庫の前に膝立ちになった状態で、一心不乱に何かを吸い続けながらくるりと武士の方を向き、まるで「あなたはだあれ?」と言わんばかりに不思議そうな顔のまま、小首を傾げてくる。よく見ると由梨子が吸っているのは、普段の菓子作りに使っているデコレーション用の生チョコらしく、口の周りにもべっとりとくろいチョコがはりついていた。さらに見れば、辺りには同じようにして食い尽くされたらしい生クリームやらクッキー用のナッツが入っていた袋やらが無惨に散らばっていた。
「…………お腹が空いてたの」
 由梨子はちぅぅぅぅ、と生チョコを入っていた容器から吸い尽くすと、ぽつりとそんな言葉を呟いた。その言葉も、普段の姉のイントネーションとは随分違う気がして、武士は眼前にいるのが本当に姉なのか一瞬疑わしくなってしまった。
(いやでも……姉貴……だよな?)
 その姿形を見る限り、間違いは無いように見える。
(確かに……時々わけわかんねー行動する事あったけど……)
 冬の最中に突然薄着で外に飛び出していったりしたこともある。しかしそれは姉なりに想いが高じてつい飛び出して行ってしまっただけなのだろうと、武士は自分なりに納得していた。
 しかしこれは、一体どう納得すればいいのだろうか。
「あ、姉貴が自分で買ったものだから……どうしようと勝手だけど……ちゃんと……後かたづけはしとけよ?」
「うん」
 由梨子はまるで幼子のように頷くと、言ったそばから生チョコの容器を放り出してがさごそと冷蔵庫の中を漁り始める。
(…………紺崎さんと何かあったのかな)
 或いは、フラれでもして、精神が破綻してしまったのだろうか。武士はそんな事を考えながらも、今の状態の姉に夕飯の催促までするのは酷だと思い、とりあえず荷物を置きに二階へと上がろうとして、はたと。
(ああ、そうだ……アレだけは念を押しとかないと)
 足を止め、再び階下へと降り、台所へと向かった。
「あのさ、姉貴。今度の水曜、家に彼女呼ぶから、なるべく遅く帰ってきて欲しいんだけど」
「………………?」
 今度は調理前の油揚げを囓りながら、またしても由梨子は小首を傾げてくる。
「いや、ほら水曜はうちの中学創立記念日で休みだからさ。家に彼女呼びたいんだ。姉貴は普通に学校あるだろうけど、帰る前に携帯に絶対連絡入れて欲しいんだ。最悪でも三十分前にはメール入れて欲しい」
「うん、わかった」
 こくりと、由梨子は大きく頷き、もしゃもしゃと油揚げを食べ始める。
(…………本当に分かってるのかよ。大丈夫かな……)
 念のため、当日の朝辺りにもう一度言ったほうがいいかもしれない――そんな事を考えながら、武士は自室へと続く階段を上がるのだった。



 翌水曜日を控えた火曜日、その日のバイトは円香にとってかつて無いほどに厳しいものとなった。というのも、それは単純に労働時間が倍に延びたからだった。
 ゴメン、佐々木さん! 今日夜の子が二人も来れなくなっちゃって、俺も用事で店を空けなきゃいけないから、出来たらこのまま夜まで入ってくれないかな?――夕方、着替えを終えて帰ろうとした矢先、店長に手を合わせて懇願され、円香はやむなく承諾した。バイトを始めたばかりの頃から店長には何かと目をかけてもらい、何度か失敗をしてしまった時などもその場では叱られても、後々ケアをしてもらったりと、円香は個人的にこの店長が嫌いではなかった。だから、店長が困っているのならば極力助けてやりたいと常々思っていた。
「……なーんかテンチョー、佐々木さんにばっか甘くない?」
 と、自称思ったことがすぐ口から出る女――優佳は店長に慰められた後などに冗談めかしてそんな事を言ってくるのだが、円香としては答えようが無かった。そうやって円香が答えあぐねていると、きまって「美人は得よねー」と零し、その日のバイトは殆ど口をきかないという流れになるのだが、しかし次の日にはけろりとした顔でバラエティ番組の話題なんかを振ってくる気分屋な同僚もまた、円香は決して嫌いではなかった。
 とはいえ、そんな店長の頼みとはいえ、さすがに夜にも入って欲しいという願いは出来れば断りたかった。それは疲れるからというような肉体的な理由ではなく、ある男と顔を合わせたくないという精神的な理由に他ならなかった。しかし、居残りをするのが自分だけではなく、比較的親しくしている優佳も一緒ということで、円香は渋々店長の頼みを受けたのだった。
 そうして夜のシフトまで残ったのはよかったものの、思いの外注文は少なく、手持ちぶさた気味になったスタッフの話題は自然と一人の同僚へと収束した。
「鐘巻さんってさー、なんで辞めないんだろうね」
 あるスタッフの一人などは露骨にそんな言葉を呟いた。勿論これは、夕方の時点で鐘巻が帰っているからこそ口に出来る言葉なのだが。
 こういった話題が始まった時、円香はなんとも居心地の悪いものを感じてしまう。というのも、円香自身としては鐘巻に対してそれほど悪い印象を持っていないからだ。
(……昔の私なら…………きっと、平気で鐘巻さんの悪口を言ってた……かな)
 自分がどう思っているかなどあまり関係がない。ただ周りに合わせるという理由だけで、思いもしない鐘巻の悪口を口にしていただろう。
 しかし、実際に自分が陰口を言われるような立場になって、円香はせめて自分はそういう事は言わないようにしようと心に決めていた。だから、同僚達がこの手の話題で盛り上がり始めた時は、なるべく話をふられないように円香は目立たないように黙る事にしていた。
 とはいえ、彼女たちの話が真実であれば、確かに鐘巻という女性は陰口をたたかれるだけのことはある、と納得してしまうのも事実だった。
 ある同僚は休日に鐘巻に誘われて出かけたら英語の教材のセールスマンと引き合わされて酷い目に遭ったと言い、他の同僚も鐘巻を家に招いたらつまらない小物をいくつか盗まれただの、一緒に食事をしても自分は一切金を出さないだの、とにかく評判が最悪なのだ。
「……ここだけの話だけどさ…………あの人はヤバいよ、うん」
 と、人当たりの良い優佳ですら、鐘巻の事は良くは思っていないらしかった。
「ていうかさ……私、とんでもないものみちゃったんだよね……」
「とんでもないもの?」
「なになに、教えてよ!」
 食いつく同僚達に隠れて、円香も密かに聞き耳を立てた。
「……絶対誰にも言わないでね? 特に、あの人には絶対に」
「分かってるって。うちら口は堅いよー?」
「絶対誰にも言わないから教えてよ、優佳ちゃん」
 夜間スタッフの二人は真面目な顔をして言うが、円香にはどう見ても二人が口の堅い部類の人間には見えなかった。が、優佳は二人の言葉を信じたのか、はたまたもう喋りたくて仕方がないのか、あっさりと自分が見たものについて語り始めた。
「……ほら、あの人って……自分が着替えるとき絶対誰もロッカールームに入れないじゃない? 私、そのことで何度かあの人と喧嘩してさ……どうしても納得できなくって、一度ロッカーの中に隠れてあの人の着替え見た事があるの」
「それでそれで?」
「龍の彫り物があったとか?」
「……あ、それちょっと正解。…………あの人さ、入れ墨入れてるみたいなの」
 うわっ、と。夜間スタッフの二人が絶句する。が、優佳の言葉はさらに続く。
「それもさ、普通の入れ墨じゃないの。……なんていうか、私もあんまりまともには見れなかったんだけど……“メス豚”とか“公衆便所”とか、“一回百円(笑)”とか……なんかそういう文字が背中とかお尻とかお腹とかに大きく書かれてたの」
「なにそれ……自分で入れたの?」
「いや、男でしょ。……そりゃー一人で着替えたくもなるかもね。だけどさ、そんなのうちらには何も関係ないじゃん。一人で着替えるにしてもさ、みんなが着替えた後であの人が着替えるってのが筋じゃないの?」
「普通はそうだよねー。ていうか、私……絶対あの人、他の人のロッカーから何か盗ったりしてると思ったから、隠れて見てたんだけど……」
「いや、実際やってるんじゃない? 優佳ちゃんも佐々木さんも鍵はしっかりかけたほうがいいよ? うちらは基本シフト違うからあんまり接点ないけどさ」
「そうだね。佐々木さんなんて基本昼間だけだから、四六時中あの人と一緒だもんね。……何か言われたら、すぐうちらか店長に言ったほうがいいよ?」
「あ、うん……そうする……」
 鐘巻の話題に関して、円香が返せるのはそんな当たり障りのない答えだけだった。
 程なく、大口の注文が立て続けに入り、鐘巻の話題は自然と立ち消えになった。が、優佳の話した内容は円香の心に重くのしかかり続けた。

 閉店時間となり、調理場の掃除を終え、着替えを済ませて店を出たところで、円香は思いも寄らぬ人物に声をかけられた。
「あっ、まど――……じゃなかった、佐々木さん、ちょっと……いいかな」
「………………はい」
 その声を聞くだけで、円香の全身に緊張が走った。ゆっくりと振り返ると、革ジャンを羽織った奈良原恭哉がばつが悪そうに頬を人差し指で掻きながら苦笑いを浮かべていた。
「……何か、用ですか?」
「ああ、うん……用っていや……そうかな。佐々木さん、昼からずっと入ってて、メシとか賄いくらいしか食ってないだろ? 良かったら、帰る前にどこかで軽くお茶でもどうかな、って……」
「………………。」
「それに……ちょっと、話しときたい事もあるし。……ほら、佐々木さんも、こんなモヤモヤしたままでバイトするのとか嫌だろ? 一度きっちり話しとかないか?」
「……………………そうですね」
 円香は極力感情を込めない声で返事を返した。確かに恭哉の言うとおり、今までのようになんともばつの悪いモヤモヤした状態でバイトをし続けるよりは、一度きっちりと決着をつけておいたほうがいいかもしれない。
(…………武士くん、……少しだけ、私に勇気を分けて)
 愛しい相手の姿を心に思い浮かべながら、円香は深呼吸をし、恭哉の後に続いた。



 もし、恭哉が少しでも人気のない路地や、或いは自分の部屋に連れ込むような真似をしたらすぐさま大声を上げ周囲に助けを求めるつもりだった。が、円香のそんな心配とは裏腹に、恭哉が選んだのはバイト先のピザ店の周囲よりもむしろ人気の多い、大通りに面したファミレスだった。
「何でも好きなものを頼んで。奢るよ」
「……いいです。自分の分は自分で払います」
 恭哉の提案をきっぱりと断り、円香はお冷やを持ってきた店員に早速ホットコーヒーを注文した。恭哉が慌ててコーヒー二つ、と注文を修正し、メニューをテーブル端のメニュー立てへとしまった。
 注文したコーヒーが来るまで、恭哉も、そして円香も無言だった。円香は円香で最早この男と話す事など何も無いと思っていたし、恭哉は恭哉で何か話すきっかけを掴みかねているという感じだった。
(…………もうあれから三年……か。大分変わったなぁ)
 言葉こそ交わさないが、円香はしげしげと眼前に座っている男の容姿を観察していた。いかにも女にモテそうな――というより、かつての自分ごのみの――顔立ちなのは変わっていないが、中分けロングだった髪型は整髪料で逆立てたショートカットへと変わっていて、三年前は無かった顎髭によって若干ワイルドな印象が増していた。体つきも若干ではあるが、筋肉質になったように思える。
(……って、何で観察してるのよ……どうでもいいじゃない、こんな奴の事)
 そう、この男はかつての自分を捨てた男なのだ。その容姿がどう変わろうが知ったことではないではないか。
「……何から話せばいいのか……とにかく、ゴメン! あんな事になる筈じゃなかったんだ」
「……別に、謝ってもらうような事なんて何もないですけど」
 テーブルに額をぶつけるような勢いで頭を下げる恭哉を、円香はごく冷めた目で見守った。
「……いや、とにかく最後まで話を聞いて欲しい。きっと佐々木さんは……俺に捨てられたとか、そういう風に思ってるんだろうけど、実は違うってことをきちんと説明しておきたいんだ」
「…………別に、二股とか、珍しい事じゃないですし。終わった事ですから」
「違う! あれは二股なんかじゃなかったんだ」
「……どういう意味ですか?」
「あの時同棲してた女……沙織ってんだけど、もう殆ど別れる寸前みたいな感じでさ。俺、家庭教師しながら円香ちゃんの事……本気で好きになり始めてたから、なんとかあいつと別れ話して、きちんと別れてから改めて円香ちゃんと付き合いたいって、そう思ってたんだ。だから――」
「だから、私が携帯にメールをしても留守電にメッセージを入れてもあえて無視していた、って言いたいんですか?」
「……うん、まあ……そういうことなんだけどさ。……はは、今更こんな事言ってもやっぱり信じてもらえないよな」
「そうですね」
 勿論円香はそんな戯言など信じてはいなかった。第一、本当にそういう事情があり、疎遠になっていたのも偏に“付き合うなら、きちんとけじめをつけてから”という事であったのならば、そのまま何の連絡も無いという事はありえないではないか。
「それに私、もうちゃんとした彼氏いますから」
 もし、よりを戻そうという気なら無駄だと、円香はキッパリと宣言をした。
「そうなんだ。……そりゃそうだよな、うん……円香ちゃん綺麗になったもん。正直、見違えた」
 しかし、思いの外恭哉は残念そうでも、そして意外そうでもなく、しみじみとそんな事を言った。
「昔はさ、なんか精一杯背伸びして、大人っぽく振る舞ってるって感じだったけど。今は……黙ってても大人の女の色気が出ちゃってるっていうかさ。……そりゃあ男は放っとかないって」
「……褒め言葉として受け取っておきます」
 恭哉は一体どういう男を自分の彼氏として想像しているのだろうか。まさか年下の、しかも中学生とは思うまい。
「……話ってそれだけですか? だったらもう帰ってもいいですか?」
「あぁ、うん……そうだね。とりあえず、言いたい事は言ったかな……円香ちゃん、駅までの帰り道は分かる?」
「大丈夫です。……あとそれと、その“円香ちゃん”っていうのは止めてもらえますか」
「……りょーかい。分かったよ……佐々木さん。とりあえず、これだけは分かって欲しい。俺はただ、バイト先の同僚ということで、佐々木さんとも普通に仲良くしたいだけなんだ」
「そうですね。私もそうできれば一番だと思ってます」
「それが分かってもらえたならいいんだ。来週から俺もちょくちょく昼にも入る事になるからさ、その前に一度、まど――佐々木さんときちんと話しておきたかったんだ。今日は付き合ってくれてありがとう」
 恭哉は何の含みもない、純粋な笑顔を浮かべると若干冷めてしまったコーヒーを一息に飲み干し、一足先に席を立った。
「コーヒー、やっぱり俺のオゴリにしておくよ」
 円香が止める間もなく、恭哉は伝票を手にレジへと向かってしまう。ただ1人席に残された円香は恭哉が店を後にするのを見送ってから、そっとコーヒーに手を伸ばした。
(…………ちょっと、無愛想すぎた……かな)
 ひょっとしたら、下心など微塵もなく、ただただ旧交を温めたくてお茶に誘ってくれたのでは――そんな事を考えて、円香はきゅうと胸が苦しくなるのを感じた。


 待ちに待った水曜日の朝。武士は母と、そして姉の由梨子が家を出るのを確認してから早速に円香へとメールを送った。円香からの返信もすぐに帰ってはきたが、その内容は“今買い物中だから、もう少しかかりそう”だった。
 武士は文字通りヤキモキしながら待ち続け、メールが着信してから約三十分後にインターホンが鳴った時にはもう殆ど玄関先で円香の到着を待ちわびていた。
「いらっしゃい、円香さん」
「あっ……もうっ。早いよ、武士くん」
 苦笑混じりに、円香は両手に買い物袋を提げたまま、武士に招かれるままに家へと上がる。早い、というのは無論インターホンを押してからドアが開くまでの時間の事なのだろうが、武士に言わせれば円香が待たせすぎなのだった。
「あっ……た、武士くん……?」
 円香がドアを閉めるなり、武士は両腕で力一杯に円香を抱きしめた。いきなりそんな事をされても円香も困るだろうと分かってはいても、そうせずにはいられなかった。
「ま、待って……武士くん! 私、両手ふさがってるんだから………………ズルいよ、自分だけ」
「……ごめん、円香さん。だけど俺……ずっと、こうしたくて……」
 出来ることなら、このままたっぷり二時間は抱きしめていたい――そんな誘惑を辛うじてねじ伏せ、武士は円香を包容から解放した。
「もうっ……」
 円香はため息混じりに両手の買い物袋をその場に下ろして、そして今度は円香の方がぎゅっ、と。武士の背へと手を回し、抱きしめ返してきた。
「……そんなの、私の方だって一緒なんだよ? ずーっと、武士くんとこうしたいって思ってたんだから」
「……円香、さん」
 武士もまた、円香の背へと手を回し、再度強く抱きしめた。そのまま、吸い込まれるように唇を重ねようとした所で、あっ、と。円香が声を上げた。
「ま、待って……キスは、まだダメ。…………あとの楽しみにしよ?」
 めっ。と言わんばかりに円香が悪戯っぽく笑い、両腕で突っ張るようにして体を離してしまう。
「料理の材料、いっぱい買ってきたの。今日は私がお昼ご飯作ってあげる」
「じゃあ、俺も手伝うよ。何を作るの?」
「だーめ、武士くんはお部屋で待ってて。今日は全部私が一人で作りたいの。……いつも、お弁当でしか手料理食べさせてあげられないんだもん。今日という今日はできたてほやほやの私の手料理食べさせてあげたいの」
「でも……」
「年上の言う事は素直に聞くの! ほら、武士くんはお部屋で待ってて? 絶対途中で覗いたりしちゃダメだからね?」
 半ば強引に、武士は背中を押されるようにして二階へと追いやられてしまった。
(…………本当は、手料理よりも、一分一秒でも長く円香さんと一緒に居たい……けど……)
 できたての手料理を食べさせてやりたいという円香の気持ちを尊重し、武士は大人しく自室へと入った。


 ――二時間後。
「…………円香さん、まだ料理してるのかな?」
 武士はさすがに自室で暇を持て余し、様子を見に行ったものかどうか、その瀬戸際で悩んでいた。
 時刻はやがて正午を回る。母親はいつも通り帰ってくるとしても深夜であろうから気にはしないが、問題は姉の方だった。なるべく遅くに帰って欲しい、そして帰る前には必ず一報入れてほしいとは言っているが、その一報がいつ入るかは全く読めないのだ。極端な話、決して体が丈夫ではない姉が学校で急病にかかり、今この瞬間に“早退するから三十分後には帰る”という内容のメールが届かないとも限らない。
(……さすがに、そんな事はないだろうけど)
 姉の事であるから、学校が終わった後もある程度時間を潰して帰ってきてくれるのでは、と武士は期待していた。何故ならば武士自身、由梨子に同じような要求をされたときは何かと気を使い、わざわざ遅く帰ったりとしているのだから。こちらも同じ要求をするのは至極当然だと武士は思っていたし、事実今までは由梨子も同じように気を遣ってくれていた。
(……だけど、なんかこないだから姉貴、様子が変だからな)
 外見上は紛れもなく姉本人に相違ないのだが、その行動パターンがまるで幼児退行でもしてしまったのではないかと危ぶみたくなる程に不可思議極まりない事になってしまっているのだ。
(……明日辺り、しっかり話聞いてやったほうがいいかな)
 或いは、自分が危惧した通りあの先輩にフラれでもしたのかもしれない。その場合、弟として何もしてやれる事はないわけだが、単純に喧嘩をしてしまったとか、その程度の事であれば間に入ってやるくらいの事は出来るかも知れない。
(…………にしても遅いなぁ。……まだしばらくかかったりするのかな?)
 折角の円香と二人きりで過ごせる休日だというのに、こうして一人で時間を浪費し続ける事が武士には耐え難い苦痛に思えてくる。
(…………ちょっとだけ、様子見に行ってみようかな)
 円香は絶対見ないでと言っていたが、せめて調理がもうすぐ終わりそうなのか、まだまだかかるのかくらいは確かめなければと武士は思った。姉が帰ってくる時間を七時前後と想定しても、残された時間は六時間弱しかないのだ。
 武士は音を立てないようにドアを開け、抜き足差し足忍び足でそっと階下へと降りていく。その途中で、うっ、と思わず口と鼻を覆った。
(なんだ……この臭い……)
 酸っぱいような、それでいて焦げ臭いような。否、実際に何かが焦げているのだ。換気扇が吸いきれなかった煙が微かに階段の方へも流れてきていて、武士はそれを見るや慌てて階下へと降りた。
「あーんもう……なんでこんな変な味になっちゃうんだろ……ちゃんと本の通りに作ってるのに……仕方ないわ。もう一度おダシから取り直して――」
「円香さん!」
 台所に入り、円香の後ろ姿を見るや――甲斐甲斐しく腕まくりをして、髪も後ろで一つに束ね、黄色いエプロンに身を包んだその姿にどきんと胸を弾ませつつも――武士は大声で円香の名を呼んだ。
「きゃっ、た、武士くん!? もうっ、絶対見に来ないでって――」
「火、止めて! 何か焦げてる!」
「えっ……あっ、ほんと……焦げ臭…………」
 円香はくんくんと鼻を鳴らし、その焦げ臭さの元を探して辺りを見回し始める。が、ガス台の上に乗っている大鍋はみたところ煙は噴いていない。ではこの煙はどこから――と、武士は台所中を見回し、黒煙を噴いているオーブンに気がついた。大急ぎでオーブンのそばへと駆け寄り、その蓋を開ける。
「わぷっ……」
 忽ち、凄まじい量の煙が台所の天井を覆った。武士は煙に噎せながらオーブンの中へと目をやると、微かにチキンの面影がある黒い塊が大皿の上に無惨に転がっていた。
「あぁ……そんな……どうして……」
 円香もまた、オーブンの中をのぞき込んで愕然と立ちつくしていた。
「……多分だけど、温度設定か時間設定か、どちらか間違えちゃったんじゃないかな。…………姉貴も昔よくそれで失敗してたんだ」
 武士は姉が使っているミトンを手にはめ、オーブンから大皿を取り出し、テーブルの上へと移した。形を見るに、元はさぞ見事なチキンだったのだろうが、表面はすっかり炭化し、とても食用に使えるとは思えなかった。
「ろ、ローストチキンを作ろうと思って……家で……お手伝いさんがたまに作ってくれて……とっても美味しかったから……だから……作り方を教えてもらって……」
「……ありがとう、円香さん。その気持ちだけで嬉しいよ。……失敗しちゃったのは残念だけどさ」
「あっ、で……でもね、サラダはちゃんと出来たんだよ? カレーは……ちょっと、味付け失敗しちゃったけど……」
 見れば、テーブルの上にはプラスチックのボウルに大量のサラダが丁寧に盛りつけられていた。レタスにキャベツ、セロリ、アスパラガス、ミニトマト、輪切りにしたゆで卵などがやや無骨ながらもちりばめられていて、姉が調理をする様を何かと側で見てきた武士には、円香がどれだけ苦労して盛りつけたのかが手に取るように分かった。
「あ、あと……本当は蟹クリームコロッケとかトンカツとか……そういうのも一緒に作る予定だったんだけど……カレーのお出汁がなかなか巧くいかなくって……」
 チキンにカレー、蟹クリームコロッケにトンカツ――全て、過去に武士が自分の好物だと円香に伝えたものばかりだった。
「ごめんね……武士くん……もうちょっと……自分では料理できるつもり……だったんだけど……」
「……謝ることなんてなにもないよ」
 武士はもう、胸がいっぱいになってしまって、今にも泣き出しそうな円香をそっと包み込むようにして抱きしめた。
「……それに、そんなにたくさん一度に作られても食べきれないよ。カレーと、このサラダだけで十分だよ」
 武士はガス台の上でぐつぐつと煮込まれている大鍋へと目をやる。まだルーを入れる前らしいその鍋からは、カレーを作っている最中とは思えないほどに酸っぱい臭いが漂っていた。
「あっ、で、でも……あれはダメ! なんだかすごく酸っぱくなりすぎちゃってるから……もう一回だけ作り直させて?」
 もう一回だけ――というその言葉だけで、既に今作られているカレーが二作目、ひょっとしたら三作目であろう事が武士には分かってしまった。
 武士は円香から手を離し、ガス台へと歩み寄ってオタマで僅かばかり汁をすくい取り、舐めてみた。
(…………なんでこんなに酸っぱいんだろう)
 武士はぐらり、ぐらりと鍋の中身をかき回してみる。煮込まれている食材はエビ、輪切りにされたイカ、コーン、マッシュルーム、牛肉、にんじん、ジャガイモ、タマネギまでは確認することができた。このうちの何かが腐ってでもいたのだろうか?――しかし、武士の知る限り、腐って酸っぱくなるような材料はこの中には含まれていない。
(じゃあ、何かの調味料と間違えて酢を大量に入れちゃったとか……?)
 見れば、ガス台の周りには見慣れないワインのボトルのようなものが三つほど並んでいた。武士はそのうちの一つを手にとり、全ての疑問が氷解した。
(…………バルサミコ酢……これか)
 ワインボトルの中身は、既に半分を切っている。恐らくは隠し味のつもりでいれた筈が、隠しきれない分量になってしまっているのだろう。
「……ね? 美味しくないでしょ?」
 いつの間にか側に来ていた円香にそんな事を言われ、武士は危うくそのまま卒倒してしまいそうになった。他の誰でもない、恋して止まない円香にそんな言葉をかけられたら、例え三角コーナーの生ゴミであっても笑顔で食べられると武士は思った。
「……大丈夫だよ。カレーなんて、カレー粉を混ぜればある程度の味にはなるものだから」
「でもっ……!」
「それに、ここまで作っちゃってるのに捨てるのはもったいないよ。……姉貴が結構そういうところ厳しくてさ。俺も、十分食えるものを捨てるの大嫌いなんだ」
 武士はガス台の上の戸棚から缶に入った粉状のカレールウを取り出し、時々味を確かめながら鍋へと振りかけていく。
(……えーと、姉貴は他に何いれてたっけ……)
 武士はうろ覚えの中、由梨子がカレーを作るときに入れていたナツメグ、クミンなどの調味料を目分量で鍋に加えていく。酸っぱさ全開であった臭いが次第にカレーの臭いへと変わっていき、“一部の風味”を覗けばほぼ由梨子メイドと言える臭いに変わったところで、武士は鍋の火を止めた。
(あっ……そういや姉貴は火を止めてから調味料入れてたような……)
 そんな事を後から思い出したが、今更どうしようもない事だった。最後に、少しだけオタマにすくって味を確かめると、酢酸の風味が強すぎるきらいはあるものの、辛うじて食用には耐えるレベルの味に仕上がっていた。
「うん、イケる! これなら全然食えるよ、円香さん」
 きっと円香も喜んでくれる――武士はてっきりそう思いこんでいた。だから、傍らに立つ円香が相変わらず今にも泣き出しそうな顔のままである事に些かショックを受けた。
「…………すごいなぁ、武士くん……料理も出来ちゃうんだ」
「えっ……ぁ、いや……違うよ……円香さんが途中まで作ってくれてたからだし…………そ、それに……うちは姉貴が料理得意だから! それを見よう見まねで……」
「見よう見まねで私より全然出来ちゃうんだ。………………ちょっと、本気で凹んじゃいそう、かな」
 武士から顔を隠すように円香は背を向け、肩を震わせる。
(そんな……俺、円香さんを励まそうと思って……)
 悪気など微塵もある筈がない。ただただ純粋に、ちょっと味付けに失敗したくらいで捨てる事はないということを示したかっただけだというのに。
「ごめん、武士くん。……私、今日はもう、このまま帰るね」
「えっ……そんな……」
 円香の突然の言葉に、武士はぎょっと声を上げてしまった。円香は相変わらず武士に背を向けたまま、小刻みに肩を震わせていた。――それが、笑いを堪える為の震えだという事に武士が気づいたのは、円香が振り返った後だった。
「…………なんちゃって。びっくりした?」
 くるりと、ポニーテール状に纏めた後ろ髪をたなびかせて振り返った円香は小悪魔のような笑みを浮かべて、あっけにとられている武士をさらに唖然とさせた。
「もうっ、武士くんのばかばか。私が失敗しちゃった料理をそんな風に見事に直されちゃったら、立つ瀬がなくなっちゃうじゃない。もうちょっと、年上の立場っていうものを考えてよ」
「あっ……ご、ごめん……円香さん。俺……そこまで気が回らなくて……」
 心中ホッと安堵しつつ、武士は素直に謝った。そんな年下の挙動を見て、もう、と円香がはにかみながら苦笑を零す。
「武士くんは素直過ぎるよ。今言ったのは冗談、ホントは見直しちゃった。スゴいよ、武士くん」
「えっ、あ……ええと……ありがとう、円香さん」
 ひょっとしてこれも冗談なのかな?――などと若干疑いつつ、武士はまたしてもそんな言葉を返してしまう。
「うん、そこは素直に喜んでいい所だよ。…………本当にありがとう、武士くん」


 少々酸味が利きすぎた昼食を取り終え、二人で片づけを終えるや、武士はもう待ちきれないとばかりに円香の体を抱きしめた。
「やだっ……もう……武士くんったら……」
 そして、苦笑混じりに唇を重ねてきたのは円香の方だった。武士も応じ、台所で立ったまま、たっぷり十分以上かけて互いの唇を吸い、舐め合った。
「んっ、ちゅ……はっ……あむっ、んっ…………ちょっと、カレーの味がする……」
 円香がふっと顎を引き、吐息を乱しながらそんな言葉を呟く。
「先にシャワー浴びる? それとも、いきなり武士くんの部屋に行っちゃう?」
「……円香さんはどっちがいい?」
 本当は、今すぐに部屋へと連れ込みたかった。しかし、男としての自信のなさが、つい武士にそんな言葉を言わせた。
「んー……」
 円香はしばし考えるような仕草をして、徐に武士の背へと回していた右手をすすすと、違う場所へとスリ当ててきた。
「わわっ……ま、円香さん!?」
「んふふー……コレはもう、武士くんけっこういっぱいいっぱいって感じかなー?」
 部屋着のズボンの下でガチガチになってしまっている場所をナデナデされながらそんな言葉を言われ、武士は思わず顔を赤らめてしまった。
「可愛いなぁ、もう…………じゃあ、私は武士くんが好きな方でいいよ」
「えっ……お、俺は……円香さんが好きな方で……」
 引き続き股間をナデナデされながら、武士はついそんな強がり(?)を口にしてしまう。
「だーめ、武士くんが決めるの。じゃなきゃ今度はホントに帰っちゃう」
「それは……っ……」
 ズボンの上から撫でつけるだけだった円香の手が、不意にジッパーを卸し、今度はトランクス越しに触れてくる。武士は思わず、身を固くして息を弾ませてしまう。
「もう、鈍いんだから。…………可愛い武士くんの口からはっきり“今すぐエッチしたい”って、お姉さんは聞きたいんだけどなぁ?」
「っ…………し、したい……本当は、今すぐ……円香さんと、シたい……シャワー浴びてから、なんて……待てない……」
「ふふっ、そんなにシたくてシたくて堪らないんだ。武士くんもやっぱり男の子なんだね、……じゃあ、ちゃんと言えたご褒美に、このまま口でシてあげる」
「ぇ、ぁ……」
 武士はそのまま、円香に押されるようにして台所の椅子へと腰を下ろした。その足の間に円香はかがみ込み、悪戯っぽく笑った。
「……エッチするの、久しぶりだね。…………私もすごく緊張しちゃう」
「俺、なんて……もう、心臓が口から飛び出ちゃいそうだよ」
 それはもう、殆ど真実と言ってよかった。先ほど円香と口づけをかわしていたときから、肋骨を突き破らんばかりに心臓が高鳴っていた。
「……口でする所、ちゃんと見ててね? 途中で目を瞑ったりなんかしたら、止めちゃうから」
 円香はそう言い、わざと手を使わず口だけで既に半分以上降りているジッパーを最後まで下ろし、トランクスをずらすようにして武士の剛直を露出させるや、一も二もなくくわえ込んだ。
「うっ……はぁっ……」
 思わず、声が出た。ただ、くわえ込まれて先端を舐められただけで、早くも出してしまいそうになり、慌てて歯を食いしばって堪えねばならなかった。
「んんっ……んむっ……んっ……」
 円香が艶めかしい声を出しながら、顔を僅かに前後させる。限界まで勃起して尚、包皮に大半が包まれたままの先端部と竿部分を丁寧に舐めた後、今度は包皮と先端部との間に舌を差し込むようにしてれろり、れろりとなめ回してくる。
「っぅ、あっ……ちょっ……円香さっ……それ、ヤバっ……」
 武士は堪らず全身を強ばらせ、両手の指を不自然な形に引きつらせた。ちゅばっ、ちゅばっ、ちゅぷ、にゅぷっ――そんな卑猥な音がひっきりなしに己の股ぐらから聞こえてきて、その都度気が狂いそうな程の快楽に全身が翻弄される。
(やっば…………メチャクチャ……気持ちいい……)
 快感も度を超せば苦痛でしかないと、武士はこのとき思い知った。否、苦痛なのは射精を必死に我慢しているからなのだが、それほどの苦痛に晒されて尚、武士は歯を食いしばり我慢し続けた。
(だって……まだ……五分も経ってない……)
 幸か不幸か、台所の壁掛け時計が丁度武士の真正面に設置されているのだ。いくら年下とはいえ、せめて十五分くらいは耐えねば面目が立たないのではないか。
「んっ……今日は随分粘るなぁ……ひょっとして武士くん、昨日オナニーした?」
「し、してない」
 ぐりぐりと、先端を指で弄られながらの質問に、武士はかすれるような声で答えた。
「じゃあ、一昨日は?」
「してないっ……円香さんがうちに来るって決まった日から、一度だって……ッ……ぁっ……くっ……」
「そうなの? じゃあ、私がヘタクソになっちゃったのかなぁ」
「そんなっ、ことは……ぁくッ……」
「だって、前はちょっと口でシてあげただけで、可愛い声上げながらぴゅっ、って出しちゃってたじゃない。…………ああいうときの武士くん、顔真っ赤にして恥ずかしがってて、すっごい萌えたんだけどなぁ」
「っ……円香、さん……」
 苦痛の理由が、変わり始めていた。先ほどまでは、イかされようとしているのを堪えるのが苦痛だった。しかし今は、イくにイけない微妙な指での愛撫が――。
「は、やく……」
「早く……何?」
 武士は、見た。にやにやと、なんとも楽しげな小悪魔の笑顔を。ああ、そうか……全部分かっててやってるんだと、武士は全て悟った。
「はや、く……イかせ、て……」
「んー? 武士くんはイきたくないんじゃなかったのかな?」
 武士はもう、ただただ必死に頭を左右に振った。最早、男の矜持もへったくれもなかった。ただただ、円香の唇でイきたい――それだけだった。
「あぁん、もう……武士くんのその顔、すっごく可愛い……もっともっと意地悪しちゃおっかな?」
「ま、円香さん!」
 武士はもう、殆ど泣き叫ぶようにして声を上げていた。くすりと、円香は最後に笑みを一つ残し、そしてぐっ、と喉奥まで剛直をくわえ込んだ。
「っ……あぁッ!」
 その瞬間、武士はまるで女のような声を上げ、円香の口腔内にあらんかぎりの精を放っていた。
「んっ、んっ……んっ……」
 こくり、こくりと。それらを円香が飲み干していくのが、伝わってくる振動で分かった。
「はぁっ…………はぁっ……はぁっ………………」
 手足の先まで痺れるような絶頂の余韻の中、武士は荒々しく肩で呼吸をし、ぐったりと椅子にもたれるようにして脱力した。ちらりと時計を見ると、円香が口戯を開始してからまだ十分も経っていなかった。
(たった十分……なのに――)
 部活で百メートルダッシュを十本やった後よりも、或いは疲れているのではないか。
「んっ……ぁふ…………ごちそうさま。とっても濃くて美味しかったよ、武士くん」
「っっ……円香さんって……時々すっごい意地悪になるよね」
 小悪魔の笑顔でそんな事を言う円香に対して、武士はぷいとそっぽを向く。射精前、散々焦らされた事に対する、武士なりのささやかな抗議だった。
「ごめんごめん、だって……武士くんほんっと可愛いんだもん。…………ちょっとくらい、良いでしょ?」
「……俺、確かに年下だけど……一応男なんだよ? あんまり可愛い、可愛いって言われても嬉しくないよ」
「だーかーら、ごめんってば。…………ね、機嫌直して、武士くん」
「…………どうしようかな」
 以前そっぽを向いたまま、武士はもう半笑いになりかけていた。別に、何か駆け引きのつもりでそっぽを向いたわけではないのだが、話の流れ的に何かおねだりをしないわけにはいかなくなりつつあるのがおかしくて堪らなかったのだ。


