やはり、ダメだったか――プレイ時間が増えるに従って、死んだ魚のような目に変化していく愛娘の姿に、月彦はそう判断せざるを得なかった。
「あー、真央。つまらないならもう止めていいぞ?」
 月彦の言葉に、ハッとしたように真央が目の光を取り戻す。
「ううん、そんなことないよ。すごく面白い……と、思う」
 まるで“面白い”と評価すること自体耐えがたい罪深さを感じているように、真央が目をそらす。
「いや、大丈夫だ。最初に言ったろ? 世間じゃ超クソゲーって言われてるし、俺も自分以外にこのゲーム面白いって言ってる奴に会ったことないし……なんかネットの評価とかも酷いらしいし、真央が面白いと思えなくてもしょうがないんだ」
「父さま……」
 真央がちらりと、ゲーム画面へと目をやり、そして伏せる。
 事の始まりは、押し入れの整理をしていた時に見つけた一本の古いゲームソフトだった。『ブレスオブドラゴン3』と銘打たれたそれは一世代前のハードで発売された思い出のゲームソフトなのだと口を滑らせたのがまずかった。父さまがそんなに好きなゲームなら自分もやってみたいと真央が言い出し、長編RPGだし、おすすめは出来ないとさんざん言ったにもかかわらずプレイをし始めた真央の顔が時間経過と共に苦渋に満ち、目が濁っていくのは見ていて痛ましいほどだった。
「あのね、つまらないわけじゃないんだけど……」
「解ってる。主人公の行動が支離滅裂すぎてまったく共感を抱けないんだろ?」
 真央が控えめに頷く。
「父さま、これ……竜を倒しに行くRPGなんだよね?」
「うむ」
「なのにどうして、竜とは関係ないお使いばっかり行かなきゃいけないの?」
「アリア姉ちゃんの命令だからな。弟として旅立つ前にまずは姉ちゃんの命令を遂行しなければならないんだ」
 心なしか、真央の目の光がさらに濁ったような気がした。
「でも……もたもたしてる間に町が三つも灰にされちゃったよ?」
「うん……まぁ、そこら辺のやるせなさも、クソゲーって言われる所以なわけだが……ま、まぁでもほら、アリア姉ちゃんの準備も整ったし、ここからは二人旅だぞ!」
「う、うん…………父さま、このアリアっていうキャラ、ちょっと姉さまみたいだね」
「そうか? 確かに背格好は似てるし、髪の長さも同じくらいだけど、色は赤だし……普段あんまり喋らなくて無言ですげープレッシャーかけてくる所とかは似てなくもないけど、姉ちゃんの方が全然優しいし……何より、姉ちゃんの方が美人だしスタイルいいし足も長いだろ」
「………………えっと、とりあえず、出発するね」
 真央がプレイヤーキャラを操作し、故郷の村から出発する。目指す隣町へと進んでいくと、程なく敵とエンカウントし、戦闘が始まる。
 が。
「きゃあっ!」
 これまで同様、雑魚敵を攻撃するようにキャラを操作した真央が突然悲鳴を上げた。というのも、真央の操作するプレイヤーキャラが雑魚敵を攻撃した次の瞬間、仲間であるはずのアリアに背中から切りつけられたからだ。
「びっくりしたぁ……父さま、今どうして斬られちゃったの?」
「うん、まぁ……アリア姉ちゃんが攻撃しようとした敵を先に倒しちゃったからだな」
 また、真央の目が濁る。
「ちなみにアリア姉ちゃんはこの後仲間になる他のキャラと違ってプレイヤーの操作は一切受け付けないからな。あと、意に沿わない行動を取ると即背中から斬りつけられてだいたい一撃で戦闘不能になるから注意したほうがいいぞ?」
 そういうことは先に言ってほしい、というような目を向けられる。
「……いや、真央ならその辺の機微は察せるんじゃないかなって思ったんだが…………まあその理不尽さと不自由さがまた、クソゲーって言われる所以なわけだが……」
「で……でも、父さま……誰を攻撃しようとしてるかなんてどうやったら解るの?」
「その辺はあれだ、立ち位置と体の向きと、あと視線だな。ちなみに見ている敵を必ず攻撃するってことじゃないぞ。立ち方に何パターンかあって、あと敵の数や強さ、地形によっても変わる。俺も最初は見分けられるようになるのにさんざん苦労したもんだ」
「………………。」
「ちなみに、あまりに完璧にお膳立てをすると、それはそれで生意気と判断されて斬りつけられるからな。五回に一回くらいはわざと先に攻撃するようにしたほうがいい。そのくらいなら割と手加減してもらえるんだ」
「ええぇ……」
「アリア姉ちゃんとは第一章が終わるまでずっと同じPTだからな。一章が終わるまでに一万回は斬り殺されるくらいの覚悟で居た方がいいぞ……」
「いちまん……」
「まぁ、第一章が一番キツいからな。ここでプレイヤーの九分九厘は脱落するらしいしな。第二章まで行けば今度はマイ姉ちゃんと二人旅になるから、一気に楽になるぞ」
「マイお姉ちゃんって、序盤でちょっとだけ出てきて、アリアお姉ちゃんと喧嘩してた人?」
「そうそう、よく覚えてたな。マイ姉ちゃんは凄いぞ? プレイヤーの操作を受け付けないのはアリア姉ちゃんと同じだけど、主人公がかすり傷でも負うとすぐ回復魔法かけてくれるし、攻撃した敵が死ぬまで連続攻撃してくれるんだ。しかも痛恨の一撃をな」
「………………。」
「ちなみに雑魚敵だけじゃなくてボス戦でもだぞ。第一章と同じゲームとは思えないくらい一気にヌルゲー化するんだ。そのバランスの悪さがクソゲーって言われる所以の一つでもあるんだが……」
「でも、そのマイお姉ちゃんが竜の正体なんでしょ?」
「うむ。序盤からバレバレなんだけど、主人公は全然気づかないからな……。主人公があまりに鈍感すぎて、そのせいでいくつもの街が竜に壊滅させられるから、主人公がクソ過ぎるって……そこもクソゲー要素だって言われてるんだよな……」
「………………。」
「まあでも仕方ないんだ。マイ姉ちゃんも悪気があってやってるわけじゃないんだ。優しすぎて竜の力をもてあましてるから、ちょっと精神的に不安定になっただけで力が暴走して大暴れしちまうだけなんだ。唯一、主人公と一緒に居る間だけは情緒が安定して優しいままでいられるんだけど、すっごい寂しがり屋だからシナリオで別行動になったりするとたちまち半狂乱になって竜化して、何の関係もない街や村を消し飛ばしちゃうんだよな……そこら辺の設定がクソすぎるって話もよく聞くんだよな……」
「でも……父さまは好きなゲーム……なんだよね?」
「まぁ、な。世間一般の評価じゃ、主人公が病的なくらいシスコンで気持ち悪いとかさんざん言われてるけど、そこまで酷いとは思わないし……。それにグラフィックも当時としては破格で、特に2章後半のマイ姉ちゃんと一緒に浜辺を旅するシーンなんか最高なんだぞ。ほんと”超クソゲーだけど、海辺のシーンだけはよかった”って言う人もいるくらいだ。長い長いダンジョンを抜けて、真っ暗の海辺を二人で歩いてるところに、水平線からゆっくりと朝日が昇ってきて……あぁ、思い出したらジーンと来ちまった。そこから次の街まで朝日に照らされた海岸を二人で歩いて行くんだけど、一切のBGMが止まって、モンスターまで空気読んだみたいに出なくなって、あの数分間がほんと最高なんだよなぁ……」
 早口にまくしたて、うんうんと月彦は頷く。
「ああでも、他にもいいところはいっぱいあるんだぞ? 特に終盤、アリア姉ちゃんかマイ姉ちゃんか二者択一して変化するエンディングがまた良いんだよな。選ばなかった方と敵対するのはわかりきってたから、正直初回プレイの時なんてどちらも選べなくて、二ヶ月間以上先に進めなかったくらいだ」
「そう……なんだ。ねえ父さま、これ、あと何時間くらいでクリアできるのかな?」
「まだ第一章の半分もきてないからなぁ。一つの章がだいたい20時間くらいかかるから、どんなに早くてもあと95時間くらいはかかると思うぞ」
 かたーんと。真央の手からコントローラーが落ちる。
「…………まぁ、苦手なものを無理にやる必要はないさ。それに真央はRPGってもともとそんなに好きじゃないだろ?」
「う、うん……ごめんね、父さま……」
「いいから、謝るなって。……そーだ、真央。折角だから一緒に発掘した『けものフォレスト』をやってみないか? 多分こっちの方が真央には合うと思うぞ。グラフィックはちょっと古くさいけど、協力プレイも出来るから、二人で一緒にやれるしな」
 パッケージにメルヘンチックにデフォルメされたウサギやらキツネやら森の動物たちが描かれたゲームを差し出すと、たちまち真央が輝かんばかりの笑顔を零した。
「面白そう! 父さま、これはどんなゲームなの?」
「まあ、ほのぼの系だな。人間の主人公を使って、森に住んでるネコ族やイヌ族と仲良くなっていくストーリーモードと、メインシナリオで仲良くなった種族を自分で操作して遊ぶフリーモードがあるけど、真央だったらフリーモードのキツネ族でプレイするといいんじゃないか?」
「キツネもいるんだ……どんな術が使えるの?」
「いや、妖術とかそういうのはない……。普通に森の中を歩いて素材を集めて道具を作ったり家を作ったりするゲームだからな。キツネ族は力が弱くて序盤の素材集めはスゲーきついけど、手先が器用だから道具の製作とかは早いし知識の習得も早いから序盤を乗り切れば後半は割と楽だな。ただ繁殖力はかなり低いから、一族繁栄エンドを見ようとするとかなりキツいが……まぁ普通にプレイする分には大丈夫だ」
「父さま、これタヌキ族とかもいるんだね」
 よほど興味が出たのか、説明書を恐ろしい速度でめくりながら真央が呟く。
「ああ、居るな。割と力が強めで、そこそこずるがしこくて、しかも繁殖力がネズミ族の次に高いから厄介だぞ。普通にプレイしてると森の勢力図がほぼタヌキ一強にされるからな」
「殺したりもできるの?」
「………………いや、自由度はかなり高いけど、そういうシステムはないな。バトルして勝って所持アイテムを奪ったりとかはできるけど、やると種族間の友好度が一気に下がって取引しにくくなるし、他の種族からも嫌われたりするから基本やらないな」
 さらっとした顔で「タヌキ殺せるの?」と質問する真央にうすら寒いものを感じつつも、月彦はあくまで事務的に説明をする。
「……ふぅん、でも家を燃やしたり、畑を荒らしたりとかはできるんだ」
 が、既に説明していないことまで説明書から知識を得てしまったらしい。
「ま、待て! 真央、確かにそういういやがせプレイも出来るけど、基本的には仲良くするゲームだからな?」
「大丈夫だよ、父さま。タヌキ族以外とはちゃんと仲良くするから」
「待て、待て。やってみれば解ることだけどな、このけものフォレストはゲームバランスがあんまり良くなくて、特にタヌキ族はメインシナリオで主人公の相方のアライサンがタヌキ族ってこともあってかなり優遇されてるから、タヌキ族と敵対したままプレイするのはほとんど不可能なんだ。種族間の人数差は後半になればなるほど開いていくし、その上仲が悪かったら最悪こっちが家を壊されたり燃やされたり、四六時中バトルを挑まれて道具の製作も材料の収集も何も出来ない詰み状態にされるぞ!」
 いかん、このままでは真央が性悪狐プレイに目覚めてしまう――慌てて止めに入る月彦の耳に、葛葉の呼ぶ声が飛び込んできたのはまさにその時だった。
「……悪い、真央。ちょっと行ってくる。先に始めててもいいが、とにかくタヌキ族とは敵対するんじゃないぞ?」
 部屋を出て、階下へと降りると、早く早くとばかりに手招きしている葛葉の姿があった。
「月彦、電話よ。妙子ちゃんから」
「えっ……た、妙子から!?」
 予想外すぎて、思わず声が裏返る。左手でいつになく笑顔の葛葉から受話器を受け取り、おそるおそる耳に当てる。
「もしもし……俺だけど……」
『……月彦?』
 久しぶりに耳にする幼なじみの声に、つい表情が緩みそうになる。うきうきと浮き立ちそうになる心を抑えながら、月彦はさも「べ、別に嬉しくなんかねーし」とでも言いたげな声で返す。
「お、おう……どうした?」
 必死に抑えようとしているのに、どうしても声が浮き立ってしまう。それほどに、妙子から電話がかかってくるということは希有な出来事なのだ。
 受話器越しにかすかに聞こえる、ためらいの吐息。それが二度か三度続いた後、意を決したような声で、妙子が言った。
『…………ごめん。ちょっと、助けて欲しいんだけど』


 
 

 

 

 

 

『キツネツキ』

第六十二話  

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 





 その日、白石妙子はいつもよりちょっとだけ浮ついた気分で登校した。不思議なもので、気分が違えば世界の見え方も変わってくるらしい。いつもはただ眩しいとしか感じない通学路を逆光気味に照らす朝日すらも、今日に限っては自分を祝福してくれているような気さえする。
(ふふ、佐由達、羨ましがってるかしら)
 昨夜のことを思い出すだけで、思わず顔がニヤけてしまいそうになる。何のことはない、贔屓にしている深夜ラジオ番組コーナーで妙子の葉書に書かれたネタがラジオDJに大絶賛されたというだけのことなのだが、妙子が嬉しかったのはそれだけではなかった。
(一度に読まれた枚数の最高記録も更新しちゃったし。それに……)
 ラジオDJが腹を抱えて大笑いした結果、次のコーナーに移ることが出来ずに急遽曲が流れ始めるなどといった珍事は、長いこと深夜ラジオを聞き続けている妙子としても初めての事だった。さらに曲が明けた後も通常のコーナーへは移らず「俺のコーナーよりも黒ポメの葉書ネタを喋ってたほうが絶対面白い」と、葉書をネタにしたフリートークが続くなど前代未聞な出来事だった。
(……まぁ、“アイツ”を元にしたネタだっていうのが、ちょっとだけ癪だけど)
 しかしその分をさっ引いて尚、優越感を感じずにはいられない至高の二時間だった。辛口、毒舌で知られ、他のラジオDJや芸能人をボロクソにこき下ろすことはあっても滅多に褒めることはない稲光ハシルに絶賛され、挙げ句「一度ゲストとしてスタジオに呼びたい」と言われた時などは嬉しさのあまり変な声まで出てしまった程だ。
(そんなの、絶対無理……だけど……)
 スタジオに行くどころか、電話で直に話をすることすらも無理だと、妙子は思う。嫌だというわけではなく、性格的に無理なのだ。
(…………私じゃなくて、あの二人なら)
 佐由や英理ならば、おそらく嬉々として応じるだろう。むしろ佐由ならば、番組の最中に自分から電話をかけていたかもしれない。そんな二人の陽気さを羨ましいと思うが、こればかりはしょうがない。
 人にはもって生まれた性分というものがあるのだ。
(…………この中に居ないかな。昨夜のラジオ聞いてた人……私が“あの”黒ポメなんだからね?)
 通学に使っているバスの中の乗客の顔ぶれを見回してみる。もちろん深夜ラジオの聴取率などテレビのそれとは比較にならないだろう。このバスの中に、どころか学校中探しても、佐由と英理以外のリスナーが居るかどうかすら怪しい。
 しかしそれでも。かつてこれほどまでに他人に褒められ、認められたことはない。ましてや相手が芸能人だ。
 浮かれるなというのが、無理な話だった。

 そんな朝だから、あえていつも通りの仏頂面で教室に入り、自分の机に着くなり早速とばかりに佐由が近づいてきた時。
 内心『来た来た!』と妙子は思っていた。
「おはよう、白石君。いきなりで済まないが、今度の土曜、何か用事はあるかい?」
 だから、佐由からかけられた言葉を理解するのに、十秒近くもの時間を要してしまった。
「………………えっ?」
「うん?」
「……ごめん、ちょっと聞いてなかった。もっかいお願い」
「ああ、いや……だから、今度の土曜日は暇かい?」
「用事はないけど……」
 もしや佐由は昨夜の放送内容があまりに悔しくて、あえて話題に触れる気がないのでは――そんなことまで考えてしまう。
「そうか、良かった! 実はちょっと手伝ってもらいたいことがあるんだ」
 しかし、それにしては佐由の態度が不自然だと感じる。正確には、あえて話題を逸らしている不自然さを感じない所に不自然さを感じると言うべきか。
(何よ……佐由、まさか昨夜の放送聞いてないの?)
 それはおよそ信じがたいことではあるが、眼前の佐由の態度を見ている限りそうとしか思えなかった。
「…………用事はないけど、暇なわけじゃないから。だから、その“手伝ってほしいこと”の内容次第じゃ力になれないわよ」
 佐由と英理ならばきっと昨夜の偉業の価値を解ってくれると思っていた。その大きすぎた期待が、妙子に棘がある言い方をさせてしまう。
「まあ、そう言わずに話だけでも聞いて欲しい。実はちょっとフリマに参加することになってね」
「フリマ……って、あのフリマ?」
「多分、白石君が考えているもので間違ってないと思うよ」
「ふぅん……それで、私に何を手伝って欲しいの?」
「別に白石君に客寄せをやって欲しいとか、そんな無茶なことを要求するつもりはないさ。単純に、人手が欲しいだけなんだ」
「だったら別に私じゃなくてもいいじゃない。英理には声かけたの?」
「生憎とバイトを抜けられないらしい。何でもバイト先の店長がずっと不在で大変らしいよ」
 佐由に促されて、妙子は英理の机の方へと視線を向ける。朝だというのに、机に突っ伏すようにして寝入っているその姿はおよそ学生のそれではない。残業で疲れ切ったOLが着替える余力すらなくベッドに凭れるようにして寝入っている姿を彷彿とさせた。
「昨夜もずいぶんと遅くまで働いていたらしいよ。一応、教室に入ってすぐ声はかけたけど、逆にこっちを手伝って欲しいって怒られたよ」
「……そう」
 ということは、英理も昨夜の放送は聞いていない可能性が高い。もちろん二人のことだからリアルタイムで聞けなくとも録音はしているのだろうが、それではあの臨場感の半分も伝わらないだろう。
(…………携帯が静かだったから、嫌な予感はしてたのよね)
 あれだけのお祭り騒ぎならば、英理や佐由からメールやらなにやらが着信していてもおかしくはなかった。てっきり二人とも羨ましさと悔しさで地団駄を踏んでいるだけだとばかり思っていたのに。
 浮かれ気分が、急速にしぼんでいくのを、妙子は感じた。小さく、佐由にそうだと解らない程度に、ため息をつく。
「…………まぁ、他に手伝える人が居ないっていうんなら、手伝ってあげてもいいけど」
「本当かい!? いやぁ、助かったよ! 白石君が来てくれるなら百人力だ!」
「ちょ、ちょっと! あんまり期待されても困るんだけど……私、接客なんてやったことないんだし……店番しろなんて言われても出来ないからね?」
「その辺のことは基本私がやるから心配しなくても大丈夫だよ。ただほら、一人じゃトイレにも行けないだろう? どうしても最低二人は必要なんだ」
「そういうことなら……まぁ……」
 ようは、佐由が食事をしたり、休憩をしたり、花を摘みに行ったりする間置物代わりに座っている人間が必要ということなのだろう。
「売り上げが一体いくらになるか解らないから、バイト代のほうは保証できないけど、最悪でも昼食と交通費くらいは出すつもりだよ。あとは……そうだね。何か売りたいものがあるなら、ついでに持って来てもらえば、売り上げは全部白石君のもので構わない」
「売りたいものねえ……何かあったかしら」
 うーんと妙子は唸る――が、少なくとも今この場で思いつくようなものは何も無かった。
「当日の搬入は兄の車を使ってやるし、前準備も兄と一緒にやるから、売るものが無いなら身一つで来てもらえればいいよ」
「お兄さんが来るの? じゃああんたとお兄さんでやればいいじゃない」
「本当はその予定だったんだけどね。ちょっと急用が出来てしまって、兄が手伝えるのは最初の準備と最後の片付けだけなんだ」
「……そういうことなら、まぁ……」
「それともう一つ。……その、これは出来ればでいいんだが、“彼”も呼んではもらえないかな?」
「彼――って、まさか……」
「うん。……聞いた話だけどね、フリマっていうのは結構トラブルが多いらしいんだ。基本、値切って買うってのがセオリーだから、値段の折り合いがつかなくて口論になったりして、それがそのままトラブルに発展したりとかね。あとは、相手が女だからって、はなからふっかけてくるタチが悪い客というのもゼロじゃないらしい」
「ありそうなことだとは思うけど……」
 果たしてあの男がその手の荒事の役に立つだろうか。
「とりあえず男子が一人居てくれるだけで、そういったトラブルが起きる可能性を大分抑えられると思うんだ。だが生憎、私も英理も用心棒を頼めそうな男子の知り合いは居ないし…………」
 そんなわけないでしょ――そう言いかけて、黙る。確かに自分も幼少期にたまたま幼なじみという形で交流があっただけで、小学校に上がった先ではただの一度も男子達と友達らしい関係になった事がなかったからだ。
「それに、仮にも金銭を扱うわけだから、やはり誰でも良いというわけにはいかないしな……ある程度気心が知れた相手でないと」
「……あーもう、わかったわよ。連れてくればいいんでしょ!」
「やぁ良かった! さすがは白石君だ!」
 ばしーんと、思いの外強く背中を叩かれる。思わず舌を噛みそうになり、抗議の視線を佐由へと向ける。
「あのねえ、連れてくるとは言ったけど、向こうだって用事があるかもしれないんだし、声かけてダメだったらそのときは諦めなさいよね」
「大丈夫だよ」
 自分のことでもないのに、佐由は何故か穏やかな微笑と共に即答した。
「白石君が誘えば、必ず来てくれるさ」
 まるで英雄譚か何かでも語るような佐由の口ぶりに、妙子は思わず毒づきかけて――口を閉じる。
「場所や時間については後でメールするよ。いやあ、良かった。これで何の憂いもなく準備が出来るよ。本当にありがとう、白石君」
「どーいたしまして」
 佐由が踵を返し、鼻歌交じりに自分の席へと戻る――その際、ふわりと鼻先を擽った香水の香りに、妙子は思わずハッと目を見開いた。
(えっ……佐由が?)
 ありえない――というほどありえないわけでもない。が、それでも芸をする猫を見たくらいの驚きは隠せなかった。
「………………。」
 つい反射的に、先ほどまで身につけていたマフラーを口元に寄せ、鼻先をこすりつけてしまう。当然のことながら、そこには洗剤と柔軟剤の香りしか感じることは出来なかった。



「ふぁぁ……昨日おうちに帰ったの二時過ぎにゃりよ……完全に労働基準法違反にゃり……」
 昼休み。
 いつものように学食へと移動し、カウンターへと続く列へと並ぶ。欠伸混じりに言う英理は事実、授業中も終始眠そうにしていた。
「二時って……それもう労働基準法がどうとかいうレベルじゃないでしょ。辞めたほうがいいんじゃない?」
「うにゅう……でも宇垣のおばちゃんもたまりんも他のバイトの子もがんばってるにゃり……。ここでうちが抜けたら完全にアウトにゃりよぉ……」
「でも……」
 口を開きかけて、妙子は黙る。英理はおそらく納得済みでバイト先を支えているのだろう。そんな英理の体が本気で心配ならば自分も手伝って少しでも負担を減らしてやるべきであるし、それをしないのならば口出しをする資格はないと思ったからだ。
「…………ま、体をこわさない程度にね」
「だいじょーぶにゃり。体調管理は……ふぁぁ…………今日はシフト入ってないから、帰って録音したフィーナイ聞いてぐっすり寝れるにゃりよぉ」
 “フィーナイ”という単語に、思わず反応してしまいそうになる。が、ここで先にネタばらしをするのは自慢しているようにとられかねない。妙子はうずうずする気持ちと共に、ぐっと言葉を飲み込んだ。 
「ときに、さゆりんはさっきから一生懸命何を見てるにゃり?」
「ん、あぁ……いや、ちょっと調べ物をね」
 よほど調べ物に熱中していたのだろう。前に並んでいる英理に話かけられただけで、佐由は慌ててスマホから顔を上げ、ズレた眼鏡を元に戻す。
「あっ、そういえば朝言ってたフリマの件、たゆりんにもう話したにゃり?」
「聞いたわ。……まぁ、別に用事もなかったし、経験のためと割りきって手伝ってあげるわよ」
「ええええ!? たゆりんは絶対断るタイプだと思ってたにゃり! 意外にゃりよ!」
「あのねえ、私は別に……っと、続きは席についてからね」
 いつのまにか列が進み、注文をする番が回ってきていた。妙子はいつものように日替わり定食、英理は味噌ラーメン大盛り、佐由も日替わり定食を注文する。
「あれ、さゆりんも日替わりにゃり?」
「ん。あぁ……特に意味はないよ」
 注文したメニューを受け取り、いつものようにテーブルにつく――筈が。
「…………全然空いてないにゃり」
「最近混んでるわね。なんとかならないかしらこの混雑」
「一応、食券制にして時短しようという動きはあるらしいけどね。結局皆が食べる時間は変わらないから、気休めにしかならないんじゃないかな」
 佐由は辺りを見回し、肩を落としながらため息をついた。
「仕方ない。ちょっと調べものもあるし、今日は一人で食べることにするよ」
 そして、食堂の隅に一カ所だけ空いていた席へと座ってしまう。
「じゃあ、私たちも――」
「あっ、あそこ二人分空いたにゃりよ!」
 空いた席へと、滑り込むようにして座る。何となく佐由に悪いことをしたような気がして、妙子はちらりと背後を振り返る。が、どうやら調べ物があるというのは建前ではなかったらしく、佐由は左手でスマホを持ち画面を食い入るように見つめながらほとんど片手間のように箸を進めていた。
「ねえねえ、たゆりん。最近さゆりん変じゃないにゃり?」
「変……かしら」
「たゆりん、さゆりんが髪型変えたの気づかなかったにゃり?」
「髪型……? 変わったかしら」
 妙子は倉場佐由の髪型を思い出す。寝癖なんだか地なんだかわかりにくいクセッ毛のショートカットだった筈だ。再度ちらりと佐由の方を盗み見る――が、違いらしい違いが見つからない。強いて言えば、寝癖らしきものは見られないくらいか。
「それに、今日なんて香水つけてたにゃりよ!」
「あぁ」
 それは妙子も気づいていた。が、それが変だと気にするほどの事だろうか。
「ほかにもほかにも、睫とか眉毛の形とか、マイナーチェンジしまくりにゃりよ! さゆりんが色気づくなんて、天変地異の前ぶりにゃり!」
「大げさよ。佐由だって一応女なんだし、おしゃれしたくなる時くらいあるわよ」
 常識論として口にしてはみたものの、果たして自分にそれを言う資格があるのかと、妙子は自問自答する。
「うぅ……さゆりん幻滅したにゃり…………ラジオに濡れても男に濡れるなって言ってた頃の清く正しいさゆりんは一体ドコへ、にゃりよ…………」
「だから大げさだって……別に彼氏作ったわけでもなし、ちょっとおしゃれに気を遣うようになっただけじゃない」
「既に彼氏持ちのたゆりんにはこの切なさは解らないにゃり! たゆりんもさゆりんも二人とも彼氏持ちになったら……うちは……うちは…………」
「ちょ、ちょっと……何本気で泣こうとしてるの! それに何度も言うけど、アイツは別に彼氏でもなんでもないんだから!」
 万が一佐由に彼氏が出来た時でも自分が側にいてやると慰め続けて、漸くに英理は半泣きから笑顔を取り戻した。
(……でも、そんな時でも食べるものは食べるのね)
 ぐしっ、ぐしと半泣きになりながらもラーメンを啜る手は止めない級友に、妙子はある意味たくましさにも似たものを感じる。あるいは本当に佐由が彼氏持ちになったとしても、英理ならば一人でも大丈夫ではないのかとさえ思う。



 

 夜。
 夕食を終え、調度後片付けを終えた頃合いを見計らったように、テーブルの上に置きっぱなしだった携帯が鈍い音を立てて震え出した。画面を確認すると、英理からのメールで内容はただ一言。

 ”すごいにゃり!”

 それは妙子が待ちわびた――むしろもう、待ちすぎて旬を過ぎてしまったが――待望の賛辞の言葉だった。そしてすぐさま再度携帯が震える。今度は着信。もちろん、妙子はすぐに通話ボタンを押した。
『たゆりん! すごいにゃり! こんなスゴいことになってたのに黙ってたなんて酷いにゃりよ!』
 スピーカーから荒々しい鼻息まで聞こえてきそうなほどに興奮しきった英理の声に、妙子は思わず顔がにやけそうになるのをかみ殺さねばならなかった。
「あぁ……うん。そう、聞いたんだ」
 さも、自分は“その件”については大して気にしてないとばかりの、冷淡な声。
『たーゆーりーんー? 今、顔すっごくニヤニヤしてるにゃりね! 解るにゃりよ!』
 が、どうやら通じなかったらしい。
『てゆーか、さゆりんもひどいにゃり! どうして教えてくれなかったにゃり!? うちだけ仲間はずれ酷いにゃり!』
「さぁ……佐由もなんか忙しそうだったし、昨日はたまたま聞いてなかったんじゃない?」
『いくら忙しいからって、さゆりんがフィーナイ聞かないなんてありえないにゃりよ! ……絶対聞いてるはずにゃり!』
「そうかしら」
『多分ピカりんにあまりにべた褒めされてるから悔しくって、聞いてないフリしてるだけにゃりよ! さゆりんって時々そういうところあるにゃり!』
 どうやら英理は一人だけ蚊帳の外に置かれていたことが相当に悔しかったらしい。いつになく興奮した口ぶりでマシンガンのようにまくし立てる。
『でもでも、たゆりん本当にスゴいにゃりよ! ピカりん、スタジオに呼びたいって言ってたにゃり! 行くならうちも絶対一緒に連れて行ってほしいにゃりよ!』
「い、行くわけないでしょ! それに、稲光さんだってノリで言っただけで、本気じゃないわよ」
『ええーーーーー! すっごい本気っぽかったにゃりよ!?』
「たとえ本気だとしても、私は絶対行かないから」
『えーーーーーーーーーーーっ! もったいないにゃり! もったいないにゃりよたゆりん! うちだったら絶対行ってるにゃり! さゆりんでも行くにゃりよ!』
「そりゃああんたたちは…………でも、ほら……わかるでしょ? 私はそういうの苦手なの」
『うぐにゅぅううううううう…………でも、もったいないにゃり…………』
 そんなに行きたいなら、いっそあんたが“黒ポメ”として代わりに行ってもいいのよ?――危うくそんな言葉が口を出かけて、慌てて止める。それは真摯なラジオリスナーとして、絶対にやってはいけないことの一つだ。
『なんかすっごくモヤモヤするから、次はさゆりんに電凸するにゃりよ! どーしてうちに黙ってたのかも根掘り葉掘り聞き出してやるにゃり!』
「ちょっと、ちょっと……そんなの明日学校でだっていいじゃない。そもそも今夜は早く寝るって――」
『こんなに興奮したままじゃどっちみち寝られないにゃりよーーーーー!』
 ほとんど叫ぶように言われて、妙子が思わずスピーカーから耳を離している隙に通話が着られていた。小さくため息をついて、妙子はそっと携帯をテーブルの上へと置く。
「…………英理、ありがとね」
 深夜ラジオで葉書を多く読んでもらえるのはもちろん嬉しい。そしてその価値を共有してくれる友達が居ることが、その嬉しさを何倍にもしてくれる。
 しばしほっこりした後、妙子は再び携帯電話を手に取った。
「……私も、友達としての責務を果たさなきゃね」


 

「やあ、白石君。英理から聞いたよ」
 翌朝。教室に入るなり待ってましたとばかりに佐由に声をかけられた。横目で見れば、やはり昨夜も夜更かしをしてしまったのか、机に突っ伏すように英理が寝入っていた。
「誤解の無いように一応言っておくけど、私も前回分は録音はしていたけどまだ聞いてなかったんだ。それがまさかあんな伝説回になっていようとは……」
「……伝説回っていうのは、ちょっと大げさじゃない?」
 思わず顔がニヤけそうになるのを、頬の内側を噛んで耐える。いささか旬を過ぎたとはいえ、やはり自分がやったことを褒めてもらえるのはむずがゆい。
「何を言うんだ! 昨日早速フィーナイ関係のネット掲示板を見に行ってみたら、話題は黒ポメ一色だったよ。もちろんすべてが賛辞というわけではなかったが、それでも八割以上は黒ポメのスタジオ入りを望むものだったよ」
「……悪いけど、私は絶対行かないから」
「うん、まぁ……私もそれが一番だと思うよ」
 佐由はもっともらしく頷く。
「黒ポメがゲスト出演ともなれば、十中八九その正体を目の当たりにしようとするヘヴィリスナーがラジオ局の周りに張り付くだろうしね。ましてやその正体が女で、しかも巨乳JKだとバレてしまったら――……おお、恐ろしい」
「女子高生はともかく…………女だってバレるのもダメかしら」
 佐由が俄に目を剥いた。
「君は……あぁ、いや。自分の事というのは案外見えないものだが………………いや、だからこそあれだけぶっ飛んだ内容の葉書ネタを思いつけるということなのか」
「普通の人からならともかく、あんたや英理から“ぶっ飛んでる”なんて言われたくないんだけど……」
「いいや、ぶっ飛んでるね。正直に言って、君のセンスは私や英理に比べて頭三つは抜けてるよ。それも、変態的な方角に、だ」
「変態的って……それはむしろあんたの持ちネタでしょ!」
「私のはただの下ネタだよ。低俗な駄洒落でお茶を濁すのが関の山の低レベルなものさ。…………しかし白石君のそれはもはや下ネタを通り越して哲学の領域にまで踏み込んでいる。フィーナイの第498回で稲光氏も絶賛していた“タンスの交尾”のネタなんてまさにその典型だね」
「あ、あれは……ホームセンター行ったらたまたま目を引くデザインのタンスがあったから……それで適当に思いついたネタを送っただけよ!」
「…………ちなみに、フィーナイ関係のネット掲示板の中には、黒ポメの正体についてただひたすらに考察してるものもあってね。興味本位で見てみたが、かなり本格的なプロファイリングがされていてなかなか興味深かったよ」
「…………そういうのを見たくないから、私はネットの掲示板なんて見ないのよ。どうせあることないこと悪口書かれてるんでしょ」
「悪口……かどうかはわからないがね。まあ的外れなものも含めれば、やれむっつりスケベなビジネスマンだの、欲求不満な主婦だのといったものから、性欲をもてあました女子校教師だとか、下着ドロ常習犯だなんてものもあったな。…………何か共通点があると思わないかい?」
「全部性欲絡みじゃない! そういうのを悪口っていうのよ!」
「つまり、リスナーの大部分は君のネタから性的欲求不満や歪んだ性的嗜好を感じ取ってるということの証だと思うがね」
「あーのーねえ……」
「そんな“性欲オバケ”な印象の黒ポメの正体がよりにもよって巨乳JKだとバレてみろ。先日の“祭り”なんて比較にならない騒ぎになるね。間違い無く、君は性欲が異常に強い女子高生として写真つきでネットの掲示板で紹介されまくることになるだろう」
「…………………………。」
 妙子は反論する気もなくなり、大きくため息をつく。
「だから、ゲスト出演は断固としてしないという白石君の意向には私も大賛成だ。今まで通り、正体不明の性欲をもてあましてるリスナーという線でいいと思うよ」
 別にもてあましてない、と反論する気力もなくなり、妙子はただ力なく佐由の言葉を右から左へと受け流した。
「……そうそう、話は変わるけど」
「うん?」
 佐由も別段、この話題を続けたいわけではなかったのだろう。強引な話題転換にもかかわらず、あっさりと乗ってきた。
「……例の話、OKだってさ」
「例の話……というと、フリマの件かい?」
 ぱぁ、と。妙子は級友の顔が、まるで夏の日差しに照らされたひまわりのように輝く瞬間を見た。
「そうか! 良かった! ありがとう白石君! これで予定通りフリマに参加できるよ!」
「えっ……ちょ、ちょっと……」
 手を握られ、ぶんぶんと振られながら妙子は困惑していた。もちろん佐由は喜ぶだろうとは思っていたが、ここまでとは思っていなかったからだ。
「あぁ、いや……取り乱してしまって済まない。……実は、兄の友達から男性の知り合いが参加できないようなら出店は認められないと通達が来ててね」
 はて、そんなことがあるのだろうか――佐由の言葉に疑念が沸くが、元々フリーマーケットというものに対して深い知識があるわけもなく。そういうものなのかと、妙子は軽く受け流した。
「そうか……来てくれるのか。良かった、本当に」
 うん、うんと満足そうに佐由は頷き、そのまま自分の席へと戻っていく。程なく予鈴が鳴り、HRが始まった。



