それは、最早日常、生き甲斐――とも言える作業だった。
「よっ」
 鍬を振りかぶり、下ろす。土を掘り起こし、再び振りかぶっては振り下ろす。慣れた動作は淀みなく、決して余計な力も使わないから、無駄に疲れたりもしない。
「ふぅ……」
 時折手拭いで汗を拭き、そしてまた土を掘り起こす。テンポ良く作業を進めていけば、畑の端にたどり着く頃には丁度昼飯時になる事を体が覚えていた。
 至極、終わりが見えてくると腹の虫が鳴り始める。後少し、もう少し……逸る気持ちを抑えながらも、決して雑な仕事はしない。それが、美味い作物を作る秘訣だという事を、月彦はこの十年で学んだのだった。
「よし、こんなモンか」
 畑の端へとたどり着くなり、月彦は地面に鍬を突き刺し、軽くストレッチをして体をほぐす。首を回し肩を回し腰を回して空を仰げば、真上に登った太陽が燦々と輝いていた。
 畑の側の小川へと下りて、手と顔を洗う。きらきらと光り輝く小魚たちを見ながら手と顔を拭き、川の水に浸しておいた竹筒を手に木陰へと戻る。
「こらこら、お前の弁当じゃないぞ」
 木陰の切り株の上に置いておいた弁当包みの隣で野ウサギが一匹、興味深そうに鼻をひくひくさせていた。月彦は笑顔でそっと追い払い、切り株に腰掛けて包みを開く。筍の皮で包んだ握り飯が空きっ腹に凶悪なまでに魅力的に見える。
「いただきます」
 筍の皮を開き、早速握り飯の一つにかぶりつく。ただ、中に梅干しが入っているだけの握り飯だが、労働を終えたばかりの体にはこれ以上ない馳走だった。片手では余るほどの大きさであったというのに、握り飯を食べる前よりも腹が空いたような気分になるのがその証拠だ。
 竹筒の茶を飲みながら、残りの握り飯を食べ終えてしばしの食休み。食べ物の匂いにつられたのか、雀が二,三匹膝へと下りてくる。月彦は皮に残っていた米粒を指先で掬い、雀達へと分け与えた。兎も、雀もさして人間を脅威としないのは、脅威とする程人を見た事が無いからなのだろう。
「長閑だなぁ……」
 眼前には、己自身の手で開墾した畑が広がっていた。山の斜面の草を抜き石を拾い、段々状の畑を作るのは本当に骨の折れる作業だった。それだけに、苦労して開墾した畑に対しては愛着もひとしおであり、ましてやその畑でとれる作物といったら何物にも代え難い格別の味だった。
 自分には、土いじりは合っているのかもしれない――と、月彦は思う。作物というのは手をかければかけただけきちんと答えを返してくれる。勿論巧く行かない事も多々あったが、それは手のかけ方が間違っていただけで、月彦がやり方を改めれば、やはり作物は答えてくれるのだ。
(それに……ここには台風も日照りもないしな)
 月彦は空を眺める。四季らしいものが在ることは十年の生活で解ってはいたが、度を超した天災めいた天気には一度も遭遇しなかった。お陰で季節事に安定した収穫が期待でき、食べるものに事欠いた事は一度も無かった。
 夏は日は照りつけるものの木陰は涼しく、冬も雪は降るが家の中は暖かい。春秋の過ごしやすさは言うに及ばず、食べ物には不足しない。まさにここは地上の楽園であると月彦は思う。
 勿論、慣れるまではそれなりに大変ではあった。テレビもなければ漫画もない、食い扶持を得る為に渋々農業に手を染めたものの、最初から何もかもうまくいったわけではない。何より、肉類や魚類を一切口にしてはいけないという掟も初めの一,二年は辛く感じたものだ。
 しかし、全ての不満は“慣れ”が解決してくれた。農業はやりこめばやりこむ程に時間を必要としたし、そのお陰で懐郷の念も次第に薄れていった。
(……そう、もう十年になるんだな……ここに来て……)
 月彦は不意に視線を落とし、己の手、体を見る。不老長生の水を煮炊きに使っているせいで肉体的な成長はここに訪れた時のままだが、実際にはそれだけの年月が経っているのだ。
(……ん、待てよ……十年……?)
 はたと、月彦は眉を寄せた。十年――その単語に、なにやらもの凄く引っかかるものを感じたのだ。
(……何か、大事なことを忘れているような……)
 畑の開墾や、既に植えた作物の世話。日常的な家事に、師匠の身のまわりの世話に追われ、何か重要な事を忘れてしまっているのでは――そんな気がして、月彦は入念に記憶を探る。
「まてよ……そもそも俺は、なんでこんな所に来たんだ……?」
 その疑念を解決する為には、十年前――月彦が初めて芳命山の門を叩いた日の事を思い出さなければならなかった。

 

 

 

 

キツネツキsp3

『月彦、仙人に弟子入りする』

 

 

 



 朝から調子が悪そうだとは思っていた。
「大丈夫……ちょっと寝不足なだけだから……」
 そう言って力無く笑う真央に一抹の不安を覚えたが、本人が大丈夫と言うのならばとさして気にもせず共に学校に行った。――そして、結果的にそれが仇となった。
 何となく虫の知らせのようなものを感じて、学校が終わるなり月彦は家路を急いだ。そして玄関を開けるなり、月彦は靴も脱ぎかけに廊下に伏している真央を見つけた。
「真央っ!」
 月彦は慌てて真央の体を抱き起こし、二階のベッドへと運んだ。その間、どれほど声を荒げて呼びかけても、真央は身じろぎ一つしなかった。
「こんな時に姉ちゃんも母さんも留守かよ!」
 月彦は真央をパジャマに着替えさせてベッドに寝かせ、大急ぎで水と氷を入れた洗面器とおしぼりを用意する。用意した後で、まだ真央に熱があるのかどうかすら確かめていない己の迂闊さに気がついたりと、その手際の悪さが心中の動揺を顕著に表していた。
「……熱は無い……かな」
 額を合わせてみても、特別真央の体温が高いとは感じない。むしろ、冷たいとすら思う。それは、真央の額だけではない、手も、足も、全てが冷え切っているように感じた。
「寒いのか? 真央」
 問いかけても、真央は呻き声ひとつ上げない。その顔は死人の様に白く血の気が失せて見えた。月彦に出来る事はありったけの毛布を真央にかけ、その手を握りしめてやる事だけだった。
(救急車を呼ぶか? ……でも――)
 果たして、病院に連れて行った所で治るのだろうか――その懸念を拭いきれない。しかし、いよいよとなればそれしか方法は無いと、月彦が己の無力さを噛みしめていた最中、“それ”は来た。
 コンコンと、窓をノックする音――その音がこれほど待ち遠しく思えたのは初めての事だった。
「月彦ー、ゲームやらせてー…………って、わわっ」
「真狐ぉぉおおおおおおおおおッ!!!」
 ぐわらと窓を開けて入ってきた女に、月彦は一も二もなく飛びついていた。
「ちょ、ちょっと、何よ急に……」
「いいから、こっち来てくれ早く! 真央がヤバいんだ!」
「真央が……?」
 眉根を寄せながら、月彦に促されるままに真狐がベッドを覗き込む――やいなや、その顔色が変わった。
「月彦、いつからこうなの?!」
 月彦の言葉に被せるように、真狐が声を荒げる。
「いつからって……朝から調子は悪そうだった。んで俺が帰ってきたら下で倒れてて……」
「馬鹿ッ!」
 ばちこーん!
 いきなり鋭い平手打ちをお見舞いされ、月彦の視界に火花が散った。
「痛ッてぇ! いきなり何す――」
「なんでこんなになるまで放っといたのよ! この子はまだ幼いんだから、アンタが気づいてやらなきゃダメじゃない!」
 己の数倍すさまじい剣幕で真狐に怒鳴り返され、文句を口にしかけた月彦は言葉を失った。
「すぐに下に行って、水を持ってきなさい! 早く!」
「わ、解った!」
 大あわてで階下へと降り、コップに水を汲んで戻ってくる。真狐はコップを受け取るなり水と丸薬のようなものを口に含み、口移しで真央に飲ませた。
 こくりと、真央の喉が動く。どうやら丸薬も巧く飲みこんだらしい。
「……これでしばらくは大丈夫な筈よ」
 真狐がほっと安堵のため息をつく。その様子に、さすがの月彦もただごとではないと察した。
「な、なぁ……真狐、そんなにヤバい病気なのか?」
 真狐からの返事はなかなか帰ってこなかった。その沈黙の長さが、否が応にも決して軽々しい病気ではないという事実を言葉以上に月彦に伝えた。
「………………この病気はね、真央みたいな半人半妖の混血児だけがかかる病気なの。解りやすく言えば、妖狐である私の血と、人間であるあんたの血が何かの切っ掛けで互いを拒絶し始めてる状態なのよ」
「血が……互いを拒絶……?」
「そう、今はまだ意識の混濁……眠ってるようにしか見えないけど、やがて高熱に魘されて、そして体の内側から徐々に腐り始めるわ」
 苦々しく言って、真狐はそっと布団の下から真央の右手を取り出し、その掌を月彦に見せてくる。
「それ、は……」
 真央の掌の中央辺りにどす黒いシミのようなものが浮かんでいて、月彦は言葉を無くした。
「壊死が始まりかけてるのよ。さっき飲ませた薬で少しはもつと思うけど……根本的な解決にはならないわ」
「そんな……治療法は! 治す方法はあるんだろ!?」
「…………治療法は無いわ」
「なん……だと……」
「どんな薬を使っても、症状を遅らせる事は出来ても治す事は出来ない。遅かれ早かれ、体が内側から腐って、内臓も骨もドロドロに溶けて死ぬしかないの」
「馬鹿言うな! 真央が……真央がそんな死に方をするって言うのか!?」
 月彦は真狐につかみかかるようにして声を荒げていた。突然、愛娘が不治の病にかかったと言われて、容易く納得など出来るわけがなかった。
「……でも、もしかしたら……アレを使えば……治せるかもしれないわ」
「……アレ?」
 真狐の言わんとする所が解らず、月彦は聞き返した。
「ねぇ月彦。あんた……真央の事は大事よね?」
「当然だ」
「真央の為なら……命を賭けられる?」
「……賭けられる」
「その言葉に嘘はないわね?」
「勿論だ」
「……あんたにその覚悟があるのなら、真央を助けられるかもしれないわ」
「本当か!」
 真狐は真央の方へと目をやり、そしてゆっくりと頷く。
「この病気には本来、あらゆる治療薬が効かないの。何しろ何が原因で血の拒絶が起きるのか、まだ誰にも解ってないんだもの。……でも、たった一つだけ……アレなら、“シントウ”を手に入れる事さえ出来れば、治せるかもしれないわ」
「シントウ……? それは何処に行けば手に入るんだ?」
「秘境の果て、芳命山に住む仙人から貰ってくるのよ。月彦……あんたがね」
 



 暗闇の中で、月彦は胡座をかき、そして思案していた。
『いい、月彦。私が芳命山の近くまでは送ってあげるけど、そこから先はあんた一人で行かなくちゃいけない。仙域には、妖気を持った者は近づけないの』
 脳裏に、真狐の言葉が蘇る。真狐が言うには、真央の病気とやらを治すためには芳命山という場所に住む仙人に会わねばならないのだという。
『先に言っておくけど、仙人って呼ばれてる連中はどいつもこいつもロクでもない人種よ。馬鹿正直にシントウをくれって言っても、まず間違いなく断られるか、代わりに無理難題をふっかけられるわ』
 どんなにロクでもない相手でも、お前と交渉するつもりでやれば釣りがくるんじゃないのか?――そんな言葉が念頭に浮かんだのだが、月彦はあえて黙った。真狐の顔が、軽口を叩けるような事態ではないことを示していたからだ。
(アイツも真央の事が心配なんだろうな……)
 事実、対応策が決まってからの真狐の動きは早かった。月彦も言われるままに旅支度をまとめ、真狐から“切り札”とやらの入った紙袋を渡された後、いつぞやと同じように瓢箪の中へと吸われたのだった。
「……切り札ねぇ……」
 月彦は手の中に在る紙袋をガサガサと触ってみる。仙人に会うまでは絶対に袋を開けるなと言われているから、外側から触って中身を確かめようとしているのだが、入れ物といい感触といい重さといい、どうにも貴重品とは思えない。
(…………まさか、俺を騙す為の壮大なドッキリって事はないよな)
 真央も一役噛んでのドッキリを過去に仕掛けられた月彦としては、どうしてもその類の懸念を捨て去る事が出来ない。
(この瓢箪から出されたら、またプラカード持った真央がニコニコしながら立ってたりして……)
 もしそんな事になったら、本格的に真央の教育方針を考え直さねばならないだろう。そして、ドッキリを企画したであろう張本人との付き合いも。

 どれほど暗闇の中で思案していただろうか。突然天井に向かって吸い上げられたと思った時には、ぺいっ、と月彦の体は外へと投げ出されていた。
「……ってぇ……何処だ、ここは……」
「秘境の果て、仙域との境目よ」
 真狐に言われて、月彦は周囲を見渡した。辺り一面、不気味な形の木々に覆われた森のど真ん中のような場所だった。しかも、いつの間にか夜になってしまっていたらしく、月明かりによって浮き彫りにされた木々の濃い影が森の不気味さを一掃際立てていた。
「月彦、ここから先はあんた一人で行くのよ」
 真狐はそう言って、掌に握り拳ほどの炎を作り出し、月彦の目の前にフワリと浮かせた。
「これが道案内。この炎は仙気に反応して翳るから、炎が弱まる方向に向かって歩きなさい」
 どうやら炎は月彦の動きに応じて動き、かならず体の前方へと位置どるものらしかった。何歩か歩き、体の向きを変えたりして月彦はその事を確認した。
「解った。炎が弱まる方向に歩けばいいんだな」
「ええ。芳命山まで一体どれくらいかかるのか、私は行った事がないから解らないけど、そう遠くはない筈よ。だからってちんたら歩いて間に合わなかったらどうなるか――解ってるわね?」
「……ああ、解ってる」
 頷いて、月彦はナップサックを背負う。ずしりとした重みが、そのまま愛娘の命の重さのように感じた。
「私はここであんたの帰りを待ってるわ。但し、七日間だけよ」
「……どうして七日なんだ?」
「それが、私が飲ませた薬で延命できるギリギリの日数だからよ」
 成る程。つまり真央の命を助けられないのならば、紺崎月彦という男がどうなろうと知らぬ。この異境でどうとでも朽ち果てろという事だ。
「了解だ……って、ここまではどうやって戻ってくりゃいいんだ? 今度は炎が強くなる方にでも歩いてくりゃいいのか?」
「バカ、仙気に反応して翳る炎が仙人と会った後に残ってるわけないでしょ。帰りの事は仙人様に何とかしてもらいなさい。一応元は人間なんだから、仙域の端くらいまでは送ってくれるでしょ」
「……なんか行き当たりばったりな気がするが、とにかく仙人に会って、シントウってのを貰ってくればいいんだな」
「七日以内にね」
「解った、じゃあ行ってくる」
「……ちょっと待って、月彦!」
 颯爽とした第一歩を踏み出すなり、いきなり真狐に呼び止められた。
「言い忘れたけど、この森も当然普通じゃあ無いわ。サトリの森って言ってね、喋る猿共が幅を利かせてる森なのよ」
「サトリ……って、心を読むっていうアレか?」
「そうよ。ただ、さすがに仙域に住んでるだけあって、そんなに目立った悪さはしないとは思うわ、それでも嫌がらせみたいな事はしてくるかもしれない」
「……対策は、何かあるのか?」
「無視することね。多分、あの手この手であんたを引き返させようとしたり、迷わせようとしてくるだろうけど、力は弱いから直接危害を加えようとはしてこない筈よ。あんたは耳を塞いで、目の前の炎と足下だけ気を付けて歩けば、それでいいわ」
「無視すりゃいいだけなら簡単だな。まかせとけ」
 じゃ、と手を軽く振って月彦は再度歩み出す。――「月彦、」と今度はえらく小さな声でまたしても呼び止められた。
「死ぬんじゃないわよ。あんたが死んだら、真央が悲しむわ」
「……ああ、絶対に生きて帰る」
 帰って、あの愛らしい真央の笑顔をもう一度見る迄は意地でも死ぬわけにはいかない。月彦は真狐に背を向けたまま答えて、鬱蒼とした森の中へと入っていった。


 




 ゆらゆらと揺れる赤い炎を見つめながら、月彦は可能な限り先を急ぐ。“炎が弱まる方角”を見誤らぬ様、細心の注意を払いつつ、枝葉をかき分け闇の森の奥へと進む。
(ここが秘境……いや、仙域の入り口――か)
 時折、不気味な動物の鳴き声らしい物音も聞こえたが、そんなもので足を止めるわけにはいかなかった。炎によって照らし出された木々のシルエットも、どれも常軌を逸したようなデザインのものばかり。それらに加えて大人がまるまる入りそうな巨大な繭が木の枝を撓らせていたり、明らかに熊のそれよりも大きいと思われる爪痕が木の幹の残っていたりと、愛娘の命さえ懸かっていなければ今すぐにでも回れ右をしたくなるような場所だった。
 地面では木の根が幾重にもうねり、注意して歩かなければ即座に足を絡め取られそうだった。足など挫こうものならば全てが水泡に帰してしまう。焦らずゆっくり、確実に急ぐ――そうやって二時間ほども歩いた頃だろうか。
「『もう二時間は歩いたかな』って思っただろ」
 不意に、闇の中から声が聞こえた。月彦はハッと足を止め、咄嗟に身構えた。
「『何だ今の声は』って思っただろ」
 そしてまた闇の中から声。およそ人間の出すような声ではない。例えるなら、猿ぐつわをさせた猿に無理矢理人語を喋らせたような声だった。
「『変な声だな』って思っただろ」
 今度は別の方向から同じような声が聞こえた。
(成る程、こいつらが真狐が言ってた奴らか)
 サトリ――その名は月彦も知っていた。人の心を読むという妖怪の名だ。
「『こいつらがサトリか』って思っただろ」
 また、別の方向からの声。月彦は真狐に言われたとおり、無視して歩き出した。途端、げらげらと辺り一面に笑い声が木霊する。
「馬鹿な男」
「何度でも騙される阿呆」
「救いがたい間抜け」
 ゲラゲラという笑い声に交じって、そんな言葉が聞こえた。が、当然月彦は無視する。
「この森に出口なんか無い」
「仙人なんか居ない」
「全部お前を騙す為の芝居」
 ざわざわと草木をかき分けるような音と共に、サトリの声が四方八方から聞こえてくる。
「娘も本当は病気なんかじゃない」
「全部あの女の作り話」
「騙されて、また虚仮にされる」
「っっっ……黙れ!」
 サトリ達の声を無視しきれず、月彦はつい叫んでしまった。途端、ゲラゲラという笑い声が一際大きくなる。
「お前もうすうす気がついているんだろう? あの女は信じるに値しない」
「今まで何度騙された? 今度もそうだと何故解らない?」
「だから玩具にされる。死ぬまで騙され続ける」
 ギリッ、と月彦は奥歯を噛みしめる。成る程、厄介であると。そう思わざるを得なかった。
(ただ心を読むだけじゃない……こいつら、俺の疑念懸念まで読みとってやがる……)
 即ち、また真狐に騙されているのではないか――そんな疑いの念まで読みとり、揺さぶりをかけてきているのだ。
(確かに、そういう不安はある……現に、アイツはそれだけの事をやってきた)
 真央まで共犯になって騙されたこともある。今回もそうではないとは決して言い切れない。
 しかし。
「……もし、そうじゃなかったら……真央が手遅れになっちまうだろうが!」
 騙されているだけなのかもしれない。だがもしそうじゃなかった場合、本当に真央が病気で、治療薬が必要だった場合。その際のリスクを考えると、月彦としては疑いつつもこうして前に進むしかないのだ。
「帰れ」
「帰れ、仙人なんか居ない」
「帰れ、帰れ」
 揺さぶりから一転、サトリ達のシュプレヒコールが始まる。心を読む妖怪だけに、月彦の信念がどれほど固いかも即座に伝わったらしかった。
(生憎だな、お前達がそうやって嫌がれば嫌がるほど、尚更この先に仙人が居るって確信できるんだぜ?)
 月彦は笑みすら浮かべて、炎の揺らぎを目印に歩く。いつしか周囲を取り囲んでいた笑い声が静まりつつあった。
「こいつ、つまらない」
「つまらない」
「つまらない」
 口々に言いながら、辺りから気配が一つ、また一つと消えていく。月彦は構わずに歩き続け、いつしか真狐に貰った炎はライターのそれ程にまで縮んでいた。
「ンッ……なんだ……」
 不意に、前方から強い光を感じて、月彦は咄嗟に手を翳した。木々の合間から漏れるその光はどうやら朝日のそれのようだった。それらは進めば進む程に視界を白く染め上げ、目映いばかりに月彦の体を照らした。
 どうやら、森を抜けたらしい――月彦がそのことに気がついた時には、真狐に渡された炎は何処にも無くなっていた。



 森を抜けた先に待っていたのは、左右を切り立った崖に挟まれた峡谷だった。道案内の炎が消えてしまった以上、月彦としてはとりあえず道なりに進むしか手がなく、一晩中歩き通した疲労と睡魔に堪えながら必死に歩を進めた。
 最初こそ平坦であった峡谷の道も、次第に上り坂、それも進めば進む程に傾斜はきつくなっていった。時折転がり落ちてくる己の頭ほどの石を避けながら、息を切らせて登り続ける。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……くっそ、……なんだ……空気が薄いのか?」
 登り初めて半日も経った頃だろうか。無性に息苦しく、しかも足を止めて体を休めてもなかなか呼吸が戻らなくなっていた。
「くっ……本当に仙人なんか居るのかよ…………洒落にならねぇぞ」
 ぜえはあ、ぜえはあ。
 吸えども、吸えども体が欲している酸素の量にまるで足りず、それ故に月彦は思わず胸をかきむしりたくなる程の息苦しさに苛まれ、それらに併発されて頭痛すら覚えながらも道なりに山を登っていく。
 次第に意識は朦朧とし始め、さらに道幅までもが狭くなる。右側は岩壁、左側は目も眩むような崖。道幅は――否、既に道とすらよべないほどの、月彦の靴の横幅ほどしかない道を、トカゲのように岩壁に張り付きながら、月彦はすり足で進んでいく。
(真央……俺は、絶対に生きて戻るからな…………生きて、“シントウ”ってヤツをこの手に……ッ……)
 今にも谷底へと落ちてしまいそうな混濁した意識の中、月彦はただひたすらに愛娘の無事を願い、歩を進めた。

「あれは……ッ……」
 岩壁に張り付きながら、すり足で進む事さらに半日。漸く道幅が普通に歩ける程にまで広がり、さらに傾斜までもが徐々に緩やかになり始めた頃。前方に白いモヤのようなものが見えた。
 それは霧ではなく、どうやら雲のようだった。ろくに視界が利かぬその白いモヤの中を慎重に進んでいくと、遙か前方の方にうっすらと何かが見えた。月彦は疲労困憊の四肢を奮い立たせてさらに進み、それが門であると解るとさらにペースを上げた。
 しかし、急げども急げども門はなかなか近づいてはこない。それもその筈だと、月彦は実際に門の根本までたどり着いて漸く理解した。
 それは、月彦の身長の二十倍はあろうかという朱塗りの立派な楼門だった。
「着いた……のか?」
 この山に本当に仙人が住んでいるのならば、この門の向こうに居る事は間違いないだろう。だがしかし、どう見てもただの人間が開けられるような類の門扉には見えない。
「…………。」
 月彦はしばし首を捻り、結局他に手などないという事で思いきりノックをしてみる事にした。
「すみませーーーーん、ここを開けてくれませんかぁーーー!」
 疲労は極限にまで達し、最早満足に歩くことすら出来ない状態で、月彦は精一杯声を張り上げ、どん、どんと門扉を叩く。が、返事はない。返事はないが――。
「あっ……」
 門扉の片方がぎぎぎと軋むような音を立てて内側へと僅かに開いた。僅か、とはいえ門の巨大さを考えれば人一人がすり抜けるには十分な隙間だった。
 月彦はそっと中を覗き込んでから、慎重に門扉を潜る。門扉の向こうはさらに霧がかかったように白く、月彦は手探りしながら進んだ。
(あれ……また門が……)
 先ほどの門が巨人用の楼門だとすれば、次に現れたのは“人間用”の楼門だった。門扉は片方だけ開かれていて、月彦はそこを潜ってさらに霧の中を進んだ。
(これは……滝の音……か?)
 ドドドドドド――そんな凄まじい音が次第に耳に届く。近くに滝でもあるのだろうかと思った瞬間、まるで強風でも吹いたかのように唐突に辺りから霧が消えた。
「こりゃっ」
 突然、上方から声が聞こえたと思った瞬間、ごちんと。堅い何かで頭を小突かれた。
「門を通ったらちゃんと閉めんか! この馬鹿者がッ!」
「痛っ……た……ぇ……?」
 しゅたんっ、と目の前に降り立った人影を、月彦は頭を押さえながらまじまじと見つめた。
 身長は、月彦の半分ほど。
 頭は見事にはげ上がり、その代わりにとでもいうかのように目元を隠す程のたっぷりの白マユゲと、地面に届くほどの白髭。
 白い、ボロとも布きれとも着かぬ衣類からにょきりと生えた枯れ枝のような手はアカザの杖を握りしめ、しかもよく見れば地面に立っているのではなく、小さな雲の上にその人影は立っていた。
(うわぁー……)
 なんとまぁ白々しいくらいに仙人なのだと、月彦は一見して思った。眼前の人物のあまりの姿に奇妙な恥ずかしさすら憶えた。
「白々しいくらいに仙人だな――と、思ったじゃろう?」
「ッ……!?」
 突然背後で聞こえた声に反応して、月彦は咄嗟に振り返った。そして、振り返るなり――
「げぇッ、真狐!?」
 悲鳴を上げ、卒倒した。
「あ、おい! こらっ、しっかりせんか!」
 がくがくと体を揺さぶられるも、長旅の疲れも相まって月彦が眼を覚ます事はなかった。その唇からは「騙された……また騙された……」とうわごとのように呟きながら、月彦の意識は深い谷底へと落ちていった。