「た……武士くん……ほ、本当に……するの?」
「だって、円香さん……してもいいって下で言ったじゃん」
 武士の部屋へと連れ込まれ、ベッドに押し倒されながら、円香は形ばかりだが抵抗をしていた。
(だって……口でするなんて……)
 今度は、自分が口でシてあげたい――武士のその申し出は至極当然の様にも思える。……円香の、特殊な体質さえ無ければ、の話だが。
「だめっ……やっぱり止めよ? 武士くん……私、あれ……本当に恥ずかしい……」
「悪いけど、今回だけは円香さんの我が儘は聞いてあげない。…………俺だって、恥ずかしかったんだから」
 ストッキングが脱がされ、次にロングスカート、そして下着に指がかけられる。この段階になればもう、円香はあきらめの方が先に立ってしまった。
「ぁっ、んっ……」
 下着が脱がされ、足の間に武士の体が入ってくる。恥毛の下、敏感な部分に武士の吐息を感じて、円香は思わず天井を仰いだ。
「んんっ、ぅっ……」
 れろり、れろりと。最初は割れ目に反ってなぞるように舌が這ってくる。時折ちゅっ、と太股にもキスをされ、舐められたりするのは武士の遊び心だろうか。
(ぁっ……段々私も……)
 じゅんっ、と。下腹が疼き、湿り気を帯びてくる。そこまでならば、何の問題もないのだが――。
(っ……ぅ……やっぱり……来た…………ぅぅぅ…………)
 快感、興奮によって分泌されるものとは別の、純粋な尿意の到来に、円香は俄に身を固くした。――それが、武士にも伝わったらしい。
「……円香さん、そろそろしたくなってきた?」
「……っっ……!」
 円香はハッと顔を赤らめ、必死に首を振った。が、そんな事で隠し通せる筈もない事も分かっていた。
「っぅ、はっ……、あっ……た、武士くん……だめっ、えっ……!」
 れろり、れろり。
 ちゅぱっ、ちゅぱっ、ちぅぅぅぅ……!
 武士の口戯が一層激しくなる。指で割れ目を広げるようにして奥まで丁寧に舐め上げたかと思えば、勃起してしまっている突起を優しく唇でくわえ込み、持ち上げるようにして吸い上げられ、円香の尿意はますます堪えがたい物へとなっていく。
「ぁっ……やっ……もっ……だ、め……たけし、くっ……止めっ……」
 円香は両手で武士の頭を押さえつけ、口戯を止めてもらえるように懇願したが、武士は武士で両手で円香の足を抱え込むようにしてそれに抵抗していた。
「ぁっ、 やっ……ァァァァァ……!」
 そして、とうとう我慢しきれなくなった刹那、円香は武士の唇がちゅうっ、と吸い付いてくるのを感じた。
(だめっ……出ちゃう……!)
 必死に閉めている尿道を舌でちろちろと刺激されて、堪らずに円香は下半身から力を抜いてしまった。
「あっ……ぁっ、ぁっ…………!」
 排泄に伴う背徳的な快感と、それに付随する身が焼けるような羞恥に、円香は目尻に涙すら浮かべていた。武士の愛撫によって尿意を催し、それを口で処理されるのはこれが初めてではない。初めてではないが、何度やっても慣れるという事は無かった。
(やっ……武士くんに……飲まれてるぅ…………!)
 そして、そのことに不思議なほどに興奮する自分を、円香は自覚していた。愛して止まない恋人に、自分の排泄物を処理させるというその行為に、骨までとろけてしまいそうな快楽を感じてしまうのだ。
「んっ……ぷはぁっ……今日のはいつものよりちょっと濃かったよ、円香さん」
「っっっっ……!!!! もぉっ、武士くんのバカぁっ!」
 武士の冗談めかした言葉に円香は耳まで真っ赤になり、反射的に側にあったマクラを掴んで投げつけていた。
「ごめんごめん、だけどさ……“これ”やった後のほうが……円香さんスゲー感じるみたいだから……絶対やりたかったんだよね」
「そ、それは……武士くんの気のせい! こんなことしなくったって……」
 円香は否定するが、自分でも武士が言っている事のほうが正しいと分かっているため、どうしても言葉に力がなかった。
「じゃあ、円香さん。……そろそろいいかな?」
「…………もぅ、武士くんのバカ」
 円香は拗ねたような口調で呟き、そして照れるような笑顔を零すや、そっと体を開いた。武士もまた手早く脱衣し、まだぎこちない手つきでスキンを装着し、円香の秘裂へと剛直を宛ってくる。
「あっ……ンッ……」
 そして、ゆっくりと円香の中へと入ってくる。慣れ親しんだその感覚に円香は素直に声を上げ、武士の首へと腕を絡めた。
「っ……やっぱり、だ……“アレ”をしたほうが、円香さん感じてる」
「ち、違っ……あんっ!」
 ぐにいっ、と服の上から胸を掴まれ、揉みしだかれる。同時に腰を使われて、円香は早くも顎を持ち上げるようにして喘いでしまう。
「まっ……待って、武士、くんっ……ブラっ……汚れちゃう、からっ……」
「あっ、そっか……ごめん、すぐ外すね」
 円香は武士にも手伝ってもらい、セーターとその下に着ていたシャツを脱ぎ、さらに肌着を脱ぎ、そしてブラを外した。そうして露出した胸を、改めて武士の手が掴み、こね回す。
「ああんっ……やっ、だめっ……あんまり、強くしないで……またっ、出ちゃうぅ……!」
「出てくれないと俺が困るよ。…………久しぶりに、円香さんのミルク、いっぱい飲みたい」
「やっ……だめっぇ…………あぁんっ……あっ……」
 ぐにっ、と乳を持ち上げるようにして掴まれ、盛り上がった先端部分が武士の唇へと吸われる。そして乳房内部に溜まっていた液体が、ちぅぅ、と吸い上げられ、円香は仰け反るようにして声を上げた。
「ぁっぁっ、ぁっ……ぁはぁぁぁっ……」
「んんっ……んっ……んっ………………ぷはっ……こっちもっ……んんっ……」
 片方の乳を吸い尽くすや、今度は逆側も吸われ、円香は声を上げながら武士の後頭部へとツメを立てた。
(ぁぁっ、ぁっ、ぁっ……やっ……おっぱい……気持ち、いい…………)
 溜まっていたものが吸い出される感覚に、ゾクゾクと背筋が震える。より一層熱く体が火照り、たぎってくる。
「んっ……ぷはぁっ……こっちも大分溜まってたみたいだね、円香さん。……ちょっと全部は飲みきれそうに――んんっ!?」
 武士が乳首から顔を上げるやいなや、円香は両手で武士の頭を抱え込むようにして、その唇を奪っていた。
「動いて、武士くん……」
 そして、キスの合間合間に、懇願するようにして、円香は言った。
「いっぱい突いて……何も、考えられなくなる、くらいに……」
「わ、わかったよ……円香さん」
 ややあっけにとられたような顔をして、武士はいったん体を起こし、そして円香の腰を掴み、少し持ち上げると自分の膝の上にのせるような体勢で、ずんっ、と突き上げてくる。
「あぁんっ! あっ、あっ、あっ、あっ…………」
 そしてそのまま断続的に突き上げられ、円香は忽ち声を荒げた。
(あぁっ、ぁっ……いいっ……あぁぁっ…………!)
 ぱんぱんと、肉と肉がぶつかる音。そしてその振動すらも心地よくて、円香はベッドシーツをかきむしるようにして悶える。
「あぁぁっぁっ……はぁはぁ……んっ……ぁっ、そこっ……そこっ……そこっ、いいっ……もっと、擦ってぇ……!」
「っ……こんな、感じ……?」
 武士が突き上げながら、微妙に角度を変化させてくる。円香も武士の動きに合わせて、より“良くなる”ように、腰の位置を調節していく。
「あッ……ぁっ、あっあぁっ、ぁっ……そ、そこぉ……そこ、凄く、いぃっ……ぁあんっ……あんっ、あぁっ、ぁっ……」
 息も絶え絶えに声を荒げながら、円香は必死になって“あるもの”を探して手を這わせていた。それは、先ほど自分が武士に投げつけてしまったマクラだった。漸くにしてそれを指先に捉えるや、たちまち引き寄せ、恥も外聞も無く円香は片手で抱きしめるようにして己の鼻先をこすりつけ、その臭いを嗅いだ。
(あぁっ……すご、い……武士くんの、匂い…………あぁあっ……!)
 自分は今、愛する人に抱かれているのだと、五感全てで円香は実感していた。武士の肌の感触、姿、声、臭い、そして――。
「ちゅっ……んっ……ちゅっ……あむっ……んっ……!」
 唇を重ね、武士の舌の味、唾液の味にウットリと瞳を潤ませながら、円香は確実に高みへと登っていく。
(あぁっ……ぁっ……やっ……気持ち、良すぎて…………ホントに天国見えちゃう…………!)
 興奮が極限間近まで高まり、絶頂が近づくにつれ、円香はふと先だって親友――だと、少なくとも円香は思っている――妙子に語った、自分の言葉を思い出していた。愛する人に抱かれた時は、時として天国が見える事もある――今がまさにその状態だと円香は思った。
「っ……円香、さんっ……俺、もうっ……」
「わ、たし、もっ……一緒、一緒に……イこ?」
 円香はマクラを手放し、武士の手を握りしめた。武士もまた円香の手を握り返してきて、そして再度唇を重ねた。
「んっ……んんっ……はっ……あぁッ……あっ、あっ、あっ……あッ……あッ、あッ、あッ……あッ!」
 そして身を起こすや、武士が最後のスパートをかけてくる。ぱちゅん、ぱちゅんと水っぽい音を部屋中に響かせながら、円香は全身を電流の様に襲う快感に翻弄される。
「っ……まどか、さんっ……!」
「あっ、あっ、あっ……あっ、やっ……だ、だめっ……い、イくっ……イクッ……イッちゃう……! い、イクッ……ゥゥゥううッ!!」
 そして最後の瞬間、円香はぎゅううと武士の手を握りしめた。
「うっ……くっ……はぁっ……」
 ずんっ、と。剛直を根本まで押し込んだ瞬間、武士もまた声を上げる。スキン越しに武士の精液が迸っているのが、円香にも“感触”で分かった。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ…………」
「はーっ…………はーっ…………はーっ…………」
 互いに呼吸を整えながら、見つめ合い、そして呼吸を整える間ももどかしいとばかりに唇を重ねた。
「んっ……んっ、んっ…………!」
 互いの絶頂の余韻を確かめ合うように、円香の唇を武士が、武士の唇を円香が交互に吸い、舐め、そして吸う。たっぷり十五分以上もかけて余韻を楽しんだ後、照れるような笑みを浮かべて先に口を開いたのは円香の方だった。
「…………すごく良かったよ。……気持ちよすぎて、私……天国見えそうになっちゃったもん」
「俺も……凄く、気持ちよかった。……魂出ちゃうかと思ったよ」
 武士もまた、照れるような笑みを浮かべ、そしてごろりと円香に添い寝をするように横になる。円香はそんな武士の体に抱きつくように手と足を絡め、そして肩に頭を乗せた。
「武士くん、私ね……今、すっごく幸せ」
 それは“今、この瞬間”――という意味だけではない。自分を取り巻く、現在の状況。宮本武士という恋人と楽しい時間を共有することが出来る、その環境そのものに大しての言葉だった。
(…………武士くんと、ずっとこうして一緒に居られるといいな)
 その“希望”だけは、口にしてしまうのが怖くて、円香はそっと胸の内だけで呟いた。


 イチャイチャとセックスを交互に繰り返すような、武士にとって至高とも言える時間はあっという間に過ぎ去ってしまった。
「えっ……円香さん……もう帰っちゃうの?」
「うん……もうちょっと居たいけど………………ほら、一応私、今日バイトに行ってる事になってるから……あんまり遅くなっちゃうと……」
「あっ、そうか……」
 気がつけば、外はもう夜の帳が降りきろうとしていた。時刻は六時半、円香の普段のバイトが四時までであることを考えると、今でも遅すぎるほどの時間だった。
(……嫌だ。……もっと、円香さんと一緒に居たい……)
 武士はちらりと、己の携帯のサブの液晶へと目をやった。メールを着信していれば、そこに印が出る筈であるから、少なくとも姉の帰宅はまだまだ先の筈だった。
(……もうちょっとだけ一緒に居たいって……言いたい……)
 まだ帰らないで欲しい。もう少しだけ一緒に居たい――そう泣きつくのは簡単だ。優しい円香の事であるから、きっと困った笑みを浮かべながら、五分か十分くらいは帰宅を先延ばしにしてくれる事だろう。
(……だけど…………)
 それは、自分の我が儘で円香に甘える行為だと、武士は思う。年下という特権を振りかざした子供の我が儘だ。
 耐えなければ、ならない。
「じゃ、じゃあ……家の側まで、俺、送るよ。……っと、その前にまずシャワー浴びた方がいいんじゃないかな」
「そうしたいけど……多分、髪を乾かしてる時間はなさそうだから」
「そっ……か」
 確かに、円香の髪は長い。ドライヤーを使っても、きちんと乾かすにはそれなりの時間がかかる事だろう。
 武士はやむなく自分もそのまま服を着て、円香と共に階下へと降りた。
「あっ…………お料理の材料……どうしよう……置いて行っちゃって大丈夫かな……」
 台所を通る際、円香は不意にそんな事を呟いた。
(そういえば……円香さん、トンカツの材料とかも買ってたんだっけ……)
 今にして思えば、料理に不慣れらしい円香が一度にそんなたくさんの料理を作れる筈が無かったのだが、不慣れ故にその辺の加減が分からなかったのかもしれない。
「姉貴は別に何も言わないとは思うけど……でも、折角だから円香さん持って帰った方が……」
 料理の材料とはいえ、安いものではないだろうと、武士はそれを勧めた。
 ――が。
「ううん、あんまりそういう“普段と違うこと”をすると、変に勘ぐられちゃったりするから。……料理しきれなかった分はお姉さんや親御さん達と一緒に食べちゃって」
「うん……円香さんがそう言うなら……そうするよ」
「…………本当は、さ」
 円香は一度言葉を切り、そして躊躇った後、意を決したように口を開いた。
「いつも……試合の時とかに持って行ってたお弁当……殆どお手伝いさんが作ってたんだ。……私も一応、手伝ったりはしてたんだけど……だから、今日は正真正銘本物の手料理食べさせてあげたかったんだけど……」
「円香さん……」
「……ちょっと勉強と練習が足りなかったのかな。でも安心して、今度お弁当作るときは100%完璧なメイドイン円香のお弁当作ってくるから!」
「……うん、楽しみにしてるよ、円香さん」
 メイドインの使い方が少々間違っているような気はしたが、そんなことは武士にはどうでもよかった。ただただ、名残惜しむように円香を抱きしめて、そして共に玄関へと向かった。
「武士くん、無理に送ってくれなくてもいいんだよ? 外、寒いし……」
「円香さんがダメだって言っても、家の側まではついていくよ。……円香さんを一人で帰らせて何かあったら、俺は絶対に自分を許せないから」
「もうっ……武士くんったら大げさなんだから。………………でも嬉しい、ありがとう、武士くん」
 靴を掃き終えた円香は照れ笑いを浮かべ、そっと武士に抱きついてくる。何も言われなくても、その仕草から円香がキスを求めている事を、武士は察した。
「ん……」
 武士もまた円香を抱きしめ、そして唇を重ねた。――その時、武士は玄関の鍵穴に、鍵が差し込まれる音を聞いた。



 がちゃりと、鍵が開けられ、ドアノブが回されるその音に、円香は反射的に唇を離し、身構えた。武士もまた同様であり、まるで円香をかばうように半身を前に出して、開かれるドアの向こうを凝視していた。
「……えっ……」
 そんな声が、武士と、そしてドアの向こうに立っていた人物の両方から漏れた。
「あっ……姉貴!? そんな……どうして……」
 そんな武士の呟きで、円香は玄関のドアノブを握ったまま立ちつくしている女が武士の姉だという事を知った。
(えっ……この子……前に――)
 見覚えのある顔だった。円香は必死に記憶をたどり、産婦人科に検診に行った帰りに会った相手だという事を思い出した。
(あれ、でも……)
 ざわりと。胸の奥――否、頭の奥でノイズのようなものが走る。円香は無意識のうちに武士に縋るようにして身を寄せていた。
 ざわざわと、胸の奥で――何かが。
「何で……もう帰ってきてんだよ……か、帰る前に絶対メールしてくれって言っただろ!」
「武士……その人……」
 武士の言葉など無視するかのように――否、聞こえていないかのように。女は驚愕の表情のまま、じっと円香を見据えてくる。
「彼女、って……まさか……」
「っ……ああ、そうだよ! 姉貴には言わない方がいいと思ってたから黙ってたけど、俺たち――」
 ぱんっ。
 そんな乾いた音が、武士の言葉を遮った。女が玄関の中へと入るなり、武士の左頬に平手打ちをしたのだ。
「武士くん!?」
「っ……痛ぇな! いきなり何するんだよ姉貴!」
「バカッ…………騙されてるとも知らないで……」
 忌々しげに、苦い虫でも吐き出すかのように、女が呟く。
「だ、騙されてるって何だよ! 姉貴と円香さんの間に何があったか知らねーけど――」
「武士は黙ってて!」
 ひっ、と。自分に向かって言われたわけでもないのに、思わず肩をすくめてしまう程の大声だった。女の厳しい目が、キッと。円香を捉えた。
「……そこまで、やるんですか」
「えっ……?」
「もう……諦めてくれたと思ってたのに……弟を誑かしてどうするつもりだったんですか」
「えっ、えっ……あ、あの……私……」
「止めろよ! 円香さんは記憶喪失なんだぞ!? 姉貴の事なんて覚えてねぇんだ!」
「記憶喪失……?」
 さも、小馬鹿にするような口調で女は呟く。
「ああそうだ! ちょっと前に“事故”に遭って……そのせいで部分的な記憶喪失になってるんだ。だから――」
「へぇ……? 記憶喪失になって、私の事なんて忘れちゃったのに、たまたまうちの弟と仲良くなって、彼氏彼女の関係になったんですか。……凄い偶然ですね、円香先輩」
「ぁっ……ぁっ……」
 女の言葉が、円香の心の奥底を激しく揺さぶってくる。否、言葉だけではない。その姿が、匂いが、全てが。
(わた、し……この子を……知ってる……?)
 全身が総毛立ち、体の内側で見えない何かが強烈な勢いで膨れあがる。震えが、止まらなくなる。
「弟と仲良くなってどうするつもりだったんですか? 私にフラれた腹いせに、弟を弄んで同じように捨てるつもりだったんですか? それとも、もしかしてうちに出入りする理由を作るためだけに――」
「俺と円香さんはそんなんじゃねえ! 男も女も関係成しに家に引っ張り込んで遊んでるインラン女と一緒にすんなよな!」
「……いんら――っっっ……た、武士!」
 かぁっ、と。眼前の女が顔を真っ赤にし、武士の方へと向き直った。振り上げた右手が、再び武士の頬へと迫る。一も二もなく、円香は女に組み付いていた。
「だめぇっ! 由梨っ、止めて!」
 叫びながら、円香は女のの背後から組み付き、その右腕を押さえつけた。
「………………早速ボロが出ましたね、円香先輩」
「えっ……」
 円香はハッとして、女から離れた。再び女は円香の方へと向き直る。
(えっ……私、今――)
 由梨、と。確かに叫んだ。
(由梨……由梨子……宮本由梨子……私の……大事な……由梨…………)
 ザザッ――そんなノイズ混じりの映像が、フラッシュバックのように脳裏に蘇ってくる。
(あぁっ……由梨っ……由梨っ……由梨っ……!)
 可愛い後輩であり、かけがえのない存在。
 ただ側に居て、微笑みかけてくれるだけで、他の何も要らないと思えた。
(そう……私は……由梨の心を取り戻したくて――)
 “あの女”を排除するために、後輩の男達を焚きつけて襲わせようとした。しかし、それは失敗して――。
「円香さん!? しっかりして!」
 武士に肩を掴まれ、揺さぶられるが、円香はただただ涙をこぼす以外の反応を返せなかった。長らく失ったままだったものが堰を切ったようにあふれ出て、自分でもどうしようもなかった。
「何泣いてごまかそうとしてるんですか? 残念でしたね。折角巧く弟をだませてたのに、台無しになってしまいましたね」
「……おい、クソ姉貴……いい加減にしろよ。円香さんはもう、姉貴が知ってる円香さんじゃねえんだよ!」
「……そうなんですか? 円香先輩」
 女――由梨子に声をかけられ、ハッと円香は身を固くした。口調こそ丁寧だが、その声は多分に怒気を孕んでいて、それが円香には怖くて堪らなかった。
 そう、かつて由梨子に捨てられ――どれほど縋り付いても許してもらえず、毛虫の如く嫌われた記憶が、円香を怯えさせた。
「本当に、本気で武士と付き合ってるんですか?」
「ぁっ……ぁっ……わ、私……は……」
 円香は、すぐに答えようとした。宮本武士の事を本当に好きか等と、そんな質問、考えるまでもない。いつでも即答できる――筈だった。
「……円香、さん……?」
 しかし、円香は答えられなかった。武士の不安げな言葉を聞いて尚、答える事ができなかった。ただただ、怯えた子犬が飼い主を見つめるような目で、由梨子を見続けた。
「どうして答えられないんですか?」
 そんな円香の態度そのものに苛立ちを募らせたような由梨子の声に、円香はもうまともに由梨子の方を見れなくなった。
 由梨子に嫌われたくない。由梨子に嫌われたくない――骨身にまで染みたその思いが円香の全身を縛り、痛いほどに締め付けていた。
 不意に、くすりと。由梨子が笑みを零した。
「……“円香、お座り”」
「…………ッ!」
 突然思いもよらなかった言葉に、びくりと円香は全身を震わせた。震わせながら、ゆっくりとその場に膝をついた。
「“伏せ”」
 再び、びくりと体が震える。おずおず両手を玄関のタイルの上につき、まるで犬が飼い主に対してそうするように、円香は由梨子の足下に上体を伏せた。
「……ちゃんと私の事覚えてるじゃないですか、先輩。ご褒美にいつもみたいに踏んであげましょうか?」
「……っ……」
「どうしたんですか? ちゃんと“お願い”をしないと踏んであげませんよ?」
「ぁっ……ぁっ……お、お願い……します……踏んで……踏んで、下さい!」
 それはもう、条件反射と言っても良い反応だった。円香は殆ど叫ぶように言い、ぎゅうっと堅い靴底の感触を背中に感じるや――
「ぁぁぁっ……ぁぁぁっ……!」
 とろけるような快感と共に、声を上げた。懐かしい――そう、懐かしいと感じた。かつてはこうして足蹴にされる度に自分は喜びの声を上げていた事を、円香は感涙の涙と共に思い出していた。
「っっ……や、止めろよ! 姉貴! 何やってんだよ!」
 どんっ、と。かすかな衝撃と共に己の背にかかっていた体重が消え、円香はハッと体を起こした。見れば、憤怒の顔をした武士に由梨子が思い切り突き飛ばされ、玄関マットの向こう側に倒れ込んでいた。さらに、まるで追い打ちをしようとしているかのように歩み寄る武士を見るに見かねて、円香は飛び出していた。
「止めて! 由梨を……由梨を苛めないで!」
 円香は由梨子に被さるようにして、武士に懇願していた。そんな円香の行動を、武士は信じられないものでも見るかのように見下ろし、全ての動きを止めた。
「ッ……触らないで、下さい」
 そうして盾に入ったのもつかの間、今度は由梨子自身に突き飛ばされ、円香は廊下の壁でしたたかに背中を打ちつけた。
「円香さん! 姉貴ッ……」
「っ……い、いいの…………武士くん、いいの……お願いだから、由梨に……お姉さんに、暴力は振るわないで」
 微かに咳き込みながら、円香は必死に武士に懇願していた。それは、武士と由梨子の関係の破綻を恐れたのではない。単純に、純粋に、由梨子を傷つけられたくないという想いからだった。
「……これで、分かったでしょ。この女は、最初から私に近づくのが目的で――」
「違う!」
 武士の声には、悲痛な叫びすら混じっていた。
「俺たちは、そんなんじゃない! 円香さんはもう、姉貴とはなんの関係も無い! そうだろ? なのに、なんで……姉貴をかばったり、言いなりになったりするんだよ!」
「………………武士、くん……っ…………」
 魂を揺さぶるような武士の叫びに、円香はただただ身を震わせた。今の今まで――否、正確には玄関のドアが開かれ、由梨子と顔を合わせるまで、この世に宮本武士さえ居れば、何も要らないと、そう思っていた。
 世界中の誰に後ろ指を指されてもいい。ただ、側に武士さえ居ればそれでいい。どんな苦難にも負けはしない。武士の為で在れば、どんな屈辱にも耐えられると。
 それが、いわば根底から覆されてしまった。
 長らく忘れていた――否、失っていたと言ったほうが正しいかも知れない。由梨子の為ならば己の半身――否、全身を投げ出しても惜しくはない。現に、かつての円香は由梨子の心を取り戻すために、好きでもない男達に身を委ねもした。
 それが――。
「ごめん…………武士くん、ごめんね…………」
 どう答えれば良いのか、どうして良いのかも分からず、円香は両目から涙を溢れさせながら身を起こし、そのまま逃げるように玄関から飛び出した。

「円香さん!」
 背後で、武士の叫ぶ声が聞こえたが、円香はそれすらも振り切って走った。何処へ向かっているかなど、円香自身分からなかった。
「円香さんっ、待って! 待ってよ!」
「……っ!?」
 あてもなくただ走り続けて、見知らぬ路地へと入り込んだその瞬間、突然、ぐいと腕を掴まれ、予期しない制動をかけられた円香は危うく転びそうになった。が、そんな円香を支えるように武士の腕が背中へと添えられて、辛うじて転ぶ事だけは免れた。
「っっ……嫌っ……離して!」
 まさか、追いつかれるとは思っていなかった。あの場に居ることも、武士と、由梨子の間に挟まれていることも全てが耐えられなくて逃げ出したというのに。
「ダメだ。離したらまた円香さんが逃げるから、だから絶対離さない」
「っ……逃げない、逃げないから……だから、離して……」
 円香は涙声で訴えた。程なく、そっと武士が掴んでいた円香の腕を解放した。すかさず円香は武士から二メートルほど距離をとったが、それ以上は逃げなかった。単純な足の速さでは、武士には勝てないと悟ったからだった。
「…………円香さん、……これだけは聞いて。円香さんと姉貴の間に何があったかは知らないけど、そんなの俺は気にしない。何があったのかも聞かないし、第一俺には関係ない。俺が好きなのは、今の……円香さんなんだから」
「…………っ……」
 好きだと言われて、何故これほどに心が痛むのだろう。何も言葉が返せなくなってしまうのだろう。何より、今の円香はまともに武士の顔を見る事すら出来なかった。
(武士くんに……全部見られた……全部……全部……)
 由梨子に自分がどう扱われていたのかも、そしてそのように扱われて尚、縋り付かざるを得ないほどに由梨子が好きな事も。全て。
「円香さんが、姉貴とより戻したくて、俺を利用したとか……そんな話、絶対信じない。俺にだって……それくらいは解るよ」
 微かに唇を噛んで、武士は最後の一言を付け加えた。
(イヤ……止めて……)
 私に優しい言葉をかけないで!――円香は叫び出したかった。優しくされる資格など、自分にはありはしないのに。
「……俺は、円香さんが好きだ。その気持ちだけは、絶対に変わらない。例え……本当は、心の奥底で円香さんが姉貴の影を俺に重ねてたとか、そういう事でも俺は全然構わない。どんな形でもいいから、俺――
「……っっ……知った風な事を言わないで!」
 優しすぎる武士の言葉が、どんな鋭利な刃物よりも鋭く、円香の心を斬りつけていく。その痛みに耐えかねて、円香は叫んでいた。
「私と……私と、由梨の事なんか……何も知らないくせに! 私が、どれだけ……どれだけ由梨の事が、好きで……その為に…………どんな…………っ…………」
 自分でも一体何を言っているのか解らなかった。頭の中でありとあらゆる感情が洪水に流された土砂のように渦巻き、攪拌され続けていた。
「円香、さん……」
「近づかないで!」
 手を握ろうとしたのか、抱きしめようとしたのか。足を踏み出そうとした武士に向かって、円香は殆ど半狂乱になって叫んでいた。
「……そうよ。由梨の言った通りよ。……記憶喪失なんてデタラメだったの。最初から全部演技だったの。由梨の家に通って、由梨とよりを戻すための芝居だったのよ」
 違う、こんな事を言いたいわけじゃないのに――そう思って尚、円香は己の口を止められなかった。
「武士くんだって見たでしょ!? 私は……由梨の為なら、由梨の言葉なら、なんでも出来るの。裸になれって言われれば町中の交差点でだってなるし、由梨の為なら好きでもない男に抱かれる事くらいなんでもないの」
 武士は言葉を失っているようだった。そんな恋人の絶句した様を見て尚、円香は止まる事が出来ない。
「私が……私が、四つも年下の中学生なんか本気で相手にすると思ってたの? 今までの事は全部演技なの。由梨の為なら、どんな男とでも寝れる、私はそういう女なんだから」
「……嘘だ。俺は信じない」
 この期に及んで、武士の目は澄んでいた。円香に対する怒りや疑いなど微塵も感じさせない優しい目。その目に、汚く醜い自分が映っている事が、円香にはもう耐えられなかった。
「イヤッ……止めて……そんな目で見ないでよ! 武士くんなんか嫌いっ……大ッ嫌い!」
 円香は喚くように言って、再びその場から駆け出した。今度は、武士も追っては来なかった。


 