 週末にフリマに参加することが決まり、助っ人も頼んだ。佐由からは何か売りたいものがあれば持って来ても良いと言われ、一応押し入れを探してはみたが、特に売れそうなものは見つからなかった。
(………………せめて引っ越す前だったらいろいろあったんだろうけど)
 “前の家”を出る際、いらない物の大半は既に処分済みだ。今更売れそうなものなど残っている筈がない。
(…………強いて言うなら)
 妙子の目が、一枚の毛布へと向かう。いつぞやゴミの臭いに包まれた男を連れ帰り、寝かせた際に使ったものだ。毛布自体は一度クリーニングに出して清潔な状態になってはいるが、“あの男”がよりにもよってこの毛布の中で夢精をしたという事実が、使用を躊躇わせているのだった。
(…………でも、こんな物……売ったら売ったで、罪悪感が……)
 どこかの誰かが、この毛布の由来も知らずに使うのだと思うと、それは毛布を売って得た金額以上の心的負担を背負う結果になるのではないか。では自分が使うのかと言われると、それはそれで躊躇いを禁じ得ない。
(いっそ細かく切って雑巾用に……毛布じゃ無理ね)
 ならば、売る際に『通常の毛布としての使用は避けてください』と明記しておくのはどうだろう――少し考えて、それもありえないと首を振る。そんな事を書けば、何故ダメなのかと詰め寄られるに決まっている。
「ああもう、ばかばかしい! こんなの時間の無駄よ!」
 毛布についてあれこれと頭を悩ませている時間こそがもったいないと、妙子は意を決して毛布を畳み、押し入れへとしまう。選択肢は別に売るか使うかの二つだけではないのだ。
(…………まだ使えるものを捨てるっていうのが、なんとなく嫌で仕方なくしまってたけど)
 こうしてうだうだと悩まなければならないのなら、それこそ捨ててしまった方がマシだ。妙子は資源ゴミの回収日を調べて、出し忘れないように壁掛けカレンダーの方の日付にも印をつける。
「よし、と」
 ただ、カレンダーに印をつけただけ。それなのに、一仕事片付けた後のような爽快感があった。あの毛布にそれだけ心的負担を強いられていたのかと、むかっ腹よりもむしろ驚きの方が強かった。
「………………考えてみたら、別に捨てなくても……アイツ本人に引き取ってもらうって手もあったわね」
 勢いでカレンダーに印までつけてしまったが、悪いのは紺崎月彦であって、毛布ではない。毛布はむしろ被害者ではないのかとすら思えてくる。
「って、もう……悩むくらいなら捨てるって、さっき決めたばかりじゃない!」
 自分の悪いところだと、妙子は自覚する。“こういう部分”を合理的に処理することが出来れば、どれだけ時間を有効に使えるのだろうかと。そして妙子にとってこういった“合理的処理が出来ない厄介な案件”によく絡んでくるのが、あの紺崎月彦という男なのだ。
(……でも、多分……アイツはアイツなりに一生懸命なのよね)
 この世で最も信用出来ない&頼りにならない男ではあるが、そんな紺崎月彦でも見るべきところが全く無いわけではないということを、妙子は知っている。あの男にかけられた迷惑の量を鑑みると決して容易には頷きたくはないのだが、個人的感情に流されて正当な評価をねじ曲げるというのも、妙子にとって唾棄すべき愚行なのだった。
「……………………。」
 カレンダーの前に立つ。今日は木曜日。フリマは土曜日。資源ゴミの日は二週間先の水曜日。“毛布出す”と書き込まれたその場所を、じぃぃと見つめる。
 数分はそうしていただろうか。はあ、と肩を落としてため息をつき、妙子は投げやりな手つきで“毛布出す”に×印をつけ、ペンをしまった。


 


 ひょっとしたら、世界中で最も週末土曜日の快晴を願ったのは倉場佐由なのではないかという程に、佐由は天気を気にしていた。少なくとも、妙子の目にはそう映った。
 フリーマーケットというのは露天の運動公園で行われるらしいから、ひょっとすると雨天中止だったのかもしれない。その辺の詳細はあえて聞かなかったが、とにもかくにも土曜日は朝の時点では快晴、予報でも夜までの降水確率は0%となっていた。
 佐由から聞いたフリーマーケット開催時間は朝九時から夕方三時。夕方三時ぎりぎりまでやるかどうかは売れ行き次第だが、朝は遅くとも八時半までには来て欲しいとのことだった。開催場所である隣町の運動公園まではバスを使えばそう時間はかからない。むしろ、いつも通りの時間に家を出てバスに乗れば、八時半には余裕で間に合うくらいだ。
(……帰りに買い物しないと、もう食べ物が何も無いわね)
 朝食のトースト2枚とハムと卵焼きで、備蓄食料をすべて使い切ってしまった。どうせ土曜日は出かけるのだから、買い出しならその時にすればいいと思い続けた結果だから当然ではあるのだが。
(えーと……財布と携帯と……他に持って行くものは……何もない、わよね)
 佐由からも、財布と携帯と家の鍵さえ持ってくればあとは手ブラでも構わないと言われていた。服装についても特に指定はなく、ただし学校のジャージ姿で来るのだけは止めてくれと、半笑いで言われた時はさすがに言い返したが。

 いつもより若干早めに家を出てバスに乗り、実際に現地に到着したのは八時前だった。バスを降り、入り口に仰々しく作られたフリマ開催を告げるアーチをくぐりながら、想像を遙かに超えた人の多さに、妙子は早くも後悔していた。
(…………なんか、想像してたより遙かに規模が大きいみたい)
 せめて、先に佐由と合流してから来るべきだった――携帯を取り出し、佐由にもらったメールに記載されているアドレスへとアクセスする。そこに会場となる運動公園の簡易地図があり、さらに出展スペースの番号も記載されているのだ。もちろん佐由から自分たちの出店場所の番号は聞いているが、肝心の現在位置が解らない為、どう行けばその場所にたどり着けるのかが解らない。
(……何よ、もう……こんな大きなイベントだなんて知ってたら、絶対来なかったのに)
 見れば、明らかにカタギの格好ではない、何かのアニメのキャラらしいコスプレをした参加者や、ゆるキャラの着ぐるみを着た参加者が五人に一人以上の割合で混ざっている。ひょっとしたらフリーマーケット以外にも、写真撮影会でも催されているのかもしれないが、今の妙子にとってはどうでも良かった。
(ええと……ここが入り口だから……)
 ひっきりなしに行き交う人の群れの邪魔にならぬ様、隅に移動して携帯の画面とにらめっこする。少し歩いてはにらめっこ、少し歩いてはにらめっこを繰り返し、どうにかこうにか目的の場所へと到着出来たのは結局八時二十五分を過ぎた頃だった。
(えーと……47番だから……ここ、よね?)
 ウォーキング用コースの舗装路沿いの芝生の上に広げられたビニールシートと、いくつかのダンボール箱。カウンターの代わりかそれとも今から品物を並べるのか、妙に足の短いテーブルが一つと、持ち運び用の取っ手のついた小さな金庫。その他、クーラーボックスにまだ何も掛けられていない組み立て式の小型ハンガーラック等々。それらがひしめきあっている様を見るに、今からこの場所で出店が行われるのは明白なのだが。
(……佐由、居ないじゃない)
 先に来ている筈である佐由の姿が何処にもなく、妙子は呆然と立ち尽くす。そもそもこの場所が本当に佐由の出店スペースなのかも解らない為――佐由から聞いた番号と同じではあるのだが――勝手にビニールシート内に立ち入ることも出来ない。
 腕時計へと視線を落とす。八時半を回ってしまったが、とにもかくにも言われた時間までには到着した。妙子はいったんその場を離れ、近くの自販機でホットコーヒーを購入する。ダウンジャケットの中に入れ、手を温めながら再度“47番”へと戻るが、やはり佐由の姿はない。
「……まさか、ここじゃないってことはないわよね」
 47番は47番でも、“イの47番”だとか“への47番”といった違いがあるのかもしれないと、妙子は再度メールを読み直す。が、47番としか書かれていない。やむなく佐由の携帯へと電話をかけるが、肝心の本人が出ず、留守電にしかつながらない。
「……ああもうっ」
 もういっそこのまま帰ろうかと踵を返しかけて、足を止める。自分一人だけであれば、おそらく帰っていた。が、今日は“もう一人”にも声をかけてしまっている。さすがに声をかけた自分が勝手に帰るというのは後々ばつが悪い思いをする羽目になると、妙子は仕方なしに踏みとどまった。
「…………あの、すみません」
 とにもかくにも、佐由の行方を知らなければならない。妙子はやむなく隣のスペースで品出し中の女性へと声をかけた。
「はい?」
「こっちの……“47番”に私と同じくらいの年の女の子が居たと思うんですけど……何処に行ったか解りませんか?」
 女性は少し困った様に首をかしげた後、小さく「すみません」とだけ答えた。そうだろう、と妙子も思う。佐由ではなく自分でも、何処かにいくのにわざわざ隣の出展者に行き先を告げたりはしないだろう。
「………………。」
 手持ちぶさたを誤魔化すように、妙子はポケットからホットコーヒーを取り出し、ブルタブを開ける。ウォーキング用の舗装路はそれなりに人の行き交いが激しく、邪魔にならぬようビニールシートの外れ辺りに立ち、コーヒーを啜る。啜りながら、ちらりと視界の端でせっせと準備をしている女性の姿を見る。
(…………さっき、普通に喋りかけちゃったけど……ひょっとして外国人かしら)
 金髪に、エメラルドのように綺麗な碧眼。睫の長さも肌の白さも日本人のそれではないように見える。顔立ちも、どこか日本人離れしているようだ。
(……でも、この服って……)
 ただ、問題はその服装だった。赤い、まるで舞踏会にでも参加するような派手なドレスは、およそ普段着とも運動着とも呼べない代物だ。首には大きな十字架つきのチョーカーをつけ、さらにふんわりと膨らんだスカートはおそらくパニエ入りだろう。面と向かって目の色を確認するまできっとコスプレイヤーで髪もウィッグなのだろうと思ったからこそ、普通に日本語で話しかけたのだが。
 しかもよく見ればウィッグには動物の耳のような飾りまでついている。いわゆる“ケモノ耳”というやつだが、つい「犬種はなにかしら?」と記憶を探ってしまうのは半ば職業病のようなものだろう。
(……寒くないのかしら)
 赤いドレスは確かに目を引くデザインであるし、客寄せが目的ならばさぞかし有効に働くだろう。しかしドレスは肩が丸出しで、しかも袖も無かった、代わりに黒のドレスグローブが二の腕の辺りまで覆ってはいるが、そんなものでは防寒の足しにもならないだろう。先ほどからしゃがんだまま作業をしているからスカートの下は解らないが、肝心のスカートがどうみても膝くらいまでしか丈が無いように見える。女性が立たずにしゃがんだまま作業をしているのはひょっとしたら寒いからじゃないかとすら思える。
(……もう四十分過ぎたのに)
 佐由はまだ戻って来ないのかと。妙子は残り半分を切ったコーヒーを惜しむように缶に口をつけながら、舗装路を行き交う人の群れを眺めていた。やがて出店準備の方が終わったのか、赤いドレスの女性も伸びをするように立ち上がった。……スカートの下は踵の高いロングブーツで、やはり寒そうだと妙子は思う。
 そのまましばしの間、二人並んで――というには、若干距離が開いてはいるが――立ち尽くす。やがて、暇な時間に耐えかねたかのように、赤いドレスの女性が小首をかしげながら静かに微笑みかけてきた。。
「私だよ、白石君」
 次の瞬間、妙子は口の中に残っていたコーヒーのすべてを吹き出していた。


「あっはっは。一体いつ気づいてくれるかと楽しみに待っていたのに、一向に気づいてくれないから自分からネタばらししてしまったじゃないか」
 げほげほと噎せる妙子の耳に、そんな“聞き慣れた声”が飛び込んでくる。
「さ、さゆっ…………本当に佐由なの!?」
「やれやれ。それは褒め言葉と受け取っていいのかな。……どうやら見事に化けられているようだね」
「化ける…………うん、ホントそうよ。あんたそれ一体どうしたの?」
「それ……というのは衣装のことかな? それともメイク?」
「両方よ。ていうかあんたその目……」
「ああ、これはカラーコンタクトだ。一応度入りだから、普段通りとはいかないが……それなりには見えるよ」
「背も……なんか高く見えるんだけど」
「シークレットブーツのおかげだね」
「その睫とか、肌の色とかも……全部メイク?」
「うん。衣装は姫に借りて、メイクも姫にやってもらったけどね」
「姫って……いつもあんた達が言ってるなんとかっていう先輩?」
 うんと、佐由は笑いを堪えているような顔のまま頷く。
「……てゆーか、メイクや衣装も騙されたけど、一番騙されたのはあんたの“声”よ。何よ、さっきの“すみません”なんて、完全に別人だったじゃない」
「ああ、声色を変えるのは私の特技みたいなものだよ。…………“お帰りなさい、御主人サマ”って感じにね」
「………………それ、電話越しにやられたら絶対あんただって解らない自信があるわ」
「それも褒め言葉として受け取っておこう」
「あと!」
 妙子はびっ、と。足下のビニールシートを指さす。。
「私たちの出店スペースはこっちじゃないの!?」
「正確には“そっちも”だね。こっちは姫に頼まれた分を売るスペースさ」
 そう言って、佐由はテーブルの上にいくつもの薄い本を並べていく。カラー印刷された表紙には、今の佐由のコスプレにうり二つな少女が巨大な鎌を構えて不敵に笑っている姿が描かれていた。
「…………あんた達の姫って何者なのよ」
 少なくとも画力という意味では、普通に書店で売っている漫画のそれと比べても遜色ないように見える。
「姫は家庭の事情が少しばかり複雑でね。学費と生活費のほとんどを自分で賄わないといけないのさ」
 今も、別件のアルバイトがあってここには来られないんだと、佐由は付け加える。
「事情はわかったけど……でもいいの? こういう普通のフリーマーケットでこういうもの売って……フリーマーケットって、子供とかも普通に来るんでしょ?」
「あのなぁ、白石君。薄い本が全部R18なわけじゃないんだぞ?」
「う…………し、知ってるわよ! ただほら、これちょっと……表紙の露出が高いから……そういう本なのかな、って……」
「こう見えて、全年齢本なんだよ。だから問題は無い」
「それなら、まぁ……」
「ただし、これは上巻で、ネットでだけ買える下巻はこの表紙の子が触手レイプされてドロッドロのぐちゃぐちゃにされた挙げ句魔物の子供を孕まされるけどね」
「やっぱりエロ本じゃない!」
「エロいのは下巻だけだよ。上巻のほうはパンチラすらない、学校の図書館にだって置けるくらい健全作品さ」
「…………何も知らずに上巻を読んで気に入って下巻を買う人から苦情来たりしないの、それ」
「上巻の最後にきちんと“下巻でこの子が触手レイプされます”って書いてあるからね」
「…………ちょっと待って。なんか頭痛くなってきた」
「大丈夫かい? 一応常備薬ならあるよ」
 佐由に差し出された頭痛薬を、缶に残っていたコーヒーで飲みこむ。
「…………ところで、話は変わるけど」
 きょろきょろと、佐由が辺りを見回す。
「“彼”の姿が見えないようだが」
「ああ、なんか急用が出来たとかで、少し遅れるらしいわ。一応ギリギリ九時までには着くって言ってたから――」
 うーんと、妙子は運動公園入り口から47番スペースまで自分がどれくらいかかったのかを思い出す。
「…………あと15分くらいしたら来るんじゃないかしら」
 一応迷わないようにと、店の場所はウォーキング用の舗装路沿いだと、妙子はメールを送る。
「そ、そうか……うん、来てくれるのなら…………」
「何よ、佐由。急にソワソワし出して……あっ、解った。その格好が恥ずかしいんでしょ?」
「まあ…………そう、だね。恥ずかしくないと言えば嘘になるかな。でもこの格好で売るというのが姫との約束だからね」
「確かに、いつもの格好で売るよりは、その格好の方が目を引くし、売れると思うわ」
「…………白石君、その……率直な感想を聞いても良いかい?」
「心配しなくても別に変じゃないわよ。……むしろ、すごく似合ってる。いつもの七十割増しくらいで美人に見えるわよ」
「七十割増しとは酷いな。普段はそんなに酷いかい?」
「逆よ、逆。ドレスもメイクも似合いすぎてるくらい似合ってて、そのまま映画にだって出られるくらいだと思うわ。いくらコスプレとはいえ気合入りすぎじゃない?」
「…………はは……私も、ここまでしなくて良いんじゃないかと言ったんだけどね。いい迷惑だよ」
 佐由はやれやれと肩を落とすが、少なくとも妙子の目にはあまり困っているようには見えなかった。
「あっ」
 ぶぶぶと、ポケットの中で携帯が震えるのを感じて、妙子は即座に取り出した。
「メール来たわ。今入り口ついたって――……発信が十分前だから、もうそろそろ……

「えっ、ま、待っ…………まだ心の準備が――」
「こーら、逃げないの」
 あわわ、あわわと途端にうろたえ始める佐由の腕をしっかりと掴み、妙子は舗装路の向こうにちらりと見えた人影に向けて手を振った。
「ここよ」
 どうやらすぐに気づいたらしい。目が合うなり、混んだ舗装路から飛び出して猛ダッシュしてくる。
 隣の佐由が「えっ」と声を漏らしたのはその時だ。
「佐由? どうかした?」
「ああ、いや……えっと……?」
 どうやらもう逃げる気はないらしい佐由の腕を放す――が、その様子が明らかにおかしい。妙子が怪訝に眉を寄せたところで、大柄な影がぜえぜえという息と共にやってきた。
「はあはあ……おっす妙子! 用心棒しにきてやったぜ! つか詳しい場所教えるのが遅えよ! あっちこっち走り回っちまったじゃねーか!」
「メールを送ったのはあんたからのメールが来る前だったんだけど……ここ電波悪いのかしら。なんか変なラグがあるみたいね。そっちのメールが来たのもついさっきだし」
「し、白石君……ちょっといいかな?」
 くいくいとダウンジャケットの袖を引っ張られ、妙子は強引に佐由の方を向かされる。
「彼は一体誰だい?」
「誰って……」
「初めまして、静間和樹ッス。よろしく!」
 妙子が顔を向けるなり、和樹は日焼けした顔に大きな笑みを浮かべて頭を下げ、右手を差し出した。
「えっ…………?」
「えっ……?」
「えっ?」
 その手を握る者は無く。ただただ疑問符だけが重なるのだった。



「…………ちょっと待ってくれ、状況を整理させて欲しい」
「待つのはいいけど……準備の方はいいの? もう九時まで時間ないけど」
「と、とにかく整理させてくれ。認識合わせの必要性を感じているんだ」
 佐由は見えない怪物でも宥めているかのように、両手を上下に揺らす。
「…………白石君。私は君になんて頼んだかな?」
「フリマに参加するから、用心棒代わりになりそうな男子を連れてきて欲しいって頼まれたわ」
「そうだ、確かにそう頼んだ。だが、こうも言った筈だ。“ある程度気心が知れた仲の男子”とね」
「そうね。だから和樹に声かけたんじゃない」
 んな、と。佐由が絶句する。
「ああ、そっか。一応説明すると、“アレ”と同じで和樹も幼なじみなの。付き合いは小学校入る前からだから、信用出来る男子って意味では私が保証するわ」
 ついでに腕っ節の方も、とちょっぴり誇らしげに付け加えるも、どういうわけか佐由の顔からは困惑の色が微塵も消えなかった。
「………………そうか、そういうことか」
 呟き、佐由は天を仰ぐ。
「白石君が幼い頃から複数人の男子を周囲にはべらせているビッチだということをすっかり忘れていたよ」
「なんで幼なじみの男子が複数人居ただけでそうなるのよ!」
 佐由はまるで妙子を無視するように、ふいと和樹の方へと体を向け、ぱっと笑顔を浮かべる。
「………………混乱してしまってすまない、私は倉場佐由。今日は来てくれてありがとう」
「っと……初めまして、えーと……倉場さん。なんかよくわかんねーけど、妙子からとにかく立ってるだけでいいから来てくれって言われたんスけど……」
「そうだね。私たちの後ろで睨みをきかせててくれれば、別に立ってなくても大丈夫だよ。ああそうだ、一応キャンプ用の椅子も持って来たから、これに座っててもらえるかい?」
「……椅子、ずいぶん小さいッスね」
「あんたが大きいのよ。でも佐由、その椅子じゃ和樹が座ったら壊れちゃうんじゃない?」
「そうかな……。こっちのカウンター用の椅子が使えればいいんだが、そうなるとこっちの小さな椅子でカウンターに座ることになるから……」
「ちょっと高さが合わないわね。仕方ないから和樹適当にあぐらでもかいてなさいよ」
「おう、俺は別に仁王立ちでもいいぞ。半日くらいなら余裕だからな!」
「用心棒をやってとは言ったけど、そこまで威圧されたらお客さん自体来なくなっちゃうでしょ」
「それもそうか。じゃあ遠慮無くくつろぐぜ」
 和樹はビニールシートの後方にでんと腕組みをしたまま座る。日焼け肌に筋肉に裏付けされた体格。なによりもこの寒い中半袖のアロハシャツという出で立ちが、たとえ後方に座っているだけであったとしても十分すぎる存在感を醸し出していた。
「……で、和樹は置物でいいとして、私はどうすればいいの? 佐由がその格好でそっちに居るって時点で、嫌な予感はしてるんだけど……」
「察しの通りだ。白石君にはそっちの店番を頼めるかい?」
「やっぱり……」
「すまないね。当初の予定じゃ、私が店番をして白石君は休憩中の代理という話だったと思うけど、姫にどうしてもと頼まれてしまってね」
「…………まぁ、あんたが店番してる後ろで和樹と二人遊んでるってのもなんかヤだし。いいわ、店番くらいならやってあげる」
 これはこれで良い経験になるだろう。一応ながらも友達の頼みだ。妙子は前向きに考えることにした。
「で、まずは何をすればいい?」
「そうだね……とりあえずダンボール箱の中身を出して……ああ、そっちの箱は母から頼まれた衣類だ。ハンガーの方にかけてから出してくれ。一応簡単な値札をつけてあるけど、ほとんどの客はまず値切ろうとしてくるから、いくらまで値切っていいかはそっちのノートに書き出してある」
「このノートね」
「左の値段が最初の値段。右の値段がギリギリまけてもいい値段になってる。その値段まではまけてもいいけど、出来るだけ左の値段に近い価格で売ってくれ」
「解ったわ。……和樹、ちょっと手伝って」
「おう。この中身を出せばいいんだな?」
「服の方は私がやるから……って、何これ、こっちも売るの?」
「ああ。本の方は兄の蔵書だよ。そっちは一律一冊百円でいいそうだ。もう一つのダンボールに入ってるCDについては、シングルは10枚百円、アルバムは1つで百円だそうだ」
「……本もCDも結構な量ね」
「それだけあると捨てるのも手間だからね。売れるなら少しでも売ってしまおうということさ」
「CDは興味ないけど……本の方は結構高そうなの混じってるように見えるんだけど……この参考書とか、古書店に持って行けば結構高く売れるんじゃないの?」
「そうだろうとは思うが、兄にしてみればその手間が惜しいらしい」
 何故か、佐由は一瞬視線を逸らすように目を伏せた。
「おっ、これ漫画もたくさんあるじゃねーか。なあなあ妙子、これ売れるまで俺が読んでていいか?」
「……って言ってるけど、いい?」
「もちろん。休日にわざわざ来てもらったんだ。何なら、気に入った漫画があったら全部タダで持って帰ってもらっても構わないよ」
「マジすか! あざっす!」
「……ねえ佐由、私もこの参考書欲しいんだけど……」
「………………まぁ、白石君も手伝ってもらってる以上、どうしてもというのならば持って帰ってもらっても構わないよ」
「何で私だけそんなに嫌そうな顔で言うのよ。……はい、百円払えばいいんでしょ?」
「お金はそっちの金庫に入れてくれ。中にお釣り用の小銭も入れてある」
「これね。鍵は……」
「席を離れたりするとき以外は基本かけなくてもいいと思うよ。客が来る度にいちいち鍵を開けたり閉めたりも面倒だしね。その辺は白石君がやりやすいようにしてもらって構わない」
「解ったわ」
 ダンボールから取り出した衣類をハンガーラックに掛け、漫画本とそれ以外の本をそれぞれダンボールに分けてテーブルの隣へと並べる。佐由の方もカウンター用のテーブルの上に薄い本を並べ、自分はパイプ椅子に座る。その後ろには家庭用の電気式ストーブがあるが――電源はどこかから引っ張ってきたらしい延長コードからとっているらしい――佐由の格好を見るに、そんなものでは気休めにもならないだろう。
「おい、妙子」
「何よ」
「倉場さんって、お前の同級生なんだよな?」
 ひそひそと内緒話をしているつもりなのだろうが、生憎と地声が大きいせいでおそらく――佐由にも丸聞こえだ。
「なんか、聞いてた話と全然ちげーぞ。……メチャクチャ美人じゃねえか」
「それは……ほら、見て解るでしょ。メイクしてるからよ。普段はその……もうちょっと……」
「いやでも、メイクつっても限度があんだろ」
 佐由にも聞こえてはいるのだろうが、早くも客が来始めていてその対応に追われているようだった。
「あの、写メいいですか?」
「ごめんなさい。お断りさせてもらってます」
「携帯のじゃないこのカメラでもダメですか?」
「ごめんなさい」
 首からカメラを提げた男性は意気消沈しながらも薄い本を受け取り、去って行く。
が、入れ替わり気味にすぐに新しい客がやってくる。
「あの、この本あなたが描いたんですか?」
「ごめんなさい。作者は私じゃないんです」
「そうですか。……これエロとかありますか」
「ごめんなさい。でも最後まで読めばいいことがあるかもしれません」
 小太り気味の男が意味深な笑みを浮かべ、財布から千円札を取り出し、佐由に渡す。それと引き替えに男は薄い本を受け取り、去って行く。
「…………その本、千円もするの?」
「自費出版の同人誌だからね。どうしても割高になるさ」
「ちなみに何冊売るの?」
「一応二百部預かってるよ」
「……全部売れるかしら」
「努力はするさ。姫も自前のホームページで告知をしているらしいし……あっ、写真はやめてください」
「俺、二冊買うからさ。それでもダメ?」
「ごめんなさい」
 新たな客とのやりとりを見ながら、妙子はため息混じりに正面へと視線を戻す。隣は一冊千円の高値にもかかわらず大繁盛。片やこちらは一冊百円の大安売りにもかかわらず閑古鳥。
(…………世の中、需要と供給よねえ)
 ふぁぁと、思わず欠伸が出そうになるのをかみ殺していると、ちょいちょいと肩をつつかれた。
「なあなあ妙子、俺役に立ってなくねえか?」
「…………そんなことないわよ。そこに居てくれるだけで、私も佐由も安心出来るんだから」
「でもよ、倉場さんさっきから変な奴らに絡まれっぱなしじゃねーか?」
「写真撮らせてって言われてるだけでしょ。みんなちゃんと本は買ってるんだし、問題はないと思うけど……」
「でも、お前がそうやって店番してんのに、俺が後ろで漫画読んでるって……ちょっと絵面が悪くねーか?」
 ぷっ、くく――そんな笑い声が唐突に隣から聞こえた。
「……済まない。確かに静間君の言う通りだ。さながら、働かない亭主と内職妻といった絵面だね」
「何よ、あんたが座ってるだけでいいって言ったんじゃない」
「やっぱそうだよな……しゃーねえ、ちょっと客引きでもやってくっか」
「ってこら! あんたがここを離れたら用心棒の意味がなくなっちゃうでしょうが! だいたいあんたがその格好と体格で客引きなんかやったら、逆に誰も来なくなっちゃうわよ!」
 ビニールシートから飛び出していこうとする和樹のズボンを、むんずと掴んで止める。
「でもよ、妙子。俺、やること無いぜ?」
「じゃあ、店番代わる?」
「それもなんだかなぁ……よし、じゃあ後ろで筋トレしてるわ」
「はぁ!? なんで筋トレなのよ」
「とりあえず、サボってるようには見えねーだろ? 体も温まるし」
「寒いならちゃんと長袖着て来なさいよ!」
「そっか、その手があったな。やっぱ妙子は頭いいな!」
「ああもう……」
 妙子は目元を覆い、大きくため息をつく。静間和樹が悪い人間ではないことは重々承知だが、“もう一人”とは別の意味で問題児でもあるのだ。
「…………母から売っても良い古着を預かってはきてるけど、さすがに静間君が着れそうなものはないな」
「あっ、大丈夫ッスよ。寒いことは寒いけど、こんなのちょっと体を動かせば余裕スから」
「……佐由、こいつは本当に余裕だから気にしなくていいわよ。てゆーかむしろ、あんたの方が寒そうなんだけど」
「まぁ、寒くないと言えば嘘になるけどね。本が売れる間くらいは我慢してみせるさ」
「…………無理そうなら早めに言いなさいよ? 上着くらい、いつでも貸してあげるから」
「はは、ありがとう。ついでにコスプレも引き継いでくれると助かるよ」
「それは絶対に嫌」
「……てゆーか、妙子が着たら乳がはみ出ちまうな、うん」
「はみ出るとかゆーな!」
 咄嗟に拳が出る――が、和樹の熊のような手のひらに易々と止められる。
「甘い。俺は月彦みたいに簡単には殴られてやらねーぞ?」
「くっ……この体力バカ………………まぁでも、その方が用心棒として頼りがいがあるわ」
 別に腕力に自信があるわけでも、格闘技の心得があるわけでもない。だから、渾身の拳が和樹に易々と受け止められてしまうのは、別に悔しくはない。男子と女子の腕力の差を、歴然と思い知らされるだけだ。
(“アイツ”だって……多分……)
 本当なら、文系女子のパンチなんていくらでも受けられるし、避けられる筈なのだ。
 なのに。
「……さすが幼なじみだね、息ぴったりじゃないか」
「…………何処がよ。ただの腐れ縁なんだから」
 佐由が黙って首を振る。
「少なくとも、静間君が相手なら、白石君も相手を怪我させてしまう心配をすることはないだろう。お似合いの二人だと思うよ」
「あっ、やっぱりそっちでも暴れてんすか?」
「あ、暴れてるって何よ! って、佐由も頷くな! 二人共どうして私に暴力的なイメージを植え付けようとしてるわけ!?」
「……白石君、君はついさっき静間君を殴ろうとしたことを忘れたのかい?」
「はっはっは。蚊に刺されたようなパンチだったけどな!」
「あ、あれは……その……和樹が変なこと言うから……」
「“普通の女子”はスキンシップで肩の入ったパンチなんか繰り出さないよ、白石君…………あっ、写真はやめてください」
「肩が入ってても、蠅が止まったような威力だったけどな!」
「うるさい、バカ! あんた達こそ息ぴったりなんだから、付き合えばいいじゃない!」
「てゆーか、おい、妙子。前見ろ前。お客さん来てんぞ」
「えっ……あっ、……い、いらっしゃいませ!」
 慌てて前へと向き直ると、コートを着た初老の男性が老眼鏡をいじりながら本をまじまじと見ている所だった。
「……これ、いくら?」
「えっと……全部百円です」
「百円? 嘘だろう?」
 男性は露骨に怪訝そうな顔をする。妙子はちらりと隣の佐由を見る――が、同時に三人の客の相手をしており、こちらに加勢する余力ななさそうだった。
「……百円で売って良いと言われてますので」
「本当に? 本当に百円で買っちゃうよ?」
 男性は信じられないとばかりに目を丸くしながらも、もしやこの娘はこの本の価値を知らないのかという哀れみすら混じった視線を向けてくる。
「…………全部百円でいいと言われてますから」
「そうか。そういうことなら……」
 男性は財布から百円玉を取り出し、妙子へと渡すや本を手に、ほとんど逃げるように去って行った。
「……ちょっと、佐由。今の本、本当に百円で良かったの?」
「私も全部百円で良いと言われたよ。まぁ、仮に高額な本が混じってたとしても、私たちには判別がつかないんだからしょうがないさ」
「……でも佐由、さっきの人が買っていった本って、明らかに何かの文献っぽかったんだけど…………」
 ちらりと、妙子はテーブルの傍らにまだ未整理のままダンボール箱に入っている本へと視線を落とす。それこそ漫画本から料理のレシピ本、何かの古文書にしか見えないような本まで様々だ。
「百円以上の価値があると思うなら、白石君が買ってもいいんだよ。…………ただ、兄は一時期“その手のニセモノ”を作るのを趣味にしてた時期があってね。まあ一度知人に請われて譲渡したら詐欺に使われて、危うく共犯にされかけた時に全部処分した筈だけど」
 ひょっとしたら一部くらいどこかに紛れて残っているかもしれないと、佐由は独り言のように呟く。
「……あんたのお兄さんって――」
「なぁなぁ妙子。なんか飲み物買ってきてくれ。筋トレしてたら喉渇いちまった」
「なんで私が……って、あんた本当に筋トレしてたの!?」
「おう! 妙子とじいさんが話してる間、ずっと片手腕立て伏せやってたぜ!」
「…………ひょっとして――」
 あの男性が怪訝そうな顔をしていたのは、本が安すぎるこからではなく後ろで筋トレをする不審な男が居たからではないのか。
「ちょうど良かった。白石君、私にも暖かいココアを頼む。お金は金庫の中から三人分出して構わないから」
「俺は炭酸系の冷たいヤツな! 出来るだけ甘いヤツで、炭酸も強めな。 容量は500ml以上で頼むぞ、じゃないと一口で飲み終わっちまうからな!」
「ちょっ……なんで私が――」
 と言いかけて、自分しか適任役が居ないのだと気づく。妙子の理解を察したように、佐由が頷く。
「私はこの格好で本を売るという使命があるし、静間君は用心棒としてここを離れられないからね。動けるのは白石君だけだ」
「私も一応店番があるんだけど…………まぁいいわ。佐由は暖かいココアで、和樹は水道の水ね?」
「俺に意地悪すると、月彦にあることないこと吹き込むぞ? 妙子が月彦に会いたいってむくれてたとか、最近胸を触ってこないから欲求不満気味だってボヤいてたとかな!」
「くっ…………あ、甘くて、炭酸強めのジュースだったわね」
 いくらあの男がバカでも、そんな話を信じるわけがない――とは言い切れないのが辛いところだった。疑いつつも、“万が一”を信じてニヤけ顔でスキップしながらやってきそうで、そんな紺崎月彦の対応をするくらいならばと、妙子はぐっと歯を食いしばるのだった。