 酷い夢を見た。
 具体的な内容までは思い出せない、とにかく酷い夢だった。
(畜生……まただ、また騙された……)
 半分夢で半分現――そんな半覚醒のような状態の脳裏に、意地の悪い笑みを浮かべた一人の女の顔が浮かんだ。
「真狐、てめぇまた騙しやがったな!!!」
 途端、月彦は布団をはね除けて飛び起きた。飛び起きて初めて、自分が見慣れぬ部屋に寝かされているのだと気がついた。
「やっと目を覚ましたか」
 背後から聞こえた声に反応して、月彦は布団の上で膝立ちになり、身構える。壁の中央辺りにぽっかりと口を開けた窓枠に腰を掛け、赤い髪の女がぷかぷかとキセルを吹かしていた。
「人の顔を見るなり気絶するとは失礼な奴よ。近頃の男は肝っ玉が小さいのう」
 かんらかんらと笑うその女の顔を月彦は凝視する。
(真狐……? いや、違う……)
 似ている――というほど似てもいない。まず、髪の色からして違う。女の髪は艶やかな赤の長髪であり、それを後ろで一つにくくっていた。顔立ちも美形ではあるが、あの底意地の悪さがにじみ出た顔とは似ても似つかない。
 辛うじて服装の色合いこそ似ていると言えなくもないが、和装というよりはチャイナドレスのそれに近い服装だった。さらには脇の下から間を抜け、さらに頭の後ろにかけて、白い帯のようなものがフワフワと浮いていた。どういうものなのかはさっぱり分からないが、月彦の頭に真っ先に浮かんだ単語は“羽衣”だった。
(あれは……入れ墨……か?)
 さらによく見れば女には頬や額、開いた胸元や腕などに紫色の線のような入れ墨らしきものが走っていた。見れば見る程に、真狐とは似ても似つかず、見間違えてしまったのか首を捻るばかりだった。
(……しいていうなら、胸……か)
 女もまた、露出の多い格好であり、チャイナドレス(風の服装)のスリットは深く、組んだ足は太股の付け根あたりまで白い肌が露出していた。開いた胸元の白い谷間にも濃く影が落ちており、月彦の乳ランキングの中でもかなりの上位に来る逸材ではあるのだが、それでも真狐に及ぶ程ではない。
 月彦がそのようにしげしげと分析をしていると、いきなりぽーんと女の方から黒っぽい塊が投げつけられた。月彦は反射的に掌でそれを受け止め――
「うぁじッ!」
 掌を火傷して漸く、それがキセルの中に溜まっていた灰だと気がついた。
「い、いきなり何すんだよ!」
「今、ロクでもない事を考えたであろ」
「……ッ……!?」
「全く、人の顔を見るなり気を失う。意識を取り戻せば真っ先に他の女との乳くらべとは。昨今の若い男は皆こうなのか?」
「俺が考えてる事が……解るのか?」
「当たり前じゃ。心くらい読めぬ様では仙人とは言えぬ」
「仙人って……あれ、じゃあさっき会ったあの爺さんは――……幻、ってことか」
 眼前の女に尋ねる迄もない。こうして顔を合わせている相手が、自分が仙人だと言っているのだ。
「ふむ。それなりに頭は柔らかい様じゃの」
「ええ、まぁ……家庭の都合上……」
 この年にして同年代くらいにしか見えない娘を持てば、多少の非常識には慣れるというものだった。
「良い良い、深くは聞かぬ。見たところ仙気はおろか霊力すらも持たぬ凡人であろうに、よくぞ秘境を抜けて参った。さぞかし決意も固い事じゃろう、望み通り弟子にしてつかわすぞ」
「え、あの……ちょっと、仙人さま?」
 なにやら話が妙な方向に転がり始めたのを感じて、月彦は慌てて声を出した。
「ええと、俺は別に弟子にしてもらう為に来たわけじゃないんです」
「……何じゃと?」
 ぴくりと、女が片方の柳眉を跳ね上げて露骨に不機嫌そうな顔をする。
「俺がここまできたのは、シントウという物を頂くためです」
「シントウじゃと……!? お主、それが何か知ってて言っておるのか?」
「いえ……ただ、娘の病気を治すにはそれが必要だと聞いたので」
「ふむ……。確かにシントウには万病を癒す効能もあるが……」
 じろじろと、女はなんとも興味深そうな目で月彦を見る。
「成る程のう、娘は妖狐との混血か。そしてシントウが必要となれば……ふむ、確かに一刻を争う病状じゃの」
「ッ……また、俺の心を……」
「安心せい、読めるとはいえ断片的な事だけじゃ。……尤も、お主の体に直接触れた上本気で読もうとすれば――何もかも解るであろうがのう」
 女はかんらかんらと笑い、そしてポムとキセルの灰を外へと飛ばす。
「お主、ここに来るまでにサトリに出会うたであろ?」
「ええ……森の中で散々嫌がらせを受けました」
「それが連中の役目じゃからの。あれらは儂の“ぺっと”でな。生半可な覚悟で来る者は連中に追い返して貰っておるわけじゃ」
「成る程、だから“帰れ”と……」
 確かに仙人側としては、中途半端な用向きで尋ねてくる者達の相手はしていられないのかもしれない。
「とはいえ、ここ五百年ほどはその“中途半端な覚悟の者”すらも訪れんでのう。些か退屈しておった所じゃ。そうでなくては、儂自らが門まで出迎えてなぞやるものか」
 お主は果報者じゃぞ、と女は付け加える。
「しかし困ったのう。弟子になりたいというのならば一向に構わんのじゃが、まさかシントウをよこせとは……儂がシントウの番人に任ぜられてから八百年、斯様な用件で来た人間はお主が初めてじゃ」
「何とかお願いします。七日以内に戻らなければ、娘が死んでしまうんです」
「ふむ……しかし規則でな、シントウは人間には渡せぬのじゃ」
「そんな……! そこを何とかお願いします!」
 月彦は畳に手を突き、額を擦りつけるようにして懇願する。
 が。
「……無理じゃ。規則を破れば、儂とて罰せられる。娘の事は気の毒じゃが……」
「お願いします!」
 月彦は一度顔を上げ、再度畳に額を擦りつけながら懇願する。しかしそれでも、眼前の女の態度に変化は無かった。
(……そうだ!)
 その瞬間、月彦は思い出した。真狐から渡されたあの紙袋、仙人がゴネたらこれを渡せと、真狐は言っていた。
(荷物、俺の荷物は……)
 辺りを見渡し、布団の側に見慣れたナップサックが置かれているのを見つけて、月彦は大急ぎで紙袋を取り出し、女の方へと差し出した。
「これを差し上げます、どうか……シントウを下さい!」
「……何じゃ、これは」
 女は袋を受け取り、怪訝そうな顔をしながら中を覗き込む。――が、くんくんと鼻を鳴らすなり、態度を一変させた。
「こ、これは……お主、これを儂にくれるというのか!」
「ええ……そのつもりで持ってきました」
 女はさらに黄色い声を上げ、袋を逆さにして中に入っていたものを畳の上にぶちまけた。袋に入っていたであろうそれらを見るなり、えっ……と月彦は眉を寄せた。
「本当に、本当に貰って良いのじゃな? 後から返せと言われても返さぬぞ!」
 女は鼻息荒くそう言うと、袋の中に入っていたチョコバーの包みを開いてむしゃぶりついた。
「あぁぁ…………甘い、甘いぞぉぉ……あぁぁ……なんと背徳的な味じゃぁぁぁ…………」
 ウルウルと目を潤ませながらむしゃむしゃとチョコバーを囓る女を尻目に、月彦は己の目を擦ってもう一度真狐に持たされた“切り札”達を見た。
 あめ玉、糖衣ガム、グミ、粉ジュース、素材の怪しい干物の刺さった串等々。それらはどこからどう見ても駄菓子屋で適当に見繕ってきたとしか思えない菓子の塊だった。
「おぉ……このなんとも甘く、まったりとしてとろけるような口当たり…………堪らぬ! もっと、もっと他には無いのか!?」
「あ、いえ……持ってきたのはこれだけで……すみません」
「そ、そうか……いや、良いぞ……お主、なかなか見所がある……儂の元で励めば必ずや良い仙人になれるであろう」
 ふーっ、ふーっ……まるでマタタビを嗅いだ猫のように鼻息を荒くしながら、女はそそくさと菓子類を紙袋に戻すとそれを懐に――とてもそんな場所に収まりきるような体積では無かったのだが――しまった。
(駄菓子好きの仙人……か……)
 真狐が何故、仙人に会うまで袋を決して開けるなと言ったのか、その意味を今更ながらに月彦は理解した。仮に真狐に紙袋を渡された段階で「仙人は駄菓子が好き」などと聞かされても信じることなど出来なかっただろう。
(この人だけが好きなのか、それとも仙人全部が……)
 仙人とは高尚な存在であると思っていた月彦としては、せめて前者であって欲しいと願うばかりだった。
「あの、それで……シントウの件ですけど」
「あ、あぁ……そうであったな。シントウが欲しいか……ううむ、弱ったのう……却下するべきなのであろうが、賄賂を受け取ってしまった以上、無碍にも断れぬ……」
 おお、駄菓子がちゃんと効いている!――女のひどく狼狽した顔を見て、月彦は期待を抱かざるを得なかった。こんな事ならば一気に渡さず、段階を踏んで渡していれば意外に簡単にシントウとやらは手に入ったのではないか――そう思える程に、女は迷っていた。
「……うむ、色々考えてみたが、やっぱり無理じゃ。諦めよ」
 しかし、女の悩みは長くは続かなかった。突然けろりとした顔でそのような事を言われ、月彦は思わず畳に頭から突っ伏した。
「ちょっ、仙人さま! 俺は賄賂まで渡したんですよ!?」
「なんと言われようとも、規則は規則じゃ。人間にはシントウは渡せぬ…………待てよ」
 はっ、と。女の頭の上に電球が輝くのを、月彦は見た。
「そうじゃ……この手があった!」
「どんな手ですか!?」
「うむ、お主が儂に弟子入りするのじゃ」
「……弟子になる気はないと言った筈ですけど」
 この人、本当はボケてるんじゃなかろうか――そんな事を考えた瞬間、またぽーんとキセルの灰が飛び、月彦の頭を僅かに焦がした。
「うあぢぃ!」
「良いから聞け! お主が弟子入りし、そして晴れて仙人となった暁にはお主にシントウを渡しても儂はなんら咎めは受けぬ。人に渡してはいかんという規則はあるが、仙人に渡してはいかんという規則はないからの」
「成る程……解りました、弟子になります。だからすぐにシントウを下さい!」
「待て待て、事はそう簡単ではない。弟子にしてやる事はすぐにでも出来るが、すぐに仙人になれるかはお主の心がけ次第じゃ。……そうじゃのう、短く見積もっても十年はかかるであろう」
「七日後には娘が死ぬんですよ!?」
「案ずるな。ここは仙域、俗界とは時の流れ方が違う。お主、ここに来る途中で門を二つ潜ったであろ?」
「はい、潜りましたけど……」
「あの内門が時の境目でな。門扉を片方開ければ俗界と同じ時間が、両方開ければ外では倍の速さで時が流れる。逆に完全に閉じれば時の流れは遮断されて外では時間は流れぬ。……まあそうは言っても、実際は従来の万分の一ほどで流れてはおるがの。それでも十年やそこらの修行をした所で娘の命に支障はあるまい」
 外での時間が万分の一になる――という事は、十年をこの場所で過ごしても、実際外では八時間ほどしか経っていないという事だ。
 その理屈で言えば、確かに十年で修行を終えれば七日という期限には十分間に合う事になる。
 だが、しかし。
「しかし、それじゃあ……最短で帰れても、俺は十歳年を取る……って事ですよね?」
 勿論、真央の命には代えられないのだが、しかしいきなり同年代の連中よりも十も老けると言われて、抵抗を感じずにはいられなかった。
「お主、儂が年寄りに見えるか?」
「いえ……」
 月彦はまじまじと女の姿を見る。外見から察する限り、年齢は二十台中盤、といった所だろうか。
「仙人は年はとらぬ……が、仙人とて元はただの人じゃ。しかし、仙人に弟子入りした時から、人は年をとらぬ。それは何故か」
「……ここでは、誰も年をとらないってことですか?」
「惜しい所を突いておるが、違うの。第一それでは、仙域では草木一つ育たぬ事になってしまうではないか」
 確かに、仙域に居る者が全て年を取らないというのであれば、草木は成長せず動物や虫昆虫に至るまで不老不死という事になってしまい、いろいろと不都合が出てくる事だろう。
「恐らくは、仙域では“人”に限り年を取らぬ……という様に予め“造る”事も出来たであろうが、それでは“人以外”が弟子入りしにきた時に不都合があるじゃろ。だから、仙人に弟子入りした者はあの井戸の水を煮炊きに使う事で一時的に不老となるのじゃ」
 女はキセルの先でついと窓の外を指す。月彦がその先へと視線をやると、裏庭らしき場所に蓋をされた井戸らしきものが三つ並んでいた。。
「お主とて、年をとっても見た目が変わらねばそう不都合もあるまい」
「それは……まぁ、そうかもしれませんけど……」
「良し、これでお主も弟子入りにはなんの異論も無かろう。となれば、面倒な手続きは後回しじゃ」
 ぱん、と女は膝を叩くなり窓枠から下り、畳の上で胡座をかく。
「まずは、肩でも揉んでもらおうかの」
「……へ?」
「たわけ! お主は儂の弟子になったのじゃろうが。師匠の命令には絶対服従じゃ、忘れるでないぞ」
 さあ肩を揉め、と背中を向けられ、月彦は渋々肩を揉む。
「うむ、良いぞ……なかなか良い力加減じゃ…………そうじゃ、お主、名は何という?」
「あれ、まだ言ってませんでしたっけ」
「頭の中を読んでも良いがの、ここは己の口で名乗るのが礼儀であろ」
「……紺崎、月彦です」
「紺崎月彦、か。なかなか良い名じゃな。儂の事は……そうじゃな、お師匠様、或いは姚華様と呼ぶが良い」
「解りました……姚華さま」
「うむ……これからびしばし扱いてやるからの、覚悟するが良いぞ」
 きひひ、と姚華はまるでどこかの性悪狐のように意地の悪い笑みを浮かべる。とにもかくにもこうして月彦の道士生活はスタートしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 ――そして、十年の月日が経過した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「姚華さま!」
 月彦は大急ぎで母屋へと駆け戻り、姚華の姿を捜した。元より、さして大きな住まいではないから、師の姿を捜し出すのは難しくは無かった。
「なんじゃ、騒々しい……もう畑仕事は終わったのか?」
 姚華は庭でハサミを片手に趣味のサボテン弄りなどをしながら、やれやれといった態度で月彦の方へと向き直る。
「姚華さま、もう俺がここに来て十年は経ちましたよね?」
「ほう、もうそんなになるかの。どれ、ならばそろそろ何か簡単な術でも教えてやるとするかのう」
「いえ、そんなものはどうでもいいんです。早くシントウを下さい!」
「シントウ……おお、そういえばお主はシントウを取りに来たのであったな。じゃが、規則でシントウは人間には――」
「人間には渡せないって事は知ってます! でも、十年修行をして仙人に成れば何とかして頂けるという約束だった筈です!」
「……おお!」
 一拍遅れて、姚華は虚を突かれたような声を上げる。
「まさか、忘れていたんじゃ……」
「た、たわけ! そういうお主の方こそ、今の今まで娘の病気の事など忘れておったのであろうが!」
「うぐ……そ、それは……」
 痛いところを突かれ、月彦はうぐと胸を押さえる。決して、真央の事を軽んじたわけではない。
(でも、十年だぞ……)
 月日の流れとは恐ろしいもの。最初はあれほどに早く帰らねばと思っていたというのに、いつしか土いじりそのものが目的となってしまっていた。
「しかしのう……十年……もうそんなに経ったか。その割には、お主の体からは何の仙気も感じぬのう」
 姚華は顎を指でつまみ、しげしげと月彦の姿を観察する。
「普通、十年も仙域で過ごせば仙気の兆しくらいは見えてきそうなものじゃが……お主、どうやら正真正銘生粋の凡人の様じゃの。何の才気も感じられぬわ」
「……そいつはどうも」
 当然月彦としても己が凡人に過ぎない事は十分に自覚していたが、仙人なる人物にしげしげと何の才能も無いと言われてはさすがにショックを隠しきれなかった。
「まあ良いではないか。凡人ではあるが、お主の作る野菜と料理はなかなかに美味じゃ。掃除もよう行き届いておるし、師匠として不満は無いぞ」
「そりゃあ、姚華さまは毎日喰っちゃ寝して趣味のサボテン弄りが出来るから不満は無いのでしょうけど……俺は早く帰らなきゃならないんですよ!」
「待て待て、そう焦るでない。慌てる乞食は貰いが少ないと言うではないか。ここで十年過ごしたとて外ではほんの四刻程じゃ。別にもう二、三十年ここで過ごしたとて、別にどうという事は無かろう」
「あります! 今すぐシントウを下さい!」
「せめてお主が一欠片の仙気でも持ち合わせておれば、無理矢理認めてやる事も出来なくもないのじゃがのう……さすがに今のままでは無理じゃ。諦めよ」
 大人しく“その時”を待て――そう呟いて姚華はハサミを置き、縁側に腰掛けるとぷかぷかとキセルをふかし始める。
「…………今すぐシントウを頂けないというのならば、やむを得ません。頂ける時まで待ちます……その代わり、もう二度と食卓に大学芋は上りませんよ」
「……何じゃと!?」
 ぎくりと、姚華がその手からキセルを取りこぼす。
「そうですね、他にきんぴらゴボウや里芋の煮付けなんかもぜーんぶお預けです。それから、朝食は毎日パンにします」
 いっ、と姚華が顔を引きつらせる。大学芋、きんぴらゴボウ、里芋の煮付け……それらは全て甘党の姚華の大好物の献立だった。。
 そして逆にパンは――勿論、小麦を育てての自家製だが――姚華が大の苦手とするものだ。尤も、それは月彦としても同じ事で、ようは素人がただ小麦をひいて水に溶いて手作りの竈で焼いただけのパンなど巧くもなんともないという事なのだが、脅しとしての効果は十分だった。
「ま、待て……それは困る……お主の作る飯はもはや儂の重要な娯楽の一つなのじゃ」
「あぁ、それから将棋や囲碁の相手も遠慮させてもらいます。弟子として最低限の身のまわりの世話はさせて頂きますけど、それ以外の遊びの類は一切お断り致します」
 ぷい、と月彦は露骨に背を向けて歩き出す。「待て」と、どこか泣きそうな声が背後から聞こえたのはその時だった。
「待て、待て……解った、シントウの件は何とかするから臍を曲げるでない」
「……本当ですか?」
「う、うむ……約束しよう。あと十年の後には、必ずお主にシントウを渡す」
「よ、う、か、さ、ま? 俺は十年も待てないと、そう申し上げてるのですが?」
 およそ、弟子が師にするような詰めより方ではないのだが、当然月彦にその自覚は無かった。
「も、物事には順序というものがあるのじゃ! とにかく、今すぐには渡せぬ……もう十年待て」
「……あと十年待てば、本当にシントウを頂けるのですね?」
「うむ、仙人に二言はない」
 落としたキセルを拾い上げ、姚華は自信たっぷりにぷかぷかと吹かし始める。
「……解りました。もう十年だけ待ちます」
「解ってくれた様で何よりじゃ。……なに、ここもそう悪いところではない。もう十年も経てば請うてでも暮らしたくなるであろう」
「……まるで、俺に残って欲しいと言わんばかりの口ぶりですね」
「当然であろう。先ほども言うたが、お主には仙人の才能は無いが、弟子の才能はあるとみた。何より巧い飯を作る」
 イマイチ喜んで良いのやら悪いのやらな褒め言葉だった。
「生憎ですが、外には家族が、娘も居るんです。ここに永住するつもりはありません」
「それは残念じゃの。しかしそれも全てシントウあっての事じゃろう。十年間、しっかりと励むが良いぞ」
 かんらかんらと笑いながら、姚華は庭を後にする。月彦は庭に散らばったサボテンの棘を掃除し、置きっぱなしになっているハサミを元の場所へと片づけてから畑仕事へと戻るのだった。



 芳命山という場所が一体どういう仕組みになっているのか、かれこれ十年以上もの時を過ごしているというのに、月彦にはまるで解らなかった。
 まず、月彦と姚華が暮らす家。掘っ立て小屋に毛の生えた木造二階建ての家には、当然の事ながらガスも水道も電気も無かった。至極、煮炊きや風呂には井戸水と薪をつかうわけなのだが、これらの不便にはすぐ慣れた。姚華が言うには三つある井戸の真ん中の水は不老長生の霊水とやららしく、煮炊き以外には使ってはいけないという制約を除けばただのうまい水と何ら変わらなかった。
 家のすぐ前は崖になっており、そこからは見事な大瀑布が一望できた。風の強い日などは水しぶきが家にまで飛んできて、洗濯物を干し直さねばならなくなったことも一度や二度ではない。
 また、家の裏手の道を降って行けば、今度は緑に富んだ林が出迎えてくれる。さらにその道を降っていくと、見晴らしの良い斜面へと出る。月彦はこの斜面を開墾して畑を作ったわけなのだが、どうやら土壌が作物を育てるのに適している様で、何を植えても良く育った。(ちなみに作物の種は姚華にねだるとどこからともなく仕入れてきたものをもらえた)
 そう、それは良いのだ。畑を耕して生きていく分にはなんとも都合の良い環境であるという事は疑う余地はなく、また疑ってはいけない様にも思えた。
 月彦が疑問に感じるのは、家の周囲からも、そして農地の方のどちらからも麓の景色が見えない事だった。
 それなりに長い山道を登ってきたのだから、相当な高地に居るのだというのは理解できる。しかし家の正面には大瀑布が、背後の林を抜ければ一面の農地。自分が抜けて来サトリの森やらは一体何処に行ってしまったのだろうと、最初はずいぶんと首を傾げたものだ。
 しかしそれも、長くこの場所で暮らすうちに徐々に気にもならなくなった。“そういうものなのだろうから、しょうがない”という結論にたどり着く以外、思考の終わらせ方が無かったのだ。
 そもそも、不思議を唱え始めたら家の中は家の外どころの不思議ではなかった。まず、台所にある調味料類を仕舞っておく壺。砂糖や塩に始まる基本的な調味料は元より、凡そ見たことのない調味料までありとあらゆるものが揃っているのだが、これがまた不思議な代物なのだ。
 壺の容量から考えて、十年も使い続ければ間違いなく砂糖も塩も枯渇する筈であるのに、いざ蓋をあけてみるとどの壺もなみなみと中身が入っている。そう、使えども使えども中身が一向に減らないのだ。否、正確には使った瞬間には確かに目減りして見えるのだが、フタを閉めて一晩おくと使った分が元に戻っているのだ。
 はてな、と思うも、“そういうものか”と思えばさして気にもならなくなった。お陰で調味料の残量を気にせず、好きに調理を行う事が出来るのだから、疑い続ける事に意味はないと言えた。
 そして何より、月彦の最大の疑問は、一体自分が来るまでは姚華は何を食べ、どうやって掃除や洗濯の類を行っていたのかという事だった。
 己の師を悪く言いたくはないのだが、姚華の生活能力の無さには唖然とせざるを得なかった。まず、料理の類は何一つ満足に作る事はできなかった。一度戯れに姚華が晩飯を作る事になり、月彦はその手料理を味わったのだが思い出すだけで口内に苦みが迸る凄まじい料理だった。
 共に掃除をやればろくに絞ってもいない雑巾で床や畳を拭いて水浸しにしてしまうし、特別な調理をしていて手が離せない時などに洗濯を頼めば、半分以上の衣類を川に流してしまうという有様だった。お陰で月彦は持ってきた着替えの殆どを紛失し、やむなく物置の葛籠の中にあった誰の物ともつかない男物の着物を普段着とせざるを得なくなった。
 あとは俺がやりますから、姚華さまは庭のサボテンでも弄ってて下さい――十年の生活の中で何度その台詞を口にしたことか。至極、ありとあらゆる家事は月彦がやる羽目となり――弟子という身分を考えればそれが当然とも言えるのだが――毎日喰っちゃ寝とサボテン弄りに明け暮れる姚華を師として敬える筈もなく、真狐が口にした「仙人なんてロクな奴が居ない」の台詞に共感を覚えながら、月彦は日々を長閑に過ごした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 ――そして、また十年の月日が流れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「むむむぅ……」
 腕を組んだまま、姚華が唸る。キセルを逆さにし、縁側の下の土にぽんぽんと灰を落とすこと数回。その眼前にある将棋盤の向こうには、本来対戦者となるべき月彦の姿は無かった。
「まだですか、姚華さま」
 庭で洗濯物を干しながら、月彦は待ちくたびれた声で呟く。
「ええい、うるさい! 話し掛けるな! 気が散るであろうが!……むむむむむ…………ええい、これでどうじゃ、八八銀!」
「八八銀ですか。じゃあ俺は七三桂成りで王手。詰みです」
 洗濯物を小脇に抱えたまま、月彦はぱちりと駒を動かし、ぱむぱむと洗濯物を翻して干す。その背後で、かたりとキセルが落ちる音がした。
「ま、待て! 今の手無しじゃ!」
「はぁ……またですか。まあ良いですけど……」
 月彦は駒を戻し、再び作業に戻る。うぬぬ……とその背後で唸るような声が続く。
「ぐぅぅ……少しは師を立てるという事を知らぬのかお主は……」
「最初に“今日は本気でかかってこい!”と仰ったのは姚華さまですよ」
「確かにそう言ったが……それにしてもお主の戦法は底意地が悪すぎる。一体誰に将棋を習ったのじゃ?」
「……習ったわけじゃないですけどね」
 元々、祖父から一通りのルールと基本的な指し方は教わったものの、特別腕を磨いたわけではない。
(純粋に……この人が弱すぎるんだよな……)
 姚華と将棋を指すのはこれで幾度目だろうか。十年以上も共に居れば、きっとその数もたいそうな数になっている事だろう。だというのに、未だに真央にルールを教えて初めて指した時よりも歯ごたえを感じないのだから堪らない。
「言っておきますけど、俺の娘の母親なんて、俺の万倍は強いですよ」
 月彦は思い出す。真央に初めて将棋のルールを教え、二人で遊んでいたまさにその時。まるで狙い澄ましたかのようにやってきたあの女に完膚無きまでにたたきのめされた事を。
(……しかも、飛車角金香車落ちで)
 王と、桂馬と銀と歩……たったそれだけの駒しか持たない相手に何故負けたのか。こうして思い出してもキツネに摘まれたような気分だった。
「……なんと恐ろしい。昨今の俗界では、学舎で孫子でも読ませておるのか?」
 いえ、貴方が並はずれて弱いだけです、という言葉を月彦は咄嗟に口にしかけて、辛くも飲み込んだ。
「まあ良い。お主が強ければ強い程、打ち負かす楽しみが長引くというものじゃ……二九飛車成り、王手! これでどうじゃ!」
「二九飛車成りですか。では同角で」
 月彦は自陣に飛び込み、己の銀を平らげてひっくり返った姚華の駒を苦もなく角で取り返す。
「あぁあっっ! これっ、なんでそんなところに角が効いておるのじゃ!」
「何故って……当たり前じゃないですか。そうでなきゃ敵の飛車の通り道に無防備に銀を置きっぱなしになんてしませんよ」
「と、とにかく待て……今のは無しじゃ……角はおろか飛車まで取られては最早勝ち目がない」
 駒を戻せ、という姚華の言葉に月彦は渋々従い、飛車と角を元の場所へと戻す。そこからさらに姚華が飛車を動かす前の場所へと戻した。
「……姚華さま、前々から言おう、言おうと思ってたんですが」
「なんじゃ?」
「心、読めるんですよね。それで俺が考えてる事を読めば、簡単に勝てるんじゃないんですか?」
「たわけ。そんな事をして勝ってもつまらんであろうが」
「そりゃあ……そうですけど」
「これは戯れ遊びじゃ。遊びは相手と同じ土俵でやらねばつまらぬ」
 真面目な顔で呟いて、姚華はううむとまた思案に耽る。
「……そういえば、姚華さま」
「なんじゃ、聞きたいことがあるなら一度に言わんか!」
 姚華はキセルを拾い、不機嫌そうにぷかぷかと吹かし始める。
「そろそろ、十年ですよね」
 その動きが、ピタリと止んだ。
「俺の記憶が正しければ、明日で丁度十年目です。約束のもの、勿論頂けるんですよね」
「………………。」
 姚華は無言のまま、月彦の方から将棋盤の方へと視線を逸らし、さらにその視線を屋内の方へと逸らしていく。
「姚華さま?」
「な、何じゃ! 大声を出すでない! シントウの件であろう、無論……忘れてなどおらぬ」
「良かった。では明日、間違いなく頂けるんですね?」
「……その件じゃがの、月彦よ。……ひょっとしたら、少々遅れるやもしれぬ」
 もそもそと、耳を澄ましていなければ聞き取れないような小声だった。月彦は洗濯物を干す手を止め、ずいと将棋盤の前に座り直す。
「どういう事ですか?」
「う、うむ……儂も最善を尽くしたのじゃがな……こればかりは自然の成り行きというか何というか……」
「姚華さま、きちんと俺の目を見て仰って下さい! 仙人に二言はない、確かにそう言いましたよね?」
「ぐぬ……無駄に物覚えの良い奴よ……十年も経てば忘れても良かろうに……た、確かにそうは申したが、事情が変わったのじゃ」
「どう変わったんですか。具体的に説明をお願いします」
「そ、それはじゃな――……てぃッ!!」
 突然、姚華がキセルで将棋盤を叩く。たちまち将棋盤がぽむと煙を吐いて消え失せたかと思えば、その向こうに居た筈の姚華の姿までもが消え失せていた。
「姚華さま、逃げるとはどういう事ですか!」
 月彦は声を荒げるが、返事が返ってくる事はなかった。



 突然煙のように消えてしまった姚華だが、月彦は捜すこともせず、淡々と家事に努めた。というのも、このような事は今回が初めてではないからだ。
 一度目は、食事の際の好き嫌いで姚華が煮豆を残したとき。あくまでお残しを許さない月彦との間で口論となり、最終的には煙のように消え失せて逃げた。
 二度目、三度目の時もだいたい降らない理由での口論が原因で、己の方が不利だと悟るや姚華は逃げてしまうのだ。最初こそ探しにいったりもした月彦だったが、そんな事をしなくとも夜更けや飯時になれば戻ってくるという事が解ってからは堂々と構えている事にした。
「……月彦や」
 そして今回もまた、台所で晩飯の用意を進めている月彦の背後から、まるで家出をした子供が戻ってきたような声が聞こえてきた。
 月彦は返事を返さず、淡々と晩飯の準備を進める。
「一人で色々考えてみたのじゃが……此度のこと、全面的に儂に非がある。すまぬ」
 月彦は煮汁の味見をし、火を消して鍋にフタをした後、姚華の脇をすり抜けて家の裏へと回る。薪を抱え、風呂場の下の竈へとそれらを差し込み、火打ち石で火を付ける。こっそりと姚華がついてきていることには、勿論気がついていた。
「……かくなる上は、すぐにはシントウを渡せぬ理由を直にお主に見て貰おうと思うのじゃ。無論、人にそのような振る舞いをするのは禁忌には触れるが……この際、やむを得まい」
「…………どういう事ですか?」
 月彦は背を向けたまま、竈に薪を放り込む。背を向けているから、返事を返した際に姚華がどれほど安堵の息を漏らしたのかには気がつかなかった。
「……ついて参れ。シントウの元へ案内しよう」
 
 姚華の後に続き、月彦は家の前の崖へとやってきた。姚華はそのまま、滝の方に向かって丁度階段のようになっている場所を下りていく。
(……この先は、確か行き止まりのはず……)
 月彦もそれに習いつつ、記憶を探っていた。まだこの場所に来て間もない頃、いろいろな場所へと自分で歩いてみた際、当然この階段めいた下り坂も発見したのだ。しかし、最後まで下りた所で何もなく、眼下には目が眩みそうな程に高い――というより、水しぶきで滝壺までの高さすら計れない程の――崖があるのみの筈だった。
 当然、姚華もそこで足を止めざるを得なかった。しかし、そこからが違った。
「……むんっ」
 姚華が拳を作り、くんと持ち上げるような仕草をするや、どこからともなく眼前に飛び石のようなものが現れる。直径一メートルほどの平べったい石の上を、姚華はとんとんと軽やかに渡っていく。
「足を踏み外すでないぞ。この大瀑布に飲まれれば、儂の力でも助けられぬ」
 促されるままに、月彦は姚華に続いて石を渡っていく。
(……ただのダメ仙人じゃなかったのか)
 姚華の事を僅かに見直しながら、月彦は飛び石を渡る。どうやら石は崖沿いに続き、そのまま大瀑布の裏へと続いている様だった。大瀑布へと近づくにつれてびしょ濡れになるかと思いきや、ふりかかる水の量が決して霧の域を出ないのは、やはり“そういうもの”だからなのだろう。
「こっちじゃ、かなり滑るからの。転ぶでないぞ」
 最後の飛び石から、大瀑布の裏の洞窟へと姚華が飛び移る。月彦もそれに習い、滑る岩肌に気を付けながら洞窟の奥へと進んでいくと、徐々に前方から光が漏れ始めた。
(何だ……?)
 進むほどに、それは目映い光となり、暗闇に慣れた目には痛みすら憶える程になる。だがそれもさらに近づけば慣れと共に和らいだ。
「姚華さま……これは……」
「うむ、シントウとは神の食す桃と書いて“神桃”。そしてこれは神桃樹、神桃を実らせる唯一無二の宝樹じゃ」
「シントウ……って果物だったんですか。俺はてっきり、薬かなにかだと」
「似たようなものじゃ。神桃を食せば、ありとあらゆる病は完治する。……じゃが、誰もが口に出来るというものではない」
「でも、十年……いえ、通算でもう二十年になりますが、それだけ修行をすれば、神桃を分けて頂けるという約束でしたよね」
「確かに約束はしたが……月彦、これを見よ」
 姚華の指さす先を、月彦は見た。それはそれは立派な桃の木だった。どうやら洞窟の最深部のここだけは上方に穴が空いているらしく、そこから降り注ぐ月明かりを受けて樹木全体が金色に輝いて見えた。
「……肝心の実が一つも無いみたいですけど」
「それこそが、お主に分けてやれぬ理由よ。ものがなければ、いかな仙人とてどうにもならぬ」
 むう……と姚華は沈痛めいた声を漏らす。
「……成る程……そうならそうと仰って頂ければ……」
 てっきり、ものはあるのに姚華がただゴネているだけだと、月彦は思っていた。本当にどうしようもないと解れば、そうそう無理が言えるわけもない。
「それで、この木にはいつ実がなるんですか?」」
「そう事を急くな。神桃はただの果実ではない。神桃樹がこの仙域全体から立ち上る生気を吸い、長い時間をかけて結晶化したもの――それが神桃と呼ばれる果実なのじゃ」
 見よ、と姚華がさらに神桃樹の枝の先、蕾のようなものを指さす。
「受粉こそ必要無いが、花が咲き、その後実を結ぶという流れは通常の木々と変わらぬ。この蕾が開き、花となり実を結んだ暁には、それをお主に渡そう」
「……実になるのに、どれくらいかかるのですか?」
「そうじゃな……この蕾の大きさと、仙域に満ちる生気の量からして……早くて十年といった所であろう」
「なっ……また十年待てと言うんですか!」
「仕方無かろう。この十年で実が出来ればお主にやろうと思っておったが、生憎と蕾すら出来んでな。これではお主に見せて理由を説明したところで解っては貰えぬだろうと思っておった矢先、漸く見つけた唯一の蕾なのじゃ」
「……では、この蕾が開き、花となり実を結んだ暁には……間違いなく神桃を頂けるのですね?」
「うむ。今度という今度こそ儂の言葉に二言はない」
「……解りました。また十年……お世話になります」
 喜んでいいやら悪いやら、月彦はがっくりと肩を落とし、そして頭を下げた。