 何度も、何度も意識を失いかけながらも、それでも男は懸命に堪えていた。既に両足の感覚は無く、囂々と不気味な音を立てながら吐き出される寒気は否応なく室内の気温を零下にまで下げ、男の残り少ない命を奪っていく。
 どこかの冷凍倉庫の中らしい――という事は、目隠しを外されてすぐに分かった。両手は後ろ手に、両足も足首で縛られており、身動きは殆ど出来ない。最も、それでなくとも長らく正座をしたままの両足は完全に地面に張り付いてしまっていて動くことなど叶わないであろうが。
(頼む……早く……!)
 祈るような気持ちで自分をこの場所に攫って来たであろう男――否、男と呼ぶにはあまりにも若い。まだ中学生程度にしか見えない少年が戻るのを心待ちにしていた。
 何故なら、彼こそが男をこの場所から救い出す可能性のある唯一無二の存在だからだ。
 防寒着にがっちりと身を包んだその少年は小一時間ほど前まで側に居て男の話を聞いていたのだが、男が知る限りの事を話し終えるや「用事を思い出した」と言い残し、倉庫から出ていってしまった。その際、一人でここに居るのは退屈だろうからと、漫画雑誌を二,三冊置いていったが、もちろん両手を縛られたままの男に読む事など出来ない。尤も、両手が自由だったとしても手にはとらなかっただろう。何より、扉を閉じられた倉庫内は明かりすら灯っていないのだ。
「ふっ、ふぅっ、ふっ、ふっ、ふっ……」
 猿ぐつわ越しに呼吸をしているだけで、貴重な体温が外気に奪われていくのを感じる。恐らくはマイナス二十度以下にはなっているであろう冷凍倉庫の中に居るには、彼の普段着はあまりにも軽装すぎた。
(は、早く……し、死んじまう……!)
 男は切実に祈った。何度も、何度も。口を塞がれていて呻く事は出来てもとても大声は出せないこの状況で、男に出来る事はただただ祈ることのみだった。
「………………!?」
 その祈りが、ついに通じたらしい。倉庫の扉が開き、僅かな明かりが倉庫内へと差し込んだ。男は歓喜のうめき声を上げ、体をびっしりと覆っていた氷片をまき散らしながら身じろぎし、倉庫内へと入ってきた防寒服の少年に向けて精一杯のアピールをした。
「待たせたな。……それじゃあ、話の続きを聞かせてもらおうか」
 少年は倉庫内の灯りをつけると、早速男の背後へと周り、猿ぐつわを外した。その瞬間――
「た、助けてくれ!」
 男はあらん限りの声で叫んだ。
「頼む、頼むよ……もう、ずっと足の感覚が無ぇんだ。このままじゃ腐っちまうよ!」
「先に俺の質問に答えてからだ。“医学生”と“議員の息子”について、他に知ってる事、何か思い出した事は? 行動パターン、よく行く店、たまり場、一人になりやすい場所、趣味、クセ、何でも知ってる限りの事を全部話せ」
「お、思い出した事なんか何もねえよ! 知ってることはさっき全部話した! 頼む、助けてくれよう! 全部喋ったら助けてやるって、お前そう言ったじゃねえかよ!」
「…………本当にもう、何も知らないのか?」
「だから何度もそう言ってんだろ! 自分の命がかかってるのに嘘なんかつかねえよ! 頼むよ、第一俺はただカメラマンとして連れてこられただけで、あの女には殆ど手も触れちゃいねえんだ! やったのは他の奴らなんだよ! 俺だって本当はあんな事、気が進まなかった……だけど逆らえる状況じゃ無かったんだよ! なぁ、頼むよ……お前がそうしろっていうんならここから出てすぐ警察に自首したっていい! 他の奴らの事だって洗いざらいブチまける! なっ、それでいいだろ!?」
「……漫画、読まなかったのか。ああ、そうか。両手縛ったまんまだったもんな」
 防寒着の少年は男の悲痛な訴えなどまるで聞き流しているかのようにそう呟いて、手に持っていたナイフで男の手首を拘束していた縄を切った。男は、自由になった両手で再度、少年にすがりつくように――その防寒着を掴もうとしたが、指先の感覚もなく、指も動かなかった――訴えた。
「なぁ、頼む、頼むよ! うちはさ、親父が早くに死んじまって、かーちゃんが持病で入院してて、俺がバイトで妹二人食わしてやってんだよ! 俺が居ないとあいつらどうなっちまうか…………なぁ、助けてくれよぅ!」
「どうしたんだ、読まないのか? 今週載ってた読み切り、超笑えたぜ?」
 しかし、またしても少年は男の言葉など聞き流し、カチコチになってしまっている雑誌を手にとると霜を払い始める。
「なぁ、頼むから話を聞いてくれよ! 俺は――」
「お前らだって、“あの人”の言葉を聞いてやらなかったんだろ?」
 にっこりと。少年は満面の笑みを浮かべて、ぽむと優しく男の肩を叩く。そして、不意に倉庫の一角を指さした。
「……あれ、見えるか?」
 男は必死に身をよじり、少年が指さす方角を見た。何か白いものに覆われた塊がうずくまるようにして丸くなっているのが見えた。
「お前の前に攫った奴だ。軽くボコった後、ここに連れてきて洗いざらい吐かせた後、三十分土下座してられたら出してやる、つったらそのまま手が張り付いてあのザマだ」
「っ……てめぇっ…………最初からっ……」
 助ける気など無かったのか――その言葉を、男は必死に飲み込んだ。例えそれが真実であったところで、それを口にしても事態は何も好転しない。
「た、頼む! 助けてくれ! 何でもする、何でもするから!」
「安心しろよ、あんたには土下座しろなんて酷い事は言わねーよ。……そうだな、そのまま朝まで生きてられたら、今度こそ絶対外に出してやるよ」
「なっ……そ、そんなの無理に決まってんだろ! 悪い冗談は止めてくれよ! 頼むよ、あいつらに復讐したいなら、俺が手伝ってやる! ばっちり二人ともここにおびき出してやっから――」
「一晩くらい平気だって。ほら、俺の上着貸してやるから。あと暖かいコーヒーもやるよ。大丈夫、お前は強い子だろ? 妹二人の為にも頑張れよ」
 少年は自分が着ていた防寒着を男の肩からかけ、さらにポケットに入っていた缶コーヒーを動かなくなってしまった男の指に無理矢理握らせる。
「お、おいっ! 待ってくれよ! 嘘じゃねえよ! 本当に俺には――」
「寒いから、俺は家に帰るぜ。んじゃ、また明日の朝様子見にくるから」
 少年は肩を抱きながら早口に言い、そそくさと倉庫から出るとその重い扉を閉めてしまった。
 男は、最後の命を振り絞るような叫び声を上げ、そして程なく意識を失った。

 


 

 

 いつになく不快な目覚めだった。酷い夢にうなされた様な――それでいて、まったく寝付けなかったような。その両方を同時に味わったような気分だった。
 洗面台に行き、鏡を見ると両目は見事に赤く腫れてしまっていた。ああ、そうだ――昨日は家に帰るなりベッドで泣き伏して、そのまま眠ってしまったんだと、今更ながらに円香は思い出した。
 顔を洗って、家政婦の作った朝食を惰性で食べて、部屋に戻るなり携帯の履歴をチェックしてしまった。それは毎日の習慣であり、まだ半分寝ぼけていた円香は、受信フォルダの中にさらに振り分け設定して作られた“武士くん”と銘打たれたフォルダを見るなり、まるで雷にでも打たれたように体を震わせて、携帯をベッドの上に放り出した。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
 どくどくと、心臓が不自然に波打ち、呼吸が乱れた。円香の中に、昨夜の――由梨子との顔合わせから、路地裏で武士を罵倒した所までの記憶が蘇り、体が震えて涙まで出てきた。
 そういえば――と、円香は思い出した。昨夜、泣きながら武士のアドレスを受着信拒否設定にした上でアドレス帳から削除した事を。しかし、受着信拒否設定をしただけではそれまでに受信したメールまでは消えずに残っていた。
 すぐさま円香はフォルダごと消してしまおうとして――その指が止まった。最後に、もう一度だけ――そんな誘惑に抗しきれず、円香はフォルダの中にたっぷりと詰まった武士からのメールを一つ一つ開いては、目を通していく。
 それらの大半は、何の変哲もない日常の報告であったり、円香が尋ねた事に対する返信であったりと、大した内容ではないものが殆どだった。ただ、その量、文章の端々に見える細かな配慮などが円香には痛いほどに伝わってくるのだった。
(だめ……だめ…………消さなきゃ……消さなきゃ…………)
 円香は半泣きになりながら、震える指で必死に携帯を操作する。武士との思い出のカケラとも言うべきそれらを、円香は自らの手で消去した。
(イヤッ……もう、苦しいのは嫌…………苦しいのは嫌……)
 ぎゅう、と心臓を絞られているかのような胸の痛みを堪えるように円香はベッドに蹲り、そのまま泣き続けた。

「佐々木さん、今日はどうしたの?」
「えっ……ど、どうって……?」
「なんだか、ずっと上の空じゃない。……気をつけなよ? 店長、そういうのには結構厳しいから」
「あっ、うん……そうだよね。ちゃんと真面目にやらないと……怒られちゃうよね」
 優佳の言葉に円香は気を引き締め直し、眼前の作業に集中しようとした。――が、すぐにその手が止まってしまう。
 惰性で、こうしてバイトにまで出てしまっているが、果たして働く意義はあるのだろうかと。愚にもつかない事を考え始めてしまう。
 その結果、普段なら絶対にやらないようなミスを連発。電話注文の内容は聞き間違え、調理は失敗し、仲の良かった同僚達からは白い目で見られる事となった。
(……もう、辞めちゃおうかな)
 調理場の片隅へと追いやられながら、円香はそんな事すら考え始めていた。
「……佐々木さん。やることがないなら代わりに材料の発注頼める?」
 そんな鐘巻の言葉も、半分以上嫌みであると分かってはいたが、簡単なピザ作りですら失敗してしまう状態では、嫌みを言われるのも仕方がないと円香は思った。
「はい……分かりました」
 まさか頷くとは思わなかったのか、鐘巻は意外そうにしながらも材料の発注メモを円香に手渡してきた。
「佐々木さん、大丈夫? 私が代わりにやろうか?」
 事務室へと向かう途中で、優佳が後を追いかけてきた。
「うん、大丈夫。パソコンはパパのを使ったことあるから、出来ると思う」
「そ、っか。単位間違えないようにね。前に鐘巻さんがミスっちゃって、大変な事になっちゃった事があるから」
「うん。ありがとう、中村さん」
 円香は微笑を返して、事務室のパソコンの前へと座った。発注画面を開き、数量や単位に気をつけながらデータを打ち込んでいく。
「ちぃーっす……配達終わり――あれ、佐々木さん何してるの?」
 と、丁度そこへあまり聞きたくはなかった声が聞こえて、円香は身を強ばらせた。
「…………ちょっと、材料の発注を……」
 パソコンの画面から視線をそらさずに、円香は答えた。
「ふぅーん……大丈夫? やり方分かる?」
「……大丈夫です」
「……そ、っか。……がんばってね、佐々木さん」
 そんな声がして、足音から恭哉が踵を返したのが分かった。円香は反射的に振り返り、その背を探したが、既に恭哉は事務室を去った後だった。



  バイトが終わり、円香は手早く着替え、店を後にした。電車に揺られ、最寄り駅につくなり、とぼとぼと家に向かって歩き出した。
 惰性、だった。ただ、それまでの生活の名残からそうしているだけの。
 一人暮らしをする、大検を受ける――かつてはその目標のために邁進していた。それは一体何のためだったのか、自分のためだっただろうか、否。
 自分は、紛れもなく宮本武士が好きだ。好きだった。この世の誰よりも大事な、唯一無二の存在であると、そう思いこんでいた。
 それが、崩れた。武士と同等――或いは、それ以上であった宮本由梨子という存在を、事も在ろうに自分は忘れてしまっていたのだ。
(由梨の為に……私、あんな事、まで……)
 愚かしい事をしたとは思うが、しかし後悔にまでは至らない。そう、由梨子のために行動を起こした事については後悔はしない。ただ、やり方が間違っていたと思うだけだ。後悔と反省は全く別物だと円香は思う。
(そう……私は、あの子に、由梨をとられたく、なくて――ッ……)
 ノイズがかった記憶を探ろうとすると、突然痛みを覚えて円香は足を止めた。由梨子との事はハッキリと、その出会いから破局に至るまで全てと言ってもいい程に思い出したが、肝心の“恋敵”に関してはその姿どころか名前すらも思い出す事が出来なかった。
(……どうでも、いい)
 しかし、かつては八つ裂きにしたい程に憎んだであろうその相手に対して、円香はもう殆ど興味を無くしていた。
(だって、もう……由梨とも、武士くんとも、会わないんだから)
 そうすると決めた。そうしなければいけないと思った。由梨子の為に、武士の為に。そして何より、自分の為に。
「…………っっっ…………はぁ、はぁっ…………はぁっ…………」
 突然呼吸が苦しくなり、円香は民家の壁にもたれるようにして足を止めた。そう、自分で決めた事だというのに、いざそれを実行――これから先も貫き通して行かねばならないと考えただけで、呼吸が出来ない程に胸が苦しくなる。
(嫌だ……由梨に、会いたい……由梨の言葉が聞きたい……由梨の、笑顔が見たい……)
 それは最早、生理的な欲求と言っても良かった。今の今まで――否、昨日のあの瞬間まで、何故自分は忘れてしまっていたのか。忘れる事が出来ていたのか、円香には不思議でならなかった。
 それだけならば、ある意味良かったかもしれない。どれほど由梨子に毛嫌いされようとも、最早関係は修復しようのない所までこじれてしまっていたとしても、ただ由梨子への想いを胸に抱き続けるだけで、或いは満足する事が出来たかもしれない。
 しかし、だめだ。一つならばともかく、二つは無理だ。由梨子へのどうしようもない程に大きな想いと、それと同等或いは以上である武士への想い。それらを同時に共存させるには、円香の心の容量はまるで足りていなかった。
 壊れてしまう――と思った。いっそ、そうなってしまえば良かったかもしれない。しかし、円香は逃げた。逃げて、全てを忘れてしまおうと思った。
(……最初から、分不相応だったんだわ)
 常々、思っていた。宮本武士には、自分はふさわしくないと。自分のような女よりも、もっと武士にふさわしい女性が必ず居る筈だと。それは円香にも分かっていた。分かっていながら、武士の側に居続けた。
 その罰だ――と、円香は思った。お前は何様のつもりかと。あれほど唯一無二の存在として由梨子を追い、嫌われても尚追いかけ、身を堕とした分際で、また同じ過ちを繰り返すのかと。
(嫌っ……怖い……怖い……武士くんにまで嫌われるのが……怖い……)
 そう、つまるところそれが円香の本音だった。形の上では由梨子、そして武士の為を思ってあえて身を引いたように見えるが、実際の所円香は武士にまで見限られるのが怖かった。
 武士は、由梨子の弟だ。由梨子にこれほどまでに嫌われてしまった自分が、武士に嫌われないと何故言い切れるだろうか。否、自分のような人間は嫌われて当然だとすら、円香には思えた。
 この世で、無二と認めた存在が二人。その二人共に侮蔑され、嫌悪され、近づくことすら許されない――それは、円香にとって死よりも恐ろしい未来だった。
(……でも……そしたら、もう、何も……)
 由梨子が自分の全てだった。由梨子を失い、そして今また武士をも遠ざけてしまった円香にはもう、頼るべきものも、支えとなるものも何も無くなってしまった。
(空っぽ……私、空っぽ……だ……)
 いっそ本当にそうなってしまえばいいと、円香は思った。痛みを感じる心も、体も、全て霧散してしまえば、いっそ楽になれるのに。



 もういっそ、バイトも辞めてしまおうか――幾度と無くそれを悩zみ、それでも尚、翌朝時間通りに円香が店へと向かったのは、一つの約束を思い出したからだった。
(……お給料が出たら、一緒にごはん食べに行こうって…………)
 そう、妙子との約束だ。何もかも失ってしまった自分にとって、辛うじて残った妙子との縁。せめてそれだけでも大事にしたいと。
 辞めるにしても、せめて月末までは頑張ろう――そんな事を考えながら電車を降り、そしていつもの通り店の裏口から入った円香は、いきなり店長の怒鳴り声を耳にした。
「どういう事だ、これは! 昨日材料の発注をやったのは誰だ!」
 えっ、と。円香は凍り付いた。そっと足音を立てないように歩いて事務室をのぞき込むと、優佳ともう一人、昼間の調理スタッフが並んだまま下を向き、店長に怒鳴られている所だった。
「ん、丁度良い所に来たね。佐々木さん、昨日誰かパソコンを触っているのを見なかった?」
 くるりと、店長が円香の方へと振り返る。いつも柔和で、入ったばかりの自分を何かと気遣ってくれた優しい店長の面影は、今は見る影も無かった。目は血走り、よほど怒鳴り続けていたのか、円香に向けた口調こそ物静かではあるが、肩を激しく上下させながら荒々しく息巻いていた。
「えと……あの……何があったんですか?」
「どうもこうもないよ。材料が切れかかってたから、土日前に発注して届けてもらうようにって言っといたんだ。それで確かに、今朝届いたんだけど、その量が――」
「ちぃーっす。店長、何すか外に詰んであるダンボール箱」
「おう、奈良原。お前も見たか。昨日誰かが材料発注して、いつもの十倍も持って来させやがったんだ。お前、昨日も昼から入ってたろ、誰かパソコン弄ってた奴見なかったか?」
「えっ……マジっすか!? 材料の発注って鐘巻さんじゃないんすか?」
「鐘巻なら絶対ミスはしないだろ。前に一度やってから、どんだけ周りに迷惑かけたか骨身にしみてる筈だからな」
 恭哉と店長のやりとりを、円香は震えながら聞いていた。そして視界の端で、優佳ともう一人の同僚からの視線がちらちらと寄せられるのを感じていた。
 彼女たちは、勿論誰が発注をしたかを百も承知の筈だった。それでも尚店長に怒鳴られるままになっていたのは、一応自分をかばってくれていたのだろう。しかしそれも時間の問題だと、円香は思った。店長の怒り方はただごとではない、犯人を見つけるまでは決して収まらないだろう。
(何より、見られてる……)
 自分がパソコンを使っている所を、恭哉に見られている。恭哉も無論覚えているだろう。そして、恭哉にしてみれば円香をかばう理由は何もないのだ。
(でも、どうして……)
 確かに、一昨日の事があってから、調理場では何度も茫然自失とし、半ば追いやられるようにして事務室へと向かった。それでも、円香は材料の発注という作業がどれほど大事かという事は理解していた。入念に何度も何度も数量があっているかチェックをした筈なのに、何故十倍もの量が届いてしまったのだろう。
「あ、あの……店長……」
 どうして、何故――そんな事を考えても仕方がない。ミスをしてしまったのは間違いがないのだ。だったらもう、他人が責められる前に自分から白状するべきだと円香は思った。
「あの、その……私が……注文、しまし――」
「あー……すんません、店長。それ、多分俺ッス」
 円香が意を決して白状しようとした矢先、その三倍くらいの音量で恭哉が発言をかぶせてきた。
「……何、お前がやったのか?」
「うぃッス。ホントは佐々木さんが他のスタッフに頼まれてやってたんスけど、パソコンの使い方がよくわからないからって、俺が代わりにやったんスよ。……あれで大丈夫だと思ったんスけど、……すんませんした!」
「っっ……謝って済む問題じゃねえだろうが! お前何年うちで働いてんだ!」
 店長は深々と頭を下げた恭哉の胸ぐらを掴み上げ、思い切り頬を張り飛ばした。恭哉は二,三歩よろめいた後、再び気をつけの姿勢をとり、「……本当にすみませんでした!」と深々と頭を下げた。
「ちっ……やっちまったもんはしょうがねえ。お前の方から頭下げて、引き取ってもらえるもんは極力引き取ってもらえ! ダメだった分は俺が他の店に話して引き取ってもらう! おらグズグズすんな!」
「あっ……ぁっ……あのっ、店ちょっ――」
「ああ、佐々木さんは悪くないよ。気にしないで。今日はちょっといつもより作業増えるかもしれないけど、その分手当弾むからさ」
 店長は早口に、そして人が変わったかのような優しげな口調で言って、事務室を出て行った。
「あっ……」
 円香はさらに引き留めようと手を伸ばしかけたが、その手は恭哉によって止められた。
「しぃっ。……いいから、黙ってて」
「でもっ……!」
「いいから」
 小声で、他のスタッフには聞こえないように円香に囁き、恭哉は早速に店長から言われた通り電話片手に業者への連絡を始める。円香はやむなく事務室を後にし、その後にスタッフ二人が続いた。
「……あー……怖かった。……マジ切れしてる店長、久々に見ちゃった」
「でもさ、注文間違えたの佐々木さんじゃなかったんだね。私、絶対佐々木さんだと思ってた」
「…………っ……」
 ロッカールームで着替えをしながらそんなやりとりをしている同僚二人に対して、真実を言ったものかどうか、円香は悩んだ。悩んで、結局……黙っている道を選んだ。
「でもさ、前々から思ってたけど……やっぱり店長、佐々木さんにだけ甘いよね」
「うんうん、うちらに怒鳴ってた時と全然違ったもんね。……案外店長、佐々木さんに気があるんじゃない?」
「発注ミスったのが奈良原さんじゃなくて佐々木さんでも店長怒ったかな?」
「どーだろ? 閉店後話がある、とか言って事務室に呼び出したりするんじゃない?」
 きゃあきゃあと黄色い声を上げる同僚二人に愛想笑いをしてはいたが、円香の心は深く沈んでいた。
(…………恭哉、さん……)
 やはり、さっきのアレはかばってくれたのだろう。どう考えてもそうとしか思えない。しかし何故――。
(よりを……戻すため?)
 そう考えるのが、一番妥当だとは思う。人間誰しも好きこのんで泥を被り、頬を張られたくはない筈だ。が、円香は前回ファミレスで話をした時に自分には彼氏が居るとはっきり伝えている。既に彼氏が居る女をそうまでして手を出そうと思うだろうか?
(………………もしかして、勘違いしてたのは……私の方?)
 三年前の事も、ひょっとしたら恭哉が言っていた事の方が正しかったのではないだろうか。恭哉は本当にその時の彼女と別れてから、改めて真剣に自分と付き合おうとしていたのに、勝手にアパートに尋ねていったせいで全てがぶちこわしになってしまったのではなかったのだろうか。
(……とにかく、お礼は……言わなきゃ)
 バイトが終わり次第、恭哉に声をかけてみようと、円香は思った。



 円香にとって一つ計算違いだったのは、恭哉は自分と同じ午後四時にあがるものだとばかり思っていた事だった。否、恐らく当初の予定ではそうだったのだろう。
 だがしかし、恭哉は自分のミスの埋め合わせを少しでもしたいからと、残業を買って出たのだ。店長も特に何も言わずに恭哉の提案を受け入れた。勿論、残業とはいえその分はただ働きとして給料にはカウントされないのだろう。
 だったら――と。円香は自分も残業をする旨を店長へと申し出た。さすがにこれには店長は難色を示したが、自分にも半分は責任があるからと円香は引かなかった。本来は半分どころではないのだが、そんな円香の剣幕に押される形で店長は渋々承諾した。恭哉もそのことに対しては何も言わなかった。
 円香も、そして恐らく恭哉も本来の閉店時間ギリギリまで働くつもりだったが、午後九時の段階で「もう十分だ。二人とも上がって」という店長の鶴の一声によって上がることになった。
「…………朝は怒鳴って悪かったな。これで二人で何か巧い晩飯でも食って、忘れてくれ」
 店長自身、朝の自分の行いはやりすぎだったと反省でもしたのか、着替えを終えた円香と恭哉に五千円札まで差し出してきた。円香は断ろうとしたが、
「……すんませんした! ありがたく頂きます!」
 と、恭哉があっさり受け取ってしまった為、仕方なく円香も店長にお礼を言い、店を後にした。
「あのっ……きょ――……奈良原さん! 朝は……かばってくれてありがとうございました」
 店を出るなり、円香は即座にずっと言えなかった恭哉への礼を言った。
「ん。いいって、あれくらい。……俺が昔、佐々木さんにしちゃった事を考えたら、あれくらいは、ね」
「そんな……」
「それよりさ、折角店長がうまい飯食ってこいって言ってくれたんだ。佐々木さんさえ良ければ、俺のとっておきの店に案内するけど、来る?」
「ぁ……はい。朝から……賄いも殆ど食べてなくて……実はもう、お腹ぺこぺこで……」
「俺も。気まずくって賄いなんか食えなかったよな」
「……はい」
 恭哉が笑い、釣られて円香も笑った。一昨日、泣きながら宮本邸を飛び出して以来、初めての笑顔だった。


 恭哉のとっておきの店というのは雑多とした居酒屋だった。二十歳を過ぎている恭哉は当然のように酒を注文し、そして円香は何にするかと促してきた。年齢を理由に断るという選択肢もあったが、円香はあえて恭哉に任せ、そして恭哉は円香の分も酒を注文した。
 正直な所、円香はアルコールは苦手だった。弱い、と言い換えても差し支えない。通常のビールですら、コップ一杯飲んだだけで顔が真っ赤になり、足下がおぼつかなくなるということを十分に理解していた。
 だから、恭哉と共に居酒屋へと入り、そこで腹ごしらえをしながら酒を飲むということがゆくゆくどういう結果に繋がるかという事を十分に分かっていた。

「佐々木さん、大丈夫? 一人でちゃんと帰れる?」
 円香は恭哉に肩を貸してもらいながら、無言で首を横に振った。事実、居酒屋から出る時からして既に一人ではまともに歩けない程に酒が回ってしまっていた。
「そっか……。佐々木さんがこんなに酒に弱いなんて知らなかったな。…………そういや、まだ未成年だったっけ」
 恭哉の声を聞きながら、恭哉に肩を貸して貰いながら、円香は夜道を歩く。冷たい夜風が火照った肌に心地よく、僅かに酔いをさましてはくれたが、それでも尚自力で歩ける程にはほど遠かった。
「時間も大分遅いけど、少し俺の部屋で休んでいく? すぐ近くなんだけど」
「……うん」
 恭哉のその誘いがどういう意味なのかも、円香には分かっていた。十分ほど夜道を歩き、三年前に一度だけ訪れた事のある恭哉の部屋の中へと足を踏み入れた。
「……水、持ってこようか?」
 ベッドへと寝かされ、ぐるぐると視界が回るようになっている中、円香は黙って首を振った。そして自ら恭哉の手を握り、引くようにして自分の上へと誘った。
「……佐々木さん?」
「……………………円香、でいい。……昔みたいに、呼んで」
「……分かった。……円香ちゃん、でもいいの? 彼氏いるんじゃ……」
 円香は、再び首を横に振る。
「一昨日別れたの。……ううん、違う……フられちゃったの。……だから、もう……いいの」
「…………そ、っか。……俺も今、彼女とかそういうの居ないんだ」
 はにかむように笑って、そしてそっと、恭哉は唇を重ねてきた。懐かしい、とても懐かしい味がした。
(……もう、どうなっても……いい)
 この空っぽになった胸の中を埋めてくれるのなら誰でも。かつて自分を騙した男であっても構わないと、円香は思った。



「んぁっ……ぁっ、あぁっ……あ!」
 胸元をまさぐられ、一枚ずつ衣類を脱がされながら、円香は歓喜の声を上げていた。さすがにその手つきまで三年前と同じと言えるほど覚えてはいなかったが、一枚服を脱がすたびに必ずキスをしてくる所や、キスをする時はかならず優しく髪を撫でてくれるその仕草などが懐かしくて堪らなかった。
「………………本当に変わったね、円香ちゃん。胸とか、昔はぺったんこだったのに」
「やぁっ……昔と、比べないで……それと……あと、胸は……あんまり強くは……触らないで……」
「どうして? 感じやすいから?」
「そ、そうじゃなくて……ンンッ……!」
 恭哉がブラを取り去り、露出した胸元を冗談交じりにぎゅうっ、と強めに揉みしだいてくる。
「あっ、あっ……やっ……だ、だめっ、ぇ……で、出ちゃう……」
「出るって何が……まさか、母乳?」
 こくりと、円香は頬を赤らめながら頷く。
「その…………前の、彼氏とのセックスで……一度、避妊失敗、しちゃって……子供、堕ろしたの……そのせいで……」
「そ……っか。……円香ちゃんもいろいろ経験積んだんだ……そりゃあ、大人っぽく見えるわけだ」
 苦笑し、恭哉はちゅっ、と。勃起した先端へと唇を吸い付ける。
「ぁっ、やっ……吸うの、だめっ、ぇっ……!」
 円香は背を反らしながら悶える。ちぅぅ、と己の中に溜まっていたものが吸い出される感覚に、早くも甘い吐息を漏らしてしまう。
「へえ、母乳ってこんな味がするんだ」
「……もうっ」
 円香は照れ笑いを浮かべ、ぎゅっと恭哉を抱きしめるようにして、その耳へと唇を寄せた。
「ね、もう……来て」
「…………本当にいいの?」
 うん、と円香は頷き、そして再び背中をベッドに預けた。恭哉はどちらかといえば前戯を面倒くさがるタイプの男である事を、円香はしっかりと覚えていた。
 どうやら三年経ってもそれは変わっていないらしい。円香がOKサインを出すや否や意気揚々と円香はスカートとストッキング、そして下着を脱がされた。円香はさらに、恭哉が後背位が好きであった事を思い出し、ごく自然に四つんばいの姿勢となり、恭哉に向けて尻を差し出すようにして誘った。
「…………ほんと、ヤラしくなったね、円香ちゃん。……お尻とかも、昔と違って肉付きがいいっていうか、なんていうか……」
「……ゴムだけは、つけてね、恭哉さん」
「もち、つけるって。……あと、さん、はいらないよ。……恭哉、でいい。…………おれも、円香、って呼ぶからさ」
「うん…………来て、恭哉」
「ああ。……行くよ、円香」
 手早くスキンを装着した恭哉が、己の分身を円香の秘裂へと宛う。前戯は不十分であったが、挿入には支障ない程の潤いを帯びたその場所にゆっくりと先端を埋めていく。
「んっ、ぁっ……あっ、あっ……あぁぁ…………!」
 己の中に異物が入ってくるその感触に、円香は素直に声を上げた。
「っおっ……すげっ……円香のって……こんなだったっけ……?」
「……昔と、違う?」
 はぁはぁと息を弾ませながら、円香は悪戯っぽく尋ね返した。
「ああ……全然違う……昔もキツかったけど……なんか堅い感じだったのが……適度にこなれて……うおっ……」
 円香が下半身に力を込めて意図的に締め付けると、恭哉はあっさりと腰砕けになり、上ずった声を上げた。
「やっべ……これ……今までヤッた女とじゃ比較になんねぇ……“名器”なんて俺、都市伝説だとばかり思ってたよ」
「……そうなの? そんなに……他の女の子より、気持ちいい?」
「あぁ……沙織よりも、他の女よりも、断然良い……クセになりそうだ」
 はぁはぁと息を荒げながら、恭哉は円香の腰を掴み、動き始める。
「んっ……ぁっ、あぁっ!」
 矮小な優越感を感じながらも、円香は素直に声を上げる。
(あぁっ……そう……恭哉さんが……ううん、恭哉が……初めて……) 
 ただただ痛いばかりだった初体験とは違い、自分に初めて女としての喜びを教えてくれたたのが恭哉だったと、円香は身震いするほどの快楽と共に思い出していた。
「あっ、あっ、あっ……!」
 この腰使いも、覚えがある。まだ中学生だった円香は性感帯の開発も十分でなく、快楽が欲しくてセックスをするというよりは、思春期故の性に対する好奇心を抑えきれなくて結果的にセックスをのぞんだというのが正しかった。或いは、単純に恭哉の意向を汲んで、身を委ねたと言い換えても良い。
(あっ、あっ……すご、い…………感じ、るっ……気持ち、いい……!)
 昔は、それほどでも無かった――かつての自分の記憶と照らし合わせながら、円香はそんな事を考えていた。
 昔の自分は、どちらかといえば単純に恭哉と一緒に居たり、趣味のバイクの話を聞いたり、或いは休みの日にどこかに連れて行ったりしてもらえるのが嬉しかった。セックスなどはその副産物――というより、楽しい思いをさせてもらったから、そのお返しとして自分が出来る最大のお礼として身を差し出していた面もあった。
 しかし、今は違った。純粋に、円香は快楽の虜となりつつあった。
(そう……気持ちよく……なっちゃうんだ……)
 そして同時に、円香は奇妙な失望も覚えていた。武士相手でなくても、快楽を感じてしまう自分に。こんな、殆ど行きずりのようにして体を重ねている相手に――例え昔の事があったとしても――快楽を感じ、そして愛しさすら覚え始めている自分の体が呪わしくすら思えてくる。
「はぁっ、はぁっ……やっ、べ……マジ、気持ちよすぎ……円香のマンコ、すげぇわ…………キュウキュウ絞まって絡みついてきて……っ……ゴムありでこれかよ……ッ……」
「んっぅ……恭哉、のも……すごく、良いよ……気持ちいい……あぁん!」
「マジ? 前の彼氏とどっちがいい?」
 きゅっと、背後から抱きつかれ、胸元をむぎゅっ、と掴まれながら、恭哉が耳元にそんな言葉を囁いてくる。
「えっ……前の……?」
「そ。……円香の前の彼氏と、俺。どっちのが気持ちいい?」
 円香は、言葉に詰まった。まさかこんな質問を投げかけられるなど、思ってもいなかった。
「えと……ごめん、それは……言えない……」
「どうして? 俺はちゃんと言ったじゃん。前の彼女より断然円香のがいいって」
「そう、だけど……やだっ……んんっ! やっ……そこ、だめっ……あはぁっ……」
「ほら、いいから聞かせろって。……大丈夫、前の彼氏の方が良いって言っても怒らねーから」
 恭哉はぐりぐりと腰を使いながら、円香の乳首をキュッと抓るようにして言葉を促してくる。円香はふと、昔の事を思い出していた。
(……絶対怒らないから、って言われて……正直に言った時……)
 そういう時は、いつも恭哉は機嫌が悪くなっていた。勿論、表だって怒りはしないが、確実に怒っているであろうことは言葉の端々から痛いほどに円香に伝わった。
 そう、あれは――恭哉に口での奉仕をさせられていた時だ。円香は、本当は精液を口で受け止め、飲むのは嫌だった。生理的な嫌悪もさることながら、飲んだ後口に残る臭気や感触、それら諸々が嫌で、一か八か恭哉に切りだしてみようと思った事があった。
 恭哉も、すぐに円香が何かを言おうとしているのは察した。しかし、円香はなかなか言えない。焦れた恭哉は言う、『絶対怒ったりしないから、言ってみて』と。そして円香は正直に言った。口でするのは好きだが、飲むのは苦手……できれば飲みたくないと。
 その時は、恭哉は怒らなかった。しかし、その日から恭哉はバイクに乗せてはくれなくなった。態度も冷たくなったように感じた。円香も、すぐに分かった。あんな事を言ったからだ――と。
「……んっっぁっ……きょう、や……恭哉のっ、ほうが……良いっ……気持ちいい……ぁぁあ!」
「マジ!? そんなに良い? ほら、円香っ……もっと言えよ、前の彼氏より良いって」
 ぺちんっ!――恭哉は声を荒げて興奮し、円香の尻目がけて掌を振り下ろす。
「あっ、あっ……! 良い、のっ……良いっ……恭哉の方が良いッ……!」
「もっとだ、もっと言えよ! ほら!」
 ぺちんっ!――尻を叩かれ、円香はまたしても弾かれるように言った。恭哉の方が良い、気持ちいい――と。
(あぁっ、そう……恭哉は……興奮してくると……)
 こうして尻を叩く事があったと、円香は思い出していた。その為に、いつも後背位ばかりシたがっていたのだと。
「はぁはぁっ……や、べ……円香……そろそろ俺、イきそ……」
「んっ……良いよ……恭哉が、好きな時に……」
「先に円香がイけよ。……そしたら、俺もイくからさ」
「う、うん……分かった……んんっ……んっ……!」
 円香は恭哉の動きにあわせて声を上げながら、そしてはたと“あること”に気がつき、そして愕然とした。
 こうして恭哉に抱かれるのは自分がきちんと選択した事だ。ある意味では納得したともいえる。
 そして実際に快感も得ている――が、しかしイけそうかと言われれば否、と言わざるをえなかった。
「あぁぁっ、やべっ……もう出るっ……ほらっ、イけよ、早く!」
「んっ、ぁっ、ぁっ……い、イくっ……イくっ……イクッ…………!」
 恭哉に急かすように尻を叩かれ、円香はやむなく――そして、生まれて初めて、“イったふり”をした。自分なりに精一杯身を強ばらせ、剛直を締め付け、声を荒げた。
「んおおっ……円香ぁっ……好きだ!」
 円香がそんな演技をしている事など知らず、恭哉はそんな事を叫びながらぎゅうっ、と円香の体を抱きしめ、そしてびゅく、びゅくと射精を行う。無論、装着されたスキンによってそれらは円香の膣内へと届く事はないが、そのスキンごしの感触を円香はひどく冷めた気持ちで受け止めた。
「はぁっ……はぁっ…………どうだ、円香。良かったろ?」
「うん……凄く、気持ちよかった」
「だろ? 俺たち相性ばっちりだもんな」
 恭哉の手によって円香は振り向かされ、唇を重ねた。強い酒の匂いのする舌が口腔内に強引に入ってきて、まるで蹂躙でもするように円香の舌をなめ回してくる。
「ふーっ……やべぇ、円香のマンコ、マジ良すぎだって。…………出したばっかなのに、もうムラムラしてきた……もう一回シてもいい?」
 うん、と。円香は一も二もなく頷いた。断れば、きっと恭哉の機嫌が悪くなると、そう思ったからだ。



