一体いつから“それ”を自覚し始めたのか、無論月彦自身にも解らなかった。
 最初はそれこそ漠然とした、大して気にもならない霧のようなものだった。気のせいだろう、等と思いつついつも通りの生活を送るも、その得体のしれない“何か”は決して自信の胸中から消え去る事は無かった。
 むしろ、僅かずつではあるが存在感を増しているようにすら思えた。
(“これ”は一体……何だ)
 なんとも正体を計りかねる代物だった。まるで、体の奥底に寄生虫か何かでも紛れ込んでいるかのような、そんな得体の知れない違和感。
(欲求不満か?)
 一度はそう思い、最早定例のようになってしまっている真央との情事を一際頑張ってみたりもした。
 便宜上高校一年生という事にはなっているが、それにしては発達しすぎている胸元をこれでもかとまさぐり、揉みしだきながら、一晩かけてじっくりその体を堪能したりもした。性欲や肉欲、そういったものが微塵も残らなくなるまで本能の赴くままに愛娘の体をしゃぶり尽くし、全てを終えた後泥のように眠りながら、しかし月彦は思った。
 違う――と。
 事実、性欲や肉欲をどれほど解消した所で、胸中の澱が消え去る事は無かった。否、むしろそういった事を過剰に実行し続ける事で、それらの行為が空しくさえ感じる様になってきたのだ。
(一体何なんだ、これは……どうして――)
 無論月彦は、自分がそのようになってしまった原因、切っ掛けを模索する事に余念がなかった。が、どれほど記憶を辿っても、切っ掛けらしい切っ掛けに思い至る事は無かった。
 そして、原因が分からないまま――症状は緩やかに進行しながら、月日ばかりが経過した。


 

キツネツキ 番外編

『月彦、○○病にかかる』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まるで、原因不明の奇病にでもかかったような気分だった。
 別段、体が不調であるという事はない。どこかが痛むという事も無い。
 が。
「はぁ……」
 気が付くと、ため息ばかりついている自分がいる。意味もなく貧乏揺すりをしたり、指でカツカツと机を叩いていたり。かと思えば、何をやるにしても無気力無感動、凡そ体の内側から力が湧いてくるという事がない。
(ひょっとして、これが鬱病ってやつなのか)
 誰かにそうだ、と肯定されれば、なるほどと頷いてしまう所だった。凡そどういう出来事を目にしても、心が波立つという事がない。緩やかに、全てに対して無関心になりつつあるのを、月彦は感じていた。
 そんな己の状況に、勿論自分なりに危機感を持ってはいた。
 だから。
「月彦、久々にどうだ?」
 恐らくは、そんな月彦のただならぬ様子を見るに見かねて声をかけてきたらしい親友の誘いを、気乗りはしないものの二つ返事でOKしてみたのだった。