 


 



「…………そうか、紺崎君は今怪我をしているのか」
「なんか部活でスキーにいって、温泉入ってたら酒瓶踏んづけて転んで骨折ったんだと」
「私が千夏から聞いた話と全然違うけど、でも転んで肩を脱臼して手首を捻挫したのは本当みたい」
「そうだったのか……だから白石君は静間君に声をかけたんだね」
 得心がいったとばかりに、佐由が頷く。
「私はてっきり、私と紺崎君を会わせたくないからかと思ってたよ」
「あんたと月彦のバカを絡めたくないってのは偽らざる私の本心ではあるけど、でもそれがなくても……そして仮にあのバカが万全の状態だったとしても、多分和樹を誘ったんじゃないかしら」
「どうしてだい? 確かに見た目的には静間君のほうが用心棒向きだとは思うが」
「あざーッス!」
「まあその……なんて言うか……これは悪口じゃないんだけど、アイツってこういう荒事はてんでダメっていうか……“男らしさ”が求められるような役割にはてんで向いてないのよ」
「そうかな」
 佐由はドレスグローブを脱いだ手でお握りを掴み、あむぐとかぶりつく。
「確かに見た目的には紺崎君は荒事には向いてないように見える。それは私も認めるよ。だけど中身から受ける印象では、むしろ彼ほど白石君のボディガードに向いてる人間は居ないと、私は思うけどね」
「…………佐由はアイツを買いかぶりすぎなのよ。私は今までさんざんにアイツがダメな男だって見せつけられてきたんだから」
「じゃあ聞くが、紺崎君はたとえば不良に絡まれたとき、白石君を置いて逃げたりしたというようなことがあるのかい?」
「さすがにそういうのは無いけど……でも――」
「私は」
 妙子の言葉を切るように、佐由が語気を強めて、続ける。
「白石君が悪漢に絡まれていたら、たとえ相手が総合格闘技の世界チャンピオンでも、紺崎君なら迷わず助けに入ると思っているよ」
「佐由……あんた、どんだけ――」
 まるで英雄譚でも語るような口ぶりの佐由に、妙子は呆れながらも反論しようとして、
「……なんだ。妙子より倉場さんのほうがアイツのこと解ってんじゃないか」
 思わぬ方向からの援護射撃に、妙子は思わず絶句した。
「か、和樹まで……ちょっと、二人ともなんでアイツのことそんなに――」
「いやほら、俺実際にひでー目に遭ったからさ」
「酷い目……?」
「小学校上がってすぐくらいに、俺がお前の胸触って泣かせたことあっただろ?」
「あった……かしら……」
 言われてみればあったかもしれない――というくらいの淡い記憶しかなかった。
「………………妙子本人が覚えてないって、ひっでぇな。俺にとっても月彦にとっても結構な大事件だったってのに」
「白石君ってそういう所あるね」
「ちょっと待って! 言い訳させて! あいつが! 胸なんてアイツがしょっちゅう触ってくるから、だからそれで記憶が上書きされてるのよ! よくあることだから、いちいち覚えてなんてられないの!」
「でもよ、妙子。俺が知ってる限りじゃ、お前月彦に胸触られて泣いたことなんて一度も無いよな?」
「そ――……んなことないわよ。あった……と思うわ、うん。絶対あった」
「限りなく嘘くさいね」
「妙子ってそういう所あるからな」
「だから、なんであんた達そんなに息ぴったりなのよ!」
「まあそれは置いといて」
 と、和樹が骨だけになったフライドチキンを置こうとして、何を思ったかそのまま口に戻すやばりばりとかみ砕く。
「話を戻すと、妙子を泣かせたって、月彦と喧嘩になった。…………結果、俺はもう二度と妙子の乳には触らねーって誓いを立てさせられて、それどころかその時の喧嘩がトラウマになって妙子みたいな胸した女そのものが苦手になっちまった」
「ちょっと待って。いろいろ言いたいことはあるけど、とりあえず“妙子みたいな胸した女”っていう言い方はすごく癪に障るから止めてくれない? てゆーか佐由も何大笑いしてるのよ!」
「……ああ、いや、ありそうな事だと思ってね。ふふっ……それにしても、胸を触らない誓いを立てさせるなんて……そんな昔から白石君は彼の“お気に入り”だったんだね」
「そうそう、もう完全に予約済みっつーか……妙子の体にくっついてるけど、実質月彦のモンっつーか。例えるならほら、アレだ。土地の権利も建物の所有権も全部他人に渡っちまってるのに、先祖代々住んでるからここはワシの土地じゃーとか言って、絶対に立ち退こうとしない頑固爺さんとかいるだろ。俺から見た妙子はあんな感じだ」
 あっはっは!――佐由が腹をかかえて笑い、危うくキャンプ用の椅子から転げ落ちそうになる。
「ちょっと待って、それは逆でしょ! 頑固爺さんはあいつでしょ! なんで私の体の一部なのに、あいつに所有権が移ってることになってるわけ!?」
「お前の体の一部だけど、ほとんどあいつが育てたようなモンだろ? 生みの親より育ての親って言うじゃねーか」
「そ、育てたって何よ! 揉めば大きくなるなんて迷信――」
「とも言えない気がするね。少なくとも白石君の高校生離れした胸元を見ていると、特に」
「“お母さんはこんなじゃなかったのに……”って独り言言ってるの何度も聞いたって千夏が言ってたぞ」
「な……ち、千夏……!」
「しかも”ちょっと自慢げに、こっちチラ見しながら”な。……本当は胸が大きいことで優越感感じてんじゃねーのか?」
「それは千夏が勝手にやっかんでるだけでしょ! こんなの、ちぎって捨てたいって毎日思ってるわよ!」
「成る程……つまり、白石君は幼い頃から紺崎君の理想のおっぱいの持ち主となるべく、大切に育てられたというわけか」
「育てたのは胸だけな。中身までは月彦も手が回らなかったらしい」
 佐由が吹き出し、和樹も膝を叩いて大笑いする。
「それはいい! すごくいいじゃないか白石君! そこまで愛されてるのに、どうして紺崎君じゃダメなんだい?」
「ぜ、全然良くないわよ! ちょっと待って二人とも、何か勘違いしてない? 私は幼い頃から性的悪戯に晒されてきた被害者で、アイツは加害者なのよ!? なのにどうしてくっつくのが当然みたいな流れにされてるわけ!?」
「……などと申しており」
「倉場さん本当にわかってんな! だいたい胸触られるのが本当に嫌ならもうちょっと本気で嫌がれよって――……おっとやべぇ。ブチ切れる寸前の顔だ。倉場さん、この話はこの辺で止めよう」 
「あんたたち……本当に今日が初対面? 本当はずっと前から知り合いで、二人して私をからかってるんじゃないの?」
「とんでもない。まごう事なき初対面だよ」
「俺にそんな器用な真似出来るわけねーだろ」
 ぐぬ、と妙子は唇を噛む。佐由はともかくとして、確かに静間和樹は脳みその代わりに筋肉で物事を考えているような男だ。本当は知り合いなのに、初対面のフリをして誰かをからかうなどという回りくどい真似は出来ないだろう。
「あっ、話は変わるけど……倉場さんが持って来てくれたこの弁当超うめーっス」
「ありがとう。そう言ってもらえると早起きして作った甲斐があるよ。……あと、さっきまでみたいに砕けた話し方で構わないよ」
「うっス。なかなか慣れなくて……すんません」
「えっ……ちょっと待って。このお弁当って佐由が自分で作ったの?」
 ビニールシートの上に広げられた、三段重ねの重箱弁当の中身をまじまじと見て、妙子は驚きを隠せなかった。特に手の込んだ料理があるわけではないが、少なくとも同じ物を作れと言われても自分には無理だからだ。
「……さすがに全部自分で、というわけではないよ。母に手伝ってもらってどうにか、といったところさ」
「それでもすごいじゃない。この良い感じに半熟の卵焼きなんかも佐由が作ったの?」
「……いや、それは母だね」
「フライドチキンが旨いッスわ。ちょっと冷たいけど」
「それも母だ」
「この唐揚げも冷たくなってるけど、でも美味しいわ。スパイシーで」
「………………母だね」
「俺はこっちのゴボウの天ぷらの方が好きだな。これ、アツアツのうちに食ったら最高だぜ、絶対」
「………………すまないが、焼いたり揚げたりしてあるのはすべて母の手によるものだ」
「焼いたり揚げたりって…………」
 妙子が弁当箱を見下ろす。
「ほぼ全部じゃない。あんた一体何を作ったの?」
「………………おにぎりを、握った」
「いや、それでも十分じゃねーか? 崩れてるわけじゃねーし、大きさも形も均一だし」
「本当、型にはめたみたいにそろってるわ」
「実際、お握り用の型を使って作ったからね」
「………………。」
「………………あんたそれ、握ってないじゃない」
「握ろうとはしたんだが……ご飯が炊きたてで熱くて、どうしても握れなかったんだ。……それに、型を使ったほうが形も綺麗になるからと母に言われて……」
「どうなの、和樹。男子代表として、この弁当を“手作り弁当”だって認められる?」
「手作りかどうかなんて、そんな細かいことはどうでもいいんだよ! 美味しくて、しかも腹が膨れる! それが大事なんだよ!」
「…………あんたに聞いた私がバカだったわ」
 そうだった、この男はそこそこの味と、あとはカロリーが摂取できれば真心だとかそういうものは一切気にしない奴だった。
「あのー、すみません。本買いたいんですけど……」
「あっ、はい!」
 佐由が手にしていたおにぎりを置き、慌ててカウンターへと戻る。
「……凄いわね。大人気じゃないその本」
「おい妙子! 俺すげーこと思いついたぜ!」
 妙子はどこかうんざりした顔で和樹に向き直る。この幼なじみが「すごいことを思いついた!」と言って本当に凄かったことが過去一度も無いからだ。
「ほらっ、このフライドチキン、電気ストーブであぶったら良い感じに暖まってめっちゃ美味いぜ!」
「…………そう、良かったわね」
 まぁ和樹が考えることなんてそんなものだろうという気持ちが、どうやら顔に出てしまったらしい。
「妙子ってホント冷たいところあるよな。千夏だったら”ウチもやるわ!”ってノってくる所だぜ?」
「…………その千夏君とやらにも、いつか会ってみたいものだね」
 応対が終わったらしい佐由が弁当箱の前へと戻ってくる。ブーツのせいでシートに直に座ることが出来ず、結局キャンプ椅子は佐由が使っていた。
「千夏は……そうねぇ。むしろ私たちの中じゃ一番佐由と話合うかもしれないわね」
「妙子と友達なんだ。一番狭い門をクリアしてんだから、千夏じゃなくても余裕だろ」
「……ねえ和樹。前々から言おう言おうと思ってたんだけど、あんた実は私のこと嫌いでしょ?」
「何言ってんだ。嫌いだったら折角の休日に呼び出されてやったりするかよ。俺はちゃんとお前のことも大好きだぞ? でも優しくなんかしてやらねーけどな!」
「大好きだけど優しくしてやらない、か……なかなか深いことを言うね」
 一体何を納得しているのか、しみじみと佐由が頷く。
「あー、いや、倉場さん。別にそんな深い意味はないって。単純に月彦が妙子を甘やかすから、その分俺が厳しく鍛えてやらなきゃって思ってるだけだから」
「ちょっと待って。今、私があのバカに甘やかされてるって言った? ねえ、聞き違いだと思いたいんだけど、本当に言った?」
「白石君、落ち着きたまえ。女の子がしてはいけない系の顔になっているよ」
「まあそりゃ自覚はねーよな。幼い頃からずっとだもんな。“外”から見てりゃ一目瞭然なんだが……」
「あんたがそう感じるってだけで決めつけられたら堪らないわ」
「……そうかな。私もどちらかといえば、静間君の意見に賛成だけどね」
「はぁあ!?」
「いや、これはからかっているわけじゃなく、それこそ冗談抜きで本気でそう思うよ。白石君はもう少し、自分がどれだけ幸福な立場に居るのかを理解したほうがいい」
「ちょっと……もう、二人ともいい加減にして。私が甘ったれだって言うなら、まず十年単位でストーカーじみたセクハラに晒されてから意見してくれない?」
「…………私だったら、そんなに幼い頃から求愛をされ続けたら、たとえ容姿や性格がどれだけ好みから外れていても受け入れてしまいそうだけどね」
「アイツのは求愛なんて崇高なものじゃない、ただの性欲よ!」
「さて、と。飯も食い終わったし、ちょっと腹ごなしに運動してきていいか?」
 まるで、これまでの話の流れなどまったく意に介さないような和樹の暢気な声に、頭に血が登りかけていた妙子は肩すかしを食らった。
「……まぁ、ずっとここに居て欲しいというのも酷な話だしね。フリマ以外にもいろいろイベントをやってるみたいだし、少しくらいなら見学してきてもらっても私は構わないよ」
「………………行ってくれば? 私もちょっと頭冷やしたいし」
「んじゃ、行ってくるぜい。もし変な奴らに絡まれたら大声で俺を呼んでいいからな! まぁ妙子が本気で悲鳴上げたら、多分俺より先に月彦の奴が来るだろうけどな!」
「はいはい、いいから行ってらっしゃい」
 しっ、しっと犬でも追い払うような手つきで追いやり、空になった弁当箱を片付ける。
「…………いい幼なじみじゃないか」
「どこがよ。口が悪い体力バカだから、ある意味月彦よりも始末が悪いわ」
「でも、静間君が言った通り。本当に白石君のことが嫌いなら休日にわざわざ用心棒など引き受けないと思うよ」
「…………そんなの、どうせ暇だったからに決まってるわ。別に用事があるなら来なくていいって、ちゃんと言ったんだし」
「……やれやれだね」
 佐由が肩を落としながら、ため息をつく。それに対して妙子は何かを言おうとして――言えばケンカになる気がして――結局言葉を飲み込んだ。


 和樹がぶらりと散歩に出かけてしばらくの間は、特にトラブルらしいトラブルも起きなかった。相変わらず妙子が受け持っている47番店は閑古鳥が鳴いていたが佐由の48番店の方は定期的に客が訪れ、山積みになっていた同人誌は順調に掃けていった。
「ねえ佐由、やっぱ寒いんじゃない?」
「寒いよ。でもまぁ、あと50部くらいだ。頑張るよ」
「でも、唇真っ青じゃない」
「これは口紅だよ」
「口紅はさっきお昼食べる前に拭いてたじゃない」
「あぁ……そういえば、食べた後口紅を引き直してないな……まあでも、素で紫色だから引かなくてもいいか」
「…………約束を守るのも大事だけど、体も大切にしなさいよ。ほら、上着貸してあげるから」
「でも、それじゃあ白石君が寒いだろう」
「あんたよりマシよ。一応セーター着てるし」
 妙子はダウンジャケットを脱ぎ、半ば押しつけるように佐由の肩からかけてやる。
「それだけでも大分マシでしょ」
「……ありがとう、白石君。それじゃあ、お言葉に甘えて少しだけ借りるよ」
「別に良いわよ、ずっと着てても。今日はそこそこ日も出てるし、風もないから私は平気」
 こんな事もあろうかと――というわけではないが、ダウンジャケットの下にもしっかりとハイネックのセーターを着込んでいる。強がりではなく、それほどの寒さは感じない。
 どっこいしょとばかりに自分の持ち場であるテーブルの前へと戻る――と、程なく客が舞い込んできた。
「あの、ちょっと見ていいスか」
「どうぞ」
 どうやらCDに興味があるらしい。ダンボール箱の中に詰められたCDケースを取り出してはジャケットを確認している。
「これ、10枚百円でいいんすか?」
「はい。それ以上は値下げ出来ませんから」
「じゃあ、これ一箱全部買うんで……その代わり、連絡先教えてもらえませんか?」
「はい……?」
 素で疑問符が出た。ついでに首もひねる。
「すみません、そういうのはちょっと」
 もしやこれはフリマにかこつけたナンパなのだろうか。よく見ればCDを物色していた男は髪も茶髪でいかにもチャラそうな――尤も、妙子のチャラ男判定はかなり広い――男であり、CDをすべてどころか十万円手渡されても絶対に連絡先など教えたくない手合いだった。
 男はその後も食い下がったが、妙子は頑として固持し続けた。結局男はCD10枚を百円で買い、去って行った。
「あのー、ちょっと見さしてもらってもいいですか?」
 そして入れ替わりに今度は別の男がやってきて、ハンガーにかけてある古着を見始める。が、古着を見ている筈の男からちらちらと視線を感じるのは気のせいだろうか。
 ピュゥと、口笛が聞こえたのはその時だ。正面に向き直ると、赤ら顔の男がニヤニヤしながら歩み寄ってくる所だった。年はもう初老にさしかかっているくらいだろうか。ふらふらとした足取りからして、明らかに酔っ払っている。
「すっげぇな、ねえちゃん、それ。何カップあんだ?」
 下品な笑みを浮かべる男に、妙子は露骨に嫌悪感に顔を歪ませる。答えるのもばかばかしいと無視していると、男はへへっと笑みを浮かべながら申し訳程度に古書をいじり出す。
「おうこら。無視すんじゃねーよ。いいじゃねーか、減るもんじゃねえし。なぁ、それ揉ませてくれんならそこのガラクタ全部買ってやってもいいぜ?」
「ちょっと。人を呼びますよ」
 無視し続けていると、隣の佐由から助けが入った。男は舌打ちをするや、すごすごと早足に去って行った。
「あの、このパーカー下さい」
「あっ、はい。ええと……値段は……五百円ですね」
「もうちょっと安くならない?」
「すみません。さすがにこれ以上は」
 それもそうか、という顔をされる。会計を済ませていると、
「……胸、いくつくらいあるんですか?」
 ぽつりと、まるで独り言のように言われた。答えたくないなら独り言として処理してくれ、とでも言いたげなその呟きに、妙子は返事の代わりに精一杯の愛想笑いで返した。
「…………急に忙しくなったね」
 くすくすと、隣から忍び笑いが聞こえた。
「しかし、凄いね。入れ食いみたいじゃないか」
「……たまたま変な客が続いただけよ。あっ……いらっしゃいませ」
 が、またしても男性客。しかも今度は明らかなコスプレイヤーだ。細身に脱色した髪を現実ではありえない形にガチガチに固め、無駄に胸元の開いた黒いコートを着たその姿は今の佐由と並んで写真でもとればさぞやお似合いの二人だろう。
「ごめん、客じゃないんだ。ちょっと話、いいかな?」
 よくない、と思わず口から出そうになる。困った目を佐由の方に向けるも、佐由の方も調度客が着ていてヘルプは望めそうになかった。
「君さ、コスプレとか興味ない?」
「はい……?」
「今度ちょっと大きなイベントがあってさ、このキャラのコスプレ出来る娘探してるんだけど、どうかな?」
 そう言い、コスプレ男は懐からパンフレットのようなものを取り出してテーブルの上に広げ、そこにプリントされているゲームの登場キャラの一人を指さす。サスペンダーのついたミニスカートに、白のタンクトップ姿のそのキャラは他の女性キャラに比べて明らかに胸元が強調されており、妙子は思わずため息をつきそうになる。
「あっ、ちなみにこっちでもいいんだけど」
 と指されたのは、ピンク色の武闘着を着た、これまた胸元の豊かな女性キャラだった。
「ごめんなさい」
 客ではないが、多分悪気があっての申し出ではないのだろう。妙子は精一杯の愛想笑いと共に断りを入れた。
「そっか……ごめんね。あっ、これ俺の連絡先だから、もし気が変わってちょっとでも興味出たら連絡してね。ああそうそう、衣装とかは全部こっちで準備するから、衣装代とかそういうのは一切気にしなくていいから」
 男はメモ用紙に連絡先を書いてテーブルに置き、そして迷惑料と称して古書を数冊買っていった。
「おっぱいー!」
「おっぱーい!」
 今度は二人組のガキンチョ(おそらく幼稚園児)が妙子の方を指さしながら大声を上げ、そのまま店の前を走り去っていく。
 妙子は大きく肩を上下させ、ため息をついた。
「………………ごめん、佐由。やっぱり上着返してくれる?」
「ふふっ……もちろん構わないよ。おかげで大分暖まらせてもらったしね」
 佐由からダウンジャケットを受け取って羽織り、しっかりと前を閉じる。
「…………どうやら、白石君のそれは男性陣にはよほど魅力的に映るらしいね」
「……もう、ほんと嫌なんだから。いっそ美容整形でとっちゃおうかしら……」
 再度溜息が出る。そしてダウンジャケットを着た途端、再び元の閑古鳥状態に戻るのがまた腹立たしかった。
「……その上着、まるで“封印”だね」
「おーっす、戻ったぜー」
 そして、野太い声が強いケチャップの香りと共に戻って来た。
「あんた……肝心なときに居ないんだから……」
「あん? なんだ、なんかあったのか?」
「ちょっとね。白石君が上着を脱ぐとスゴいってことがわかったのさ」
「ああ、こいつは胸をジロジロ見られんのヤダっつーわりに、体のラインがモロに出るような服ばっか着るからな。どーせそのダウンの下もいつものぴっちりセーターなんだろ?」
「う、うるさい……いつものって何よ!」
「だってお前、冬はだいたいそれ着てんじゃん。千夏が言ってたぞ、一緒に服買いに行っても似たようなデザインの色違いしか買わねーって」
「それは……服の組み合わせとか考えるの面倒くさいから……」
「嘘つけー。ホントは月彦が喜ぶからだろ?」
「ほう?」
「ち、違っ……和樹! ちょっと……ホントにもういい加減にしてよ! てゆーかあんた、さっきご飯食べたばっかりなのになんでそんなに買い込んでんのよ!」
「いやー、なんか歩き回ってたらそこら中に出店があるし、美味そうな臭い嗅いでたら小腹空いちまって。ほら、みやげだ」
 と、和樹は指に挟んでいた2本のアメリカンドッグを差し出してくる。
「要らないわよ! 少なくとも今は」
「私もちょっと今は入らないかな。申し訳ない」
「マジかよ、じゃあ冷める前に俺が食っちまうか」
「あんたそれ……左手に提げてる袋に入ってるのはたこ焼きでしょ? よくそんなに食べられるわね」
「ああ、こっちのお好み焼きとイカ焼きは千夏の分だ。帰りに家に寄って持って行ってやろうと思ってな」
 確かにお好み焼きやたこ焼きといったソースの臭いが強い食べ物は千夏の大好物だ。仮に和樹で無くても、売っているのを見かけたら千夏へのお土産にと購入しただろう。
「つかよ、フリマって聞いてたけど、こりゃほとんど冬の祭りだな。あっちの方じゃでっかいステージが組まれてて、なんかテレビで見たことあるバンドが演奏してたぜ」
「ふーん……まぁ別に興味ないけど」
「午前中はお笑い芸人がトークショーとかやってたはずだよ。といっても、奇抜な格好やあるあるネタの表現方法の差分を個性と勘違いしてるような連中ばかりだったから、見に行く価値を見い出せなかったけどね」
「仮にあっても、店番でどうせ行けなかったんだし、ちょうど良かったんじゃない?」
「成る程、“そういうところ”が妙子とウマが合ったんだな。ちょっと納得したぜ。……あ、そーだ妙子! お前が好きそうな店もやってたぞ」
「私が好きそうな店って何よ」
「大きめのブラの品揃えが豊富な古着屋とかかな?」
 笑いをかみ殺したような声で茶々を入れてくる佐由を、瞳の力だけで黙らせる。
「いや、売ってたわけじゃねーから正確には店じゃねーな。ほら、あれだ。子犬の里親捜しやってたんだよ」
 子犬!
 和樹の言葉を聞くなり、妙子は反射的に立ち上がっていた。
「モッコモコの毛玉みたいな子犬がわちゃわちゃに動き回ってて面白かったぞ」
「で、でも……店番しないといけないから……」
 そわそわ。
 そわそわ。
 つい“行きたい”という目で佐由を見てしまう。帰って来たのは、優しい微笑みだった。
「行ってくればいいさ。もし客が来ても、静間君が何とかしてくれるよ」
「おう! 少しの間なら店番のほうもなんとかしてやるぞ、行ってこいよ妙子」
「そ、そう? じゃあ、ちょっとだけ行ってこようかしら。和樹、どこら辺でやってたの?」
「んーと、この道を右にまっすぐ行って、途中から外れて広場の方にいって、その先出店がずらっと並んでるところを抜けて……えーと、どっちだったかな」
「第二運動場の近くみたいだね。スタッフに確認した」
 いつのまにやら電話をかけていたらしい佐由が、スカートのポケットに携帯をしまう。
「倉場さん、仕事はえー」
「その第二運動場ってのがどこかわからないんだけど……」
「見取り図によると区画の一番南東側だから、方角的にはほら、あのビルを目印に歩いて行けばいいはずだよ」
 と、佐由が遠くに見える一際高いビルを指さす。
「解ったわ。とにかくあのビルの方目指して歩いて行けば、第二運動場ってところに着くのね?」
 はやる気持ちを抑えきれなくて、妙子は飛び出すように歩き出す。

 そんな背中が見えなくなるまで見送ってから、倉場佐由は小さく笑みを浮かべた。
「……白石君は本当に犬好きなんだね。矢も楯もたまらずって感じじゃないか」
「妙子の犬好きはほとんど病気だからなぁ……」
「ところで静間君。……幼なじみということは、彼ら……白石君達とは相当に長い付き合いなのかな?」
「おう、あいつらとは保育園時代からつるんでるぜ!」
「それは凄い」
 うんと、佐由は大きく頷く。
「……ということは、紺崎君の事なんかもかなり詳しいんだろうね」
「月彦の事? まぁ、そうだなぁ」
「実は、私は白石君と紺崎君の距離感には常々もどかしいと感じていてね。…………出来ることなら、二人の仲を取り持ってやりたいと考えているんだ」
「わかるぜ、倉場さん。すげーわかるよ、うん。ほんっと見ててもどかしいんだよな、アイツらは……」
「白石君のことは一応ながらも毎日顔をつきあわせているわけだから、だいたいのことは解るんだけどね。正直、仲を取り持とうにも紺崎君の情報が不足しているんだ」
「そういうことか! 解った、何でも聞いてくれ! 月彦の事ならぶっちゃけ、俺は妙子より詳しいぜ!」
 何でも聞いてくれとばかりに、和樹はどんと厚い胸板を叩く。
「それは頼もしい限りだ。……ついでに出来ればこれも頼めると助かるんだが……私が彼の情報を聞いたということは、白石君には……そして出来れば紺崎君にも秘密にしてもらえないかな?」
 返事よりも先に、和樹はビッと親指を立てる。
「わかってるぜ倉場さん。“そういう膳立てをされた”って解ると妙子の性格からして絶対ヘソ曲げちまうからな。んで月彦の奴は態度で妙子にバラす可能性があるから、あいつにも秘密ってことだろ? 俺は頭は悪りーけど、約束と秘密は守る男だから安心してくれ」
「ありがとう、静間君。……じゃあ、早速――白石君が戻ってくる前に紺崎君について知ってる事を可能な限り教えて欲しい。…………ああ、メモを取ってもいいかな?」
 


 

 
 