 朝、円香はカーテンから漏れる光で目覚め、そしてハッと身を起こした。そして即座に今日は土曜日であることを思い出して、再びベッドへと体を預けた。
「んんっ……どうした、円香。自分の家と間違えたのか?」
「あ……恭哉、おはよう……ごめん、起こしちゃった?」
「そりゃあ……だって、いきなりガバッ……だもんな。目も覚めるって」
 ふぁあ、と隣で寝ていた恭哉は大あくびをし、そしてぎゅっと布団の中で円香の体を抱きしめてきた。
「きゃんっ……やだ、もう……」
「んーっ……円香の体やわらけー、おっぱいもたゆんたゆんだし…………いやーしかし、昨夜はスゲー疲れたなぁ……何発ヤッたっけ?」
「ええと……5回、くらい?」
「ちょっと待て、今数える……ひい、ふう、みい……」
 恭哉は枕元のゴミ箱をあさり、ティッシュに丸められて捨てられているスキンの数を数え始める。
「5……6……うーわ、六発もやってんよ! 俺よく死ななかったな……てか、一晩で六発って、オナニーでもしたことねえよ」
「あはは…………恭哉、スゴかったね……」
「何言ってんだよ。……円香がこんなエロい体してっからだろ?」
「きゃっ……ちょっ……やだっ……だめぇ……!」
 恭哉の両手が円香の両胸を掴み、下からたぷたぷと揺らしてきて、円香はくすぐったさもあって黄色い声を上げた。
「ああ、あとさ……恭哉って呼び捨てよりは、“恭ちゃん”の方が良くね? 俺は円香、って呼ぶけど」
「あ、うん……恭哉……恭ちゃんがその方がいいなら、そう呼ぶ」
「ん、やっぱその方がしっくりくるわ。……そうだ、円香。早速これ処理してくれね?」
 と、自らの朝立ちをアピールするように、恭哉は布団の中で円香の尻にこすりつけてくる。
「さすがに昨日腰振り過ぎてすげー疲れたからさ。……久々に口で頼むわ。……円香が他の男でどれくらいフェラ巧くなったのか俺がチェックしてやるよ」
「そんな……私、別に巧くなってなんか」
「いいから、ほら、さっさと咥えろって」
 恭哉は円香の頭を掴み、強引に己の股間の方へと誘導する。仕方なく、円香は恭哉の望み通りに朝立ちしているそれへと舌を這わせる。
「おぉ……そうそう、いいぜ……円香。……ちゃんと最後は口で受け止めて、飲めよ? 覚えてるだろ?」
「んっ……んくっ……」
 円香は剛直を咥えたまま頷き、そして口戯へと集中すべく瞼を閉じた。そうして奉仕をしながら、頭の奥底でこれが終わったら家に一度連絡を入れなければと、そんな事を考えた。


 恭哉との、楽しい毎日が続いた。――少なくとも、円香は楽しいと思いこもうとしていた。
 円香は可能な限りバイトのシフトを変更し、なるべく恭哉と同じ時間帯に入り、そして終了時間が同じになるようにした。どうしても同じ時間帯に入れない時などは、恭哉にもらった合い鍵で先に恭哉のアパートへと帰り、部屋の片づけなどをして恭哉の帰りを待ったりもした。
 盲目的だった――と言わざるを得ない。円香にはもう、頼りになる相手は――心の支えになりそうな男は恭哉しか居ないと言っても過言ではなく、殆ど盲従するようにして円香は恭哉の意向に付き従った。
 恭哉も、別段暴君というわけではなかった。普段は優しく、よく円香の事を気遣ってくれた。ただ、時折――特に、体を重ねる時など若干言葉が乱暴になったり、叩かれたりする事はあったが、それらは全て“興奮のあまり”という理由によって全て円香への想い故という形で肯定された。

 そんなある日の事だった。バイトの途中で、たまたま調理スタッフ二人が席を外し、鐘巻と二人きりになる事があった。
「無駄だと思うけど、一応言っておくね」
 鐘巻はぽつりと、特に感情のこもらない声で、まるで独り言のように呟き、そして続けた。
「佐々木さん、騙されてるよ」
「えっ……?」
 鐘巻はさらに円香の方を見ず、ピザ生地にソースを塗りながら、“独り言”を呟く。
「このままじゃ貴方、酷い目に遭うよ」
「あの……私、誰に騙されてるん――」
 そこまで口にしたとき、席を外していたスタッフの二人が調理場へと戻ってきた。
「ごっめーん、佐々木さん。今戻ったよー、なになに、注文入ってるの?」
「あっ、うん……」
 優佳と、もう一人のスタッフに状況の説明をしながら、円香は横目でちらりと鐘巻を見た。そしてそのまま、帰る時まで、鐘巻の真意を伺う機会は無かった。

「…………っていう事があったの」
 バイトの後、円香はいつものように恭哉の部屋へと立ち寄り、そこで早速に昼間鐘巻にされた話を恭哉に相談した。
「…………萌が、そう言ったのか?」
 恭哉は店では“鐘巻さん”と呼ぶが、家では萌と、鐘巻の下の名前を呼び捨てにしていた。
「うん……私が、騙されてるって……」
「…………円香、これは別に隠してたわけじゃないんだけど、改めて言っとく。…………俺、少し前……萌と付き合ってたんだ」
「えっ……」
「それで、ちょっと厄介な別れ方しちまってさ……正直、あんまり折り合いは良くないんだ。ほら、俺と萌が喋ってる所、円香も見たことないだろ?」
「うん……そういえば……」
「……だから、だろうな。あいつまだ俺に未練タラタラだからな、それなのにポッと入ってきた円香が俺の彼女になったら、変な噂の一つも流してやろうって気にもなるかもな」
 なるほど、と。円香は奇妙な納得を覚えていた。
(そういえば、鐘巻さんって……)
 円香自身はまだ何もこれというイヤガラセは受けたことはないが、他のスタッフからの評判は最悪の一言だった。やはりそういう人なのかと、円香は鐘巻に対する評価を改めようと思った。
「…………ま、そういうことだ。…………なぁ円香。今日は泊まっていけるのか?」
「えっ……ぁ……うん……ちょっと、今日も無理、かな……。……この前も、パパにきつく叱られちゃったから……しばらくは……」
「何言ってんだよ。円香だってもう18だろ? 親の言うことなんか気にするなって。……いいから泊まっていけよ。……久々にがっつり円香とヤりてぇんだよ」
「で、でも……やだっ……ンッ……」
 恭哉に強引に迫られ、ベッドへと押し倒されようとしたその時だった――突然、携帯が振動した。
 振動したのは、円香のものではなかった。円香はそれを、恭哉の挙動で知った。そう、テーブルの上の携帯がぶぶぶと震えるやいなや、恭哉は電気ショックでも受けたかのように自分の携帯を探し、すぐさま通話ボタンを押したのだ。
「はい、もしもし…………はい、はい……はい……!」
 どうやら電話をかけてきた相手は、恭哉にとってかなり緊張を伴う相手らしい。少なくともバイト先の店長などではない事は、その受け答えの仕方から円香にも分かった。
「はい、はい……分かってます! そんな、しらばっくれるなんて……はい、大丈夫です……ほ、ホントに今度は大丈夫ですから! ゼッテー気に入ると思います、はい……はい……はい……分かりました、はい……」
 恭哉は携帯を耳に当てたまま、何度も何度も頭を下げていた。そして最後は携帯の画面を見て、相手側のほうが通話を切ったのを確認してから開いていた携帯を閉じ、テーブルの上に置いてふうとため息をついた。
「……電話、誰からだったの?」
 聞かない方がいいとは思いつつも、円香は好奇心に勝てずについ尋ねてしまった。
「………………借金取り」
 ごまかすかと思いきや、恭哉はあっさりと口を割った。
「こないださ、親父が死んだんだけど……親父、なんか借金残して死んだみたいでさ。……それで、俺の所にもこうして取り立てが来るんだ」
「借金って……いくらくらい?」
「……さあ、わかんね。五百万くらいだったかな」
「でも、そういうのって確か……遺産の相続放棄とかすれば……払わなくていいんじゃない?」
 円香はうろ覚えの知識を口にしたが、恭哉からの返事は無かった。しばらくツメを噛みながら部屋の一点を凝視し続け、そして突然、思い出したように口を開いた。
「悪い、円香。今日は帰ってくれ」
「えっ……」
「忘れてた、今日は友達が来る日だった。……すぐ帰ってくれ」
「分かった……あの、恭ちゃん、お金の事なら……私、少しは――」
 恭哉に背中を押され、円香は全てを喋り終える前に外へと押し出されてしまった。やむなく円香は駅へと歩き出した。
(借金なんて……恭ちゃん、大丈夫かな……)
 借金取りにしては些かやりとりが不自然だったような気がしたが、あまり恭哉のプライベートに立ち入らない方がいいかもしれないと、円香は一端電話の件は忘れる事にした。


 忘れよう――とは思ったが、結局円香は次の日、バイトの時間になっても忘れる事が出来なかった。
「円香、悪い……いっこだけ頼み聞いてくれないか?」
 だから、バイトが終わり、二人して店を後にして夜道を歩きながら恭哉がそんな話を振ってきた時、てっきり金策の相談だとばかり思った。
「恭ちゃんの頼みならなるべく聞いてあげたいけど……なに?」
 恭哉の力にはなってやりたい。しかし、たとえばいきなり五百万の肩代わりをして欲しい等と言われても、自分には無理――そんな計算から、円香は若干及び腰に答えた。
 だが、恭哉の申し出は円香にとって全くの予想外なものだった。
「実はさ、ほら……昨日友達に会うって円香帰らせたろ? あの後、大学の友達が来たんだけどさ……アイツ、女連れできやがってさ。……しかも、これ見よがしに俺の目の前でいちゃつくんだよ。これがそいつに輪をかけたようなバカそうな女でさ、ぶっちゃけ円香の足下にも及ばないようなブス女なんだよ。俺も最初は我慢してたんだけど、段々イライラしてきて、最後ちょっと口論みたいになっちまったのな。んで――」
 恭哉はそこまで一息に言い、息を吸いながらちらりと。隣で歩いている円香へと視線を走らせた。
「俺も最近、新しい彼女が出来た。しかもお前の彼女なんかより万倍可愛い女だ、ってつい言っちまったんだ。そしたらそいつ、連れてきて見せろとか言い出してさ。……俺、円香をそんな風に見せびらかしたりとか、そういう事したくないって思ってたんだけど……本当に居るなら見せられる筈だって、そいつがうるせーんだよ」
「えと……それって……」
「だから、今度の金曜、バイト終わったら……俺ンち来て、ちょっとだけ顔見せてやってくれないかな。そいつも、自分の目で円香を見れば、俺が言ったことも納得すると思うんだ。……ケータイで円香の写真とって見せるって手もあるっちゃあるけど、それだと俺の彼女って事までは証明できねーし」
「で、でも…………恭ちゃん、……そんな……私、嫌だよ……だって……」
 ただ、普通に彼女を紹介したい――そういう話であったなら、自分は渋々承諾したかもしれない。しかし、恭哉の話によれば、既に“スゲー美人の彼女”という事でハードルが凄まじく上げられてしまっているのだ。それなのにのこのこと顔を晒しに行けるほど、円香は己の容姿に自信はなかった。
「大丈夫だって。円香はもうちょっと自分に自信持った方が良いっていつも言ってるだろ? 円香は間違いなく美人! それもとびきり、俺が保証するよ」
「で、でも……」
「まぁ、どうしても嫌だっていうんなら、無理にとは言えねーけどさ……ただ、そいつ……なんかサークルの先輩とかにもべらべら喋っちまったみたいでさ。みんなそんだけ美人の彼女が出来たんなら、ひと目見てみてー、つってすげー息巻いてんだよね。だから、もし円香が来てくんなかったら……下手すると俺、ハブられたりすっかもしれねーんだよな。……まあ、自業自得だからしょうがねーんだけどさ」
「そんな……先輩達まで……見に来るの?」
「見に来るっていっても、ちらっとだよ。ちょっとだけ顔見せて、それで終わり。……な? それくらいなら良いだろ?」
「……っ……」
 円香は悩んだ。本当なら、一も二もなく断りたい。そんな……不特定多数の男達に奇異の視線に晒されるなど、昔はともかく今の円香には耐え難い事だった。
(でも……断ったら……)
 事が、大学の先輩まで巻き込んでしまっている以上、確かに恭哉の言うとおりすっぽかしてしまったらただではすまない事になってしまう気がした。そうなれば、恭哉はどう思うだろうか。自分のために、たった数分顔を見せるだけの事すらしてくれない冷たい女だと思うのではないだろうか。
(…………そ、っか…………私にはもう、選ぶ権利なんて……無いんだ)
 恭哉だけを心の支えとして生きていくと決めた日から、拒否する権利など無かったのだ。円香は自嘲気味に口元に笑みを浮かべ、そして口を開いた。
「分かった。金曜日、恭ちゃんの部屋に行くよ。…………だけど、こんなの全然美人じゃないとか、そういう事言われちゃったら……後でいっぱい慰めてね?」
「そんなことにはならねえって! 円香は心配性だなぁ……んじゃ、金曜来てくれよ? 絶対、絶対だぞ?」
 恭哉の喜びようが少し尋常ではないように思えたが、円香は気にしない事にした。考えてもみれば、友達や先輩達から総スカンを食らうかどうかのいわば瀬戸際だったのだ、それならば確かに嬉しいだろうと、そう思うことにした。



 金曜日。
 幸か不幸か、シフトの都合で円香は金曜日は休みとなり、恭哉だけが夕方までバイトに入り、その後友人達を家に連れてくるという流れになった。
 円香は空いた昼間の時間を使って美容院に行く事にした。実を言えば宍戸の事件――否、さらに遡っての輪姦事件以降、初めての美容院だった。
 特に髪を切ろうとか思っての事ではなかった。ただ、恭哉の彼女として、その友達や先輩達にお披露目される以上、少しでも見栄えをよくしたいと思っての行動だった。自分のためではない、何より恭哉の為に。
 結果、少しだけ髪先を切ってもらったり、軽くパーマをかけてもらったりと、気をつけて見なければ自分でもなかなか気がつかないという程度の変化しかつけられなかったが、それで十分だと円香は思った。余り過度に着飾って注目を集めてしまうのも嫌だった。
 美容院の後はスーパーに寄り、様々な食材を買い込んだ。恭哉の話では、友人達を連れてくるのは恐らく五時過ぎ辺りになるとの事だった。ならば、それにあわせて夕食の準備をしておこうと円香は思った。
 メニューは悩んだ末、カレーにすることにした。比較的簡単で、誰にも人気があって、ご飯さえ多めに炊いておけばある程度の人数までは余裕を持って対処できるというのが主な理由だった。肉も奮発して高い牛肉を買い、その他の材料にも円香なりにこだわって、一足先に恭哉のアパートへと赴いた。
 静かな室内で一人、カレーの準備をしていると、はたと。円香は奇妙な既視感に襲われた。が、しかし円香は必死にそのことを思い出さないようにした。それでも僅かに目尻に涙が滲んだが、それもタマネギを刻んでいるせいだと自分に言い聞かせた。
 牛肉や野菜類をよく炒め、料理本を片手に入念に調味料を鍋に加えていく。あのときもこうしてきちんと本を見ながら作れば、失敗はしなかったのにと思いかけて、円香は必死に首を振った。
 恭哉が友人達を連れてくると言った五時に備えてカレーを仕上げ、そしてご飯を炊いた。時間が迫るにつれて、円香は奇妙な胸騒ぎを感じ始めていた。今になって、いつかの――恭哉が電話で話していた内容が気になり始めたのだ。今度は大丈夫、絶対気に入る――そんな事を言ってはいなかったか。一体全体“何”が大丈夫で、“何”を気に入ると、恭哉は言っていたのか――。
「……ぁ……」
 円香がそんな事を考えて、不安になりかけていた時だった。がちゃりと、ドアの鍵穴に鍵が差し込まれる音がして、円香はハッと台所の椅子から立ち上がった。
「おっじゃまっしまーっす……おっ、カレーの匂い」
 最初に入ってきたのは恭哉ではなく、冬の最中だというのに真っ黒に日焼けした筋肉質の男だった。しかも、この寒い冬の最中だというのに、上半身に着ているのはノースリーブの革ジャンのみであり、首に下げた金細工のネックレスの下には見事に割れた腹筋がありありと見てとれた。顔もまた黒々と日焼けしており、片耳にはピアス、髪は金髪を後ろでひとまとめにしていて、顔つきは厳つく、三白眼でお世辞にも美男子とは言い難い類の男だった。
「うぃーっす、じゃましまーっす」
 その後に続いてきたのは、最初の男に比べればなんとも平凡な大学生といった感じの風貌の男だった。髪はスポーツ刈りを伸ばしたような黒髪で、パーカーにジーンズ、背にはナップサップといった格好だった。その二人に続いて、恭哉が入ってくるのが見えた。
「おおーっ! 君が円香ちゃん?! 恭哉から話は聞いてんよ! いやー……恭哉がすげー美人捕まえたって言うからさー、どんな女かっていろいろ想像してたけど、それよか二割増しくらい上だわ」
「あっ……ありがとう、ございます……」
 見た目は怖そうだが、意外に気さくないい人なのかもしれない――そんな事を思いながら、円香はぺこりと頭を下げた。
「おー……マジ美人、しかも巨乳! スゲーじゃん、恭哉。前の女とはダンチだな」
「……あぁ」
 そして、もう一人の――恐らくは、こちらが友人だろう――男もそんな声を上げ、円香はホッと安堵の息を吐いた。どうやら、少なくとも恭哉の面目だけは潰さずに済んだらしいと。これでこそ美容院に行った甲斐もあったというものだ。
「そーだ、おい河田。高橋はまだ時間かかんのか?」
「さっき講義終わったってメールきましたから、まだもうちょいかかると思います」
「ったく、あいつもしょうがねーな。こんな時くらい講義さぼりゃーいいのによ。……しゃーねえ、んじゃ先に腹ごしらえでもすっか。……このカレー、食っていいんだろ?」
「あっ、はい……あの、口に合わないかもしれませんけど……」
「いーって、いーって。俺様、女が作った料理には基本文句つけねー男だから」
 どっかりと、台所の椅子に金髪男が腰を下ろし、友人らしき男――河田もその隣に座る。恭哉は金髪男の正面の席へと座った。円香は一人、てきぱきと平皿にごはんを盛り、カレーをかけてスプーンを添えて男達の前へと配膳していく。
「おー、いいねえ、いいねえ。スゲー美味そうじゃん。しかも、かなり良い肉使ってるとみたね」
「マジッスか。眞野さん料理の事とか分かるんスか?」
「ばっかオメー。俺を誰だと思ってんだ。箸より重いモノなんてツルハシしか持った事がねーお坊ちゃんだぜ?」
「眞野さん、それ答えになってないッス。しかも寒いッス」
「うるせーよ、バーカ。いいから黙って食え。折角の円香ちゃんの手料理が冷めちまうだろうが」
「うぃッス。頂きます!」
 河田と金髪男――眞野が食べ始めたのを見て、円香はちらりと恭哉の方へと視線を走らせた。どういうわけか、恭哉はスプーンを握ってもおらず、ただただ深刻そうな顔でカレー皿へと視線を落としていた。
「恭ちゃん……食べないの?」
「……あ、あぁ…………そう、だな」
 あれ、恭哉はひょっとしてカレーは苦手だっただろうか――円香がそんな不安を覚え始めた時だった。突然、かちゃりと音を立てて、眞野がスプーンを置いた。
「おい……なんだこりゃ」
「えっ……」
 それまでの陽気な声とは打ってかわった、ドスの利いた低い声に、円香は俄に身を固くした。
「おえっ……マズッ……」
 次は、河田がスプーンを置いた。そちらに円香が視線を移した瞬間、何かがひゅっ、と頬を掠めて飛び、背後の壁に当たって派手な音を立てた。
「おい、ふざけんなよ。なんだよこりゃあ……豚の餌か?」
「えっ……えっ……」
 円香の背後で壁にぶつかり、無惨に床にちりばめられたのは先ほどまでカレーライスと呼ばれていたものと、その器だった。
「いやー、ひっでぇ味ッスねこれ。俺、吐き気がするほどマズいカレー食ったのなんて初めてッスよ」
 そんな――と、円香は震えながら二人の男の顔を交互に見た。
(本の通りに作って、ちゃんと……味見もしたのに)
 確かに、極上のカレーとは言い難かったかもしれない。しかしそれでも、普通のカレーくらいは――少なくとも、一口食べるなり皿ごと壁に投げつけられるほど酷い味ではなかった筈だ。
「おい、人の話ちゃんと聞いてんのか?」
「ぁっ……ぁっ……ごめんなさい……その、私……料理、あんまり……得意じゃなくて……」
「んなこたー聞いてねーんだヨ。……こんなクソまじいもん食わせといて、ごめんで済むと思ってんのか?」
「ぁっ……ほ、本当に……すみませんでした……」
 円香は震えながら、深々と頭を下げた。下げながら、どうして恭哉が助け船を出してくれないのか、そのことが不思議で堪らなかった。
(あのときみたいに……助けてくれないの?)
 円香は期待したが、しかし恭哉は円香の方を見ようともしていなかった。
「あー、どうよ、河田。イマイチ誠意感じられなくね?」
「そッスねー。このムカツキはちょっとやそっとじゃ消えそうに無いッス」
「だとよ、円香ちゃん。……どういう風に誠意みしてくれんの?」
「せ、誠意……ですか?」
 円香には、男達が一体何を言いたいのかさっぱり分からなかった。まさか、金品を出せとでも言いたいのだろうか。
「眞野さん。おっぱい見せるってのはどうッスか?」
 悩み、固まっていた円香はそんな信じられない言葉を耳にした。
「おう、それいいな。……つーわけだ、円香ちゃん。おっぱい見せてくれヨ」
「えっ……」
「いいだろ、別に。減るもんでもねーし。おら、早く見せろよ」
「そんな…………きょ、恭ちゃん!」
 円香は堪らず、恭哉に声をかけたが、しかし恭哉は以前テーブルの上で拳を握ったまま、円香の方を見もしない。けたけたと、二人の男が下品な笑みを零し始める。
(何……? 一体、何が起きてるの……?)
 状況が、円香の理解を超えていた。否、円香はかつて、この状況によく似た境遇に置かれた事があった。――その時は、どういう未来が待っていたか。
「……――っ……!」
 円香は反射的に地を蹴り、玄関のドア目がけて駆け出していた。――が、もう少しでドアノブに手が届くという所で、円香は背後から肩を掴まれた。
「ちょっとちょっとちょっとぉ……円香ちゃん、なーに逃げようとしてんの? こんなくそまじーカレー食わせといて逃げるなんて人としてありえなくね?」
「ぁっ、ぁっ……やっ……ゆ、許して……下さい……」
 最早、円香に言える事はそれだけだった。ガタガタと全身を震わせ、両目から涙を溢れさせながら必死に懇願した。――が、円香のそんな様を見て尚、金髪男はピアスの入った舌を唇から覗かせて舌なめずりをする。
「いいねいいねぇ、その反応! 俺様ボッキしてきちまったヨ。円香ちゃん、男の誘い方分かってんねぇ」
「ぁっ、ぁっ……い、嫌っ……イヤァッ!!」
 ぐいと引き寄せられ、背後から羽交い締めのようにされながら胸元をまさぐられ、円香は半狂乱になって叫び、暴れた。
「助けてっ! 恭ちゃん! 助けてぇ!」
「ザンネン。恭ちゃんは助けてくれませーん」
 薄笑いを浮かべながら、冗談めかした口調で言ったのは河田だった。その手には――ナップサックから取りだしたのだろうか、ハンディカメラが構えられていた。
「そーそー。俺らに円香ちゃん売ったのが、その恭ちゃんなんだよなー、コレが」
「ひっ……」
 ぺろり、と眞野が首筋を舐めてきて、円香は悲鳴を漏らした。ぬらりとした唾液の感触、ピアスの冷たい感触がどちらも不快極まりなかった。
「ネタバレすっとさー、円香ちゃんの作ったカレーが美味かろうが不味かろうが、最初からヤッちゃう予定だったんスよね。……まぁ、カレーはホントに不味かったけど」
「そん、な……恭ちゃん、どうして……」
 円香は体を固定されたまま、首から上だけで恭哉の方を見た。恭哉は相変わらず食卓の椅子に座ったまま、背後を振り返るような形で円香の方を見ていたが、目が合う寸前に視線を体の正面へと戻した。
「どうする? 恭哉ァ。円香ちゃん自分がなんでレイプされるのか知りたがってるみたいだゼ? 言っちまっていいのか?」
「あっ……いや……眞野さん、それは……」
 どうやら、眞野の言葉にだけは鋭く反応するらしい恭哉は慌てて体の向きを変えた。
「コイツはさ、眞野さんにでっけー貸しがあんだよ。……なぁ、恭哉?」
「そーそー。去年の夏くらいだっけかなぁ。バイクで人撥ねちまったから、なんとかもみ消して欲しいーつってお前が泣きついてきたのは」
「ま、眞野さん……そのことは……」
「あん? 別にいいじゃねーか。俺様もあんときゃモミ消すのにそれなりに苦労したんだぜぇ? ま、電話一本だったけどヨ」
「ひっひ。俺っちも眞野さんにだけは逆らいたくねーッス」
「ま、そーゆー貸しがこいつにはあるわけヨ。んで見返りとして、毎月十万上納するか、代わりに奴隷用のいい女上納するか。どっちでも好きな方選べと。つまりそういうワケなのヨ、わかった? 円香ちゃん」
「そん、な……」
 円香は絶句した。
 親が残した借金が五百万ある――という話は嘘だったのか。あの時かかってきた電話も、借金取りからではなく眞野からのものだったのだ。そして、あの会話のやりとりの中で示唆されていたのは――。
「ひひっ。毎月十万なんてゼッテー無理ッス。好きな方選べーなんつっといて、そんなのもう女一択ッスよ」
「あン? ばっかオメーどんな時でも選択の自由を与えてやるのが俺様流の優しさなんだヨ」
 眞野と河田のやりとりを聞きながら、円香は考えていた。そう、恭哉の真意を――だ。恭哉は一体いつから自分を眞野達の生け贄にするつもりだったのだろうか。あの電話がかかって来たときだろうか。それとも、まさか最初から――?
「……つーワケだけど、円香ちゃん。納得した?」
 愚にもつかない思考は、眞野のそんな一言で中断させられた。同時に、円香は絶望的な現実へと意識を引き戻された。
「まっ、納得できなくても、犯る事犯っちゃうワケだけど。なんたって俺様、今日この日の為に一週間もオナ禁してせーし溜めて来たからもーガチンガチンなワケよ」
「眞野さん、小三で上級生の女子犯して童貞喪失してから一度もオナニーしたこと無いって言ってたじゃ無いッスか」
「ばっ……オメー、それはほら、アレだ。セク禁じゃ語呂わりーだろうが。つまりアレだ、射精禁止、シャー禁だ、シャー禁。おらっ、来いよ。ベッドに移動すっぞ」
「っっ……い、イヤッ……イヤァ!」
 ぐいと、ベッドのある居間の方へと引きずられ、円香は精一杯の力を振り絞って抵抗をした。
「ッ……痛ッてぇ!」
 自分の体をがっしりと掴んでいる腕にツメを立て、思い切り引っ掻いた瞬間、僅かに眞野の力が緩んだ。その瞬間、円香は己の未来に僅かな希望を見た。全力で眞野の手を振り切り、玄関のドアへと――。
「かはっ……」
 どんっ、と凄まじく重い衝撃が腹部に走ったのはその時だった。衝撃の正体は眞野の拳だった。拘束が緩んだのは、ただ単純に殴る為だったのだと、円香は膝をつきその場に崩れ落ちながら悟った。
「おいおい、円香ちゃん。自分の立場分かってんのか? 言っとくが、俺様、女を殴る事なんか何とも思ってないからヨ。あんま怒らせんなよナ?――おい、恭哉!」
「は、はい! 何ですか、眞野さん」
「女の教育がなってねーナ。見ろよこの手、俺様の玉の肌に傷がついちまったヨ」
「す、すみません! ……円香、頼むから眞野さんには逆らわないでくれよ、な?」
 かは、こふっ――眞野に殴られ、咳き込むようにして悶絶している円香に向けて、恭哉のかけてきた言葉がそれだった。その瞬間、円香は己の未来に一筋の光すらないという事を身をもって思い知った。