 放課後、月彦は和樹と千夏の二人と共に隣町のボウリングセンターへと足を運んだ。いつになくテンションの高い二人に引きずられるようにして五ゲームほど遊び、トータルの成績が最下位だった和樹がファミレスで夕食を奢るという形で幕を閉じた。
 楽しくなかった、と言えば嘘になる。が、心底楽しかったかと言われれば口を濁さざるを得ない――が、無論そのようなことを言える筈もない。月彦は表面上は精一杯楽しんでいるフリを続け、そして帰路の途中級友達と別れるやいなや、堪えきれなくなったかのように口からため息が漏れた。
(畜生……一体なんだってんだ……)
 己のそういった心の動き、それらのままならなさに歯痒くすら思える。何故、素直に楽しむ事が出来ないのだろう。その原因は一体何なのだろう。
 数歩に一回の割合でため息をつきながら、月彦はとぼとぼと歩き、やがて自宅についた。
「父さま、お帰りー!」
 玄関のドアを潜るや否や、部屋着姿の真央に飛びつかれ、月彦はドアで背中を強打する形でそのタックルを受け止めた。
「ただいま、真央」
 愛娘の頭を優しく撫でながら、月彦はいそいそと靴を脱ぎ、するりと真央の抱擁を抜けるようにして自室へと向かう。その後を、真央が慌てて追ってきて、背中にぴたりと張り付いてくる。そして、部屋に入るや否や、ぐいぐいと強引にベッドの側へと押し込まれた。
「こらこら、真央……どうしたんだ?」
 窘めるように言いながらも、月彦には真央の言わんとする所は解っていた。解っていて、あえて避けようとした。
(悪い、真央……そんな気分じゃないんだ)
 やんわりと拒絶するも通じず、月彦は真央に押し倒される形でベッドに横になった。そのまま唇を奪われ、巨乳を擦りつけるように抱きつかれて漸く、やれやれしょうがないなとばかりに体を起こし、“上と下”を入れ替わった。
「ん……?」
 その時だった。はたと、月彦は奇妙な違和感を感じた。例えるならば、呼吸をしたいのに何故か口が開かないといったような、そういった類の、決定的な齟齬を。
「父さま……どうしたの?」
「いや、なんか……あれ……?」
 月彦は些か乱暴に真央の胸元を開き、露出した乳房を揉みくちゃにしながら顔を埋めてみる。
 ――が、矢張り。
(……そんな…………)
 ドッと冷や汗が溢れた。そんな、まさか、何故――己の体に起こった変調に、月彦はかつてない程に混乱した。
 男も、“初めて”の時などは緊張のあまりそういう状態になる――という事は、知識としては知っていた。しかし、自分には無縁だと、むしろ少しくらいそうなってみたいとすら、不謹慎にも思っていた程だ。
(…………勃たない……)
 それどころか、興奮すら沸き立たない。母譲りの、健全な男子であれば目の当たりにしただけで鼻血を吹きながらしゃぶりつきたくなるような(多少親バカ補正アリ)体を前にして、何も感じないなんて。
「わ、悪い……真央……今日は疲れてるから、止めておこう」
 月彦はここに至って初めて、真剣に事態に向き合う必要性を感じた。


 

 まずい、これはヤバい、安穏として時間が解決してくれるのを待っている場合ではない――月彦は慌てて解決策を模索し始めた。
(まずは……そう、相手が真央じゃなくてもダメなのかどうか、確かめるんだ)
 幸いなことに、候補者には事欠かない。その中でも、最も肉体的な魅力が飛び抜けていて、それでダメならば他の誰でもダメだろうという相手を、月彦は選んだ。
(そう……先生でダメなら……本当にヤバい)
 即断即決。月彦は朝学校へと出向き、廊下で目当ての人影を見つけるや即座に切り出した。
「あの、雛森先生……」
「……こ、紺崎くん!?」
 月彦から声をかけられる事などまるで想定していなかったと言わんばかりのリアクションで、雪乃は素っ頓狂な声を挙げる。
「ちょっと……相談したい事があるんですけど、放課後いいですか?」
「え……相談したい事って……何?」
「ここじゃちょっと……人目もありますし。……じゃあ、いつもの場所で待ってますから」
 簡潔に用件だけ述べて、月彦は踵を返した。多くを騙らずとも、雪乃ならばきっと来てくれると信じていた。
 