 取り立てて裕福になりたいと思ったことは無かった。雨露がしのげる場所があり、飢えない程度の食事が出来、そして老後を過ごすに十分な蓄えさえ出来るならば、それ以上の豊かさなど要らないと思っていた。
 が、広めに設けられた柵の中を所狭しと走り回る子犬たちの姿を見ているうちに、妙子は思ってしまった。この子達を何の憂いも無く迎え入れられるだけの経済力が欲しい――と。
(あぁぁ……ポメラニアンにトイプードルに……あぁぁぁぁ!)
 冬の寒さも何のそのとばかりに走り回る子犬たちのなんと可愛いことか。里親として引き取ってやることはもちろん出来ないが、それでもこの子達を飼いたいと感じる気持ちだけは誰にも負けないとばかりに、妙子は柵を乗り出すようにしてほややんと眺め、そして時折腕に抱いてはよしよしと撫でつける。
(コーギーは……コーギーは居ないのかしら)
 探す――が、見当たらない。尤も、ここに居るポメラニアンもトイプードルもどうやら純血ではないようだ。だからこその里親捜しなのだと思えば、わざわざ里親捜しなどしなくとも請うて欲しがる飼い主が後を絶たないコーギーの姿などあるわけがないと――少なくとも妙子の中での順位づけではそういうことになっている――納得する。
 佐由達にはすぐ戻る、とは言ったが結局一時間近くもほややんと子犬を眺め続け、それでも尚眺め続けたいという気持ちを振り切って戻ろうとして、さすがに申し訳なさが勝った。自腹で暖かい飲み物をいくつか購入し、早足気味に戻ると。
「あっはっは! それはいい! そんな方法で白石君を宥めるとは……さすがは紺崎君だ」
「だろー? あの時ばかりは俺も千夏もどうしていいかさっぱりだったかんな。まあなんだかんだで、妙子のこと一番解ってんのは月彦なんだよな。妙子だって、普段のどうでもいいような相談事は千夏にするけど、ここ一番の本気で困った時はぜってー月彦を頼るんだぜ?」
「そうなのかい? それは少し意外だ」
「そのくせ、普段はアイツのことなんてぜってー認めないとか言ってんだもんなぁ。いい性格してるぜ、ホント」
「照れ隠しで私たちの前でだけそういう態度なのかと思っていたけど、静間君達の前でもそれは変わらないみたいだね。ある意味では一貫性があると言えなくもないけれど」
「ぶっちゃけ、月彦の奴よくくじけねーな、って思うことも少なくねーし、そういう意味じゃアイツのしつこさには頭が下がるっつーか、ストーカーじみてるっつー妙子の言い分も少し解るっつーか……。いやでも、元を正せば妙子のやつがめんどくせー性格してるのが原因だからなぁ……」
「ふふっ。確かに……白石君にはそういうところが少なからずあるね」
「まあでも、だからこそいいのかもな。月彦は多分そういう、妙子みたいなめんどくせー女が好き――うわぢぃっ!」
「人が黙って聞いてれば…………私が“めんどくさい女”ならあんたは“口が軽すぎる男”よ!」
「た、妙子っ、おまっ……火傷するかと思ったじゃねーか!」
「大げさね。缶コーヒーをちょっと首筋に当てただけじゃない」
 むしろ、中身を頭からぶっかけなかったことを感謝しろと、妙子は憤然とする。
「やあ、白石君、遅かったじゃないか」
「……ずいぶん楽しそうに喋ってたじゃない。あんた達そんだけ気が合うなら、いっそ本当に付き合ったら?」
「いや、俺は誰とでもだいたいこんな感じだぞ」
「静間君は私よりもむしろ、白石君にお似合いな気がするけどね」
「嫌よ。こんな筋肉の塊みたいなやつ、側に寄られるだけで暑苦しくて堪らないわ」
「俺も妙子だけは嫌だ」
「“だけは”って何よ! それってつまり、女全体の中でワーストってこと!?」
「めんどくせーの大嫌いだしな。第一妙子に手を出すってことは、月彦とガチの命の取り合いをする羽目になるってことだ。命を賭けてまで奪い合うのが妙子じゃ、割に合わなすぎる」
「和樹……あんた、やっぱり本当は私のこと嫌いでしょ?」
「好かれたいならもうちょっと俺という人間を理解しろよ。熱いコーヒーなんて俺が飲むわけねーだろ」
「くっ……これは別にあんたに買って来たわけじゃ……」
「私もコーヒーよりはココアの方が好きかな。まあでも体が温まるから、この際コーヒーでもありがたくいただくよ」
「佐由も……どうしてそこで”ありがとう”の一言が言えないのよ! あんたたちに人の性格をどうこう言う資格はないと思うんだけど!?」
「ありがとう、白石君」
「ありがとな、妙子」
 こいつら!――妙子は歯ぎしりしながらも、渋々缶コーヒーを押しつけるようにして渡す。ぱんぱんと、爆竹のような音が聞こえたのはその時だった。
「お、終了の時間だ。10部ほど売れ残ってしまったが……まあ、売れた方だろう」
「えっ、てことは190部も売れたの? 凄いじゃない!」
「まぁ、わざわざ寒い格好で売った甲斐はあった感じだね」
「一冊千円だろ? てことは……おおう、安い車なら買えんじゃね?」
「ちなみにこっちは…………えーと、8700円ね」
「白石君が終始上着を脱いでいたら、その三倍は行ったんじゃないかな」
「絶対、嫌」
「なんだなんだ、そんなにスゴかったのか? 俺も見たかったぜ」
「凄いなんてもんじゃない。ほとんど入れ食いさ」
「マジかよ! 月彦が見てたら発狂しそうだな!」
「あっははっ、紺崎君には耐えられない光景だったと思うよ」
「妙子良かったな! 夫婦喧嘩になったら絶対勝てるぞ! ”そっちが謝らないなら薄着で街を歩くわよ?”って脅せばいいんだからな!」
「いや、そもそも喧嘩にならないんじゃないかな。紺崎君の性格なら、白石君がどれだけ傍若無人に振る舞ってもニコニコ笑って許してくれそうだ」
 喧嘩くらいしたことある――そう反論しかけて、妙子は首を振る。言ったところで、火に油を注ぐようなものだ。
「しかし、8700円か。正直もう少しは売れるかと思っていたんだが」
「だって、本もCDも百円とかでしか売れないし、古着もほとんど500円、高くても1500円でしょ? 8700円でも上出来だと思うんだけど……」
「済まない、白石君を責めてるつもりじゃないんだ。……確かに少しばかりラインナップが悪かったかもしれないね。売り上げが少ないのは、完全にこちらの落ち度だよ」
「まーでも、フリマってそんなもんじゃねーのか? 俺も前に一回兄貴に付き合って参加したけど、そんときはいらねー釣り道具並べて売り上げ1500円くらいだったぜ?」
「静間君の言うとおりだね。元々“どうせ捨てるならその前に”くらいのつもりだったんだ。多少なりとも売れて、何処かの誰かの役に立ってることを幸いとしよう」
 うんと、どこか満足そうに佐由は頷く。
「二人には寒い中手伝いに来てもらったしね。そっちのお金は全額二人で分けてもらって構わないよ」
「全額って……佐由、それじゃああんた何の為に……」
「家族からも別に利益を出して欲しいと頼まれたわけじゃないしね。そもそも、大して売れもしないものを売る為に友達を付き合わせてしまったんだ。私の気持ち的には、その倍額ずつでも手渡したいくらいだよ」
「気持ちは嬉しいけど……参加料だってタダじゃないんでしょ?」
「いいさ。今日は静間君とも出会えて三人で楽しく過ごさせてもらったんだ。フリマの参加費くらい安いモノさ」
 そもそも、出したのは私じゃなくて兄だしね――と、佐由は若干意地悪な笑みと共に付け加えた。
「だけど……」
「ダメだな、妙子は。お前ってやつはこういう時ほんっとーにダメだな」
「……脳みそ筋肉のあんたにだけはダメ出しなんてされたくないんだけど」
「倉場さん、楽しかったのは俺たちも同じだ。だからこのお金は俺たち二人じゃなくて、倉場さんも入れた三人で分けようぜ」
 あっ、と。虚を突かれた思いに、妙子はつい声を出してしまった。
「いやでも……」
「倉場さんが受けとらねーって言うんなら、俺たちだって断るぜ。なぁ妙子?」
「う…………そ、そうね。三人で山分けってことなら、私たちも……」
 和樹の提案に同意するのが悔しいと思う反面、確かにそれが最も丸く収まる提案ではないかと思えるのも事実。そもそも妙子としても、別に金銭目的で参加したわけではない。どちらかと言えばフリーマーケットとはどういうものかという経験を得る為に参加したようなものだ。
「……解った。静間君の提案に乗ろう」
「よっしゃ! えーと……8700円を三人で分けると……………………いくらだ、妙子」
「2900円」
「キリが悪いから二人は3000円ずつにしよう。私はもともとそちらのほうは全く手伝ってないわけだしね」
「それを言うなら和樹だってなーんにも役に立たなかったけどね」
「実際静間君が居る間は一度もトラブルが起きなかったんだ。見えない部分で役に立ってたんだと思うよ」
「おう。妙子の後ろからばっちり睨み効かしてたぜ!」
「……まぁいいわ。とにかく終わったんなら片付けないとね」
「ああ、片付けはいいよ。もう少ししたら兄が迎えに来る筈だから、その時に一緒にやるさ。二人とも今日はありがとう、本当に助かったよ」
「つまり、もう帰っていいってこと?」
「うん。あとは任せてくれたまえ」
「そっか、もう半日終わっちまったのか。ずっと喋ってたせいかわりとあっという間だったな」
「私も同感だよ。男子とこんなに喋ったのは、ひょっとしたら生まれて初めてかもしれない」
「別に和樹じゃなくたって、普通にクラスの男子と話せばいいじゃない」
「……まぁ、白石君ほどじゃないにしろ、私も不器用だからね。すればいいと言われても、難しいことだってあるさ」
「妙子ってばほんとデリカシーのカケラもない女だな。倉場さんはデリケートなんだよ、無神経なお前と違って」
「んなっ……あ、あんたにだけは言われたくないわよ! デリカシーなんて微塵も持ち合わせてない無神経代表のくせに!」
「静間君は見た目は無頼漢だけど、少なくともデリカシーは白石君より持ち合わせているんじゃないかな……」
「はっはっは。そうだぞ妙子。お前はもっと俺を見習え!」
「………………もーいい、帰る。和樹はどうせ千夏の家に寄るんでしょ?」
「なんだよ。妙子は来ないのか?」
「行きたいけど、慣れないことして今日はクタクタだから早めに休みたいの」
「早めに休むって……まだ三時過ぎだぞ」
「帰ってすぐ寝るって意味じゃないわよ! ……知ってるでしょ、人が多いのは苦手なの。疲れたから今日はもう一人で過ごしたいわ」
「妙子ってば昔からそうだよなぁ。四人で遊んでても、いつも最初に疲れた、帰るーって言い出すのお前だったもんな」
「それはまた別! うちには門限があったの! 日が暮れても七時過ぎても平気で遊び続けようとするあんた達が異常だったのよ!」
「そうかぁ? ああでも、月彦のやつはいつも姉ちゃんが迎えに来て連れ戻されてたなぁ」
「例の“怖いお姉さん”かい?」
「そうそう、すげー美人なんだけど、めちゃくちゃ怖ぇーんだ」
「………………先帰るからね?」
 話し込む二人に背を向け、歩き出す。後片付けでごった返す人混みをかき分けかき分け、漸くのことで往事に使ったバス停までたどり着くと。
「よう、遅かったな妙子」
 当たり前の様にバス停の前に立っている静間和樹の姿に、妙子は混乱を禁じ得なかった。
「和樹……なんであんたが先に来てるのよ」
「あ−、ちいとばっかしショートカットしたかんな。ほら、そこの柵をぴょーんってな」
「ぴょーんって……今更だけど、あんた何か運動部とか入った方がいいんじゃないの?」
 歩道と運動公園とを隔てている金網――和樹は柵と言ったが、どう見ても金網だ――の高さは結構なものだ。もちろん健全な男子高校生ならば上れない高さではないだろうが、それに加えてピンポイントで佐由の出店場所からバス停の位置まで一直線にショートカットしてくる辺り、月彦とは違った意味で侮れないと感じる。
「俺、体動かすのは好きだけど、練習は大嫌いだしなぁ。あと、試合とかで休日潰されたりするのも嫌だしな」
 そういえば、そういう主義の男だったと、妙子は今更ながらに思い出した。
「………………今日は悪かったわね。本当は何か予定があったんじゃない?」
「んー、まぁ親父達と一緒に船釣りに行く予定があるっちゃあったけどな。珍しく妙子が頼み事してきたんだ、いくら俺でもさすがにそっちを優先させるぞ。釣りはまた行けるしな」
「……予定があるなら無理に来なくていいって言ったのに」
「その予定をキャンセルしてでも行きたいって、俺が思ったから来たんだよ。実際、俺が来なかったらヤバかったんだろ?」
「……別にヤバくはなかったと思うけど…………」
 その場合、自分はどうしただろうか。怪我をして用心棒役など出来そうもない月彦にも声をかけただろうか。
「ま、月彦の奴が怪我してなかったら、釣りのほうを優先したかもな。どうせ俺の次はアイツに頼むつもりだったんだろ?」
「…………怪我をしてなかったら、ね」
「じゃあやっぱ俺が来ないとダメじゃねーか。……まーでも、気にしなくていいぞ? なんだかんだで楽しかったしな。倉場さんも想像と全然違ってすっげー良い人だったしな」
「想像って……一体どんなのを想像してたのよ」
「そりゃお前……だって、妙子の友達だろ? 無口で何考えてるのかさっぱりわかんねーようなのか、終始キョドって鳥の羽音を聞いただけで悲鳴上げるようなのとか、ウホウホ言ってて言葉通じないヤツとか、てっきりそんなんかとばかり思ってたぜ」
「あんたの中の私ってどんなイメージなのよ……」
「ああそうだ。倉場さんに聞いたんだけどな、この時間のここのバスはめっちゃ混むらしいぞ。乗り場まで少し歩くけど、違う路線のやつ使ったほうがいいらしい」
「そうなの?」
 妙子はふと、周囲を見回し、そしてドン引きする。フリマ帰りの客か、はたまた参加者か。既にバス停には長蛇の列が出来ていた。
「妙子が人が多いの苦手っつってたから、わざわざ教えてくれてな。ほんと友達思いだよな、倉場さん」
「…………そうね、今回ばかりは同意するわ」
 妙子は素直に頷き、そして和樹の案内に従って佐由が教えてくれた乗り場へと移動する――が。
「あれ、こっからどっちだっけ」
「どっちだっけ……って、私が解るわけないじゃない!」
「あっはっは、そりゃそーだ。悪ぃ、妙子。ここからどっち行くか俺もわっかんねえ」
「ちょっ……もう……仕方ないから佐由に聞くわ」
 やはり、和樹は和樹だ。むしろ今日はボロが出なすぎたのだ――しかし、その今ひとつ頼りにならないところが逆に懐かしい。
 口調とは裏腹に微笑を浮かべながら、妙子は携帯電話を取り出すのだった。


 和樹とはバスを降りた時点で別れた。一度断ったからだろう、再度千夏の所に一緒に行こうとは誘われなかった。
(……ほとんど座ってただけなのに)
 実際、いつになく疲れを感じていた。慣れないことをやったということもあるだろうし、人の多い場所に居た気疲れというのももちろんあるだろう。こんな日は早く家に帰って一人になりたいと思う反面、あるいはそういう所が“甘えている”と判断されるのだろうかと、そんな事を考える。
(そんなことはないって、思いたい、けど……)
 ただ一つ、すぐに手が出てしまう件に関しては妙子自身悪癖であるとは思っている。和樹に言われるまでもなく直さなければならないと、他ならぬ月彦相手に話したこともある。
(……でもあのバカはスキンシップだから気にするな、って……)
 殴られてる当の本人がそう言うのならばと、妙子自身いつしか悪癖だから直そうという気持ちを忘れていたのかもしれない。“そういうところ”が甘えていると周囲に判断されるのではないか――考え事をしていたせいか、自宅アパートまではあっという間だった。
「………………。」
 ポケットから鍵を取り出し、差し込もうとしてふと手が止まる。そういえば、このコーギー犬のキーホルダーもあの男からのもらい物だ。気に入らない、好きではないと口癖のように言っているくせに、気がつくとあの男にもらったものを当然のように身につけている。そういう所も“甘え”なのだろうか――。
「ああっ、もう! 和樹のバカが余計なこと言うから……」
 雑念を振り切るように首を振って、鍵を差し込む。朝から不在にしていた室内はしんと冷え切っていて、妙子は真っ先に暖房をつけ、コーヒー用の湯を沸かす。
「あっ、そっか……冷蔵庫もう、何もなかったんだった……」
 帰りに何か食材を買って帰ろうと思っていたのに、すっかり忘れていた。何も食べるものが無いとわかった途端、先ほどまで微塵も感じていなかった空腹感がたちまち耐えがたいものに感じられる。ならばその解決法は一つしかないというのに、実際に妙子がとった行動は、湯気の立つコーヒーカップと共に炬燵に腰を下ろすというものだった。
(…………今日は疲れたし、買い出しは明日にしようかしら)
 炬燵の暖かさが、耐えがたいほどの眠気を誘発する。苦めに淹れたコーヒーですらもその強大すぎる力の前には無力だった。もうこのまま眠ってしまおうかと、妙子が半ば眠気を受け入れかけていた――その時だった。
「ッ……!」
 突然、耳を劈いた“鳴き声”に、妙子はびくりと体を震わせ、意識を覚醒させる。
「えっ……何、今の声…………」
 犬の鳴き声――には違いなかった。が、ただの犬の鳴き声であれば、眠りの淵から覚醒などする筈が無い。いくら犬好きとはいえ、見境無くどんな犬相手でも構わないというわけではない。意識が覚醒したのは、その鳴き声がかつて自分が飼っていた犬たちの“誰か”のものであったからこそ、閉じかけていた瞼が開いたのだ。
(…………でも、そんなわけ無いわ)
 かつて白石家で飼われていた犬たちは少数が父の友人達に引き取られ、残りが父と共に海外に渡ってしまった。近所で飼われている犬の鳴き声というのならばともかく、飼い犬の鳴き声など聞こえるわけがない。それでも、ひょっとしたら何かの間違いで引き取られた先を脱走した犬たちが自分に会いにやってきたのではという考えを捨てられず、妙子はわざわざ部屋の外の様子まで窺った。
 が、外には犬の姿どころか鳴き声すら聞こえなかった。ひょっとして、うとうとと寝ぼけながら何かの音を飼い犬の声だと勘違いしただけなのではないか――妙子は落胆と共にそう結論づけ、再び炬燵に入ろうとして。
「…………あぁ、そうだわ。こっちも片付けなきゃ……」
 部屋の隅にでんと居座っている二つのダンボール箱に目を止めるなり、思わずため息が出る。何のことはない、佐由から何か売りたいものがあるならもってこいと言われ、何もないだろうとは思いつつもひょっとしたらと押し入れを漁った際に引っ張り出したダンボール箱だった。
「…………結局何も無かったのよね」
 一つ目のダンボール箱に入っているのは、幼稚園、小学校中学校の卒業アルバムや教科書類。アルバムはともかく教科書の方は要らないといえば要らないのだが、かといって“1ねん3くみ しらいしたえこ”という具合にしっかりと名前の書かれた教科書をフリマで売る勇気は、妙子にはなかった。
 押し入れの中を少しばかり片付け、教科書類が詰まったダンボール箱をよっこらしょとばかりに押し込む。続いて二つ目――こちらも、ある意味では“もう使わなくなった物”ばかりが詰められた箱だった。が、売れないという意味ではそれこそ教科書やアルバムの比では無い。
「………………。」
 開けなくとも、中身が何かは知っている。数日前、押し入れから引っ張り出した際ですら、この箱は中身はアレしか入っていないからと、中を見ることなく“売れる物リスト”から除外した。
 が、妙子は開けた。可愛い子犬たちと触れあったことで、いつになく犬恋しい気持ちになっていたのかもしれない。
 ――そう、箱の中身は、かつて飼っていた犬たちの遺品なのだ。
「………………。」
 ダンボール箱の中は、さらに三つの小さな箱が詰められている。それらの箱一つ一つが一匹分の遺品なのだ。一際小さい箱がチワワのオス、名前はフギン。元の飼い主が亡くなってしまい、引き取り手が誰もいないということで父親が引き取ってきた。白石家に来た時点で既に老犬であり、一年も経たないうちに死んでしまった。最後の瞬間、腕の中で少しずつ鼓動が弱まっていくのを感じながらも見守ること以外何も出来なかった。ただ、涙を見せれば犬たちは安らかに逝けないという父の教えを守り、歯を食いしばって涙を堪え続けた。
 中くらいの箱は、ボーダーコリーのオス、バーザムのものだ。本来牧羊犬となる筈が生まれつき体が弱く、殺処分されかかっていたのを父が引き取ってきた。あまり散歩にも行きたがらずお気に入りのクッションの上で寝てばかりいた。白石家に来てから六年と十一ヶ月、妙子が学校から帰ると、いつものクッションの上で静かに息を引き取っていた。
 最後の一つはラブラドールレトリバーのメス、ラクシャサのものだ。元の飼い主が引っ越し先の都合で飼えなくなり、父が引き取ってきた。とにかく散歩好きで、そのくせ我が儘でとにかく手を焼いた。他の犬たちとの折り合いも悪く、前の家でよほど甘やかされて育ったのかどんな時でも自分が一番偉いと思っているような節があった。
 散歩の際もとにかく好き勝手に歩こうとするのを両足で踏ん張りながら抵抗し、散歩の後は体育のマラソンの後よりもくたくただったのを覚えている。ある日、いつものようにラクシャサを御そうと踏ん張った瞬間、首輪とリードとを繋いでいる金具が壊れ、勢い余って道路に飛び出したラクシャサは車に撥ねられ、そのまま息を引き取った。
 三匹とも、その別れを思い出すだけで涙が滲みそうになるが、中でも一番悔やまれるのはラクシャサだった。他の二匹はある意味天寿を全うしたと言っていい中、ラクシャサの死だけは自分の責任であると妙子は思っていた。
(…………ごめんね、私がもっとちゃんとしてあげてれば……)
 躾の方法をもっと勉強すれば良かった。あれだけ毎日綱引きのように引き合っていたのだから、金具が壊れていないかちゃんとチェックするべきだった。他の二匹に比べ、ラクシャサの件だけは本当に後悔の種が尽きない。
 妙子はそっと、ラクシャサの遺品が詰まった箱を取り出し、およそ十年ぶりに開けた。中に入っていたのはラクシャサ用の櫛と、お気に入りのゴムボール。そして、人間の首にも巻けそうなくらいに大きな赤い首輪だった。
「この首輪……」
 紛れもない、ラクシャサがつけていた首輪――だが、およそ十年ぶりに見た妙子の心中は複雑だった。妙子は首輪を左手に持ったまま、右手で箱の中を探る。……目当てのものはすぐに見つかった。小さな定規ほどの大きさの金属のプレートを妙子は手にとり、その表面へと目を落とす。そのプレートは元々はラクシャサの首輪につけられていたものだった。そしてその表面には“白石家に来る前の名前”がアルファベットで掘られている。
「………………。」
 本来ならば元の名前で呼んでやるべきだが、当時はどうしてもその名前で呼ぶのが嫌で堪らなかった。渋る父を説得し、首輪からプレートを外して新たな名前を定着させようと努力はしたが、今にして思えばラクシャサがあれほど慣れなかったのはそのことを根に持っていたからだったのかもしれない。
「でも、本当に大きな首輪……。私の首より太いんじゃないかしら」
 幼い妙子の目には、ラブラドールレトリバーの成犬であるラクシャサはそれこそトラかライオンのように大きく見えたものだ。その首輪は今見ても、自分の首より太い様に見える。
 試しにとばかりに、妙子は首輪を手に洗面台の鏡の前へと移動する。そして首輪を首に巻いてみると、穴の位置はラクシャサがつけていた位置よりも――その穴だけが他の穴と違って変形している――内側に三つもずれていた。
「やっぱり。あの子、本当に大きかったんだわ」
 むしろ、よく小学生――それも低学年――だった自分に御せていたものだと感心する。おそらく、ラクシャサの方も本気ではなかったのだろう。
「……そして、ここにプレートをつけたら………………」
 妙子は洗面台の鏡の前で、首輪の上からプレートを宛がい、そのあまりに酷い絵面に思わず吹き出しそうになる。鏡の向こうには、人間用にしか見えない首輪をつけた自分の姿が、しかも首輪には"Taeko"と自分の名前まで入っているのだから。
(…………さすがに自分と同じ名前で呼ぶのは無理……よね)
 しかしずっとタエ子、タエ子と呼ばれて育ってきたのに、ある日を境に”ラクシャサ”ではラクシャサも戸惑ったことだろう。せめて、もう少し響きの似た名前にしてやるべきだったと――今更だが――妙子は後悔する。
「……それにしても酷い絵面だわ。こんな格好、千夏にだって絶対見せられない」
 乾いた笑いの後に、妙子は大きく肩を上下させて溜息をつく。
「…………バカやってないで、いい加減買い物に行かなきゃ」
 そして、自分の間抜けすぎる姿に途端に冷静になり、首輪の尾錠へと手を伸ばす。とにもかくにも買い出しに行かねば、今夜の夕飯も明日の朝食べるものも無いのだ。疲れていようとも、どんなに面倒くさくとも行くしかない。
「ああもうっ……」
 妙子は鼻息荒く再度首輪に手をかける。長らく使っていなかったから、見えない場所に錆でも浮いていたのだろうか。つけるときはすんなりと固定できた金具が、まるで強力な接着剤で固定でもされたかのように外れない。
「えっ……えっ……? ちょっ……なんで………………なんでよ!」
 次第に、焦りが妙子を支配する。鏡に映るそれは至ってごく普通の尾錠止めのバックルだ。事実、装着の際は何の問題も無かった。
 なのに。
「は、外れない……どうして…………」
 焦りが、今度は恐怖に変わっていく。見えない部分の錆だとか、経年劣化による金具の変形などではあり得ない事態に、妙子はほとんど半べそになりながらも、それでも何とか首輪を外そうと悪戦苦闘を続けるのだった。



 およそ二時間もの間、妙子は鏡の前でありとあらゆる手段で首輪を外そうと試みた。しかし、そのどれもが失敗した。そもそもがまともな手段では金具をミリ単位ですら動かせず、ならばとハサミを使っててこの原理でなんとかしようと考えて――失敗してうっかり首の動脈でも傷つけてしまったら、自分の名前が掘られたプレートつきの首輪をつけて自殺した女子高生として一躍有名人になってしまうということに気がついて断念した。
 そう、妙子にとって忌々しいのは、ただ皮のベルトの上から宛がっただけのプレートまでもがとれなくなってしまっていることだった。
「なんでよ! なんでプレートまで外れないのよ!」
 さながら、強力な接着剤で接着されているがごとく、プレートはびくともしない。こうなったら首輪の皮部分を切断するしかないと、プレートの無い部分をハサミで切断しようとしても、これまた革のベルトとは思えないほどに堅く、まったく歯が通らないのだ。
 おかしい。
 ありえない。
 こんなこと、現実には起こりっこない。
 あるいは夢ではないかと、妙子は頬をつねったり柱の角で頭をぶつけてみたりしたが、目が覚めたりもしない。
 そうやってありとあらゆる手段を試すこと二時間。結果解ったことは、これはもう自分一人の力ではどうにも解決出来ないということだった。
(でも、だからって……誰に…………)
 真っ先に浮かんだのは親友である天川千夏の顔だった。千夏ならばこのふざけた格好も笑うことなく、きっと力になってくれることだろう。最悪でも、この生き恥モノの醜態を吹聴したりはしない筈だった。
 が、妙子にはどうしても千夏を呼んだからといって事態が解決するとは思えなかった。そもそも自分と千夏の発想にそれほど差があるとは思えない。結局千夏個人の力ではどうにもならず、消防署に連絡してとってもらうしかないと千夏に説得される姿が目に浮かぶようだった。
 もちろん妙子も最終的な手段は消防署であると思っていた。が、いかんせん状況が悪すぎる。これが首輪ではなく指輪ないし腕輪であれば、妙子も迷わず連絡したことだろう。
(……っ……こんな姿を他人に見られるくらいなら――)
 いっそ死んだ方が――とまではさすがに思わないが、消防署でひきつった笑顔の署員達に囲まれながら処置をされる自分の姿を想像するだけで恥ずかしさのあまり叫び声を上げたくなる。もちろん善良なる公務員である消防署員達がいたずらに吹聴するとは思えないが、それでも彼らの心には間違い無く、一生の記憶として刻みつけられる筈だ。
 そう、“自分の名前入りの首輪をつけた間抜けな女子高生、白石妙子”の姿が。
「アアアアアアアアアアアアアッ!!!!!」
 “想像”だけで妙子の羞恥心はメーターのMAX値を振り切り、思わず頭をかきむしりながら声を上げ、部屋の中を転げ回った。
 何故。
 一体どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか。
 悪行の報いというのならば、まだ解る。だが、これほどの目に遭わなければならないような悪行など、妙子にはまったく身に覚えが無かった。そもそも今日は困っている友達を助けるために寒空の下、休日を潰して慣れない店番をくたくたになるまでやってきたのだ。悪行の報いどころか、神様からささやかな幸運の一つや二つプレゼントされてしかるべきではないのか。
「ううう…………なんで……なんで外れないのよぉ……」
 おかしい、こんなの絶対にありえない――今まで積み上げてきた常識という名の煉瓦が、がらがらと音を立てて崩れていく。ひょっとしたら、最後の手段だと思っていた消防署員達ですらなすすべ無く「これはウチではどうしようもありませんから……」と別の機関にたらい回しにされたりするのではないか。そして、この生き恥そのものの姿を数多の他人に晒した挙げ句、結果誰も外すことが出来ず余生を送ることになるのではないか。
(…………だったら、いっそ……)
 外すことを諦め、首輪と共に生きる道を選ぶのもありかもしれない。首輪の上から常にマフラーを巻くようにすればまずバレないであろうし、どうしてもマフラーをとらねばならない場所に行かなければならなくなったらもう、人間的な生活を諦めて山や森の中でひっそりと暮らせば良い。猟犬を伴い、日々の狩りで生計を立てる――そんな暮らしも悪く無いかもしれないと、半ば本気で妙子は“妄想”に耽る。
「…………………………。」
 しかしそんな妄想も空想も長くは続かない。事ここに至り、妙子は漸くにして自らの本音――というより、“本当の最後の手段”に気がつき始めていた。
 否。気づいていたのは最初からだ。しかし、まずはそれ以外の可能性を探りたかった。その理由には、少なからず昼間の和樹の言葉が影響していた。
 『妙子は本当に困った時は千夏ではなく月彦を頼る』――和樹のその言葉さえなければ、あるいはもっと早くに月彦に助けを求めていたかもしれない。
(……違う、違うわ。今回が特殊なの。もっと普通の……“本当に困った”だったら、あんな奴より断然千夏に相談するんだから)
 そう、今回のこのケースだけは千夏よりもあの男の方が適任だと思える。他の事にはまるで役にたたないくせに、こと報酬に“おっぱい”が絡んだ時のあの男だけは侮れないということを、妙子はさんざんに思い知っている。ありとあらゆる手段を用いても外せない、もはや摩訶不思議な力によって封じられているとしか思えないこの首輪ですらも、あの男ならばという期待を抱いてしまうほどに。
「っっ…………あんな奴、絶対、頼りたくなんかない、のに…………」
 このまま生き恥を晒して生きるくらいならば、まだあの男を頼る方がマシだ。口止めについても、胸を触らせてやるから誰にも喋るなと言えば十分だろう。普通の人間に口止め料として一億円を払うよりもその方が遙かに信用できると、そういう意味では――事、おっぱいが絡んだ時だけは――世界中の誰よりも妙子は紺崎月彦という男を信用していた。
 とはいえ、やはり月彦を頼るというのは苦渋の決断であることは変わりがない。まるで己のプライドそのものを噛み潰すかのようにぎりぎりと歯を食いしばりながら、妙子は携帯電話を手にとり、紺崎家の番号を入力する。もはや日も落ちた、明日にしたほうがいいのでは――などとは微塵も思わなかった。一秒でも早く、この忌々しい首輪を外したかった。
「…………あっ、もしもし……葛葉さんですか? 妙子です………………あの、月彦くんに代わってもらえませんか?」


…………。
………………。
 覚悟は決めた筈だった。しかしそれでも直に口に出して助けを求めるのは、躊躇いを禁じ得なかった。
『……わかった。今どこに居る、家か?』
「う、うん……あっ、待――」
 返事を聞くや、通話はすぐに切られてしまった。ため息混じりに妙子は肩を落とし、携帯をしまう。
 賽は投げられた。もはや後には引けない。あとは、あの男が奇跡を起こしてくれることを祈るだけだ。
 緊張のためか、鼓動が早くなるのを感じる。そういえば月彦と直に顔を合わせるのは久方ぶりだ。
「………………一応、お茶くらい用意しといたほうがいいのかしら」
 いつもとは違い、こちらから請うて招くわけだから、最低限のもてなしの準備は居るのではないか。渋々ながらも妙子は再度、コーヒー用の湯を沸かし始める。
 ぴんぽーんと、インターホンが鳴ったのはその時だった。
「……こんな時に……」
 思わず首元に手がいく。いくらなんでも月彦が来るには早すぎる。新聞の勧誘か何かだろうが、さすがにこの格好では出ることは出来ない。無視して息を潜めていると、どんどんとドアを叩く音が聞こえた。
「妙子! 大丈夫か!」
「月彦!?」
 そんな馬鹿なと、我が耳を疑った。電話をかけたのはついさっきのことだ。携帯ではなく自宅への電話だから、あの男が家に居たのは間違いない。家同士はそこまで離れていないとはいえ、三分とかからず来れるほどの距離でもない。それこそ、電話を切った直後に家を飛び出し、たまたま家の真ん前で休憩していた不正改造済みのタクシーにでも飛び乗らない限りは――
「って、驚いてる場合じゃないわ」
 早く出なければ、ドアの前であの男が大騒ぎをするのは必至だ。妙子は慌てて玄関に駆け寄り、鍵を外そうとして――
「……――っ……」
 さすがにいきなりこの首輪を晒すのどうかと躊躇い、いったん部屋の方へと戻って首にマフラーを巻き、改めてドアの鍵を開ける。
「おおっ……た、妙子…………無事、だったか…………わ、悪い……ちょっと、息、整えさせてくれ……」
 ドアを開けるなり、月彦はほっと顔を綻ばせ、ぜえぜえと肩で息をしさらにげほげほと噎せながらその場に崩れ落ちる。
「あんた……走って来たの?」
 ありえないと、妙子は思う。きちんと計ったことはないが、このアパートと紺崎家の距離は直線距離にして一キロより少ないということは絶対にない。ましてや、“道”で計れば二キロに届くかもしれない。途中には当然信号も交差点もあるというのに、この男は三分とかからずに駆けつけてきたというのか。
(…………何よ、ちょっと…………嬉しいじゃない)
 微かに胸の高鳴りと共に、妙子は昼間の和樹の言葉を思い出していた。『妙子が本気で悲鳴を上げたら、俺よりも先に月彦のやつが駆けつけてくる』――和樹の言葉が、あるいは本当にそうかもしれないと、半ば本気で思えてくる。
「はーっ……はーっ…………よし! もう大丈夫だ! それで、俺は何をすればいいんだ?」
「あっ……うん……ええと………………って、あんた、その手……」
 しまったと、妙子は思わず自分の頬をぱちんと音が鳴るほどに打った。そういえば、この男は今、利き腕を負傷していたのだ。月彦の首から釣られた見るからに痛々しい三角巾に、己の迂闊さを呪いたくなる。
「ああ、これか? ちょっと今脱臼――と、あと捻挫しててな。左手しか使えないんだが……」
「右手……はまったく使えないの?」
「まったくってわけじゃないけど……重い物持ったり動かしたりとかはちょっと厳しいかな」
 その状態で走ったりすれば、当然”痛い”では済まされないだろう。事実、月彦の顔には明らかに走って来た為ではない脂汗がにじみ出ており、心なしか顔色すらも良くないように見える。
(…………こんな状態の相手に、助けを求めるなんて……)
 なんて浅はかだったのだろう。百歩譲って、せめて自分から――もちろん首元は隠して――訪ねるべきだったのだ。月彦相手だから、電話で呼びつけるのが当然くらいに思っていた自分の思い上がりを、妙子は恥じた。
「…………ここじゃ何だから、とりあえず入って」
「お、おう…………あっ……」
 今度は月彦がしまったという顔をし、足下を見る。遅れて妙子も気づいた。
「……あんた、靴……」
「わ、悪い……慌てて飛び出して来たから……」
 月彦は靴を履いていなかった。それどころか、履いてる靴下すらもボロボロに破けていた。……ずきんと、胸の奥が痛む。本当に、電話を切るなり全力で駆けつけてくれたのだ。
「……ちょっと待ってて。拭くもの持ってくるから」
 妙子は一度部屋の中に入り、湿らせたタオルを手に戻る。
「あっ、妙子……自分でやるから……」
「いいから。あんた右手使えないんでしょ」
 足を上げさせ、破れた靴下を脱がせてタオルで優しく拭いてやる。足の裏の皮膚が破れて血が吹き出している――というようなことは無く、一安心しながら両足を交互に拭き、玄関マットの上へと上げる。
「…………今、コーヒーを淹れるから、先に炬燵に入ってて」
「ん? そりゃいいけど……あぁ、別に急ぎってワケじゃなかったのか……?」
「……ごめん。先に伝えられたら良かったんだけど、急ぎではないの。……もちろん、いつでもいいってわけでもないんだけど……」
「なんだ……そうだったのか……。悪い、俺が勘違いしてた。妙子が俺に助けを求めてくるなんて、よっぽどヤバいんだって、勝手に思っちまった」
 漸く一安心したとばかりに月彦は安堵の息を吐いた。
「…………コーヒー、あんまり苦くない方がいいんだっけ?」
「まぁ……そうだな。どっちかといえば…………でも、面倒ならブラックでもいいぞ?」
「……別に、ミルクも砂糖も余ってるから入れとくわ」
 二人分のコーヒーカップを手に、居間へと戻る。戻って、再び妙子は――両手がふさがっていなければ――あちゃあと、頬を叩くところだった。
「ごめん、先に片付けてから呼ぶべきだったわ」
「あぁ……なんか散乱してるな」
 月彦の前にコーヒーカップを置き、向かい合う形で炬燵へと入る。妙子がコーヒーに口をつけると、真似でもするように月彦も口をつけた。
(…………大急ぎで来てくれたのは正直嬉しい……けど……)
 果たして、いくらなんでも“この状態”の月彦に相談して良いものかどうか、妙子は判断に苦しんだ。助けを求める前は、紺崎月彦ならばという期待を抱いたが、いざ実物を前にすると「……この冴えなそうな男を頼って大丈夫かしら?」という気にさせられるのだ。ましてや、片腕が使えないとなれば、ただの犬の首輪ですらも外すことが出来ないのではないか。
(でも……こんなに急いで駆けつけてもらって、やっぱり帰ってなんて……)
 それはそれで人としてどうなのかという気がする。かといって呼んだ理由を素直に打ち明けたところで、どうにもならないのではないか――妙子は文字通り頭を抱えた。
「……えーと……とりあえず、何に困ってるのか言うだけ言ってみてくれないか? ひょっとしたら、役に立てるかもしれないし……」
 まるで、自分が役立たずであることを自覚しているかのような言葉に、いつもならば苛立つことはあっても同情など微塵も感じないのに。今日に限っては胸の奥に痛みすら感じるのは、見るからに痛々しい右腕を目の当たりにしているからだろうか。
「そ――う、ね……折角、来てもらったんだし…………相談するのが、礼儀……よね」
「おう! 折角来たんだからな、何かしら役には立ってみぜるぜ!……痛てて……ま、まぁ……左手だけでなんとかなることならな!」
「…………左手だけじゃ、難しいかもしれないわ」
「そ、そうなのか? ひょっとして力仕事なのか?」
「力は……そんなにはいらないかもしれないけど……普通は両手でやることだから」
「両手――か……」
 妙子は首元に巻いているマフラーへと手を宛がう――が、どうしてもマフラーそのものを取り去る勇気が出ない。
「…………ひょっとして、そのマフラーが関係してるのか?」
「まぁ、ね。…………首につけた“あるもの”がどうしてもとれなくって……」
「首に…………ネックレスとか、チョーカーとかか?」
「……うん」
 妙子は控えめに頷く。
「…………そういうことなら、確かに両手が使えないと厳しいかもな……。俺じゃなくて千夏とかのほうが良かったんじゃないか?」
「……ごめん。あんたが今利き腕怪我してるって知ってはいたんだけど、ちょっと気が動転してて……」
「そ……っか。わかった……まあ、そういうことなら悔しいけど、俺の出番はなさそうだな」
「……待って! 確かに、両手が使えないと厳しいとは思うけど……だけど千夏でもダメなの。それは……間違い無いわ」
「どういうことだ?」
「普通にやってとれるものなら、自力でとれてるもの。……“普通”じゃ絶対無理だと思うから…………だから、あんたならひょっとしたら……って」
「ちょ、ちょっと待て! 一体何があったんだ? 普通じゃ絶対無理って…………いや、そもそもなんでそれで俺ならなんとかできるって思ったんだ?」
「なんでって…………なんとなく、よ。ほら、あんたって……こと“おっぱい”が絡んだ時だけありえない力発揮するでしょ。あんたのそのワケわかんない力なら、ひょっとしたら――って思ったのよ」
「いや、そりゃ場合に寄りけりっつーか…………てことは、その首についてとれないってモノを巧く引っぺがせたら――」
 ごくりと、生唾を飲む音が妙子の耳にまで届く。……やれやれと――最初からわかりきっていたことではあるが――妙子は小さくため息をついた。
「…………そうね。もしあんたが本当にこれを取る事が出来たら、胸くらいいくらでも触らせてあげるわ」
「いくらでも? 今いくらでもって言ったか?」
「言っとくけど、常識の範囲内で、よ!」
「いや待て、後でしらばっくれられても困るからな。ここはいつかみたいに明確に線引きを――」
「ああもう……じゃあ、あんたが触りたい時にいつでも三十分だけ触らせてあげるわ。これでいい?」
「三十分か…………服の上からか?」
「………………………………………………直接でもいいわ」
「マジか。……てことは、よっぽどなんだな」
 三十分、直に揉んでもいい――その条件を伝えただけで、月彦はまるで事の重大さを察したように真剣な顔をする。こういうところが、この男は侮れないと妙子は思う。
(……全く、どんだけおっぱい好きなのよ)
 さながら、一流の殺し屋が報酬の金額で依頼されるミッションの難易度を察するかの様に。むううと眉根を寄せてうなる月彦の顔は真剣そのものであり、経緯を知らぬ者が見ればさぞすさまじく重大な案件について思案中だと勘違いするに違いない。
「…………“成功報酬”については解った。全力は尽くす。…………まずはそのマフラーを取って、何がどういう状態なのか見せてくれるか」
「それは…………ごめん。やっぱり一つだけ条件を追加させて」
「条件?」
「その……出来れば、目隠しをしたまま取って欲しいんだけど」
「目隠し!? なんでまた……」
「それは……言えないわ。目隠しをしたままならどうしても無理ならしなくてもいいけど……だけど、目隠ししたまま何とかしてくれるんなら、三十分じゃなくて一時間でもいいとだけ言っておくわ」
 むうと、月彦が再度唸る。
「……………………よし、解った。そういうことなら是非もない。まずは目隠しをしたまま挑ませてくれ」