「おう、恭哉。しっかり手ぇ抑えとけよ」
「……はい」
 円香は恭哉のベッドへとつれてこられ、恭哉自身の手によって両腕を後ろに拘束されたまま座らされていた。恋人だと思っていた恭哉が暴行に荷担しているというこの状況事態が、どんな拘束具よりも強く円香を絶望させていた。
「おう、河田。カメラの用意はできてっか?」
「ばっちりッス」
 そう言って、河田がハンディカメラを構える――その瞬間、円香は絶望の淵に沈みかけていた己の自我を俄に覚醒させた。
「ま、待って……下さい!」
「あン?」
「もう……逆らいません……大人しく……言うことを聞きますから……だから、お願いします……カメラで撮るのだけは、止めて下さい……」
 最早、この男達に暴行を受ける事は変えようのない未来――ならば、“その後”の事を考えて、自分の醜態が納められた動画などが残る事だけは避けなければならないと、円香は思った。
(もう……あんな思いは……絶対に嫌……!)
 心ない後輩達によって撮影された自分の痴態がネット上へと拡散し、不特定多数の男達に見られる――そんな事態は絶対に避けたかった。そんなことになれば、第二第三の宍戸が現れないとも限らない。
「んー……どーすっかなぁ」
「お、お願いします! なんでも……何でもしますから……だから、撮るのだけは……」
「んんー……本当に何でもするか?」
「し、します! 何でも言うこと聞きます!」
「ふんふん、そいつぁいい心がけだ。……じゃあ、円香ちゃんがきちんと最後まで大人しく俺らの言う事聞けたら、その時は撮影した動画のデータ全部消してやんヨ」
「えっ……」
「あン? なんか文句あんのか? それとも、何でも言うこと聞くってのはデマカセだったんかヨ?」
「…………ちゃんと、言う事……聞きます……」
 円香は肩を落としながら、かすれるような声で言った。言いながら、どんなに従順な態度を示しても、眞野が約束を守る可能性は万に一つも無いだろうという事を薄々感じてもいた。
(……また、私……汚されちゃうんだ)
 そのことが、漸くにして実感として円香を襲った。そしてその実感を、円香はひどく冷めた気分で受け入れた。
(もう……今だって……いろんな男に何度も何度も汚されて……抱く価値なんかこれっぽっちもないのに)
 この男達は、そんな事も知らずにまだ汚い自分を抱こうとしている。滑稽の極みであると、円香は心の内であざ笑った。最早そう思うしか、残り僅かな矜持を保つ方法が無かった。
(嫌だな……今回の事が終わったら……いっそ誰かに性病でも伝染してもらおうかな)
 そうすれば、少なくとも自分をレイプする男達に一矢報いる事が出来るではないか。ああ、それは良い考えだ、でもその性病は一体誰から仕入れればいいのだろうか。
「眞野さーん、スプーン持ってきたッスよ」
「おう、遅えぞ河田。さっさとライターも貸せ」
「眞野さん、自分の使えば良いじゃないッスか」
「俺は禁煙中なんだよ。これでも健康には気を使ってんだ」
 スプーン? ライター? この男達は一体何をするつもりなのだろう。恐らくはそれは自分に対して行われる事なのだろうが、円香には全く見当がつかなかった。どう楽観的に考えても絶望の未来しかあり得ないこの状況において、最早円香に出来るのは心と体を切り離し、男達に犯される自分の体を客観的に観察する事だけだった。
 ――だが。
「待たせたナ、円香ちゃん。……なーに、そんなにビビるこたーねーって。俺たちゃ大人だからヨ。円香ちゃんさえ大人しくしてりゃー、一緒に気持ちよくなってそれで終わりヨ」
 この男は何をバカな事を言っているのかと、円香は心の内で思った。こんな男達に無理矢理犯されて快感など感じる筈がないではないかと。
 そんな円香の冷めた心が俄に泡だったのは、眼前に一つのスプーンが突きつけられた時だった。
(えっ……何、これ……)
 スプーンの上には見慣れない粉末が盛られていて、眞野は河田から受け取ったライターに火をつけると、その粉末をスプーンの下からあぶり出したのだ。
「ぇっ……やっ……何……何を、してるの……?」
「おい、恭哉。しっかり頭固定しとけヨ」
「……はい」
 恭哉の手によって円香の頭は固定され、首を振る事すらもできなくなる。ライターであぶられた粉末は少しずつ揮発しているらしく、どうやらそれを吸わせる事が眞野の狙いであると円香にも分かった。
(何……これ、……ドラッグ……?)
 円香は無論、ジャンキーではない。そういったものを使った事も無ければ、使ってみたいと思った事もない。だから状況の理解も遅れ、対処も遅れた。
「…………っ……!」
 円香は呼吸を止め、必死に揮発するそれらを吸うまいとした。が、永遠に呼吸を止め続ける事など出来るわけもない。次第に円香は口腔内に奇妙な痺れを感じ始めた。同時に――
(……何、これっ……なんか……フワフワ、する……)
 先ほどまで氷のように冷め切っていた心が変に浮つき、わけもなく笑い出したいような気分になってくる。
「おう、恭哉。もう手ぇ離していいぞ。…………気分はどうヨ、円香ちゃん」
「ぁっ、ぁっ……ぅ……」
 円香は言葉を発しようとした。が、口腔内に残る痺れによりそれが叶わず、開かれたままの唇から唾液が零れるのを止める事すらできない。
「おうおう、イー感じにトんでるみてーだナ。うらやましいゼ円香ちゃん。俺様、こう見えて健康マニアだからヨ。ドラッグなんか自分じゃぜってーやらねーのヨ」
「その分、自分が犯る女にたっぷり使っちゃうんだから鬼畜ッス」
 きひひと河田が笑い、カメラを構えたまま円香の顔をのぞき込んでくる。
「んじゃ、イー感じに薬が回った所で、恒例のマンコチェックといくか。いくら見た目が良くってもよぉ、マンコが黒くてビラビラの女は犯る気にならねーんだよな。……恭哉ァ、俺はオメーを信じてんゼ?」
「あ、はい…………大丈夫、だと……思います」
 男達の手が乱暴に円香の服を脱がしにかかる。
「ァッ……やっ、ぁっ……止めっ……てっ…………」
 円香は舌足らずなうめき声を上げながらも、まるで着替えを嫌がる赤ん坊のような動きでしか男達に抵抗を示せなかった。――そう、冷めた心で、もう何をされても関係がないと冷め切っていた円香の心は文字通りどこかに飛ばされてしまっていた。
「おーおー、地味な下着つけてんなぁ。まっ、穴あきショーツとか履かれてたらそれはそれでゲンナリだがヨ。おーい、河田。ちゃんとカメラ構えてっか?」
「うぃッス。ばっちりッス」
「オーケーオーケー、そらっ」
「あっ……やっ、ぁっ……!」
 円香の足からあっさりとショーツがはぎ取られ、広げられた股ぐらに男達の視線が突き刺さる。
「み、見な……やぁぁっ……」
「おー……さすがだな円香ちゃん。ちゃんとピンクしてるぜ……おら、ちゃんとヒクヒクって動いてる奥までしっかり撮ってやれ」
「うぃッス。しかしアレッスね……色はピンクだけど、マン毛ちょっと濃くねっすか」
「こういうのは毛深いって言わねーんだヨ。セクシーっつーんだ。まだまだ経験足りねーな、オメーはヨ」
「二十歳前に処女百人切りやった眞野さんより経験ある男なんて日本に居ないッスよ、多分」
「あー、アン時ャ俺も若かったからなぁ。処女なんて青クセーもんの何が良かったのかサッパリだぜ」
「俺は今でも処女大好きッスけど」
「だからオメーはガキなんだヨ。他の男にしっかり開発された女の味知っちまったら処女なんて子供の味ヨ」
 そんなやりとりをしながら、眞野はズボンを脱ぎ始める。そして、ぐいと。既に屹立しきっている己の怒張を円香の眼前へとつきつけてくる。
「ひっ……」
 円香は、眼前につきつけられたモノの異質さに純粋に怯えの声を上げた。それは、円香の知っている男性器に比べてあまりに形が違っていた。
「円香ちゃんってばマジ良い反応すっからたまんねーワ。どうヨ、こんなの見たことねーだろ?」
 在るはずがない――と、円香は思った。それは男性器と呼ぶにはあまりに色が黒く、先端から竿部分にかけてぼこぼこと不気味な突起がびっしりと覆っており、エラの部分にはピアスの一種らしい、金色の環まではめ込まれていた。
「最初は人の女犯す度にヨ、真珠一個ずつ埋めてたんだワ。でもすぐに場所が無くなっちまってよ、このザマよ」
 眞野が、そのあまりに凶悪すぎる形の分身を円香の秘裂へと宛ってくる。
「っっ……やっ、……めっ……」
「止めるわけねーだろ、バーカ。おら、しっかり足開けヨ」
 乱暴に足を開かされ、剛直の先端が無理矢理に埋没させられる。
「ッ……ァアッ……!」
 刹那、円香は目を見開き、顎を浮かせるようにして声を上げていた。
「おーっ……いいねぇ、この感触。まだ濡れきってねーマンコに無理矢理つっこむ感じ……たまんねーワ」
 ぐいぐいと、眞野の分身が膣内へと侵入してくる。それは今まで経験したどの男性器とも違う、強烈な刺激を円香に与えた。
「ぁっ、いっ……ァアッ……ぁあッ!」
「おーっ……濡れるの早いねー、円香ちゃん。んじゃ遠慮無く、根本までイッちまうか」
「ぇっ、ぁっ……あっ、ぁぁああッ!」
 男性器をびっしりと覆っていたイボに刺激され、円香は早くもあられもない声を上げてしまう。
(か、はっ……お、大きい…………!)
 そう、真珠のイボもさることながら、そもそも男性器のサイズ事態が未経験のシロモノなのだ。そんなものを根本まで埋没させられ、ぐいと子宮口を押し込むように突き上げられ、円香はベッドシーツをかきむしるようにして悶えた。
「おらっ、どうヨ? こんなの知っちまったらもう他の男じゃゼッテー満足できねえだろ?」
「あっ、あっ、あっ、あァッ……あうっ、あぅッ! あぁッ!!!」
 ずん、ずんと断続的に突き上げられ、円香は薬の効果も相まり、思わず腰を跳ねさせてしまう。
「おっ、おっ……スゲーっ……キュッキュッて絡みついてくんヨ。いーマンコ持ってんじゃん。たまんねー…………おう、恭哉」
「は、はい! 何スか」
「良い女捕まえたな。ご褒美に向こう三ヶ月、上納無しにしてやんヨ」
「ま、マジすか……ありがとう、ございます」
「んー? どうした、あんま嬉しそーじゃねえな」
「ひっひ。自分の彼女が目の前で眞野さんに犯られてんのにうれしがってたら、そいつは人間じゃねえッスよ」
「おう、そういやそうか。……てーことは恭哉、今俺にムカついてたりすんのか?」
「む、ムカつくだなんて!……円香とは、別に……ただ、眞野さんが好きそうな女だから、彼氏のフリしてやっただけで……俺は好きでも嫌いでもなかったッスよ」
「別に嘘つかなくていいんだゼ? 何なら、今すぐ台所から包丁持ってきて俺の背中刺しちまえヨ。円香ちゃんのマンコ気持ちよすぎて俺は抵抗できねーから、今ならアッサリ殺れるゼ?」
「か、勘弁して下さいよ! ホントにその女の事なんかどうでもいいんですよ! じゃなきゃ、眞野さんに差し出したりなんかしませんって!」
「……だってヨ、円香ちゃん。ひでー男に捕まっちまったナ。同情するゼ?」
「…………。」
「おい、シカトしてんじゃねーゾ?」
「っ……あァっ! あぁあァァ!」
 ずんっ。と強く突き上げられ、さらに先端をこすりつけるように動かされて、堪らず声を上げた。
「オラ、気持ちいーんだろ? もっと声出せよ」
「っ……ぅっ……っくっ……ンッ……ぁあっ……!」
「おーおー、でけー乳たぷたぷ揺らしすぎだっつの。……そういや、恭哉が母乳も出るとか言ってたナ?」
 眞野が、揺れている乳房の先端へと舌を這わせ、吸い付く。じゅるっ、と中に溜まっていたものが吸い上げられ、円香はキュッと唇を噛みしめた。
「おえっ、マズッ」
 眞野は一口飲むなり、ぺっ、と円香の顔目がけて唾でも吐き捨てるように吐き出した。
「やっぱ母乳なんて人が飲むモンじゃねえナ。……円香ちゃんもそう思うだろ?」
「っっっ……い、痛っっ……〜〜〜っっっ!!」
 むぎぅぅう!――双乳が万力のような握力で握りしめられ、圧力に耐えかねた母乳がトロリと溢れ、それが眞野の手を汚した。
「チッ……汚ねぇな。……おい、これ止めろよ」
 止めろ、というのは母乳の分泌を止めろという事だろうか。そんなもの、自分の意志一つではどうにもならないと、円香は言葉ではなく目で眞野へと訴えかけた。
「おっ、なんだ。何か言いたい事でもあんのか?」
「……何、も……ない、です……」
 言ったところで、どうせ何一つ聞いてはもらえないに決まっているのだ。円香は自分を陵辱している男から視線をそらし、このバカげた宴が早く事をただただ祈った。
「……面白ぇ。そういう態度とるかよ」
 そんな呟きが、視界外から聞こえた。たちまち、ずんっ、と強く突き上げられる。
「女ってよぉ、ある程度追いつめるとどいつもこいつも同じ反応するんだよナ。……今の円香ちゃんみたいなよォ、“もうどうにでも好きにすれば?”っつー感じ?」
「っ……くっ……ぅっ……ンッ…………ぅっ……!」
 ずん、ずんと小刻みに突かれ、敏感な粘膜をこれでもかとイボで擦られ、どれだけ声を抑えようとしても、円香は唇を閉じ続けていることができない。
(イヤッ……イヤッ……こんな奴に犯されてイくのなんて……絶対、嫌ッ……)
 もう、好きにすればいい――そう投げやりになっても、円香は抵抗をせずにはいられなかった。
 そして、まるでそんな円香の心境を見透かしたように眞野がピアスつきの舌を覗かせて嗤う。
「“こんな男にイかされるのだけはイヤ”ってか? 顔に書いてあんゼ? ほら、どーした、もっと声出せよ。マンコ気持ちいーんだろ?」
「っ……っくっ……ぁっ……ぅぅ……ぁうっ……!」
 そう、この男も。この男に汚されている自分の体も。そのどちらももうどうでも良いと、円香は思っていた。しかしそれでも、心の奥に残った最後のひとかけらの矜持が、この陵辱者の手によって快感の極みへと追いやられる事を拒んでいた。
「っっ、ああっあッ! うっ……くっ…………ッ……い、イヤッ……ああッああァッ!」
 円香の意志を無視して、腰が跳ねる。全身が火照り、玉のような汗が浮く。それを眞野がピアスつきの舌ですくい取るようにして舐めて笑う。笑いながら、さらに腰を使ってくる。
「あっ、あっ、あっ! あっ、あっ……あぁッ、あっ!」
「おっ、円香ちゃんイきそー? マンコすげーヒクヒクしてんゼ?……おう、河田。円香ちゃんがマジイキする所、しっかり撮ってやれヨ?」
「うぃッス。ばっちりッス」
「っっ……やっ……止めっ……撮らなっ……でぇっ……!」
 横から顔に近づいてくるカメラに円香は心底怯え、必死に両手で顔を隠した。その手が無惨に眞野に掴まれ、ベッドへと押しつけられる。
「おー、いーねぇ、そのリアクション。やべー……俺様もボチボチ出そーだわ。……円香ちゃん、中出しと外出し、どっちがいい?」
「っ……くっ……ぅ……ぅぅっ、ぅっ……」
 腰を使われながら尋ねられ、円香は唇を噛むようにして閉じたまま答えを返さなかった。中出しだけは止めてと懇願したところで、どうせ止めてなどくれないと、容易に想像がついたからだ。
「おいおい、円香ちゃん。そこは“中だけは止めてぇ!”って言うところだろ? 空気読めよ」
「言っても無駄だって、バレちゃってんじゃ無いッスか?」
「あン? んなこたーねえって。俺はこう見えても紳士なんだゼ? しゃーねえな、そこまで信用されてねーなら、円香ちゃんの希望通りちゃんと外に出して俺が信用に足る男だって証明してやんヨ」
 ずん、ずんと突き上げる剛直の動きが徐々に早くなってくる。円香は押さえつけられたままの両手を堅く握りしめて、懸命に快感に抗った。意味のない事だと分かっていても、抗わずにはいられなかった。
「っ……ぁあッ! ぁっ、ぃっ……くっ……ひっ……ぁっ、あっ、あぁっ、あッ……い、イヤッ……あっ、ァッ……イヤッ……イヤァァぁぁッ!!!!」
 そう、意味などは無かった。円香は全身を強ばらせながら必死に堪え続けたが、永遠の我慢など人間に出来るわけがない。ふとした気のゆるみから、円香は己の中に溜まりに溜まった快楽という濁流に呑み込まれ、腰を震わせながら達してしまった。
「…………おっ、おっ……スゲー締まりっ……あーヤベっ。前言撤回。やっぱ中出しするわ、円香ちゃん」
「っ……ぅ……ぁ、やっ……ぁっ……!」
 己の中に埋没したモノが震え、びゅぐり、びゅぐりと熱い液体が迸り、体にしみこんでくるその感触に円香は総毛立たせて身震いした。
(い、やっ……!)
 そう、懇願などしてもどうせこうなるであろうことは分かり切っていた。分かり切ってはいたが、だからといって容易く受け入れられるものでもなかった。
(入って……くる……)
 こんな奴の精液が、自分の体内に。覚悟はしていたつもりだった――しかし、その覚悟をして尚、とても許容できるものではなかった。
「おっ、うっ……くはー……やーべっ……すんげー出るっ……おい、河田。ちゃんと撮ってっか?」
「撮ってるッスよ。眞野さんに中出しされて、涙滲ませながらぷるぷる震えてる円香ちゃんマジエロいッス」
 無慈悲に自分を見つめる機械の目に、円香はふっと体の力を抜いて瞼を閉じた。


「あっ、あっ、あっ……ンッ……あッ、あぁっ、ァッ!!」
 ぱん、ぱんと尻が成る程強く、背後から突き上げられ、円香はベッドに顔を伏せるようにしながらも声を上げていた。
「おらっ、そろそろ出すぞ。またイけよ、ほらっ、イけッ」
「いっ、やっ……ぁっ……やっ……イヤッ……イヤッァァァッ!!!」
 びゅぐりっ、と。不愉快極まりない感触を伴って吐き出される牡液に、円香はもう子供のように叫び、悲鳴を上げた。それは最早演技でも何物でもない、ただ純粋な感情の発露だった。
「ふぃー……犯った犯った。ちっと小休止入れっか。……おい、高橋はまだ来ねーのかヨ?」
 ぐいと、眞野が剛直を引き抜くと、その後を追うように白濁がごぽりと溢れた。それでもまだ大半は円香の体内へと止まったままなのだが。
「さっきちょっと遅れるってメール来てたッスけど――」
 と、河田が言いかけた瞬間、ピンポーンとインターホンが鳴った。鍵はかけられていなかったのか、程なくがちゃりとドアが開く音がして、一人の男が部屋の中へと入ってきた。
「どもッス。遅くなりました」
「っっせーーーーヨ! 五時集合だっつっといただろが!」
「んな事言われても……講義があるから遅れるってちゃんと言ったじゃないですか。それに家に帰って荷物も持って来なきゃいけませんでしたし……」
 現れた男は、眼鏡をかけコートを羽織ったたいかにもインテリといった風貌の男だった。手には大仰なスーツケースを持っていて、年は恭哉や河田と同じくらい、大学生か院生といった所だろう。
(…………この人も、どうせ……)
 自分を陵辱する宴に参加するために来たのだと思うと、円香はもうそれ以上高橋という男の観察をする気が無くなった。力無くベッドの上に横たわったまま、やがて行われるであろう次の陵辱に備えて少しでも体力を温存させようと思った。
「とりあえず、早く例のモン出せよ。忘れたなんつったらぶっ殺すぞ」
「持ってきましたよ、ちゃんと。……くれぐれも量間違えないで下さいね。人間なんか簡単にぶっ壊れますよ」
「わーってんヨ。過ぎた事を何度も言うな、うぜえ」
 高橋はコートの内ポケットからプラスチックのケースを取り出すと、それを眞野へと手渡した。
(えっ……何……?)
 ぐったりと伏せていた円香は俄に体を起こした。何故なら、二人の話の内容からそれが何であれ、自分に使われる可能性は極めて高いと感じたからだ。
「おー、これこれ。やっぱコレがなくちゃーよぉ」
 眞野はプラスチックのケースから茶色の小瓶と注射器を取り出し、にぃと口元に笑みを浮かべる。そしてやら不慣れな手つきで薬品の蓋を外し、その中に入っていた液体を注射器で吸い上げると、円香の方へと向き直った。
「さーて、円香ちゃん。これからが本番だゼ?」
「ひっ……い、イヤっ……何、その、薬……」
 無駄とは分かっていても、円香は逃げようとした。――が、それは叶わず、河田と眞野二人がかりの手によってベッドへと押さえつけられた。
「なーに、そんなにビビるこたーねぇよ。……別にやべえ薬ってワケじゃねえ、ただの排卵誘発剤だからヨ」
「はいらん……ゆうはつざい……?」
 その名前には、円香は聞き覚えがあった。そう、それは確か――。
「そ。円香ちゃんを確実に妊娠させるためのお薬ってワケよ。……あとはまぁ、興奮剤とかもいろいろ入ってっケド。なんたって高橋ブランドだからヨ?」
「ひぃっ…………や、止め、て……なんで、そんな薬……打つの……?」
 眞野の行動は円香の理解を超えていた。今まで、自分を陵辱してきた男達は中出しを強要しこそすれ、妊娠までさせようとはしていなかった。当然だ、レイプする側がそこまでする理由は何もない。
 なのに、この男は。
「そりゃあ、円香ちゃんが俺たちの中の誰の子供妊娠すっか賭けるからに決まってんだろ?」
「えっ……か、賭け……って……」
 けろりと。信じがたい事を当然の事のように言う眞野に、円香は目眩すら覚えた。
(……違う……)
 そして、切に感じた。この男は――否、この男達は、今まで自分を陵辱してきた男達とは根本的に何かが違っていると。
「ま、そーゆーワケだからよ。ほら、さっさと腕出せヨ」
「やっ……止めっ……てっ……お願いっ……他の事なら、何でも、するから……だからっ……」
 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ。
 妊娠は嫌だ。それだけは嫌だ。
 もうあんな思いはしたくない。絶対にしたくない――円香はあらん限りの声を振り絞って懇願し、そして抵抗した。半ば以上、無駄だとしりつつも。
「……眞野さん。俺がやりましょうか?」
「おう。そうだな。押さえつけてっからヨ、頼むワ」
 さすがに二人がかりで押さえつけられては、円香はもう殆ど身動きすら出来なかった。眞野の手つきとは裏腹に、高橋の注射裁きは堂に入っていて、手早く円香の腕に注射を済ませるやすぐにベッドから離れた。
(えっ……)
 そう、高橋が離れる瞬間、円香は確かに聞いた。微かな声、ほんの微かな、恐らく円香意外の誰にも聞こえない大きさで「ごめん」と口にしたのを。
「……眞野さん。この女、次俺がヤッてもいいですか?」
「あん? なんだ、高橋。珍しいじゃねーか。お前が自分からそんな事言い出すなんてヨ」
「ええ……なんつーか、話に聞いてたよりも可愛いっていうか、ぶっちゃけるとすげー好みのタイプなんですよ。ダメなら眞野さんが飽きた後でもいいですけど」
「おー、なるほど。“好みのタイプ”か。……わーった、俺はもう散々犯ったし、一端オメーに譲ってやんヨ」
 ニヤニヤと、眞野は冷やかすように笑みを浮かべ、ベッドから降りた。代わりに高橋がコートを脱ぎ、ネクタイをゆるめながらベッドへと上がってきた。
「……大丈夫、安心して」
 そして、円香を押し倒し、キスをするフリをしながら小声で囁いてきた。
「さっき打ったのはただのブドウ糖。妊娠なんかしないから」
「ぇ……ほ、本当……?」
 もう、男なんか誰も信用は出来ない――そう頑なに決めた円香だったが、ついそんな言葉を返してしまった。
「シッ……さっきまでみたいにちゃんと嫌がって。……あいつらに気づかれたら台無しだ」
「……っ……」
 円香は無言で頷き、そして高橋に対して形の上だけでも抵抗するようなそぶりをする。
「……僕も、あいつに脅されて無理矢理協力させられてるんだ」
 高橋は円香におざなりな愛撫を加えながら、耳元でそんな言葉を囁く。
「今までは必死にあいつらに調子を合わせてきたけど、今日という今日はもう我慢の限界だ。……いいか、これから僕が言う事を良く聞いて」
 円香は抵抗を続けながら、微かにこくりと頷き返した。
「もうすぐ九時だ。眞野が忘れていなければ、奴はテレビをつけてある番組を見る筈だ。その番組自体はどうという事のない週一でやってるドラマだけど、奴は何故かそれを気に入っていて、第一回から欠かさず見ているからまず間違いなく見る。チャンスはその時だ」
 円香はちらりと横目で時計を確認する。確かに、時計の針は九時十五分前を指していた。
「眞野は多分、他の連中にも一緒に見るように促してくるだろう。そうなれば、眞野の言う事だから二人は絶対に逆らえない。眞野は僕にも促してくるかもしれないけど、僕はあえて断って、代わりに酒や食料を買ってくると言って席を外す。僕は今日、ここまで自分の車で来ているから、そのまま車を取りに行って、アパートの下まで来て君を待つ」
「じゃ、じゃあ……」
「うん。君は三人がテレビに見入っている隙を突いて、何とか部屋から逃げてアパートの下まで来るんだ。裸だとか、そういう事を気にしている場合じゃないことは身をもって知っているだろう。無事車に乗り込む事が出来れば、後は家でも警察でも、好きなところに逃がしてあげられる」
「……ぁっ……」
 円香は思わず涙を浮かべてしまった。絶望しかありえなかった未来に、ほんの一筋だが光が差しこむのを感じた。
 だが――
「だけど、これだけは覚えておいて欲しい。僕は車を回してアパートの下で待つけど、長くは待たない。ここから駐車場までは歩いて約五分、車をとって下まで戻ってくるのにもう五分かかるとして、それから十分。つまり僕が部屋を出てから二十分以内に君が降りてこなかった場合、君が脱出に失敗したものとして僕は前言の通りに酒や食べ物を買いに行く。その後は勿論君が何を言っても僕はしらばっくれる。二度と助けはしない」
 僕もアイツが怖いんだ――と、高橋は唇を噛むようにして呟いた。
「冷たい、なんて思わないで欲しい。これが、僕に出来るギリギリの事なんだ。君を逃がしてあげたいけど、“一緒に失敗”するわけにはいかない。…………僕も自分の身は可愛いし、何より“次の犠牲者”の為にもチャンスは残したいんだ」
「………………。」
 円香は高橋の顔を見つめ、そして小さく頷いた。勿論、高橋が言う様に冷たい、などとは思わなかった。むしろ顔を合わせて十分も経たないうちからいきなり「命に代えても、僕が君を救い出してみせる」などと言う方がおかしい。
「とにかく、僕に出来る事は君に脱出のチャンスを与える事だけだ。眞野がテレビをつけないかもしれない。つけても、そんなに熱心には見ないかもしれない。熱心に見ても、取り巻きの二人が君を監視し続けるかもしれない。仮に全てが巧く行って君が部屋の外に出れたとしても、車の場所までたどり着く前に眞野達に捕まる可能性も決して低くはない。……そしてその場合、恐らく……君はこれまで以上の責め苦を受ける事になるだろう」
 それも、円香には容易に想像がついた。比較的大人しくしているから、連中もあまり手荒な真似はしていないのだと。これが、脱走を試みたとなれば、連中の加虐心により一層火をつける事になるのは明らかだ。
「だから、もし気が進まないなら無理にとは言わない。……どう、少ない可能性に賭ける勇気はある?」
 円香は俄に逡巡し、そして小さく頷いた。
「……そうか、分かった。幸運を祈るよ」
「ぁ……ま、待って……!」
 円香の耳元から唇を遠ざけようとした高橋に対して、円香はかすれた声で呼び止めた。
「しっ。……君が問いたい事はだいたい想像がついてる。…………答えは、君が僕の姉に似ていて、彼女もまた眞野に陵辱されたからだ。……ヤバい、もう時間がないな、少し強引な手段をとる」
 高橋は徐に体を起こした。そしてちらりと、時計を見るような仕草をする。
「あれ、そういや眞野さん。今夜はアレ見ないんですか?」
「アレ?………………やっべぇッ! おい恭哉、テレビつけろテレビ! 金モモ始まっちまうじゃねえか!」
「金モモって……眞野さんまだアレ見てんすか?」
「ばっかオメー、モモちゃん先生ディスったら殺すぞコラ。いいからテメーも見てみろって、マジ泣けるからヨ」
「眞野さんが言っても説得力無いッスよ。んじゃー一端休憩ッスか?」
「あっ、それなら俺なんか食い物とか買って来ますよ。車で来てんで」
「なンだオメー。だったら最初から買って来いよな。ったく気が利かねーな……しゃーねえ、俺様のカード貸してやっからヨ、テキトーに買って来いや」
「あざーッス。んじゃちょっくら行ってきます」
 高橋は衣服をただし、眞野からカードを受け取るとそのまま玄関から出て行く。円香は男達のそんなやりとりをベッドの上で力無く横になったまま聞いていた。高橋の予見した通り、眞野はテレビをつけるや食い入るようにしてドラマのOPを見ていた。
(……今……なら――)
 或いは、玄関から飛び出し、そのままアパートの外まで逃げられるかもしれない。しかし、高橋は言っていた。車をとって戻ってくるまでに十分はかかると。となれば、今飛び出してもそこに車は無く、車がなければ恐らくは後を追ってくるであろう眞野達に容易く捕まってしまうだろう。
(だめ……だめ、焦っちゃ……ダメ……)
 こんな男達の側に一秒とて居たくはない。が、しかし今は堪え忍ぶ時だ。
(……私、ちゃんと走れる、かな……)
 それが一番の不安だった。怪しげな薬を嗅がされ、力が入らなくなった四肢は今はもう大分回復していた。が、どれだけ走れるかというと、試してみなければわからない。
(もうすぐ……十分……)
 六百秒をこれほど長く感じたことは無かった。円香はベッドの上に横たわったまま、俄に四肢に力を込める。男達三人は丁度ベッドに背を向ける形でテレビへと見入っている。居間の出口はテレビと真向かいになるような位置にあるから、物音さえ下手に立てなければ全く気づかれずに玄関まで行く事は不可能ではない。
(……いけ、る……これなら、いける……!)
 そう、物音さえ立てなければ。円香はベッドの上で恐る恐る身を起こし、そしてそろそろと部屋の出口の側へと降りようとした。その時、ギシッ、と。ベッドのスプリングが微かに軋んだ。
「おっ……?」
 と、眞野が円香の方を振り返った瞬間、全ては終わったと思った。
「円香ちゃんも見るか? 金モモ面白れーぞ?」
「ひっ……」
 眞野の手が伸びてくる。手か、足か。そのどちらかを掴まれると、円香は思った。しかし意外にも眞野は円香へは手を伸ばさず、ベッドに手をついて立ち上がるやそのまま居間を後にする。
「眞野さん、どこ行くんすか。ドラマ始まりますよ」
「うっせー。まだCMだろうが。先に小便済ませんだヨ」
 眞野は台所を左に曲がり、そのままトイレへと籠もってしまった。円香はちらりと、部屋に残った二人の男へと目をやった。二人とも、夢中とまでは行かないがテレビの方へと視線をやっており、円香の方は全く気にしていないようだった。
 今しかない――円香はそっとベッドを降り、足音を立てないように細心の注意を払いながら台所を抜けた。
 勿論、衣類など何も身に纏ってはいない。そんなことを気にかけている余裕は全くなかった。仮に見知らぬ他の住人に裸を見られる事になってもかまいはしない。逆に助けてくれと、泣きつけばいい。
 そう、靴を履いている暇すらも惜しかった。円香はドアノブを握り、そしてそこでふと――背後を振り返ってしまった。
「……っ……!」
 そして、足がすくんだ。恭哉と目が合ってしまったのだ。幸い、河田の方はまだテレビを見ているようだが、恭哉が一声でも上げればすぐさま円香の脱走に気がつくだろう。
 しかし、恭哉は声を出さなかった。ただただ、憐憫の目を円香に向け、無言で首を横に振った。
 関係ない――と、円香は思った。ここで自分が逃げれば、恐らくは恭哉はその責任の一端をとらされる事となるだろう。だが、そんな事で心を痛めるほど、円香はもう恭哉に対して好意を持っていなかった。ただ、この土壇場で声を上げて眞野に脱走を告げなかったという事だけは感謝して、円香は静かにドアノブを捻った。
(……え?)
 まさか、と思った。円香は改めて両腕に力を込めてドアノブを回そうとした。が、しかし回らない。鍵が掛かっているのかと思ったが、そもそもドアに鍵をかけるレバーは内側についているものだ。そしてそれを見る限り、鍵は絶対にかかっていない。
 というよりも、そもそもドアノブが回らないのだから、鍵がどうこうという問題ではない。つまりこれは、誰かが向こう側で――。
「おやぁ、円香ちゃん。こんな夜中にお散歩でちゅかぁ?」
 そして、必死になってドアノブを回そうとしている円香の背後で、絶望を告げる声がした。
「ぁっ……ぁっ……」
 円香は、恐る恐る振り返ると、いつトイレから出てきたのか、手を伸ばせばすぐにでも捕まりそうな程の距離に眞野が立っていた。円香は半狂乱になって必死にドアノブをあけようとするが、やはり回らない。そうこうしているうちに眞野の手が伸びてきて、円香はあっさりと捕まった。
「おーい、捕まえたぞー」
 眞野が声を上げると、程なくあれほど不動だったドアノブがあっさりと回り、ドアが開かれた。ドアの向こうに立っていたのは、片手に買い物袋をぶら下げた高橋だった。
「ったくよー、テメーの趣味に俺様を付き合わせんなよなぁ」
「すんません、眞野さん。あ、カード返します。いやーコンビニ近いと色々便利ッスね」
 眞野は円香を片腕で拘束したまま、空いている手でカードを受け取り、ポケットへとしまう。唖然としている円香の眼前に高橋がやってきて、かがみ込むようにして顔をのぞき込んできた。
「そーそー、その顔が見たかったんだよぉ……円香ちゃんっていったっけ? もしかして本気で逃げられると思った? ヒャハッ、バッカじゃねーの?」
 そして、それまでのインテリ医学生の仮面を脱ぎ捨てるかのように、露骨に顔を歪めて笑う。
「ありえねーだろ。なんで俺が眞野さんを裏切ってまで、会ったばっかのお前を助けなきゃならねーんだよ。脳みそちゃんと入ってんのかぁ?」
 こんこんと、高橋はまるでノックでもするように円香の頭を小突いてくる。円香はもう、両目に涙を溜めたままただただ高橋を睨み付ける事しか出来なかった。
(バカ……バカだった、わ……こいつの言うとおり……)
 何故、自分は信じてしまったのだろう。男なんて、誰一人信じないと決めた側から。この男とて、眞野の仲間なのだ。まともな男である筈がないではないか。
「おいおい、ヒデー事言うなよ。円香ちゃんは人よりちょっぴり騙されやすくて、人よりちょっぴりオッパイが大きくて、人よりちょっぴり信じやすいってだけなんだからヨ」
「それを馬鹿って言うんスよ。巨乳は頭悪ぃ、って言うけど、本当ッスね。前に恭哉が連れてきたブス……名前忘れましたけど、あいつは引っかかりませんでしたよね」
「ああ、そういや居たな。ブス過ぎて犯す気にもならなかった奴が」
「だからって全身に入れ墨しちゃうのはどうなんすか? まぁ、笑えましたけど」
「裸に剥いても声一つ出さなかったクセにな。最後はぎゃーぎゃー泣きわめいてうるせーから――……ん? 円香ちゃん震えてんのか? 安心しろって、円香ちゃんみてーな可愛い子にはそんなヒデー事しねーからヨ」
「そうそう。可愛い子でもフェラ下手だったりすっと歯ぁ抜かれてフェラ専用の口に改造されたりすっけど、基本的には優しい人だから」
「だーかーら、ビビらせんなって。ほら見ろよ、こんなに涙溜めてぷるぷる震えてるんだぜ? オメーには人の心ってモンがねーのかヨ」
「そんなモン持ってたら眞野さんとツルんでませんって。…………そういや眞野さん、ドラマは見なくていいんスか?」
「あー、どうでも良いわ。主演のモモカちゃんが可愛いから見てたケドよ、先週親父のコネで家に呼んだ時に酒飲ませて一発ヤッたら冷めちまったワ」
「芸能人相手だとさすがに無茶は出来ませんしね。カメラは回してたんすか? だったら見せて下さいよ」
「あン? 良いけどよ、一応アイドルだからヨ。ぜってーネットとかには流すなよ? めんどくせー事になっから」
「そりゃもう。……眞野さん、お願いついでにもう一個良いッスか。……愕然として言葉も出なくなっちゃってる円香ちゃんに“例のアレ”やりたいんスけど」
「……ったく、ホントにオメーは趣味わりーな。やるのは良いけどよ、ちゃんと後始末はしろヨ?」
「努力しますよ。まぁ、円香ちゃんの忍耐力次第って所もありますからね」
 高橋はにやりと口元に笑みを浮かべると、足下のスーツケースへと視線を落とした。