 それからの十年、月彦は毎日のように神桃樹の元へと通った。姚華の言った通り、蕾は遅々として開かず、待てど暮らせど実がなる気配は無かった。それでも諦めずに畑の世話をし師の世話などをし、三年目にして漸く蕾が開き出し、四年目には見事な桃の花となった。
 やがて花が枯れ落ち、実が出来はじめると否が応にも期待が高まった。もうすぐ、我が家へ帰れるのだと。愛娘をこの手に抱きしめてやる事ができるのだと、そう思うだけで何日も眠れぬ日が続いた。
「姚華さま、これはもう十分実になっているのでは?」
 そしてとうとう我慢しきれなくなった月彦は姚華の腕を引き神桃樹の元へとやってきた。黄金色に輝く果実を姚華に見せ、収穫する許可を得る為だ。
 しかし。
「まだじゃ」
 一も二もなく、姚華は首を振る。
「前にも言うたが、神桃は尋常の果実ではない。結実すれば自ずと落ちてくるものじゃ。まだ枝についておるという事は、熟し切ってはおらぬという証。そのようなものでは娘に与えたとて十分な効果は得られぬぞ」
「では、実が落ちれば……頂いても良いのですね?」
「うむ、実が落ちればな」
 姚華の言葉が些か気になったものの、それからはほぼ毎日毎晩、洞窟に泊まりこみながら月彦は神桃を見守った。姚華の言葉通り、実は日に日に質量を増し、枝をしならせるほどにまるまると太った果実は今にも零れ落ちそうだった。月彦は己が留守の間に実が落ちても良いように竹の皮で簡単なザルを編んで実の下にクッション代わりにぶら下げておく事にした。
(……さすがにもうそろそろ落ちるだろう)
 十年と二十七日……姚華に蕾を見せられてからそれだけの月日が流れていた。最早神桃は僅かでも手を触れればたちまちザルの中へと落ちてしまいそうな程に肥え太っていた。
(今夜……遅くとも明日には落ちる、絶対落ちる)
 月明かりに照らされ、黄金色に輝く果実を夜通し見守る覚悟で、月彦は神桃樹の根元に座り込んでいた。昼間の疲れも、眠気も、こうして黄金色に輝く果実を眺めているだけで全く気にならなかった。生命の塊とでもいうべき果実だ、その芳香にも癒しの効力があるいはあるのかもしれない。
(明日の畑仕事は休ませてもらおう……実の方が大事だ)
 どのみち、実が手に入れば即座に出て行くのだ。その後畑がどうなろうと月彦には知ったことではなかった。
(真央……待ってろよ、もうすぐ、もうすぐ帰るからな……)
 三十年もの月日が経った。それでも愛娘の顔をはっきりと思い出せるのは愛の証か、それとも不老長寿の霊水とやらが記憶も劣化させないのか。とにもかくにも、この実さえ手に入ればこの場所から出られるのだ。
(……そんなに嫌いな所でもないんだけどな)
 二,三日の休暇でくるのならば何の問題もない長閑な場所ではあるのだが、さすがに十年単位で軟禁されると多少は嫌気もさしてくるというものだ。
(とにかく、実だ。早く落ちろ、落ちろ〜〜〜〜〜〜っ……!!)
 月彦は黄金の果実を凝視し、可能な限り強烈な念波を送るが、さすがは神の名を冠する樹木。どれほど邪に願った所でびくとも揺るがない。
(落ちろ、落ちろ、落ちろ……早く落ちろ!)
 うろうろと神桃樹の周囲を歩き回りながら、懲りずに月彦が念じている時――それは起きた。
「ん……?」
 初めは、くらりと……目眩のようなものを感じた。次に四肢から力が抜け、立っていられなくなった。
「何……だ……」
 その後に訪れたのは、強烈な睡魔だった。瞼の先に重りでも付けられたかのように目を開けている事が出来なくなる。
「く、そ……」
 月彦は岩肌に額を打ち付け、なんとか眠気を払おうとした。しかし、額を襲った鈍痛ですら、睡魔には抵抗することは能はず、月彦の意識はあっという間に深い谷へと落ちていった。



 はっ、と月彦が眼を覚ました時には、既に日が高く昇り、洞窟の吹き抜けからは燦々と太陽の光が降り注いでいた。しばし呆然と、太陽の光を受けて尚金色に輝く神桃樹の姿を眺めた後、はたと。月彦はとんでもない事に気がついた。
「実が……無い……?」
 落ちたのだ――大急ぎで、実の下に仕掛けておいたザルへと目をやる。が、無い。
「何処だ、一体何処に……」
 洞窟の中を隅々まで捜したが、どこにも果実らしきものは見あたらなかった。月彦は膝から落ち、魂が抜け出てしまったかのように愕然とした。
「姚華さまぁあああああああああああああああああ!!!!」
 そして、自我を取り戻すや月彦は洞窟を駆けだし母屋へと戻った。
「何じゃ、騒々しい。神桃は落ちたのか?」
 いつものようにキセルを口にくわえ、ハサミを手に今まさにサボテンの手入れをしようとしていたらしい姚華が怪訝そうに眉を寄せる。
「……消えました」
「消えた……とはどういう事じゃ?」
「昨晩、俺はずっと実を見張ってたんです。でも、いつの間にか寝てしまっていて……それで起きたら……実が何処にも」
「そんなはずは無かろう」
 かんらかんらと笑い飛ばし、姚華はサボテンの棘をちょいちょいと切り落とす――が、なにやら巧くいかないらしく、はてなと首を捻り始める。
「…………姚華さま、いつから左利きに?」
「……おお!」
 よくぞ気づいた、と言わんばかりの声を上げて、姚華がハサミを右手に持ち替え、たちまち軽やかに棘を落とし始める。姚華がサボテンを弄るのをかれこれ30年ほど見守ってはきたが、はたしてそうやって棘を切り落とす事が本当にサボテンの手入れに繋がるのか、月彦には判断が付かない。
「して、神桃の件じゃが……ちゃんと捜したのであろうな?」
「勿論、洞窟の中をくまなく、隅々まで」
「ふむ……そこまで探して見つからぬという事は……答えは一つしか無いの」
 姚華はハサミを置き、ついと滝に向かって歩き出す。月彦もその後に続き、問題の神桃樹の場所までやってきた。
「見よ」
 と、姚華は足下を指さす。見れば、なにやらちょろちょろと水が足下を流れていた。
「岩肌の表面に結露した水が滴り、滝の震動によって洞窟の出口に向けて流れておるのじゃ。大方この水によって流されてしまったのであろう」
「そんな! こんなちょろちょろの水なんかで流れるわけが無いじゃないですか!」
「そうでなければ、落下したときの勢いでそのまま滝壺まで転がっていったかじゃの。どのみち神桃がこの洞窟から消える理屈など、他には考えられまい」
「そん、な……」
 がくりと、月彦はその場に膝をついた。こんな事が起きて良いのか――十年を費やした結晶が、たった一度の居眠りで水泡に帰してしまった。そのショックは計り知れなかった。
(大体、実が落ちたならザルの中にある筈じゃないか……)
 転げ落ちたりしない様、たっぷりの深さになる様に作ったザルに目をやり、月彦は信じられないとばかりに首を振る。
「ん……、月彦、これを見よ」
「えっ、何ですか!? 見つかったんですか!?」
 そんな筈はない、とは思いつつも、月彦は一縷の望みをかけて師の指さす場所を見た。そこには、見覚えがある小さな小さな蕾がついていた。
「新しい蕾じゃ。あと十年もすればまた実を結ぶであろう」
「十年……また十年待てというんですか」
「仕方あるまい。今度は実を無くすでないぞ」
 そこで月彦ははたと気がついた。蕾を指さす姚華のいやに意気揚々とした口ぶりに、だ。
「……姚華さま、随分機嫌が良さそうですね。何か良いことでもあったんですか?」
 絶望の淵にいる自分に比べ、にこにこと笑みを絶やさない姚華の態度が気に入らず、月彦はジトリとねめつける。
「気のせいであろ。ささ、悔やんでいても神桃は帰っては来ぬ。気を取り直して飯の支度をせよ」
 もう腹ぺこじゃ、と姚華は月彦の背を押すようにして神桃樹の元を後にする。そのいやに陽気な足取りが気になり、どうにも腑に落ちないものを感じながらも、月彦はしぶしぶ朝食の支度を始めるのだった。



 
 

 それからの十年は、月彦にとってかつてない程に長い十年となった。
 毎日神桃樹の元へと通い、徐々に結実していく実を見守るのは前回の十年と変わらないのだが、その心中までもが同じではなかった。
 十年経ち、実が出来てもまた消え失せてしまうのではないか――そう考えるだけで、日に日にまるまるとしていく黄金色の桃を見ても素直には喜べないのだ。
(何故……消えたんだ)
 姚華の言うとおり、結露したに水によって流されてしまったのだろうか。それとも実が落ちた時にその勢いのまま転がり続けて滝壺まで落ちていたのだろうか。
 月彦の常識では、そのどちらもあり得ないように思えた。結露した水の流れなど、葉っぱ一枚流すのが関の山の勢いしか無いのだ。洞窟も別段、出口へ向かって傾いているわけでもない。落下した実が平坦な道を数十メートル以上も転がっていくとはどうしても考えられないのだ。
 そもそも、実の下にはザルをしかけておいた。ザルをすり抜けでもしない限り、実が転がって滝壺に落ちるという事自体起こりえない。
 そう、常識では絶対に実が消える筈はないのだ。しかし、この場所が己の常識では計りきれない場所である事も月彦は重々承知していた。だから実が消えても“そういうものなのか”と思う事も出来なくはない。
 とはいえ、そう簡単に割り切れるものでもなかった。なんと言っても十年だ。その前の二十年と合わせれば三十年ここで過ごしている事になる。いくら外とは時の流れ方が違うとはいえ、それでも外では一日が過ぎてしまっていることになる。
(もし、このまま……実が消え続けたら……)
 何十年もの時をただ無為に過ごし、結果真央の命まで失う……そんな最悪のシナリオまで頭をよぎる。
 至極、日々を暗澹たる思いで過ごすことになる。――それをある夜、とうとう姚華に咎められた。

「月彦や……」
「何ですか? 姚華さま」
 背後からの問いかけに答えながら、月彦は眼前の薪からは目を離さず、力一杯斧を振り下ろす。ぱきりと二つに割れた薪の片方を再び切り株の上に立て、斧の切っ先を軽くめり込ませた後、振り下ろしてさらに二つに分ける。
「ここでの暮らしは……そんなに気に入らぬのか?」
「暮らしやすい場所であるのは認めます。……でも、矢張り俺には帰る場所があるんです」
「娘の事か。……さぞかし、可愛い娘なのであろうな」
「ええ、それはもう。目の中に入れても痛くないとは真央の為にある言葉です」
「真央、という名なのか。お主と共に暮らして三十余年になるが、そういえば儂はお主の事を何も知らぬのう」
「姚華さまに聞かれませんでしたし、自分から話す事でもないと思いましたから」
「そうじゃの…………月彦や、薪割りが終わったら縁側へと来よ。待っておるぞ」
「縁側へ……ですか?」
 しかし、姚華は既に去った後であり、返事は帰ってこなかった。やむなく、月彦は薪割りを程々に庭へと向かった。
「おお、来たな。ささ、座るが良い」
「姚華さま、これは……?」
「見て解らんのか、月見酒じゃ。お主……酒はいける口か?」
「いえ……というか、俺は未だ酒を飲んじゃいけない年なんですよ」
「四十路を越えた男が何を言う。これはお主の為の酒宴じゃ、遠慮は要らぬ」
 言われてみれば、と月彦は思う。体の成長こそ止まったままだが、体感時間では確かに四十才を超えている筈なのだ。
「ここにも……お酒なんかあったんですね。意外です」
「仙人はなまぐさは喰わぬが、酒は飲む。まあ、それこそ毎日浴びる様に飲む奴も居るが、儂は元来酒は苦手での。余程の事がない限りは飲まぬ」
「苦手なのに……酒宴をやるんですか?」
「だから言うたであろう。これはお主の為の酒宴じゃ」
 さあ座れ、と月彦は腕を引かれるようにして姚華の隣へと座らされ、杯を持たされる。
「知己の仙人に無理を言って分けて貰ったものじゃ。本来ならば、ただの人間には永劫口に出来ぬ極上の仙酒じゃぞ。とくと味わうが良い」
 姚華はどこからともなく朱塗りの瓢箪を取り出し、栓を抜いてとくとくと杯に注ぐ。
「すみません……では、いただききます」
 礼を述べて、月彦は杯に口をつける。くいと杯を傾け、口腔内へと酒を導くやたちまち形容しがたい味覚に月彦は襲われた。
「どうじゃ、美味いか?」
「ええ……これは、凄いですね。美味いというよりは、凄い……と思います」
 見れば、杯の中に残っている液体は仄かに光り輝いていた。酒というよりは、まるで生命そのものを口にしているような、そんな不思議な味だった。
 月彦は再度杯を傾け、仙酒を口に含む。仄かな甘みと苦み、噎せ返るような酒気はしかし苦痛ではなく、まろやかに口の中を駆け抜けていく。その儚さはなるほど、癖になる仙人が居るのも無理はないと月彦は思った。
「そうかそうか、酒はまだまだあるぞ。好きなだけ飲むが良い、つまみもあるでな」
 と、姚華が差し出したのは大皿に盛られたダンゴの山だった。どれもこれも形がいびつで、ピンポン球から野球の硬球ほどのものまで大きさも様々だった。
「これは……姚華さまが?」
「う、うむ……儂がまともに作れる料理はこれだけでな……お主に秘密で酒宴の用意をしようと思ったら、肴はこれしか用意できなんだ」
 すまぬ、と姚華に頭を下げられる。
「……ありがとうございます。早速頂きます」
 月彦はピンポン球大のダンゴをつまみ、口の中へと放る。微かに効いた塩のせいで感じるほのかな甘みはなるほど、ダンゴとしてはまずまずの出来だと思えた。
 ――が、しかし。酒に合うかと聞かれれば、話は別だった。
(……でも、そんな事、言えるか)
 主従の関係であるとは思えない程に不安げな顔でこちらを見る姚華を見れば、例えこれが泥ダンゴであろうともにこやかに食さねばならないという気にさせられる。
「……味は、どうじゃ?」
「とても美味しいです。姚華さまにもちゃんと料理は出来たんですね」
「……お主が来るまでは、毎日こればかり食べておったでな。……しかし、酒には合わぬか」
「いえ、そんな事は――」
「嘘を……つくでない。……お主の心が、そう言うておる」
「あっ……」
 と、月彦は言葉を無くした。そうなのだ、姚華は……心が読めるのだ。
「確かに……酒には合いませんけど、でもこれはこれで美味しいですよ。それに俺も別に酒が好きというわけじゃないですから、つまみなんか無くったって構いませんし」
「……心が読めるという事が、これほど嫌になったのは初めてじゃ」
 姚華はふいと視線を空へと移す。夜空には見事な満月が煌々と輝いていた。
「皮肉なものじゃな。仙人となり、神桃樹の守番を任ぜられてから八百年。退屈であると感じる事はあっても、寂しいとは思わなんだ。……寂しいとは、近くに他人が居てこその感情なのじゃな」
「……姚華さま?」
「………………月彦や、儂にも注いでくれるかの」
 すっ、と姚華が杯を差しだし、月彦は慌てて朱塗りの瓢箪を手に取り、酒を注いだ。姚華が杯に唇をつけ、くいと酒を口に含む。
「……ふぅ」
 そんな酒気混じりの吐息を漏らした時には、早くも頬が朱にそまりかけていた。
「さっ、次はお主じゃ。杯を持て」
「はい、じゃあ……頂きます」
 姚華に瓢箪を渡し、月彦は杯を持って酒を受け、一息に飲み干す。
「うむ、良い飲みっぷりじゃ。男はそうでなくてはの」
「次は姚華さまの番ですよ」
「儂はもう良い。お主が呑むのをゆるりと眺めているだけで十分じゃ」
 姚華はうっとりと、酒気を帯びた笑みを浮かべる。
「昔……儂の夫であった男も酒が好きでの。何度かこうして酌をしたものじゃ」
「夫って……姚華さま、結婚なさってたんですか?」
「仙人となる前……人であった頃の話じゃがの。…………儂の話なぞどうでも良いのじゃ。それより、月彦や。お主の話が聞きたい」
「別に話すような事なんて何も無いですよ」
「何でも良い。お主自身の話でも、下界の話でも、お主が喋りたいことを順に話すのじゃ」
「そう言われても、急には…………じゃあ、愚痴とかでも良かったりするんでしょうか」
 何か喋りたい事を話せ、と言われて真っ先に頭に浮かんだのがある女の悪口であったりするのは、それだけ恨みに思っているからなのだろうか。
「構わぬ、好きなように話すがよい」
「……解りました。では……そうですね、俺の娘の母親の話なんですが……これがまた酷い女でして――」
 仙酒に酔ったのか、それとも余程鬱憤が溜まっていたのか。一度喋り出すとまるで止まらなかった。
 殆ど一晩中続いた酒宴の間中、月彦は喋り通し、そして姚華は静かな笑みを浮かべたままその話に耳を傾け続けた。



 酒宴の甲斐あってか、それまでほど暗澹とした気分で日々を過ごす事は無くなった。姚華は相変わらず喰っちゃ寝とサボテン弄りに精を出しており、月彦も毎日のように畑仕事に精を出していたが、以前より若干距離が縮まったように感じた。
 もし仮に、真央の病気の薬を受け取る為という名目ではなく、もっと軽率な目的で仙界を訪れていたならば、或いは下界の生活を見限りここで暮らしていたかも知れない――そんな事まで、月彦は考え始めていた。
 不満に思う事が全くないわけではないが、姚華との二人暮らしはそれほど悪いものでもなかった。毎日きちんと畑仕事をしている限り喰うに困る事もない芳命山での生活は、ある意味理想と言えなくもないからだ。
(それでも……俺は、真央を助けたい)
 決して、望んで授かった子供ではない。攫われて、強引に子種を奪われ、そして生まれた娘だ。しかし、経緯はどうあれ血を分けた一人娘には代わりがないのだ。大切でない筈がない。
 毎日、畑仕事に行く前と、帰りに月彦は神桃樹の様子を見に行くが、以前とは違ってその心中は複雑でもあった。実が徐々に大きくなっていくのは喜ばしい限りなのだが、ここから出る事が出来ると思うたびに、あの酒宴の晩の姚華の寂しげな笑みが脳裏をよぎるのだ。
(…………何十年も一緒に居て、情が移ったのかな)
 男にも母性本能というものがあるのだろうか。俺が居なければこの人は何も出来ないんじゃなかろうか――姚華に対してそう感じたことは一度や二度ではない。しかも、長く共に暮らすうちにそれが段々嫌ではなりつつあるのだ。
(……だめだ、早くここを出ないと)
 月彦は迷いを振り切るように、前にも増して畑仕事に励んだ。そして、とうとう十年目――運命の日がやってきた。

 枝をしならせるほどに、まるまると太った黄金色の果実。今度こそ、その行方を見失うまいと、月彦は朝から洞窟に張り込んでいた。昨夜は睡眠もたっぷりと取り、それでも眠気に襲われた時用にと、唐辛子の粉やらなにやらを調合して作った気付け薬も持参していた。
 夕方までは、特に何事もなく時間が過ぎた。夜になり、腹を空かせた姚華が文句を言いにきたが、戸棚の中に握り飯があるからと追い返して月彦はじっと神桃樹を見守った。
 さらに時間が経ち、月が洞窟の吹き抜けの真上へと到達し、月明かりを受けて神桃樹が輝きだした頃――不意にくらりと、視界が揺れた。
「ぐっ……またか」
 気がつくと、どこからともなく辺りに霧が立ち上り始めていた。それらが眠気の原因なのか、はたまた他の作用によるものか、とにかく月彦は持参した小瓶を開け、気付け薬をいっきに煽った。たちまち、口腔内で爆発が起きたかのような味に目が冴えるが、しかしそれも長くは続かなかった。瞼の先に重りでもぶら下げられたかのように目を開けている事が辛く、抗しがたかった。
(これは……普通の眠気じゃない……)
 例えるなら、強力な眠り薬でも漏られたかのような凄まじい睡魔だった。月彦は足掻いたが、それも長くは続かず、抗しきれずに地に伏した。
 眠りの谷へと落ちて行くその最中で、微かに――何物かの足音を聞いた気がした。



 気がつくと、月彦は自宅の門扉の前に立っていた。
「あれ……?」
 自分が何故ここに居るのか、どうやって戻ってきたのか、まるで記憶になかった。慌てて、背負っていたナップサックを下ろし、中身を確認する。
「……あった!」
 ナップサックの中から黄金色に輝く果実を見つけて、ホッと安堵の息をつく。憶えてはいないが、ちゃんと神桃を持ち帰る事ができたのだ。
 月彦はすぐさま玄関へと飛び込み、二階の自室へと駆け込んだ。
「真央、今帰ったぞ!」
 愛娘はベッドに寝かされていた。相変わらず顔色は悪かったが、それももう心配はない。万病に効く神桃を持ち帰ったのだから。
「真央、すぐにこれを食べるんだ!」
 月彦は右手に持った神桃を真央の方へと差し出した――つもりだったが、右手には何も握られてはいなかった。
 はて、と思う。先ほどナップサックから出し、そのまま駆け上がってきたつもりだったがバッグの中にまた戻してしまったのだろうか。慌てて中を探り、果てはひっくり返すが、黄金色に輝く果実など何処にもなかった。
「そんな馬鹿な……さっき、確かに……」
 まさか、何処かに落としたのだろうか――藁にも縋る思いで月彦は玄関の外から自室までの間を目を皿にするようにして捜した。しかし、何処にも見つける事ができなかった。
「そん、な……」
 茫然自失としながら、自室に戻った。真央は相変わらずベッドに寝たままだ。その顔は死人のそれのように白い。ハッとして、月彦は真央の手を握った。愛娘の手は白く、そして冷たかった。
「……今更、何しに戻ったのよ」
 背後からの声に、月彦はハッと振り返った。真狐は、殺意すら籠もった目で睨み付け、さらに言葉を続ける。
「真央なら死んだわよ。三日も前にね」
「なん、だと……」
 月彦は、再度愛娘の方へと見た。白みがかった寝顔は忽ちどす黒く変色し、急激に腐敗を始める。正視に耐えず、月彦は視線を逸らそうとした――その頭が、真狐によって掴まれる。
「ちゃんと見なさいよ、あんたのせいでこうなったのよ」
 ぐいと、尋常でない力で真央のほうを向かされる。腐臭を放ちながらドロドロに崩れていく愛娘の姿を見せつけられ、月彦はたまらず絶叫を上げた。


 己の叫び声で、月彦は眼を覚ました。視界に岩肌が映ると同時に、急速に意識が覚醒する。
「……神桃はッ!?」
 そして意識が覚醒するなり、月彦はすぐさま神桃樹の方へと目をやった。そして、愕然とした。
 またしても実が消えていた。がっくりと肩を落とし、地面に手をついた月彦だったが、はたと。思い出したように神桃樹の方へと視線を戻した。
「……姚華さま?」
「う、うむ…………」
 神桃樹の側で、目を丸くしたまま固まってしまっている姚華に、はてと月彦は首を傾げる。
「こんな夜更けに、一体何の用ですか?」
「……お主と神桃が心配での、様子を見に来たのじゃが……どうやら一足遅かったようじゃの」
「……っ……やっぱり、神桃は……」
「うむ、儂が来た時には既に無かった。……二度も続けて実が消えるとは、由々しき事じゃの」
 むぅ、と渋い顔をしながら、姚華はさりげなく洞窟の出口の方へと歩み始める。その去り方になにやら得心のいかないものを月彦は感じた。
「姚華さま、待って下さい」
「……何じゃ?」
 足を止め、首だけで姚華は振り返る。
「前回も、そして今回も……霧が出始めると同時にもの凄い眠気に襲われたんですが、神桃樹はそういうものなのですか?」
「……いや、初耳じゃの。長く神桃樹を見守っているが、そのような現象は見たことがない」
「では、誰かが……神桃を持ち去る為にそういう術を使った可能性は?」
「お主の言う事、さっぱり要領を得ぬの。大方居眠りでもして夢でも見たのであろ」
「……とりあえず、きちんとこちらを向いて話をしていただけませんか、姚華さま」
 先ほど、神桃の側に立っている時ですら、姚華は半身を隠すようにしていた。月彦は疑惑の目を向けながら、姚華の方へとにじり寄っていく。
「こ、これ……あまり寄るでない!」
「どうして近くに行ってはいけないんですか? 納得のいく説明をお願いします」
 月彦が距離を詰めると、姚華もまた後ろに引く。その背に大瀑布の水流が迫った時、月彦はとうとう姚華の腕を掴んだ。
「あっ……」
 と、姚華が悲痛な声を漏らした。月彦が右手を掴んだ事で、左手に持っていたものを袖で隠す事ができなくなったのだ。
「……姚華さま、これはどういう事ですか?」
 月彦はじろりと、姚華を睨め付ける。
「前回もこうして、俺が寝ている隙に神桃をもいでどこかにやってしまったんですね」
「ま、待て……月彦、これにはワケがあっての……」
「ワケなんか聞きません! とにかくそれをこっちに渡して下さい!」
「こ、これ……ダメじゃ!」
 忽ち、もみ合いになる。月彦は強引に姚華の腕から神桃を取り上げようと手を伸ばし、もう少しで掴めるという所で、神桃はぽろりと姚華の手の中から落ちてしまった。
「あっ……」
 と、声を上げる間に神桃は岩肌に落ち、軽く撥ねるとそのまま大瀑布の水流の中へと身を躍らせる。月彦は慌てて手を伸ばす――が、届かない。
「くっ……!」
 月彦はさらに強引に手を伸ばす。その指先が辛うじて黄金色の桃を捕らえたその刹那、ずるりと、足下から嫌な感触が伝わってきた。
「月彦ッ……!」
 姚華が悲痛な叫びを上げた時には、最早手遅れだった。月彦の足は完全に地面から離れ、まるで見えない糸で引かれているかのように、瞬く間に滝壺の方へと吸い込まれていく。
(ヤバッ……俺、死んだかも……)
 この滝壺に飲まれたら、儂の力でも助けられぬ――姚華の言葉が脳裏をよぎる。
(せめて、神桃だけでも……)
 反射的に月彦は黄金色の桃を抱えるように身を屈め、大瀑布の中へと落ちていった。


 さながら、巨人の手の中で力任せにもみくちゃにされているかのようだった。およそ人の力では抗いようのない凄まじい水流の中で、月彦は全身が強かに打ち付けられるのを感じた。それが岩なのか、水面に叩きつけられた衝撃なのか、それすらも把握する事は出来なかった。
「……! ……ッ!!」
 体が、流される。凄まじい水圧の中、ろくに身動き一つ出来ない。
(ッ……神桃、だけは……!)
 右手に掴んでいる桃だけは離すまいと、月彦はただそれだけを強く念じ――そして、不意にその腕が、何物かに強く引かれるのを感じた。
 そのまま、凄まじい勢いで全身が水流から引き上げられる。空を飛ぶ鳥の嘴に攫われる魚の気持ちはこんなだろうか――どこか人ごとのように、月彦は全身を脱力させたままそんな事を思った。
 地面に体を横たえられるのが分かった。歪んだ視界の向こう、人影らしきものが声を荒げていた。何を言っているのか聞き取る事は出来ず、とにかく返事を返そうとするも、ごぼごぼと音がするだけで何も喋る事は出来なかった。
「……! しっ……せよ! 娘に………………がッ!!」
 微かに耳に届く声、それは長く連れ添った主の声に他ならなかった。
(……あぁ……)
 自分は助かったのだと、月彦は意識の深い部分で安堵した。咄嗟に、神桃を握っていた筈の右手の指を動かしてみたが、そこに在るはずのものは消え失せていた。
(また、十年――か……)
 安堵と、落胆。その両方が、僅かに覚醒しかけていた月彦の意識を眠りの谷へと急速に誘っていく。
「ダメじゃ、月彦! 逝くなッ!!」
 悲痛な姚華の叫び声が、いつまでも耳に木霊した。

 次に目を覚ました時、月彦は布団に寝かされていた。ぱちぱちと音を立てる囲炉裏を見るまでもなく、今や我が家よりも長い時間を過ごした姚華の家の居間であるとすぐに解った。
「……姚華さま?」
 見れば、布団のすぐ脇に寄り添うようにして、姚華が横になっていた。添い寝というよりは、看病に疲れてそのまま倒れ込んだような体勢だった。月彦はそれとなく手を伸ばして、姚華の頬に触れた。
「んっ……」
 ぴくりと、姚華が声を漏らして身じろぎをする。程なく、ゆっくりとその瞼が開かれた。
「月彦……!」
 そして、月彦の顔を見るなり、まるで幽霊でも見たかのように両目を見開き、忽ち涙を溢れさせた。
「ッ……このばか弟子がッ! 心配させおって……!」
 すみません、姚華さま――月彦は掠れた声で即座に返した。
「……姚華さまが、助けて下さったんですね」
「…………全く、無茶をする……下手をすればお主は元より、儂まで死ぬ所だったのじゃぞ」
 すみません――月彦は再度、掠れた声で返した。そして、しばしの沈黙。ぱちぱち薪を爆ぜさせる炎の音だけが響く。
「……具合はどうじゃ? 何処か痛む所はないか?」
 いつになく優しい姚華の声。月彦は体を起こそうとして、それが不可能であるということを痛みによって知った。
「無理はするでない……生きているのが不思議な状態だったのじゃ……しかし、峠は越したようじゃの」
 姚華が静かに立ち上がる。
「待っておれ、すぐに薬湯を作ってやるでな」
「……姚華さま」
 居間を出て行こうとした姚華が、不意に足を止めた。
「……今まで、俺はずっと姚華さまに騙されてたんですね」
 姚華はしばし黙し、そのまま無言で居間を出ていった。