「…………これで見えない?」
「ああ。ばっちり見えない」
 アイマスクの上からさらにタオルを巻き、とどめとばかりに黒のポリ袋を顔の上半分に巻いたその姿はマヌケそのものだが、もちろん妙子は笑ったりはしない。
「……じゃあ、マフラーとるわよ」
 おそるおそる、妙子はマフラーを取り去る。自分の名前入りの首輪をつけているとかいう、生き恥そのものの姿を――目隠しをしているとはいえ――この男の前で晒すことになるとは。
(…………っ……見えてないって解ってても……これは、屈辱……だわ)
 ある意味、まだ裸を見られる方がましかもしれない。妙子は小さくため息をつく。
「……んじゃ、とりあえず触っていいか?」
「ん」
 月彦の方を向き直った瞬間、唐突にむんずと右胸がわしづかみにされる。
「……へ?」
「あっ、間違え――」
 最後まで喋り終える前に、妙子は月彦の左頬に右ストレートをたたき込んでいた。
「どういう間違いよ! てゆーかあんたひょっとして本当は見えてるの!?」
「み、見えてないぞ! ばっちり真っ暗闇だ!」
「嘘ばっかり! 何の迷いも無く左手でしっかり掴んでたじゃない!」
「いや、そりゃあ妙子のおっぱいだからな。こんだけ近い距離なら、どこにあるかくらい見えなくても解るぞ」
「……ちょっと待って。あんたが何言ってるのか全然解らないんだけど」
 妙子はじいいと、月彦の顔半分を覆っているポリ袋を凝視する。こうして見る限り、穴など空いてないようにみえる。そもそも、その下にはタオルが巻かれ、さらにアイマスクも装着しているのだ。
 常識的に考えて、見えるわけはない。
「…………ちょっと、もう一回試してみて」
「試す?」
「そのまま、触ってみて」
「……触っても殴らないか?」
「殴らないから、ほら」
 胸を反らすと、月彦が左手を寸分の狂いも無く胸元へと伸ばしてくる。――が、妙子は中腰のまま後退し、その手をかわす。
「おい、なんで避けるんだ!」
「なんで避けたってわかるのよ! やっぱりあんた見えてるでしょ!」
「見えてねえよ! 見えてねーけど、おっぱいの位置くらい解るってさっきから言ってんだろうが!」
「見えてないのに解るわけないでしょ!」
「そもそも、“これ”で見えるわけないだろ!」
 月彦が自分の顔半分を指さす。これには妙子も反論出来なかった。
「………………まさか、本当に解るっていうの?」
「さっきからそう言ってるだろ」
 さも当たり前のことのように言う月彦に、妙子は目眩を禁じ得ない。
(…………こういうのも“特技”って言うのかしら)
 世の中にくだらない特技はそれこそ星の数ほどあるだろうが、その中でも一際くだらない特技ではないだろうか。
「……って、そうじゃなくって……あんたのくだらない特技のことはどうでもいいの。とにかく、“これ”を早くとって欲しいのよ」
 また間違えたフリで胸を掴まれては堪らないと、妙子は月彦の左手を掴み、”これ!”とばかりに首元へと誘う。
「なんだこりゃ…………首輪か?」
「そう。昔飼ってた犬の遺品の首輪よ。……私の首とどっちが太いのかなって試したらとれなくなっちゃったの」
「………………。」
「ちょっと、黙らないでよ」
「いや…………だって………………吹き出したら、殴るだろ?」
 月彦は声を引きつらせ、“マスク”の下ではきっと頬もぴくぴくさせていることだろう。問答無用で殴りつけてやろうかと思って――しかしさすがに助けてもらう身として、妙子は自重した。
「ああもう! 自分が一番よく解ってるわよ! ええそうよ、バカなことしたってメチャクチャ後悔してるし、こんな姿誰にも見られたくないって思ってるわよ! だから目隠しさせてるの、わかった!?」
「……悪い。確かにふざけてつけた首輪がとれなくなったんなら、笑い事じゃないよな。…………これ、本当にとれないのか?」
「少なくとも自力では無理だったわ。金具は最初からそういう形で削り出されたみたいにぴくりとも動かないし、皮のベルト部分もものすごく堅いゴムみたいな感触で、鋏で切ることも出来ないの」
「一応、俺が試してみてもいいか?」
「どうぞ。はい、鋏。…………間違っても髪を切ったりするんじゃないわよ?」
「って言われても見えないからなぁ…………間違えて切らないように、きちんと掻き上げといてくれ」
 確かにそれは月彦の言う通りだと、妙子は両手でポニーテールもろとも後ろ髪を掻き上げ、鋏の邪魔にならないようにする。
「……なんだこれ。本当に皮のベルトか? 全然切れねえ」
「でしょ。金具も外れないし、本当にお手上げなの」
「これ……中に針金が入ってるとか、そういうんじゃないよな。触った感じは本当にただの皮のベルトだ。それなのになんで切れないんだ」
「そんなの、こっちが聞きたいわよ……」
「一度つけたら外せないなんて……なんかの呪いでもかかってんじゃないのか」
「呪いって……そんな――」
 非現実的な――という言葉を、妙子はぐっと飲みこむ。非現実というなら、そもそも首輪が外れないこと自体が非現実だ。
「そもそも、これはうちで飼ってた犬の遺品なのよ? 呪いだなんて……」
「まぁ、そうだよなぁ……うーん……」
 腕組みをする月彦に、妙子は軽い落胆を禁じえなかった。紺崎月彦ならばあるいはという期待は見事に裏切られたが、しかしそれで月彦を責めるのも酷というものだろう。
 こんな常識外の代物をなんとかしろというのがそもそも無理な話なのだから。
「………………なぁ、妙子。一つ気になったんだが」
「何よ」
「これ、遺品の首輪って言ったよな?」
「そ。ラブラドールレトリバーのメスで、名前はラクシャサ。あんたは覚えてないだろうけど――」
「ああ、あのでっかい犬か。散歩の時も全然言うこと聞かなくてグイグイ引っ張られまくってたな」
「…………うそ、あんた覚えてるの?」
「覚えてるもなにも、お前一人じゃ引っ張られて危ないからって、俺が一緒に散歩に行ってやってたじゃないか」
「……そうだったかしら」
 妙子は記憶を探る――言われてみれば、誰かと一緒に散歩をしていたような気がした。それが月彦だったかどうかまでは思い出せなかった。
「で、確か散歩中に車に撥ねられたんだっけか………………………………ふむ」
「車に撥ねられたからどうだっていうの?」
「いや…………妙子、ひょっとして――お前、恨まれてるんじゃないか?」
「恨まれてる……私が!?」
「だから首輪が外れないって考えればしっくりくる気がするんだが」
「ちょっと待って。確かにあの子は私には全然なついてなかったけど、だからって――」
 私が殺したわけでもないのにと、妙子は憤慨する――が、確かに月彦の言う通り、恨まれているのだと考えればこの不可思議な状況にも納得がいく……気がしなくもない。
「そんな……嘘でしょ…………どうして……」
「いや、まぁ……あくまで可能性の一つだとは思うけどな」
「じゃあ仮に、あの子が私を恨んでるから首輪が外れないんだとしたら…………どうすれば外れるの?」
「そりゃあ……普通に考えたらやっぱりお祓い……じゃないか?」
「……お祓い…………」
「先に言っとくけど、俺にはお祓いなんて出来ないからな」
「解ってるわよ! ……でも、こんな姿を見ず知らずの人に見られるのは絶対に嫌なんだけど………………他に方法はないかしら」
「他の方法なぁ………………あるっちゃあるんだが…………」
「何よ、あるならもったいぶらずに言いなさいよ」
「いや……でもなぁ…………」
「ねえ月彦。私本当に、ほんとーーーーーーに困ってるの。この首輪を外してくれたらちゃんとお礼はするから……」
「いや、俺も外してやりたいんだが……妙子、“その姿”を誰にも見られたくないんだろ?」
「当たり前でしょ。こんな姿、親にだって見せられないわ」
「一応、俺の知り合いに“そういうの”に詳しい人が居るんだよ。でも、見られたくないなら仕方ないな。そっちは最後の手段ってことにして、まずは正攻法を試してみるか」
「何よ、正攻法って……まさか、あんたがお祓いするっていうの!?」
「素人がやって効果があるならそれもアリだけどな。それよりなにより、まずは妙子。お前が謝るのが筋じゃないか?」
「私が!?」
「もし本当に恨まれてるんだとしたら、妙子がきちんと謝罪するのが一番効果あるんじゃないのか?」
「う…………わ、わかったわよ………………ラクシャサ、ごめんなさい」
 なんで私がという気持ちをぐっとこらえて、妙子はぺこりと頭を下げる。下げた後で、首輪の金具に触れてみる――が、相変わらずびくともしない。
「月彦、ダメみたいなんだけど」
「ちゃんと心がこもってないからじゃないか?」
「……くっ……人ごとだと思って………………ごめんなさい、ラクシャサ。ちゃんと供養するから、私を許して」
 妙子は可能な限り真摯に、真剣に謝罪をする――が、やはり金具はびくともしない。
「ダメか………………ひょっとすると、恨んでるわけじゃないのかもな」
「……は?」
 独り言のような月彦の呟きに、妙子は思わず声を裏返らせた。
「いやほら、あの犬ってめっちゃくちゃ散歩好きだったろ? 俺たちがくたくたになって家に帰ろうとしても、もっと散歩したい散歩したいってグイグイ引っ張ってたじゃないか」
「…………ちょっと待って。あんた、まさか――」
 うむと、月彦が大きく頷く。
「ひょっとしたら、恨んでるんじゃなくて単純にこの世に未練があるだけかもしれない。満足するまで散歩してやれば成仏して、首輪が外れるかもしれないぞ」


 妙子は、悩んだ。頭を抱え、そのまま小一時間悩んだ。何か、何か他に有効と思える手段はないものか、必至に知恵を振り絞った。
 物理的な手段で外すことがほぼ不可能であるということは、なにより妙子自身が思い知っている。では“物理的ではない手段”でのアプローチが必要ではないかというのは、納得出来なくも無い考え方だ。首輪が何故外れないのかは分からないが、仮にラクシャサの執念――あるいは未練によって封じられているのだとすれば、それを解消してやれば外れるという月彦の話も、正直分からなくもない。
 そういう意味では、その小一時間は思案をしていたというより覚悟を決める為に必要な時間だったとも言える。
「本当に……ほんとーーーーにこれで首輪は外れるの?」
「そんなの俺にも解るわけないだろ。解らないから、試すしかないんだ」
「くっ……だからって、こんな…………」
 ぎりぎりと妙子は歯を食いしばる。首輪の上から再びマフラーを巻き、さらにダウンジャケットを着込んではいるが、その裾から伸びたリードは月彦の手へと握られている。
(なんで……こんな目に…………)
 首輪をつけた姿そのものを見られたわけでもないのに、妙子は羞恥と屈辱で顔から火が出そうだった。首輪をつけられているというだけで人間としての尊厳を著しく傷つけられているというのに、その上首輪をリードにつながれ、それを月彦に握られているのだ。
「ねぇ……せめて、リードは外さない?」
「でもそれじゃあ散歩にならないんじゃないか?」
「犬だったら……繋がないといけないけど…………私は別に逃げたりしないんだし……」
「まぁ、妙子がどうしても嫌だってんなら俺も無理にとは………………でも、それで外れなかったらどうするんだ?」
「でも、リードをつけて散歩したからって外れる保証もないんでしょ?」
「どうかな。…………俺はこういうことって、結構“形式”が大事だと思うけどな。ラクシャサって犬が妙子のことを恨んでるのか、それとも単純に未練があるだけなのかわからないけど、どちらにせよ飼い主である妙子が歯を食いしばって自分のために体を張ってる姿を見せてやれば、悪い様にはならないと思うけどな」
「本当にそう思う? 絶対外れるって、あんた保証してくれる?」
「いや、だからそれは……でもほら、墓参りだって、故人が好きなものを備えたりするだろ? 生前好きだったことをやってやるっていうのは、弔いにはなるんじゃないか」
「…………っっっ………………ゎかった、わよぉ……あぁもう……ほんと最悪…………こんなの、千夏にも絶対言えないわ…………」
「俺も誰にも言わないから安心しろって。……んじゃ早速行くか。夜だし、そこまで人も多くないだろ」
「ちょ、ちょっと待って! せめて、もう少し待ってから行かない? まだ八時過ぎだし……もう少し遅い方が人も少ないんじゃないかしら」
「人は減るだろうけど、別の危険も増えるんじゃないかな。…………たとえば、見回り中の警官に呼び止められて職質されたりとか」
「ちょっ……こ、怖いこと言わないでよ! そんなの、絶対無理だから!」
「まぁそうなったら、“プレイ中なんです、悪いですか”ってしらばっくれるしか……」
「冗談じゃないわよ! そんなことになるくらいなら――」
「じゃあ、止めるか?」
「うううぅぅぅ……………………」
 悔しさと情けなさで涙が出そうになる。自分の人生は本当に、この男に犬扱いされてまで守る価値があるのだろうかとすら、妙子は思う。
「ほら、行くぞ、妙子」
 しかし、月彦にリードを引かれる形で外へと出る足取りは不思議な程に軽かった。
「とりあえず、先にうちに寄るぞ? 借りたサンダルじゃ歩きにくくて仕方ないからな」「解ったわよ。…………もし、葛葉さんと鉢合わせそうになったら私は逃げるからね」



 葛葉と鉢合わせるかもしれないという妙子の懸念は、幸いにも回避された。紺崎邸で月彦は自分の靴に履き替え――ちゃっかり靴下も新しいものに履き替えたらしい――そのまま今度は旧白石邸へと向かう。月彦に言わせれば、やはりここがスタート地点としてふさわしいとのことだが、妙子の胸中は複雑だった。
(……もう、誰か住んでるんだ…………)
 自分が長年住んでいた家に、別の家族が住んでいる――見慣れない表札のかかった“自宅”を見ていると、不思議な感慨に襲われる。何となくだが、あまりこの場所に長居をしたくないと、妙子は感じた。
「じゃあ、行くか」
「そ、そうね……」
 歩き出す足取りは、やはり軽い。それにどこか心も浮き立つようだった。
(…………本当にラクシャサが喜んでいるみたい)
 しっかりと自身を御していなければ、今にも走り出しそうなくらいに。やはり散歩をして未練を断ち切ってやれば首輪がとれるという月彦の説もあながち的外れでは無いという気がしてくる。
「かはっ……」
「た、妙子、大丈夫か!?」
 気をつけてはいた筈だが、知らず知らずのうちに歩く速度を上げてしまっていたらしい。リードの余裕を使い切ってしまい、途端に首輪がつっかえて妙子は足を止めた。
「……ごめん、ちょっと歩くのが速すぎたみたい」
 月彦に落ち度はないと、妙子は軽く噎せながら微笑を返す。そもそも、ダウンジャケットの下を通している為、リードにはほとんど余裕はないのだ。プラス、少しでも人に見られないようにと、月彦にも出来るだけ紐が人目につかないように短めに握ってもらっている。
 しっかりと歩調を合わせなければ、たちまち首輪が喉につかえるのは当然のことだ。
(…………まるで、本当の“散歩”みたい)
 妙子が歩くのはきっかり月彦の左ナナメ前。距離は一歩〜一歩半ほど。立場は逆だが、かつて犬たちを散歩させていた頃のことを思い出し、妙子は懐かしいとすら感じていた。
(って! 違うでしょ! こんなの絶対にあり得ないんだから!)
 散歩させられているのは自分で、しかもそのリードを握っているのは月彦なのだと。懐かしいどころではない、恥辱そのものの状態だと妙子は頭を抱えようとして――人目をはばかって止めた。
 が、しかしこの状況に心が浮き立っているのも事実。あるいは“これ”が散歩に連れて行ってもらえている時の犬たちの気持ちなのだろうかと納得すると同時に、“これ”に流されてはいけないと、妙子は歯を食いしばる。
「……そういえば、さ」
「ん?」
 浮き立つ心、陶然としてしまいそうになる気持ちを押し殺しながら。妙子は口を開いた。押し黙ったままでいるよりも、その方が気が紛れると思ったからだ。
「今日……学校の友達――佐由と和樹とでフリマに参加したんだけど……」
「あぁ、和樹から話は聞いてたぞ。……どんな感じだったんだ?」
「……そうね。あの二人、あんだけ息ぴったりなら付き合っちゃえばいいのに、って思ったわ」
「倉場さんと和樹がか!? …………想像出来ないな」
「……まぁ息ぴったりだったのは、二人とも私をからかって楽しんでたからってのもあると思うけど…………」
「ははっ、それは仕方ないかもな。初対面の和樹と倉場さんにとって、共通の話題は妙子のことしか無いんだから」
「………………ちなみに、あんたの話もかなり出てたわよ?」
「……まぁ、多分良い意味じゃなさそうだから、それは聞かないでおこう」
「どうかしら。………………ねえ、ちょっと訊くけど、あんたは和樹と喧嘩したときのこと覚えてる?」
「和樹と喧嘩……? ……………………あーーーっ、そういやあったな。和樹のやつが妙子の胸触って泣かせた時だ」
 うぐと、妙子は口の中で唸った。和樹だけでなく、この男ですら覚えていることを、自分は覚えていなかったということが、少なからず恥だと感じる。
「懐かしいなぁ。確かまだ小学校入ったばっかりの頃だろ」
「そ、そうね……私は、自分が泣いたことなんて覚えてなかったんだけど……」
「がっつり泣いてたぞ? ”つきひこしか触っちゃダメなのにー”ってな。いやぁ、あの頃の妙子は本当に可愛かったなぁ、うん」
「んなっ…………わ、私がそんなこと言ったの!?」
「言った。間違いない。妙子のその一言で俺はなけなしの勇気を振り絞って高学年みたいな体格してた和樹に殴りかかったんだから、忘れるわけがない」
 うむりと頷きながら真顔で返され、妙子は目眩を覚えた。
「…………てゆーか、今はともかくとして……あの頃なんて……まだ全然膨らんでもなかったのに……あんたも和樹もなんで……」
「もちろん、俺は妙子のことがずっと好きだったからな。おっぱいに触りたいってのは至極当然だろ」
「…………っ……何が、当然よ……こっちはいい迷惑だわ」
 そう、迷惑――本当に迷惑だと、妙子はダウンジャケットの上から自分の胸元へと視線を落とす。この男に気に入られたばかりに、こんな重荷まで背負うはめになったのだから。
(……揉まれたから、大きくなったなんて……思いたくないけど……)
 自分の体の一部が、この男の欲望のままに余計な成長をさせられたなどと思いたくはないが、しかし亡き母の胸元を見る限り少なくとも遺伝で大きくなったわけではないことは確実だ。
(あんたが大きくしたんだから、責任をとって小さくしろって、言ってやりたい……けど)
 そんな“口実”を与えれば、この男は嬉々として承諾し、小さくするためと言い張ってそれこそ鬼の首でも取ったかのように揉みまくることだろう。もちろん、揉まれて大きくなったものが、揉まれて小さくなるわけがない。
(…………どうして、私なのよ……)
 たとえば佐由のように”そんなに私に執着してくれるのなら”と考える女子であれば、それこそ女の側も月彦の方もどちらも幸せになれるだろうに。何故自分なのかと、妙子は問わずにはいられない。
「……そういや妙子、何となくてきとーに歩いてきちまったけど、散歩ルートはこれでいいのか?」
「ん」
 言われて、妙子は気づく。胸について考え事をしながら無意識に歩き続けてきたが、ちゃんと“いつもの散歩コース”を辿っていたことに。
「そうね……こっちで合ってるわ」
「そっか。よく覚えてるな……俺もたまに一緒に行ってた筈だけど、ルートまでは覚えてないな……妙子、どうかしたか?」
 気づくと、足が止まっていた。じぃぃと、妙子は眼前の電柱を見つめる。
「…………何でもないわ。行きましょ」
「……?」
 妙子自身、何故自分が足を止め、電柱が気になったのかが解らない。再び歩き出すと、月彦もそれに続く。
(…………視線を感じる気がするのは、気のせいかしら)
 まだ宵の口ということもあり、人目はそれなりにある――が、どうも視線を集めている気がしてならない。思わず妙子はマフラーがちゃんと装着されているかを触って確かめる。
(……リードも、多分見えてない筈……なんだけど)
 周囲から見えないように、月彦との位置取りにも気をつけている。――が、そこまで考えてハッとする。
 むしろ”その位置取り”こそが人目を集めているのではないかと。
「ん? どうかしたのか?」
 思わず、月彦の方を振り返ってしまう。横に並ぶでもなく、かといって離れるでもなく。さながら“機嫌を損ねて家を飛び出した彼女の後ろを、謝りながら着いてきている彼氏”というような位置取りに――偶然とはいえ――なってしまっているのではないか。それが人目を引いているのではないか。
「…………ちょっと、この位置関係が人目を引いてる気がするんだけど」
「あぁ、俺もなんか見られてる気がするなーって思ってたんだが……気のせいじゃなかったか」
「…………横に並んだ方がいいかしら」
「でもそうすると……コレが多分邪魔になるぞ」
 と、月彦がリードを軽く上下させる。
「……………………裾から出すんじゃなくて、いっそ袖を通せば……」
「そうか、んで手も繋げば完全に隠せるな」
「…………。」
「……い、いや……別に手を繋ぎたいとか、そういうわけじゃなくて……あくまで提案っていうかだな……」
「…………確かに、リードを隠すっていう点においては、名案と言えなくわね」
 妙子はしばし考える。今のままでいることのメリットデメリットと、横に並び手を繋ぐことにより発生するメリットデメリットを。
(…………喧嘩してるカップルとみられるか、仲の良いカップルと見られるかの違いってことよね…………)
 なんというひどい二択だろうか。横に並んでもせめて手さえ繋がなければ、カップルに見えるとは限らないというのに。
「ねえ、月彦……あんたは――」
 “そういう仲”に見られてもいいのか――直に尋ねようとして、妙子は途中で口を噤んだ。答えが決まり切っている質問をすることは愚の骨頂だ。
 妙子は黙って首を振り、一度右手を袖の中へと戻した。
「…………あんたの言う通りにするわ。リードをこっちに渡して」
「お、おう…………いいのか?」
 答えず、妙子は黙ってリードを握ったまま再度袖を通し、そのまま月彦の手を握る。
(…………“これ”でも散歩っていうのかしら)
 むしろこれはデートと呼ばれるものに類するのではないか――予想よりもずっと冷たかった月彦の手を握りながら、そんな状況を昔ほど嫌だとは感じていない自分に、妙子は少しだけ驚いていた。



 

 一時間半ほどかけて、“いつもの散歩コース”を三週した後、自宅アパートの前へと戻って来た。さすがに両足がくたくたで、妙子は室内に入るなりほとんどへたり込むようにして炬燵の前へと座った。
(……もうちょっと運動したほうがいいかもしれない)
 犬たちと離れて暮らすようになり、当然散歩の機会も無くなった。少なくとも以前であれば、ほんの十キロ程度歩いただけでここまで足が萎えることはなかった筈だ。
 とはいえ、“一頭分”の散歩の距離としては十分過ぎる。そういう意味では、妙子の心は達成感で一杯だった。
「これだけ散歩すれば……さすがに“未練”も晴れたんじゃないかしら」
 てっきり「そうに違いない」といった返答が来るものとばかり妙子は思っていた。が、振り返った先にあった月彦の顔は小首をかしげそうなほどの渋面だった。
「…………どうかな。巧くいくといいけど」
「何よ、あんたが言い出したことでしょ? なんでそんなに自信無さそうなのよ」
「いや、そうなんだが……何か大事なことを忘れてる気がするんだ」
「大事なことって?」
「………………いや、多分気のせいだ。とりあえず首輪がとれるかどうか試してみるか。……っと、目隠しだったな」
「……それ、もういいわ。なんか……今更だし」
 歩き疲れたからだろうか。首輪を直に見られること自体“今更”な気がして、妙子は小さく首を振りマフラーを外す。外した後で、はたと気づく。
(あっ……別に、無理にこいつに外してもらわなくても……)
 先ほどまでの散歩で本当にラクシャサの霊魂(のせいなのかどうかは、未だに妙子は半信半疑だが)が満足したのだとすれば、月彦の手を借りなくても首輪は外れる筈では無いか。
 が、それを試す事すらもなにやら億劫で、妙子は月彦に背を向けたままぐいとポニーテールを持ち上げ、さあ外せとばかりに促した。
「…………………………外れない、な」
 が、数分間首輪をいじり続けた月彦の言葉に、妙子は再び絶望のどん底へとたたき落とされた。尚も諦めきれず今度は自分の手で首輪を外そうと試みるが、月彦の言葉通りまったく外れなかった。
「…………あんなに歩いたのに、無駄だったってコト?」
 徒労感が絶望に混じり、さらに溜息を呼ぶ。人目が無ければ、このまま泣き寝入りたいくらいだった。
「…………悪い、妙子。俺が言い出したことだったけど、途中から薄々これじゃあダメなんじゃないかって思ってたんだ。………………てことは、やっぱりそうなのか」
「あんた、そういえばさっきもそんなこと言ってたわね。…………一体何がダメだったっていうの?」
「いやほら……その首輪の持ち主……っていうか持ち犬って、確か妙子の言う事全然聞かなかったんだろ? 俺も散歩の時すっげー苦労させられたの覚えてるし」
「そうね……私だけじゃなくてお父さんの言う事も聞かなかったけど……自分が一番偉いって思ってるみたいだった」
「そういう風に思ってる犬が、妙子がどれだけ頑張ったからって、感謝なんかするかな。むしろ、ますますつけあがるんじゃないのか?」
「そ――うかしら……。確かに犬の躾のやり方としてはベターじゃないわね」
 相手が普通の犬ならだけど――と、妙子は小声で付け加える。
「て、ことはだ。今やらなきゃいけないのはその犬の躾なんじゃないのか?」
「躾って……確かにそれが出来ればいいけど、ラクシャサはもう何年も前に――」
「でも、今は“そこ”に居るんだろ?」
 月彦が指さす先――首輪へと、思わず手を這わせる。居る――のだろうか。妙子自身未だにこの超常現象については半信半疑だったが、先ほどの散歩中の妙にふわふわと浮き立つような感覚は、少なくとも自分以外の“何か”の感覚が流れ込んでいるかのようだった。
「って! ちょっと待って! あんた、まさか――」
「察しがいいな、さすが妙子だ。…………つまり、妙子の体を通してその女王様気分なメス犬を調教――じゃなかった、躾けてやれば、首輪もとれるんじゃないか?」
「い、嫌よ! そんなの絶対に嫌! これ以上犬扱いされるくらいなら――」
「死んだほうがマシ――か?」
「ぐぅ……」
「それとも妙子、“俺の知り合い”に頼んでみるか? ただ、その人も“そういうの”に詳しいっちゃ詳しいけど、確実に外せるかどうかは解らないぞ」
「そ、それでも……あんたに犬扱いされるよりは――」
「でも、俺のやり方なら絶対に外せるぞ?」
 えっ――妙子は思わず月彦を見上げた。そこにあるのはいつもの冴えない顔――ではなかった。絶対の確信を背骨に、凛々しい程に胸を反らせた、自信に満ちた男の余裕の笑みがあった。
「絶対……って……そんなの、どうして解るのよ」
「解る。今度は絶対だ、間違いない」
「だから! どうしてそう言い切れるのかって聞いてるの!」
「悪いが説明は出来ない」
「説明は出来ないって……そんなのどうやって信じろっていうのよ!」
「大丈夫だ、妙子。……俺を信じろ」
「なっ………………」
 絶句。
 妙子は口を開いたまま、しかし言うべき言葉が見当たらずただただ月彦を見上げる。
(こいつ……なんでこんなに自信満々なの……?)
 普段まったくと言っていい程に頼りなく、万事自信がなさそうなこの男がこれほどまでに自身に満ち溢れているというのは、余程の確信があるのではないか――普段がまったく頼りにならないからこそ、余計に頼もしく見えるというのはまさに皮肉としか言いようがない。
「ほ……本当に……外せるんでしょうね………………嘘だったら…………ゴメンじゃ済まさないんだから」
「ああ。そんときは俺もおそろいの首輪をつけて、しかも一生四つん這いで犬の真似し続けてやるさ」
 まるで、勝つとわかりきっている勝負だから負けた時の約束なんていくらでも出来ると言わんばかりの口ぶりだった。
「……っ……解った、わよ………………そこまで自信があるなら……もう一度だけ、あんたを信じて…………あげるわ…………」
「そうか、良かった。…………妙子、安心しろ。その首輪、絶対に外してやるからな」
 うんと、月彦はまばゆいばかりの笑顔で頷き――そして、頷き終えた時にはそれはかつて見た事もない程に冷ややかな微笑へと変わっていて。
「…………じゃあ、早速始めるか。………………妙子、“お手”だ」