 円香は、眞野の手によって浴室へとつれてこられた。抵抗などは一切しなかった。しても無駄であると分かっていたし、そもそもする気力も無かった。
 高橋が何をする気なのかは分からないが、自分が嫌がれば嫌がる程、叫べば叫ぶほどこの男達はおもしろがるという事を円香は悟った。ならばもう、人形のように一切声も上げず反応も返さなければ、男達の興味もすぐに失せると、そう思った。
 そう、そのように心に決めていた円香だったが、高橋が浴室に現れた時に手に携えていたものを目にしたときは、微かに口から悲鳴を漏らした。
「おまたせ、円香ちゃん」
「っっ……やっ……何、そ、れ……どう、するつもりなの?」
 高橋が手に携えているのは、透明な円筒形の入れ物に乳白色の液体がたっぷりと詰まったものだった。見ようによってはそれは、巨大な注射器の様にも見えるそれの使い道は、円香には一つしか思いつかなかった。
「おら、向こう向いてケツ出せ」
「い、イヤッ……嘘……じょ、冗談、でしょ?」
「良いから早くしろよ。それとも、二本分貰いてーか?」
「っっっ……やっ、お、おね、がい……止めっっ…………ッ!!」
 円香は暴れたが、眞野によって小脇に抱えるようにして体を固定される。そして、円香が危惧した通りの場所に何かが触れる感触。続けて――。
「あぁぁ……ァァァ……やっ……ひっ……冷たっっ……ぁああっ……!」
 何か冷たいものが下腹部に入ってくる――その感触に円香は総毛立ち、身を強ばらせながら震えた。
「あくっ……ぁっ……うっ……くぅぅ…………やっ……止め、てぇ……!」
 人間らしい反応など返してやるかと。そう決めた筈の決意はいつの間にか脆くも崩れ去り、円香は子供のように声を上げていた。それを見て、男達は下卑た笑い声上げる。
「おー、すっげぇ。一リットルあっさり入っちまったよ。……あ、眞野さん、もう離して大丈夫ッスよ」
「おう。俺にゃーその趣味はねーからヨ。後は好きにしろや」
 眞野は円香の体を解放し、浴室を後にする。円香はすぐに浴室の壁にもたれかかるようにして高橋と対峙するが、最早一歩も歩くことはできなかった。
「はっ、はっ、はっ…………あくっ、あぁぁぁぁぅううう!」
 ぐぎゅるるるるっ……。
 下腹部から響く地鳴りのような音に、円香は呻き、脂汗を流しながら歯を食いしばる。
「へっへ。下剤でもいいんだけどよぉー、やっぱ冷たい牛乳が一番なんだよなぁ。……気分はどうよ、円香ちゃん」
「はっ……ぅっ……と、トイレっ……早くっ、トイレ、にっ……あぁぁあぅっ……!」
 ぎゅるるっ――そんな音が響くたびに、円香は体を不自然に跳ねさせ、悲鳴を上げる。下腹部からの悲鳴にも似た電気信号を全力で却下し、渾身の力を込めてその場所だけは開くまいと締め続ける。
「あー、トイレね。はいはい。どいつも言う事は同じだなぁ。……ちったぁひねれよバーカ」
 どんっ、と高橋の拳が軽く円香の腹部を小突く。それだけで円香は全身を硬直させ、声にならない声を上げながらキュッと尻に力を込めた。
「は、はやっ、く……おね、がい……もう……っっ…………」
「いーねぇ、その苦しそうな顔。たまんねーよ。……おら、足開け」
「やっ……あぁっ……!」
 高橋は手早く脱衣を済ませると、円香を浴槽の縁に座らせるようにして足を開かせ、自らの剛直をねじ込んでくる。
「おぉ……スゲー絞まるわ。頭はわりーけど、マンコは一級品かよ……それにっ、こうして密着すっと……円香ちゃんの腹がぎゅるぎゅる鳴ってんのも伝わってきて……くはぁ……たまんねー」
「ぁっあっ、ああああァァッ!! やっ、い、イヤッ……ぁっ……止めっ……動かない、でぇっ……おね、がっ……で、出ちゃうっ……っ……!」
「我慢しろよ。 へへ……俺がイくまで我慢できたら、ご褒美にトイレに連れて行ってやっからよ」
 高橋は円香の尻肉を掴み、体を持ち上げ揺さぶるようにして突き上げてくる。
「やっ、やめっ……揺らっさっ……ぁっ、っくっ……ぁっ、ぁぁぁぁっ!!」
 ぎゅる、ぐぎゅるるるっ……。
 下腹部から響く振動に、円香は四肢の指先を引きつらせる。脂汗を流しながら高橋の背にツメを立て――それが、高橋の不興を買った。
「ッ痛ぇな! ツメたてんじゃねえよ!」
「あうっ……くっ、はぁぁあっ……」
 突然尻を漏っていた手を離され、円香は無造作に浴室の床に放り出された。痛みと腹痛に耐えながら歯を食いしばっている円香を高橋は髪を掴んで無理矢理立たせ、両手を浴室の縁につかせるようにして尻を突き出させた。
「へへっ、ヒクヒクしてやがる……こっちに挿れてやろうか?」
「っっっ……だ、だめっ……絶対、だめっ……止めて!」
「嘘に決まってんだろ、バーカ。俺だって糞まみれになんかなりたくねーよ」
 ずんっ、と。再び一切の容赦なく剛直が突き入れられる。そのままパンパンと尻を打ち鳴らすようにして突き上げられ、円香はただただ歯を食いしばり、耐えた。
「あー……すげー絞まるっ……あー出るっ……出るっ……!」
「あっ、あっッ……あぁッ…………〜〜っっ!!」
 高橋は円香の腰を掴み、ぐいと引き寄せるようにして容赦なく射精する。その不快極まりない液体が己の中に打ち出される感触と腹痛に円香は歯を食いしばって耐えながら、高橋が剛直を引き抜くと同時に腹部をかばうようにしてうずくまった。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……おね、っがい……も、無理……はや、く……トイレ……に……」
「うるせーな……その前に、舐めろ。お前の汚ねーマンコにつっこんで汚れちまっただろうが。舐めてキレイにしろ」
「っっ…………はい……」
 逆らうのは時間の無駄だと思った。円香は目尻に堪っていた涙を堪えきれずに零しながら膝立ちになり、やや萎え気味の高橋の男根へと舌を這わせた。
「んっ……んっ……んっ……」
 文句などつけられぬ様、精一杯丁寧に剛直を舐め、まとわりついていた白濁を舌先で舐めとっていく。高橋はそんな円香の姿を満足げに見下ろしながら、不意に上半身だけをひねり、声を上げた。
「おーい、河田ァ、カメラ貸してくれ」
 カメラ?――と、円香は剛直を舐めながらびくりと身を震わせた。まさか、トイレで排泄する姿を撮るつもりなのだろうか。
(この際、もう……)
 そうされても、仕方がないと円香は思い始めていた。何より、腹部から伝わってくる雷鳴の様な音はもう我慢が限界に近い事をしめしていた。
 だが、自体は――円香が想像していたよりも遙かに残酷だった。
「おーし、もう良いぜ、ご苦労だったな円香ちゃん」
「んはっ……じゃ、じゃあ……」
 思わず、円香は笑顔を零してしまった。立ち上がり、トイレへと向かう――幸い、恭哉の部屋のトイレは浴室の真向かいだ。三歩と歩かずに行ける――が、何かが円香の体を止めた。
 えっ、と声を上げるまもなく、円香は何物かの手に押され、再び浴室に尻餅をついていた。
 見上げれば、河田のカメラを構えた高橋が意地の悪い笑みを浮かべていた。
「そん、な……どうして……」
「どうして、じゃねーよ。撮っててやるから、さっさとひり出せ」
 どんっ――そんな衝撃と共に、高橋の足が円香の腹部へと埋まる。
「かはっっ………………やっ……イヤァァァァァァァああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!」
 何かが破裂するような音と同時に響く、高橋の笑い声――それら全てをかき消さん勢いで、円香は絶叫した。


 


 シャワーの音が聞こえた。円香は人形のように、ただただ己の体を伝う水滴を見つめていた。
「おーい、恭哉ァ。後始末終わったか?」
「あ、はい」
「んじゃ、体を拭いてこっちに連れてこいや」
 円香は己の体が抱え上げられるのを感じた。バスタオルで体と髪を拭かれ、居間へと連れてこられるなりベッドに転がされた。
「おー、お帰り、円香ちゃん。どうした、いつもの元気がねえナ?」
「ひっひ。そりゃああんな事されりゃーショックで口もきけなくなるでしょーよ。相変わらず高橋さんはえげつねッス」
「んー、ひょっとして便秘だったのかなー? 円香ちゃん。ありゃ女が一度に出す量じゃねーだろ」
 下卑た笑い声が、円香を包み込む。円香はただ力無く天井を見上げていた。
「眞野さん、次俺がヤッてもいいんすよね? なんかもー、完璧マグロって感じッスけど……」
「まかせとけ。こういうときはな……」
 右腕が掴まれ、ぐいと持ち上げられる。円香は緩慢な動きで首を横に動かし、己の右腕を見た。高橋がなにやら注射器のようなものを右腕に突き刺しているのが見えた。
「やっ……め……」
 かすれた声は、果たして男達の耳に届いたのだろうか。届いたところで結果は何も変わらない事など円香にはもう分かり切っていたが。
「ぁっ……ぁ……」
 何かが、体の中に注入された。それは円香のか細い思考をかき乱し、より支離滅裂なものにし、そして自我というものを奪い去った。

 陵辱――その一言に尽きた。
 男達は代わる代わる円香の体を貪った。円香が声を上げるのを止めたり、意識を失ったりするたびに頭から冷水を浴びせ、或いは怪しげな薬を注射した。
 それは最早、性欲を満たす為の性行為ではなかった。佐々木円香という一人の人間を極限まで追い込む事自体を目的とした狂った宴だった。
「おねっ……がっ……おね、がい、しま、す……」
 男達による陵辱が丸一昼夜以上続き、円香は頭で考えての事ではない。体からの悲鳴そのままに、男達に訴えかけた。
「すこ、し……すこし、だけ……やすませ、て……ください……おねがい、します……」
 自分を組み伏せ、腰を振っている男が最早誰なのかすら、円香には分からなかった。目は見えているが、そこに写っている映像を理解するだけの思考力が残されていなかったのだ。
「眞野さーん、円香ちゃんが何か言ってるみたいッスけどー」
「おー。そういや、メシも何も食ってないんだっけか。……なんか食わせてやれや」
「ひっひ。……俺、良いこと考えたッスよ。そこのパンとって下さい」
 口調と動きから、今腰を振っていたのは河田だと、円香には分かった。河田は眞野から菓子パンを一つ受け取るや、それに目がけて射精を行った。
「うわっ、汚ぇっ……河田テメー何やってんだよ」
「決まってんじゃないッスか、高橋さん。……ほら、食えよ、円香ちゃん」
「ぇっ……ぁっ……」
 円香は強引に上体を引き起こされて、ベッドへと座らされた。そしてその手には、生臭い乳白色の液体がたっぷりとかけられた菓子パンを無理矢理握らされる。
「食えよ、腹へってんだろ? …………それともまた、下から入れられてーか?」
「……っっ……!」
 高橋の言葉が決め手だった。円香は異様な臭気を放つそれへと歯を突き立て、懸命に口の中へとほおばった。味など、何もわからなかった。
「おーおー、スゲえ食いッぷり。よっぽど腹へってたんだねー、円香ちゃん」
 河田がカメラを構えながらそんな事を言い、さらに茶の入ったペットボトルを差し出してくる。円香はそれも飲んだ。水分は純粋に体が欲していた。
「可愛そーになぁ。誰だこんなヒデー事したの。ほら、これも食え」
「これも食えよ。美味いぞ?」
「これも、これもだ。全部残さず食えよ」
 男達の手によって次から次に円香の前にパンやハンバーガーといった類のものが置かれていく。
「えっ……そん、な……も、無理……」
 元々、喉の渇きはあっても食欲などは毛ほども無かった。菓子パン一つ納めるだけでも一苦労だったというのに――男達の手によって円香の手に無理矢理にパンが握らされる。
「食えよ、ほら」
「食え」
 自分を囲み、命令をしてくる男達に円香は純粋に怯え、必死になってパンを囓り、己の胃の中へと納め続けた。――だが、それもそう遠くないうちに限界がきた。
「はあっ……はあっ……も、無理……です……もう……」
「あん? まだこんなに残ってんぞ? ほら、茶も飲めよ」
「いやぁっ……んぶぶっ……んんっ……!」
 無理矢理に口にペットボトルを咥えさせられ、傾けられる。円香は必死に飲み込んだが、すぐに限界を超え、口の端から溢れさせてしまう。
「おーおー、さすがにもう入らねーか。美味かったか? 円香ちゃん」
「っっ……はい……」
 そう答えねば、男達の機嫌が悪くなることを円香は身をもって知っていた。そんな円香の目の前に、どういうわけか洗面器が置かれた。
「んじゃ吐きな。おらっ」
 どすっ、と。みぞおちの当たりに何か堅い物がめりこみ、円香はしゃくりあげるようにして一気に胃の中の物を吐き出した。
「うげっ、えっ……!」
 体を波打たせながら、円香は何度も、何度も吐瀉した。その都度男達はカメラを回しながら大笑いをしていた。
「ほんっと面白ぇなぁ、円香ちゃんは。…………しかし眞野さん、折角ヤローばっか四人も集まってるってぇのに、女が円香ちゃん一人ってのはちぃとばかし寂しすぎねッスか?」
「ンだよ。文句があんなら河田、テメーの妹でも呼ぶか?」
「無茶言わんで下さいよ、うちの妹まだ五才と三才ッスよ?」
「じゃー、円香ちゃんに女友達呼んでもらうってのはどうよ?」
「……それだ! さすが俺のプレーン、いいアイディア出すぜ。……おう、恭哉。円香ちゃんの携帯持って来い」
「……どうするんスか?」
「話聞いてなかったんかよ、テメーワ。円香ちゃんにキレイどころの女友達二,三人呼び出させんだヨ」
 分かりました、と恭哉は返事を返し、円香のスカートから携帯を取り出し、眞野へと渡す。
(……ばかな、やつら)
 俯き、胃液の味をたっぷりと噛みしめながら、円香は密かにほくそ笑んでいた。
「……なんだこりゃ。アドレス帳に家とバイト先と恭哉の名前しかねーぞ」
「へ? ちょっと見して下さいよ。…………うーわ、マジだ。……円香ちゃーん、もしかして君、一人も友達いないんでちゅかぁ?」
「ちょっと俺にも見せろよ。……ありえねー。引きこもりの携帯でももうちっと賑やかなアドレスだぜ?」
 男達が口々にあざけり、そして最後に円香の頭目がけて携帯を放り投げた。ごつんと、平時であれば涙が出そうなほどの衝撃と共に携帯電話がベッドの外へと転がった。
(……良かった)
 心底、円香はそう思った。そう、“あの時”妙子とアドレスを交換しなくて本当に良かったと。
(そしたら……妙子ちゃんまで……こんな目に……)
 無論円香は妙子を呼び出せ等という眞野の命令には絶対従う気はなかったが、円香が電話をかけなくともこの男達が言葉巧みに妙子を誘い出してしまったかもしれない。そう考えると、臆病故の二の足がなんとも英断だったように思えて、円香はおかしくて堪らなかった。



 陵辱は、続いた。金曜日の夕方から、延べ四十八時間以上。円香は一睡も許されず、男達の相手を強要され続けた。円香はいつしか時間の感覚を無くし、この陵辱は自分が死んでしまうまで続くものだと思い始めていた。
「おっ……もうこんな時間じゃねーか。そろそろ帰っか」
 だから、眞野がそんな事を言い出したときも、すぐには意味が分からなかった。
「もう日曜の夜ッスからねー。あー、犯った犯った、もうチンポ痛ぇーッスわ」
「そういや河田オメー、家に弟と妹居るんじゃなかったっけか? 帰らなくて良かったのかよ」
「ああ、あいつら俺よかしっかりしてますもん。金も置いてあるし、大丈夫っしょ。何より、眞野さんの誘い断ったら後が怖えーッス」
「嘘つけ。てめーから女犯りてーっつってついてきたんじゃねえか」
 男達が円香から離れ、それぞれ帰り支度を始める――その段階になって、円香は漸く陵辱の時間が終わったのだと理解した。
 ――が。
「あー、恭哉。円香ちゃんはテイクアウトすっから、服着せとけヨ?」
 そんな眞野の言葉が、円香の心を再び絶望という名の水の底へと沈めた。
「おー、良いッスねぇ。眞野さんちならもっといろいろやれますもんね。まずはアレやりましょーよ、クリにピアスして電気ショックするやつ! アレすげー笑えるんスよね」
「待てよ、ピアスすんなら乳首が先だろ。勝手に母乳が漏れねーように蛇口機能つきのやつを俺が施術してやんよ」
「おいおい、医学生は考える事がコエーなぁ。ンなのよりも、うちのドベちゃんが発情期だからヨ、そいつの相手を円香ちゃんにしてもらうってのはどうヨ?」
「獣姦ッスか、俺はあんま好きじゃないッスけど、撮影ならまかせてくださいよ」
 げらげらと笑い声混じりに相談をする男達の言葉を、円香は信じられない思いで聞いていた。
(ピアス……? 電気ショック……? 獣姦……?)
 円香にはそれが、とても同じ人間の発想とは思えなかった。陵辱は終わったのではない。むしろ、今から始まるのだと……絶望、した。
(…………いやだ……もう……死のう……)
 幾度と無く、円香は死を願った。舌を噛みきり、死んでしまおうと、男達に陵辱を受けながら何度も思った。それでも実行に移さなかったのは、一つは今ここで自分が死を選んだ所でこの男達は恐らく大して驚きもしないだろうと思ったからだ。話を聞くに、どうも眞野という男の権力はよほど強いものらしい。動かなくなってしまった自分の死体一つ片づける事など簡単だろうと。それよりも生き延びて、どんな形でもこの男達に一矢報いてやりたいという思いが強かった。
 そしてもう一つは――円香は純粋に死というものを恐れた。だが、この上さらにこの男達が口々に話しているような目に遭わされるのならば、いっそ――と、円香は思った。
「あー……あの、眞野さん……それはちょっと、マズイと思います……」
「あん? なんだよ恭哉。てめー俺に逆らおうってのか?」
「い、いえ! そんな……眞野さんに逆らおうだなんて……ただ、その……円香って、眞野さんとは比べ物にならないですけど、結構いいとこのお嬢さんなんスよ。しかも一人娘ッスから…………今日くらいはさすがに家に帰さねーと、絶対面倒くさい事になると思います」
「あ? なんだそりゃ、マジかよ。テメー、そういう事は最初に言えよな」
「結構いいとこ、って……眞野さんみたいに親が政治家でもやってんのか?」
「いえ……そうじゃなくて……親父がデカい会社いくつも経営してて……だから……」
「あー……そりゃあ、確かにちぃとばかし面倒臭そーだナ。……しゃーねえ、テイクアウトは止めとくか」
 頭をぼりぼりと掻きながら、眞野は不快を隠そうともせずにゴミ箱を蹴り上げゴミをまき散らすと、そのまま喉を鳴らしてぺっ、と円香の横顔に痰を吐きかけた。
「あー気分悪ぃ。恭哉、三ヶ月上納無しっての、やっぱナシな。てか、やっぱ今月分も払え」
「そん、な……」
「それからヨ。くれぐれも円香ちゃんが警察に行ったり、勝手に産婦人科行ったりしねーように見張っとけヨ。……賭けの事もあんし、俺ァ腹ボテの女犯すのも好きなんだからヨ」
「……はい」
「うっし。んじゃーてめーら帰んゾ。……じゃーなー、円香ちゃん。また精子が溜まった頃来るからヨ、いっぱい遊ぼーナ?」
 眞野の言葉にげらげらと笑いながら高橋、河田も続き、部屋から出て行く。玄関のドアが乱暴に閉まる音が響いて尚、円香も、そして恭哉も一言も言葉を発さなかった。
「……水、飲むか?」
 ベッドの上で、死人のようにぐったりとしたままの円香の頬をティッシュで拭いながら、恭哉が最初にかけた言葉がそれだった。円香は小さく頷くと、恭哉は台所からコップに水を汲んできて、円香へと手渡した。
 円香は体を起こし、それに口をつけた。水は、一息で飲み干した。
「……シャワー、浴びたい」
「わかった。……立てるか? 肩貸してやる」
 恭哉に肩を借りる形で円香は浴室へと移動し、シャワーを浴びた。四肢に殆どと言ってもいいほどに力が入らず、恭哉の手を借りる形で円香は体を丁寧に洗った。
 浴室から出た後は体を拭き、ドライヤーで髪を乾かした。その後、恭哉がシーツを取り替えたベッドで三時間ほど死んだように円香は眠った。
 ――否。三時間“しか”眠れなかったのだ。夢の中で円香は悪夢にうなされ、男達の下卑た笑い声に包まれながら飛び起きた時には、目尻に涙すら浮かんでいた。
「……ごめん」
 円香が眠っていた間、恭哉はずっとベッドの側に座っていたらしかった。円香はその頬を思い切り張ってやりたかったが、とても頬を張れるほど体に力が入らなかった。
「……電話……私の……携帯、どこ……」
 恭哉は無言で円香の携帯を手渡してきた。円香は中折れを開く――が、反応がない。男達に乱暴に扱われて壊れたのかと最初は思ったが、どうやら電池切れを起こしているだけのようだった。
「電池……きれてる……恭哉の、貸して」
「……どこに電話かけるんだ? 親か?」
 親に連絡して迎えに来て貰う――とでも、思ったのかも知れない。馬鹿じゃないのか、と円香は思った。
「……決まってるでしょ。警察呼ぶのよ」
「…………ダメだ。それは止めろ」
「どうしてよ! あんな目に遭わされて黙ってろっていうの!?」
「警察に言っても無駄なんだ。……そういう揉み消しは眞野の十八番なんだ」
「そんなのやってみなくちゃ分からないじゃない! いいから携帯貸してよ!」
「ダメだ! ……分かるんだよ……俺自身、あいつに頼んで……事故をもみ消してもらったんだから」
「事故……」
 そういえば、そんな話を眞野がしていた。
「……去年の夏……バイクで、じいさんを一人撥ねちまったんだ。そん時、酒も入ってたから……もし捕まったらかなりやばい事になるって思ったから……だから、俺……」
「……それで……私を、生贄にしたの……?」
 眞野は言っていた。揉み消しの代価として毎月十万上納するか、オモチャに出来る女を差し出せと。
「……仕方、無かった。言うとおりにしないと、今度は俺が何されるか…………」
「…………っ…………」
「頼むから、我慢してくれよ、円香。……大丈夫、あいつら結構飽きっぽいんだ……あと二,三回くらい相手してやれば、もう円香の事なんて見向きも――」
 恭哉の言葉を最後まで聞く事が出来ず、円香は精一杯の力でその頬を張り飛ばしていた。
「ふざけ……ないで……」
 涙が、溢れた。あんな事を、あんな事……あと一回だって耐えられるわけがない。
(……こいつも……眞野達と、同じだ)
 頭にあるのは自分の保身だけ。その為には、自分以外はどれほど傷つけてもいいと思っているに違いない。
「な、なんだよ……言っとくけど、俺があのとき助けてやらなかったら、お前は今頃眞野の家でもっとヒデー目に遭わされてたんだぞ!? お前も聞いただろ? あいつらが言ってたのは冗談でも何でもない、あいつら本当に――」
「……そのことだけは、感謝、するわ……ありがとう……だけど、私は……絶対にあいつらを許せない」
 円香はポケットに携帯をしまい、ベッドから立ち上がった。
「ま、待てよ! 円香! 警察には絶対行くなよ、絶対だぞ! あいつには、眞野には絶対逆らっちゃダメなんだ! お前が言う事聞かなかったら、俺までヤベーんだからな!」
 円香は恭哉の言葉を無視して、帰り支度をする。
「あいつらがなんでお前にドラッグなんて使ったと思ってんだ! 警察に行けば、下手すりゃお前の方が薬物使用で実刑食らう羽目になるぞ! あいつら、事実をねじ曲げるなんて平気でやってのけるんだ、俺は今まで散々そういうのを見せられて来たんだ!」
「………………さようなら、恭ちゃん」
 円香はもう、ただそれだけを言い残して恭哉のアパートを去った。フラつきながらも懸命に駅まで歩き、電車には乗らず駅前でタクシーを拾って家まで帰った。
 家に帰るなり、珍しく帰りが早かった母親から無断外泊について厳しく叱責されたが、円香はその言葉すらも殆ど無視して、ベッドへと潜った。何度も、何度も悪夢によって目を覚ましたが、その都度円香は瞼を強引に閉じ、布団に潜り続けた。


「おつかれさまっしたー!」
「したぁ!」
 すっかり日が落ちたグラウンドに、サッカー部員達の声が響いた。
「おう、お疲れ。風邪ひくなよ」
 顧問教師の返事を受けて、部員達は三々五々に散っていく。全員が更衣室へと向かうわけではないのは、一年生はグラウンドの整備や片づけといった仕事が残っているからだった。
「武士。今日帰りラーメンでも食っていかねーか?」
 サッカー部部長、吉岡孝司は部室で着替えながら、親友でもある宮本武士にそんな声をかけた。が、返事はなく、吉岡のすぐ隣で武士はもくもくと着替えを行っていた。
「なぁ、武士」
「……ん?」
 肩を叩いて漸く武士は吉岡の方を振り返った。
「いやさ、帰りにラーメンでも――」
「悪い。食欲ねーんだ」
 一も二もなく武士は拒絶の言葉を呟き、そしてどの部員よりも早く着替えを終えるとそのまま部室を出て行ってしまった。
「なーんか宮本の奴、最近変じゃね?」
 それを見て、部員の一人が呟いた。吉岡もまったく同感だった。ある日を境にして、宮本武士の様子は明らかにおかしくなっていた。
(…………また彼女と何かあったんかなぁ)
 武士の様子が変である事の理由として、吉岡は密かにそう当たりをつけていた。少なくとも、学校内での事やサッカー部内部での事が原因であれば、自分が気づかぬわけはないという自負もあった。
 その件に関して少し探りをいれてみようかと思っての誘いであったのだが、無碍もなく断られては手の打ちようもない。吉岡もまた着替えを終えると、下級生達が整備や後始末を終えて戻ってくるのを雑談しながら待ち、最後に部室の鍵を閉めてから学校を後にした。
(……ったくよぉ、“彼女”の事だと、あんまつっこむワケにもいかねーんだよなぁ)
 武士の“彼女”というのが、非常にデリケートな部分を内包している存在だという事を、吉岡は薄々察していた。故に、極力その話題には――武士の方から振ってくるならばともかくとして――触れたくないとも思っていた。
 とはいえ、さすがに親友が毎日のようにふさぎ込んでおり、しかも日に日に窶れていくとなれば話は別だった。
(あーもー……あんまモヤモヤさせんなよな! 俺はノーマルだっつーの!)
 家へと帰り、晩飯をたらふく食べ、湯にゆっくり浸かりながら、吉岡は文字通りモヤモヤしていた。そのような気味の悪い連想はしたくはないのだが、もしあの親友の性別が男ではなく女であったならば、きっと自分は片時も目を離せなかっただろうなと、吉岡はそんな事すら考えた。
(真面目過ぎんだよなぁ、ったく……)
 今、宮本武士が一体何に悩み、苦しんでいるのか吉岡には分からない。が、それは恐らく自分や他の男子ならば「なんでそんな事で悩むんだ?」と思うくらい、拍子抜けする程単純な理由ではないかと吉岡は考える。
 そう、そういった奇妙な危うさがあるのだ、宮本武士という男には。昔から。
(まー……明日はちぃと無理してでもメシに誘って、話聞いてやっか。…………武士は迷惑がるだろうけど、しゃーねえ)
 何よりも、こんなモヤモヤした気分のまま毎日を送り続ける自分のほうが先に神経が参ってしまいそうだと。吉岡は苦笑しながら風呂から上がり、そしてまだ濡れた髪をタオルで拭きながら自室へと戻った。
「さてと……何か良い動画は上がってっかな」
 寝る前のサイト巡りは吉岡にとって日課とも言える作業だった。チェックする画像はテレビのおもしろ系から動物系、はたまた制作者不明のMADムービーに至るまで多岐にわたる。これらを常にチェックし続け、良いモノがあれば友人に教えるのが自らの責務であるとすら思っていた。
「んー……イマイチ良いのがねえな……」
 不作。その一言に尽きた。新作はいろいろ上がってはいるのだが、そのどれも友人に紹介する程のインパクトに欠けているのだ。
「……ま。無いものはしょうがねーか」
 そうそう毎日掘り出しものの動画があるほうがおかしいのだと、吉岡は気分を切り替えて今度はまた違うサイトへのブックマークをクリックした。そこはおもしろ動画や動物動画とは無縁の、カップル等が自画撮りのエロ動画を自由にアップデートする場所だった。
 サッカー部部長という、些か責任の重い地位にはいるが、吉岡とて年頃の男子である事には違いが無い。寝る前にきっちり煩悩を消化し、快眠しようという試みは至極当然の事だった。
「……おっ、なんかすげーレスついてるのがあんな」
 そして吉岡は他の動画の十倍以上もの反響がある動画を見つけるなり、その動画を開くべくサムネイル部分をクリックしていた。再生が始まると同時に、吉岡はいそいそとズボンを脱ぎ始め、そっとティッシュの箱を近くに寄せた。
 やがて、暗転したままだた画面に動画の再生が始まった――程なく、吉岡は顔を引きつらせた。
「っ…………なんだこりゃあ……」


 円香にとって忘れがたい――忘れられる筈のない陵辱の宴から、十日あまりが過ぎた。その間、円香はただの一歩も自宅から出なかった。
 バイトも辞めた。月曜日に目が覚めるなり携帯を充電器へと繋ぎ、そのままバイト先の店長へと辞める旨を告げ、すぐに電話を切った。ついでに恭哉の番号とメールアドレスも携帯から削除した。
 その後何度か恭哉の番号からの着信があったが、円香は全て無視した。それどころか、何度もしつこくかかってくる事に鬱陶しさすら感じて、最終的には着信拒否にまでした。
 警察にも、結局行かなかった。恭哉の言葉を信じたわけではない。ただ、警察へ行き、また両親に連れられて産婦人科で検査を受け――と、そういったセカンドレイプに耐えうるだけの気力がもう円香には残されていなかった。
 男達が憎いと思う気持ちは、無論ある。叶うことならば復讐をしたい、殺してやりたいとさえ。
 しかし、それは結局思うだけで、例え幸運にもその機会が巡ってきたところで、自分にはどうせ何も出来ないのだろうなと、円香は思い始めていた。
(……だって、あのときだって……)
 円香は思い出す。かつて一人の中学生に陵辱を受け、これ以上辱めを受けるくらいならいっそ殺してやろうと、刃物を手に会いに行った時の事を。しかし結局、最後の最後で円香は人を刺す勇気を持てず、結果陵辱されることを受け入れてしまった。
(…………私、なんで生きてるんだろう)
 部屋で一人ふさぎ込んで、円香はそんな愚にもつかない事ばかりを考えていた。かつては、宮本武士という年下の男性を愛し、彼に相応しい女となるために進学を決意した。その為にバイトも始めた。――しかし、それも最早どうでも良くなってしまった。
(…………武士くんに、会いたい……な……)
 そんな事を思って、円香は自分で自分を笑いたくなった。そもそも最初に武士を遠ざけ、連絡手段を自ら断ち切ったのは誰だったか。
(あんな目に遭ったのは……天罰、かな……)
 宮本武士という、純朴極まりない少年と交わり、汚したその報いか。或いは、その心を傷つけた報いか。
(それとも……由梨の……)
 考えてみれば、由梨子に嫌われてしまったのは当然だと円香は思う。そこで素直に諦めることが出来ていれば、今とは随分違う人生を歩んでいたのではないだろうか。
(ううん、そもそも最初から……由梨とも……武士くんとも出会わなかったら……)
 たら、れば。そんなものをいくら繰り返した所で、前へなど進む事は出来ない。それが解っていて尚、円香は迷路のような思考から抜け出す事ができなかった。