 それは、この十年何度も脳裏をよぎった事だった。そもそも、自然の成り行きでは起きる筈のない事だったのだから、姚華の仕業と考えるのがある意味最も順当な考えではあったのだ。
(……それでも、信じたくはなかったですよ、姚華さま)
 例え万倍という時間に薄まっているとはいえ、今こうしている間にも真央の体は病魔に蝕まれ、苦しんでいるに違いないのだ。それを一刻一秒でも短くするために可能な限り早く神桃を持って帰らねばならないというのに。その事情は姚華とて分かっている筈なのに……。
「……どうじゃ、月彦。具合は……」
 叱られた後の子供のような顔で、そっと姚華が居間に入ってくる。
「…………。」
 月彦は呆然と、まるで姚華の言葉など聞こえなかったかのように布団の上に胡座をかいたまま庭の景色を見つめていた。縁側では雀が三匹、踊るような足取りで小虫の取り合いをしていた。
「なんじゃ、薬湯がちっとも減っておらぬではないか」
 布団の傍らに置かれた盆と、その上にある全く手をつけた形跡の無い薬湯を見るなり、姚華が咎めるように言う。
「ちゃんと飲まねば、いつまで経っても体は治らぬぞ?」
「飲みたくありません」
 月彦は姚華の方へは一切目をやらず、投げやりに言ってふうとため息をついた。
「怪我を治した所で、神桃は無いんです。新たな神桃が実る迄にまた十年……それもどうせ、姚華さまが隠してしまわれるんですよね」
「月彦……」
 視界の外で、姚華がハッと息を飲むのが解った。
「命を助けて下さった事には感謝しています。……しかし、姚華さまがなさっていた事は許せません」
「…………すまぬ、としか言えぬ」
 視界の外で衣擦れの音がした。頭でも下げているのかもしれないが、月彦は頑として庭の景色を見つめていた。
「……どうしても、お主を手放したくなかったのじゃ」
 姚華が、布団の傍らに座る――が、無論月彦は見ない。
「月彦や……次こそは、次に神桃が実った暁には、必ずお主に渡すと約束する。それで……許してはくれぬか?」
「……どうでしょうか。姚華さまがそのおつもりでも、また“不測の事態”が起きて神桃が消えてしまうのではないのですか?」
「意地の悪い言い方をする……それほど儂が信用出来ぬのか?」
「俺よりも、ご自分の胸にお聞きになったほうがいいと思います」
「月彦……!」
 今にも泣きそうな声を出す姚華の方へは意地でも目をやらず、そのまま布団を被って横になる。姚華はしばし傍らに座していたが、程なく静かに退室していった。



 数日が経過した。
 姚華の作る薬湯をろくに飲んでもいないのに体の痛みがみるみる治っていくのは、不老長生の水とやらを常用していたせいというのもあるのだろう。
 体の具合としては、もう十分に起きあがって畑仕事に行くことも可能ではあるのだが、精神的な問題で月彦は床から出られなかった。というより、出る理由が無かった。
 どれほど真面目に畑仕事に行き、姚華の身のまわりの世話をしたところでまた十年待たなければならないことに変わりはない。それでなくとも、何十年もの間無駄足を踏まされれば、紺崎月彦という人間が如何に健全な精神を持ち合わせていたとしても、それも摩耗するというものだった。。
 だからといって、いつまでも寝床でクサクサしていてもしょうがないのだが、なまじ姚華に対してつれない態度をとってしまった手前、突然ころりと笑顔に戻って畑仕事に行くわけにもいかない。。
 何より、簡単に姚華を許してまたこのような事を繰り返されても堪らない。姚華にはきっちり反省してもらわねばならないのだ。
(……でも、結構堪えるんだよなぁ……)
 姚華の出す食事が不味いのは、既に覚悟の上だから仕方がない。一緒に出される薬湯も確かに不味いが、飲めないという程ではない。が、月彦はあえて――姚華に対するあてつけの意味でも――それらにろくに手を付けないことにしていた。例え姚華の居ない場所で空きっ腹をかかえる羽目になっても、反省を促す意味でそうしようと決めたのだ。
 とはいえ、怒りが持続していた最初の二,三日の間は未だ良かった。そのまま怒りが持続できれば良かったのだが、月彦とて人間。時間が経てばそうそう怒ってばかりもいられない。勿論態度の上ではそういうフリをするのだが、しかし怒っていた時には気にもならなかった事に目が行くようになってしまうのだ。
 特に月彦が苦痛を感じるのが、姚華が食器類を片づけに来た時の表情だ。無論、しっかりと見るわけではないが、殆ど手つかずのままの食事と薬湯を見るなり、姚華が露骨に表情を曇らせるのが視界の端に見えてしまうのだ。そして、そのまま無言で食器類を片づけ、無言のまま部屋を去っていく時などはついその背を目で追ってしまったりもする。
 そんな様を見れば、もう姚華は十二分に反省しているのではないかとも思えるのだが、『そう思わせる為の演技ではないのか?』――などと勘ぐってしまう辺り、長い事母娘狐に騙され続けて用心深くなってしまった月彦ならではの思考回路と言ってよかった。
(……姚華さまはそんな小細工をする人じゃない……とは思うけど……)
 そういった事に気が回らないからこそ、将棋や囲碁もあれほどに弱いのではないか、とも思える。だとすれば、このままでは姚華の方が心身を害してしまうのではないか――。
(……明日から、食事くらいは……ちゃんと食べるか)
 何より、このままでは怪我がどうこうよりも純粋に飢え死にしかねない。少しずつ段階を踏んで、姚華を許していこう――そんな事を考えながら、ごろごろと眠れぬ夜を過ごしていた時だった。
 すっ……と。突然居間の引き戸が静かに開かれた。反射的に月彦は身を起こし、引き戸の方へと目をやった。
「……すまぬ、起こしてしもうたか」
 小声で漏らして、姚華は後ろ手で戸を閉め、そっと布団の側へと腰を下ろした。
「……こんな夜更けに、何か御用ですか?」
「うむ……用……という程の事でもないのじゃがな……本当はお主が寝ている間に済ませてしまおうと思ったのじゃが……」
「どういう事でしょうか」
 月彦の声は、あくまで感情を含まない。そんな己の言葉の一言一句が姚華の心を切り刻んでいると自覚して尚、己の力ではどうしようもなかった。
「儂の力では……神桃の実りを早める事は出来ぬ。即ち、お主は最低十年ここに足止めをされる事になるわけじゃが……」
 姚華が膝立ちになり、両手を月彦の頭へと伸ばしてくる。
「月彦や、お主……今一番会いたいのは誰じゃ?」
「それは……勿論真央……娘です」
「ならば、その者の事を思い浮かべるが良い…………これが、儂に出来るせめてもの償いじゃ」
 どういう事なのだろう、と首を捻りたくなるも、兎も角姚華の言う通りに月彦は真央の事を思い浮かべる。長く顔をみていないせいか、その輪郭は些か頼りなげではあるが、父さま、父さまと懐いてくる可愛らしい声が今にも耳に届きそうな程に、強く思い描く。
「……っ……姚華さま!?」
 まるで、月彦の想いに反応するかのように、姚華の体が輝き始める。その光は徐々に強く、目映いばかりとなりとうとう目を開けていられなくなった。
「……ふぅ、もう目を開けても大丈夫じゃぞ」
 あれ、その声は――姚華(?)の声で、月彦はゆっくりと瞼を開いた。そして、驚愕した。
「ま、まままま真狐っ!?」
「マコ? お主の娘の名は真央……ではなかったか?」
 眼前に居る、胸元の大きくはだけた着物といい破廉恥な巨乳といい、どこからどう見ても真狐そのものの姚華は真狐の声で、はてと首を傾げる。
「にしても……お主の娘というから、てっきり赤子か幼子であろうと思っておったが……」
 姚華自身、物珍しそうに獣耳を触ってみたり、尻尾をぱたぱた振ってみたりしている。
「いえ……姚華さま……“それ”は娘じゃなくて……娘の母親の方です」
「何じゃと……?」
 そんな馬鹿な、という顔の真狐――ではなく、姚華。
「儂は間違いなく、“お主が最も会いたい者”の姿を写し取った筈じゃが……」
「姿を写し取る……変化のようなものでしょうか?」
「術の原理は違うが、確かに妖狐や妖狸が使う変化に似てはおるの。……しかし、娘ではなく母親の姿になるとはの……お主、ちゃんと娘の事を想うておったのか?」
「お、思い浮かべましたよ!」
 じぃと、姚華が疑いの眼差しを向けてくる。しかもよりにもよって真狐の姿を映した状態でそれをやられるのだから月彦はたまらなかった。
「……やむを得ぬ。ならば今一度試してみるとしよう……本当はいきなり見せて驚かせようと思ったのじゃが」
 さも不本意そうに、姚華が月彦の頭へと手をやり、その体が白く光り輝き始める。月彦もまた、真央の姿を己の中に思い描いた。
「……これでどうじゃ?」
 光が収まるや否や、姚華が尋ねる――が。
「……やっぱり真狐……です」
 その姿は変わらず、真央ではなく真狐のままだったりする。
 また、じぃと……姚華が疑いの目を向けてくる。
「……ひょっとしてお主、娘の事が気がかりというのは嘘偽りではないのか?」
「なっっ……何を仰るんですか! 俺がこの四十年間、どれだけ真央の事を心配していたと……!」
「本当に娘の事が一番気がかりで会いたいと思っておるのなら、儂はこのような姿になる筈はないのじゃがの。…………にしても、なんじゃこの乳は」
 ぐい、と己の手で持ち上げながら、姚華が呆れたような声で呟く。
「お主、こんなはしたない乳をした女が好みなのか?」
「……返答に困る質問ですが、はしたない乳“は”好きです」
 “は”をことさら強調して、月彦は返した。
「照れずとも良い。娘の母親に関してはいろいろ悪し様に言うておったが、心の底では惚れておるのであろ」
「惚れてません!」
 月彦は声を大にして叫んだ。恐らく姚華には悪気はないのだろうが、真狐本人の顔で、本人の声で“あたしの事好きなんでしょ?”等と言われては堪らなかった。
「……姿を写し取った甲斐はあったかの」
 不意に、ぽつりと姚華が呟く。
「お主の元気な声を聞いたは久方ぶりじゃ。……矢張り、惚れた女の姿というのは男には特効薬じゃの」
「…………ですから、惚れてなどいないと、何度申し上げたら……」
 他の何を勘違いされても構わないから、そこだけは誤解しないで欲しいという切実な声で、月彦は否定する。
「確かに、会いたい女かどうかという点では、どちらかといえば会いたいと言える位置にいる奴かもしれません。でもそれは、好きだからとかそういう事ではなく――」
「もう良い、何も言うな」
 しぃ、と月彦の唇を塞ぐように、姚華が人差し指を立てて当ててくる。
「相手が妖狐の女ではなかなか素直にもなれぬという事くらい、察せぬ儂と思うてか。……じゃが、今宵だけは特別じゃ」
「いや、ですから……本当に……むぐっ」
 みなまで否定しようとする月彦の口を塞ぐように、姚華は月彦の頭を己の胸元へと埋める。
「素直に甘えよ、と言うておる」
 窘めるように言って、姚華はそのまま月彦の頭共々横になる。
「今宵だけじゃ。……明日からはしっかり体を治して、神桃が実るまで頑張るのじゃぞ」
 愛しむように後ろ髪を撫でながら姚華が小声で呟く。励まそうとしている――というのは、勿論十二分に月彦にも解ってはいるのだが。
「んぐっ……んむむっ…………ぷはぁっ……! 窒息させる気ですか、姚華さま!」
「す、すまぬ……ええい、他人の体というのは加減が難しいでな……」
 改めて、むぎゅうと谷間に顔が押しつけられる。たっぷりの巨乳の合間で月彦は巧みに呼吸できるだけのスペースを確保し、頷いてみせた。
「しかし……何というか……すさまじいの。儂も小さな方ではないと自負はしておったが……これでは、さぞかし肩も凝るであろう」
 感心するような、それでいて呆れるような姚華の言葉を聞きながら、月彦はここぞとばかりに顔中で真狐乳の感触を楽しんでいた。
(あぁ……この感触、たまらん……!)
 そもそも、女断ちをして四十余年。本来ならば鬱積した性欲にムラムラして暴走する筈が、一度もそういう事にならないという辺り、例の不老長生の水とやらに精神を落ち着ける働きでもあるのかもしれないと、今更ながらに月彦は思っていた。
(しかし、ダメだ……この巨乳を見せられては……)
 例え真央と三日三晩続けてヤりまくり、精も根も尽き果て真っ白に燃え尽きた直後であろうとも、この極上の巨乳をつきつけられれば忽ち剛直は天を仰ぎはち切れんばかりにそそり立つだろう。
 ましてや、長く禁欲を強いられた末、こうして生乳を顔に擦りつけられては――
「……あの、姚華さま」
「なんじゃ?」
「その、大変申し上げにくいのですが……」
「好きに甘えよ、と言うたばかりであろ。申してみよ」
「……触っても良いでしょうか?」
 そっと巨乳から顔を上げて、月彦が恐る恐る申し出ると、姚華はまるで母親のような笑みを浮かべる。
「お主にそのような顔をされては、我慢せよ――とは言えぬの」
「ありがとうございます。……では、少しだけ」
 少しだけ、少しだけ――そう呟きながら、月彦は着物の内側へと右手を滑り込ませ、むぎゅっ、むぎゅと捏ね始める。
「んっ……」
「すみません、痛かったですか?」
 一応、巨乳を捏ねる手は止めて月彦は伺いを立てた。
「……大丈夫、少し……驚いただけじゃ」
「そうでしたか。では――」
 続きを、と今度は両手でむぎゅむぎゅとこね回す。姚華がハッと息を飲むが、月彦はまるで気がつかないフリをして、四十年ぶりの愛撫に没頭する。
「つ、月彦や……」
 とうとう堪りかねたかのような姚華の声。
「何ですか? 姚華さま」
「その……何じゃ……いつも、そのようにするのか?」
「そのように、とは……?」
 むぎゅうっ、と指の合間から白い肉が盛り上がるほどに強く捏ねながら、月彦は尋ね返す。
「っく……そ、そのように、強く……するのか、と……聞いておる……ンッ……」
「ええ、その方が真狐も喜びますから。……痛いですか?」
「ンッ……ふぅ……痛くは……っ……いや、痛いといえば、ンッ……痛いのじゃが……なんというか……こ、これっ……話をする時くらい……手を、止めぬか……っ……」
「ああ、すみません」
 まるで気がつきませんでした、と言わんばかりに惚けた声で一端手を止める。見れば、姚華は僅かに息を弾ませていた。
「姚華さま、どうかなさったんですか? 随分息が……」
「た、たわけめ……それはお主が………………こ、この体は、お主の伴侶の体を写したものじゃ。それを……あのようにされては、息が弾む事もあろう……」
「どういう事なのでしょうか」
「と、とにかく! もう乳を触るのは止めじゃ……良いな?」
「そんな……」
 月彦はまるでこの世の終わりがきたような顔をする。
「姚華さまのお陰で……やっと元気が……明日から頑張ろうという気になりかけてたのに……」
「そ、そんな顔をするでない! 全く……たかが乳を触らせぬだけでそこまで悄気るとは……お主もとんだ助平じゃの」
 ふぅ、とため息を一つ。
「しょうがないの…………乳を触らねば元気が出ぬと言うのならば……全く触らせぬというわけにもいかぬか……」
 そもそもの元凶は自分だから――と、さも言外に含めるような独り言に、ぴくりと。月彦は露骨に反応する。
「それはつまり、触っても良い……という事ですか?」
「……触るだけならの。先のように強く捏ねるのは無しじゃ」
「解りました。強く捏ねるのはダメなんですね」
 ではさっそく――とばかりに月彦は着物の内側へと手を這わせ、姚華に言われた通り捏ねはせず、さわさわと柔らかい肉を弄ぶようにして撫でる。
「……ッ……」
 咄嗟に、姚華が唇を噛むような仕草をするが、勿論月彦は気がつかない。……フリを続ける。
「姚華さま、触りにくいので少し着物を開きますよ」
「なっ……こ、これっ……月彦、待っ――」
 姚華の言葉が終わるよりも早く、月彦は姚華の着物を――正確には真狐の着ているそれだが――を開き、巨乳を露出させる。
 おぉ……と思わず声を漏らしてしまいそうな程に、月彦は軽い感動を覚えた。そしてそのまま、現れた桜色の蕾へと吸い付いた。
「んっ……ぁ……!」
 姚華が悲鳴ともとれる声を上げるが、月彦は構わず持てる舌技の全てを尽くして先端を舐る。ほんのりと甘い、ミルクのような味がする乳首を舐め、吸い、時には甘く噛んだりして嘗め回していると、堪りかねたように姚華が後頭部に爪を立ててくる。
「つ、月彦……もう……っ……」
 はぁはぁと桃色の息を吐きながら悶える姚華を尻目に、月彦はちゅぱっ、と音がするほど強く吸い上げてから唇を離すと、手つかずの方へと再び舌を這わせ、先端を舐る。
「こ、これっ……もうっ……」
 堪りかねたような声を上げて姚華が月彦の頭を引きはがしにかかるが、まともに力のこもっていない腕などにはね除けられる程月彦は非力ではなかった。
「っ……何故、じゃ……何故っ……胸を舐られたくらいで、こんなっ……くっ……」
 さも不可解と言いたげな姚華の言葉を、月彦はどこか冷静に分析していた。
(それは多分……“真狐の体”だからですよ、姚華さま)
 ただ、姿形を似せただけではなく、その体のつくりまで似せたのだとすれば、十分にうなずける事だった。
「――ええいっ、いい加減にせんか!」
「っ……ぃッ!?」
 突然、姚華が大声を上げたその刹那、月彦の体は目に見えぬ力によって吹き飛ばされた。居間の壁で強かに背中を打ちながらも辛うじて目をやったその先では、いつもの姿に戻った姚華が着物を正すような仕草をしていた。
「全く……人が甘い顔をしておればつけあがりおって……乳を触るも限度というものが在ろう!」
 無礼な行いに対して怒っているというよりも、照れを隠す為に怒っているような――そんな不自然な怒鳴り方だった。そう、まるで異性とこういった事をするのは初めてであるかのような――そんな“匂い”を、月彦(の中の獣)は敏感に嗅ぎ取っていた。
(もしかして……姚華さま……経験が無いのでは)
 夫が居た――という事は、前に聞いた。しかしだからといって必ずしも経験済みというわけではないのではないか。
(ふむ……)
 ならば、相応のやり方をすれば、“最善の結果”となるのではないか。頭の何処かで舌なめずりをしながら、月彦は“今後の行動”を瞬時に決めた。



「うっ……っ……」
 月彦はさも、背中を強かに打ち付けて動けない――そう示すかのように蹲る。ハッとした姚華がすぐさま傍らに駆け寄ってきた。
「つ、月彦! 大丈夫か!?」
「大丈夫です……痛っ……」
「す、すまぬ……加減はしたつもりだったのじゃが……布団に戻れるか?」
 姚華に肩を貸して貰うような形で、月彦はどうにかこうにか布団へと戻る。勿論、半分以上演技だった。
「すみません、姚華さま……あまりにも懐かしくて、つい……」
 まるで、死を前にした病人が遺言を残すような苦しげな声で月彦は言う。
「……謝るのは、儂の方じゃ。甘えよ、と申しておきながらの……伴侶の姿となったからには、お主がああいう事をしたがるのも当然、予想すべきであった」
「……確かに、懐かしかったから……というのもありました。……でも、決してそれだけじゃないですよ」
「……? どういう事じゃ?」
「…………いえ、良いんです。……所詮は弟子の身……分は弁えてます」
「解らぬ、どういう事かはっきりと申してみよ」
「………………例え、娘の母親と同じ姿をした女性が目の前に現れたとしても、中身が姚華さまでなければ、あのような事をしたいとは思わない……という事です」
 控えめに言って、月彦はすぐさま姚華から視線をそらした。まるで、恥ずかしくて顔を合わせられない――という風に見える様に。
「……つ、月彦や……それは……どういう――」
「………………みなまで言わせるおつもりですか。……男に恥をかかせて楽しむ癖があるなんて、姚華さまも悪い方ですね」
 布団にくるまり、姚華に背をむけるようにごろりと横になったまま、さもぶっきらぼうに月彦は呟く。
「い、いや……すまぬ……まさか、お主にそのように想われておったとはの……」
「姚華さまにだけは悟られまいと、ひた隠しにしてましたから。……知られれば、最早側には置いていただけないだろう、と」
「た、たわけ! 何を、馬鹿な……儂も元を辿れば人間の女じゃ…………弟子とはいえ、男にそう言われて、悪い気なぞするものか」
「…………本当ですか、姚華さま」
 くるりと、月彦は姚華の方へと顔を戻す。姚華の顔は、思わず手を伸ばして温度を確認したくなるほどに真っ赤に染まっていた。
「……しかし、本当に意外じゃの……てっきり、お主は儂の事を嫌っておるものだとばかり思っておった……」
「姚華さまの事が本当に嫌いなら、こんなにも長く側に仕えたりしませんよ」
「……それは神桃が欲しいからなのであろ?」
「勿論、その為でもあります。……いえ、だからこそこの想いを姚華さまにだけは知られるわけにはいかなかったのです」
「月彦や、話をもったいぶるのはお主の悪い癖じゃ。……率直に申してみい」
 はい、と月彦はさも畏まった風に頷いて、そして恐る恐る切り出す。
「俺は神桃を頂くために姚華さまの元へと来ました。それは即ち、神桃を頂いたらすぐに帰らなければならないという事です。何より、娘の命がかかっていますから、帰れるものならば今すぐにでも帰りたい。……しかし、長くここで暮らすうちに姚華さまに仕えたいという気持ちが芽生え始めたのも事実です」
「……月彦……お主、そのように思っておったのか」
 ふるふると、感動に身を震わせている姚華を尻目に、月彦は話を続ける。
「しかし、言えなかった……もしそれを口にすれば、神桃欲しさの機嫌取りの為ではないかと、姚華さまに邪推されるのが……それが怖かったんです」
「……確かに、お主の言う通り……神桃を受け取ってすぐにお主が山を去れば…………或いはそのように考えたやも知れぬの」
「ですから、俺はここを去る時に、そっと……想いだけでも伝えようと思っていたんです。そうすれば最早機嫌取りなど関係なしに受け取ってもらえるでしょうし、もし色よい返事が頂けたら……また戻って来ようと」
「……馬鹿な事を……もっと早くにそれを言えば……儂とて神桃を隠したりはしなかったものを…………」
「……それを仰るなら姚華さまも姚華さまです。心が読めるのですから……もっと早くに俺の想いに気がついて欲しかったです」
「…………いつぞや、酒宴を開いたであろ。あの頃からじゃったかの……お主の心は覗かぬと、そう決めた」
「何故ですか?」
「…………なに、つまらぬ理由じゃ。儂もまだまだ精進が足らぬ……という事よ」
 ふぅ、と物憂げに姚華はため息をつく。
「しかし月彦や……お主も罪作りな男よの」
「……どういう意味でしょうか?」
「お主……伴侶はおろか娘まで居る身であろう。それであるのに……いや、責めておるわけではないぞ。儂が居った頃の人の世と今とでは、男女のあり方も色々と変わっておるであろうしの」
「……姚華さま、前からずっと言おう、言おうと思っていたんですが」
「申してみよ」
「俺の娘の母親を伴侶、伴侶と仰ってますけど……俺たちは別に籍に入ったわけでも結婚したわけでもないですよ?」
「……何じゃと!? ではお主、婚約もしておらぬ相手を孕ませたのか!」
 見損なったと言わんばかりに声を荒げる姚華を宥めながら、月彦は反論する。
「孕ませたなんて人聞きの悪いことを仰らないで下さい。そもそもの馴れ初めがですね――」
 月彦は真狐に攫われ、襲われた旨と、その後真央がやってきたという事のあらましをかいつまんで説明した。
「……というわけでして、確かに娘は大切ですけど、その母親については憎みこそすれ愛しいなどという気持ちは微塵もないですし、ましてや惚れるなんてことはあり得ないんですよ」
「お主の話は信じたいが……しかしその割には随分と会いたがっている様じゃの」
 ぽつりと、ジト目で姚華が言ったのは、先ほどの“最も会いたい相手は誰か”についての事だろう。
「ですから、仕返しをしてやりたいという意味で会いたい相手というならば、確かにそうだといえなくもないです」
「なるほどの……そうならそうと言えば良いのに、お主は肝心な事ほど黙する男じゃの」
 うむ、うむと姚華は納得するように頷く。
「しかしのう……お主が儂の事をそんなにのう……いやはや、何というか……」
 布団の傍らに座ったまま、姚華はなにやらソワソワしながらブツブツと独り言を呟く。
「それにしては……滝に落ちてからのお主のつれない素振り……些か度を逸してはおったように思えるのじゃが?」
「少しばかり本気で怒ってましたから。後は……折角姚華さまに告白するチャンスがまた流れたっていうのもありましたし……少しくらい意地悪しても良いじゃないですか」
「…………あれを少しというのか、お主は…………儂が、どれだけ心配したか……お主が全快するまではと、煙草も断って……だというのに…………!」
「……言われてみれば」
 食事時と寝ている時くらいしかキセルを口元から離さない姚華が、ここ数日吸っているのはおろか口にくわえている所すらも見ていない事に月彦は今更ながらに気がついた。
「すみません、気がつきませんでした」
「全く……お主という男は本当に…………」
 ブツブツと呟きながらも、その声が徐々に小さく、次第にもごもごと口籠もっていく。
「……儂は、構わぬからな」
 そしてぽつりと、小声で最後にそう付け足した。
「構わない……とは?」
「コブ付きでも構わぬ……と申したのじゃ。お主が無事娘の病を治した後で……娘と共にここに戻りたいというのなら、儂は拒まぬ。……娘も、妖狐とはいえ人との混血ならば、仙域に来ても体を害するという事はあるまい」
「姚華さま、それは、つまり……姚華さまも――」
「ええい、みなまで言わすな!…………そうでなくては、お主を追って滝壺に落ちたりするものか。お主は元より儂の命まで危うかったというのは、決して誇張ではないのじゃぞ」
「…………ありがとうございます、姚華さま」
 月彦はそっと片腕だけで姚華の体を抱き寄せ、その頬に軽く口づけをした。たちまち、かぁぁと姚華が顔を真っ赤にする。
「こ、これっ……! いきなり何をっ――」
「姚華さま……前に夫が居たと……仰ってましたよね?」
「それが……どうかしたのか?」
 赤い顔を俄に朱にまで戻して、姚華がばつが悪そうに視線を逸らす。
「思い出したくない事だったらすみません。……ひょっとして、その人とは……」
「…………婚約はしたがの、契りは結んでおらぬ。その前に戦が始まっての…………」
 そこから先は言うに及ばず、とばかりに姚華は言葉を濁した。
「失意の余り川に身を投げたが……運悪く、否――運良く、と言うべきかの。たまたま人界で釣りをしていた物好きな仙人に拾われて、今に至るというわけじゃ」
「成る程……じゃあ、姚華さまはまだ……」
「……“男女の事”は知らぬ。……尤も、今までは知りたいとも思わなんだがの」
「今までは、ですか」
 ハッと、己の言葉の意味する所に姚華はまたしても頬を染める。
「ち、違うぞ、月彦! 儂は決してそういう意味で言ったのでは――」
 慌てて否定しようとする姚華の体を抱き寄せ、そっと唇を奪う。
「……本当は、興味がお有りなんじゃないんですか?」
 “男女の事”に――囁いて、キス。
「んぅ……!」
 はね除けようとする手を押さえつけながら、体を反転、姚華を押し倒すような形になる。
「……ん、はっ……何、を……馬鹿なっ……儂はっ……んンッ……」
 三度目のキスは最も深く、濃密に。頭の中まで嘗め回すかのように。
「んくっ……んむ……んっ……んふっ…………んっ……んっ……」
 抗おうとする姚華の腕から力が抜けるまでは、くちくちとその唇を味わい、屈服させるようなキス。腕から力が抜けた後は、ひたすら甘い――体中が蕩けるようなキスをこれでもかと続ける。
「んはぁ……」
 瞳をとろん、とトロけさせ、甘い息を吐く姚華の耳元に、月彦はそっと唇を近づける。
「姚華さま。……もう少し素直にして差し上げます」


 