 あるいは、自分が飼っていた犬たちもこんな気持ちだったのだろうか――月彦からの“命令”を聞いた瞬間、妙子はふとそんなことを思った。もしそうだとしたら、自分はなんて残酷なことをしてきたのだろうとすら思った。
(ううん、違うわ。犬と人間は……やっぱり違う生き物なのよ)
 お手――月彦から差し出された手に、自分の前足――ではなく、手を乗せる。ただそれだけの行為であるのに、これほど強烈に拒絶反応が出るのは、犬ではなく人間だからだ。普段であればそんな命令など聞かないのは当然として、舐めた真似をした罰として鉄拳の3,4発はお見舞いしている所だ。
 ――が。
「………………っ……」
 妙子は唇を噛みながら、右手を月彦の手に乗せる。そう、これは互いに納得済みで始めたことだ。首輪が外れないのがラクシャサの呪い――それとも憑依とでもいうべきなのだろうか――だとすれば、白石妙子という人間の体を通して改めて躾け直してやればいいという月彦の持論に身をゆだねてみようと、妙子自身思ったから協力しているだけだ。
 決して、決して月彦のことを“飼い主”であると認めての行動ではない。そこだけは勘違いするなと――妙子は睨むような目で月彦を見上げる。
「…………怖い目つきだな。そんなに睨まなくても解ってるって」
 月彦は妙子の前足――もとい、手を握ったまま軽く上下に揺さぶり、そして離す。妙子も手を絨毯の上へとつく。
「よし、妙子。もう一度“お手”だ」
 手を出され、妙子も右手を乗せる。
「よーしよし。いいぞ“ぐっぼーい”だ」
「ちょっ……止めてよ! ていうか、グッボーイじゃないでしょ! 雄犬じゃないんだから!」
 よしよしと、まるで犬を褒めるような手つきで今度は頭を撫でられ、妙子は反射的に月彦の手を撥ね除けた。
「あれ、グッボーイって雄犬にしか言わないのか?」
「"good boy"なんだから当然でしょ!」
「じゃあ牝犬にはなんて言うんだ?」
「そのまんま、"good girl"よ。…………でも、私は使ったことないわ」
「そっか。…………じゃあ、俺もいいや。……いいぞ、"妙子"」
「なっ……ちょ、止めてよ! 私はそっちの方が嫌!」
「嫌って言われてもな。…………ほら、妙子。褒めてやってるんだから抵抗するな」
「その撫でられるのも嫌! 気安く触らないで!」
「こーら、妙子。……首輪を外したくないのか?」
「外したいに決まってるじゃない! だけど……」
「だったら、少しは我慢しないとな? だいたい、頭を撫でられるのが嫌ってのも変な話だろ」
 言われてみればと、妙子はハッと我に返る。同時に、妙子は思い出した。ラクシャサも、褒める時に頭を撫でてやろうとするとたちまち暴れ、機嫌を悪くしていた。
(ひょっとして……本当に?)
 この体に、ラクシャサの霊魂的なものが取り憑いているのだろうか。そしてラクシャサが嫌だと思うことを同様に嫌だと感じているのだろうか。
「ほら、妙子。もう一回、お手だ」
 気づけば、この“お手”にも不思議な抵抗感があった。最初は「月彦相手にお手をするなんて屈辱極まりない」という気持ちのせいだと思っていたが、どうもそれだけではないように感じる。
 が、妙子は必至にその“抵抗”をねじ伏せ、三度お手をする。
「よし、いいぞ妙子。いい子だ……」
 そして、頭を撫でられて反射的に手が出そうになるのを必至に押さえこむ。調子に乗った月彦がここぞとばかりに頭を撫でてくるが、歯を食いしばって耐えた。
「うん、大分慣れてきたみたいだな。じゃあ次は……“おっぱい”だ」
「おっぱい……?」
「何だ、知らないのか? “おっぱい”ってのはな、こうやって――」
 月彦に膝立ちをさせられ、さらに両手を開かされる。
「んで、こうやって上下に体を揺さぶるんだ。んでたゆんたゆーんって胸を揺らす。これが“おっぱい”だ」
「………………こんなバカみたいな真似をしろって言うの?」
「やらないと首輪は外れないぞ?」
「嘘! あんたがそれをやらせて笑いたいだけでしょ!」
「いいからほら、俺を信じて任せてみろ。それでもダメだったときは一万発でも百万発でも殴られてやる。だから、俺の言うことに逆らうな。…………わかったな?」
 最後の“わかったな”の一言に、妙子は思わず背筋を冷やす。冷ややかな目と相まって、冷気すら伴っているのではないかという程に、月彦らしくない言葉だったからだ。
(何よ……こいつ…………いつもと、全然違うじゃない…………)
 紺崎月彦は、こんなに自信に満ちあふれた男ではない。どちらかといえば優柔不断、自分がとるにたらない人間であると自覚し、自分の判断が正しいかどうか常に自信がない――そんな男の筈だ。
 であるのに、今眼前に居る男はどうだ。外面こそ見慣れた月彦の皮を被ってはいるが、薄皮一枚下は全くの別人。それこそ冷酷な調教師――それもかなりのベテラン――を思わせる程に。
 そして何より忌々しいと妙子が思うのは、月彦のそんな隠れた一面を少しだけ“頼もしい”と感じてしまうことだった。
「…………わかった、わよ…………言う通りに、すれば、いいんでしょ…………あんた、本当に首輪が外れなかったら覚えてなさいよ?」
 妙子は言われた通り膝立ちになり、両手を肘で曲げたまま左右に開き、体を上下に揺さぶる。
「まだだ、揺れが足りない。ほら、もっと揺らすんだ」
「くっ…………」
 言われるままに、妙子は体を揺らし、その揺れを胸へと伝播させる。恥辱のあまり、顔が赤面するのを感じる。唇を噛みしめ、目をつむって、たゆんたゆんと胸を揺らし続ける。
「おお……いいぞ、妙子。いい子だ」
 よしよしと。頭を撫でられる。その撫で方が妙に手慣れていて、そこがますます持って忌々しいと妙子は感じる。そう、まるで“誰かの頭を撫で慣れている”かのような手つきではないか。
「よーし、よーし、いい子だ」
 そしてそのまま顎下を撫でられかけた時――
「がうっ!」
 妙子は反射的に、月彦の手に噛みついていた。噛みついた後で、自分が噛みついたのだと知って、慌てて口を離した。
「痛っつ……なんだ、妙子。顎下を触られるのはそんなに嫌だったのか?」
「ごめん……なんか、いきなり目の前が真っ白になって……気づいたら噛みついてて…………」
 妙子はジッと月彦の左手を見る。噛みついたのは丁度手首と小指の付け根の間の辺りだが、幸い血が出るほど強く噛んだわけではなかったらしい。月彦は軽く手をさすり、ぶらぶらと動かしてみせる。
「そうか。……てことは、やっぱり“取り憑いてるような状況”って考えた方がいいのかもな。……その首輪をつけてた犬も、顎下を撫でられるのは嫌だったんじゃないか?」
「………………そう、ね。言われてみれば、私も触ろうとして噛まれたことがあった気がするわ」
「成る程な。そういうことなら、悪いのはその犬であって、妙子じゃないってことだな」
 うむと、月彦は大きく頷く。
「とはいえ、やっぱり飼い主に噛みついたらそれなりのお仕置きをしないとな。…………妙子、四つん這いになってくれ」
「四つん這いって……どうしてよ」
「尻をひっぱたく」
「はぁ!?」
「妙子、解るぞ。いくら躾の為とはいえ、暴力はいかんってのは、俺も同感だ。………………“時間”があるなら、俺だってそうする」
「時間……」
「首輪、早く外したいんだろ? 遅くとも、月曜、学校に行くまでには」
 月彦の言う通りだった。確かにのんびり時間をかけてラクシャサを躾ける時間は――無い。
「つーわけで、手っ取り早くお仕置きだ。ほら、妙子」
「ちょっと待って! お、お尻を叩くって……つまり、その…………」
「妙子の尻しかないな、この場合」
「〜〜〜〜〜〜っっっ!!!」
「そんな顔で睨まれてもな…………嫌なら、根気強く躾けるか?」
 半年くらいかけて――月彦の言葉に、妙子は無言で月彦に背を向け、四つん這いになった。恥ずかしさと悔しさで、目尻に涙すら浮かんでいた。
(なんで、私がこんな目に…………)
 朝、起きた時点では夢にも思わなかった。まさか犬用の首輪をつけられ、犬のマネをさせられた挙げ句――。
「……悪い子だ」
「ぎゃんっ!」
 尻までひっぱたかれる羽目になるなんて。
「ちょ、ちょっと……月彦……あんた、まさか本気で――ひん!」
 べしーん!――ジーンズ越しに尻肉が弾けるほどに強くひっぱたかれ、妙子は思わず悲鳴を上げる。
「ほら、“ごめんなさい”はどうした?」
「ちょっ……いい加減にっ……きゃん!」
 体を起こそうとした瞬間、負傷しているはずの右手で背を押さえつけられる。怪我をしているとは思えないほどにすさまじい力に、妙子は強制的に上半身を絨毯の上に伏せる姿勢をとらされる。
「言わないと何度でもひっぱたくぞ?」
「っっ…………ご、ごめん、なさい…………ごめんなさい! 噛みついてごめんなさい!」
 半ばヤケクソ気味に、妙子は叫ぶように声を荒げた。たちまち、尻を叩く手は止まり、おそらくは赤く腫れているであろうその場所がやんわりと優しく撫でられる。
「二度と噛みついたりするなよ。……解ったな?」
 こくりと――無意識のうちに、妙子は頷いていた。
「……妙子、“お座り”」
 体の反応は早かった。即座に身を起こし、“女の子座り”をする。まるで、“自分以外の何か”が、月彦の言葉に畏怖を感じ、勝手に動かしたかのような錯覚すら覚えるほどに、その動きは素早かった。
「よしよし、それでいい」
 頭を撫でられ、顎下へと触れられた瞬間、妙子は反射的に口を開けてしまった――が、それだけだった。噛めば、どうなるか――少なくとも“ラクシャサ”の方は思い知ったのかもしれない。
「よし、妙子…………もう一度“おっぱい”だ」
 言われるままに、妙子は膝立ちになり、胸を揺らす。もう恨み言も、文句も口にしない。その代わり――
(……殺す……!……これで首輪が外れなかったら、その時は……殺してやる!)
 ただただ月彦に対する恨みを募らせながら、“調教”は深夜へと続く……。


 月彦に命令をされて、それを遂行する――そんなことを一体何度繰り返しただろうか。最初は“お手”や“おっぱい”や“お座り”であったのが、その内容は徐々に変化し――
「妙子、“コーヒー”」
 と言われれば、コーヒーを淹れ、
「妙子、“肩”」
 と言われれば、後ろに回って肩を揉んだ。これはもはや犬の躾ではなく、ただの召使いではないのか――そんな疑念が沸くも、結局の所妙子は文句を口にすることなく淡々と月彦の“命令”をこなし続けた。
 尻を叩かれた直後は殺意すら抱いていた筈であるのに、ごく簡単な雑事をこなす度に褒められ、頭を撫でられ顎の下を撫でられるということを繰り返すうちに、自然と命令を聞けるようになってきたのだ。
(……これ、ひょっとして――感化されてる、のかしら……)
 自分に憑依している――と、もはや断言すべきだろう――ラクシャサの思いが、習性が、自分にまで伝播している。妙子はそう結論づけ、また実感もしていた。
「よしよし、いいぞ妙子。大分素直になってきたな」
 頭を撫でられ、そのなま首の辺りまで撫でられた時などは思わず、
「くぅぅん……♪」
 まるで歌でも歌うように鼻を鳴らしてしまい、鳴らした妙子自身ハッと赤面して大慌てで両手で口を塞いだものだ。……もっとも、“鳴らした”のは口ではなく鼻だったのだが。
「ちょっ……違っ……今のは勝手に……!」
「ずいぶんご機嫌みたいだな。…………よし、じゃあ折角だし、もう一回散歩でも行くか」
 散歩!
 ぴくんと、思わず下半身が反応し、妙子はピンと立ち上がってしまう。昼は佐由の店を手伝い、さっきは二時間近くも外を歩き通してくたくたの筈であるのに、今はもう体の奥底からうずうずとした気持ちが抑えきれなくて足踏みまで始めてしまっていた。
「なんだ、そんなに行きたかったのか?」
 違う――そんな言葉が喉まで出かかって、飲み込む。一体いつのまに手にしたのか、両手にはリードを握っていて、ほとんどそれを押しつけるように月彦の方に差し出していた。
(やっ……ちょっ……私の、体…………)
 犬のような行動を繰り返すうちに、体の方まで犬の魂とシンクロでもしてしまったのだろうか。自分の意思とは無関係に動く体に、妙子は恐怖を禁じ得ない。
「よし、ちゃんと首輪に繋いで…………そうだな、折角だし…………今回はマフラーは無しでいくか」
「なっ……ちょっ、待ってよ! マフラー無しじゃ見えちゃうじゃない!」
「ダウンの襟元をしっかり閉じてりゃ大丈夫だって」
「そりゃ多少は隠せるかもしれないけど……だいたい、どうしてマフラーをつけちゃダメなのよ!」
「そんなの決まってるだろ。…………“なんとなく”だ」
「なっ――」
「…………それとも、妙子は“飼い主”の言う事が聞けないのか?」
 普段であれば。
 それこそ“いつも”であれば。
 余裕綽々の月彦の横っ面をひっぱたき、さらにみぞおちを蹴り飛ばし、顎にアッパーの一つもねじ込んで膝から崩れ落ちた所をさらに4,5発は蹴りをたたき込む所だ。
 しかし。
(…………っ…………ダメ……逆らえない………………)
 拳を握っても、力が籠もらない。蹴りつけようにも、踏ん張りが効かない。まるで神経伝達を見えない何かに遮られているかの様だった。

 結局月彦に言われるがままにマフラーなしで、そして再びダウンの裾からリードを出す形での散歩をするはめになった。もちろん位置取りは横並びではなく、“犬と飼い主”ポジションだ。
 しかし、先ほどまでの散歩とは、マフラー以外にも大きな違いがあった。
「違う、そっちじゃない」
 “コース”を月彦が勝手に変えるのだ。しかも事前に何も言わず、唐突にリードを引く為、そのたびに妙子は首輪が喉につっかえ、息を詰まらせて噎せた。だが、不思議とそのことで月彦に反論しようという気にはならなかった。
(………………“躾”としては、正しいわ)
 これは、妙子自身――躾のなっていない犬を躾ける際にやることでもある。どちらが上かを思い知らせる為に、あえて犬が行きたい方向とは逆に行くことも多々あった。もちろん犬に事前に伺いを立てたりもしない。
 だから、月彦に同じ事をされても文句は言わない。それどころか感心すらし始めていた。この男も、この男なりに真剣に“躾”を行おうとしているのだということに。
(…………考えてみたら、さっきの“命令”だって…………その気になればもっといやらしい命令だって出来た筈なのに……)
 “それ”に従うかどうかはともかくとして、やれ服を脱げだの乳を揉ませろだの。下心丸出しの命令もしようと思えば出来た筈だ。
 しかし、月彦はそれをしなかった。あくまで妙子を一匹の犬として扱い――それもどうかと思わなくもないが――簡単な命令を出し、命令通りにすれば褒める。それがクセになる程に繰り返していた。
「……………………。」
「……なんだ、どうした、妙子」
 気がつくと、妙子は足を止めてしまっていた。止めた後で、妙子は自分が電柱の前で立ち尽くしていることに気がついた。
(……そういえば、“さっき”も……)
 散歩中、幾度となく電柱が気になって足が止まってしまった。一体電柱の何がそんなに気になるのだろうか――妙子は何かに誘われるように、ふらふらとした足取りでさらに電柱へと近づく。
「……妙子、行くぞ」
 ぐいと、唐突に首輪が引かれる――が、妙子はひるまず、その場で踏ん張った。
「ま、待って……月彦。もうちょっとだけ待って」
「なんだ……一体どうしたんだ?」
 それはこっちが聞きたいと妙子は思った。思いながら、電柱へと身を寄せ、ほとんど鼻先がつくほどに接近するが、一体電柱の何にそこまで引き寄せられるのかが解らない。
(ううん……違う……鼻に、何か……)
 くん、と鼻を鳴らすと、微かに“何か”を感じた。くん、くん、くん……微かに感じるそれを辿るように、妙子は徐々にしゃがんでいき――
「うっ……」
 唐突に、“その正体”に気づいて慌てて口と鼻を両手で覆った。
「……なんだ、まさか……オス犬の小便の臭いに――」
「言わないで! お願いだからそれ以上は言わないで!」
 今こそ、妙子は自分の体にラクシャサの――牝犬の霊魂が取り憑いていると確信した。というより、そうであって欲しいと懇願した。



 散歩を再開しても、電柱やポストといったものが目に映る度に、言いしれぬ引力を感じて足が止まりそうになるのは、やはりラクシャサの本能が引き寄せられるからなのだろう。
 そしてそうして牡犬がマーキングしたらしい場所を通る度に、体にもう一つの困った変化が起きつつあった。
「……ごめん、月彦。散歩……まだ続けるなら……ちょっと公園に寄らせて」
「公園に? なんでだ?」
「…………そのっ…………ちょっと、トイレ、行きたくて……」
 本当ならば――ラクシャサならば――電柱に直接マーキングを行いたいに違いない。が、さすがにそれだけは人として出来ない。結果、尿意ばかりが募り、とうとう我慢しきれなくなった妙子は月彦に懇願せざるを得なくなったのだ。
「トイレ? 家出る前に行ったばっかりだろ?」
「そう、なんだけど……」
 さすがに、牡犬のマーキング後が気になって尿意が催されたなどとは口に出来ず、妙子はぎゅっと唇をかみしめる。
「ねえ、いいでしょ? 確かこの道をまっすぐ行ったらトイレのある公園があった筈だし……」
「もう全然我慢できそうにない感じなのか?」
「ぅぅ…………」
 妙子は赤面しながら、渋々頷いた。
「わかった。……でも、今は“躾中”だからな。トイレに行っていいタイミングは俺が決める」
「なっ……ちょっ……つ、月彦!?」
 くるりと、平然と踵を返す月彦に、妙子は慌てて続く。
「ね、ねえ……待って……、もう、本当に限界なの……」
 しかし、月彦は妙子の言葉などまるで聞こえていないとばかりに無視し、むしろ早足に歩き続ける。
「ねえ、ねえ! 冗談抜きでホントにもうヤバいんだから……も、漏れちゃうから……」
 事実、妙子は限界だった。そもそも、ギリギリまで尿意を隠し――出来れば散歩が終わった後、こっそりトイレに行くつもりだった――ていたのだ。そのギリギリの状態からさらに我慢をしろと言われても余裕など微塵もあるわけがない。
「お願い、だから……トイレに、行かせて…………」
 それはもう、ほとんど泣き声に近い懇願だった。そして月彦は不意に足を止め、妙子の方を振り返った。――その時の月彦の表情は複雑極まりないものだった。
 例えるなら、堅く貫き守り通してきた信念をやむにやまれぬ事情で曲げざるを得ない武士か軍人のような。それでいて愉悦の笑みを浮かべそうになるのを必死にかみ殺しているかのような。優しさと哀しみと意地の悪さが同居しせめぎ合っているような、なんとも複雑怪奇な顔だった。
「…………わかった。確かに、生理現象だけは仕方ないな。公園に寄るか」
「あっ……」
 ぱぁと、妙子は思わず笑顔になる。再び踵を返した月彦に、遅れじとついていく。どこかヒョコヒョコとぎこちない足取りになってしまうのは、もちろん極度の尿意を我慢しているが故だ。
「……ほら、リードも外すから……行ってこい、妙子」
「う、うん……ありがとう、月彦……」
 リードを外され、ぽんと背中を叩かれた瞬間、つい反射的にお礼を言ってしまった。もとはといえば月彦が妙な意地悪をして逆方向に歩き出したりしたから本当の本当に切羽詰まってしまったのだから、礼を言うのはおかしいと言った後で気づいたが、今は“こっちの用”が火急であると。
 妙子は小走りに公衆トイレへと急ぐのだった。


 “用”を済ませるなり、妙子は小走りに月彦の元へと戻った。別にそんなに急ぐ必要はない筈なのだが、どういうわけか走らずにはいられなかった。ひょっとしたら“飼い犬”は“外”ではきちんとリードに繋がれているべきである、という信念にも似た自信の考えが影響していたのかもしれない。
(……どこまでがラクシャサの気持ちで、どこまでが私の気持ちなのかしら)
 たとえば、月彦の側に戻り、しっかりとリードを繋がれることで奇妙な安心感を覚えるのは自分のものか、それともラクシャサがそう感じているだけなのか。
(…………それに、もっと……撫でて欲しいって……)
 頭を、顎を、肩を。どこでも良いから触れて欲しいと感じる。気を抜けば自分から体をすりつけたいとすら感じるのは、さすがにラクシャサの欲求だろう。――そう信じたかった。
(…………ダメ、なんか……私、おかしくなってる……)
 先ほど、電柱で“牡犬の残り香”を嗅いだ辺りからどうも体の調子がおかしい。最初はただの尿意だとばかり思っていたが、その実“用”を済ませた後も下半身に奇妙な痺れが残っていた。同時になにやら熱っぽく、そのせいで物事を深く考えるということが出来ない。
「どうした、妙子。帰るぞ」
「………………うん」
 くいとリードを引かれ、妙子は月彦の後ろに続く形で歩き出す。気がつけば、その後ろ姿を熱っぽい目で見てしまっていて、慌てて首を振る。
(……っ…………これ、絶対ヤバい……このままこいつと一緒に居たら…………私…………っ……)
 今更になって、妙子は気づく。夜は更け、既に深夜と呼んでも差し支えない時間帯だ。そんな時間に、自分は年頃の男子と共に一人暮らしのアパートの部屋へ帰ろうとしている。
(……違う……違う、のに……)
 知らず知らずのうちに、妙子は歩きながら肩を抱いてしまっていた。肩に、頭に、下あごに、月彦の手の感触が残っている気がした。それだけいろんな箇所を触られたにもかかわらず、今日に限って胸だけは一度も触られていないということに気づき、妙子は少なからず驚いていた。
(…………こいつ、本当に……本気で、私のコト調教しようとしてる……?)
 違う、これは調教ではなく躾で、しかも対象は自分ではなくラクシャサだ。しかしもっと触れられたいと感じているこの気持ちは、果たしてラクシャサのものなのか。
(……さっき、部屋でされたみたいに……)
 優しい言葉をかけられながら、ナデナデされたい――そんな誘惑が、少なからず自分の内側にあることを、妙子は認めざるを得なかった。ただ、それは別に月彦に限ったことではなく、たとえば相手が千夏でも、和樹でも構わないのだ。
 だから、そう……“これ”は月彦に大して特別な何かを抱いているわけではないのだ――。
「違う、そっちじゃない」
「……んっ」
 くいとリードを引かれ、息を軽く詰まらせながら妙子は足を止める。そう、これも躾の一環だ。月彦は首輪を外すために、ラクシャサをきちんと躾けるためにやるべきことをしているだけだ。
 それなのに、どうして。
「……こっちだ、妙子」
 また、足を止められる。進路を変えられる。もう疲れているから早く家に帰りたいのに、回り道をさせられる。下腹に奇妙な痺れが走る。
 頭の奥が熱を帯び、何も考えられなくなる。
「……妙子?」
 月彦の言葉で、自分が月彦の手を握ったのだと気づく。
「…………ごめん、ちょっと、疲れたから…………もう帰りたいの」
「そうか。……でもまっすぐ帰るかどうかは俺が決める」
 そうだ、それでいい――妙子は頭の中でそう頷く。“飼い主”はそうでなくてはならない。そのことをちゃんと分かっている今の月彦なら、さぞかし良い飼い主になれることだろう。
「……ぁ……」
 不意に足から力が抜け、妙子はその場に両膝をついてしまう。そのまま手をつき、驚いたように足を止めている月彦を見上げる。
 あぁ、これが“本当の犬の目線”か――そんなことを思う。むしろ自分にはこの姿勢のほうがしっくりくるとすら感じるのは、ラクシャサの影響力がより強まっているのかもしれない。
「妙子、どうした?」
「ちょっと……足が萎えちゃって……」
 月彦の表情がわずかに曇る。その意図するところを、妙子は敏感に察した。月彦とて、本当はこんな無慈悲な真似はしたくないに違いない。しかし呪いの首輪を外すため、心を鬼にして冷酷な飼い主の仮面を被っているに過ぎないのだ。
(…………っ……)
 そんな月彦の心中を察して、妙子は四つん這いのまま月彦の足下へと這い寄ると何も言わずにその足へと体を擦りつける。考えての行動ではない、そうせずにはいられなかったから、そうしたのだ。
「……ほら、妙子。立つんだ」
 しかし月彦はそんな妙子の頭を軽く撫でただけで、手を引いて無理矢理に立たせてくる。が、足がすっかり萎えてしまっているのか、まるで自分の体ではないみたいに自立することが出来ない。
「おっ……とと…………こ、こら……妙子、ちゃんと立て!」
「うん……」
 妙子は両足で踏ん張り、かろうじて立つ。
「…………本当にもう無理そうだな。仕方ない、散歩も終わりにするか」
 溜息混じりに歩き出した月彦の後ろに、妙子も続く。その足取りはなんともぎこちなかったが、それは決して疲れによるものだけではなかった。
(…………ダメ、この感じ…………絶対ヤバい…………今、部屋になんか戻ったら…………)
 気がつくと、すんすんと鼻を鳴らしていた。ラクシャサの影響であるいは嗅覚も鋭くなっているのだろうか。いつもは感じることがない様々な臭いの中から、前を歩く月彦の臭いだけを嗅ぎ分け、それのみを感じようとしている自分に、妙子は気づく。
(ダメ……ダメ……そんなのダメ…………絶対だめ…………ダメ……ダメ…………!)
 はぁはぁ。
 ふぅふぅ。
 呼吸を繰り返す度に、“月彦の臭い”が強まるかの様。否、臭いが強まっているのではない、嗅覚の感度が上がっているのだ。そして、その“オスの臭い”に興奮し、頭の奥が痺れていく。
(…………赤ちゃん、欲しい………………)
 前を歩く、月彦の背を見るその目は陶然と潤みきっていた。


 妙子からの電話がかかってきた時は、まさかこんな用件だとは夢にも思わなかった。しかし実際に絶対に外れない首輪を目の当たりにし、もちろん月彦は最善の手を選んだ。少なくとも、自分ではそのつもりだった。
 事実、首輪の経緯と今の妙子の状態を見ればそのラクシャサという犬の霊魂――あるいは執念――のようなものが妙子に取り憑いているであろうことは明かで、相手が獣ならばきっちりと躾けてやれば悪さはしなくなるということを月彦は経験から知っていた。だからこそ心を鬼にして妙子の尻だってひっぱたいたし、お手もさせた。
 そして事実、“躾”は巧くいっているように見えた。ただ、月彦にとって想定外だったのは――。

「よし、着いたぞ」
 妙子から預かっている部屋の鍵を鍵穴へと差し込み――キーホルダーがいつぞや自分があげた犬のままであることにはもちろん気づいているが、喜びはおくびにも出さずに――ドアを開ける。靴を脱ぎ、先に居間へと上がった後で、妙子が玄関のドアを背に立ち尽くしたままであることに気がつく。
「……? 妙子、どうした」
 声をかけても返事が無い。もしや、もはや一歩も歩けないほどに疲れているのかもしれない。躾の為とはいえ些かやり過ぎてしまったかもしれないと、月彦は玄関へととって返した。
「ほら、妙子……大丈夫か?」
 一人では靴も脱げないのか、妙に息を荒くしたまま立ち尽くしている妙子の足を上げさせ、ろくに動かぬ右手も使って片足ずつ靴を脱がせる。両足共に脱がせ終わったところで、妙子がなにやら呟いていることに、月彦は気がついた。
「妙子……?」
 目が合った――瞬間、月彦は思わず後退りをした。“それ”は見覚えのある――しかし、白石妙子にはあまりにふさわしくない、情欲に濡れた目だったからだ。そう、およそそういった欲求とは対局の位置に居るであろう妙子にそんな目を向けられるということ事態が月彦の中に大いなる矛盾となり、恐怖心すら呼び起こしたのだ。
「お、おい……どうした? まさか――」
 考えられるとすれば、妙子に取り憑いているらしい犬の影響か。そういえば散歩途中、やたらと牡犬のマーキングの跡を気にしていた。
「お、牡犬の小便の臭いで……発情した……とか、そんなことないよな? た、妙子に限って……」
 一歩、二歩。月彦が後退ると、まるで追うように妙子も前進してくる。さらに月彦が一歩下がれば、妙子も一歩前に。月彦がさらに下がろうとして、その足が何かに触れ、咄嗟に足下へと目をやりそれが炬燵の脚だと気づいた時にはもう、目の前に“影”が迫っていた。
「うわっ……ちょっ、こ、こら……妙子!?」
 鼻息荒く飛びかかってきたそれはたやすく月彦の体を押し倒し、絨毯の上へと転がすや腹部の上に馬乗りになってくる。さらに自分を見下ろす、理性を全く感じさせない二つの目に月彦は震え上がった。
「待て、待て! 妙子、正気に戻れ!」
 なんとか妙子の下から脱出しようと藻掻くが、利き腕がろくに使えない状況ではそれも難しい。
(……いや、待て……考えてみたら、別に逃げなくても――)
 そして、自由に動かない右手以上に、ずっと片思いだった妙子に押し倒されているのに何故逃げる必要がある?という心の野党の意見も厄介だった。
「…………欲しい…………」
「ほ、欲しいって……何がだ?」
 陶然とした目で見下ろしながら、妙子はさらに呟きを繰り返す。
「…………赤ちゃん、欲しいの…………」
「あ、赤ちゃん!? ま、待て……妙子……さすがにそれは…………」
 仮に正気の妙子に同じ言葉を言われたら理性など一瞬で消し飛び、ケダモノと化して襲いかかってしまうことだろう。たとえ何日かかっても確実に孕ませたと確信出来るまで中出しを繰り返し、その代償が命であったとしても悔いは無い――それが男という生き物だ。
(しょ、正気じゃないって分かってたって…………)
 この心の奥底から突き上がる衝動のままに文字通り突き上げてやりたい。しかし、月彦は歯を食いしばり、耐える。
「妙子……頼む、正気に戻ってくれ。お前に、こんなことをされたら……俺は耐える自信がない……」
 ただでさえ、今日の妙子の私服はジーンズ(はどうでもいいのだが)に体のラインがくっきりと出る薄手のセーター(色は灰)という組み合わせだ。“それ”をこうして下から見上げた時の破壊力たるや凄まじく、胸の下側に出来た影の濃さに否が応にも股間がエレクトしそうになる。
「月彦……」
 そんな妙子の呟きに、月彦は僅かに安堵する。もしや、正気に戻ってくれたのか。それはそれで残念な気がしなくもないが、とにもかくにも良かったと、うっかり落胆してしまいそうになる自分の本音に往復ビンタをしていると。
「ってぇっ! た、妙子っ……待っ――」
 ゆっくりと妙子が上体を被せて来、そのまま唇が重な――らなかった。
「んっ……んっ……んっ…………」
「ちょっ……ちょおぉおお……ひぃぃいいっ……」
 そのままれろり、れろりと頬を、鼻を、額を舐められ、月彦は身をよじりながら悲鳴を上げる。もちろん嫌だからではない。妙子のひと舐めひと舐めにうっかり理性を失いそうになるが故の悲鳴だ。
(あぁぁっ……そして胸がっ…………胸がぁぁぁぁぁ!)
 ぐに、ぐにと押しつけられる巨乳の感触に、月彦は絨毯を掻きむしりながら必死に理性を奮い立たせる。常識人の妙子はもちろんきちんとブラをつけているのだろうが、逞しすぎる想像力はブラ無しの場合の感触を勝手に再現してはその威力を股間にまで伝えようとするから堪らない。
「た、妙子……マジでヤバいから…………そ、それ以上されたら……」
 こうなったら、力任せに突き飛ばすしかない――月彦は両腕に力を込めようと試みるが、右腕に関してはまるで「こんなに痛い状態なのに無理させるんスか?」とでも言いたげにかつてないほどに痛みが走り、頼みの綱の左手はといえば筋弛緩剤でも打ち込まれたかのようにまるで役立たずだ。
 そう、もはや全身の中で妙子の誘惑に抗い続けているのは首から上だけという状態。それすらも既に時間の問題となれば、このまま苦しみ続けることに一体なんの意味があろうかという気になってくる。
「い……いいんだな、妙子……お、お前が引かないなら……俺だってもう、我慢の限界なんだからな…………本当にいいんだな?」
 理性と欲望の綱引きにも疲れた。そもそもが、最初から勝ち目の無い戦いだった。むしろここまで持ったのが奇跡だ。
 はぁはぁとケダモノのように息を荒げながら、月彦はゆっくりと妙子の体へと手を伸ばし――。
「………………ーーーーーーーっっっやっぱりダメだ!!! 妙子、すまん!」
 すんでのところで月彦は欲望を振り切り、思い切り妙子の体を突き飛ばして“その下”から脱出する。
「妙子は……特別なんだ! “こんな形”は絶対に嫌だ!」
 激しくかぶりを降りながら、ほとんど雄叫びのように月彦は叫ぶ。その目の先で突き飛ばされた妙子がゆっくりと身を起こすのを見、からくも立ち上がった月彦は逃げるように後退りする。
「妙子……頼む、正気に戻ってくれ……」
 いっそこのまま強引にでも玄関まで走り抜け、家に逃げ帰ってしまえば“悲劇”は回避できるのかもしれない。しかし“こんな状態”の妙子を部屋に一人残していくことなど絶対に出来ない。それこそ、悲劇どころか無差別に他の男を押し倒しての“惨劇”だって起こりうるではないか。
「妙子……っ……!」
 むくりと身を起こし、絨毯に座り込んだままの妙子と目が合う。そこにはわずかながらも期待した正気の光などは無く、焦れに焦れた発情期のメス犬そのものの肉欲に濡れた眼差ししか存在しなかった。本来ならばあり得ない白石妙子の発情しきった姿に、月彦は興奮よりも先に怒りを覚えた。
 もちろん、その怒りは妙子に対して――ではない。
「こンの……クソ犬…………よくも、妙子にそんな顔をさせやがったな」
 今の妙子にどれだけ自我が残っているのかは分からない。しかし“あの妙子”が少なくとも自分で考える頭があるうちは、こんな男に飢えた娼婦のような顔をするわけがない。
「待てよ……妙子の意識が無いならいっそ真央を呼んで……いや、白耀の方が――」
 壁に張り付きながら善後策を考えていた月彦は、次の瞬間ぎょっと目を剥いた。文字通り戦慄し、震え上がった。
「ちょっ……なっ……ま、待て妙子……何やってんだ!」
 絨毯の上にへたり込んだままの妙子が、おもむろにセーターを脱ぎ始める。止める間もなくセーターは脱ぎ捨てられ、たちまち上半身はブラのみの姿になってしまう。あわわ、と月彦が眼前を目で覆った時には――もちろん指と指の間はがっつり開いている――妙子はブラのホックまで外そうとしていた。
「待て、待て! それはヤバい! やめろ! マジでシャレにならないからやめろ! 頼むから止めてくれえええええええええええええ!!!!」
 しかし月彦の叫びはむなしくホックはあっさりと外され、脱ぎ捨てられたセーターの上にピンクのブラジャーまでもが重ねられる。
 ゴクッ……。
 生唾を飲む音が、頭蓋に響いた。月彦の目はもう、初恋相手の胸元に釘付けになっていた。つきたての餅のように白い肌に、桜色のつぼみ。たわわな質量も相まったその光景に、我慢するしないの前に足が勝手に進み始めていた。
「だ、ダメだ…………畜生! ダメだって分かってるのに…………!」
 吸い寄せられる――まるで誘うように両手を広げた妙子の胸元へと。“そこ”に行けば確実に後悔することになるとわかりきっているのに、足が止まらない。
「あぁぁ…………ぁぁぁぁぁ………………」
 気がつくと、涙を流していた。間違い無く悔し涙だが、しかしほんの数パーセントかはうれし涙も混じっているのかもしれない。
(…………すまん、妙子……)
 そして月彦は、己の心が折れる音を聞いた。