 そして放課後。いつも雪乃との密会に使っている生徒指導室へと足を運び、中に誰もいない事を確認してから入室し、待つこと約十五分。
「…………お待たせ、紺崎くん」
 なにやらソワソワした様子の雪乃がやってくるなり、月彦と長テーブルを挟む形で着席する。
「……それで、相談したいことって……何?」
「はい。そのことなんですけど……ちょっとその……先生の胸を、見せてくれませんか?」
「……え?」
 聞き違いかと言わんばかりの疑問符を投げかけられるのも至極当然の反応であることは十二分に月彦としても理解していた。
 だから。
「お願いします。俺、ふざけてとか、冗談半分で言ってるんじゃないんです。勿論疚しい気持ちとかでもなくて、本当に、真剣に……先生の胸が、おっぱいが見たいんです!」
「ちょ、ちょっと待って、紺崎くん! 急にどうしたの?」
「……理由は聞かないで下さい。聞かれても……俺にも巧く説明できないんです。ただ、兎に角先生のおっぱいが見たくて見たくて我慢できないんです」
「そんな……そんな事、急に言われても……困るわ……」
「お願いします。こんな事、先生にしか頼めないんです!」
 渋る雪乃に、月彦は強烈に押し込む。ううぅ、とさも窮しきったような声を、雪乃が漏らす。
「……い、今すぐ……じゃなくて、今夜、私の部屋で、とか……週末とかだったら……」
「いえ、そんなに待てません。今すぐ、ここで……見たいんです」
 そんな、と雪乃は掠れた声で絶句する。当然と言えば当然の反応だった。曲がりなりにも雪乃は教師。それが、職場である学校の一角で、生徒に向けて胸をはだける等と、常識的に考えれば飲める要求ではない。
 だが。
「……そんなに、見たいの?」
 月彦のごり押しに屈したかのように、雪乃が渋々ながらそのようなことを呟く。
「はい、見たいです」
「……どうしても、我慢できない?」
「無理です。今すぐじゃないと」
 事実、月彦は焦っていた。本当に自分が不能になってしまったのかどうか、一刻も早く確かめたかった。
「ぅぅ…………わ、解ったわ…………紺崎くんがそこまで……言うなら………………少しだけよ?」
 月彦の熱意に押される形で、雪乃はしぶしぶスーツの上着を脱ぎ、ブラウスのボタンを外していく。その一挙手一投足を、月彦は食い入るように見る。本来ならば、徐々に露わになっていく巨乳の輪郭に生唾を飲み込み、今にも襲いかかりたくなるのを堪えねばならないようなシチュエーションである筈なのだが、この期に及んで尚、月彦の心には毛ほどの波紋すら広がらなかった。
(いいや、まだだ。まだわからん……!)
 雪乃の手が辿々しく動き、やがてはだけられた胸元からブラに包まれた巨乳が顔を覗かせる。そこで一端雪乃の手が止まり、ちらりと、月彦の方を見てきた。さも、「これじゃあダメ?」とでも言いたげな、雪乃の目だが、月彦は無論最後まで脱いで下さいと視線に込めて突き返した。
 雪乃は渋々ながらに背中の方へと手を回し、若干時間がかかってブラのホックを外すとそっと持ち上げるようにした。見事な白い巨乳が先端から根本までしっかりと月彦の視界に晒される。
「……これで、いいの? 紺崎くん……」
 頬を染め、自らの胸元を凝視する男の顔から目を逸らすようにそっぽを向いている雪乃の手は震えていた。それほどに、羞恥を堪えて見せてくれているというのに、対する月彦は奈落の底に突き落とされたような気分だった。
(ダメだ…………)
 これほど見事な巨乳を目にして、これほど絶望的な気分になったのは生まれて初めての事だった。
「…………先生、もっと近くで見てもいいですか?」
「えっ……」
 雪乃は顔を赤らめたまましばし逡巡し、そして小さく頷いた。月彦は二人の間にある長テーブルを退け、雪乃の真ん前にかがみ込むようにして巨乳を凝視した。
「…………先生、ちょっとだけ、触ってみてもいいですか?」
「……ぅう……少しだけよ?」
 雪乃の了解を得て、月彦はそっと巨乳に手を沿えてみた。しかし、何の感慨も湧かない。ただ、人肌に触れていると感じるだけで、以前のようにムラムラと強烈に下半身から突き上げてくるものがないのだ。
「ぁっ……ぅっ……ちょ、ちょっと……紺崎くん……!?」
 手に若干力を込め、やんわりと揉んでみる――が、やはりダメ。さらに力を込め、むぎゅ、むぎゅとこね回してみるが、結果は変わらない。
「ぅっ……くっ……ぅんっ………………やだっ……紺崎くん……もうっ……ンぅ…………」
 たっぷり時間をかけて捏ねてみても、さりげなく頬ずりなんかしてみても、何ら心の奥底からわき上がってくるものがない。
 月彦は、雪乃には悟られぬ様、極めて小さくため息をついた。
「……ありがとうございました、先生。もう大丈夫です」
「えっ……?」
 月彦は雪乃の胸元からそっと手を離し、立ち上がる。
「おかげで、問題は解決しました」
「問題は解決しました……って……そんな…………」
 もじもじと焦れったげに太股をすりあわせながら、雪乃は切ない声を挙げるが、月彦にはどうする事も出来なかった。
「すみません、先生……この埋め合わせは、後日必ずしますから」
 言葉を残して月彦は踵を返し、生徒指導室を後にした。