「ま、待て……待つのじゃ、月彦……」
 さて、後は食べるだけ――内なる月彦がぺろりと舌なめずりをしたその刹那、姚華が頑健に“待った”をかける。
「い、いくらなんでも……ちと性急すぎやせぬか? 月彦や……」
「性急……ですか」
 うむ、と姚華は頬を染めながら頷く。
「儂にも……心の準備というものが要るでな。……それにお主とて病み上がりであろ、無理はできまい……決して……お主と寝るのが嫌というわけではないぞ?」
「いえ、俺の方は全然大丈夫です。……というより、ほぼ完治です」
「か、仮にお主がそうでも……儂が駄目じゃと申しておる!……こういう事はまず吉日を選んでじゃな……それから身を清め香を炊き――」
「そんな悠長に待ってられません。嫌なら嫌だと、はっきり仰って下さい」
「嫌ではないと言っておろうが! ただ、少し時間を――」
 反論しようとする姚華の唇を、月彦はキスで塞いでしまう。
「んんンっ……!」
 どうやら、キス自体は嫌ではないらしい――回数を重ねるごとに姚華の抵抗が弱くなっていく事から月彦は察した。
「んぁ……お主……いつも、この様な接吻をするのか?」
「ええ。姚華さまさえお気に召すなら、何万回でも」
「だ、誰が……気に入ったと――ンンッ!」
 再度唇を奪いながら、月彦はさりげなく、姚華の体をまさぐっていく。無論、真狐のそれに比べれば見劣りはするものの、成人女性として十分に育っている胸元は月彦の基準で判断しても“豊か”と思えるレベルだった。
(考えてみれば……よくもまぁこの乳を前に何十年も我慢できたよな)
 そのことに、月彦自身驚いていた。服の上からも十分に解る程に豊かな胸元は確かに、露骨に露出こそしていないまでも白い谷間には深い闇が落ち、今すぐにでも鼻面をねじ込んでフガフガしたい衝動に駆られる程だ。
(でも、いきなりそんな事をしたら、また――)
 先ほどの様に、謎の衝撃波によって吹っ飛ばされるであろう事は目に見えている。
(少しずつ、少しずつ……)
 久方ぶりに犯り甲斐のある“獲物”を目の前にして、内なる月彦はやる気満々だったりする。
「つ、月彦……ダメ、じゃ……本当に、儂は……」
「大丈夫です。……ちゃんと優しくしますから」
 ね、姚華さま?――まるで幼子をあやすような笑顔。月彦と何度か体を重ねた女性なら、その笑顔こそ最も警戒せねばならない笑顔であると知っているのだが。
「恐いことなんか何もありません。全部俺に任せて、姚華さまは目を閉じてじっとしてくれてればすぐに終わります」
 諭しながら、モゴモゴと何か反論しようとしている姚華を無視するように、月彦は胸元の裾からするりと右手を忍ばせ、姚華の肌に直に触れる。
「っっっ……こ、これ! 月彦!」
 忽ち、姚華がその手をはね除けようとする――が、月彦が逆の手でそれを制す。
「姚華さま、もっと俺を信用して下さい」
 言って、キス。そうすれば、姚華の抵抗が和らぐ事を学んだからだ。
(優しく、優しく……)
 いきなり真狐や真央のそれにするように揉めば、間違いなく痛がるだろう。力の限り揉みくちゃにしてやりたいという己の欲望を抑え込みながら、殆ど撫でるだけのような手つきで姚華の胸を愛撫する。
「ぁっ……ぁっ、やっ……」
 姚華が仰け反りながら声を上げ、キスが中断される。月彦はそのまま体を下方へ滑らせながら、姚華の頬、首筋へとキスを残し、衣類を徐々にはだけさせていく。
「ま、待て……月彦……」
 瞳はすっかりトロけさせてしまっているというのに、服を脱がされる事に姚華は余程抵抗があるのか、月彦の手首を掴んでくる。
(……やっぱり経験ないからかな)
 或いは、育った時代が違うからなのかもしれない――などと思いつつも、月彦の手は止まらず両乳が見える程に着物をはだけさせてしまう。
「……とても綺麗ですよ、姚華さま」
「っっっ……だ、黙れ……世辞など、無用じゃ……どうせ、妖狐の女にも……同じ様な事を言うのであろ」
 ぷいっ、とそっぽを向いてしまう姚華を尻目に、月彦はしげしげと姚華の体を見る。白い肌には薄紫色の入れ墨の線がいくつも走っており、それが何とも物珍しく、そして神々しいと思える。
「世辞なんかじゃないです。本当に綺麗ですよ、姚華さまの裸」
 言いながら、白い肌にそっと口づけをするとそのまま入れ墨の薄い紫の線に沿ってツツツと舌を這わせる。勿論、這わせながら――胸元を愛撫することも忘れない。
「っ……ンっ……」
 姚華がくすぐったそうに身もだえする。月彦は少しだけ胸を触る手に力を込め、固く尖り始めた先端を指の腹で擦るようにして弄る。
「ぁっ、……ぅ……つ、月彦っ……ぅ……ンっ……」
 カリッ……と姚華の爪が後頭部に立てられる。そうされるのが“良い”のだと月彦は判断して、先端部を重点的に攻め、舐る。
「ぁ、ぁ、ぁ……っ…………やっ……ぅっ……ぁふ……ぅ……」
 ふぅ、ふぅと姚華が荒い呼吸を繰り返す。身悶えして、まるで月彦の愛撫から逃げるように姚華が身をよじるが、勿論その程度の事でケダモノが獲物を逃がす筈もない。
「姚華さま、声を押し殺したりなんてしなくていいですよ」
「お、押し殺して、など……んっ……っくっ…………」
 明らかに唇を噛むような仕草をしている姚華に苦笑しながら、月彦は久方ぶりの生乳を堪能するようにしゃぶりつき、姚華が愛撫になれてきたと見るや大胆に両手を使って揉み捏ねる。
 ぐにいっ、と握るようにして捏ね、盛り上がった先端部へと吸い付き、甘く噛んでは舌で潰すようにして舐め、横目で姚華の反応を観察しながら、じっくりたっぷり半刻ほどもそうしていると――。
「い……、いい加減にせんか! いつ、まで……乳、ばかり……ンっ……」
 とうとう堪りかねたように姚華が悲痛な声を上げた。
「ああ、すみません。……ついつい夢中になってしまいました」
 すみません、とはいいつつも全く悪びれた風もない笑顔で、しかし両手はさも名残惜しいとばかりに姚華の乳を撫で続ける。
「……お主が乳が好きなのはようわかった。……じゃから、触るなとは言わん。言わんがの……」
 ちらり、と。姚華が意味深な視線を送ってくる。『儂の言いたい事を察せ!』という目の光を受けて、はてと月彦は考える。
「もっと、じゃな……儂の事が好きという証がの……儂としては欲しいわけでの…………」
「……成る程、解りました」
 月彦はするりと両手を姚華の背へと回し、そのまま交差するようにして後頭部へと当て、抱き込むようにして唇を重ねる。
「……こう、ですか?」
 軽く、唇だけが触れるようなキス。満足そうな、それでいて物足りなそうな笑みを、姚華が浮かべる。
「もっと、じゃ……もっと――ンンンっ……!」
 さらに強く抱きしめ、啄むようなキス。姚華も段々要領が解ってきたのか、徐々に自分から唇を、舌を動かしてくる。
「ふ、ぁ…………これ、は……クセに、なりそうじゃの……」
 とろりと、唾液の糸を引きながら唇を離した姚華が、ぽつりとそんな事を漏らす。
「正直……接吻がこれ程に良いものだとは思わなんだ……酒なぞよりよっぽど酔いそうじゃ……」
「気に入って頂けて嬉しいです。……でも、姚華さま?」
 さわっ……と、月彦は右手を下方へ――姚華のチャイナドレス状になっている着物のスリットの辺りへと這わせる。
「確かにキスも良いですけど……こっちのほうがもっと良くて、クセになるんですよ?」
「ぅ……や、やっぱり……最後まで、する……のか?」
「ここまで来て止める法はありませんよ、姚華さま」
「わ、儂としては……こうしてお主と接吻をしておるだけで……十分なのじゃが……――ひっ……!?」
 突然、姚華が悲鳴ともとれる声を上げる。無論、月彦は笑顔のままだ。
「どうかしましたか? 姚華さま」
「……何かが……腹に……」
「腹……?」
 月彦はさらにぐいっ、と腰を突き出す。たちまち、姚華が脅えるような声を出した。
「つ、月彦っ……まさか――」
「ええ、姚華さまのご想像通りですよ。早く姚華さまの中に入りたくて、こんなになってるんです。…………これでも、キスだけで良いなんて、殺生な事を仰るんですか?」
「ま、待て……待て……これが、お主の……じゃと?」
 恐る恐る……といった手つきで、姚華が己の腹につっかえ棒の様になっているものへと手を這わせる。姚華の乳を弄りながら、既に襦袢も半脱ぎ、下帯に関してはスパーンと脱着済みの為、その手は直に肉柱へと触れた。
「なっっ……む、無理じゃ! こんなっ、こんなっ……――っ……」
「姚華さま、落ち着いて下さい」
 突然狂ったように暴れ出す姚華を宥める――というよりは押さえつける様に、月彦は抱きしめる。
「大丈夫ですから。姚華さまは初めてですから、大きいように感じるだけです」
「う、嘘じゃ! お主、儂を殺す気か!」
「よ、う、か、さ、ま?」
 じぃ、と。月彦は窘めるように姚華の目を見る。
「初めてで色々勝手が分からないのは仕方ありません。でも、そんなに分別のない事を仰らないで下さい」
 姚華の目を見つめながら、そっと。唇が触れるだけのキス。
「姚華さまは美しい……それこそ、心底抱きたいと思える魅力的な女性です。でも同時に、俺の師匠でもあるんですから…………もっとドーンと、大きく構えていて下さい」
 うっ、と。姚華が恥じ入る様に口を噤む。
「そう……じゃな……。確かに……弟子のお主の前で、あまり見苦しい真似は……」
「ええ、そうです。……それに、もし本当に無理そうなら、ちゃんと途中で止めますから」
 説得を続けながら、月彦は一足先に姚華の下帯を脱がしにかかる。姚華は一瞬抵抗するような素振りを見せたが、説得の甲斐があってか、先ほどまでのように嫌だと喚くような事は無かった。
「じゃあ、姚華さま。……触りますよ」
「う、うむ……ンっ……」
 指先が恥毛に触れ、さらにその下――既に潤いを帯びている花弁に触れるや、姚華がぎゅうと両手でしがみついてくる。
(優しく、優しく……)
 なんと言っても姚華は処女なのだ。月彦はこれ以上ないというくらい繊細な指使いで花弁を愛撫し、徐々ににじみ出る潤滑油を指先に絡め取りながらほぐしていく。
(ああ……挿れたい……っ……でも、我慢、だ……)
 まだ男を知らない無垢な体を一刻も早く自分のモノにしたい――そんな衝動を必死に押し殺しながら、月彦はあくまで優しく秘裂を愛でる。
 偏に、姚華が処女だからだ。
(最初くらいは――)
 二度と思い出したくない様な“初めて”を自分が経験してしまった反動だからだろうか。或いは、雪乃との“初めて”の時にはあまり優しくできなかったからだろうか。
 とにかく姚華が処女であると知った時、可能な限り優しくすると月彦は心に決めた。
(……もう、大丈夫じゃないかとは思うけど――)
 指先に絡みつく愛液の量からして、挿入には十分堪えうるのでは――とは思うが、月彦は念には念を入れることにした。
「……つき、ひこ?」
 はぁはぁと肩で息をしながら、姚華がとろけた声を上げる。
「もう大丈夫とは思うんですけど、一応……もう少しほぐしておきますね」
 ぐい、ぐいと体を固定するように絡んでいた姚華の手を外して、月彦は姚華の股ぐらの方へと体をずらす。一拍遅れて、待て――と、姚華が大声を上げる。
 が。
「やっ……つ、月彦っ……止めッ…………ぁっ、ぁぁぁぁぁぁ……」
 まだ、男を知らない――桜色の肉襞を、月彦は丁寧に舌で愛撫する。姚華が両手で頭を押しのけようとしてきたが、皮を剥いた肉芽をてろりとひと舐めしただけで素っ頓狂な声と共にその両腕からは力が抜けた。
「だ、ダメじゃっ……月彦っ……それ、はっ……ぅぅぅ……ダメじゃと、言うに…………」
 声を聞いているだけで、姚華が耳まで赤くしているのは想像に易い。月彦は態と音を派手に立てるようにして舌を動かし、蜜を啜る。
「っっっ……い、嫌っ……じゃ……も、もう……こんな……恥辱…………死んだ方が……マシじゃ………………」
 泣き声にも近い姚華の声に、さすがに月彦は意地悪を止め、唇を秘所から離した。見れば、姚華は今にも泣き出さんばかりに両目に涙を溜めていた。
「……すみません、姚華さま。なるべく……姚華さまが痛くないようにと思ったんですけど」
「……っ、たわけめ……次、あのような事をしたら……………………………………二度と口を利いてやらぬからなっ」
 次、あのような事をしたら――の後にえらく間をあけて、姚華が憎まれ口を叩く。月彦はもう一度姚華を優しく抱きしめ、髪を撫でてから小声で囁くように謝罪をした。
「……というわけで、姚華さま……そろそろ良いですか?」
「何が……“というわけで”じゃ…………ンっ……こ、これっ……」
 姚華の返事を待たず、月彦は先端部をぐいぐいと姚華の秘裂に擦りつける。
「早く挿れたい……姚華さまと一つになりたいんです」
「それは、儂とて………………つ、月彦や……一つ、聞くが……」
「はい?」
「……やはり、痛い……のか?」
「みたいです。俺は男なので解りませんけど」
「そ、そうか……解った。……なるべく優しく、じゃぞ」
「解ってます。それじゃあ……挿れますよ」
 月彦は姚華の体を抱きしめるように固定して、ぐいっ……と腰を前に押し出していく。
「あっ、ぅぐっ……痛ぅ……ま、待て、つき、ひこっ……」
「……もっと力を抜いて下さい。っ……力んでると、余計に痛いですよ…………」
 ぐっ、と先端部から柔肉を割開く感触が伝わってくる。続いて、ぶち、ぶちと何かが千切れるような感触――ぎりっ、と背中に爪が立てられる。
(っ……これが、姚華さまの……処女膜の感触……)
 剛直の先端に感じる確かな抵抗に、月彦は密かに興奮を覚えていた。眼前の女は、間違いなく一度も他の男には抱かれていない。自分が初めての相手なのだという実感が、軽い感動すら呼び覚ます。
(姚華さまを……俺のモノにしてるんだ……っ……)
 ある意味では、もっとも牡冥利に尽きる瞬間でもある。逸る気を押さえながら、月彦は少しずつ剛直を奥へ、奥へと勧めていく。
「ひぎッ…………む、無理じゃっ……ひぐっぅ……つ、月彦……後生じゃ……も、もう……止め――」
「もう少しですから、姚華さま……堪えて下さい」
 ぎり、ぎりと背中に突き刺さる爪の痛みに耐えながら、月彦は根本まで剛直を押し込む。
「あぐぅっぅううう!!…………っ……はぁっ…………はぁっ…………はぁっ…………」
 とんっ、と先端部が膣奥を小突いた瞬間、姚華が体を跳ねさせながら悲鳴を上げる。
(っ……姚華さまの中……ヤバいくらいキツいな……大丈夫か、これ……)
 ぎち、ぎちと剛直を締め付けてくる膣肉の感触的に、相当に無理をさせているであろう事が月彦には解ってしまう。
(まさか……裂けて……いや、それはない、よな……)
 月彦なりに“調節”はしたつもりだった。自覚はないが、相手に合わせて“それなりに”大きさを調節できるくらいの器用さは身につけている。
「……姚華さま、大丈夫ですか?」
 はぁはぁ、ぜえぜえ――依然呼吸が荒いまま、目元を伏せるようにして体を強張らせたままの姚華を気遣い、声をかけるが――返事はない。
「姚華さ――痛だだだだッ!!」
 再度声をかけようとした矢先、突然その頬が掴まれ、思いきり抓られる。
「いだだだだだだだっっっ……よ、よふかさまっ……な、なにを……」
「ッ……少しは、儂の痛さが解ったか……!」
 キッ、と涙目で睨み付けられては、月彦は反論も出来なかった。
「優しくせよと、あれ程言うたに……一気に挿れおって……本当に死ぬかと思うたわ!」「いや……なまじゆっくりじわじわと痛いよりは、一気に終わらせてしまったほうがいいと思っ――ぶっ」
 喋り終わるのを待たず、ばちこーんと平手打ちをされた。
「たわけめ、それの何処が“優しい”のじゃ!」
 ばか者っ、愚か者っ!――散々に罵られながら、平手打ちやらなにやらでポカスカと打たれる。月彦がやむなく打たれるままになっていると、不意に打つ手が止まった。
「……ええい、忌々しい……この仕打ち、決して忘れぬからな」
 苦々しい口調とは裏腹に、まるで聖母のように慈愛に満ちた手で、姚華は月彦の頭を抱き寄せ、自らの胸元へと抱き込んだ。
「……一生、忘れぬからな」
 本当にすみませんでした、姚華さま――柔らかい巨乳に顔を埋没させながら、月彦は心の中だけで、そっと謝罪をした。


 
 
「……どうします? 今夜はこれで止めておきますか?」
 姚華に抱き込まれたまま、たっぷり五分は経過しただろうか。それとなく月彦は今後の事の伺いを立ててみることにした。
「うむ……お主は、それで良いのか?」
「俺がどうこうというより……姚華さまが痛いんじゃないかと……」
 挿れただけであれ程暴れ、喚いたのだ。本番ともなれば、その痛みは倍加するだろう――そう月彦は思ったのだが。
「……並の娘であれば、そうであろうがの。……幸か不幸か、儂も仙人の端くれじゃ」
 常人よりも遙かに治癒は早い――ぽつりと、姚華が小声で囁いてくる。月彦にはそれが“続けよ”と言われたように感じた。
「……では、動いても大丈夫なんでしょうか」
「う、うむ……しかし、いきなり激しくはするでないぞ。あくまで――」
「優しく、ですね。解ってます」
 月彦は布団に肘をついて体を起こすと、ゆっくり腰を前後させる。
「っ……」
「まだ痛いですか?」
「……っ……大丈夫、じゃ……続けよ」
 はい、と返事をして、月彦はいつになく慎重に腰を使う。まだ固い――と感じる、男慣れのしていない姚華の膣内をほぐすように。
(ッ……ほんと、キツい……な……)
 恐らく、不慣れで余計な力がかかっている事もあるだろう。十分に濡れているからこそこうして動けるが、そうでなければ忽ち姚華の中を傷つけてしまっただろう。
「ぁっ……つ、き、ひこ……ッ……」
「……姚華さま?」
 ゆっくり、ゆっくり――それこそ真央が相手であれば、もどかしさのあまり気が狂わんばかりにはしたなく“おねだり”を始めるであろう程の速度で腰を使う月彦に、姚華がすがりつくように手を回してくる。
「くっ……ぁっ、はっ……うっ……もっとッ……ンっ……」
「もっとゆっくり……ですか?」
 違う、という目を、姚華はする。
「……お主と……接吻が、したい………………」
 瞳をウルウルさせながら、はぁ、はぁと今にも事切れそうな息づかいに交じってそのような事を言われては、下手な焦らしや意地悪など出来なかった。
 月彦はそっと唇を重ね、辿々しい姚華の唇や舌使いに合わせるように、珍しく受け身のキスをする。しながら――ゆっくりと腰を使う。
「んぁ……ぁふっ……ぁむっ……んんっんむぅ……んちゅ……」
 キスの合間、合間に湿った吐息を漏らしながら、姚華が積極的に舌を絡めてくる。もう十分だろう、と月彦が顔を引こうとしても、後頭部に回った姚華の手によって強引に頭を下げさせられ、強制的に続行させられる。
「んちゅっ……んんっ、んむ……んっ、んっ……んっ……」
 キスをしている最中、もどかしそうに――しかし愛しむ様に、姚華の手が月彦の体を這う。その動きに応えるように、抽送にも円の動きを加え、∞を描くようにしながらゆっくりと姚華の奥を小突く。
「ぁはァッ……ぁあっ……ぁっ、ぁっ……!」
「……姚華さま、本当にキスが好きなんですね」
 堪りかねたように背を仰け反らせ、喘ぐ姚華の髪を撫でながら、月彦はその耳に囁きかける。
「……お主は、好きでは……ないのか?」
「まさか。嫌いなわけがないじゃないですか」
 言って、姚華の額、頬に口づけをする。
「キスは勿論好きです。……でもですね、男の俺には……姚華さまの“その他の部位”も大変魅力的に見えるわけでして」
 例えば――と、月彦は姚華の胸元に手を這わせる。
「ここなんかも、とても魅力的です」
「…………本当に、お主という男は……」
 ふぅ、と。心底呆れたというような姚華のため息。
「今こそ解ったぞ。何故儂が……お主の娘ではなく、お主の娘の母親にしか成れなかったのか」
「妬かないで下さい、姚華さま。あんな性悪狐なんかより、姚華さまの方が断然魅力的で尊敬もできるお方なんですから」
「だ、誰が妬いておるのじゃ! っ……こ、これ……儂の話は……まだ、終わっては……んぅ…………」
 姚華が喋り終わるのを待たずに、月彦は一端止めていた抽送を再開させ、むに、むにと粘土細工でも弄ぶように姚華の乳をこね始める。
「ぁ……ぁぁ……ひぁ……ぁあっ、ぁ……ぁっ……ン……ぁっ…………」
 姚華の反応を伺いながら、固い先端を重点的に弄る。時折ヒク、ヒクと剛直を締め付けてくるのがなんとも心地よく、同時にそれが姚華にとっても“良い”のだろうと判断して、月彦は一心不乱にそれを続ける。
(いいおっぱいだ、うむ……)
 最早、職人レベルと言っても過言ではない手つきで、月彦は丹念に捏ねる。初めは、声を押し殺すようにして静かに喘いでいた姚華が、次第に身をよじり始める。
「つ、月彦や……もう、乳は良い……であろ……ンッ……ふぅ……ふぅ……こ、これ……さっきも、あんなに……触ったであろうが…………ンぅ……」
「姚華さま。おっぱいに“いっぱい触ったからもう満足した”というものは無いんですよ。あるのは“もっと触りたい”と“ずっと触りたい”の二つだけです」
「何じゃ、その理屈はっ……んぅ……ぁっ……ほ、本当に……止め……ぁぁぁぁ……」
「姚華さま……もしかして、“気持ちいい”のを無理に我慢してませんか?」
 こちゅ、こちゅと膣奥を小刻みに突きながら、むぎゅううっと巨乳を握りしめるようにして揉む。
「ァはっぁぁ……が、我慢など……しておらぬ……お主、こそ……我慢などせず……早く……果てたらどうじゃ…………はぁ、はぁ……」
 見るからに強がりな姚華の態度は、恐らく――この期に及んでも師匠風を吹かせたいという事なのだろうか。
「……俺が我慢しないという事は、もっと早く強く……激しく動くって事ですけど、良いんですか?」
 さも、激しく突く――の前準備の様に、月彦は大きく腰を引く。
「ひっ…………ま、待て! それは、ダメじゃ……こんな……太いもので激しくなぞされたら……壊されて、しまう…………」
 それは少し大袈裟ですけどね、等と呟きながら、月彦は大きく引いた腰をゆっくりと元の場所へと戻す。
「まあ、俺の事は良いんです。まずは姚華さまにもっと慣れて頂かないと」
「っ……このような事に……慣れなぞあるものか……んくっ……ぁ、ぁっ……」
「……ほら、姚華さま。また声……我慢しましたよね?」
 喘ぎ声を押し殺す姚華を窘めるように、月彦はじぃと姚華の目を見る。
「もっと素直に快感を受け入れて下さい。……そうすればもっと“良く”なりますから」
「……そ、そうは言ってもじゃな……つ、月彦っ……ンッ……!」
 言いながら、月彦はそっと口づけをする。論より証拠――どうせ口を開けていても姚華は声を押し殺し、快感を我慢しようとするのならば、いっそ塞いだ方がいい。
「んっ、んんっンッ……!?」
 姚華の口を塞いだまま、先ほどまでよりもやや激しく腰を使う。当然の様に姚華が抵抗の意を示すが、それはキスに熱中させる事で黙らせる。
「んぁっ、ぁふっ、ぁっ……ぁふぅっ……」
 姚華がキスに没頭したところで、乳をこね回す。柔肉がもりあがる程に力を込め、ピンピンにそそり立った先端を指で押しつぶすようにして擦る。忽ち姚華が喉奥で噎び、膣を強烈に締めてくるが、それを押し開くように腰を打ち付ける。
(どうです、まだ“我慢”なんかする余裕はありますか? 姚華さま)
 乳を捏ねた時の反応も、腰を使った時の反応も、明らかに先ほどまでとは変わってきている。何より、あくまで潤滑油の域を出なかった愛液が文字通り“溢れ”始めていた。
 頃合いだろう、と月彦は唇をそっと離した。
「あぁッ……ぁっ……うっ……ひぁっ……!」
 忽ち、弾かれたように姚華が声を上げる。
「あっ、ぅ……やっ……ひっ……つき、ひこ……止めっ……」
 慌てて、己の口を覆おうとする姚華の手を押さえつけ、月彦はさらに突き上げる。
「ひぁぁっ、ぁっ……ダメ、じゃ……何か、来るっ…………何かっ……あぁぁっ……」
「……何が来るんですか? 姚華さま」
 囁きながら、姚華の耳を舐め、甘く噛む。途端、姚華が甲高い声を上げてぎゅうっ、と膣を締め上げてきて、月彦は無理矢理それを剛直で押し広げるようにして突き上げる。
「あはぁぁぁっ……し、知らぬっ……こんな、こんなものっ……儂、はっ……ひぅっ、はっ、ぁう……止めっ……つき、ひこ……もっ……動かな……ぁっ、ぁっ、ぁっ……やぁぁっ……こ、怖い……怖いぃ…………」
「……大丈夫です、姚華さま。俺を信じて、“それ”を受け入れて下さい」
 脅えたような声を出す姚華と掌を合わせるようにして手を握り、月彦は浅くスパートをかける。己がイく為の動きではない。姚華をイかせる為の動きだ。
「ひぃっ……やめっ、やめっ……つき、ひこ……後生、じゃ……あっ、ぁっ、んっ……ぁっ、ぁっ、ぁっ……ひぁっ、ンっ……あぁぁぁっ、……やっ――ぁぁぁあァァッ!!!」
「ッ……姚華、さま……」
 ぎゅぬっ、ぎゅぬぬっ……!
 ぎち、ぎちと締め上げてくる姚華の膣圧に月彦は歯を食いしばって堪える。
「ぁっ、ぁっ、ァッ……あァッ……ぁっ……あぁっ…………ぁ……あはぁぁぁ…………」
 痛々しいまでに反り返った姚華の背が、脱力と共に布団につく。後はただ、荒々しい呼吸を繰り返すのみだ。
「……気分は如何ですか、姚華さま」
 汗に濡れた髪を撫でながら、月彦は未だ焦点の定まらない姚華に囁きかける。
「っ……ぅ、ぁ……あた、まが……クラクラする……今、のは……何じゃ……?」
「絶頂、ですよ、姚華さま。それとも、“気をやった”と言ったほうが解りやすいですか?」
「絶頂……今、のが……絶頂、か……想像していたものとは……大分、違うものじゃの……」
 はーっ、はーっ……未だ呼吸の整わない姚華は玉のような汗を浮かせながら、何か納得がいかないというような口ぶりで呟く。
「……どう、想像と違ったんですか?」
「なんというかの……もっと甘い……甘美なものだと、思っておった……斯様に暴力的な……抗いがたいものだったとはな……儂はまた、お主に殺されるかと思ったぞ……」
 ジトリ、と恨みの目を向けられる。
「……まるで、俺が一度姚華さまを殺したような言い方ですね」
「…………殺されたも、同然じゃ……何故、お主は……っ……良いか、月彦!」
 ぎりっ、と一瞬歯を鳴らして、姚華は強い口調で睨み据える。
「儂が止めろと言った時は、即座に止めよ! いついかなる時もじゃ、良いな?」
「努力はしますけど……確約は出来かねます」
 にこりと、月彦は天使の笑みで返答する。
「つ、月彦! 弟子の分際で師匠の言う事が聞けぬと申すか!」
「いえ、ですから出来るだけそうしようとは思いますけど……」
 さわさわと、まるで幼子を宥めるような手つきで、月彦は姚華の髪を撫でる。
「さっきのように、涙目で“怖い……”等と姚華さまに言われたら、俺は自分を抑える自信がありません」
 なっ――と、絶句したのは姚華だ。たちまちその顔が沸騰した薬缶のように赤くなる。
「ば、ばか者!! わ、儂がいつそのような事をっっっ…………ええいっ、忘れよ!」
 ばちこーん!
 月彦は強烈なビンタを左頬に受けるが、二発目のビンタは姚華の手首を掴んで阻止した。
「忘れません。ぜーーっったい忘れませんから。初めてイッた時の姚華さまの声も、可愛いお顔も、仕草も……全部記憶に焼き付けて、これから先何度も何度も繰り返して思い出してニヤニヤします」
「つ、月彦ぉぉ……お主、本気で申しておるのか……?」
 だとしたら、儂はお主を殺さねばならぬ――と、いやに低い声で姚華が涙目混じりに呟く。
「大丈夫ですよ、姚華さま」
「何が、大丈夫なものか! 儂は……生まれてこの方……このような恥辱、受けた事がない……」
 今にも舌を噛みそうな勢いの姚華に、月彦は再度大丈夫です、と笑顔で返す。
「その程度の事、恥ずかしい事でも何でもないって思えるくらい、これからいーーーっぱい、何度も何度も姚華さまを喘がせて、イかせて差し上げますから。ですから安心して下さい」
「……何、じゃと?」
 月彦の言葉が理解できない、とばかりに姚華が眉を寄せる。勿論、月彦自身は冗談でも何でもなく、本気で言っているのだった。