 最初は恐る恐る――しかし、鼻先が触れた次の瞬間にはもう、月彦は顔ごと妙子の胸元に飛び込んでいた。
(ふおぉおおおおおおっ!)
 この感触、この柔らかさ! 匂い! 間違い無く妙子のおっぱいだ!――激しく顔をすりつけながら、月彦は文字通り顔全体で超A級の巨乳を堪能する。そうやってひとしきり顔で感触を味わった後、満を持して両腕の登場だ。
(腹立たしいことに……)
 先ほど、妙子に抵抗する際はあれほど痛がってみせた右腕が事ここに至って「捻挫? 脱臼? 知らない子ですねぇ……」とばかりにまったく痛まないことだ。恥知らずの右手への制裁は後で行うとして、今は――
「あんっ」
 両手で。両手の手のひらで。指にある指紋の溝の一つ一つで、滅多に触れない妙子のおっぱいの感触を味わうことが最優先だ。
「あっ、あっ……あっ……!」
 両手で軽くこね回しただけで、妙子がいつになく甘い声を上げる。発情状態にあることで感度まで上がっているのか、いつになく反応が良いのを良いことに、月彦はさらに円を描くように揉み、時折指の間から肉が盛り上がるほどに強く揉み捏ねる。
「……妙子……妙子っ、妙子……!」
 そうして捏ねれば捏ねるほどに、妙子に対する想いまでもが天井知らずに高ぶっていくかの様。
(すまん……おっぱいに弱い俺で本当にすまん……!)
 ここでおっぱいに屈してしまうから、妙子の信頼を勝ち取れないのだと頭では分かっていてもどうにもならない。例えコトの後正気に戻った妙子に蛇蝎のごとく嫌われようとも、一線を越えたいという思いに逆らうことが出来ないのだ。
(くそっ……妙子がなかなか触らせてくれないから……余計に興奮しちまう…………)
 眼前でつんと立ち、自己主張をするピンクのつぼみのなんと美味そうなことか。もちろん月彦は妙子が特に乳首が弱いということは知っている。知っているからこそ、あえて先端への刺激を避け、揉む感触を楽しむに止めているのだ。
(大きさって意味では先生の方が大きいし、真央のも同じくらいはある、けど……)
 “白石妙子の”というだけで、興奮が天井知らずに高まる。ひょっとしたら、妙子のおっぱいであれば別に大きくなくても良いのではないかとすら思える程に。
(あああでも……あんまり焦らして、もし妙子が正気に戻ってしまったらそこで終わりなわけだし……だったらそのまえにしゃぶりまくった方が……)
 血走った目でピンクのつぼみを見つめながら月彦は逡巡し、そして結局欲望の囁きに負けた。
「アッ……もっとっ……もっと………………ん!」
 妙子が一際甲高い声を上げ、両手で頭を抱き込むようにして後頭部に爪を立てられる。構わず月彦は唇を窄めて吸い、さらに舌先でれろれろと転がすようになめ回す。
「ァァッ! アッ! やっ……ンッ! あぁぁっ…………!」
 組み敷いた妙子の体が激しく跳ね回り、じれったげに腰がうねる。そんな妙子の反応が嬉しくて、月彦はさらに舌先で先端をねぶるように嘗め回す。その都度妙子は声を上げては腰を撥ねさせ、もどかしいと言わんばかりに足を絡めてくる。
「欲しい……欲しいのっ…………欲しい…………欲しいぃィ………………!」
 足を絡めながら腰をくねらせるその様に、月彦は目を疑う――実際には、月彦の両目は眼前のおっぱいに釘付けになっており、腰の動きは視界の端でとらえ衣擦れの音で察しているに過ぎないのだが――ばかりだった。
 妙子とヤれる――その期待感に頭の奥が痺れ、徐々におっぱいだけでは物足りなくすら思えてくる。
(あぁぁ……妙子っ……妙子っ、妙子っっ…………!)
 ”いつも”であればとっくに衣類を脱ぎ捨て、挿入に臨んでいるところだった。あまりの興奮に心臓が狂ったように脈打ち、高温の血液がギャンギャンと音を立てて全身を駆け巡るのを感じる。全身が力に満ち、徐々に妙子とヤる以外何も考えられなくなる――“獣”になる。
「たえ、こ……」
 ”機”は熟した――月彦はおっぱいを舐め、しゃぶるのを止め、顔を上げる。陶然とした妙子と目が合った。上気した肌はこれ以上ないという程に色っぽく、トロンとした目には発情の光が宿り、惚れた幼なじみのそんな顔に、月彦の興奮メーターは一気にレッドゾーンを振り切った。
(あぁ……だ、ダメだ……ヤバい、これは……止まらない…………)
 自身の興奮の度合いに、月彦は俄に肝を冷やす。一体全体何発ヤれば、”この興奮”が治まるのか。はたまた満足できるのか――もちろん、回数イコール満足度ではないことは重々承知してはいるのだが――まったく見当がつかないのだ。
(ヤバい……ヤバい…………妙子が、欲しい……欲しくて欲しくて堪らない…………!)
 "コレ"はヤバい。このままでは、大好きな妙子をヤり殺してしまうのではないか――そんな危惧すら沸く。が、だからといって止まれる筈も無い。ミシミシとベルトの金具が軋む音が聞こえる。“下半身”も完全にヤる気だ。もはや止まれない。止まることなど出来ない。
 ぜえぜえという耳障りな音が自分の息使いだと気づく。いささか過呼吸気味なのか、頭がくらくらする――が、”そんなこと”で意識を失うわけにはいかない。月彦は胸に触れていた手を徐々に、徐々に“下”へと這わせていく。汗の浮いた腹部を通る際、妙子は艶めかしい声を上げて腰を大きくくねらせた。
(……ちょっと、柔らかいな)
 ぷにぷにと、脂肪の感触を楽しむように、軽く指先で押したりしながら、月彦は俄に口元を綻ばせる。太っている――という程ではないが、若干運動不足気味ではあるのかもしれない。犬たちと暮らしていた時に比べれば――主に散歩の回数という意味で――間違い無く運動不足であろうから当然と言えば当然かもしれない。
(……まぁ、腹筋が筋肉痛になるくらい声を上げさせてやれば、少しは引き締まるだろう)
 そんなゲスい事を考えながら――もちろん本人は善意のつもりだが――指をさらに南下させていく。ジーンズのベルトを乗り越え、ジーンズそのものへと到達する。そのまま、焦らすように太ももの内側を撫でつけると、これまた妙子は声を上げて悶えだした。
「ああぁっ……!」
 “足の付け根”へと近づくほどに、指先に“湿り気”を感じる。それだけで、”ジーンズの下”が一体どうなっているのか見てとれるようだった。月彦はジーンズの中央、チャック部分へと指先を押し当て、
「あっ……ァァァァァァァァッ!!」
 チャックに沿ってゆっくりと、“その下”の割れ目をなぞるように撫でつける。妙子は声を上げながら大きく背を反らし、声を上げながらもう辛抱堪らないとばかりに月彦の首に両手を引っかけてきた。
「つき……ひこ……」
 目が合った瞬間、不意に名を呼ばれた。どきりと大きく心臓が撥ねたのは、今の妙子に名を呼ぶ程の判断力があることに驚いたから――だけではなかった。
「たえ…………こ…………」
 違う――そんな思いが唐突に、強烈にわき起こる。妙子は、妙子ならそんな目で男を見上げながら腕を絡めてきたりはしない――そんな怒りにも似た衝動に、月彦は硬直する。
(いや、”今更”だろ……そんなの、わかりきってた事じゃないか――)
 ”それ”を承知でヤるつもりだったのではないか――そんな自身への問いかけに、月彦は大きく首を振る。それはダメだ、”そんなの”はダメだ。それでは、白石妙子の姿形をしたダッチワイフを抱くのと何が違うのかと。
(っっ……それ、でも…………妙子とヤれる、なら……)
 姿形が寸分たりとも変わらないのなら、それでもいいのではないか――そんな脅迫じみた声を上げる下半身に、月彦は再度首を振る。これでは――不可抗力とはいえ――強力な媚薬を飲ませて強引にヤッてしまうのと何も変わらないのではないか。”そんなこと”の為に、今まで十数年間妙子にアタックし続けてきたのか。
「ぐ、う、あ…………ぅ、ぁ、ぁ、ぁ、ぁ……………………!」
 苦渋。嘆きが、嗚咽の声となって口から漏れる。今ならヤれる。ただヤるだけならばそれこそたやすい。あれほどに渇望した妙子の体が、手の届く所まで来ているというのに。
「ぐぅ、あ……あ、あ、ああああああああああああああァァァッ!!!!!」
 目には見えない、強力な粘着性の糸でも引きちぎるように。月彦は雄叫びを上げながら身を起こし、そのままからくも立ち上がる。が、足にまるで力が入らず、そのままよろけるように後退し、壁へともたれ掛かる。
「…………?」
 そんな月彦の“奇行”に妙子は首をかしげる。そしてすんすんと鼻を鳴らしながら四つん這いに足下まで這ってきて、まるで縋り付くような手つきで足へと手を這わせ、ズボンの下から激しく自己主張している股間へと頬ずりをしてくる。
「くっ……や、め、ろ……妙子は、そんなことはしない…………っ…………」
 コレが欲しい、コレが欲しいと激しく訴えるような頬ずりにかろうじて持ち直した理性がゴリゴリ削られる。ここぞとばかりにそら見ろ妙子も”それ”を臨んでるんじゃないかと騒ぎ立てる圧倒的多数の声に月彦は必死に首を振りながら、
「っっっ…………だ、め、だ……って言ってるだろうが!」
 再度、月彦は妙子の体を突き飛ばす。そしてそのままあらん限りの理性と勇気を振り絞り、右拳を堅く握りしめて大きく振りかぶる。
「はぁっ……はぁっ…………こ、んのぉぉ……静まれぇええええええええええ!」
 最悪、この一撃で生涯使い物にならなくなったとしても。それでも正気ではない妙子とヤッてしまうよりはマシだ――覚悟の一撃は、当然のことながら自身の股間へとクリティカルヒットした。
「ぐおっ…………おっ……おっ……………………!」
 想像の10倍は酷い痛みに、月彦はたちまち膝から崩れ落ち、絨毯の上に転がりながら悶絶する。
「おっ……おっ……おっ…………」
 痛い――が、おかげでいくらか頭が冷静になる。月彦は生まれたての子鹿のように足をがくがくさせながらもかろうじて立ち上がり、呆けたように首をかしげて座っている妙子と対峙する。
「い、いいか……妙子、お前は今、間違い無く正気じゃない! 気をしっかり持て!」
 ほんの一分前まで欲望の汁に浸かり脳みそが茹だっていた男が口にするセリフではなかったが、幸いこの場にそのことを指摘する者は居ない。妙子も、まるで月彦の言葉が理解出来なかったのか、蕩けた顔のままわずかに口元を綻ばせただけだ。そのまま膝立ちになり、再び縋り付くように手を伸ばしてきた所を――。
「妙子! “おすわり”!」
 月彦はすかさず“命令”する。ぴたりと、妙子は一瞬動きを止めるが、しかし再び手を伸ばしてきて――。
「妙子、“おすわり”だ」
 月彦は再度命令し、それでも尚動きを止めようとしない妙子の前に片膝をつくや――
「あんっ」
 がっしりと、左乳をわしづかみにする。
「聞こえなかったのか? ”おすわり”だ。ほら、妙子」
 ぐに、ぐにと乳を捏ねながら、耳元に怒鳴りつける。
「あっ、あっ……」
「ほら、妙子」
 イヤイヤをするように首を振る妙子の胸をしつこくこね回し、徐々に、徐々に膝立ちから”おすわり”の状態へと腰を落ち着けさせる。
「よーしよし、そうだ……いい子だ、妙子」
 右手は常におっぱいを揉みながら、左手で頭を撫でてやる。なんとなく、右手の愛撫を止めた瞬間、ギリギリまで引いた弓から放たれた矢のような勢いで飛びかかられ再びマウントをとられるという確信が、月彦の中にあるからだ。
(躾だ……躾をやり直すしかない……!)
 ヤらずにこの場を納めるには、もはやそれしか無い。散歩や、命令をきかせるだけでは不十分だった。文字通り体に刻み込んでやらなければ。
(ああっ、くそ……余計なことは考えるな……集中しろ……!)
 初恋相手の幼なじみが上半身裸で、しかも首輪をつけた状態でとろんと蕩けた目で自分を見上げてきていることとか、じれったげにジーンズの太ももを擦り合わせていることとかは一切気にするなと。
 脳の理性回路が火花を散らすのを感じながらも、月彦は必死に欲望を抑え込む。
「つき、ひこ……」
 が、その必死の理性も。かつて聞いた事が無い程の艶めかしい発音で名を呼ばれればたやすく揺らぐ。
「ここ……」
 そう言って、妙子は自らの腹部を撫でさする。
「欲しいの…………」
「……くっ…………だ、ダメだって言ってるだろ…………」
 理性がさらにぐらぐらと揺れ、月彦はつい右手を離してしまった。ヤバい――という月彦の直感は、ある意味当たりある意味外れた。
 妙子は、飛びかかってはこなかった。
 代わりに。
「なっ……ば、ばかっ……」
 牝豹のようなしなやかな仕草で妙子はゆっくりと体の向きを変えると、そのまま四つん這いになる。まるで、「さあどうぞ」と言わんばかりに月彦に向かって尻を差し出し、上半身を伏せたその姿に、月彦は思わず意識が遠のくのを感じた。
「くぅん……♪」
 そんな声と共に、妙子が誘うように尻を揺らす。つつと鼻の下の辺りがむずむずするのは、鼻血のせいだが、それをなんとかしようとするより先に、月彦の両手は妙子の尻へと伸びていた。
「がっ……あああ……だからっ、ダメだって言ってるだろうが!」
 ジーンズごしに尻肉を揉みかけた手を振りかぶり、ばしーん!と月彦は思い切り妙子の尻をひっぱたく。
 きゃんと悲鳴を上げて座り直す妙子から距離をとるように、月彦はよろけながら半歩後退る。
(っ……あ、あぶねえ…………妙子がズボン履いてなかったら……耐えられなかったな、多分……いや、間違いなく!)
 もし下がスカートだったら、下着だけになっていたら、あるいは下着をつけていなかったら、間違い無く道を踏み外していた。貞操防御力の高いジーンズに感謝しながらも、月彦は再度調教師の目で妙子を見下ろす。
「こ、ンの……もうキレたぞ…………」
 半裸の幼なじみからのねっとりとした、絡みつくような視線よりも。股間を殴りつけた痛みよりも。
 目の前の躾のなっていない犬に対する怒りが勝る。
「妙子の体だから、今までは手加減してやってたんだ。……こうなったら無理矢理にでもその体から追い出してやる」
 こきりと右手の指を鳴らして、そのままむき出しになっている妙子の左胸へと伸ばす。――そして先端をつまむや、きゅっと抓るようにひねり上げる。
「ふやっ…………ひゃうん!」
 たちまち妙子は悲鳴を上げながら膝立ちになり、そのまま体を硬直させてしまう。
「どうだ、動けないだろう。妙子はココが弱いからな。……でも、まだまだだ」
 親指の腹と人差し指の先でくりくりと転がすように愛撫すると、妙子は喉を震わせながら甘い声を上げ、今度は腰砕けになるように座り込んでしまう。
「あっ、あっ、あっ、あっ……!」
 切なげに声を上げながら。
 じれったげに太ももをすりあわせながら。
 みるみる息は荒く、声は甲高く。
 そんな妙子の変化をつぶさに観察しながら、月彦は徐々に、徐々に。まるで獲物を袋小路へと追い込むように。
「いやっ……いやっ……」
 涙目で首を振りながら、月彦の手を引きはがそうとするかのように掴みながら。
「あっ、アッ、あッ……アッ……アッ……アッ……!!!」
 腰の辺りをひくひくと震わせながら。白石妙子の肉体が絶頂を迎えたことを、月彦は乳肉越しに手のひらで感じた。
「ああァァ……あふっ…………あぁっ…………あふぅっっ…………」
「まだだ。これで終わりじゃ無いぞ?」
 そのまま腰砕けに寝そべってしまおうとするのを背へと回した左手で抱き留めながら、さらに右手で愛撫を続行する。
「ぁっ、ぁっ……やっ…………!」
「嫌じゃないだろ。交尾狂いのメス犬が……気持ちよくなりたくて仕方なかったんだろ?」
 だったら望み通りにしてやる――幼なじみの――”初恋の相手”の、快楽にとろけきった顔にゾクゾクするほどの興奮を覚えながらも、月彦はあくまで“妙子を助ける為”に心を鬼にして愛撫を続けるのだった。



 首輪に書かれている文字に月彦が気づいたのは、“愛撫”を開始してから二時間は経過した頃だった。
「”taeko”って……そういや、他の家から貰われてきた犬なんだったか」
 当の妙子は違う名で呼んでいた様だが、成る程。月彦にはなんとなく妙子が首輪を頑ななまでに隠そうとしたことと、何故妙子の身にこのような災難が降りかかったのかが分かった気がした。
「っと、いかんいかん。つい手が止まってたな」
「ふぇあ!? あああっ…………あぁぁぁぁああ……!!」
 右手の動きを再開させると、妙子はたちまち背を反らし顎を突き出すようにして喘ぎ出す。何かと邪魔をするその両手は既に腕を吊るのに使っていた三角巾で後ろ手に縛ってあり、そんな幼なじみの上半身を、月彦はまるで楽器でも奏でるような手つきで撫で、摩り、そして頃合いを見て揉み、
「あああっ、あぁっ!」
 先端をつまみ、
「あァァ! あッ……あッ! あァァァァッ!!!!」
 きゅっと、抓るように強く刺激すると、妙子は腰を撥ねさせながら一際甲高い声で鳴く。
「ぁっ……ぁっ……ぁっ……」
 ぜえぜえと喘ぐその体はぐったりと脱力し、すっかり快楽にほぐされトロけきった顔は溢れた涎と涙でデコレイトされてこれ以上無く扇情的だ。わずかでも気を抜けばたちまちむしゃぶりついてしまうであろう光景を前にして、しかしことここに至って月彦は自分でも驚く程に冷静だった。
「どうだ、そろそろ満足して妙子を解放する気になったか?」
 つつと、汗の浮いた腹部を指先でそっとなぞる。何度も絶頂を繰り返しすっかり敏感になった体はそれだけで反応し、月彦の指の動きを追従するように、妙子は――正確にはその体は――じれったげに腰をくねらせる。
「ぁぅっ……ぁあぅ…………」
「そうか、まだダメか。……よくばりなメスだな」
 涙目のままイヤイヤをする妙子に月彦は軽く溜息をつき、あぐらをかいたその膝の上に抱くように抱え上げ、凭れさせる。
「ぁっ……」
「なんだ、“オスの匂い”でもするのか?」
 たちまち妙子が鼻をすんすん鳴らしながらすり当てて来、月彦は苦笑を禁じ得ない。
「んぁっ……ぁっ……もっと…………もっとぉ…………!」
 そして鼻を鳴らしながら、甘えるように体を擦りつけてくる。妙子ではなく、その身に乗り移っているメス犬の仕業だと分かっていても、正直悪い気はしないから困ったものだった。
「”もっと”か。……その言葉、正気の妙子から聞かされたいもんだ」
 月彦は右手を妙子の胸元へと宛がう。それだけで、妙子が口元に期待の笑みを浮かべる――が。
「…………そんなに”欲しい”のか?」
 たっぷりと時間をかけて快楽の味を覚え込ませてやったのは、まさにこの瞬間の為だ。期待の笑みがやがて困惑に、そして焦燥が混じりだしても、月彦は手を宛がったまま一切の動きを止めて――待つ。
「ぁっ……ぁぁっ……やっ……いやっ…………やくっ……はや、く…………!」
「ダメだ、妙子。“おあずけ”だ」
 とうとう泣きそうな声を上げながら体を揺すり始めた妙子に、月彦は頑として言い放つ。さながら氷礫でもぶつけるような口調になってしまったのは、心を鬼にしなければ“惚れた女の涙声”にうっかり甘い顔をしてしまいそうだからだ。
「あぁぁっ…………してっ…………してっぇ…………!」
 両手が使えない為か、妙子は両足で絨毯を蹴るようにして、ほとんど背中をぶつけるような勢いで懇願してくる。
「ダメだ、おあずけだ」
 顎をつかみ、しっかりと目と目を合わせて“命令”する。トロけきった顔のまま、喉の奥で微かにくぅんと叱られた犬のような声が聞こえた。
「……続きをして欲しければ、妙子の体を解放すると約束しろ。そうすれば、好きなだけイかせてやるぞ」
 相手が犬の霊では言葉も交渉も通じない可能性もある。が、片言ながらも自分の欲求は妙子の口を通して伝えてきているのだ。
 ならばその逆も可能なはずだ。
「ほら、どうした。約束をしないなら、ずっとこのままだぞ?」
 つつと、指先――それこそ爪の先がかろうじて肌に触れるか触れないかのところで、月彦は胸の膨らみと、その先端を撫でつける。
「あぅぅ…………」
「ほら、妙子?」
 耳元で囁くように名を呼んでやると、濡れそぼった目の奥に喜色の輝きが増す。ここぞとばかりに、月彦はやんわりと胸元を――揉む。
「あああぁぁ……♪」
「ほら、約束しろ。しないなら――」
「やっ……やぁっ…………するっ…………するっ、からぁ……!」
「言ったな? “解放する”んだな?」
 こくこくと何度も頷きながら「する」と連呼する妙子に対し、月彦もまた大きく頷く。
「言質を取ったからな。……もし約束を破ったら、尻をひっぱたくくらいじゃ済まさないぞ」
 尤も、その時は自発的に体から逃げ出したくなる程に快楽漬けにして責めて立ててやるつもりだったが。
「よし、そっちが約束を守るなら……こっちも守らないとな」
 やんわりと、胸を揉み始める。たっぷりと焦らされたからだろう、妙子はたちまちとろけるような声を上げ、喘ぎ出す。
「気持ちいいか? 妙子」
 囁くと、妙子はより高い声で鳴く。なるほどと納得し、月彦はさらに妙子の耳元へと唇を寄せる。
「たえこ」
 あァッ、と。妙子が体を震わせながら声を上げる。さらにぐにぐにと乳肉を捏ねながら、さらに囁く。
「たえこ、たえこ」
「アッ! あッ……あッ!」
 ゾクゾクゾクッ――妙子の体の中を、凄まじい快感が駆け巡っているのを、乳肉越しに感じる。
「あぁぁっ……もっと、もっとぉ…………!」
 月彦の首筋に鼻先を擦りつけるようにしてすんすん鳴らしながらのおねだり。月彦はことここに至って漸く、妙子の“もっと”の真意を知った。
(…………そうか、きっと“本当の名前”で呼んで欲しかったんだな)
 幼少期の記憶が確かなら、ラクシャサもといタエ子は最初から白石家で飼われていた犬ではなく、貰われてきた犬だった筈だ。どんな事情があったかは分からないが、飼い犬側がその事情を理解出来たとは思えない。
(訳も分からないうちに知らない家につれてこられて、気に入らない名前で呼ばれれば恨みが募ることもある、か……)
 事情を知ったからといって幼なじみの肉体を乗っ取っり好き勝手をしたという怒りが消えるわけではないが、少なくとも情状酌量の余地はあるだろう。
「……そういうことなら、今度こそ心残りが無いように何度も呼んでやる。……ほら、妙子?」
 月彦はさらに妙子の体を抱き上げ、しっかりと抱きすくめるようにして耳元でその名を囁き、囁きながら両手で胸を揉みしだく。
「ああああァァァァァッ!!!」
「そんなに“良い”のか」
 もっぎゅもぎゅとたっぷりの質量をこね回しながら、時折先端をくりくりといじってやる。しっかりとジーンズに包まれた下半身をそのたびにヒクつかせるその様に、思わず月彦の方も生唾を飲んでしまう。脱がすまでもなく、しっとりと汗ばんだジーンズの分厚い生地越しに甘酸っぱい香りすら漂って来るかのようだ。
「あっ、あっ、あんっ……! あんっ……あぁぁっ……あぁぁっ………………!!」
 胸をいじられ、ぜえぜえと喘ぎながら足ピンしている幼なじみの姿に、月彦は一瞬――ほんの一瞬だけ恐怖を覚える。まだキスもしていないような相手の体を、ここまで開発してしまって良かったのだろうか――と。
「あああァァァァッ…………! もっと、もっと、もっとぉ…………あぁぁぁっ!!」
「ああ、分かってる。…………“そろそろ”だろ? ほら、イけ、“たえこ”。そして体を”妙子”に返すんだ」
 ここぞとばかりに、先端を強く刺激してやる。
「あァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!」
 一際甲高い声を上げて、妙子が――その体が――達する。ぎゅっと抱きしめた腕の中で、その体が痙攣するのをしっかりと感じ取る。そうすることで、快楽の余韻だけでも分かち合えるような気がしたからだ。
「………………妙子?」
 たっぷり五分は待ち、呼吸が整った頃を見計らって声をかける。正気に戻った瞬間殴り飛ばされる可能性も覚悟の上で、月彦はあえて逃げ腰にならず、しっかりと両手で妙子を抱き続けた。
「…………ぁっ……」
「うん?」
「ン……ぁ…………くぅん…………♪」
「……おい。約束が違うぞ」
 媚びるような声を出しながら、鼻先をすりすりしてくる幼なじみに、月彦は怒りよりも呆れを感じた。さながらそれは悪戯が発覚した直後だというのに、知らん顔でいつも貰っているおやつをねだってくるバカ犬に感じるような徒労感だった。
(…………てことは、もう“最後の手段”しかないか)
 この欲張りなメス犬の魂が逃げ出したくなるほどに快楽漬けにしてやるしかない。妙子の体への後遺症が心配でそれだけはと躊躇していたが、事ここに至ってはもうやるしかない。
(……っ……右手が……)
 大分無理をさせているのだろう。思い出したようにずきんずきんと痛み出す右手に力を込め、月彦は再度両手で妙子の胸元を掴む。
(朝までだ。……朝までに、決着をつける)
 理性が持つのも、腕の握力が持つのも、どのみちそれくらいが限界だろう。
 惚れた女の貞操を(自分というケダモノから)守る為に、月彦は最後の戦いに臨むのだった。



 

 それはきっと、“幸せだった頃”の思い出だったのだろう。“小さな人影”が三つに“大きな人影”が二つ。逆光のようになっていて顔が見えず、人の大きさの影としか認識できない。そして喋っている言葉も全く理解は出来なかったが、それでも自分に愛情を持って接してくれているのだと。体を撫でる優しい手つきからも痛い程に伝わってくる。
 そう、言葉は分からない。分からないがそれぞれの影が口にする短い発音のそれが自分を差している言葉なのだということは分かる。それはとても心地よい響きで、名を呼ばれるだけで体の内側にほんわりと暖かいものが満ちてくるようだった。そんな“幸せな時間”が――唐突に、まるで薄いガラス板が無残に踏み割られるように終わり、そして変わった。
 とても優しい、黄金色の後光すら伴って見えた家族らの影は消え、代わりに現れたのは一つの小さな影だった。子供ほどの大きさのそれが馴れ馴れしく体に触ってくるのが酷く不快だと感じる。――否、それよりなにより、“違う名”で呼ばれるのが特に我慢ならなかった。酷く不快な響きだと感じるそれはさながら悪臭を放つ、びちゃびちゃの雑巾でもぶつけられているかの様。“小さな影”の存在は特に嫌いだった。“大きな影”が小さな影を“あの幸せな響き”で呼ぶことも、小さな影を嫌う気持ちに拍車をかけた。
 “同族たち”の存在も不快だった。不思議なことに、他の同族たちはこの場所がえらくお気に入りらしく、小さな影とそのさらに上に立つ大きな影を主であると認めひどく懐いていた。“そんな連中”と馴れ合う気にはとてもなれなかった。小さな影も、大きな影も大嫌いだった。“これ”を家族であるとは絶対に認めたくない――ほとんど憎むようにそう思い続けるうち、凄まじい衝撃が突然体を襲い、同時に“白石妙子”は目を覚ました。
 
 朝日――と呼ぶにはいささか高すぎる位置まで上った太陽からの日差しを瞼の裏に感じる。目は覚めたとはいえ、意識までもがはっきりと覚醒したわけではなかった。どうやら何かの夢を見ていたようだが、内容がよく思い出せない。ただ、目尻に滲んだ涙が、ひどく悲しい夢であったことを示唆していた。
 そう、妙子は本当の意味では目覚めてはいなかった。というより寝ぼけていた。だから、体を包む毛布の感触が純粋に心地よいと感じるし、自分と同じ毛布にくるまっている存在も“父親”であると誤認した。
「おとうさん……」
 夢の影響だろうか、ひどく父が恋しいと感じる。妙子は身をすり寄せ、まるで幼い頃そうしていたように、抱きつき甘える。――が、次第に意識が覚醒すると共に“それはありえない”という事に気づく。
(えっ……誰……)
 気づいた瞬間、妙子は背筋を冷やしながらハッと目を開けた。
「よ、よぉ……起きたか、妙子」
 そして、今の今まで自分が甘えるように抱きついていた相手が頼りにならない幼なじみこと紺崎月彦であると知った。
「なっ……」
 なんであんたが――そんな言葉を口にする前に、妙子の脳裏に“昨夜の記憶”が蘇る。
 首輪が外れなくなり、月彦を呼んだこと。首輪を外すためだと説得され、犬のマネをさせられたこと。
 そして――。
「あ、あぁぁ、あぁぁぁ………………」
 甘えるように月彦に縋り付く自分の姿が半裸――正確には、上半身のみ裸――であると気づく。が、“そんなこと”よりも。
「わ、悪い……せめて服だけでも着せようと思ったんだが……」
 右手が痛くて、片腕じゃどうにもならなかった――そんな月彦の“戯言”は、メンタルブレイクして絶叫する妙子の耳には到底届かなかった。


「た、妙子!?」
 目を覚ますなりアパート中に聞こえるような雄叫びを上げた妙子は毛布の中から飛び出し、そのまま台所へと向かった。月彦も慌てて後を追い――
「ま、待て! 落ち着け! 話せば分かる!」
 包丁を両手で握り、己の喉に突き立てようとしている妙子の姿に凍り付いた。
「ふぐっ……うぅ…………ぅぅぅ…………!」
 妙子は赤面したまま歯を食いしばり、両目いっぱいに涙を貯めていた。「あんな痴態を晒したからにはもう、死ぬしか無い」――そんな妙子の気持ちが痛い程に伝わってくる。
「大丈夫だ、妙子。俺には分かってる、お前は正気じゃなかった! 何も恥じ入ることはない、仕方なかったんだ!」
 下手に刃物を取り上げようとすれば、かえって危ない。どう、どうと月彦は暴れ馬でも宥めるような手つきと共に、じりじりと距離を詰める。
「それにほら、気づいてるか? 首輪、外れてるだろ? もう大丈夫だ、犬の真似ももうしなくていいんだ」
 首輪が外れている――その言葉に、妙子の意識が逸れるのが分かった。包丁から右手が離れ、自分の首元を触った――その瞬間、月彦は一気に距離を詰め、激痛に顔をしかめながらも包丁を取り上げる。
「ぐがぁっ…………痛ぅぅ…………」
 が、あまりの痛さに取り上げた側から包丁を取りこぼしてしまった。床に転がったそれを素早く左手で拾い、慌てて妙子の方に向き直る。
「首輪……本当に外れてる……」
 自分の首を触りながら、妙子は呆けたように呟く。どうやら、少しは落ち着いたらしいと、月彦は包丁をしまいながらホッと安堵の息を吐く。
「ああ、明け方くらいに外れたんだ。……やっぱり、取り憑いていた犬のせいだったんだろうな」
 月彦は居間へと戻り、炬燵の上に置いてあった首輪を手にとって妙子に見せる。
「…………そういえば、なんだか“夢”を見た気がするわ。ラク――……あの子が、前の家族のところで幸せに暮らしてたときのことと、私がつけた名前が嫌で嫌で堪らなかったこと……」
「……どうやらそうだったみたいだな。“本当の名前”で呼んで欲しかったんだろうけど……」
 そこで月彦は言葉を切る。妙子が何故“ラクシャサ”を本当の名前で呼ばなかったのか――理由は明白だ。自分でも”ツキヒコ”という名の犬が貰われてきたら、違う名をつけてその名で呼ぶだろう。
「ま、まぁでも大丈夫だ。あいつも最後は満足して……多分、成仏(?)したっぽかったし……もう悪さすることはないだろ」
「そう、だと……いいんだけど…………」
 落ち着きを取り戻しをしたものの、まだ本調子ではないらしい。妙子は首輪を手にしたまま呆けたように呟き、立ち尽くしている。――上半身は裸のままで。
(いや、俺はいいんだが…………さすがにちょっと目のやり場に困るというか)
 ガン見は出来ない。が、かといってまったく見ないのはもったいないとばかりに、つい何度もチラ見してしまう。
「あっ」
 さすがにそんな不審な挙動を繰り返されては、妙子も自身の無防備おっぱいに気づいたらしい。慌てて両手で覆うように隠すや睨むような目を向けられる。
「い、言っとくけど俺が脱がしたんじゃないからな!」
「わ……かってる、わよ………………とにかく、シャワー……浴びてくるから……………………」
 妙子は胸元を隠したまま月彦の脇を抜けて着替えを手にするや、居間を後にする。去り際、ぽつりと。
「えっ……」
 耳元に残された言葉に思わずそんな言葉が出るも、居間と台所とを繋ぐ引き戸を閉める音にかき消された。
「今、あいつ……“勝手に帰るな”って……言ったよな?」
 それとも勝手に覗くなの聞き違いだろうか。どちらにせよ”シャワーが終わる前に帰れ”でないことは間違い無かったと、月彦はどこかソワソワした気持ちで、そして何故か正座をして妙子の帰りを待つのだった。