 部屋の中で布団にうずくまり、愚にもつかないことを考えていても腹は減る。生理現象だって起こる。永遠にそうし続けている事など不可能だった。
 円香は階下からの物音で家政婦が外出した瞬間を見計らって、そっと部屋のドアを開けて階下へと降りた。台所の食卓の上には、ラップをかけられた一人分の食事が用意されていた。それを見るなり、円香は気分がひどく沈んだ。腹が全く減っていないわけではない。しかし、食事を摂るという行為自体に気が進まない。だが食べなければきっと家政婦から両親へと話が行き、やはり何かあったんじゃないかと再び問いつめられるであろう事は目に見えていた。
 そう考えると、眼前に置かれている料理自体、自分を責める拷問具かなにかのように見えてくる。いっそ叫び声でも上げながら全てをゴミ箱にたたき込んでしまえば少しは気が晴れるかもしれない――自嘲気味に笑いながらも、円香はそんな妄想とは裏腹に料理を一皿ずつ電子レンジへと入れ、暖めていく。
 それらをさも義務的に、もそもそと半分ほど食べた所で、はたと。円香はテーブルの上に見慣れない小包が置かれている事に気がついた。
 丁度、ケーキの箱くらいの大きさの茶色い小包には、小さくメモ用紙が添えられていた。見慣れた家政婦の文字だった。そのメモには、円香宛に届いた小包であるという事が書かれていた。
「……………………。」
 ざわりと。いやな感触のものが胸の中を撫でつけたような、そんな不快さを円香は覚えた。
 自分に対して、一体誰が小包など送るだろうか。円香は小包を開けずにそのままゴミ箱に捨ててしまおうかと考えたが、しかし結局実行には移せず、包みを開けてしまった。
 中には大仰な緩衝剤につつまれて、一枚のDVDがケースごと入っていた。
 ざわり――巨大な猫の舌で体の内側を舐められたような感触が、再び円香を襲った。そう、かつて円香は同じようなモノを受け取った事があった。それには一体、何が映されていたか。
「っ……はぁっ……はぁっ…………はぁっ…………」
 心臓が不自然な鼓動を繰り返し、呼吸までもが荒くなる。円香はその場に膝をつき、胸を押さえながら必死に呼吸を整えた。
 そんな。まさか。
 違う、あの時とは違う。違う筈だと、円香は必死に己の心を落ち着けようとした。しかし、際限なく沸き続ける最悪の予想以上に説得力のある楽観的な未来を、円香はどうしても見つけられなかった。
 円香は震える手で銀盤のようなディスクを取り出し、父親の私室へと足を踏み入れた。“前回”同様父のパソコンを使う以外、このディスクを再生する手段は無かったからだ。
 円香はパソコンを起動させ、ディスクをドライブへと挿入する。すると忽ち動画の再生が始まった。
 画面いっぱいに広がった動画はしばらく暗転したままだったが、やがてそこに文字が現れた。ピンク色のややとろけたようなレタリングでそこに浮かび上がった文字は――。
「マドカの……秘密……?」
 円香は呆然とディスプレイの前で凍り付いていた。やがて文字と共に、どこかで聞き覚えのある声がスピーカーから聞こえてきた。
『はじめましてっ、私、ササキマドカっていいます!』
 えっ、と。円香は耳を疑った。それは紛れもない、自分の声のように聞こえたからだ。
『年は18でぇ、“元”女子高生でぇーっす。“元”がついちゃうのはぁ、学校でエッチしてるのが先生達にばれちゃったからでぇ……』
 画面に現れる文字と同じ内容の声が――それも、聞いた限りでは自分の声にしか聞こえないそれが――立て続けにスピーカーから流れ続ける。円香は文字通り困惑した。円香は、少なくともこんな事を喋った事がないからだ。
(いや……違う……これ、誰か他の人の声を、私の声に似せてるんだ)
 恐らくは、元々似た声の女に喋らせて録音し、それに何らかの処理を加えてさらに似せたのだろう。良く聞けば、所々その処理に失敗したらしい不自然な部分が聞き取れた。
『……というわけでぇ、今回は大学生のお兄さん達にお願いして、いっぱいいーっぱいエッチしちゃった♪ 記念にいっぱい動画も撮ってもらったからぁ、その一部を公開しちゃいまーす』
 場違いなまでに明るい声でニセマドカがそう言ったあと、程なく本編らしい動画の再生が始まった。
『あぁんっ、あぁーーーーやっ、スゴぉいっ……あんっ、イくっ、イクゥ!!』
 動画の中で犯されているのは紛れもなく自分だった。当然、“マドカ”に陵辱を加えている男達の顔にはモザイクが掛かっていたが、そういった修正は円香自身には一切加えられていなかった。
(それに……この、声……)
 恐らくはこの部分の音声もニセマドカのそれを上からかぶせているのだろう。少なくとも円香は男達に犯されながら、こんなに嬉々とした声を上げた記憶は無かった。
『あぁあぁっ、スゴぉいッ……やんっ、イクッ、またイクッ……お兄さん達スゴすぎぃ! あぁっ、イクゥっ!』
 見れば見る程に、巧く編集されていると円香は思った。ニセマドカの嬉々とした声が始終聞こえるせいで、どう見てもそれは強姦の記録ムービーには見えなかった。
『あぁんっ、もっとぉ……もっとマドカを犯してェ! あぁぁっ、いいっ、チンポ堅くて大きくて凄く気持ちいいぃーーーー!』
 画面の中で嬉々として犯される自分――正確には、嬉々としているように見える自分――の姿に、円香は吐き気すら覚えた。だが、それほどの不快感、嫌悪感を受けて尚、円香は動画を止める事も、早送りすることも出来ずにただただ凝視し続けた。
 様々なシーンを編集してつなげられたらしいそれは、三十分ほど続いた。中には、円香にとってトラウマとも言うべきあの浴室でのシーンも含まれていた。腹を蹴られる所だけは巧妙に隠されていたが、自分が漏らしてしまうその様は克明に記録されていて、円香そこだけは思わず目をそらしてしまった。
『……みんな、楽しんでもらえたかな?』
 画面は再び暗転し、再びピンク色の文字と共にスピーカーからニセマドカの声が聞こえてくる。
『マドカもね、お兄さん達にいっぱいいーっぱいエッチして貰ったんだけど、だけどね、まだまだシ足りないの』
 円香は吐き気の余り口元を抑えながら、この女は一体何を言っているのかと、動画の制作者の意図がまるで分からなかった。
『だからね、この動画を見てぇ、もしマドカとエッチしたい人が居たらぁ、マドカに教えて欲しいな♪』
 だが、画面の下部に見覚えのある電話番号とメールアドレスが表示された瞬間、否応なしに理解する事となった。制作者の意図と、その狂気を。
「えっ……」
 画面に表示されたのは、間違いなく円香の携帯の番号とメールアドレス、そして家の住所と電話番号だった。
『これがマドカの連絡先だよ♪ エッチしたい人はすぐ連絡してね♪ あとあと、マドカ、無理矢理プレイが好きだから、最初はちょーっと嫌がるフリするかもしれないけどぉ、それは演技だから、絶対途中で襲うの止めたりしないでね?』
 そして、文字が消え、動画の再生が終わる。円香はドライブからディスクを取り出し、PCの電源を落としてから台所へと戻った。椅子に座る、というよりは両足から力が抜けて崩れ落ちた先にたまたま椅子があった――そんな座り方だった。
 呆然としながら、円香は先ほどの動画の意味を考えていた。アレは一体何だったのか。分かり切っている。眞野と、その一味からの警告だ。呼び出しを無視した事に対する警告がアレなのだ。自分たちを無視し続ければ、あの動画をネットにでも流すつもりなのだろう。
「ひっ……」
 突如スカートのポケットの中で携帯が鳴り出し、円香はつい悲鳴を漏らしてしまった。呼び出し音は、家族の携帯ではない番号からの呼び出しである事を示していた。その時点で、少なくとも三十分前までの円香で在れば絶対に出ようなどとは思わなかった。
「……はい、もしもし」
 しかし、今の円香は違った。ただの間違い電話である事を祈りつつ――十中八九眞野達からの電話だろうと予想しつつ――円香は通話ボタンを押した。
 だが。
『おっ、マジで出た! キミがマドカちゃん? 動画見たよぉ〜』
「えっ……」
 電話の向こうから聞こえた声は眞野のものでも、河田でも、高橋でも、そして恭哉のそれでもなかった。正真正銘、全く聞き覚えのない声だった。
『すっげーよ、マドカちゃんエロすぎだよぉ〜、今すぐ会おうぜ、ドコで待ち合わ――』
 男が喋り終えるのを待たずに、円香は通話を切っていた。しかし、二秒と間を空けずに再び携帯が鳴り出した。番号は同じものだった。円香は悲鳴を上げながら携帯の電源を落とした。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
 肩で息を整えながら、円香は必死に考えていた。これは一体どういう事なのだろう。眞野達一味の差し金だろうか。
 それとも、もしかして――。
「あっ……」
 その時、円香は気がついた。ディスクが入っていた小包の中、緩衝剤の中に紛れて、小さなメモ用紙が混じっていたことに。それにはただ一文“ネットで大好評、ご近所様にもお裾分け済み”と書かれていた。
「嘘……でしょ……?」
 いくらあの男達でもそこまでするとは思えなかった。これはただの脅しだと。円香が思いこもうとするのをあざ笑うかのように――今度は家の電話が鳴り始めた。
 違う、これはきっと間違い電話かなにかだ。或いは、仕事先の両親からの電話だ。自分が携帯の電源を落としているから、家の電話にかけてきたのだ。そうに違いない――円香はもう、祈るような気持ちで受話器を手にとり、耳へと当てた。
『もしもーし、こちらヤリマンのマドカちゃんのお宅ですかー?』
 先ほどとは明らかに違う男の声だった。円香は咄嗟に受話器を置いた。が、またすぐに呼び出し音が鳴り始め、円香は電話線を乱暴に引き抜いた。
 ぴんぽーん、とインターホンが鳴ったのはその時だった。続いて、ノックの音。
「マドカちゃーん、居るー?」
 ドンドンドン――ノックの音はさらに強くなる。がちゃがちゃとドアノブを回す音まで聞こえる。
「ぁっ……ぁっ…………」
 円香は両目に涙を滲ませ、両耳を塞ぎ目を瞑った。
 夢だ。
 これは夢だ。
 こんな事が実際にある筈がない。
 念じるように――否、最早祈りと言ってもいい。円香のそんな必死の思いをあざ笑うかのように、ガシャーンとどこかからガラスの割れるような音が聞こえた。
「ひぃっ……ぁっ、ぁっ……やっ……もぉ、嫌…………もう、嫌ぁぁあッ!!!」
 円香は泣きながら叫び、そして反射的に流しの下から包丁を掴んでいた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
 涙でにじんだ視界の中で、円香は己の細い腕に包丁の刃を宛っていた。これを思い切り引けば、全てが終わる。もう二度と、誰にも怯えないで済む――。
「はぁっ……はぁっ、はぁっっ…………ッ……っっぅぁァァああああッッ!!!」
 円香はあらん限りの声を上げ、右手を強く引いた。視界が鮮血の赤に染まり、そして――円香は全ての苦痛と恐怖から解放された。



「はぁ……はぁ……はぁ…………はぐっ、あぎぃっ!」
 ヒュンッ――そんな風を切る音が耳をつんざいた刹那、腹部に凄まじい鈍痛が走り、男は堪らず悲鳴を上げた。
「あぐぁっ、はぐっ……あがぁっ……!」
 二度、三度と堅い何かが振るわれ、男の体を痛めつけていく。目隠しをされた上、両手首につけられた鎖によって宙に吊されている男にはそれらから身を守ることも、ましてや逃げることすらも許されない。
 男に出来る事はただたださらなる打撃による痛みに備え、覚悟をする事のみだった。
 しかし、そうして男が次の“痛み”に備えて気を張っていると、唐突に辺りは静寂に包まれるのだ。終わりか?――そう思った瞬間、ヒュンと風きり音が聞こえ、彼の左脇腹に鈍痛が走る。
 一体何で殴られているのかは解らない。恐らくは先にゴムかなにかを巻いた鉄パイプかなにかだろう。だが、それが解った所で彼には為す術が無かった。
「あっ……ぁっ……ゆる……して……許して、くれ、よぉ……」
 男はさらなる痛みに怯え、闇の向こうに居るであろう相手に対して懇願せずにはいられなかった。
 一体、ここに吊され、殴られ始めてからどれほどの時間が経っただろう。最初は男も虚勢を張り、何のつもりだ、早くこの拘束を解け、自由にしろ――そんな言葉をまくし立てた。だが、そんな事を喚いていられたのも殴られ始めて十分の間までだけだった。
 ヒュン――また、風切り音が聞こえ、男は反射的に体をすくめた――が、その後に来るはずの痛みはやってこなかった。ヒュン、ヒュンと風を切る音だけが響く。その度に男は身を強ばらせるが、痛みも、衝撃も来ない。
 くつくつと、含み笑いの声が微かに聞こえた。嬲っているのだ。そうして数回風切り音だけを響かせ、唐突に――。
「がはぁっ……!」
 今度は横っ面を思い切り殴りつけられた。じゃらりと、男を吊している鎖が派手に鳴った。
「……んで…………な、で……こんな、事……るん、だよぉ……」
 口の中に鉄さびの味が充満し、折れた歯がぽろぽろと喋るはしから口から零れた。
「……“佐々木円香の件”だ」
 それは、男が始めて聞いた“加害者”の声だった。
「っっ……! ふ、復讐……か……? お前、あの女の、何っ……はぐっ、はぐおっ……ぐふっ……!」
 立て続けに三度、凶器で殴りつけられ、男は強引に口を封じられた。
「お前が主犯だと聞いた」
「はがっ……ち、違っ…………あれ、は……眞野、って奴が……」
「ああ、そういやそんな名前の奴が居たな。……そいつが主犯なのか?」
「そ、そうだ! ぜ、全部……あいつの命令だったんだ!」
 男は精一杯声を荒げ、文字通り血を吐くようにして訴えた。責任を全て転嫁する以外、この男――或いは少年?――から解放される道は無いように思えたからだ。
「そうなのか。……実はそいつも攫ってくる予定なんだけどな、どうにもガードが堅くて困ってる」
 感情を感じさせない、氷のような声だった。そのくせ、少年のような幼さすら感じさせる声――だが、男にとってそんなことはどうでも良かった。
「ふ、復讐っ……したいんだろっ!? だ、だったら……俺に良い考えがある! 絶対、確実にアイツを一人きりにして、攫ってこれる手だ!」
「へぇ……?」
 “加害者”の声に感情が僅かに交じった。それは間違いなく喜怒哀楽の“喜”に属する類の物だった。
「それは面白そうだ。……お前のその作戦とやらで巧く眞野を攫えたら、全てが終わった後、お前だけは生かしておいてやるよ」

 



 生き甲斐――そう、決して大げさではなくそう呼べた。宮本武士にとって、佐々木円香という女性の存在はいつしか生きる目標そのものと言っても差し支えなかった。
 円香の為ならば、何でも出来ると思っていた。円香を守るためならば、どんなことでも出来ると。
 その“生き甲斐”が、まるで指の間から水が零れるように容易く武士の元から消え失せてしまっても、武士を包む日常にはさしたる変化は無かった。勿論武士はなんとか再度円香と連絡を取れないかと様々な手を試みた。だが、電話やメールの類は円香に着信拒否指定をされてしまっているらしく繋がらず、やむなく公衆電話を用いても円香は電話には出てくれなかった。
 あの日起きた事は、武士の理解を超えていた。かろうじて武士に分かった事は、姉と円香の間には筆舌に尽くしがたい何かがあり、どうもそのことは円香の記憶喪失とも関係があるのではないかという事だった。
 無論武士は、姉が言ったように円香が姉とよりを戻す為に自分を利用した等という事は全く信じていなかった。だからこそ武士は円香ともう一度会い、真意を尋ねたかったのだ。何故、自分を避けるのかと。
 円香の思惑が別にあり、フられてしまうのならばそれはそれで仕方がない。しかしあんな、あのような偶発的な事故のような形で円香が去ってしまうというのだけは、武士にはどうしても納得がいかなかった。

 放課後、部活が終わるなり――時には、部活を休んで――武士は円香の家へと向かった。ここのところは学校が終わるとそうして円香の家を尋ねる事が増えていた。
(…………また、増えてる)
 “それ”を見るたびに、武士は何とも陰鬱な気分になる。ラクガキ――それもかなり悪質な類のものだった。赤や黒、紫などのスプレーで家の壁や塀、玄関などに殴り書かれたそれらは日をおくごとに増えているようだった。最近では警官が見回りを始めたのか、武士も何度か職質をされ持ち物を検査されたりもしたが、当然スプレー缶などという物は持っている筈はない。
 武士はそっと門扉を開け、玄関の前までいくとインターホンのボタンを押してみた。が、やはり反応がない。ラクガキが増え始めた頃から、以前は自分を門前払いしていた家政婦すら出てくる事は無くなった。――否、それよりも何よりも人の気配そのものが感じられないのだった。
(……ひょっとして、また……何か……)
 円香の身に起きたのだろうか。それとも、以前宍戸がそうしたように、あの動画と円香とを結びつけた者が集団で嫌がらせを行っているのだろうか。
 どちらにせよ、武士は胸が苦しくて堪らなかった。こういうときこそ円香の側に居てやりたいと、側に居なければいないと分かっているのに、それが叶わない。
「……円香さん」
 武士は呻くようにして呟き、自分でも抑えかねるその想いに翻弄されるかのように、意味もなく家の裏手へと回った。円香の家は敷地も広いが家自体も大きく、ちょっとした屋敷とも言える広さがあった。その周りをゆっくりと回ると、何カ所か窓ガラスが割られているところがあった。或いは、そこから中に入ることも不可能ではないかもしれないが、さすがにそこまではできなかった。
 武士が家の周りを一周して再び玄関に戻ってきたとき、ふと己の視界に違和感を感じた。庭の隅にある小さな箱――否、違う。あれはコジローの犬小屋だ。本来あるべき場所から移され、庭木の影にひっそりと置かれたそれの側に人影が見えたのだった。
「円香さん!?」
 武士は声を荒げ、犬小屋へと駆け寄った。しゃがみ込んでいた女性は武士の接近に気がつくなり大あわてで身を起こし、身構えるようにして数歩後ずさった。その姿を見るなり、武士は失望を露わにした。
 人影は、何度か自分を追い払った事がある中年の家政婦だった。
(いや、構うもんか! 他に手がかりはないんだ)
 武士は自分の姿を見るなり、逃げるように早足に踵を返した家政婦を追い、その腕を掴んでいた。
「あのっ……すみません、ご迷惑だというのは分かってるんです……でも――」
「……止めて下さい。私は何も知らないんです。離して下さい!」
 家政婦はヒステリックに叫び、武士に掴まれた腕を振り払おうとした。が、武士は懇親の力を込めて離さない。
「お願いします! 俺、宮本武士っていいます! 前に……何度か尋ねた事もあります。円香さん……佐々木円香さんとどうしても連絡が取りたいんです! 円香さんは家の中に居るんですか? 居ないのなら、何処に行けば会えるんですか!?」
「知りません! 離して下さい! 誰か、誰か助けて下さい!!!」
 家政婦が大声で喚き始め、武士はやむなく手を離した。
「お願いします、大切な人なんです! 俺、明日も学校が終わったらここに来ます! もし、円香さんについて何か知っていたら……置き手紙でも何でもいいですから、置いておいてもらえませんか」
 武士は殆ど叫ぶ様にして懇願したが、家政婦はただ怪訝そうな顔を残して足早に門から出て行ってしまった。後に一人残された武士は、茂みに隠すように置かれた犬小屋の元へと戻った。
「……コジロー」
 “バター犬(笑)”とスプレーで殴り書かれた犬小屋から顔半分を出すようにして、コジローがはぐはぐとドッグフードを貪っていた。どうやらあの家政婦はコジローに餌をやりにわざわざやってきたらしかった。
 武士がその頭を撫でてやろうとそっと手を伸ばすと、コジローは慌てて犬小屋の中へと引っ込んでしまった。ラクガキをした不心得者達に乱暴でもされたのか、その目には明らかな怯えの色が浮かんでいた。
「大丈夫、大丈夫だ。ほら、俺だよ」
 武士は犬小屋の前で両手を広げ、懸命にアピールした。コジローとは何度も遊んでやったり、円香の代わりに散歩をしてやった事もある。コジローもそのことを覚えていたのか、おずおずとためらいがちに頭を覗かせ、武士はその頭と顎を優しく撫でてやった。
「コジロー……お前の主人は……円香さんは何処にいるんだ?」
 無論コジローが答えられるわけがない。ただ、武士の足下に、くぅんとコジローが寂しげに首をこすりつけてくるのみだ。
「………………ここに置いておくのは危ないな。…………うちに来るか?」
 今までは無事だったが、もしまたラクガキをした連中がやってきたら、そいつらが悪戯半分にコジローに何かをするかもしれない。武士は迷った挙げ句、鞄の中からルーズリーフを一枚取り出し、恐らく明日も来るであろう家政婦に向けてコジローを預かる旨と、自分の住所と連絡先を書き残して犬小屋の中へと入れた。
「おいで、コジロー」
 武士はリードを外し、コジローを連れて佐々木邸を後にした。コジローを連れて歩きながら、或いはこのままいつぞやのように――最悪、あの白石さんという人に助力を頼んで――コジローに円香の元まで案内してもらえないかと、武士は考えた。
 が、結局実行に移す勇気を持てず、武士はその案を却下した。
(……馬鹿な。そんなこと……在るわけ無い。円香さんが……“何処にも居ない”なんて……そんなこと在るわけ……無い)
 それは薄々、武士が感じている事でもあった。しかし、それだけはあり得ないと武士は頑なに否定し続けた。



 突然犬を連れ帰った事に、母親からは散々に小言を言われた。絶交状態の姉に至ってはそもそも口を挟ませもしなかった。たとえ何か言われても、武士は全てを無視するつもりだった。
 コジローは家の外ではなく、自分の部屋へと上げ、ダンボール箱と新聞紙で臨時の犬小屋とトイレを作った。最初はやや興奮気味だったコジローも時間をかけて撫でてやり、餌と水を与えると大分落ち着きを取り戻したようだった。臆病そうな見かけによらず、意外と順応力は高いのかもしれない。
 翌朝、部屋にコジローを残して家を出る事には若干の抵抗を感じたが、仕方ないと自分を説得した。或いは学校から帰った時、コジローによって部屋が散々に荒らされているかもしれないが、例えそうなってもコジローを叱りはすまいと、それだけの覚悟を決めて武士は登校した。
 授業を受けながらも、武士は一つの事だけを思案し続けていた。あの家政婦は、果たして自分の伝言を円香に伝えてくれるだろうか。あの様子では望みは薄いと武士は思ったが、しかし他に手だてが無かった。
 どうしてもコジローの事が気がかりで、先日に引き続いて部活は休む事にした。部長にして親友でもある吉岡にそのことを告げると、なんとも困ったような顔で了承された。何か言いたいことはあるが、口に出来ない――そういう顔だと武士には察しがついたが、あえてそれを聞き出そうとまでは思わなかった。
 急ぎ足で家に帰ると、思いの外室内は荒らされてはいなかった。一番心配した粗相についてもきちんと武士がトイレと定めた場所――ダンボール箱と割いた新聞紙で作った即席の、だが――で済まされていて、問題らしい問題といえばベッドの上に散っている大量の抜け毛くらいのものだった。
 武士は学校帰りに飼ってきたジャーキーや缶詰などを水と一緒にコジローに与え、リードをつけて家を出た。十中八九待ちぼうけになるだろうと分かっていても、それでも円香の家に向かわずにはいられなかった。
 佐々木邸は相変わらず人気が無かった。武士はまず真っ先にコジローの犬小屋を調べたが、中に置いておいた筈のルーズリーフが無くなっていた。恐らくは、餌をやりにきた家政婦が持って帰ったのだろうか。
 武士はコジローをつれたまま、玄関の前まで来て、その場に腰を下ろした。久々に散歩が出来て嬉しいのか、コジローは始終はしゃぐように飛び跳ねていたが、武士の気分はそれとは全く逆だった。
 やはり、一か八かコジローに道案内を頼んでみるべきだろうか――武士がそんな事を考え始めた時だった。
 最初は、気のせいかと思った。しかし、武士は一縷の望みをかけて背後を振り返った。
 かちゃん、キィ――そんな音を立てて、武士の目の前でゆっくりとドアが開かれた。その向こうに立っていたのは――。
「円香……さん?」
「……こんにちは、武士くん。…………ひさしぶり」
 佐々木円香はただ静かに笑みを浮かべていた。


 コジローを連れたまま、武士は川縁を歩いていた。そのすぐ隣には円香もいた。『少し歩きながら話さない?』――再会するなり円香がそう言い、武士もそれを了承したのだった。
 しかし、いざこうして円香と二人きりで散歩をしていても、武士は円香に対して何も言えなかった。それこそ、円香に対して言いたいこと、聞きたいことはいくらでもあるというのに。そのどれも口にする事は出来なかった。
(本物、だ……)
 武士はただただ、己の隣を歩く女性の姿に感動していたのだった。
(幻じゃない。本物の……円香さん)
 恋いこがれ、文字通り身を焦がす程に求めた相手が、手を伸ばせば触れられる距離に居る。それだけでもう武士は胸がいっぱいになってしまい、他のことなどどうでもよくなってしまったのだった。
「…………武士くん、あのときは――」
 そんな黙りこくっている武士の代わりに、とでもいうかのように、不意に円香が口を開いた。
「あのときは……本当に、ごめんね。……言い訳になるかもしれないけど……私、自分でも訳が分からなくなるくらい、混乱、しちゃってて……」
「……いいよ。そんな事……どうだっていい。……円香さんが謝るような事じゃないよ」
「ううん、謝らせて。…………私のせいで……私が居たから……由梨も…………お姉さん、も……」
「姉貴の事なんかどうだっていい。……俺には円香さんだけだ。円香さんだけ居てくれれば、他には何も要らない」
 本当なら、言葉だけでは足りない。そのまま抱きしめてしまいたかった。しかし、それをやる勇気が武士には無かった。馬鹿な話だが、もし不用意に触れてしまったら、その場で円香の姿がかき消えてしまうのではないかとすら、武士には思えた。
 それほどまでに、武士の目に映る円香は儚げだった。
「……ちょっと、座って話そうか」
 歩き疲れちゃった――円香は独り言のように呟いて、川縁の土手の斜面に腰を下ろしてしまった。武士も習ってそのとなりへと座り、二人の間にちょこんとコジローが腰を下ろした。
 くすりと、円香が笑みを漏らす。
「……………………コジローの事、ありがとうね。私、今……パパ達と一緒にホテルで暮らしてるんだけど……犬は連れていけなくって、仕方ないから……餌やりだけ、お手伝いさんに頼んでたの」
 愛犬――かどうかは解らないが――の毛皮を撫でながら、円香が呟く。
「……そうだったんだ。……やっぱり、ラクガキのせい?」
 どうやら、あの家政婦がちゃんと伝言をしてくれたらしい――武士は心の中で礼を言いながらも、やはり聞かずにはいられなかった。
「……うん。……ほら、例の……動画……さ。あれを見て……私だって、気づいた人が……いたみたいで……いろいろ、嫌がらせとか……されるようになっちゃったの。……だから……」
「そ……っか。…………何か、俺に出来る事……無い、かな……」
 つい、声のトーンを落としてしまった。口にしながら、自分のような一介の中学生に出来る事など何も無いと分かってしまったからだ。
 円香も、ゆっくりと首を振った。
 そして、微笑をたたえたまま、“それ”を口にした。
「…………私ね、引っ越すことになったの」
「えっ……?」
 円香の言葉に、武士は思わず絶句した。。
「パパがね、こんなに噂になったら、もうこの町には住めないって……あはは、しょうがないよね…………全部、私が悪いんだもん……自業自得……だよね」
「そん、な……引っ越しって……一体いつ……」
「明日か、明後日か……遅くても今週中にはすると思う」
「そんな……引っ越し先は何処!? 遠いの!?」
 武士は円香の肩を掴み、叫ぶようにして問いつめていた。しかし、円香から返事は返って来なかった。ただ、微笑を浮かべ、ゆっくりと首を振るのみだった。
「凄く、遠いところなの。だからもう、武士くんには会えなくなると思う」
「……距離なんて関係ない! 俺、絶対円香さんに会いに行くよ! 手紙も書く、電話もメールもするよ! だから――」
「ダメ!」
 殆ど叫ぶような円香の声に、武士の言葉は遮られた。
「ダメ……武士くん…………お願いだから、私の事はもう、忘れて」
「嫌だ……円香さん、何でそんな事言うんだよ! 忘れられるわけないだろ!」
「大丈夫だよ。武士くんなら……きっとすぐ、もっといい彼女が見つかるから。私が保証してあげる」
 今度は、武士が首を振る番だった。こういう問答は今までにもう何度もやった。そして何度やっても、武士の答えは変わる事はない。
「……他の女なんか要らない。俺には円香さんだけだ。円香さんじゃなきゃダメなんだ!」
「…………武士くんの気持ち、とっても嬉しいよ。……だけど、もう……ダメなの。……お願い、解って――」
「解らないよ! どうしてだよ、円香さん! どうして……」
「……私は、武士くんには幸せになって欲しいの。ただ、それだけ」
「だったら……!」
 何故、自分の前から消えようとするのか。宮本武士にとって、佐々木円香無しの幸せなどありはしないというのに。
「っ…………」
 ぎりっ――と、歯を食いしばり、武士はその先に続く言葉を飲んだ。或いは――そう、本当に円香の幸せを願うのならば、円香の言葉の通りにしたほうがいいのではないかと。そう思えてきたからだ。  むやみに追いすがった所で今の自分に何が出来るというのか。出来なかったからこそ、円香は離れて行こうとしているのだというのに。
「…………………………わかった、よ……円香さんが、どうしてもそうしたいっていうのなら…………」
「……ありがとう、武士くん。それでいいんだよ」
 円香は静かに頷き、そして自嘲気味に呟いた。
「本当……私ってどうしていつもこうなんだろ…………最初から、武士くんだけを信じて、武士くんの側にだけ居れば良かったのに……自分でも、そうするのが一番だって、解ってた筈なのにね」
 円香は微笑み、目尻に浮かんだ涙を指先で拭う――その時だった。円香の着ているカーディガンの袖がめくれ、そこに白いものが顔を覗かせた瞬間、武士は反射的に円香の左手を掴んでいた。
「痛ッ……」
「あっ、ごめん! 大丈夫、円香さん」
 途端、円香は顔を歪めて悲鳴を上げる――武士は慌てて円香の腕を解放した。
「……大丈夫……ちょっと、料理の練習してて……包丁で切っちゃっただけだから」
 円香は左手首を押さえながら、力のない笑みを浮かべるが、袖を戻したまま決してその下を――恐らくは包帯が巻かれているであろうその場所を武士に見せようとはしなかった。
「あっ、そうだ……武士くん……最後に……一つだけ我が儘聞いてもらってもいいかな?」
 そして、まるで話をすり替え、誤魔化すかのように、円香は場違いなまでに明るい声でそんな事を言い出した。
「……何? 円香さんの頼みなら俺、何でも聞くよ」
「引っ越し先……さ。ひょっとしたら犬……飼えないかもしれないの。だから……もしよかったら、私の代わりに……コジロー引き取ってくれる人とか、探してくれないかなぁって…………ほら、私……友達とか、知り合いとか……居ないから……」
「そういう事ならコジローは俺が引き取るよ。大丈夫、安心して」
「本当!? 武士くんならコジローも喜ぶし、私も安心できるよ!…………あっ」
「……? どうしたの? 円香さん」
「あと、さ……もし、コジローの散歩中とかに……ほら、武士くんも前に一度会ったって言ってた……白石さんって子。あの子にあったら……私が“約束守れなくてごめんなさい”って言ってた、って……伝えてくれないかな」
「…………解ったよ。間違いなく白石さんに伝える。……他には?」
「うーーーん…………それくらい、かなぁ……」
「本当にそれだけでいいの? 円香さん……何か俺に隠してない?」
 びくりと、円香の表情が強ばった。しかしそれはほんの一瞬の事で、円香はすぐに笑顔を取り戻した。
「…………円香さん。俺……円香さんをそこまで追い込んだ奴らの事が憎い」
 やり場のない怒りが、武士の胸を焦がした。やり場がないのは、その怒りの矛先の大半が己自身だったかだ。
(どうして、もっと早くに――)
 学校帰りなどと生ぬるい事を言わず、それこそ最初から四六時中二十四時間佐々木邸の前で待ち伏せして、強引に円香を捕まえるべきだったのだ。
 それを怠ったばかりに、またしても――。
「一体今度は誰に何をされたの? まさか、また――」
 円香は無言で首を横に振る。
「武士くんが考えてるような事なんて何も無いよ。引っ越す事になったのは、動画の事が噂になっちゃったから、ただそれだけ。……身から出た錆だから、誰かを恨むとか、そういう事は無いの」
「……円香さん。………………俺、円香さんの為なら何でも出来る。……この言葉に嘘はないよ」
「武士、くん……」
「だから、もし――」
「……本当の本当に何も無かったの。……解って、武士くん」
 そっと、菩薩のような笑みを浮かべた円香にそう言われては、武士もそれ以上の追求は出来なかった。
(…………そんな筈、無い)
 と思っていても、有無を言わせないものを感じた。そう、武士の気持ちなど百も承知、全てを解った上で自分一人が泥を被ることを厭わない――そんな微笑みだった。
「……解った。……円香さんがそう言うなら、俺ももう……何も聞かない」
「うん。……ありがとう、武士くん…………」
 沈黙が、流れた。武士も、円香も黙ったまま、遠い山の端に日が沈んでいくのを見続けた。
「…………そろそろ、帰らなきゃ」
 思い出したように呟いて、円香は再びコジローの背を撫でた。
「ばいばい、コジロー。……あんまり武士くんに迷惑かけちゃダメよ?」
 呟きながら立ち上がる。コジローはきょとんと、かつての飼い主の悲しげな顔の意味を計りかねているように首を傾げた。
「武士くんも元気でね。……落ち着いたら、一度だけ無事だって連絡するね」
「……うん、待ってる。…………手紙でも、電話でも、メールでも……俺、ずっと待ってるから」
「もう……武士くんったら。そういう事言わないでよ……私、涙もろいんだから」
 くるりと、円香が顔を隠すように背を向け、歩き出す。その背を追おうと武士が足を踏み出した時――。
「ごめん、武士くん……一人で帰らせて。…………これ以上一緒に居たら…………もう、笑顔でなんか居られなく、なる……から」
「でも……」
「お願い……最後は、笑って別れたいの。……武士くんの中に残る私の最後の顔が……泣き顔だなんて……絶対に嫌なの。……だから、解って……」
「………………うん、解ったよ、円香さん。……元気でね」
 円香からの返事は無かった。武士は次第に遠ざかる円香の背を見ていられなくて、その場できびすを返した。頬を伝うものを拭いながら、武士は帰路についた。



 

 必死の虚勢だった。今の円香に出来る精一杯の演技――そう“元気なフリ”だ。本当は、もう二度と会うまいと思っていた。
 あの日、自ら手首を切り――そして、病院で目を覚ましてからは悪夢の連続と言ってもいい日々だった。
 連中からの悪意たっぷりのプレゼントは、事も在ろうに父親の会社にまで届けられていた。円香は父親と顔を合わせるなり、有無も言わさず頬を打たれた。一人娘故に蝶よ花よと愛でられ育てられてきた円香にとって、父親に手を挙げられたのはそれが初めてだった。
 家は、心ない者達の手によって見るも無惨に荒らされていた。とても住める状況では無く、父も母も一時的にホテルに避難していた。円香の退院と同時に、今度は母がノイローゼで入院することになったが、見舞いに行くことは父から頑なに禁じられた。
 警察と、そして産婦人科にも連れて行かれた。産婦人科には両親ではなく家政婦が同伴した。検査の結果妊娠はしていなかったが、心の痛みは前回以上だった。
 警察にも被害届は出したが、取り調べの際眞野の名前を出した途端、担当の刑事の顔があからさまに曇った。またか、とでも言いたげな顔だった。そこから先はけんもほろろで、捜査が進み次第連絡するという話だったが、その後の連絡は一度も無かった。――引っ越すしかないと、父親が言い出したのはその頃だった。
 引っ越しとは言っても、厳密には越すのは円香だけだった。母は入院中であり、父は仕事があるから動く事は出来ない。円香だけが、遠い親戚の家へと預けられる事となった。
 仕方がない、と思った。むしろそれでいいのだと。ここまで噂が広まってしまった以上、どのみちこの街で生きていく事は不可能だった。ならばもう、見ず知らずの土地でひっそりと暮らすか、あるいは――その二つの選択肢しか自分には残されていないと円香は思った。
 心残りは、無論ある。妙子の事もその一つだった。自分が交わした無責任な約束のせいで、僅かながらも妙子に不愉快な思いをさせるのは心苦しかった。そして、もう一つの心残りが――宮本姉弟の事だ。
 そう、心残りではあった。が、円香は何も言わずに去ろうと思っていた。何も言わなくとも家が空き屋となれば自ずと引っ越した事実は伝わるだろう。そうなれば、いつまでも自分の事など覚えては居ないだろう、きっとすぐに忘れてくれるだろうと。そう思っていた。
 しかし、円香は現実に武士に会ってしまった。コジローの餌やりにいった家政婦から、武士の話を聞いて居ても立ってもいられなくなってしまって、夜が明ける前から自宅の中に隠れ潜み、武士が来るのを待ち続けてしまった。
 会ってはいけない。自分から連絡を遮断しておいて、どの面下げて会えるというのか――解っていても、円香は自分の想いを止められなかった。追い立てられるようにして街を去る前に、もう一度だけ――無二と認めた恋人の顔を心に留めて置きたかった。
(……出来るなら――)
 もう一人、どうしても顔を見たい相手が居たが、円香は首を振ってその願望を打ち消した。未だに自分なんかを想ってくれている武士と違い、そちらは文字通り毛虫の如く嫌われてしまっている。顔を見に行った所で、微笑み一つ見る事は叶わないだろう。
(……武士くん、由梨と……仲良くしてくれてると、いいな)
 無責任だが、円香はそのことを願わずにはいられなかった。自分が無二と認めた者同士――矛盾した言い方だが――が顔をつきあわせ罵り合っている姿など円香は見たくなかった。例えそれが自分のせいでそうなったのだと解っていても。
(コジローの事なんかより、お姉さんと仲良くして、って……言えば良かった……かな)
 いつもこうだ――と、円香は自嘲気味に笑った。大事な事に、後になって気がつくのだ。
 円香は川縁を歩きながら、ふと顔を上げ、辺りを見回した。沈みかけの夕日に照らされた水面は綺麗で、土手では飼い犬と戯れている子供や、キャッチボールをしている親子の姿などがちらほらと見える。
 反対側へと目をやれば、どうという事のない、見慣れた町並みがそこにはある。生まれて十八年、円香が暮らしてきた街だ。何の変哲もない、何処にでもありそうな平凡な町並みだが、数日中にもこれが見れなくなるのだと思うと不思議と涙が零れた。
(……帰ろう)
 ホテルの部屋へ。じき日が暮れる。本来ならば、ホテルの部屋から勝手に出る事すら、父親から禁止されていた。今日の外出は家政婦が――ずっと両親の手先だと、円香は毛嫌いしていたのだが――円香に同情をしてくれ、父親には黙っていてくれると約束してくれたから出来た事だった。
 これ以上、何か問題を起こして彼女にまで迷惑をかけたくないと円香は思った。目尻に溢れていた涙をカーディガンの袖で拭い、円香は川縁の土手を後にした。――その時だった。
「えっ……」
 土手から降り、人気のない通りへと入るやいなや、一台のワゴン車が円香の真横に止まった。否、正確にはそれは停車ではなく、徐行だったのだろう。がらりと開いた後部座席のドアからいくつもの手が伸びてきて、円香は有無を言わさず車内へと引きずり込まれた。
「ぇっ、やっ……な、何っ!? いやぁぁあぁっ!!」
 円香はワケもわからず暴れ、そして叫んだ。――たちまち、その口に何か布きれのようなものが押し込まれた。
「コンバンワ、マドカちゃん。随分探したよぉ〜 全然家に居ないんだもん」
 そう言って円香の顔をのぞき込んでくるのは、見たこともない男だった。
「そーそー。あんな動画流して誘ってるクセに、家行っても居ねーんだもんな。競争率高すぎだって」
 車内には後部座席に二人、そして運転手が一人。全員見たこともない男だった。――否、一人だけ、円香は見覚えがあった。
「マドカちゃんさー、よくうちの店にドッグフード買いに来てたよねぇ。おっぱいデケーし、すんげー美人だからいつも犯りてぇなぁって思ってたんだぁ。……そしたらまさかあんな子だってなんてさぁ、ぶっちゃけちょっとショックだったよぉ」
 そうだ、この男は覚えている。コジローの餌をいつも買いに行っていたペットショップの店員で、釣りを渡す度にしつこく手を握られて辟易していたから円香も覚えていた。
「で、どうするよ。このまま車の中で犯っちゃう?」
「止めろよ、親父の車だから汚すと後がうるせーんだよ。いい場所知ってっから、着くまで我慢しろ」
「だってさー、マドカちゃん。もうちょっとだけガマンしてちょ」
 キモヲタメガネデブ――そんな形容がぴったりなペットショップ店員は下卑た笑みを浮かべながら円香の頬を舐め、服の上からひっきりなしに胸元をまさぐってくる。
(……やだな、私……また、犯されちゃうんだ)
 円香はさしたる抵抗もせず、まるで人ごとのようにそんな事を思った。
(……また、パパに殴られちゃうのかな…………痛いのは、嫌だな……)
 サカりのついた男達に対してどれほど抵抗しても、止めてくれるよう懇願しても無駄だという事は円香はもう解りすぎる程に理解していた。何より、この男達の目的はただ性欲の解消なのだろう。それならば、性欲さえ発散させてやれば思いの外あっさり自分は解放されるのではないか。少なくとも、眞野達に捕まって陵辱されることに比べれば、ただレイプされる事など今更どうでも良いとすら円香は思った。
 車は十分ほど町中を走り、漸く停車した。円香は二人がかりで体をしっかりと固定されたまま車から降ろされた。そこはどうやら潰れてしまった工場跡地らしく、灯りはおろか人の気配すら微塵もなかった。
 なるほど、女を連れ込んで強姦するにはなんともおあつらえ向きだと思った。円香は懐中電灯を手にした男達に連れられ、工場の中――元は作業員達の休憩室であったらしい和室へと連れ込まれた。
(あれ……?)
 ここにいたって、円香ははたと奇妙な感覚に囚われた。何だろう、これは――この場所は、確か前にも――
「お、おい……誰が最初に犯る?」
「俺に犯らせろよ、車出してやったんだから」
「馬鹿野郎! マドカちゃん見つけて連絡回してやったのは俺だぞ! 俺に犯らせろよ!」
 男達は頭を付き合わせるようにして揉め、最終的にはじゃんけんで順番を決めていた。その間、円香はただ黙って和室の畳の上に身を横たえ、思案していた。
 もし、自分の記憶が正しければ、この場所は――。
「おっし、一番乗りっ! 待たせたねー、マドカちゃん。たっぷりヒィヒィ言わせてやっからよぉ、一緒に楽しも――」
 円香の体に被さった男がそこまで口にしたとき、突然その背後から悲鳴が響いた。
 がつんっ、がっ。
 がきっ。
 何か堅い物がぶつかるような音と、男の悲鳴。円香に被さっていた男が慌てて背後を振り返る――その瞬間、凄まじい音と共に男の体が大きく泳いだ。
「……な、何だ……てめっ……はぐっ」
 がきっ――そんな音がして、さらに男の悲鳴が聞こえた。
「何だ、じゃねーよ。私有地に勝手に入って来てんのはテメーらだ、クズ共」
 闇の中から聞こえたその声に、円香の心臓が震えた。
 あぁ、そんな。
 この声は。
「さっさと失せろ、殴り殺されてぇか!」
 一喝。と同時に派手な音が室内に響き渡る。男達はひぃと悲鳴を漏らし、たちまち休憩室から飛び出していった。程なく、車のエンジン音が聞こえ、それが遠ざかっていくのが円香にも解った。
「…………やれやれ。退院したばっかの怪我人にあんま無茶させんなよな」
 人影が、円香の側に何かを放り投げた。それは所々変形してしまった松葉杖だった。ぱちりと、休憩室の灯りがつけられ、円香も――そして“相手”も互いの顔を確認した。
「……ああ、やっぱりマドカさんだ。………………ひょっとして、お邪魔だったかな」
「……宍戸………………くん……?」