 一体いつから自分は、眼前の男に対して師弟を超えた想いを抱いてしまったのだろう――そんな些細な疑問は、この際どうでも良いと思えた。
 そう、今問題なのは、“この男を好きになってしまったのは間違いではなかったのか?”という念が沸きかけていることだ。
「さてと、姚華さまもちゃんとイけたみたいですし、次は俺の方も楽しませてもらいますね」
 ニコニコと、まるで春の木漏れ日のような穏やかな笑顔を浮かべながら体を起こす月彦に、姚華は言いしれぬ不安を覚えてしまうのだ。
「ま、待て……月彦! まだ……するのか? 今宵はもう……終わりではないのか?」
 一体今宵だけで何度“待て”と口にしただろうか。今宵の出来事は、それだけ姚華の想像の枠を超えていた。
 神桃を隠し、内々のうちに処理していた事に関しては、無論姚華も密かに心を痛めていた。長きに渡って月彦を騙し続けていたのだから、それは当然とも言える。
 それが露見してしまった時の月彦の落胆も当然の事だと思えるし、だからこそ何か償いをせねばと思った。煙草を断ち、身のまわりの世話をすればする程に、自分は決定的に月彦に嫌われてしまったと、そう思った。
 ならば――と。自分では、月彦を慰める事ができないのなら。他に慰める事が出来る者が居るのならば――そう思ったからこそ、写身(うつしみ)の術を使った。恐らくは――否、間違いなく里心がついてしまうであろう事も無論予測済みだった。
 しかし、この展開は予想外だったと、姚華は思わざるを得ない。
「……何を仰ってるんですか。第一、まだ俺は一度もイッてませんよ?」
 さあ四つんばいになって下さい――口調こそ丁寧語であるというのに、月彦の言葉にはどこか抗う事を許さない強制力があった。
(なんという、男じゃ……)
 仮にも自分は仙人であるというのに。その気になれば、眼前の男をチリ一つ残さずに消し去る事すらも出来るというのに。自分がそうなる事などまるで恐れていないように、姚華には見えるのだった。
(儂を……侮っておるのか?)
 確かに、月彦の目の前で仙人としての力を示した事など数える程しかない。それ故に、侮られているのではないか――と。最初はそうも思ったのだが。
(……違うの。……儂を、信じておるのじゃ。……そうであろ? 月彦や)
 その気になれば、どうとでも出来るだけの力はある。――が、そんな無体はしないと、自分は弟子に信頼されているのではないか――月彦に対する好意も相まって、姚華は月彦の蛮行をそのように解釈した。
(……やれやれじゃ。……まさか儂が、男とこのような事をする羽目になるとはの)
 苦笑。姚華自身――何故このような状況に自分が陥っているのか不思議で堪らなかった。確かに、月彦に対して好意とも言える感情は持っていたし、出来ることならばずっと山に残って欲しいとは思っていた。もし、月彦が望むのならば……いつかは体を許す事もあったかもしれない。しかしそれはあくまで“そういう未来もあるかもしれない”という程度の話で、今日や明日どうこうしようというような事では無かった筈だった。
 それが、気がつけば接吻を許し、服も半ば以上脱がされ、挙げ句処女まで捧げてしまった。ひょっとして、自分は取り返しのつかないことをしてしまったのではないか――と、今更ながらに肝が冷えそうになる。
 例えば、今宵は何事も起きず、明日の朝――月彦に普通に迫られた場合、どうなっただろうか。姚華は少し考えて、冷静に月彦を返り討ちにして事はそれで終わっただろうと結論づけた。何故なら、月彦に対して好意は持っているが、“まだその段階ではない”というのが姚華の立ち位置だからだ。
「ほら、姚華さま?」
「う、うむ……」
 月彦に促されて、姚華は渋々言われた通りの体勢になる。本来ならば、一端“待った”をかけて、じっくりと今夜の事と今後の事について考えたい所だったのだが、何故かそれが出来ない。
(一時の気の迷い……でも、この際構わぬ)
 最愛の弟子に――そこまでの言い方は、姚華自身羞恥を禁じ得ないのだが――見放されてしまったと、絶望の底に落とされた矢先の、まさかの月彦からの告白。予想だにしていなかっただけに、姚華の心は大いに揺れ、浮ついた。そんな間隙を突かれでもしなければ、決してこのような事にはならなかっただろう。
 そう、そのことだけで判断するならば、間違いなく気の迷い――それだけですむ話なのだが。
(……後で、悔いる事になっても構わぬ。……ただ、今は……)
 月彦に抱かれる事が本当に嫌ならば、姚華には如何様にもやりようはあった。それこそ、先ほどやったように、軽く仙気を解放して当て身をしてやるだけで、苦もなくはじき飛ばす事も出来る。
 現に一度はやった事だ。二度やれない事はない。しかし、やらない。姚華はただ、月彦にされるがままに身を任せる。
「姚華さま……挿れますよ」
 四つんばいになり、月彦に対して尻を向けるような体勢。本来ならば、顔から火が出そうな程に屈辱的なそんな姿勢さえ――無論平気というわけではないが――辛うじて堪える。
 ぐっ、と尻肉が割開かれ、固く……熱い塊が姚華の大事な部分へと触れる。そして、それが徐々に――
「くっ、はっ、くぁ……」
 反射的に、姚華は敷き布団をぎゅうと握りしめた。姚華の肉を割開き、広げるようにして入り込んでくる肉柱の感触に、自然と呼吸が速くなる。
(っ……これ、が……並じゃと、いうのか……)
 ぎち、ぎちと。最も敏感な部位を苦もなく押し広げて入り込んでくる肉塊に対して、姚華は禍々しさすら感じる。これが本当に“並”なのであれば、所謂巨根と呼ばれる男達は一体全体どれほどの逸物を持っているのだろう。
(……このようなモノの何処が……良いというのじゃ……)
 月彦は言った。慣れれば、接吻などより遙かにクセになる――と。しかし、姚華にはどうしてもそうは思えない。
 確かに、快感は……それらしいものは得られる。が、あまりに暴力的過ぎて、お世辞にもそれが好きになるとは思えなかった。絶頂に関しても然り、まるで自分の体が何者かに乗っ取られていくようなあの感覚は好きにはなれない――そう感じた。
「よ、う、か、さ、ま?」
「ンッぅ……な、なんじゃ……月彦?」
 剛直の挿入に堪えていた矢先、突然月彦が被さってきて、きゅうっ……と抱きしめられる。そう、この“抱きしめられる”という感覚は決して嫌いではないと、姚華は思う。
「……また何か、余計な事を色々考えちゃったりしてませんか?」
「な……何の事じゃ?」
 どきりと、胸を弾ませながらも姚華は平生を装う。
(まさか、儂の心を……?)
 読んだのだろうか――と不安になるが、それはないと思い直す。人の心を読むというのは、仙人でさえあれば呼吸をするのと同じくらいわけもない事ではある。月彦とて、仙域で生活をして随分になるから、そのくらいの術は身につけていたとしても決しておかしくはない。――が、それは姚華が仙人で無ければの話だ。
 仙人は人の心が読めるようになると同時に、己の心を読ませないようにする術も憶える。即ち、どう考えても月彦が姚華の心を読める筈がないのだ。
「……ほら、また考えてますね」
「っっ……な、何も考えておらぬ! 何を、証拠に……」
「秘密です。……難しい事なんか考えないで、もっと素直になりませんか?」
「素直に……じゃと……?」
 はい、と月彦は頷く。
「姚華さまを見ていると、まるで感じる事は悪いことだと思っているような節が見受けられるんですよね」
「それ、は……」
 そんなことはない、と反論することは姚華には出来なかった。
「……まぁ、良いです。口では俺も巧く言えませんから……代わりに」
 もぞもぞと、月彦の手が動いたと思ったその時には、両方の胸がむぎゅ、むぎゅと捏ねられていた。――途端、グンッ、と。剛直までもが姚華の中で固くそそり立つ。
「ひっ……つ、つき……ひこ……?」
「さっき、言ったじゃないですか。いっぱいイかせて差し上げますって。……動きますよ」
「ま、待てっ……つき――…………ぁうッ!」
 肉柱が、姚華の中でゆっくりと動き始める。こちゅ、こちゅと奥が小突かれるたびに、姚華の意志とは無関係に声が漏れそうになり、それを必死に押し殺す。
「あ、はぁっ、ぁぁ……ぁ……」
 これが、“感じる”というモノなのか――己の下腹から沸き起こるものに、姚華は戸惑いを禁じ得ない。
(矢張り……儂は、接吻の方が……良い……)
 ただ、唇を合わせるだけ――たったそれだけで、あれ程に幸せな気分になれるのだ。それに比べて“これ”は……。
「あぁァッ……ひぅッ……!」
 下腹から突き上げてくるものが、徐々に強くなる。声も抑えが効かなくなる。それが気に入らない――と、姚華は思う。己の体が、己の思い通りにならない。それが純粋に気に入らないと、怖いとすら思う。
「……どう、ですか。姚華さま……気持ちよくないですか?」
「ひぁぁァァッ! こ、これっ……そんなにっ、奥っを……ぁぁっ、ぁっ、ぁっ……!」
 被さるようにのしかかられて、ぐりゅ、ぐりゅと奥を抉られ、姚華は堪らず悲鳴を漏らす。
「はぁっ……はぁっ……もう、良い……つき、ひこ……はよう、終わりに……もう、終わりに……して、くれ……ンぅぅ……」
「……そんなにつれないことを仰らないで下さい」
 心底悲しげな、月彦の声。と同時に、ぎゅうううっ、と強く抱きしめられる。
「すみません……俺が下手だから、巧く姚華さまを感じさせてあげられないんですね。……でも、俺、頑張りますから」
「な、何を……ち、違っ……お主は、頑張らずとも、良い……儂はただ――ァあッ!」
 月彦が体を起こすや、今度はぱんっ、と尻が鳴るほどに強く突かれる。
「ちょっ……つきっ、ひこっ……ンッ! あゥッ……ひっ……ンッ!!」
 そのままぱんっ、ぱんと尻肉が揺れる程、何度も、何度も突き上げられる。
「ひぃっ……ひぃッ……! ンッ……くっ……はぁっ、はぁっ……ぁぁぁッあァッ!」
 強く奥を小突かれる都度、ジィンッ……と痺れにも似たものが姚華の中に広がっていく。それらは回数を繰り返すごとに徐々に姚華の体を蝕み、自由を奪っていく。
(何っ……じゃ、“これ”は……)
 それは、先ほども……月彦に初めて絶頂を味わわされた時にも感じたものだった。得体の知れない何かが下腹から全身に伝播し、徐々に何も考えられなくなる――それが、また来ようとしているのだ。
(認めぬっ……こんなものが、“良い”などと……)
 “これ”に身を委ねてはダメだと、姚華は本能的に思った。“これ”は堕落そのものだ。抗い、拒絶しなければならないモノだ。
「あぅッ……あっ、あっ、あっ……ひっ……ぁああっ、あンっ、あッ! あァッ!」
 しかし、姚華の想いとは裏腹に、最早声を抑える事すら出来ない。月彦に突かれるまま、あられもない声を上げ、まるでメス犬のように尻を振ってしまう。
(なんと……はしたない声を……これ、が……儂……か……?)
 まるで、魂が抜け出て、月彦に弄ばれる己の体を見下ろしているかのような錯覚。それほどまでに、姚華は己自身の醜態が信じられなかった。
「……ッ……姚華さま、そろそろ……ヤバいです」
「……ンッ……く……つき、ひこ……?」
 不意に月彦が腰の動きを緩め、被さってくるやぽつりと呟く。「……出そうです」――と。
「出そう……? …………っっ…………ま、待てっ……つき――ぁあッ!」
 姚華が月彦の言葉の意味を捉えた時には、既に抽送が再開されていた。
「待て、待てっ……お主っ……まさかっ……ンっ、ぁっ、やめっ……儂の話をっ……ンっ……ぁっ、……っっ……ぁっ、ぁっぁっ、ぁっ、ぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁッッ………………!!!」
 息も付けぬほどに小刻みに突かれ、姚華もまた反論する余裕すら与えられず、強制的に高みへと追いつめられる。そして、大きく引かれた腰が一気に――最奥までごちゅんっ、と突き上げられたその刹那。
「ひぐっ……うっ…――ッ!」
 逃がさない、とばかりに強く抱きしめられたまま、姚華は己の下腹の中で、剛直がドクンと膨れあがるのを感じた。
「くっ、はっ……ぁっ、……つき、ひこっ……っ……ぁっ、はぁぁぁぁぁ……」
 びゅるうっ……!
 びゅぐっ、びゅぐっ、びゅっ……!
 子宮が溶かされるのではないかという程に灼熱の奔流に、思わず姚華は悲鳴にも似た声を上げた。
(あつ、い……なんという、熱さ、じゃ……これ、が……月彦の、子種……か……)
 びゅるっ、びゅっ、びゅうっ、びゅっ……!
 何度も、何度も。剛直がびくびくと震える都度、どろりとした液体がしつこく姚華の膣奥へと注ぎ込まれる。
「はーっ………………はーーーっ…………ばか、者……誰が、中に……出して、良いと…………ンぅ…………」
 辛うじて、憎まれ口は吐いた。吐いたが――しかし、それだけだった。
(子種とは……こんなにも、熱い……ものなのか…………なんと、甘美な……)
 決して悪くはない――そう思ってしまう。“過程”はともかく、こうして愛しい男に抱きしめられながら子種を受け取るというこの行為自体は悪くはない――と。
「……ふーっ……ふーっ…………すみません、姚華さま…………姚華さまの中が……あまりに良すぎて、俺だけ……先にイッてしまいました」
「……構わぬ。お主には……いろいろと、言いたい事は、あるが…………特別に全て許してつかわす」
 姚華は肩で息をしながら、そっと……右手で己の腹部を撫でる。そこは子種の熱を受けて、じんわりと暖かくなっている様に感じた。その暖かさに比べたら、月彦に対する不満や疑念――そういったものがどうでもよいとさえ思えるのだ。
(……儂も、女……なのじゃな)
 ふと、そんな事を思う。仙人である前に、師匠である前に自分は女なのだと。何故なら、今この時ほどに満たされた気持ちになった事は無いのだから。
(儂は……間違いを犯したのかもしれぬ……)
 しかし、それでも良いと思ってしまう自分が居る。過ちでも良い、こんなに幸せな気持ちになれるのなら。それでも良いと。
「…………月彦や。儂はの――」
「姚華さま、やっぱりダメです! 弟子として……いえ、男として! 自分だけ先にイッてしまうなんて、自分で自分が許せません!」
 しみじみと、“幸福”について語ろうとしていた姚華の言葉は、急遽月彦の叫びにも似た声によって遮られた。
「……ん?」
 一瞬、姚華には月彦が何を言ったのか理解が出来なかった。自分と同じように、当然月彦もまた“男としての幸福”に感動しているとばかり思っていたからだ。
「……前は、こんな事は無かった。ちゃんと相手をイかせてから、自分もイッてたんです。……四十年もしなかったから、体が鈍ってるんです……本当に申し訳ないです、姚華さま」
「つ、月彦……? お主……何を……言っておるのじゃ?」
 その件については許すと、そう言った筈だった。なのに、この弟子は何を言っているのだろう。そして、何故自分の中に収まったままの剛直が、ムクムクとやる気を出しているのだろう。
「かくなるうえは……カンを取り戻すまで、徹底的に鍛え直したいと思います。姚華さま……おつき合い願えますか?」
「鍛え直す……とは、まさ、か……」
 さぁっ、と全身から血の気が引いた。勿論、月彦は満面の笑みで頷いた。
「い、嫌っ……じゃ……こ、これっ……止めっ……離せっ……やっ、イヤァァァァァァァッッ!!!!」
 
 そして、哀れな女仙の悲鳴は七日七晩木霊した。



 
「姚華さまぁあああああああああッ!!」
 春の日差しを受けながら、縁側でウトウトしていた姚華は、弟子の叫び声によって俄に意識を覚醒させた。
「……なんじゃ、月彦…………畑仕事に行ったのではなかったのか?」
 弟子の顔を見るなり、一瞬びくりと身構えてしまいそうになるのは、昨夜――否、今朝までの“経験”から呼び起こされる当然の反射行動だった。
「ええ、そうなんですけど……その前に神桃樹の様子を見に行ったら……とにかく来て下さい!」
 ぐいっ、と月彦に腕を引かれるも、姚華は体を脱力させたまま一向に立ち上がろうとはしない。
「姚華さま、何をグズグズしてらっしゃるんですか!」
「……立てぬ。今朝から腰が抜けっぱなしじゃ」
 ぷいと、不機嫌そうに言い放ち、姚華は月彦にとられた腕をつれなく振り切る。そして暗に“お主のせいじゃぞ?”という目で睨み付ける――が、月彦はよほど急いているのか全く意に介した様子もなく。
「解りました、では俺が抱えていきますから」
「なっ……こ、これっ月彦! 下ろさぬか!」
 何をするかと思えば、月彦はさも軽々と姚華の体を抱え上げ、そのまま野性のケダモノのような速さで飛び石を乗り越え神桃樹の元へと姚華を運ぶ。
「これを見て下さい! 姚華さま!」
「……なんともはや、どうした事じゃ……これは」
 目も眩む程の輝きに、姚華は唖然とした声を漏らす。つい先日、実を落としたばかりの神桃樹の至る所に黄金色の花が開き、それらが陽光を受けて光り輝いていた。
「儂が神桃樹の管理を任されてからずいぶん経つが……このような光景はついぞ見たことがない」
 姚華の記憶の限りでは、神桃樹が同時に蕾をつけ、花を開かせたのは最高で三つ。しかし眼前の神桃樹は、百近くの花を開かせていた。
 異常事態だと、言わざるを得ない。
「急にどうしたのでしょう……まさか、枯れたりなんかしないですよね?」
「それは無い。仮にも神の名を冠した木じゃからの。余程の事が無い限りは枯れる事はないが……ふむ……こうなった原因は……恐らく……お主であろうの」
「俺……ですか?」
「うむ。……説明してやる故、とりあえず儂を下ろせ」
 このままでは格好がつかぬ、と姚華は洞窟の岩壁にある椅子のような出っ張りを指さし、自分をそこへと下ろさせる。
 そして、ふうとため息をひとつ。
「神桃樹の栄養源となるのは、動植物を問わぬ生気じゃ。そして生物が最も生気を発散するのは……生殖行動をする時じゃ」
「……って、事は……姚華さまを抱いたから、こんなにいっぱい花がついたって事ですか?」
「…………そういう事になるかの。この仙域――芳命山全体から発せられる生気数年分を、お主一人がたった数日で賄ってしまったというわけじゃ」
 化け物め――と、姚華は小声で苦々しく呟く。
「俺一人じゃなくて、俺と姚華さまの二人で、ですよ」
「……儂は、何もしておらぬ。全て、お主が一人で勝手にやった事じゃ」
 ぷいと、姚華はまたしてもそっぽを向く。
「なんか、姚華さま……朝からご機嫌斜めですね」
「……そう、見えるか?」
 ふっ、と姚華はなんとも優しげな笑みを浮かべる。そしてちょいちょいと指先で月彦に顔を寄せるように命じ、そして――。
 ばちこーん!
「ぶっ……いきなり何をするんですか!」
「ええいっ、黙れ黙れ! 全く……忌々しい…………お主は自分がどれほど恐れ多いことをしたのか全く解っておらぬ!」
「恐れ多いこと……って、俺何かしましたっけ……?」
 きょとんと、本気で解らないとばかりに月彦は首を傾げる。わなわなと、姚華は怒りの余り全身が震えるのを感じた。
「お主……儂の体を見て何も気付かぬのか?」
「姚華さまの体……ですか?」
 じぃ、と月彦は真剣な目で姚華の体をしげしげと観察する。
「相変わらずの巨乳に、いい太股にお尻をしてらっしゃると思いますけど。……少し痩せました?」
 ばちこーん!
 そんな月彦に、またしても姚華は痛烈なビンタを浴びせる。
「痴れ者が! お主の目にはそこしか見えておらぬのか!……………………入れ墨が消えているであろうが!」
「…………おおっ! 本当ですね、どうしてですか?」
 演技ではなく、本当に今まで気がつかなかったという弟子の対応に、姚華はまたしても深いため息をついた。
「あれは、正しくは仙墨というての……仙人にとっての力の証みたいなものじゃ。それが消えるという事は……即ち、仙気が尽きておるという事。勿論、どうしてかは解っておるの?」
「えーと……」
 赤く晴れた頬をさすりさすりしながら、月彦は真剣に考えを巡らせている様だった。
「滝壺に落ちた俺を助けたから……ですか?」
「……よく思い出すのじゃ。お主が意識を取り戻したとき、入れ墨は消えておったか?」
「消えてませんでしたね……確か」
 じゃあ何故だろう――と首を捻る月彦に、とうとう姚華の怒りは爆発した。
「全部お主のせいであろうが! あの日から……七日七晩っ。七日七晩じゃぞ! 不眠不休でっ……あのような…………あのっ…………ええい、口にするのも忌々しい事を、よくも……よくも儂にあのような真似をさせたなッ!」
「いや、えーと……アレは……ほんと久々でしたから……ついつい頑張っちゃっての七日七晩だったわけですが……でも、姚華さまも結構楽しんでらっしゃいましたよね?」
「なん……じゃと……?」
 ピクピクピクッ……姚華は眉を震わせながら、力の入らない足でゆらりと立ち上がる。
「いえほら……だって、姚華さまも最後の方は自分から跨って、腰を振ったりしてらしたじゃな――ぶぶぶぶ」
 姚華は月彦の顔を掴み、渾身の力を込めてその口を塞ぐ。
「あれはッ! お主がッ……そうせねば儂が気絶しても突くのを止めぬと脅したからであろうがッッッッ!!!!!」
 がし、がしと。岩肌に後頭部を何度か打ち付けて漸く姚華は手を離した。はぁはぁと息を荒げながら、立ちくらみのようにすとんと岩肌のでっぱりに腰を落とす。
「良いか、仙墨が消えたという事は、それほどに儂は消耗したという事じゃ。常人ならば、軽く腹上死しておるような目に儂は遭わされたのじゃぞ! ……ッ……お主に抱かれ続けた七日七晩、儂が何度制止を請うたと思う!」
「いちち……でも姚華さま? 姚華さまは……仙人なのですよね? だったら、ただの人間の俺が大丈夫な間は、姚華さまも大丈夫なんじゃないかなぁ……と思うんですけど」
「……それも、忌々しい事の一つよ。月彦や……何故あれ程の事をしてお主だけが平気なのじゃ?」
「別に……平気って事はないですよ。さすがに俺も七日七晩不眠不休は経験なかったですし、今もちょっと体が重いかなぁ……って思ってる所です」
「それを変だとは思わぬのか? 七日間も休まず……師である儂に暴虐の限りを尽くしておいて“ちょっと体が重いかなぁ”で済むのはおかしいと。同じ事に付き合わされた儂は精根尽きてまともに歩く事も出来ぬ程に消耗しておるというのに、何故ただの人間のお主の方が――ッ!」
「いやぁ……ずーっとシてなくて溜まってましたし……あとはほら、ここの不老長生の水……でしたっけ。アレのお陰じゃないかなーと思ってるわけなんですが」
「……確かに、不老長生の水には人の体を丈夫にする働きはあるがの……それにしても、お主の場合は些か度を超しておる。不可解じゃ……」
 やれやれ、と頭痛すら憶えて、姚華は額に手を当てる。
(もしや、こやつ――)
 思い返せば、不可解な事は他にもあった。仙域で過ごす事四十余年、いかな凡人であろうとそれだけ過ごせば仙気の兆しくらいは持ち始める筈――であるにもかかわらず、眼前の弟子からはそういった類のものは一切感じられない。それは気がかりではあったが、その方が姚華としては都合が良かった為に特に深く考える事をしなかった。
 だがしかし、今ここに至って姚華は考えざるを得ない。眼前の男は本当に“ただの凡人”だったのだろうかと。
「……もっと早くに気がつくべきじゃったかもしれぬの。そもそも、お主が妖狐を孕ませた男だという事を真剣に考えるべきであった」
「……何故ですか?」
「簡単な話じゃ。異種間では、まぐわったとてそうそう子が出来たりはせぬ――という事よ。お主の話のように、たった一度妖狐に攫われ、犯されただけで子が出来るなぞ、それこそ奇跡――と言っても良い確立であろうな」
 ただし、と。姚華は強い口調で但し書きを加える。
「それは、尋常の交わりをした場合での事じゃ。お主のように……あんな…………っっ………………あ、あれだけしつこくまぐわれば……子が出来る確立も遙かに高くなろう……ええい、何を言わせるのじゃ!!!」
「いや……俺はなにも……姚華さまが勝手に仰ってる事ですが……」
「と、とにかくじゃ! もう、金輪際……あのような真似は止めよ! 儂の体も持たぬし…………何より、………………儂に子が出来てしまっては、お主も……困るであろ」
「……え?」
 ぽつりと、小声で付け足した言葉に、月彦は意外な程反応した。
「仙人も妊娠するんですか!?」
「お主は……仙人を何だと思うておる! 妖狐なぞより余程人に近しい存在なのじゃぞ! ……妖狐が人の子を孕むのなら、仙人とて……孕むに決まっておろうが」
「それは……知りませんでした。てっきり……妊娠はしないものだとばかり」
「……無論、そう容易くはせぬであろうがの。それに、仙人とて子は孕む――とは言うが、生憎儂には仙人となった時から月のものが来た試しがない。それでも孕むのかどうかは……儂にも解らぬ」
「生理がないなら子供は出来ないと思うんですが……成る程、つまり避妊の必要はやっぱり無い、と……」
「こ、これ! 良からぬ事を考えるな!」
 ぶつぶつと独り言を呟く月彦に不審な影を感じて、姚華は真っ先に窘める。
「ええと、姚華さま……今までの話をまとめるとですね。ようは……姚華さまを抱けば抱く程、神桃は早く実る――という事ですよね?」
 にじりっ、と歩み寄る月彦の足取りに、姚華は咄嗟に身を守るような仕草をしてしまう。
「ま……待て、それは……あくまで……儂の推測じゃ! ひょっとしたら、違う要因やも……」
「ですから、それがあっているか間違っているかを、これから確かめてみればいいじゃないですか」
 ひょい、と月彦は再び姚華の体を抱え上げると、るんるんとした足取りで神桃樹の元を後にする。
 自分は、この弟子に殺されるかもしれない――それは、不老不死の仙人となって以来、姚華が初めて感じた死の恐怖だった。



 「姚華さま、床の用意が出来ましたよ」
 がらりと、居間の戸を開けて姚華の姿を捜す――が見あたらない。はてなと思って縁側へと目をやると、湯上がりの姚華が襦袢姿でちょこんと座り、庭を眺めているのが見えた。
 月彦は抜き足差し足忍び足……姚華の耳元にそっと、息を吹きかけるように――。
「よ、う、か、さ、ま?」
「きゃあッ!? な、なんじゃ……脅かすな!」
「姚華さまが呼んでも返事をして下さらないからですよ。床の用意が出来ましたけど、まだ縁側で涼まれますか?」
「う、うむ……そうじゃな……長湯をして少々のぼせていた所じゃ。もう少し、体の火照りを冷ますとしよう……」
「俺もご一緒しても良いですか?」
 構わぬ、と姚華は顔を合わせないようにして呟く。月彦は姚華とやや距離を開けるようにして縁側へと座った。
(うーん、湯上がりの姚華さまもなかなか色っぽい…………色っぽい……が……)
 その色っぽいうなじを見ていても、押し倒そう――等という邪心は沸かない。偏に、姚華が何かを憂うような顔をしているからだ。
「姚華さま、何か心配事でもあるんですか?」
 月彦の言葉に、姚華は一瞬何かを言いかけるような素振りをして、すぐに唇を噛んだ。
「うむ…………あるといえば、あるの……」
「俺で良かったら相談にのりますよ。何なりと仰って下さい」
「……では、率直に聞くぞ。……お主、本当に……儂の事が好きか?」
「なんだ、そんな事ですか。勿論、姚華さまの事は好きですよ」
「ならば、例の……お主の娘の母親の妖狐と比べたらどうじゃ。やはり……その女の方が好きか?」
「何を馬鹿なことを仰ってるんですか。あんな女、憎みこそすれ好意など微塵もないと前にも言ったじゃないですか」
「…………それは、嘘じゃ」
 ぽつりと、姚華は泣きそうな声で漏らす。
「儂が……お主の心を読むのを止めたのは、お主の心を覗くたびに……いつも一人の女の影が見えたからじゃ。それが、儂でない事は……すぐに解った。しかし、誰かは解らぬ……解らぬまま、見るのを止めた。………………今は、それがあの妖狐の女であったように思えてならぬ」
「……誤解ですよ。多分……それは俺の娘の影じゃないかと思います。俺は、あの女は心底嫌いですけど、娘は……真央の事だけは本当に大事に思ってますから」
 なんなら――と、月彦は姚華の手をとり、己の胸へと導く。
「今ここで、はっきりと俺の心を読んでみればいいじゃないですか。確か……体に触れながらだとより明確に心が読めるんですよね?」
 月彦としても、自分が真狐に想いを寄せているなどという誤解を姚華に懐かれたままなのは不愉快極まりない話であるから、是が非でも身の潔白を証明したかった。
 しかし。
「……お主の心は、読まぬ」
 姚華はついと手を離してしまう。
「例え血を分けた娘とはいえ、好いた男が自分ではない女を想っておる所を見せられるのは辛いものじゃ。……ましてや、それがお主が嫌いと言う妖狐の女であったなら…………儂は悋気を起こして……お主を殺めてしまうやもしれぬ」
「その可能性は無い――という事を、俺は知って欲しかったんですけど」
 例えその影とやらが真央でも辛い、と言われては、月彦としては無理強いは出来なかった。
「もう、心は読まぬ。その代わり……お主の言葉を信じる事にする。儂を好きだという……お主の言葉をな」
「嬉しいです、姚華さま」
 気がつけば、最初は距離を開けていた筈がいつのまにか姚華の体はぴったりと寄り添うようになっていた。しなだれかかってくる姚華の体を、月彦は腰に手を回すようにして抱き寄せる。
「……姚華さま。その……ですね」
 ぽりぽりと、鼻の頭を掻きながら、月彦は呟く。
「もし……姚華さまが本当に……するのがお嫌なら、俺は別に……また十年待っても良いですよ」
 勿論、月彦としてはまた十年も待たされるのは辛い。辛い――が、かといって嫌がる姚華を無理矢理犯すというのも気が進まない。そんな心の痛む真似をやるくらいなら、大人しく十年待った方がマシだと、月彦は思うのだ。
 真央には悪いとは思う。しかし、如何に娘が大事とはいえ、他人を虐げてまでその命を救おうとするのはどうか――と、月彦なりに考えたのだった。
「その代わり、今度はもう隠したりしないで下さいね。その時ばかりは、姚華さまの体で責任をとって頂きますから」
 冗談めかして言ったはいいものの、肝心の姚華からの返事が返ってこない。月彦はそーっと姚華のほうを横目で見た。
「…………誰が、嫌じゃと言うた?」
 思わず、どきりと胸が撥ねるような、姚華の優しい笑顔がそこにあった。
「好いた男と体を重ねる事が嫌いな女なぞ居るものか。……無論、儂とて例外ではない――が、月彦……お主の場合はの」
 くすくすと笑みを漏らしながら姚華が体を擦りつけてくる。
「やることが……少々常軌を逸しておる。儂が止めろと言うても止めぬ……そこさえお主が自重するなら、儂は何も言わぬ」
「いや、まぁ……ほんと七日七晩はちょっとヤり過ぎたというか……ええ、ですからちゃんと……体を休めたいという姚華さまの言葉通り、まる一日休みをとったじゃないですか」
 そう、あの洞窟での話の後、すぐにでも床入りをしようした矢先、姚華が半狂乱になって暴れてやむなく“しばらく休憩”という事になったのだが、今となってはそれで大正解だったと、月彦は思う。
(……姚華さまにあまり不信感を持たれても……な)
 確かに自分でもアレはすこしやりすぎたかな、とほんの少し思っていた。相手が真央や真狐ならば兎も角、仙人とはいえ処女を失ったばかりの姚華には些かハードであった事だろう。
 自分なりに十二分に反省したからこその、先ほどの申し出だったわけなのだが。
「姚華さま……一応、これは言っておきますけど」
「うむ……?」
「俺が姚華さまを抱きたいと思うのは、早く帰りたいから……だけではないですよ? 勿論、神桃を早く実らせる為に頑張ろうとは思いますけど……それだけじゃないです」
「神桃の為だけではない――が、神桃の為というのが一番の理由であろ?」
 どこか意地悪な姚華の口調に、月彦はいいえ、と反論する。
「神桃の為……というよりは、娘の命の為というのが正しいのですが……確かに娘の為に頑張らなければという思いは少なくないです。……でも、例えそういった理由が無くても、俺はもっと……姚華さまを抱きたいです」
「……成る程、儂を抱くのは娘の命を助けるついでというワケじゃな」
「い、いえ……そんな、決してオマケとか、そういう事じゃなくて――」
 月彦が狼狽しきって口籠もると、姚華がクスクスと苦笑を漏らし始める。
「……お主も不器用な男じゃな。そこは嘘でも“最早神桃などどうでも良い”と言うて女を持ち上げるべきであろ。……尤も、お主がそういう嘘を咄嗟につける程に器用な男であれば、儂も体を許したりはしなかったであろうがの」
 苦笑混じりに。姚華が胸の辺りに顔を擦りつけてくる。そのまま、すりっ……すりと。顔だけでなく、肩も、胸も。
「あ、あの……姚華さま?」
「ン……何じゃ?」
「“これ”はつまり……OK……って事なんでしょうか」
「月彦……お主も時折じゃが、言葉に頼りすぎる所があるの」
 さわさわと、姚華の手が月彦の足を這い、そのまま股ぐらの方へと蠢く。
「お主は……先ほど言うたの。儂が本当に嫌なら、何もせぬと。…………ならば儂も言わせて貰うぞ」
 顔を赤く染めながら、なんとも素人じみた手つきで姚華は浴衣の上から月彦の股間を撫でつける。すでに怒張しかかっていたそれは、姚華の愛撫でたちまち襦袢を盛り上げる程に屹立する。
「お主が……本気で求めるならば……儂も嫌とは言わぬ。お主が本気で……そして、本当に儂の事が好きならばの話じゃがの」
「……姚華さまも疑り深い方ですね。一体どうすれば信じて頂けるのでしょうか」
 苦笑しながら、月彦もまた姚華の髪を撫で肩を撫で、胸元へと手を這わせる。微かに乱れ始めた姚華の息づかいを心地よく聞きながら徐々に。
「……決まっておる…………疑う余地もない程に……儂を、愛してくれれば良い……ンッ……」
 解りました――その返事の代わりに、月彦は唇を奪った。