 が、若干長めのシャワーを終えて戻って来た妙子はすっかりいつもの妙子に戻っていて、少なくとも憑依を解いて尚発情が治まらないというような事態にはならなかった。バスタオル姿で戻って来た妙子に”昨夜の続き”をねだられるような展開をほんのちょっぴりだけ期待していた月彦は俄に落胆し、しかしその何十倍も安心した。
「……お腹、減ってない?」
 昨夜とは色違いのセーターとジーンズ姿に着替えた妙子がシャワーから戻って来るなりの第一声がそれだった。問われて、まるで「そういや食ってなかった!」と体が思い出したかのように、きゅるると腹が鳴った。
「…………昨日買い物行きそびれちゃったから、何も食べるものがないの。コンビニで何か買って来るけど、食べたいのとかある?」
「え……いや、別に、そんな……」
 財布も持ってきてないし、とほとんど独り言のように小声で呟くと、妙子は小さく溜息をついた。
「……そのくらい私が出すわよ。希望が無いなら適当におにぎりとパンでも買ってくるけど、それでいい?」
「あ、あぁ……」
 別に無理に朝食をおごってくれなくても、家に帰れば何かしら食べるものくらいはある――そんな言葉が喉まで出かかって、止まる。帰れと言われたならまだしも、妙子の方から一緒に朝食をと言ってくれているのだ。
 断る理由は無かった。
 妙子がダウンジャケットを羽織り、外へと出て行く。再び留守番をする羽目になった月彦は手持ちぶさたになった。せめてテレビでもあれば気も紛れるのだが、妙子の部屋にはそんなものは無い。
 こうして暇をもてあますくらいならいっそ一緒に行けば良かったと後悔しかけたところで、思いの外早くに妙子は戻ってきた。
「ただいま。本当に適当に買って来たから、食べたいのを適当に食べて」
 居間のテーブルの上で、妙子がどちゃっとコンビニ袋をひっくり返す。おにぎりが十個ほどと、パンがいくつか。飲み物は缶コーヒーとペットボトルのお茶が二つ。おにぎりはすべて違う味かと思いきや、明太子と鮭だけが何故か二個ずつあった。
「お、おう……ありがとう、妙子。んじゃ、早速――」
 とりあえずダブっている二個から食べようと、手を伸ばしかけたところで。
「それ、二個ともあんたが食べていいから」
「えっ……なんでだ?」
「なんで、って……あんた、明太子好きじゃなかった?」
 妙子の言葉に、思わず首をかしげる。一体全体どこから明太子が好きという話が出てきたのだろうか。
「いや、別に…………たらこは好きだけど……」
 妙子があっ、という顔をする。
「……ごめん、素で覚え違いしてたわ」
「いや……好きって言えば好きだけど、別にそこまででもないっていうか……」
 是が非でも食いたい――というわけではなく。”どちらかと言えば好き”な程度の好みの差であり、それはわざわざ人に買いに行ってもらう際に頼むほどのものではなかった。
(むしろ……)
 明太子だろうが塩だろうが、妙子がわざわざ買ってきてくれたおにぎりというだけでどんな好みの味付けのおにぎりよりも得難く、美味に感じることだろう。だから、本当の意味で“何でも良かった”のだが。
(…………でも、なんか嬉しいな。妙子が俺の好みを覚えていて、わざわざ買って来てくれるなんて)
 正確には覚え違いをしていたわけだが、そんなことは些細なことだと、月彦はおにぎりを取ろうと手を伸ばし――
「ギャアッ!」
 ――た瞬間、右手に走った凄まじい激痛に思わず悲鳴を上げた。
「ちょっ……大丈夫なの!?」
「ぐがぁっ………………し、しまっ……右手は使えないんだった……」
 すっかり忘れていたと、歯を食いしばり脂汗を流しながら、月彦は激痛に耐える。
「………………………………。」
 ひいふうひいふうと涙目になりながら痛みを堪えていると妙子が無言で包装を解いたおにぎりを差し出してきた。
「……はい。片手が使えないんじゃ、これ破るのも一苦労でしょ」
「す、すまん……ありがとう、妙子」
「お茶も、キャップ開けといたから」
「何から何まですまん……」
 これではまるで要介護おじいちゃんではないかと、痛みとは違った意味の涙が出そうになる。とはいえ空腹が限界に近いのも事実で、涙を飲みながらも差し出されたおにぎりを次から次に平らげていく。
「……おにぎり、もっと買ってきたほうがいい?」
「へ……? あぁぁ!」
 食べることに夢中になって、気がつけば十個のおにぎりをすべて一人で平らげてしまっていた。あわわ、あわわになる月彦に、妙子は小さく肩を落としながら溜息をつく。
「別にいいわよ。まだパンもあるし」
 これではとんだ食いしん坊さんではないか。もはや謝る言葉すら口に出来ず、月彦はただただ恥じ入るように身を縮め、正座をする。
「………………。」
「………………。」
 それきり妙子も黙ってしまい、黙々とパンをかじりながら缶コーヒーへと口をつける。
 思えば、妙子と二人きりの時はいつも“こう”だなと。しょんぼりすると共にやはり奇妙な安堵を感じる。
「…………昨日のことだけど」
 いつもであれば、ここでいらぬ口を効いて妙子の不興を買ってしまうところまでがワンセットなのだが、意外にも沈黙を破ったのは妙子の方だった。
「和樹と千夏には……絶対、黙ってて欲しいんだけど…………」
「そりゃあ……うん。分かってる、絶対に言わない」
 というよりも、言ったところでそもそも信じてもらえるかどうかも怪しい。
「…………。」
「…………。」
 また沈黙。妙子相手だとどうしてこう話が広がっていかないのだろう。
「ねえ」
「な、なんだ?」
「その手……ひょっとして悪化しちゃったんじゃないの?」
 即答できず、月彦は言葉に詰まった。
「……あぁ、いや……どうなんだろうな」
 実際には”どうなんだろうな”どころでは無かった。妙子の部屋に来た時点での痛みを10段階中の2くらいだと例えるなら、現時点での痛みは7、わずかでも動かせばたちまち10という痛さだ。
「…………ごめん。謝って済むことじゃないけど、それでも謝らせて」
「いいって、妙子が気にすることじゃない」
 その分たっぷりと堪能させてもらったことだし――危うくそんな余計な一言が口から飛び出そうになり、慌てて左手で口を覆う。
「……昨夜の、こと」
 妙子は手にしていた缶コーヒーをテーブルに置き、まるで寒さでも堪えているようにぎゅっと肩を抱く。
「私も……全部覚えてるわけじゃないけど……特に、散歩から帰ってからのことはほとんど覚えてない、けど……」
 それでも、と。妙子はきゅっと一度口を真一文字に結んでから、辿々しく言葉を続けた。
「私が……自分から服を脱いであんたを誘って……それをあんたがつっぱねた時のことは、はっきりと覚えてるわ」
 ちらりと。顎を引くようにうつむき気味だった妙子が、上目遣いに見てくる。
「”妙子は特別だから”って……”こんな形はイヤだ”って……あんたが必死に我慢して、自制しようとしてくれてたことは、ちゃんと覚えてる、から」
 嬉しかった――最後にそう呟いたように聞こえたのははたして空耳だろうか。
「妙子……」
 うるうると、月彦は思わず目頭が熱くなるのを感じた。股間を殴りつけてまでの自制は、無駄ではなかった。我慢して本当に良かった。たとえ世界中の男から指を刺されあんなチャンスをモノにしないなんてバカの極みだと罵られても構わない。あの時踏みとどまって本当に良かった――
「ありがとう、妙子。実際、かなりヤバかったんだ……特に、こう……おっぱいをモロに出されて両手広げられた時なんてもう、ふらふら〜って……」
「い、言っとくけど! ”アレ”は私だけど私じゃなくて……と、とにかく正気じゃ無かったんだからね!? じゃなきゃ、あんなコト、絶対……」
「わ、分かってるって! 正気なら、絶対あんな事はしないよな、うん」
 ”あんな事”という言葉が、まるでキーワードであったかのように、様々なワンシーンが脳裏をよぎる。自ら胸をさらし、両手を広げて”おいで?”をする妙子に始まり、四つん這いになってお尻をフリフリ”欲しいの……”ポーズをする妙子。パンパンに張ったジーンズ越しに、剛直に頬ずりをする妙子、胸を揉まれながら、もっと、もっととおねだりをする妙子……。
「…………ねえ、あんたのその“右手”が悪化したのって……」
「うぐ……そ、それもやっぱり覚えてるのか?」
「はっきり覚えてるわけじゃないけど……だけど、朝起きてからずっと胸の辺りが変っていうか……なんか、あんたの手の感触がずっと残ってるっていうか……」
 妙子が、さらにぎゅうと肩を抱く。
「し、仕方ないだろ!? あの犬を妙子の体から追い出す為に……そうするしか無かったんだから!」
「………………ちょっと前の私だったら、あんたのその言葉……ただの妄言だとしか思わなかったんだろうけど……」
 説得力を感じてしまう自分が悔しい――妙子がそんな顔をする。
「てゆーか……何なのよ、あんたのその無駄な特技…………人の胸を勝手に大きくしたり、あれだけいろいろ試してもとれなかった首輪を、結局胸触っただけでとっちゃうし……」
「いや、そんな簡単な話じゃなかったよーな……」
 なんだかんだで”アレ”は憑依状態であったから効いたのではないかという気がする。犬の真似をすることでより憑依の度合いが強まり、妙子の体とのシンクロが深まった所での快感責めであったからこそではないだろうか。
 もちろん最初からその流れを狙ったわけではない。完全に偶然の産物なのだが、結果的に無事憑依状態を解除し首輪も外せたのだから結果オーライと言える。
「だいたい……手がそんななのに…………無茶して…………案の定悪化しちゃってるじゃない。首輪を取ってくれたのは嬉しいけど……だけど、それであんたが痛い思いをするんじゃ…………」
「いや、妙子が気に病む必要はないって。俺が好きでやったことだし……それに、確かに痛いけど……痛み以上に妙子の胸に触りたいって思うからこそっていうのもあるわけだし……」
「あんた、どんだけ………………っっっ……」
 ドン引き――されたのだろうか。妙子が顔を赤らめたまま顔を引きつらせ、そして大きく溜息をつく。
「…………ま、まぁ……ほら、アレだ。”お礼”の先払いをしてもらったって事で……」
 ”この件”に関しては恨みっこなしでいこうという月彦の提案は、意外にもスルーされた。
「……お礼……そういえば、そんな話もしてたわね」
「あ、いや……違うぞ、妙子。別に催促してるわけじゃなくてだな、既に払ってもらったから無用って話で……」
「あんたがそれでいいなら、私は全然構わないけど……」
「それに、朝飯もおごってもらったしな」
「それは別に………………ねえ、本当にいいの?」
「いや、だからいいって言ってるだろ? 第一、この手じゃあ触りたくてもさすがにもう……」
 指をミリ単位で動かしても激痛が走ると、月彦は苦笑する。
「……別に、胸にこだわる必要は無いじゃない。……あんたが……したいって思ってることなら…………少しくらいなら、我が儘聞いてあげるわよ」
 なんですと?――苦笑にまみれた顔を急に引き締め、月彦は聞き捨てならぬとばかりに妙子を見る。
「今、俺がしたいことを何でもさせてくれるって、そう言ったか?」
「言ってない! 少しくらいなら我が儘を聞いてあげてもいいとは言ったけど、なんでもさせてあげるなんて一言も言ってないわよ!」
「……その二つは似たようなもんだろう?」
「全然違うわよ! 第一、何でもいいって言ったら……何する気なのよ!」
「そりゃあ――……あぁ、いや……それはまぁ置いといてだな。”多少の我が儘”なら聞いてくれるんだな?」
「そこで念を押されると怖いんだけど…………”多少”なら……。…………あんたには、今回色々迷惑かけちゃったわけだし………………」
「多少、か……」
 むうと唸り、月彦は思案に耽る。どういうわけか、今日の妙子は妙に優しいように思える。あるいは自分のせいで怪我を悪化させてしまったという自責の念故に、そう振る舞わざるを得ないのかもしれないが、それはそれで妙子の心の負担を軽くさせてやるべく、贖罪の機会を設けてやるのが男としての努めではあるまいか。
(多少、多少……しかも、手は使えない……)
 あるいは左手だけで触らせてもらうというのもアリだが、それはそれでなんとももどかしい。次第に左手だけでは我慢出来なくなり、激痛に脂汗を流しながら右手も参入させている自分の姿が目に見える様だった。
「………………よし、分かった。そういうことなら、是非とも妙子にしてほしいことがある!」


「ちょっと……ううん、かなり予想外だったわ」
 絶対、“おっぱい絡み”の我が儘だと思ったのに――そんな呟きが微かに聞こえる。
「いやいや、妙子。これも一応、おっぱい絡みの頼みだぞ?」
「あんたにとってはそうなのかもしれないけど……」
「あぁ……それにしても良い眺めだ。ずっと……ずっとこの光景を夢見てたんだ……」
「…………まぁ、あんたがそれで満足するなら…………私は別にいいんだけどね」
 月彦の位置からは、妙子の顔は見えない。見えないが、きっとその顔は呆れていることだろう。
(……まぁ、女の妙子には分からないだろうな。”膝枕をしてもらって、おっぱいを下から眺める愉しさ”は……)
 普段あらば絶対にあり得ないアングルからの眺めに、月彦は純粋に満足していた。
「…………はぁ、”お礼”だから仕方ないとはいえ、まさかあんた相手に膝枕する日が来るなんて」
 世も末だとでも付け足しそうな口調。しかし本気で嫌だと感じているわけではないらしい。どちらかというと照れ隠しの部類だと感じる。
(……いっそ)
 こうなったら、もう一つの我が儘もダメ元でおねだりだけしてみようか。何より今日の妙子は優しい。ひょっとしたら、万に一つの可能性でOKしてくれるかもしれない。
「……なぁ、妙子」
「なーに」
「実はもう一つ……頼みたいことがあるんだが」
「何よ……あんたまさか、これ以上私に何かさせる気?」
「あぁ、いや……嫌ならいいんだけど…………ただ、できれば……」
「できれば?」
「ちょっと、前屈みになって欲しい」
「はぁ!?」
「そんで、顔の上半分で、妙子の下乳の感触を堪能したい」
「下ちっっ…………じょ、冗談じゃないわよ! なんで、そんなコト……!」
「あとできれば、セーターをまくって、そんでブラなしでやってくれたらもう……最高だ。何も思い残すことはない」
「どんだけっっ………………あんた、いい加減にしなさいよね! あんたには悪いことしたって思ったから、だから我が儘きいてあげてるのに!」
 うぐ、やはりダメだったか――ダメ元というのは、十中八九ダメだからこそのダメ元なのだと分かってはいても、そこにはやはり多少の期待は混じるものだ。
(ううぅ……やっぱり、妙子は妙子だ。いやでも、このキツさがあってこその――)
 おっぱいに触らせてもらったときの嬉しさもひとしおというものだ。しょんぼりしつつも、そろそろ起きるかと腹筋に力を込めようとした、その時だった。
「……………………はぁ……。……………………わかったわよ………………今回だけよ?」
「いいって、気にするな、妙子。ダメ元で言ってみただけ――…………ん?」
 耳を疑った。この耳は時に、曖昧な発音を自分が聞きたい言葉に変換することがあるから、なおさら疑った。
「あんたのリクエスト通りにしてあげるから、ちょっと頭どけて。…………下着、外してくるから」
「えっ……えっ? いいのか? ホントに?」
「何よ、あんたがして欲しいって言ったんじゃない。しなくていいならしないわよ?」
「いや、して欲しい! 是非! たのむ!」
「………………じゃあ、下着外すから。向こう向いてて」
「おうともさ!」
 まさか、まさかの承諾に、変な所にギアが入ってしまったらしい。自分でもよく分からない返事をしながら、月彦は妙子に背を向けて座り直す。
 もちろん正座で。
(はっ……もしや、あまりに図々しい願いに呆れて、承諾したフリをして背を向けさせて思い切りバットかなにかで殴られるなんてことはない……よな?)
 落ち着け、落ち着くんだ俺! そもそも妙子の部屋にバットは無いじゃないか!
 そわそわしながらも深呼吸をし、背後から聞こえる微かな衣擦れの音に全神経を集中させる。頭の中ではもちろん微かな摩擦音を元に妙子が脱ぎ脱ぎしている様をCGばりに再現している。
「…………もういいわよ」
 妙子の声に、くるりと向き直る。胸の先端が浮いてしまう為か、妙子は両手で胸元を覆うように隠している。
「じゃ、じゃあ……頭を乗せるぞ!」
「ん」
 どうぞ、とばかりに妙子が座ったまま上半身を後ろに倒す。月彦は先ほど同様、妙子のふとももに頭を乗せる形で仰向けに寝そべる。
 その上に、徐々に妙子が上半身を倒してきて。
(おおおっ、セーターがまくられて……あぁぁ、下乳が、下乳がぁぁぁ……!)
 たゆん、と。
「ふおおおおおおおおおおっ!」
 額と、瞼の裏側に柔らかい下乳の感触を感じた瞬間、月彦は叫び声を上げて手足をばたつかせていた。
「ちょっ、変な声出さないでよ!」
「あぁぁっ、こら! 体を起こすんじゃない!」
「あんたが変な声出して驚かすからでしょ! ああもう……なんでこんな事…………」
 文句を言いながらも、なんだかんだで妙子は再び前屈みになり、たゆんと下乳を顔の上にのせてくる。
「ふぉーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
 またしても喜びの声が出てしまう。が、今度は驚かなかったらしく、おっぱいの感触は去らなかった。
(た、たまんねぇ…………妙子に膝枕されて……お、お、おっぱいまで…………)
 これは死ぬる――あまりの心地よさに、月彦は呼吸どころか心臓まで止まりかける――が、ここで死んでは妙子を殺人者にしてしまう上、”おっぱいと太ももが気持ちよすぎ死”とかいう前代未聞な酷い死因で死んだ男になってしまう。とろけて脱力してしまいそうになる心臓を叱咤し、月彦はなんとか命の鼓動をつなぎ止める。
「ねえ、もういい? この姿勢疲れるんだけど……」
「まだだ! もうちょっとだけ……頼む!」
「たくもー…………分かったわよ。あと五分、それで終わりだからね」
 五分!
 ならばその五分、全身全霊で味わい尽くさなければ!
(あぁぁ……でも出来ればぽよん、ぽよんって軽く弾みをつけてたゆーんたゆーんしてくれればさらに最高なんだが……いやでもさすがにそこまでは――)
 それはこの世の最高級の美味を味わいながら、あの世の美味も味わいたいと願うがごとき愚行だ。さすがにそんな罰当たりなことは出来ない。
(この、ちょっとひんやりしてる感じがまた…………)
 やわらかくて、すべすべで、しっとりしてて、ひんやりしてて。丁度鼻先が谷間に埋まる形になって鼻呼吸をすると息苦しいが、それでもあえて月彦は鼻での呼吸にこだわる。
 そう、触覚だけではなく、嗅覚でもおっぱいを堪能する為にだ。
「…………なぁ、妙子。コレ……俺が風邪引いて熱出した時とかにもしてくれないか? 妙子がコレしてくれたら、熱なんか一発で下がる気がするんだ」
「熱が50度以上出たらやってあげるわよ。…………はい五分経ったからおしまい」
「あぁぁ……!」
 妙子が身を起こし、まくし上げていたセーターを戻してしまう。が、ここで見苦しく”延長”をねだるのは男ではない。
 月彦は涙を飲んで身を起こし、
「…………ありがとう、妙子。おかげで一生モノの思い出がまた一つ増えたぜ」
 妙にいい笑顔で、素直に礼を言った。妙子からは当然のように怪訝な顔をされたが、月彦の心は台風一過の空のように晴れ晴れとしていた。



「……帰るの?」
「あぁ、さすがにちょっと長居しすぎたしな。一応靴を取りに戻った際に妙子の部屋に行くって話は母さんにしといたけど、まさか泊まるなんて思ってなかっただろうし……」
「…………葛葉さん、変に誤解してないといいんだけど……」
「はは、そこはちゃんと俺が否定しとくから。じゃあな、妙子。……首輪外れて、ほんと良かったな」
「そうね……。今回ばかりは、あんたに助けられたわ。…………ありがとう、月彦」
「いいって。俺も妙子が俺を頼ってくれて、すげー嬉しかったし。役に立てて良かった」
 じゃあ、またな――痛くない方の手を振って、そのまま玄関から出て行こうとして――。
「待って」
 その背にかけられた声に、月彦はぴたりと体の動きを止め、そして振り返った。
「妙子?」
「……………………あんたさ、その手………………治ったら教えなさいよね」
「手……って、コレのことか?」
 月彦は再び三角巾で吊っている右手へと視線を落とす。妙子は小さく頷いた。
「その手が悪化しちゃったの……私のせいだし……あんたがいくら気にするなって言っても、やっぱり気になるから……」
「そ――うか、分かった。じゃあ、治ったら――」
「それに」
 と、言葉がかぶせられる。
「…………私、まだ……あんたには借りがあるって思ってるから。今回、あんたには本当に迷惑かけちゃったし………あんな膝枕くらいじゃ全然返しくれないくらい……」
「そんな……俺はもう――」
 どうやら、妙子は思っていた以上に怪我を悪化させたことを気に病んでいるらしい。だからこその“追加のわがまま”も聞かざるを得なかったのだとすれば、そんな妙子の心の弱みにつけ込んだ自分がとんだ下衆野郎のように思えてくる。
「あんたがいいって言っても、私の気がすまないの。………………だからもし、あんたがもっと他の…………たとえば、どこか一緒に行きたい場所があるっていうなら、一度だけなら……付き合ってあげてもいいわ」
「………………へ?」
「……さすがに、あんたとの“つまらないおでかけ”に半日付き合えば……義理は果たしたことになると思うし…………」
 その理屈でいけば、“つまらなくなかった”場合は、義理を果たしたことにはならないのではないか。そしてその場合、やっぱり義理を果たすために再度、“つまらないおでかけ”に殉じる必要性が出てくるのではないか――。
「だけど、手がそんなじゃ……また悪化させちゃうかもしれないでしょ。………………だから、治ったら……すぐ教えなさいよね」
 それはつまり、”手がこんな状態だった場合、怪我が悪化しちゃうような事をするのは織り込み済み”のおでかけという認識で問題無いということなのだろうか。脳内コンピュータでカシャカシャシャキーンと試算を出しながらも、しかし妙子本人に確認を取る勇気は無い月彦は、ただただ硬直し、ゴクリと生唾を飲むことしか出来ない。
「た、妙子…………それって、つまり――」
 デートのお誘いOKサインという認識で間違ってなかったでしょうか?――そんな口にするにはブレイブ値の足りない問いかけを視線に込める。
「と、とにかく! あんたは、さっさとその手を治すこと! わかった!?」
 しかし、妙子は是とも非とも答えなかった。早口に言うなり、どんと背中を突き飛ばされる形で月彦は玄関の外へと追い出された。
 が、月彦は悲しくなど無かった。微塵も悲しくなど無かったが――。
「う、お、おぉぉぉおおおおーーーーーーーーーーーーーー!」
 生きてて良かった!――その場に膝を突き、激痛も厭わず両手を天に向けて大きく突き上げながら涙ながらの快哉を上げた。



 どうやら、今回ばかりは正真正銘正しい選択肢を選べたらしい。月彦はバラ色の世界の中で、躍るような足取りで、歌まで歌いながらの帰路途中、そんなことを考えていた。
(良かった! 我慢して良かった! 良かった! 本当に良かった!)
 途中幾度となく不審な目を向けられたり、あからさまにドン引きされたり、子供には泣かれたり、はたまたスマホのカメラを向けられたりしても月彦は動じなかった。
 ずっとアタックし続けてきた片思いの相手に、デートOKの許しがもらえたのだ。こんなに幸福な人間が居るだろうか。むしろ多少は不幸な目に遭わなければ申し訳ないとすら月彦は思っていた。
(いや、不幸じゃなくてもいい。不幸せな人がいたら、この幸福を分けてやればいいんだ)
 なにやら無性に人助けがしたい気分だった。重い荷物を抱えて困っているお婆さんでも居ないものかと辺りを見渡すが、何処にも”困っている人”の姿は無かった。
(むぅ……いざ探すとなると、困ってる人も見つからないもんだな。この際、誰でもいいから困ってる人を助けてやりたいんだが……)
 帰路の途中、鵜の目鷹の目で”困っている人”を探す――が、見つからない。このまま家に帰り着くまでに誰とも出会わなかったら、母葛葉の手伝いでもしようと。そんな事を考えながらるんるんステップの月彦の前に不審な陰が飛び出して来たのはその時だった。
「うわっ」
 危うくぶつかりかけるも、月彦はかろうじて踏みとどまった。それは相手に怪我をさせたくないというよりは、“汚いものには触りたくない”というのが正しい動きだった。
 男物のフード付きの青いジャケットに、ハーフパンツ。美形の男子中学生あたりと見間違えそうなその容姿には嫌悪しか感じない。
 突如眼前に現れた黒須優巳から距離をとるように、月彦は半歩後ずさる。
「えへへ……ひーくん、久しぶりっ。人の顔を見るなり”うわっ”だなんて、いくらなんでもちょっと酷すぎない?」
「優巳姉……まだ生きてたのか」
 浮ついていた気持ちが一気に海抜0地点へと墜落し、さらに地中深くへとめり込むのを感じる。
(人間万事塞翁が馬つっても、限度があるぞ……)
 なんでこんな幸せな気分の時に”この顔”を見なければならないのか。これでは台無しだと、月彦は目元を覆いながら大きく肩を落とし、溜息をつく。
「そこまで言う? もう……あんまり酷いコト言うと泣いちゃうよ?」
 優巳はポケットに両手を突っ込んだまま、まるで行く手を遮るように進路を塞いでくる。いつになく卑屈な笑みを浮かべ、媚びるような上目遣いをしてくる優巳に嫌悪を通り越して吐き気すら覚える。
「はぁ〜〜〜っ…………最悪だ。人生で一番か二番に入るくらい最高の気分だったのに、優巳姉の顔見たせいで台無しだ。俺に嫌がらせしにきたなら効果は既に絶大だ、さすがだよ優巳姉」
「うぅ……ま、待って、ひーくん! 大事な話があるの!」
 無視してその脇を通り抜けようとすると、堪りかねたように左手が掴まれる。
「触るなよ! いいか、俺はもう優巳姉達とは一切関わりたくないんだ! 二度と近寄らないでくれ!」
 掴まれた手を、力任せに振り払い、早足に歩き出す。その背に、まるで追いすがるように優巳の涙混じりの叫びが木霊した。
「待って! お願い、ヒーくん…………助けて!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


以下おまけ 読みたい方だけどうぞ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ひょっとしなくても、気の迷いだったのではないか――何度、そう思ったことか。しかしその都度、妙子はドア越しに聞いた月彦の快哉を思い出し、小さなため息と共に首を振った。
(……丸聞こえなのよ)
 よっぽど嬉しかったであろうことは容易に想像できる。それだけに今更「やっぱり一時の気の迷いだったからナシで」とは言えず、妙子はただただため息をつくことしかできない。
(…………でも、あんなに喜んでくれるのなら……)
 正直悪い気はしない。むしろ、心なしかこっちまで楽しみになってくるような――そんな錯覚すら覚える。
(…………いいのよ。今回のことは私の方が迷惑かけちゃったんだから。…………だから、ちょっとくらい我儘を聞いてやらないと……)
 膝枕&下乳乗せという我儘は聞いてやったものの、なんとなく”足りない”と感じた。今回の借りはその程度では返しきれていないと。裏を返せばそれだけ月彦に感謝をしているというわけだが、それだけではないということも妙子は自覚していた。
(……”特別”だなんて言われたら、意識しちゃうじゃない)
 紺崎月彦のことは、ただの性欲ボケ(そのくせ意気地なし)であると思っていた。しかし、据え膳を突っぱねる気概と自制心を兼ね備えていることだけはわかった。
(…………私は、負けちゃったのに……)
 そう、ラクシャサに憑依されていたとはいえ、性欲に負けて自制心を失ってしまったのは事実。自分は堪えられなかったものを堪えた相手のことは、素直に認めなくてはならないだろう。
(……ただ、胸はもう……触らせないようにしないと……)
 あの日、月彦が帰ってからというもの、時々胸元が疼くように感じることがある。ふとした拍子に月彦に揉まれた時の感触が蘇り、ひどくもどかしい気持ちになるのだ。
(それに、なんだかブラもきつくなったような気がするし……)
 気のせいであればいいのだが、はっきり気のせいであると確かめるためにサイズを図る勇気は無かった。
(…………右手、いつごろ治るかしら)
 千夏から聞いた話では、脱臼と捻挫とのことだ。それが先日の”アレ”で悪化したとして、どんなに早くとも1,2週間はかかるだろう。
「………………。」
 妙子は考える。自分のせいで怪我を悪化させたのだから、一度くらい様子を見に行くべきではないかと。
(そうよね……確か今、霧亜さんも家には居ないはずだし……)
 月彦だけではない、葛葉にも何かと世話になっている。月彦のことが無くとも、一度礼を言いに行くべきかもしれない。
(………………たまには顔を見せてやらないと、あのバカのことだから……忘れるかもしれないし……)
 それはそれで構わないのだが、忘れそうな相手だからしめしめ放っておこうというのはさすがに意地が悪すぎる。いざという時、あの男に対して後ろめたさを感じなくて済む様、出来るだけの事は――。
「やあ、白石君。朝から考え事かい?」
 唐突に耳に飛び込んできた佐由の声に、妙子はハッと我に返った。
「おはよう、佐由。……そうね、もうすぐテストだし、いろいろ気が重いわ」
 妙子はさりげなく英理の席へと視線を向ける――が、あと五分で予鈴だというのに、英理の姿は無い。
「英理なら今日もギリギリだろうね。昨夜もずいぶん遅くまで頑張っていたようだ」
「そう……。体壊さなきゃいいんだけど」
「ところで」
 佐由がそこで言葉を区切る。何か大きく話題を変える合図だとすぐに分かった。
「白石君、昨夜は残念だったね」
「昨夜……あぁ、そうね。もう絶不調よ」
 確認するまでもなく、深夜ラジオの件だろう。寝起きからイマイチ気分が優れないのは、”あの男”の事が気がかりだから――というのも無くは無いが、理由の大半は深夜ラジオの方の調子が今ひとつだからだ。……否、やはりここは絶不調と言うべきだろう。なにせ昨夜は葉書、FAX合わせて十通近く送ったにも関わらず一つも読まれなかったのだから
「なんかもー今週はダメダメ。先週が良すぎたから、その反動かもね」
 ため息の理由が変わる。そう、土日以降とにかく不調なのだ。良いネタが思いつかず、あまり面白くないネタであることを自覚しつつもひょっとしたらという期待を込めては送るものの、当然のようにスルー。あるいはお情けで紹介されるのが関の山なのだ。
「白石君。そのことなんだけどね。…………一つ、確認してもいいかな」
「何?」
「土曜日、静間君と別れて一人で帰ったみたいだけど……その後本当に”一人で過ごした”のかい?」
「……………………どういう意味?」
 つい、警戒するような口調になる。それだけでもう、佐由は何かを察したようだった。
「そうか……やっぱり会ってたのか」
「やっぱりって何よ! た、確かに……月彦とは会ったけど……だけどあれはなんていうか……その……説明はできないけど……」
「あぁ、いい。いいんだ、白石君……みなまで言う必要はないさ。………………ところで、ちょっとこのグラフを見てもらえるかな?」
 そう言って、佐由は小脇に抱えていたタブレットを差し出してくる。
「何よそれ……買ったの!?」
「姫からのもらい物だよ。こないだ代わりに店番をしたお礼としてお古をもらったんだ。それはいいから、とにかくこのグラフを見て欲しい」
「何これ……横軸が日付で、縦軸が……何かの数字?」
「昨日、英理と二人で話をしててね。もしかしたらという話になって、二人で記憶を頼りに作ってみた。横軸は白石君が言った通り日付で、縦軸は白石君のハガキやファックスがラジオ番組で採用された数さ」
「はぁ……ごくろうさまとしか言いようがないんだけど…………でもこうしてグラフにすると、面白いくらい波があるわね」
「そうだね。山あり谷あり……というか、あるタイミングでがくっと採用数が落ち込んで、そこから徐々に回復する……っていうのの繰り返しだね」
「で、赤く印がつけてある日ががくっと落ち込んだ日ってことね」
「いいや、違うよ。紅い印がついているのは、白石君が紺崎君と会った日だよ」
「なっ……」
 絶句し、妙子は改めて日付を確認する。
「いや、私も英理も最初は”あの日”を境に白石君が調子を落としているのかと思ったんだけどね。それにしては一ヶ月に何度もあるのはおかしいし、ひょっとしたらと当てはめてみたら……これがドンピシャさ」
「ま、待ちなさいよ! そもそも、私がアイツにいつ会ったかなんかあんたたちが知ってるわけ――」
「そうだね。だから大半は”会ったんじゃないかと推測される日”だけどね。でも、この日なんかは四人でカラオケに行った日だから、間違い無く合致するよ」
 と、佐由が指示した日は確かに四人でカラオケに行った日だ。そしてその日以降、ハガキとファックスの採用数はがくっと落ち込んでいる。
「ちょっと待って……! 何かの偶然じゃないの!? あのバカと会った日以降採用数が減るなんて…………」
 そんな馬鹿なと、妙子はグラフの内容を記憶を照らし合わせる――が、たしかにグラフに描かれている採用数は身に覚えのあるもので、そして月彦に会った日付についての予想もピタリと一致していた。
 そう、グラフにある通り、間違い無く月彦に会った日以降ラジオでのハガキ&ファックス採用数は落ち込んでいるということだ。
「そんな……なんで…………」
「以前、白石君には話したね。”黒ポメ”についてのネット掲示板での印象について。私はどうもそこに答えがあるような気がするけどね」
「ネット掲示板での印象が……答え?」
 うんと佐由はうなずく。
「ずばり言おう。白石君のネタの面白さは”性的欲求不満度”に比例しているんだ。そして”それが大きく落ち込むような何か”が起きると、ネタは一気につまらなくなってしまうというわけさ」
「なっ……によ、それ……そんな……バカな、こと…………」
「じゃあ聞くが、土曜日……紺崎君と会って何をしていたんだい?」
「そ、れは…………」
 だめだ、言えない。上手い嘘も思いつかない。妙子は必死に言い訳を考え続け、それ故に佐由が一瞬汚物でも見るような目をしたことには気が付かなかった。
「……やれやれだね。手を怪我しているからってフリマには呼ばなかったくせに、実はこっそり二人きりで会ってイチャイチャしていたわけか」
「い、イチャイチャなんて……ただちょっと、どうしても一人じゃ解決できない困ったことが起きて……だから……」
「なるほどね。”本当に困ったときは月彦を頼る”という静間君の言葉は正しかったわけだ」
「それとこれとは……ああもうっ」
 ダメだ、やっぱり説明できない。冗談半分で犬の首輪をつけたら何故か取れなくなって、月彦に胸を揉んでもらったら何故かとれたなどと、説明するのもバカバカしい。
「まあでも、これで一つハッキリしたね。白石君のハガキとファックスの採用数が突然落ち込んだら、紺崎君と逢引したってことになるわけだ」
「ま、待ってよ! これだけは言わせて! アイツとは別にそんな……せ、セッ…………とか、そういうのをする関係じゃないんだから! 性的欲求不満なんて解消されるわけ……」
「どうかな。白石君がそう言っているだけかもしれないし、あるいは単純に、紺崎君と一緒に居るだけで何かしらの鬱憤が晴れているのかもしれない。……どちらにしろ、会う度にネタのクオリティががくっと落ちるんじゃ、ラジオリスナーとしては致命的だね」
「……アイツと会って鬱憤が溜まることはあっても解消するなんてことは絶対無いと思うんだけど…………うぅ……見れば見るほど腹が立つグラフだわ……」
 こんなものは捏造だ!――そう声高に叫びたい気分だった。が、物的証拠こそ無いものの妙子が覚えている限り確かにグラフ通りの採用数であるし、赤の日付が月彦と会った日であることも間違いは無い。
「…………彼とは、少し距離をとった方がいいんじゃないかな」
 ぽつりと、まるで独り言の様に佐由が言う。
「まあ、白石君にとって深夜ラジオがどれくらい大事かにもよるがね。少なくとも、ネタのクオリティを維持したいなら彼とは会わないほうが良いのは間違いないだろうね」
「でも……」
「でも?」
 聞き捨てならないとばかりに、佐由が語気を強める。
「おかしいな。常々”あんな奴彼氏でもなんでもない”とか”幼なじみじゃなかったらとっくに縁を切っている”とか言って散々に嫌ってるのに、まさか迷っているのかい?」
「迷ってるっていうか……」
「白石君、私は別に金輪際会うなと言ってるわけじゃないんだ。白石君のネタを待ち望んでいる全国のリスナーの為に、会う頻度を落としてはどうかと提案しているだけなんだ」
 ちなみに、私も白石君の爆笑ネタを楽しみにしているリスナーの一人だよ――佐由は複雑な笑みと共に、小さく付け加えた。
「まぁ、最終的に決めるのは白石君だ。好きにするといいさ」
 ただ――と、佐由はくるりと背を向け。
「これだけデメリットがあると分かっていて、それでも会うなら……もう”彼氏じゃない”なんて言う資格は無いね。それどころか、むしろ彼にゾッコンだって認めるのと同義だと私は思うよ」
 ほとんど捨て台詞の様に言われた為、妙子は反論が出来なかった。佐由が席に戻るのとほぼ同時に予鈴が鳴り、そしてさらに同時に英理が教室に飛び込んできた。
「ま、間に合ったにゃりぃ…………ふみゅうう…………」
 自分の席へとたどり着き腰を落とすなり、軟体生物が重力に負けて形を失うようにでろりと、机の上に上半身を横たえてしまう。
「あっ、たゆりんおはようにゃり」
 その”でろり”状態の英理と目が合ってしまい、妙子は苦笑いを返す。
「おはよう、英理。……昨日も遅かったみたいね」
「ふみゅう……疲れてるけど、なんかだんだん楽しくなってきたにゃりよ。この正念場って感じ、嫌いじゃないにゃり」
「そう……体は壊さないようにね」
「たゆりんも、エッチはほどほどにしとかないとダメにゃりよ?」
「だっ……誰がっっ……!」
 うふうふうふ――英理が口元を隠すようにして笑う。寝不足と疲れでハイになっているのだろうか、英理はらしくない笑い方をするも、唐突に真顔に戻る。
「……たゆりん、首……どうかしたにゃり?」
「首……?」
 言われて、気がつく。無意識のうちに自分の首回りを触っていたことに。
「別に……どうもしない、けど……」
「そういえば昨日も一昨日もたゆりん、首触ってたにゃりよ。寝違えたにゃり?」
「うそ……そんなに? 別に寝違えたりは――」
 がらりと音を立てて引き戸が開き、担任が教室に入って来たため妙子は慌てて口を噤んで教壇の方へと体を向けた。
 程なくHRが始まる――が、担任の声そっちのけで妙子は首回りの”違和感”にばかり気を取られていた。英理に指摘されて、初めて自覚した違和感の正体。どこか寒々しいというか、あるべきものが無いという感覚――その違和感のせいで、無意識に首を触ってしまっていたのだ。
(首……首輪…………まさか、ね)
 たった半日にも満たない時間つけていたモノが体に馴染むわけがない。ましてやそれが自力では外すことが出来ず、外すために散々に辛酸を舐めさせられたとあればなおさらだ。
 ただ、それでも――。
(……………………………………佐由の言う通り、距離を置いたほうがいい、のかしら……)
 深夜ラジオのネタのクオリティに限ったことではない。紺崎月彦と合う度になにやら道を踏み外しているような気がして、妙子は寒気と共にぶるりと肩を抱くのだった。。


 


 



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