 


 どうやら思った以上に事態は深刻らしい――そのことを、月彦は痛感せざるを得なかった。
(どうすれば……治る……?)
 恐らくは、単純に不能を治す為だけならば、それこそ真央に効き目の強い薬を作ってもらえばそれで事足りるだろう。
 だが、事はそう簡単ではない。雪乃のあの体を前にして勃たない事も問題だが、それよりなにより、興奮すらできないというのはどういう事であろうか。
(やはり、病気だ)
 或いは、何かが狂ってしまっているのだ。日に日に募る奇妙な焦燥、不安は決して不能になってしまったからというだけではない。もっと他に、生命を維持していく上で必要な根本的な“何か”が足りなくて、不能などはそれによって引き起こされただたの連鎖反応に過ぎないのではないか。
(そう、“何か”が足りないんだ……)
 体が、強烈に“何か”を欲している、求めている――それは、月彦にも解る。しかし、それが何なのかが解らない。
(もしかしたら……)
 しばし考えてみて、それは所謂“安らぎ”ではないかと月彦は思った。二股、三股、四股と何かと気の休まる事のない緊迫感たっぷりの日常生活の中で自律神経が参ってしまったのではないだろうか。
 十分あり得る事だと、月彦は思った。となれば、相談する相手は一人しか居なかった。