 
「あの、姚華さま……一つ、我が儘を言っても良いでしょうか」
「何じゃ? 申してみよ」
 縁側で押し倒し、押し倒されを繰り返し。ちゅっ、ちゅっ……と姚華のキスの嵐を受けながら、月彦は辿々しく切り出した。
「……一度、姚華さまの口で……して頂けないかなぁと……」
「口で……? まさかお主、儂に尺八をせよと言うのか!?」
 キスを止めるや、いきなり姚華が怒りの声を上げる。
「さ、さっき仰いましたよね……俺が本気でして欲しいって思う事なら、拒まないと……俺は本気で、姚華さまに口でして欲しいと思ってるんですけど」
「た、確かに……言ったが……しかし……尺八なぞ、遊女のやる事じゃぞ……儂に、それをせよと……」
「姚華さま、それは古いお考えですよ」
 むう、と渋る姚華を諭すように、月彦は真剣な顔をする。
「姚華さまが外界に居られた時はそれが常識だったのかもしれませんけど、今では全く違うんです。……むしろ、生殖行為に関係のない口での奉仕は一番の愛情表現であるとさえ言われてるんですから」
「……そうなのか?」
 カルチャーショックに目を丸くする姚華に、月彦は真剣な顔のまま頷く。
「そうです。姚華さま、憶えてらっしゃいますか? “初めての夜”を。あの時も……俺は口で、姚華さまの――ぶ」
「み、みなまで言うな! …………勿論憶えておるわ。……あれは、お主なりの愛情表現であったと、そう言いたいのじゃな?」
「そういう事です。……ですから、姚華さま?」
「う、うむ……今の世が……そういう事になっておるとは知らなんだ。一番の愛情表現と言われては……やらぬわけにはいかぬの」
「恐悦至極です、姚華さま。では早速――」
 と、月彦は姚華を促し、履き物を置く石の上へと膝立ちにさせ、己は縁側に腰掛ける。躊躇いがちの姚華の前で怒張しきった肉柱を晒すと、途端にひぃと姚華が悲鳴を上げた。
「こ、これっ……月彦……ものには順序というものが在ろうが!」
「順序もなにも……こうしないと姚華さまも始められないじゃないですか」
「……お主にとっては慣れた事でも……儂にとっては思いも寄らぬ事をやるのじゃぞ。……少しは心の準備をする時間を…………全く……」
 ブツブツと呟きながら、姚華が恐る恐る剛直に手を這わせる。そして、さす、さすと上下にさするようにしては、感嘆するような息を漏らす。
「これが……儂の中に入ったというのが、未だに信じられぬ……。見れば見るほど……見事な逸物じゃな…………子を孕む程に、妖狐の女がまぐわいたがるわけじゃ」
 ぽつりと、最後の一言だけ恨み言のようなイントネーションで呟いて、姚華がそっと唇を寄せる。ちゅっ……と剛直の先端に口づけをして、そしてちらりと、月彦の方を見上げてくる。
「……儂は、勝手が解らぬからな。何か間違っておれば……言うが良い。……んむっ……」
 呟いて、再び姚華は剛直に口づけをし、そのまま先端を口に含む。途端、ゾクリ――とした快感が、月彦の体を貫いた。
「……良いです。姚華さま……そんな感じで……もっと、いろいろやってみて下さい」
 姚華は無言で頷き、んむ、んむと剛直を咥えこんだまま、れろれろと舌を動かしてくる。そういった姚華の舌使いよりもなによりも――。
(姚華さまが……咥えてる……っ……)
 長く、主人として仕えてきた相手がこうして膝を突き、剛直を咥えているという光景そのものに、月彦は言いしれぬ興奮を憶えた。
(すみません、姚華さま……俺、少しだけ嘘をつきました)
 フェラは、一番の愛情表現であると姚華はすっかり信じ込んでいる様だった。しかし、完全に嘘ではない、当たらずとも遠からずな表現である、と月彦は己の良心を誤魔化した。
(それに……実際問題、姚華さまにここまでされると……っ……)
 正直、気持ちがぐらりと揺れるのを禁じ得ない。無論、姚華の事が好きであるというのは本当であるし、真狐等よりも数億倍好きだというのも嘘ではない。嘘ではないが、真央とどちらが好きかと問われれば、悩む間もなく真央だと答えざるを得ないのも事実であった。
 しかし、こうして献身的な姚華の姿を見ていると、その“順序”がぐらりと揺らぐのだ。
(やべっ……これ、スゲー良い……)
 自分と姚華の立場故か。口戯自体は拙くとも、ついつい鼻息荒く姚華に見入ってしまう。月明かりの下、必死に口を動かし、剛直に口づけをし、舌を這わせている姚華がなんと愛しく見える事か。
(しかも……俺のために、無理をして……)
 姚華の常識では、口戯とは遊女――恐らく、こういった事を生業としている者達だけがやる下賤な行為であるという事になっているのだろう。それを、自分の為に無理をおしてやってくれているという事を考えるだけで、ぐらぐらと胸の奥が揺れるのだ。
(もう十分です……って、言いたい……けど……)
 どうしてもそれが言えない。もっと、姚華の奉仕を見ていたい。その舌での奉仕を受けたい……そんな欲望に、月彦は逆らう事が出来ない。
(姚華さまの舌、が……俺の、に……うぅう……)
 剛直は既に余すところ無く唾液に濡れ、それらを啜るように姚華が唇をつけ、裏筋に沿って舐め上げる。その唇と剛直の合間に時折見えるピンク色の舌のなんと淫靡なことか。
「んぷっ……何か、出てきたの…………男も……濡れるのか?」
「ええ。気持ちよくなると……男も濡れます」
「……女と同じじゃの。……ふふ、愛い奴じゃ……」
 月彦にではなく、まるで剛直そのものに話し掛けるように呟いて、姚華が再び唇をつける。今度は先端部へと吸い付き、舌先でてろ、てろとにじみ出た液を舐め取るように動かされ、堪らず月彦は姚華の髪へと手をかけた。
「くはっ…………ッ……ヤバ、いです……姚華さま……」
「ンッ……出そうなのか?」
 唇を離し、唾液とも先走り液ともつかぬ液体に濡れた剛直をにゅり、にゅりと扱くようにしながら、姚華が些か悪女めいた顔で見上げてくる。
「はい……姚華さま……止めないで下さい。……そのまま、続けて……」
 息も絶え絶えに、月彦は姚華に懇願する。
「それは良いが……月彦、その……最後、儂はどうすれば……良いのじゃ?」
 姚華に尋ねられて、月彦は迷った。迷った挙げ句――
「…………姚華さまに、飲んで……欲しいです」
 己の最も純粋な欲望を口にした。
「解った。……儂に、飲んで欲しいのじゃな」
 姚華が再び、口戯を再開する。月彦がイきそうなのを考慮してか、先ほどまでよりも幾分早く、激しく頭を前後させ、ぐぷ、ぐぷとくぐもった音が辺りに響く。
「ちょっ……姚華さまっ……そんなっ…………くッ…………!」
 腰の辺りに溜まっていた塊が打ち出される――その刹那、反射的に姚華の頭を押さえ込んでしまいそうになるのを、月彦は最後の理性で堪えた。
「んぷっ…………ンッ!」
 どりゅっ、どりゅと白濁が打ち出される反動に応じて、姚華がくぐもった声を上げる。眉根を寄せ、苦しげに呻くが、狂ったように溢れる白濁の勢いは月彦自身にも止められなかった。
「ンく…………んぐっ……ゴク………………ゴクッ…………」
 眉根を寄せながらも、姚華はゴクリ、ゴクリとゲル状の白濁を飲み干していく。やがて射精の勢いが止まり、口腔内のものも飲み終えて漸く、姚華は剛直から唇を離した。
「ふ、は……これで……満足か……?」
 はぁはぁと荒く息を乱しながら、姚華がはにかんだように笑む。その笑顔がたまらなく可愛くて――
「っっ……姚華さまッ……!」
 月彦は感極まったように姚華を抱き上げ、己の膝に乗せるようにして抱きしめる。そしてそのまま唇を――
「こ、これっ! ダメじゃ!」
 奪おうとした矢先、姚華に口を押さえつけるようにして顔を無理矢理離された。
「よふははま?」
「……子種というのは……苦くての。……今、接吻をすれば……儂の唇も……苦いやもしれぬ。…………だから、接吻はダメじゃ」
 何を馬鹿な事を――と、月彦は呆れかえった。姚華を抱きしめている手を一端離し、己の口を押さえつけている姚華の手を離させると――
「んむっ……!? こ、これっ……ダメじゃと言うに……ンンンッ!!!」
 嫌がる姚華の唇を奪い、強引に舌を吸った。
「んんっ……んむっ……んっ………………んぅっ…………」
 最初こそ抗い、顔を背けようとした姚華も、次第に抵抗を止め、大人しくなる。そして最後には、自ら食むようにして唇を合わせ、吸い、舌を絡めだした。
 しばしの間、そうして互いに抱き合いながらキスを交わし、そして……どちらともなく唇を離した。
「……姚華さま。唇が苦いからと、自分のものを飲んでくれた女性とのキスを嫌がる……姚華さまの中の俺は、そんなクズのような男なんですか?」
「……すまぬ、月彦……そういうつもりではなかったのじゃが……」
「俺、姚華さまが口でしてくれて……本当に嬉しかったんですよ。だから、姚華さまともっといっぱいキスがしたいって……思いました。……苦いかどうかなんて、気にするわけがないじゃないですか」
 すまぬ、と姚華が小さく呟く。月彦はしばしそのまま、無言で姚華の体を抱きしめた。
「……すみません、少し……言い過ぎました。姚華さまは……良かれと思って、ああ言って下さったんですよね」
 姚華からの返事はなかった。ただ、すりっ……と、頬を肩に擦りつけるように頭を動かしただけだ。
「…………えーと……その……姚華さまさえ宜しければ、そろそろ……床の方に移動しようかなと思うんですが」
 それとなく月彦は姚華の方へと伺いを立ててみるが、依然姚華は月彦の方にはそっぽを向くような形で抱きついたままだったりする。
「……そ、それとも……今夜はもう……止めておきますか?」
 機嫌を悪くしてしまったのだろうかと、月彦は内心ハラハラし始めた頃だった。くつくつと、自分の肩口の辺りから含み笑いが漏れたのは。
「月彦や……」
 くるりと、姚華が月彦の方へと顔を向ける。にんまりと、意地悪な笑みを浮かべて。
「お主の中の儂は……これしきの事でヘソを曲げるようなつまらぬ女なのか?」
「…………ほんっっと、すみませんでしたッ」
 最早、月彦にはそうとしか言えなかった。




 機嫌を直した――というより、初めから悪くなってもいなかったらしいが――姚華を抱きかかえて、月彦は姚華の寝室へと移動した。板張りで囲炉裏もある居間とは違い、姚華の寝室は六畳敷きの和室であり、そのせいか布団までもが心なしか柔らかく感じた。
 敷き布団に姚華の体を横たえ、月彦はしげしげとその姿を見つめる。いつぞやの晩とは違い、今宵は薄い肌襦袢のみ。それがかえって新鮮にすら思えた。
「……何を、見ておる」
 微かに頬を染めながら、姚華が照れ笑いを浮かべる。
「勿論、姚華さまです。……綺麗です、本当に」
「たわけめ……この間の晩もそのような事を言うておったではないか。綺麗と言えば、女が例外なく喜ぶとでも思っておるのか?」
 こやつめ、と些か乱暴な手つきで姚華が月彦の頭を絡め取り、己の胸元へと誘う。
「お主が見ておったのは乳であろ。儂が気がつかぬとでも思うたか」
「いや……もちろん、大好きな姚華さまの一部分ですから、視界には入ってましたが……むぎゅっ……」
「建前は良い。お主がどれだけ女子の乳が好きか……身をもって儂は知ったでな」
 お主の好きにして良いのじゃぞ?――乳に顔を押しつけられている月彦の頭の上から、そんな言葉が振ってくる。
(姚華さま……そんな事を仰ってると、本当に好きにしますよ?)
 それはもう、姚華の想像を絶する程に揉んだり舐ったり、挟んだり扱いたり――歪んだ妄想に、ムラムラと獣欲が沸き起こる。
(っと……危ない、危ない……それがダメだと、さっき言われたばかりじゃないか)
 先の七日七晩はそれで失敗したんじゃないかと、月彦は己で己を窘める。
「……姚華さま、折角の……嬉しすぎる申し出ですけど、それは辞退させて頂きます」
「何じゃと……乳を触りたくないと申すのか!?」
 まるで、天地が逆転したと言わんばかりの姚華の驚きように、月彦は軽いショックを受けた。
「いえ、もちろん姚華さまのおっぱいには触りたいです。触るだけじゃなくて、揉んだり、舐めたり吸ったり……色々したいです。でも……すみません、床に入るまえから……一番最初にする事は決めてたんです」
 月彦は俄に体を起こし、そしてサワサワと……姚華の腰の辺りへと手を伸ばす。
「つ、月彦っ……何をっ……」
「俺はさっき、姚華さまに口でしてもらいました。ですから、俺もまずは口でご奉仕しようと思いまして」
 さもそれが当然の流れであるかのように言って、月彦は姚華の下帯を脱がしにかかる。が、その手が姚華の手によって掴まれた。
「ま、待て……月彦。先ほども言うたが、ものには順序というものがあろう! いきなり……口で、など……」
「姚華さまに口でして頂いて、俺はすごく感動したんです。だから、少しでも俺もそのお返しがしたいんです」
 さあさあと脱がしにかかるが、姚華はあくまで抵抗を続ける。
「姚華さま、どうしてそんなに嫌がられるのですか?」
「うっ……お主こそ……何故そこまで……口での奉仕に拘るのじゃ……乳を触っても良いと言っておろうが」
「もちろん、おっぱいは後ほどじっくり堪能させて頂きます。ですがその前に――ていッ!」
「ま、待てっ……きゃあッ!」
 埒があかない、とばかりに月彦は下帯を掴み、力任せに引きはがす。そして、姚華の足を強引に広げさせ股ぐらへと顔を近づけた。
「つ、月彦っ……っ……止せと……言うに……ぅぅぅ」
「成る程。……そういう事ですか」
 一瞬にして、姚華が嫌がっていた理由を理解して、月彦は顔をほころばせる。
「ここがこんなになっちゃってるから、必死におっぱいの方に注意を逸らそうとなさってたんですね」
 ふう、と月彦は姚華の秘裂にそっと息を吹きかける。それだけで、姚華はびくりと身を竦め、そしてただでさえしとどに溢れている愛液がじわりとにじみ出てくる。
(胸を触った後であれば、そのせいだとごまかせたんでしょうけど……)
 何もしないうちからこうなってたのでは、立つ瀬がない――とでも、姚華は思ったのだろう。
「っっ……し、仕方……ないであろ……お主の、を……舐めておったら……自然と、そうなってしまったのじゃ……」
「誰も悪いとは言ってませんよ、姚華さま。……いいえ、むしろこれが普通なんですよ?」
「何……じゃと?」
「俺だって、姚華さまに口でご奉仕をしていたら、ガッチガチになっちゃいますし。むしろそうならない方が、相手に失礼だと思いませんか?」
「……………………確かに、そうかも…………しれぬの」
 納得がいったのか、頬を染めながらも、姚華が頷く。
「そういうわけですから、姚華さま一人が異常なわけでも、特別淫乱ってわけでもないんです。安心なさって下さい」
「っっっ……た、たわけ! 誰も、そんな心配はしておらぬっ……ンッ……!」
 姚華の顔真っ赤の反論を心地よく聞き流しながら、月彦はちゅっ……と秘裂に口づけをする。
「こ、これっ……月彦、まだっ……話は……ぁっ…………あんっ……!」
 かりっ……。後頭部に手を這わせながら、姚華が忽ち甘い声を上げ始める。
(……最初の時に比べて、随分良い声を出すようになりましたね、姚華さま)
 声には出さず、月彦は舌の動きで姚華の甘い声に答える。
「はぁッ……はぁっ……んっ……ぁっ、ぅン……ぅ……くぅ……」
 ぎゅうっ、と姚華が足を閉じようとするのを、月彦は肩でガードし、両の太股を抱え込むようにして秘裂を舐める。割れ目にそって舌を這わせ、蜜をすくい取り、勃起した突起に優しくキスをする。
「くぅッ……ゥン……つ、つき、ひこ…………ンっ…………ひ、広げる……なっ……ぁあっ、あっ……あぁんっ……!」
 ついっ、と両手の指で姚華の秘裂を広げるようにして、より奥まで舌を這わせる。ああァァッ――そんな声を上げて姚華が背を仰け反らせ、ガリッ……と後頭部に爪が立てられる。
(姚華さまのいやらしい蜜……メチャクチャ溢れてきましたよ)
 じゅるるるるるるっ……!
 露骨に音を立てながらそれらを啜り、ごくりと飲み干す。後頭部に立てられる爪の感触を姚華の快感のバロメーター代わりにしながら、てろてろと舌を動かしては蜜を啜り、啜っては飲む。
「ぁぁァぁっ……つ、月彦、……そ、そんなにっ……音……音、を……やぁぁっ…………!」
「音……立てるの、お嫌ですか?」
「あ、当たり前じゃ! は、恥ずかしいに……決まっておろうが!」
 姚華さまがいっぱい溢れさせるから、音が出るんですよ?――そう口にしかけて、月彦は飲み込んだ。
「解りました。では……なるべく音を立てないようにしますね」
「ンっ……月彦っ……別に、儂はもう……止めても…………んんぅッ……!」
 割れ目を攻めるのを止めて、今度は一転、淫核だけを攻める。刺激が強すぎない様、細心の注意を払って、優しく唇で包み込むようにしながら、ちゅぽ、ちゅぽと。まるでフェラでもするかのように。
「んっ、ぅふっ……やっ……それ、はっ……ぁっ、ぅっ……ダメっ、じゃ……つき、ひこ……ンゥッ……!」
 露骨に、姚華の息づかいが荒くなる。はあ、はあと大きく胸を弾ませながら、右へ左へと寝返りをうつように体を揺らし始める。
(クリもかなり感じる、と。なかなか前途有望ですね、姚華さま)
 ならば、と。特に重点的に月彦は攻める。たちまち姚華の声は甲高く、切なげなものに変わっていく。
「あぁぁあッ……あっ! ひっ、……ぁっ……つ、つき、ひこっ……ぁあっ、ぁっ……も、もうっ……ぅぅぅっっ〜〜〜〜〜〜ッッ!!」
 びくんっ、びくっ、びくぅッ!
 まるで電気ショックでも受けたかのように、姚華が腰を撥ねさせる。その様を満足げに眺めて、月彦は姚華の股ぐらから抜け出ると、添い寝をするようにしてぎゅうっ、と姚華を抱きしめた。
「これでおあいこですね、姚華さま」
「くっ……ぅぅ……」
 姚華は目尻に涙を溜め、なにかやら言いたそうに睨み付けてくるが、勿論月彦には姚華が言いたい事など解る筈もない。
「……姚華さま?」
「全く……お主という男は…………少しは、儂の立場というものを……」
「心配なさなくても、姚華さまが思っている以上に、俺は姚華さまを尊敬してますよ」
「……ならば……それを示せ」
 意地悪な姚華の物言いに、月彦は考える間もなくキスで答えた。
「ンっ……もっとじゃ」
 ぽう、と熱に浮かされたような姚華の言葉に誘われて、月彦は再度唇を奪う。今度は、長く――ぐじゅぐじゅと互いの唾液をかき混ぜるような、淫らなキスだった。何より、後頭部へと回された姚華の手が、唇を離す事を許さなかった。
「んんン……!」
 勿論、キスの最中だからといって月彦がその両手を遊ばせておく筈もない。真狐ほどではないものの、片手で扱うには些か不都合がある大きさの双乳を欲望丸出しの手つきで揉みこねる。とはいえ、力加減はきちんと“姚華用”に押さえ、快感が痛みに変わるギリギリの所でこね回し、そそり立ち敏感になった先端を擦り上げる。
(はぁ、はぁ……姚華さまの……おっぱい……おっぱい!)
 口が二つあれば、キスをしながらおっぱいを舐めしゃぶることが出来るのに――そんな詮無いことを考えながら、月彦はキスの間中、たっぷりとおっぱいを堪能する。
「んはぁ………。……………月彦や」
 そろそろ、お主が欲しい――キスを唐突に中断させるや、耳を澄ましていなければ聞き取れないような小声で、姚華が呟く。
「……俺も、姚華さまが欲しいです」
 控えめな姚華の声とは違って、はっきりと月彦は宣言した。姚華は一瞬顔を赤らめ、ばか者、と照れるように吐き捨てた。
「では、姚華さま……力を抜いて下さいね」
「う、うむ……優しく、じゃぞ……」
 布団に横たわる姚華の足を開かせ、その秘裂へと剛直を宛い――。
「んぅっ……!」
 十二分に濡れた秘裂を押し広げながら、月彦は一気に根本まで剛直を突き挿れる。
「あっっくッッ……かはっ…………こ、これっ……優しく、と……言うたであろ……」
「すみません……姚華さまのナカの具合が良すぎて……つい……ッ……動きます、ね……」
「ま、待てっ……まだっ……あァッ!!」
 姚華の言葉を無視して、月彦は抽送を始める。
(やっ……バッ……姚華さまの、ナカ……前、より……)
 姚華に言ったことは、無論嘘ではなかった。前回の時はキツく、固く感じた膣内が締まりの良さはそのままに、剛直に吸い付いてくるかのように蠢くのだから堪らない。
「はぁっ、はぁっ……んぁっ、あっ、ぁっ……どう、した……月彦っ……」
 情けない顔になっておるぞ?――明らかに強がった姚華にそのような事まで言われる始末だ。
「っ……姚華さまの、ナカが……前よりスゲー良くなってるんですよ……あんまり、持たないかもしれません」
「ッ…………お主、のも……あンッ……前、より……ッ……はぁはぁ……や、止めっ……そ……ッな……奥、をっ……ひぅぅうぅッ!」
 奥、好きですよね……姚華さま――その呟きは、口から出る事は無かった。ただ、ひたすらに射精を我慢しながら、トン、トンと姚華の奥を小突く。
(や……べ……スゲえ……揺れてる……)
 どれほど見まい、としても、眼下でたゆ、たゆと揺れている姚華の双乳へと目が奪われてしまう。そしてなんとも蠱惑的なその動きに、ただでさえ崖っぷちの月彦はますます興奮をかき立てられ、追いつめられてしまう。
(あぁぁ、おっぱいがゆれる……おっぱいが……おっぱいが……)
 はやくなんとかしなければ――そんな焦りにも似た思いに突き動かされて、月彦は暴れる姚華の双乳を掴み、揉みコネながら抽送を続ける。――が、その行為は諸刃の剣でもあった。
(ッ……また、姚華さまよりも先に、なんて……!)
 予想外に高まる興奮。このままでは長くは持たない。エッチ初心者である姚華より先に果ててしまう――屈辱はもう二度と御免だと、月彦は歯を食いしばり、苦肉の策に出た。
「きゃっ……つ、月彦っ!?」
「っ……この方が動きやすいし、キスも……しやすいですよね、姚華さま?」
 姚華の体を抱きかかえ胡座をかき、無理矢理対面座位の形へともっていく。こうすれば、先ほどよりは乳の揺れも目に入りにくいのではないかと、そう読んでの事だったのだが。
「……そう、じゃの」
 不意に、姚華が満足げに微笑み、そのまま奇襲攻撃のように唇を奪われた。まさか姚華の側から仕掛けられるとは思っていなかった月彦は、その分対応が遅れた。
「んくっ……」
 情熱的な姚華の舌の動きに気圧されながらも月彦は姚華の尻を掴む手に力を込め、ぐりゅ、ぐりゅと膣奥に剛直を擦りつけるようにしてその体を揺さぶる。
「ぁあァッ! ひぃっ……ぁああっっ、……ひぅぅっ!」
 たちまち、堪りかねたように姚華が仰け反り、喘ぐ。
「こ、これっ……勝手に動っ……あぁぁぁっ……!」
「ッ……よ、姚華さま……痛い、です……爪を……っ……」
「す、すまぬ……じゃがっ…………あぁぁ! ッ……ぃぃうッ!!」
 ぬちゃ、ぬちょ、ぬちゃ、ぬちょ――結合部から、なんともいやらしい水音が漏れ続ける。それはもはや、月彦が姚華の尻を掴んで“動かしている”音では無かった
「はぁっ、はぁっ……全く……こんなに硬くしおって……そんなに儂を抱きたかったのか、この助平め」
 月彦が“動かす”手を止めた事で若干余裕が出てきたのか、姚華は爪を立てない形で改めて月彦の肩へと指をかける。さらに、口元に笑みすら浮かべながら、不慣れな様子でゆっくりと腰を使う。
「くぁっ……よ、姚華さま、こそ……こんなに溢れさせて、しかもヒクヒクって吸い付くみたいに締め付けてきてるじゃないですか。……っ……こ、こういう事をするのは好きじゃないみたいな事言ってましたけど、本当は……くっ…………ほ、本当はシたくて堪らなかったんじゃないんですか?」
「たわけめ、お主と一緒にするでない……ぁんっ! わ、儂は……あくまで、お主がしたいというから…………仕方なく……あぁぁ! く、ふぅぅ………んっ……っ……はぁ、はぁ……全く、お主のは太すぎじゃ……もう少し、遠慮というものを……ンッ……」
 月彦は、まだ動かない。姚華の尻を掴んだ手でもぞもぞと尻肉を撫で、揉みながら、剛直の方は一切動かさず、姚華のナカの感触を味わう事にだけ集中する。
(……っ……ずーっとヤッてなかったからか? 一番良いと思ってた真央のナカより吸い付いてくるような感じがっ……)
 精一杯の力でしがみつき、甘い声を漏らしながらぜえぜえと喘ぐ姚華が可愛いく思えてならない。微笑ましいばかりに辿々しい腰使いも、長く快楽に飢えていた体には心地よくすら感じる。
(溶けたバターみたいにトロォって熱くて、そのくせちゅるちゅるって絡みついてきて、締め付けてきて……たまんねぇ……!)
 いっそ、このまま両手で思い切り揺さぶってやれば、さぞ気持ちいいだろう。だが、その強烈すぎる誘惑をあえて押し殺し、月彦は姚華のしたいようにさせる。
「月彦、聞いておるのか? お主のは太すぎると言うておるのじゃ……はぁはぁ……こんなモノを挿れられる身に……んんぅぅ……」
「勿論聞いてますよ。…………つまり、姚華さまは“俺の”が気に入らないんですね。少しショックです」
 しゅん、と。月彦はあえてトーンダウンした声で呟くと、案の定姚華は慌てて訂正をしてきた。
「ご、誤解するでない! お主のが気に入らぬとか、そういうわけではなくての……こ、こんなに太いと……儂の方がすぐに……」
「すぐに……何ですか?」
「す、すぐに……あぐぅぅ……!」
 ぐじゅりっ。
 姚華の尻を掴んだ手に力を込め、一度だけ、ぐじゅりと剛直でかき回すように、姚華の体を“回す”。
「姚華さま?」
「つ、月彦……あぁぁぁ!」
 さらに、もう一度。今度は立て続けに2回。忽ち姚華が声を荒げ、肩に引っかけた指を引きつらせながら、仰け反る。
「これっ……か、勝手に……動く、なぁぁ……んんっ……!」
 びくっ、びくと小刻みに体を震わせる姚華の唇を、月彦はあっさりと奪う。両手を姚華の尻から放し、左手は姚華の背に、右手は後頭部に添えて、たっぷりと。ねちっこいばかりにキスで責める。
「んんぁぁっ、んんっ、ンンンッ!!」
 ヒクヒクヒクッ!――姚華の腰の動き自体は止まっているものの、剛直を包み込む肉襞の方がキスに反応するように締め付けてくる。
「っっ……はぁっ……! ……つ、月彦……もう、接吻は……んんっ……!」
 息継ぎをするように姚華が顔を背けるが、すぐさま後頭部を押さえて動きを封じ、再度食らいつく。
「んぁっ、んっ……ちゅっ、んっ……ちゅはっ……んんっ!!」
 舌と舌とを絡め合いながら、姚華の背を撫でる。背骨に沿って、下から上へ。ゾゾゾと、指の動きにあわせて姚華が背を仰け反らせ、動きもしていないのに結合部からは布団にシミを作る程に蜜があふれ出す。
「あふぁぁ…………ぁぁぁ……」
 たっぷり15分はそうして舌を絡め続けただろうか。月彦が漸く唇を解放するなり、姚華は力無くくたぁと脱力した。
 ――勿論、そのまま脱力し続ける事など、月彦は許さない。
「あひぁ! あぁっ、あぁぁ!」
 すかさず姚華の尻を握り、揺さぶる。
「あぁぁぁぁぁ! あぁっ、あぁぁっ、! ひぁっ……あぁぁぁぁ!!!」
 堪りかねるように姚華が髪を振り乱し、声を荒げる。
「つ、月彦……待っ……い、今は……ひぃぃ……! んぁっ……くはっ……くふっ……くひぃい!」
「……わかりました、待ちます」
 しれっと言って、月彦は姚華を揺さぶる手を止める。勿論、その惚けた言い方ほど余裕があるわけではなく、こめかみには既に脂汗を滲ませていた。
「……はぁ……はぁ………………全く……お主という男は……儂を、嬲るのが……そんなに楽しいのか?」
 はぁ、はぁ。ひぃ、ひぃ……言葉の合間合間に漏れる息づかいが、限界がそう遠くない事を如実に表していた。
「嬲るだなんて人聞きの悪い事を仰らないでください。…………俺はただ……」
「ただ、何じゃ?」
「俺はただ、姚華さまの……“ある一言”が聞きたいだけなんです」
「……? それはどういう――……んひぃッ!」
 月彦は一度だけ、姚華の体を揺さぶる。
「姚華さまは嫌だと仰るかもしれません。でも、俺は是が非でも聞きたいんです」
「何を、言うておる……お主の言う事は……さっぱり要領を得ぬ……一体……あぁッ! あっ、あぁっ!」
 二度、三度。月彦は姚華の体を持ち上げ、落とす。勿論、絶対に“イけない”タイミングで。
「解りました、じゃあ……ヒントを差し上げます」
 月彦は姚華の耳元へと唇を近づけ、ぼそぼそと“ヒント”を囁く。――もっとも、ヒントとは名ばかりで、何を言えば良いのかを殆ど教えるようなものだった。
「なッ……お主……儂にそのような真似をせよとっ……」
「出来れば、是非」
 月彦は力強く頷く。
「……お、お主……儂を誰だと思うておる! 師である儂に向かって、そのような言葉を口にしろなどと、よくも……!」
「そこをなんとか、お願いします。姚華さま」
 ぐっ、と月彦は姚華の尻を掴み、いかにも揺さぶる――と見せかけて、逆に一切の動きを封じる。。
「こ、これっ……月彦……何の真似じゃ……」
 それまでは、月彦が動かなくとも、姚華が辿々しく腰をくねらせたりしていた。が、月彦はそれすらも封じる。
「……姚華さま、お願いします」
「ダメじゃと、言うに……早く、手を……」
 ふぅ、ふぅと姚華が不規則に息を乱す。焦れったげに太股を動かしては、チラチラと意味深な目を月彦の方へと向けてくる――が。
「聞き入れて頂けないなら……ずっとこのままですよ?」
「なっっ……」
 絶句する姚華の尻を、ゆっくり持ち上げ、こちゅんっ、と乱暴に落とす。
「あァうッ! はっ、ぁっ……んっ、はぁっ、はぁっ…………」
 そのまま、こちゅ、こちゅと。何度か小刻みに姚華の尻を揺さぶり――そして、唐突に止める。
「ぁっ……ぅ、ぅぅぅぅ……こ、これっ……何故、止めるのじゃ……」
「俺の願いを聞き入れて頂けたら、すぐに動きます」
 ううぅ、と姚華が泣きそうな顔で呻く。
「そ、そんなに……お主は……儂に……あのような………………っ……は、はしたない言葉を、言わせたいのか……」
「はい。一度だけで良いですから。愚かな弟子の愚かな望みだと笑ってくださって結構です。俺はどうしても、姚華さまの口から聞きたいんです!」
 圧倒的優勢にもかかわらず、殆ど泣き落としのような文言を用いたのは、ひとえに姚華のプライドを慮っての事だった。
 そしてそれは実に効果的だった。
「くっ……ぅぅぅ…………い、一度だけ、じゃぞ……………………一度だけ……お主の我が儘を……聞いてやる…………」
「……本当ですか? 姚華さま」
「ほ、本当じゃ! 嘘は……言わぬ……じゃから、早う……続きをっ…………気が、狂いそうじゃ……」
 姚華が震えた声で懇願する。月彦はもう少し“気が狂いそう”な姚華を眺めていたい衝動にかられたが、やむなく抽送を再開させた。なにより、月彦自身、我慢の限界でもあった。
「じゃあ、動きますよ……姚華さま」
「んぁっ……ぁっ、つき、ひこぉ……あんっ、あっ、あンっ……あンッ……ぁっ……あっ、あっ、あっ……!」
 とんっ、とんと剛直の先端に姚華の膣奥が当たる感触を楽しみながら、月彦は姚華の体を小刻みに揺さぶる。
「はぁっ……はぁっ……つき、ひこっ……つきひこぉっ……ンンッ……!」
 切なげに名を呼ぶ姚華の心を察して、月彦は口づけをかわす。そのまま姚華の尻を掴み、先端と膣奥をすりあわせるようにして動く。
「ンンンッ! ンンッ……ンンッ……んぅぅっ……はぁっ……はぁっ……つき、ひこっ……ダメじゃ…………儂は、……儂はっ、もう…………っ……」
「っ……姚華さま、約束……しましたよね? イくときはちゃんと――」
 ぼしょぼしょと囁きかけて、そのまま姚華の耳を舐める。ひぅゥ!――そんな声を上げて、姚華がキュウッ、と膣を締め上げてくる。
「っっ……く…………」
「姚華さま、聞こえませんよ?」
「ぁっ……くっ……ぅ……い……くっ…………イくっ……イクッ……イクぅぅぅううッ!!!」
 姚華が叫ぶように声を荒げた瞬間、ギュウゥ――と痙攣するように膣内が締まる。それをこじ開けるように、月彦は剛直を突き入れ、そして姚華の奥で――。
「っく……ようか、さま……ッ……!」
 姚華の尻肉を力一杯握りしめながら、どぷ、どぷとタップリの白濁を吐き出していく。
(くはっ……さっきより、出るッ……)
 びくっ、びくと己の意志とは無関係に剛直が震え、白濁が溢れる。既に姚華のナカには収まりきらなくなった白濁が、汚らしい音を立ててゴプゴプと漏れ出してくる。
「また……勝手に……ナカに……出しおったな」
 はーっ、はーっ……そんな絶え絶えな息づかいに交じって、恨み言のように姚華が呟く。
「えっ……と、ダメ……なんでしたっけ」
「……仙人も孕む事があると……そう……言うた筈じゃがの」
 姚華は月彦の肩に額を当てるようにして脱力しっぱなし。ただ、“ナカ”だけが、ヒクヒクと痙攣するように、剛直を締め上げてくる。
「お主は……儂との間に子が出来ても構わぬのか?」
 ちらりと、そこで漸く姚華は俄に顔を上げた。真剣に、心の奥底まで覗き込むような目だった。
 嘘は付けない――と、瞬時に思った。
「そう……ですね。姚華さまとの子だったら……きっと、真央と同じくらい、大事に出来ると思います」
 そうか、と力無く呟いて、姚華は再びくたぁ……と顔を伏せた。
「……ならば、許す」
 言って、姚華はそのまま体重をかけ、月彦を布団に押し倒してしまう。
「今回の事も、そしてこれからも……子種を注ぐ事を許してやる。………………儂も、お主との子が欲しいでな」
「姚華さま……んぷっ……」
 姚華が被さってきて、両肩を布団に押しつけられる。ぎゅうっと、そのまま胸元を顔に押しつけるようにして抱きしめられる。
(おっわっ……)
 そして、ヒクヒクと痙攣するように蠢いていた肉襞までもが、ぎゅうっ……と剛直に絡みついてくる。
「あんな……はしたない言葉まで口にさせおって……月彦、儂はもうお主を離さぬぞ……お主は……儂のモノじゃ」
 良いな?――乳で窒息死されられかねない程にぎゅうっ、と抱きしめられた状態での、半ば脅迫じみた姚華の問い。月彦に首を横に振る余裕は与えられず、ましてや言葉など発せる筈もなく、出来ることは――首を縦に動かす事のみだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 ――――半年後。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「……本当に、帰ってしまうのか?」
 はい、と。居間で荷造りをしながら、月彦は複雑な面持ちで返事を返した。
「神桃も手に入りましたし、病で苦しんでいる娘の事を考えると……矢張り、一刻も早く……」
「そう、じゃな……」
 ふいと、姚華がつれなげに背を向ける。その後ろ姿に、月彦は些かばつの悪いものを感じた。
 姚華を抱けば抱くほどに神桃の実りが早くなる――それが解ってからというもの、毎夜の様に姚華と交わった。無論、“馴れ初め”の時のように殺人的ペースでこそなかったが、日によっては“昼も夜も”とまぐわい続ければ、前にも増して姚華に情の移らない筈が無かった。
(……でも、これを持って帰らないと…………)
 真央の病は治らないのだ。そう、自分が神桃を持って帰らなければ、真央を待っているのは確実な死――そう考えれば、如何に姚華に情が移ろうとも、選択の余地は無かった。
「あの、姚華さま……真央の病気を治したら……またそのうち遊びに来ますから」
「そのうち……とはいつのことじゃ?」
 背を向けたまま、姚華が感情のこもらない声で呟く。
「ええと……それは……どうでしょう……学校もありますし……」
「二日後か? 三日後か? それとももっと先か?」
「いや……その……すみません、はっきり……いつとは……」
 出来る限り早くに顔を見せたいとは、月彦も思う。しかし、考えてみればそもそも自分一人でどうやってここに来れば良いというのか。そうそう都合良く、真狐が送ってくれるとも思えない。
「……薄情者め。お主は所詮……妖狐の女とその娘だけが可愛いのであろ」
 そのことを相談しようとした矢先、姚華が吐き捨てるように言い放つ。
「儂を抱いたのも、全て神桃欲しさ故にであろ」
「姚華さま……何を仰るんですか。そもそも、最初に姚華さまを抱いた時は、神桃樹との関連性は――」
「ええい、うるさい! 恩知らずめ……お主の事などもう知らぬ! 目障りじゃ、何処へなりと消えよ!」
「姚華さま……」
 背を向けたまま、怒りの言葉を放ち続ける姚華にかける言葉が見つけられなくて、月彦はしばし立ちつくした。
(……何を言ったところで、真央を助けるためには姚華さまの元を去らなきゃいけない)
 たとえ口先でどれほど姚華への想いをつづったとて、所詮真央に対する想いには及ばないと行動で示してしまう以上、どんな言葉も無意味に思えた。
「……長らく、お世話になりました」
 月彦は深く頭を下げて、そして踵を返した。居間を出て、玄関へと向かう途中で、突如「待て」と呼び止められた。
「待て、待て……さっき言うたのは嘘じゃ。月彦……行くでない」
「姚華さま?」
 小走りに駆けてきた姚華に、ぎゅうと。シャツの袖が――無論、ここに初めて着た時の服なわけだが――掴まれる。
「もうお主を離さぬ……そう言うたではないか。帰るのは許さぬ、神桃も渡さぬ! ずっとここに……儂の側に居れ!」
「……姚華さま、聞き分けのない事を仰らないで下さい。娘の命がかかってる事なんです」
 呻くように言って、月彦は姚華の手を振り切る。待て――と、さらに姚華が声を荒げる。
「解った……ならば、もはや帰るなとは言わぬ。……じゃが、せめてもう一年……否、一月でも良い。ここに居てくれぬか? 娘の病も、まだ猶予はあるのじゃろ?」
「姚華さま……そうしたいのは、俺も同じです。ですが……今こうしている間にも、娘は……真央は病に苦しんでるんです。その苦しみを一分一秒でも早くに取り除いてやりたいんです」
「お主の娘を想う気持ちは儂とて分かっているつもりじゃ。…………ならば、一日。一日ならどうじゃ? 外界では、ほんの瞬きほどの時間じゃ……それすらも、お主はダメだと言うのか?」
「…………姚華さま、お願いです。俺を困らせないで下さい」
 確かに姚華の言う通り、外での時間の流れが万分の一になるというこの仙域ならば、一日残ったとしても、外ではほんの僅かな時間しか経っていない事になるだろう。
 しかし。
「その一日がダメなんです。きっと明日になれば、もう一日、もう一日……となっていくに決まってます」
「月彦……」
「解って下さい。姚華さま……これが今生の別れというわけじゃないんですから、どうか……」
 姚華の手を振り切り、月彦は玄関へと歩き出す――が。
「月彦、待て……今宵一晩、留まってくれるなら……儂はお主の言う事をなんでも聞いてやるぞ」
 姚華の言葉に、ぴたりと月彦の足が止まる。好機、とでも見たのか、するりとその腕が姚華によって絡み取られ、むぎゅうっ……と巨乳が押しつけられる。
「そうじゃな……今宵は久々に尺八を……お主は“ふぇらちお”という呼び方の方が好きじゃったかの。……特別にアレをしてやってもよいぞ? お主、好きであろ?」
 ふーっ……と耳元に息を吹きかけながら、姚華がぼしょぼしょと悪魔の囁きを仕掛けてくる。
「何なら、“ぱいずり”とやらでも良いがの。……今宵に限り、儂はお主の下僕となろう。何でもお主の好きなだけ、思うがままじゃ」
 さわ、さわと頬や顎の下を撫でられながら、耳の裏を擽るように囁かれる。さながら、心の奥にある“決心”という名の都市を絨毯爆撃されているような、そんな心境だった。
「ぐっ……よ、姚華さま……卑怯ですよ……そんなっ……ぐぐ……」
「何を言う、この半年……毎晩ケダモノのように求めおってからに……儂をお主抜きでは生きていけぬ体にしたのはそもそも誰じゃ?」
「で、ですから……これが今生の別れではないと……か、必ず……近いうちに戻ってきますから!」
「それは待てぬ、と言っておる。……のう、月彦。里帰りは……儂との子が出来てからでも遅くはない……そうは思わぬか?」
 つつつと。絡め取った月彦の腕を、姚華は自分の腹部のあたりへと誘う。
「ここがの、お主との子が欲しいと言うておるのじゃ。……昼も夜も無しに、とっぷりと子作りに励む……そのような日々を送りたくはないか?」
「ぐっ……」
 姚華の囁きは、なんとも魅力的だった。恐らくは、正攻法では引き留められないと見ての色仕掛けなのだろうが、それがなんとも月彦のツボにドストライクだからたまらない。
(姚華さまが……色仕掛け、なんて……)
 ここに来たばかりの事を思えば、到底考えられない事なだけに、月彦の決心は大いに揺れた。確かに、真狐や真央の様に普段から色気ムンムンの相手にかけられても、勿論それなりの効果はあるのだろうが、どちらかといえば身持ちの堅い姚華のそれは反則とも言って良い効果をもたらしていた。
(それに……姚華さまが一晩俺の下僕……っていうシチュも……ッ……!)
 想像しただけで、ジュルリと生唾が沸く。この半年間、それこそ毎日のように姚華を抱いたが、正直まだまだやり足りない事は沢山ある。姚華に拒絶されそうでトライできなかった様々な体位やプレイをやりつくす絶好の機会――ここを去るのは、それらを全てやった後でも遅くはないのではないか――。
(久々に、フェラもしてくれるって……)
 口での奉仕は最大の愛情表現――決して嘘ではないのだが、それが必ずしも真実でない事は遅からずバレてしまっていた。それに怒った姚華は、滅多なことではしてくれなくなったのだった。
 それだけに、“久々に”という姚華の言葉にはただならぬ威力があった。
(姚華さまのフェラ……うぅぅ……)
 思わずごくりと生唾を飲んでしまう。己よりも立場が上――文字通り師匠にあたる姚華が下僕のように跪き、剛直を舐めしゃぶる光景を思い浮かべるだけで息が弾み剛直が猛りそうになる。
(しかも……中出しし放題……っ……)
 他ならぬ姚華が孕ませて欲しいと言っているのだ。何の遠慮をする必要があろうか。言うことをなんでも聞いてくれるというのなら、まずは“おねだり”をさせてみるのも悪くはない。姚華が恥じらいながら脱衣し、足を広げ、秘裂を自らの指で割り開きながら淫らな言葉で誘う――もはや何度生唾を飲んでも足りない光景を妄想し、月彦の心の天秤は九割九分“そちら”へと傾いていた。
 ――が。
(でも、真央が…………ッ……)
 しかし、ここで誘惑に負けたら、二度と真央に顔向けが出来ない――そう思うのだ。例え結果的に真央の病が治ったとしても、娘の命よりも欲望を優先させたという事実が、心の中で一生のしこりとなって残るのは間違いないと。
「……っ……すみません、姚華さま」
 血の涙を飲んで、月彦は三度、姚華の腕を振り切る。
「………………これほど言うてもダメか。お主の娘への想いは……余程強いのじゃの」
「はい……。姚華さまには大変申し訳なく思ってます」
「……儂も、お主にそれほどに想われたいものじゃ」
「……決して、姚華さまを蔑ろにしているわけじゃないんです。……ただ、真央の場合は……命がかかっている事ですから」
 すみません――月彦は深く頭を下げる。。
「姚華さま。本当にしばらくの間だけですから…………今度来る時は、姚華さまの大好きな駄菓子をいーーーーっぱい買って来ますから、楽しみに待ってて下さい」
「……随分昔の事を良く憶えておるの。しかし、余計な気は使わなくても良いぞ……儂は、お主さえ来てくれればそれで十分じゃ」
 社交辞令でもなんでもなく、本当に駄菓子など要らない様な言い方に、月彦は複雑な笑みを返さざるを得ない。
「そうじゃ、月彦……次は娘も連れて遊びに来るが良いぞ」
「え゛……真央をですか?」
「うむ。お主がそこまで可愛がる娘に興味があるしの……それに、ゆくゆくお主と暮らすのならば、娘とも仲良くならねばならぬであろ?」
「は、ははは……そう、ですね……人見知りする娘ですから……どうでしょうか……」
 特に女性相手は――と、心の内で付け足しておく。
「……というわけで、姚華さま……名残惜しいのですが、そろそろ」
「……そうじゃの。そこまでして帰りたいというお主をそうそう引き留め続けるわけにもいかぬか」
「では、姚華さま……改めてお世話になりました」
 ぺこり、と頭を下げ、月彦は玄関を後にする――が。
「待て、月彦」
「っと、何ですか、姚華さま」
「家に帰るのであろ。ならば、こっちの方が早い」
 ついて来よ――と手招きをする姚華にしたがって、月彦はその後に続いた。