 奇妙な気分だった。
「うちビンボーだから、こんなモンしか出せねーけど」
「……あり、がとう」
 円香は休憩室の畳部分の端――本来ならば靴を脱ぐ場所――に腰掛けたまま、わざわざ外の自販機で買ってきたらしいホットコーヒーの缶を受け取った。
 宍戸は自らもココアの缶を手にどっかりと円香の隣へと腰を下ろした。反射的に円香は宍戸から距離をとってしまうが、宍戸はそんな円香を見て口元に笑みを浮かべただけで特に何も言わなかった。
「……しっかし、なーんかうるせー連中が入ってきたと思ったら、見覚えのある女連れててびっくりしたよ。……マドカさんってさぁ、ひょっとしてホントは襲われるの大好きなんじゃないの?」
「……そんなわけ……ないじゃない」
「んじゃ、よっぽど隙だらけなんだ。宮本は気が気じゃねえだろうなぁ」
 意地の悪い笑みを零す宍戸に、不思議と円香も微笑みが漏れた。そうだ、確かにその通りだ。自分のような女がもし“彼女”であったならば、気が気でないかもしれないと、宍戸の言い分にある意味納得してしまったからだ。
「……で、何があったの、マドカさん」
「えっ……?」
「何か俺に言いたい事があるから、逃げないでここに残ったんじゃないの?」
 宍戸に指摘されて初めて、円香は己の行動の不可解さを理解した。そうなのだ、本来ならば――例え、強姦者達から助けてくれたとはいえ――この男と二人きりで密室に居る事などに、自分が甘んじる筈が無いではないか。
(どうして……私、逃げなかったんだろう)
 かつて、自分がこの男にされた事を思い返せば、逃げて然るべきだった。弱みを握り、精神的にも肉体的にも陵辱を加えてきた相手と一緒にコーヒーを飲みながら微笑んでいる自分が、円香には信じられなかった。
「……別に、言いたくねーっていうんなら、無理には聞かないけどさ」
「………………。」
 宍戸に言いたいこと――そんな事、あるはずがない。否、文句……罵詈雑言の類であれば、それこそ一昼夜続けられるほどの仕打ちは受けている。だが、円香の中ではもう、それは踏ん切りのついた事ではあった。
 そう、宍戸に受けた仕打ちなど、“あいつら”に受けた陵辱に比べれば――否、その考え方はおかしい。陵辱という意味では、宍戸のそれも大差ないではないか。
(いや……違う……)
 円香は思った。宍戸のそれは、まだ円香を女として――人間としてあつかったものだった。しかし、あいつらは――。
「…………マドカさん?」
 涙が、零れた。およそ、人を人とも思わないような仕打ちを、円香は受けた。どれほど懇願しても聞き入れられず、人としての尊厳を根こそぎ奪うような陵辱を二昼夜にわたって受けた。その子細など、両親は無論、警察関係者にすら言えなかった。ましてや、武士になど――。
「うっ……ううぅ……」
 一度溢れてしまえば、後は止めどなかった。隣にいるのがかつての陵辱者である事など関係が無かった。否、むしろそういう相手だからこそ、思い切って泣けたのかもしれない。
「うわぁぁっ……ぁぁぁぁぁぁああっ…………ぁぁぁ……」
 円香は、泣いた。子供のようにむせび泣いた。その背に腕が回り、まるで幼子をあやすように頭を撫でられた。それが何とも心地よくて、円香は体を預けるようにして泣き続けた。


 泣きながら、円香は語った。己が受けた仕打ちの一部始終、その子細に至るまで。
 悔しい――と、涙ながらに付け加えた。男達が怖くて、言いなりにしかなれなかった。数え切れないほどの屈辱、陵辱を受けた。悔しい、悔しくて堪らない、夜も眠れない程に。
「今でも……夢に……見るの……」
 円香は嗚咽混じりに、語る。
「あいつらに、囲まれて……嫌なこと、いっぱいされて……やめて、って頼んでも、聞いて、くれなくて……笑われて、辱められて……それに……お父さん達にまで……」
 円香は呻き、握った拳をだだっ子のように目の前の男の胸元へと振り下ろす。どんっ、どん、どんっ――宍戸はその拳を黙って受けた。
「……殺して」
 その声は、円香自身にも聞き取れないくらいかすれていた。
「あいつら、みんな殺してよ……前に、言ってたでしょ? もう、自分の人生なんかどうでもいい、死んでもいいって……だったら、その前にあいつら全員殺してよ! ごめんなさい、ごめんなさいって……謝らせながらっ……殺して、よぉ……」
 最後に振り下ろした拳には、もう力がこもっていなかった。とん、と軽く宍戸の胸板を叩いたそれはそのまま力無くだらりと下がった。
 ああ、自分はとんでもない事を口走ってしまった――円香は頭の中の冷静な部分でそんな事を思った。ごめん、いまのは無し、忘れて――すぐにそう言わねばと思うも、しゃくりあげるような嗚咽がなかなか止まってくれなかい。
「……いいよ」
 それは、思わず背筋が冷えるほどに――冷たい声だった。
「マドカさんが本気でそうして欲しいっていうのなら、やってもいいよ」
「えっ……」
 ゾッとするほど冷たいその声に、円香は怯えるように宍戸から身を離した。
「嬉しいなぁ。マドカさんが宮本じゃなくって、俺に“本音”を言ってくれるなんて。すごく嬉しいよ」
 そう、宍戸の言うとおりだ。先ほど口にしたのは紛れもなく“本音”だ。そして、絶対に……特に武士にだけは言えない、本音だった。
「あれ、前にも言ったよね? 俺がマドカさんにベタ惚れだって事」
「あれは……冗談、でしょ?」
「冗談じゃないって。……信用できないなら、今ここで自分の目でもくりぬいてみせようか。マドカさんの為なら何でも出来るっていう証として」
 それは、少なくとも円香には冗談などではない、本気の言葉に聞こえた。そして本来ならば、このような言葉を言う男を前にした円香は真っ先に嫌悪、あるいは怯えの感情が表に出る筈だった。
 しかし何故か、今に限ってそういった感情は皆無だった。むしろ、感動に近いものすら、円香は感じていた。
「マドカさんの為なら、本当にやってもいいよ? そいつら1人ずつ、ここに攫ってきてさ。マドカさんの目の前でたっぷりいたぶって殺してやるよ。ああ、死体の始末とかは気にしなくていいよ。倉庫の方いけば、人間丸ごと溶かせるような溶剤とかいくらでもあるし」
 宍戸はけろりとした顔で、まるで“今度の休みの予定”でも話すかのように続ける。
「そうだ、世話になってるバイト先の冷凍倉庫の中にぶち込むってのもアリだな。ガッチガチに凍らせた後、ブルーシートでくるんでハンマーで粉みじんに砕いて川に蒔いてやったら、マドカさんも少しは気が晴れるんじゃない?」
「し……宍戸、くん……?」
 円香は、改めて戦慄した。眼前の少年はやはりまともではない。自分は、とんでもない相手に“本音”を漏らしてしまったのかもしれない。
「……でも、ただ働きっていうのはさすがに嫌だな。…………そうだな、手付け代わりにキスさせてくれたら、マドカさんの望み通り、そいつら全員にマドカさんを襲った事を後悔させてから殺してあげるよ」
「っ……」
 ダメだ。
 断らなくてはいけない――そう思った。宍戸は異常者だ。或いは本当に、自分の願いを実行してしまうかもしれない。
 それだけは、ダメだ。人殺しなんて――
「本当? 本当に……キスしたら……」
「うん。……何でも、円香さんの望み通りにしてやるって」
 宍戸の指が円香の顎を捉え、そっと唇が近づいてくる。円香は、逃げようと思えばいくらでも逃げる事が出来た。しかし、唇が重なるその瞬間まで身動き一つしなかった。
 何故なのか、円香自身にも解らなかった。
「ぁ……んっ……ぁむっ……」
 それは、未だかつて円香が体験したことがない――と感じる程に――優しいキスだった。優しく、優しく、まるでボロボロに傷つき、ひび割れて今にも粉みじんになってしまいそうな円香の心そのものを労るような、そんなキスだった。
(ぁ……ぁ……)
 そのキスがあまりに心地よくて、円香は瞼を閉じ、そっと体の力を抜いた。宍戸に押されたのか、或いは重力が仕事をしただけなのか。円香の体はそのまま後方へと倒れ、畳の上へと仰向けになった。
「……マドカさん? ひょっとして……誘ってるの?」
 目を閉じたままでも、宍戸が苦笑しているのが解った。
「……マドカさんがそういうつもりなら、俺も気が変わっちゃいそうだな。前払いは、やっぱり……きちんとエッチで払ってほしいな」
「…………君なら、絶対そう言うと思った」
 今度は円香が苦笑する番だった。円香はそのまま右手を宍戸の後頭部へと添え、キスを再開した。


「あっ……ぁっ…………あぁっ……あんっ……」
 宍戸の愛撫を受け入れながら、円香は素直に雅な声を上げていた。かつての陵辱者とは思えぬ程にその手つきは優しく、円香は微塵も不快な思いなど抱かなかった。何よりもう、自分には操を立てねばならない相手もいないという事が、奇妙な程に円香を吹っ切らせていた。
 体中を愛撫され、一つずつ丁寧に服を脱がされながら、はたと円香は思った。このように、普通のセックスをするのは随分久しぶりだと。少なくとも、恭哉とのそれは円香はセックスだとは認めたくはなかった。
「……ありがとう、宍戸くん」
 そう、自分をちゃんと一人の女だと認めてくれているような宍戸の手つきに円香は感じ入って、ついそんな言葉まで漏らしてしまった。
「……?」
「……ちゃんと、優しいセックスも出来るなら…………最初から、して欲しかったな」
 きょとんと、目を丸くしている宍戸に対して、円香はそんな冗談めかした言葉をかけた。
「……ごめん。一応俺も、“初めて”だったからさ。慣れてなくって」
 宍戸が苦笑を漏らし、そして円香の上着を脱がにかかる。円香は上半身を起こし、カーディガンもセーターも一度に脱いだ。――その瞬間、宍戸の視線が左手に集まるのを円香は感じた。
「あっ、これ?」
 円香はそっと左手首の包帯を隠すように右手を添えた。
「ちょっと、料理の練習してて……包丁で切っちゃったの」
 宍戸は、何も言わなかった。無論嘘だということはバレているだろう。無言のままに、円香は再度畳の上へと押し倒された。
「んっ……やだっ……あんっ……!」
 ブラをはぎ取られ、両胸をやや乱暴に捏ねられる。かと思えば、母乳の滲んだ先端をちろちろと丁寧に舐められ、吸われた。
「あぁっ……んっ…………ね、もう……良いよ?」
 身じろぎしながら、円香はそっと宍戸の耳に囁いた。
「それに……あんまり遅くなると……また、パパに叱られるから……ね?」
「……解ったよ、マドカさん」
 円香は腰を浮かし、ロングスカートとストッキング、下着が脱がされるのを手助けした。そして自ら足を開き、宍戸が挿入しやすい様にした。
「んっ……!」
 先端が触れる。宍戸が腰を前に突き出してくると、忽ち下腹部に痺れにも似た快感が走った。
「あっ……ぁっ! あぁァッ……!」
 円香は自分でも驚くほどに声を荒げ、両手を宍戸の首にかけるようにして腰を浮かせていた。
「あぁ……久しぶりの……マドカさんの生マンコの感触だ……たまんねぇ……」
「もぅ……そういう事、言わないで……んっ……動いて、いい、よ……ンッ……ぁっ、あっ……」
 宍戸が腰を使い始めると、忽ち円香は声を荒げた。懐かしい――とは、余り思いたくはなかったが――中学生らしからぬその質量に、敏感な粘膜は否応なしに擦り上げられるのだ。
「あっ、あっ、あっ……あっ、ぁっ、ぁっ……!」
 時折腰を撥ねさせながら、円香は歓喜の声を上げた。以前抱かれた時のような嫌悪感も、そして後ろめたさも無い。純粋な快楽を、円香は求めた。
「……マドカさん」
「んっ……んっ……ちゅっ……」
 宍戸に促され、円香は唇を重ねた。最初にかわしたような、唇が触れ合うだけのものではなく、互いの舌を舐めあい、吸い合うようなキス。
「んっんんっ……ンンッ……あぁあっ……ぁっ……あッ!」
 キスの最中に、円香は不意に極みに達した。ヒクヒクと下半身が痙攣するように剛直を締め上げ、宍戸は呻くような声を漏らしてぎりっ、と奥歯を噛みしめた。
「すっ、げ……マドカさん、もうイッたんだ…………やっぱり、俺たち……相性抜群だね」
 宍戸の言葉に、円香は何も言えなかった。ただ、頬を赤らめて視線をそらした――それを宍戸が肯定ととったか、否定ととったかは解らない。
「マドカさん、後ろからシたい」
「……うん」
 円香は頷き、畳の上に四つんばいの格好になった。宍戸が後ろから被さるようにして、再度剛直を挿入してくる。
「ううぅうんっ……!」
 イッたばかりの敏感な粘膜を刺激され、円香は早くも腰砕けになってしまう。
(やっ……こんなっ……奥、まで……)
 以前は、ただただ不快だった。無駄に太くて堅く、エラのはったそれによって快楽を与えられる事自体が屈辱だと感じた。
 しかし、今は――。
「マドカさん……好きだ」
「えっ……やだっ……」
 被さるようにして耳元に囁かれたその言葉に、円香はゾクリと身震いをした。
「好きだ……宮本なんかよりも、絶対……俺の方が……マドカさんの事、好きだ」
「あァッ……!」
 宍戸の言葉に反応するかのように、円香の下腹部に収まっている剛直がむくりと質量を増す。
(やだ……嘘っ……凄く……感じる……ぁあァッ……)
 耳元に囁かれる宍戸の言葉が、ダイレクトに円香の体に作用しているかのように。
(また……嘘? それとも、本当……? ううん、もう……どっちでも、いい……)
 例え嘘でも構わない。もう、他人の心の真偽を計る事に、円香は疲れてしまっていた。そうやって解りもしないことに頭を悩ませるよりも、今こうして耳に囁かれている言葉のみを盲目的に信じてしまったほうが楽だと、円香は思った。
「あはぁぁぁっ……ぁあっ、ひんっ……ぁあっ……ぁあうっ……!」
 ぐり、ぐりと抽送の度に肉襞が擦られ、全身がとろけてしまいそうだった。そうしてとろけるような快感に翻弄されながらも、円香は頭の片隅のごく冷めた部分で、思った。
(…………あんなに……酷いことされた相手、なのに…………気持ちよくなれちゃうんだ)
 そのことで、自分を卑下する気は、円香には無かった。そう思うにはあまりに汚れすぎ、人間の――特に男の汚い面を見過ぎていた。
「くっぅっ……ンッ……ぁあっ……やっ……またっ、イく……イきそ…………あんっ!」
「っ……マドカさんって……イく前、……ヒクヒクって……なんかガマンしてるみたいに動くから……すぐ、解る……俺も、そろそろっ……」
 ぜえはあ、ぜえはあ――宍戸の荒い息が耳の裏側に掛かる。宍戸にしては随分早い――と円香は思った。以前陵辱された時などは、この倍、或いは三倍は射精に時間がかかっていたというのに。
「……解るよ、マドカさんの言いたいこと。…………自分でも、不思議だ…………マドカさんにちゃんと、好きって……告白したからかな?」
 そんなのは告白じゃない、と円香は反論したかったが、ひっきりなしに肉襞を擦り上げられていてとてもしゃべれなかった。円香に出来ることはただただ快楽に声を上げ、はしたなく尻を突き出す事のみだった。
「あぁっ……もう、ダメだ……出そう……マドカさん、中で良い?」
「……ンッ……ぁっ、んんっ……だめ、中は……あぁんっ……ぁっんっ、やっ……だめっ――」
 円香の制止も空しく、奥の奥まで剛直が突き入れられたその刹那、びゅくりと。
「あっ、あっ、あァァーーーーーーーーーーーーッ!!!」
 剛直が跳ね、どくり、どくりと牡液が注ぎ込まれる。円香はイきながら、その感触に身震いしていた。
「はーっ……はーっ…………マドカさん、ほんと……イくときマンコ痙攣させすぎだって……ガマンなんかぜってー効かねーって、これじゃ……」
 ぎゅっ、と円香の体を抱きしめるようにして、宍戸は最後の一滴まで注ぎ込んでくる。円香は特に抵抗もせずに、その全てを受け入れた。
「ねえ、マドカさん……もう一回いい?」
 胸元をむぎゅむぎゅとこね回しながら、まるで甘えるように囁かれたその言葉に、普通ならばふざけるなと怒鳴り散らす所だろう。
「今度は、マドカさんが上になって」
 しかし、円香は何も言わなかった。宍戸の言うとおり、仰向けに寝た宍戸の体を跨ぐようにして、再び剛直を自らの秘裂へと納めた。
「んんっ……あっ、ぁああっ……!」
 ずんっ、と先端が子宮口を押し上げるのを感じて、円香は声を漏らした。そのまま、ぐりんぐりんと腰をくねらせ、跳ねさせる。
「うっわ……す、げ……マドカさんの腰使いっ……くぁっ……おっぱいも、エロすぎ……」
 たぷ、たぷと跳ねる胸元に宍戸の手が這い、掴む。もぎゅ、もぎゅと捏ねるようにして揉まれると、円香もまた声を荒げた。
「ちょっ……マドカさん……マジ、それ、やばっ……締めたまま、動くのっ……ッやべ……さっき、出したばっかなのに……」
「……うん? もう……出ちゃいそうなの?」
 円香は悪戯っぽく、それこそ妖女の様に笑った。かつては散々に自分を陵辱した相手への、ささやかな……本当にささやかな反撃だった。
「はあはあ……やっべ……ちょっ、マドカさん……腰、止めっ……くっ……あぁあ…………!!」
 宍戸が制止を懇願するように円香の腰を掴む。が、円香は一切腰の動きをゆるめず、先端を子宮口に押しつけるようにしたまま腰をくねらせ続け、そしてびゅぐんっ、と。悲鳴と共に宍戸が射精をするのを笑みすら浮かべて受け止めた。
「あっ、んっ…………ふふっ、もう出ちゃったんだ?」
 余裕の笑みを浮かべながらもその実、円香自身も興奮の極みにあり、下半身を小刻みに震わせながら達していた。

 円香自身、最早己が何をしたいのか、その核心を完全に見失っていた。ただただ、本能の赴くままに快楽を貪り続けた。
 事が済んだ後は二人、身を寄せ合うようにして火照った体を冷ました。いい加減寒くなり始めた所でどちらともなく衣類を纏い始めた。
「……マドカさん、俺……考えたんだけど」
 服を着ながら、ぽつりと宍戸が漏らした。
「マドカさんの事は好きだけど、だけどさすがに人殺しはやっぱり出来ないよ。うん、よく考えたら、エッチ一回くらいじゃさすがに無理だ」
 円香は特に言葉を返さず、無言で着衣を続けた。宍戸がそのように言い出すのはある意味予想通りではあったし、さらに言うならば安心すらしていた。
「残念だったね、マドカさん。ヤラレ損になっちゃって」
「…………いいの」
 円香は靴下を履き靴を履きながら、ぽつりと漏らした。
「私、頭悪いの。……バカだから、何度でも騙されちゃうの」
 ああ言えば宍戸は自分が悔しがってまた泣き出すとでも思ったのだろうか。そうはいくかと、円香は半ば意地になって笑顔を零した。
「あー、でも……今度会った時にもう一回エッチさせてくれたら、考えが変わるかもしれない」
 そして、ぬけぬけとそんな事を言う年下の陵辱者に、円香は不思議な愛嬌すら感じてしまった。
「残念ね。……私、もうすぐ引っ越すの。……だから、宍戸君と会うのは……これが最後」
「ああ、そういえば……そんな事言ってたっけ。……しまったなぁ、だったらもう一回くらいヤッとくんだった」
「勝手に言ってなさい。……コーヒーごちそうさま。…………あと――」
「わーってるって。さっきの事、宮本には言うなってんだろ? 心配しなくたって、誰にも言わないよ。マドカさんが俺だけに話してくれた秘密なんだから。もったいなくってしゃべれるかってんだ」
 にやにやと、宍戸は心底嬉しそうにニヤついていた。円香は無視して休憩室を後にしようとして、はたと。出口で足を止めた。
「……ねえ、宍戸君」
「何、マドカさん」
「さっき言ったことだけど……その、本当に……止めてね?」
「……何のこと?」
「ひ、人殺しとか……しないでね?」
「して欲しかったら、今度は前払いでフェラして欲しいな」
「茶化さないで! ……本当に、絶対に……止めてね? 私は、私はもう……忘れるようにするから」
「くどいなぁ。……いくらマドカさんの為だからって、人殺しなんか出来るわけないだろ? いーから早く、俺が賢者タイムのうちに帰りなよ。じゃなきゃ、また襲っちまうよ?」
「………………うん。解ってくれてるならいいの。……タクシー呼ぶから、ここの住所教えてくれるかな」
「マドカさんにも一応学習能力ってモンがあったんだね。さっきそうしてりゃ、あんな連中に捕まることも無かったのに」
「……そうだね」
 でも――と、円香は密かに心中で呟いた。あの連中に捕まった事はともかく、この場所で、この少年と再会した事に関しては、後悔はしていないと。
「…………じゃあ、キミとも……これでお別れだね」
「どうかな。……ひょっとしたら、またすぐ会うことになるかも」
「……嫌よ。……キミの顔はもう、二度と見たくない」
 少し前までは、それは間違いなく円香の本音だった。しかし今はどうだろうか。少なくとも、以前ほどの嫌悪感は感じなくなっていた。
「…………さようなら、宍戸君」
 呟いて、円香は休憩室を後にした。



「よく撮れてるだろ?」
 男は両手両足を縛られ、コンクリートの地面の上に転がされていた。その眼前に、見覚えのあるカメラが置かれた。
 そう、間違いない。彼の取り巻きの一人が持っていたものだ。そしてそれは今、液晶画面を男の方へと向ける形で置かれていた。
『うわぁぁああっ、止めろっ、止めろぉっ! てめえっ、約束が違うじゃねえか!』
 薄暗い室内に悲痛な叫びが響き渡る。画面の中では同じく見覚えのある男が――随分と痛めつけられ、すっかり人相外見が変わってしまってはいるが――同じく縛られたまま狂ったように暴れていた。
 それもその筈だ。液晶画面の中にいる男はその下半身にある管を挿入されているのだった。その先にあるものは――消化器、だった。
『な、なぁ……じょ、冗談だろ? や、止めろよ……そんなモンっ――』
 怯える男をあざ笑うようにレバーが握られる。忽ち、凄まじい勢いで男の腹が膨らみ出し、およそ人のそれとは思えないほどの悲鳴がカメラのスピーカーから響き渡る。
『アギャァァァァァァァッ!!!!』
 悲鳴は、画面の片隅で消化器のレバーを握っていた手が離れても尚続いた。画面に写っている男の腹は見るも無惨に膨れあがり、今にも破裂しそうだった。太鼓のように膨らんだその腹目がけて、今度は木製のバットのようなモノが振るわれ、大きくめり込んだ。悲鳴が、さらに耳を劈く。二度、三度とバットがめり込むが、膨らんだ腹は今にも裂けそうで裂けない。代わりに、白目を剥いた男の口からポフンと情けない音を立てて白い粉のようなものが漏れた。さらに太鼓腹が殴りつけられると、次は白い粉ではなく、赤いものが溢れた。
「こいつにさ、色々聞いたよ。……なんでも、スゲー大物政治家の息子なんだって?」
 ぐしゃりと。唐突にカメラが踏まれた。踏んだのは、男をこの場所へと攫ってきた男――まだ少年とも言える――だった。
「おかげでさー、攫うのに随分苦労したよ。俺、まだ中坊だし、車の運転とかできねーからさ。なんとかあんたにうちの近くまで一人で来て貰う方法はないかって、コイツに知恵絞って貰ったよ。……まぁ、さすが医学生っつーか、いークスリもってんよな。おかげでこうして巧いこと攫ってこれたわけだけど」
 ごつん、と足先が男の頭を軽く小突く。が、男は特にこれといった反応を返さない。目は開いていてものも見えているが、それを理解するだけの思考力を与えられていないのだった。
「どうした、何か言えよ。意識はあるんだろ? まさかずっとこのままじゃねーよな?」
 どす、どすと体に蹴りをいれられるが、それは男に鈍い痛みしか与えなかった。ちっ、と少年が露骨に舌打ちをする。
「つまんねーな。まぁいいや、すこし時間をおけば意識も回復するだろ。…………その時が楽しみだ。俺のマドカさんを苛めた事を死ぬほど後悔させてやるよ」
 ごんっ。まるでサッカーボールでも蹴るように、男の頭が蹴り飛ばされる。堅いつま先が丁度左の眼球を直撃し、嫌な音を立てて潰れたがクスリによって殆ど仮死状態にされている男はうめき声一つあげなかった。
「……マドカさんを苛めていいのは俺だけなんだよ。泣かせていいのも俺だけだ。…………マドカさんは俺のモノだ」
 少年が呟いたその言葉はやはり、男には理解することが出来なかった。
 
 


 宮本由梨子は憂鬱だった。
 特に、学校からの帰り道、それは顕著だった。
(………………帰りたくない)
 家に近づけば近づく程に、足が重くなるのを感じた。だからといって帰らないわけにはいかず、由梨子は文字通り重い足を引きずるようにして自宅の門扉の前までたどり着いた。
「………………。」
 ちらりと門の脇へと目をやると、かつては無かった――しかし最早見慣れてしまった――犬小屋が目に入った。
「…………おいで」
 由梨子はしゃがみ、そっと手招きをした。犬小屋の中からのそのそと顔を覗かせた犬の頭を――ウェルシュ・コーギーという犬種だという事を、学校の図書館で知った――頭を丁寧に撫でた。
 由梨子は何故自宅の庭に突然犬小屋が置かれたのかを知らない。それ以前に、何故突然犬が飼われ始めたのかを知らなかった。ただ、そのどちらも弟が調達してきたという事だけは知っていた。
 弟――武士とは、“あの日”以来、一度も口をきいていなかった。否、それは正しい表現ではない。“一度も口をきいてもらえない”というのが真実だった。
(だって……まさか……武士の“彼女”が……あの人、だったなんて……)
 それは完全に由梨子の想像外の出来事だった。仮に少しでもその可能性を事前に考える事が出来ていれば、あそこまで我を忘れた行動はとらなかっただろうと、由梨子は詮無いことを思ってしまう。
 あの日、あの時。佐々木円香と数ヶ月ぶりに再会した瞬間、由梨子は反射的に頭に血が上るのを感じた。この女はよりにもよって弟にまで手を出したのかと。そのことが腹立たしいと同時に、ばかばかしくもあった。その腹立たしさの中には、円香にあっさりとたらし込まれた弟への怒りも含まれていた。
 目を覚まさせてやらなければと思った。この女の正体を暴き、見せつけ、別れさせなければと――しかし、その為にとった自分の行動は、決して褒められたものではないと由梨子は後悔していた。
(……よりにもよって、武士の……目の前で……あんな……)
 自分でも血迷ったとしか思えなかった。その直前に武士に痛いところを突かれていたから――そう言い訳をしたかったが、それは自分以外の誰にも通用しない言い訳であることも解っていた。
 今となっては、由梨子には果たして円香がどういうつもりで武士と交際をしていたのかは解らない。しかし、少なくとも武士の方は本気だったらしいという事は身をもって知っていた。
 何故なら――。
「おい、何してんだよ」
 怒りどころか、殺意すら感じさせるほどに低い声に、由梨子は慌てて背後を振り返ろうとした。最後まで振り返ることが出来なかったのは、それよりも早く突き飛ばされたからだった。
「痛っ……」
 およそ手加減などされていない手つきで突き飛ばされ、由梨子は家の塀に肩からたたきつけられ、悲鳴を漏らした。が、突き飛ばした本人はそんな事にはまったく頓着しなかった。
「汚ぇ手でコジローに触るんじゃねえよ」
「……ごめん……なさい……」
 由梨子はうつむいたまま消え入りそうな声で謝った。由梨子を突き飛ばした相手――武士はそんな由梨子の言葉などまるきり無視して、コジローのリードを外すとそのまま散歩に出てしまった。
(……ごめん……本当にごめんね、武士……)
 由梨子は痛む肩を押さえながら立ち上がり、そのまま玄関の中へと入った。武士の気持ちは、痛いほどに由梨子にも分かった。
 かつて自分がそうであったように、武士もまたそうなのだろうと由梨子は思っていた。自分が円香を嫌い、その姿を見る事も同じ部屋の空気を吸う事すら我慢ならなかった様に、武士にとって今まさに自分がそのポジションに据えられているのだろうと。
 そう、武士は本気だったのだ。本気で、佐々木円香の事が好きで、想っていた。その相手を悪し様に罵り、あまつさえ足蹴にした姉を絶対に許せないと憎むのは仕方のないことだと、由梨子ですら解る理屈だった。
(……ひょっとして、最初からこうなる事を狙ってたんですか?)
 ふっと、自嘲気味に由梨子はそんな事を考えてしまう。こうして自分たち姉弟を啀み合わせる事が、自分を捨てた相手に対する円香の復讐だったのではないかと。
(それとも――)
 自分が親しくしたいと思っている相手から毛虫の如く嫌われるつらさを味わわせたいという事だったのだろうか。どっちにしろ大成功だと由梨子は思う。そう、最早宮本姉弟の関係はどうにも修復できない程に壊れてしまったのだから。
(お父さんとも、お母さんともうまくいってない……弟からも嫌われて…………私……もう……)
 由梨子はもう、階段を上って自室に戻る事すら面倒に思えて、そっと居間のソファに腰を下ろした。惰性でテレビをつけると、丁度ニュースをやっていた。大学生四人が行方不明になっていて、うち一人が政治家の息子だということで大きく騒がれていた。
 由梨子はしばらく無感動にテレビを見つめ、そして程なく電源を落とした。


 

 

 
 

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