「ごめん、由梨ちゃん……急に由梨ちゃんの家に行きたいなんて我が儘言っちゃって」
「いえ、そんな……先輩が来てくれるだけで、私は嬉しいですから」
 ソワソワと、浮き足立ちそうになるのを我慢しているような、そんな由梨子に導かれるようにして、月彦は宮本邸の階段を上がり、部屋へと招き入れられた。
 相談したい事があるから、今日家に行っても良いかな?――学校で唐突に切り出した月彦に、由梨子は僅かな迷いすら見せずに快諾した。真央にバレぬ用、放課後こっそり合流するのはそれなりに骨ではあったが、浮気ではないにしろ由梨子に頼む予定の事を鑑みると、内密に伏せておくのが適切に思えたのだ。
「それで先輩、私に相談したい事って何ですか?」
「うん、それなんだけど……相談したい事っていうよりは、どちらかというとお願い、かな、これは」
 由梨子が用意した湯気の立つココアに口をつけながら、月彦は前置きの殆どを省いて用件を切り出した。
「お願い……ですか?」
 由梨子の言葉に、些か緊迫した響きが交じる。一体全体、どんな無理難題をふっかけられるのだろうと。
「…………由梨ちゃんに、膝枕……してほしいんだ」
「えっ……膝枕……ですか?」
 それは予想外だった、と言わんばかりの由梨子の反応。
「……ダメ、かな?」
「い、いえ……全然、ダメなんかじゃないです!……てっきり、もっとスゴい“お願い”なんじゃないかって思ってましたから、逆に驚いちゃっただけで……」
「もっとスゴい事って……例えば?」
「……また、その……お尻でシたい、とか…………」
 ゴニョゴニョと顔を真っ赤にしながらそんな事を言う由梨子を前にしても、月彦の心にはなんら沸き立つものが無かった。いつもであれば、「じゃあ、そっちに変更しようかな」の一言で忽ち由梨子を手込めにしてしまう所なのだが。
(ていうか、実際……“誘ってる”と見るべきなのかな?)
 “後ろ”でされるのが本当に嫌なのならば、そもそもこんな水を向けるような事は言わないのではないか――そうは思うが、悲しいかな、今の月彦には由梨子のそんな願望に答えてあげたいと思えるほどの活力が無かったりする。
 まるで、胸の中央に巨大な穴でも空いてしまったかの様。しかしそれも、ひょっとしたら由梨子の“癒し”によって治るのかもしれない。そんな一縷の希望に、月彦は賭けるしかなかった。
「まぁ、お尻でするのはまた今度という事にして……じゃあ、いいかな?」
「そ、そっちは絶対にダメです! でも、膝枕くらいなら……いつだって……」
 由梨子は手にしていたココアのカップを置き、テーブルを端に寄せようかどうしようか――そんな迷うような仕草をする。
「あっ……ベッドの上の方がいいですか?」
「うーん……じゃあ、それで」
 要は、絨毯の上でやるかベッドの上でやるかという事なのだろうが、どちらでも効果の方はさほど変わらないのではないかという結論に達した。結果、“手間”が少なそうなベッドの上でという事で、由梨子に先に上がってもらい、その膝の上に頭を乗せる形で月彦はごろりと横になった。
「…………なんだか、ちょっと恥ずかしいですね……」
 確かに、由梨子の言う様に日常生活ではあまり起こりえないアングルでの顔合わせかもしれない。
 しかし。
(……やっぱりダメだ……)
 きっと、普段であればそれこそ“こうかは ばつぐんだ!”とばかりに癒されるのであろうが、涙が出そうな程に何の感慨も湧いてこない。
(由梨ちゃんでも……ダメなのか)
 これはいよいよヤバい事になった――月彦の中で、危機感ばかりが止めどなく膨れあがるが、せめて由梨子にはそれを悟られまいと、必死で“俺は今とっても和んでいる”というポーカーフェイスを続けねばならなかった。
「先輩……あの、良かったら……耳かきとか持ってきましょうか?」
「ああ、うん……じゃあ、お願いしようかな……」
 由梨子の言わんとする所を察して、月彦は俄に頭を持ち上げる。程なく由梨子が耳かきを手に戻ってきて、再び膝枕をしながら耳掃除までしてもらう事になった。だが、そんな由梨子の献身的とも言える行為ですら、月彦の中の絶望をさらに黒く塗りつぶす効果しかもたらさなかった。
「………………ありがとう、由梨ちゃん。お陰でもの凄く和めたよ」
 もう十分、というジェスチャーを手で送って、月彦は徐に体を起こした。
「えっ……あの、先輩……まだ、片耳しか……」
「うん、やっぱり……考えてみたら……由梨ちゃんにそんな事までしてもらうのは悪いなって……ごめん、我が儘で」
「そんな……そんな事ないです! 私、凄く……嬉しかったんですから……」
「由梨ちゃん……」
「膝枕だって、先輩……真央さんじゃなくて、私にして欲しいって思ったから、声を掛けてくれたんじゃないんですか? だから、私……本当に嬉しかったんです」
 由梨子の言葉が心底本音である事など、月彦には勿論解っていた。だからこそ余計に、その言葉の一字一句が、月彦の胸を大きく抉った。
(……本当にごめん、由梨ちゃん。でも、今はダメなんだ……)
 この奇病に苛まれたままの状態では、至福というものすらそうだと感じる事ができない。そしてそれは、由梨子に対してもひどく失礼な事だと、月彦は思う。
「……今日は本当にごめん。今度、必ず埋め合わせするから」
 これ以上由梨子の側に居ることに居たたまれなくなって、月彦は逃げるように宮本邸を後にした。


 