 姚華に連れられてやってきたのは、裏庭の井戸だった。
「姚華さま、井戸が近道……なのですか?」
「うむ。昔……お主に言うたの。真ん中の井戸は不老長生の水じゃが、残りの二つは毒水じゃと。酷い毒気が出ておる故、決して井戸の蓋を開けるでないと」
「ええ、そう聞きました。なので近づいてすらいませんが……」
「真実を言うても良かったのじゃが、もしお主が興味をそそられて覗き込み、或いは落ちたりしては大変じゃからの。あえて嘘をついた」
 姚華は静かに井戸に歩み寄り、不老長生の水の井戸の右側の井戸の蓋を開く。
「“愚者の井戸”――そう呼ばれておる。誰が名をつけたのかは儂も知らぬ。じゃが、この井戸の中に落ちれば、間違いなくお主の家へと帰る事が出来る」
「本当ですか!?」
「うむ。……本来はの、仙人となるを諦め、家へと帰る……そんな者達を愚者、と嘲っての井戸なのであろうが、まあこの際名前はどうでも良い。とにかく、この井戸に入ればお主は帰れるという事じゃ」
「……ちなみに姚華さま。こちらの井戸は……?」
 月彦はそれとなく、蓋をされたままの井戸を指さす。
「そちらは儂も本当の名は知らぬ。ただ、儂の師匠は“奈落の井戸”と呼んでおった。文字通り奈落へと通じる、底なしの井戸じゃ」
「奈落に通じる井戸……ですか。一体全体どうしてそんなモノが……」
「仙人を殺す為じゃ」
 けろりと姚華は言う。。
「仙人は不老ではあるが、不死身ではない。首を斬られれば死ぬし、心の臓を潰されても死ぬ――が、並大抵の事では死なぬ。……それがどういう事か解るかの」
「ええーと……何となくですけど……人間よりも酷い目に遭わないと死ねない、っていう事でしょうか」
「当たらずとも遠からず……といった所かの。寿命では死なぬ故、特殊な例を除けば、仙人が死ぬ時は老衰で安らかに……とはいかぬ。生きるに飽いて死にたい……が、痛いのは嫌じゃという我が儘者のために、この井戸がある」
 と、儂も師から聞いた――と姚華は小声で付け加えた。
「……穴に落ちれば……楽に、死ねるんですか?」
「言い伝えでは、そう言われておる――が、やはり真偽は解らぬ。何せ、井戸に落ちて戻ってきた者が居らぬでな。一説には、魂すらも脱する事が能わぬ穴――とも言われておる。まあ、近づかぬが無難じゃの」
 かんらかんらと姚華は笑うが、月彦はとても笑う事は出来なかった。知らなかったとはいえ、そのような恐ろしい井戸の側で毎日水くみをしていたのだ。
(奈落に通じる井戸……か)
 或いは、本当に底なしで、遙か昔に落ちた仙人は今尚永遠の落下を続けているのではないか――そんなうすら寒い想像に、ゾクリと肝が冷える。
「姚華さま……」
「うむ?」
「姚華さまは……この井戸に入ろうなんて、絶対思わないで下さいね」
「何を……馬鹿な事を言うておる」
 月彦の言葉が余程意外だったのか、姚華が苦笑を漏らす。
「そんなに真剣に考えるでない。この三つの井戸は芳命山に限らず、仙域であれば何処にでもあるものじゃ」
 別に特別なものでも何でもない――と、姚華は言うが。
「と、とにかく……姚華さま。変な事だけは考えないで下さいね?」
「意外に恐がりじゃのう、お主は。井戸の事を今まで黙っていたは、矢張り正解であったな」
 くつくつと、井戸の蓋にもたれ掛かりながら姚華は笑う。それですら、月彦はハラハラと胸の内が落ち着かないのだが、姚華はそれすらもおもしろがっている様だった。
「安心せい。お主が来る前ならばいざ知らず……今の儂が生きるに飽いて身投げなぞするものか」
「……その言葉を聞いて、やっと安心できました」
 ホッと、ため息をついたのもつかの間。但し――と、姚華が付け加える。
「お主の帰りがあまりに遅ければ、どうであろうかの。寂しさの余り……つい……等という事が、ひょっとしたらあるやも知れぬのう」
「よ、姚華さま……言っていい冗談と悪い冗談がありますよ!」
 月彦は声を荒げるが、しかし――姚華は至って真面目な顔をする
「……言っておくが、冗談ではないぞ、月彦や」
 そして、意味深に……奈落の井戸の蓋を撫でさする。
「お主が思うておる以上に……儂はお主と離ればなれになるのが辛いのじゃ。儂の事が心配なら……一刻も早く戻ってくるのじゃ、良いな?」
「……ぐ……解りました。姚華さま……それじゃあ、今度こそ俺は帰ります。この井戸の中に入れば、家に帰れるんですよね?」
「うむ。……いや、待て! 月彦っ」
 愚者の井戸の蓋を開け、中に入ろうと片足を上げかけていた月彦は、姚華の言葉にぴたりと動きを止める。
「…………そっちが、奈落の井戸だったやもしれぬ」
 そして、ぽつりと漏らした姚華の言葉に全身の毛を逆立てさせて慌てて井戸から距離を取った。
「なっっ……姚華さま、その間違いは洒落になりませんよ!」
「いや、すまぬ……何せこの井戸をつかう事など久方ぶりじゃからの……はて、どっちがどっちであったか……」
 むう、と姚華はうなり声を上げる。
「何か、目印とか無いんですか?」
「あったかもしれぬが……忘れた」
「なっ……」
「本当にすまぬ……月彦。じゃが、二,三日もすれば思い出すやもしれぬ」
 渋い顔をしながら呟く姚華を、月彦はじぃぃ、と見つめる。
「な、何じゃ……その目は……」
 月彦は何も言わない。ただただ、姚華の目を、顔を見つめる。
「儂が嘘を言っておると思っておるのか?」
 心外じゃ!――と声高に叫びながらも、おろおろとした狼狽っぷりは真実を教えているようなもの。
「姚華さま」
 トドメ、とばかりに。月彦はぽつりと呟いた。
「……嫌いになりますよ」
「……ッ……!」
 途端、姚華は全てを諦めたように肩を落とし、ふうとため息をつく。そして、最初に月彦が入ろうとしていた井戸を、黙って指さした。
「そっちであってるんですね?」
「うむ……」
 力無く、姚華は頷く。
「解りました。信じます……では、姚華さま」
 今度という今度こそ――と井戸に入ろうとした矢先、またしても。
「月彦や……」
「うわっと、な、何ですか姚華さま!」
 井戸の中にずり落ちそうになりながら、月彦は辛うじてはい上がる。
「驚かせてすまぬ……その、最後に……別れの儀式を、じゃな……」
「別れの儀式……ですか?」
「うむ……仙人に弟子入りした者はな、暇乞いをする時は……必ず接吻をする習わしなのじゃ」
「…………それ、男同士だったらどうするんですか?」
「つ、つべこべ言うでない! 良いから、早く……んっ……」
 姚華に急かされるまでもなく、月彦はそっと姚華を抱き寄せ、その唇を奪う。
「んっ……これで、儀式は終わりですか?」
「まだじゃ……もっと、時間をかけて……んむ……」
 今度は濃密に、舌を絡ませながら、姚華の唇を吸う。
「んむっ……んぅっ……んっ……んんんぅぅ………………!」
 感極まったように、姚華が喉の奥で噎ぶ。月彦の背へと回した手がサワサワともどかしげに蠢き、焦れったげに腰をくねらせ始める。うっかり、その尻へと手を伸ばしかけて、月彦は慌てて唇を離した。
「……これで、満足ですか? 姚華さま」
「まだじゃ……次はの、冷水で身を清めてじゃな……そして一晩かけて――」
「長らくお世話になりました! 姚華さまもお達者でッッッ!!」
 姚華が喋り終わるのを待たず、月彦は強引に別れの挨拶をすませると、ひらりと井戸の中へと身を躍らせた。
「あっっ、これっ……月ひ――」
 頭上から、姚華の声が聞こえたが、それは途中で途絶えた。体が、凄まじい速度で落下してくのが解った。見上げれば、自分が入った井戸の入り口がみるみるうちに小さく、白い点となり、そしてそれすらも暗闇に飲まれる。
(……しまった、肝心のここへの戻り方を聞くのを忘れてた!)
 後悔をしても、まさに後の祭りだった。そんな事を考えている間にも、体は落下しつづけ、最初は肌に感じる空気の感じで“落下している”という事だけは解ったのが、それすらも本当の感覚なのか、或いは錯覚なのかの判別がつかなくなっていく。
(まさか……素で奈落の井戸と間違えてたなんて……そんな、オチは――)
 そんな不安が胸をよぎるが、間違いだとしても最早手遅れ。月彦に出来ることはただただ、愛する娘が待つ我が家へと戻れる様、祈る事のみだった。


「痛っでッ!!」
 突然の尻餅。その痛みで、月彦はハッと我に返った。一体どれほどの間暗闇の中を落ちていただろうか。丸一日はいた様な気もするし、ほんの十数秒であったようにも感じた。
 しかし、今やそのような事はどうでもよかった。恐る恐る目を開けたそこには、紛れもない我が家の玄関が見えたのだから。
「かっ……帰ってこれた……本当に、帰ってこれたのか……」
 痛む尻を押さえながら辛くも立ち上がり、辺りを見る。夕暮れ時――だろうか。空が赤く染まりかけていた。
(朝も夜も関係あるか! 俺の家だ……帰ってきたんだ!)
 一も二もなくドアノブを捻り、玄関へと飛び込む。葛葉は不在なのか、台所の方からは人の気配はしない。
「真央っ……!」
 勿論、この際四十余年も顔を合わせていない母親の安否よりも、娘の命が大事だった。月彦は息を切らせて階段を駆け上がり、乱暴に自室のドアを蹴り開けた。
 刹那、月彦はその場に立ちつくしたまま凍り付いた。
「あっ……父さま、おかえりー!」
「何よあんた。もう帰ってきたの?」
 自室の扉を開けて、月彦の目に真っ先に飛び込んできたのはベッドで病と闘っている筈の娘と、その命を救う為に自分を秘境の果てに放り出した女が二人して対戦型の落ちゲーをやっているというあり得ない光景だった。
「父さま、二日もどこ行ってたの? 心配してたんだよ?」
 ゲームのコントローラを放り出して、真央がきゅう〜っと抱きついてくる。
(えっ……あれ、えっ……一体、何が……)
 眼前の光景が信じられなくて、月彦は何度も己の目を擦ったり、頬を抓ったりしてみた。果ては、井戸を潜った際パラレルワールドに来てしまったのではないかとすら考えた。
 そして漸く、ビジー状態の脳味噌で現状の混乱を解決しうる質問を導きだした。
「な、なぁ……真央……お前、病気で倒れて……寝込んでるんじゃなかったのか?」
「えっ……だって……あれは……」
 ぽっ……と、真央が頬を赤らめる。
「前の晩も、その前も……父さまに激しくされて眠れなかったから……だから、ちょっと寝不足で倒れちゃっただけだよ?」
 そういえば――と、月彦は辛うじて残っている記憶を探り出した。真央が倒れたとき、確かに言っていた。大丈夫だから、ちょっと寝不足なだけだから――と。
「でも、掌に……黒い斑点が……」
「あれはあんたが水取りに行ってる間にあたしが墨を塗っただけよ」
 いつのまにやらナップサックを奪った真狐が、がさごそと中身を漁りながら口を挟む。
「あったあった、これこれ……これが欲しかったのよ!」
 そしてナップサックの中から金色の桃を取り出すや、真狐は歓喜の声を上げてかぶりついた。
「ンぅー!!!! 効っっくぅぅうう……はぁー……やっぱり肩こりには神桃が一番だわぁ…………」
「かた……こり?」
「そうよぉ……こんだけ立派なのぶら下げてるとさぁ……もー凝って凝って……はぁー、極楽極楽……」
 喜色満面でむしゃむしゃと神桃を頬張る真狐の姿に、月彦はがくりと膝をついた。
(俺は……こいつの肩こりを治すために……四十年も…………?)
 俺を騙したのか!――そう声を荒げる余裕すら無かった。あまりのショックに、くらりと……意識が遠のくのを感じた。
「と、父さま!?」
「あーらら、父さまは長旅で疲れてるみたいね。てきとーにベッドにでも寝かしておきなさい。それより真央、早くゲームの続きやるわよ」
 ケラケラケラ――意識を失った月彦の耳に、何とも忌々しい狐の笑い声がいつまでも木霊するのだった。
 

 

 
 

 

ヒトコト感想フォーム

ご感想をひとことどうぞ。作者にメールで送られます。


ヒトコト

Information

現在の位置