 一体、自分の体はどうなってしまったのだろう。
(由梨ちゃんなら、或いは……って思ったけど……やっぱり、ダメなのか……)
 原因は“安らぎ”の不足ではなかった。では一体何が問題なのだろう。
(……胸が、苦しい……)
 それは、自分の都合で由梨子を傷つけてしまったが為なのか。それとも“奇病”本来の症状なのか。月彦には判断がつかない。
(……やっぱり、ちゃんとした専門家とかに話した方がいいのかな)
 所謂、カウンセラーやセラピストといった類の人物を尋ねれば、或いはこの奇病の原因が分かるかもしれない。無論、月彦は何度もその可能性を考えた。
 が、断念し続けてきたのには無論理由がある。
(……俺の“状況”が、説明できない)
 こういった心の病に属するであろうものの原因を探るには、無論現在の状況や原因となりうる出来事などを嘘偽り無く話す必要があるだろう。
 だが、「実は、五歳になる実の娘と毎晩のようにエッチをしていて、その娘の親友とも関係があって、さらには学校の教師とも肉体関係があり、その姉とも……」等という説明を、一体誰に言えるというのか。下手をすれば社会問題にもなりかねないその胸の内を誰にも伝える勇気が無くて、月彦はセラピー通いを断念せざるを得なかったのだ。
 そうして現在の自分の状況を鑑みれば、ああ心の病を患ってしまうのも当然だな、とも思ってしまうのだ。我ながら、よくもまぁこんな曲芸じみた人間関係を続けていられるものだと。
(……誰にも、相談はできない。……となれば)
 やはり、自力で何とかして解決するしか道はない。巨乳で欲望を刺激するのもダメ、安らぎで自律神経を癒す方向でもダメとなれば、果たして他にはどんな手があるだろうか。
(…………一つだけ、あるか)
 古い機械などは、調子が悪くなっても叩けば直る――という事がある。機械と人間を同列に考えるのは危険だが、人の世にもショック療法という言葉が存在する以上、極めて強い刺激が時には有効であるというのは万人が認める所ではないだろうか。
(一発ビシッと、喝を入れてもらえば、或いは……)
 最早、そこに一縷の望みを託すしかないかもしれない。

 “ショック療法”を実行に移すに当たって、月彦は俄に悩んだ。というのも、“候補者”が二人居たからだ。
(……ここは、やはり――)
 悩んだ末、月彦は学校帰りに妙子のアパートの前までやってきた。強烈な喝を入れてくれそうな人物という点では、恐らくは姉の方が相応しいのかもしれないが、してもらいたいのはあくまでショック“療法”であり、強烈な暴力ではない。機械も、度を超した強いショックを与えれば当然壊れてしまう、人もまた然りであり、その辺りのニュアンスを姉に巧く伝える自信が、月彦には無かった。
 何より、入院中の姉にそのような肉体的負担のかかるお願いをするのもどうかと思ったのだ。勿論、あの姉の事であるから、一発殴って欲しいとお願いでもしようものなら、嬉々として松葉杖を手に立ち上がり、強烈な一発をお見舞いしてくれるだろうが、それが致命傷にならないという保証はどこにもない。
(残る問題は……)
 はたして、自分は妙子に会うことが出来るのかという点だった。部屋のドアの前に立ち、月彦は震える指を恐る恐るインターホンのボタンへと伸ばす。
「くっ……!」
 いつもならば、ここで見えない壁に阻まれてボタンには触れることすらできない筈――だった。しかし、指は何ら抵抗らしい抵抗を受ける事なくボタンへと触れ、部屋の中でインターホンの音が鳴り響いた事がドア越しに月彦にも微かに聞き取れた。
 しばしの静寂の後、静かにドアが開かれた。
「よ、よぉ……妙子」
「……何か用?」
 顔を合わせるなり、露骨に顔をしかめられるが、そのくらいの反応は予測済みだった。
「まぁ、そんなところだ。……ちょっと上がってもいいか?」
「……………………少し待ってて。片づけるから」
 しばしの沈黙の後、妙子はさも渋々といった様子で部屋の中へと戻り、十分ほど待たされた後、月彦は部屋の中へと通された。
(いつもなら……妙子の部屋に入るだけで、すげードキドキするんだが……)
 あの肌がひりつくような緊迫感も何もない。それは考えようによっては良いことなのかも知れないのだが、それを物足りないと感じてしまう辺り、最早精神がどうにかなってしまっているのかもしれない。
「……それで、何の用?」
 いつもの如く、ミルクも何も入っていない、嫌がらせのように熱くて濃いコーヒーを手に、妙子が台所から戻ってくる。部屋着、という事だろうか。ひょっとして父親からのお下がりではないかという程にサイズの合っていないトレーナーに下はジャージという、いつにもまして色気のないその姿。炬燵を挟んで着席して、さてどう切り出すべきかと、月彦はしばし考えた。
「……ちょっと頼みがあるんだ。……一発、おもいっきり殴ってくれないか?」
 考えた末、ストレートに用件を伝えるのが一番手っ取り早いという結論に、月彦は達した。
「はぁ……?」
 当然のように妙子は首を傾げ、そしてまるで哀れな生き物でも見るかのような目をする。
「頼む、いつもみたいに強烈なのをバシッと入れてくれるだけでいいんだ」
「…………アンタに二つ、聞きたい事があるわ。でも、一つ目はアンタが底なしのバカだって事で説明がつくから聞かない。だけど、二つ目……どうしてそれを私に頼むの?」
「そりゃあ勿論、(姉ちゃんの次に)一番俺を殴り慣れてる妙子に頼むのが一番手っ取り早いと思ったからだ」
「……解ったわ。あえて一つ目のほうも聞いてあげる。……どうして殴られたいの?」
「…………そういう気分だからだ」
 としか、月彦には言えなかった。まさか不感症になりつつあるとか、不能になってしまったから等とは言える筈もない。
「つまり、何となく殴られたい気分になったから、すぐ殴ってくれそうな私の所に来た……そういう事?」
「うむ」
 さすが妙子、理解が早くて助かると、月彦は大きく頷いた。
「…………馬鹿馬鹿しい。さっさと帰って、勉強の邪魔だわ」
 が、話を理解してもらえたからといって、望みの方も達成されるとは限らないのが交渉事の妙とでも言うべきか。妙子は吐き捨てるように言うや席を立ち、勉強机の方へと座り直してしまう。
「ま、待て! 妙子……一発、一発殴ってくれればいいんだ!」
 いつもやってる事じゃないか――まさかこの段階で拒否をされるとは夢にも思っていなかっただけに、月彦は必死で食い下がった。
「……あのね、月彦。もう一度はっきり言うわ…………私ね、アンタの事大嫌いなの」
 ラジオから延びているイヤーホンを耳につけながら、妙子はさも片手間のように続ける。
「その大嫌いな相手が私に殴って欲しいって言ってる。私がどうして、大嫌いなアンタを喜ばせる為だけにそんな事をしなきゃいけないの?」
 話は以上で終わり、とばかりに妙子はくるりと背を向け、問題集を開き辞書を開きノートを開き、わざとらしい程にカリカリとシャープペンを走らせ始める。
 むぅ、と唸ったのは月彦だ。
(……やっぱり、心底嫌われてるんだな、俺は……)
 普段であれば、それこそ“解ってはいたけど……”と絶望の淵にたたき落とされている所だった。が、幸か不幸か、今の月彦はそういった心の痛みとは無縁に近い場所に存在していた。
(……殴る理由がない……か)
 つまりは、そういう事なのだろう。自分が殴りたいと思って殴るのならば構わないが、殴られたい相手(しかも嫌いな)の為に拳を振るういわれはないと。
 となれば。
「……妙子、肩揉んでやろうか?」
 返事はなし。
「勉強ばかりで結構凝ってるんじゃないか?」
 そろそろと炬燵からはい出して、月彦は妙子の背後に立つ。その両肩へと手を伸ばそうとすると、
「触らないで」
 まるで背中に目がついているかのように、指先が触れる寸前で釘を刺された。
「肩を揉むだけだ」
 嫌なら逃げるなり、殴り飛ばすなりすればいい――言外に含めて、月彦はそっと妙子の両肩に手を置いた。
 瞬間、ぴくりとシャープペンの動きが止まる。が、すぐにまた淀みなく動き出す。それを見て、月彦もやんわりと肩を揉み始める。
(む、本当に結構凝ってるみたいだな)
 勉強のせいということもあるだろうが、無論肩越しに見えるたわわな塊のせいということもあるだろう。これまた、普段であればその絶景とも言える光景に鼻息が荒くなるのを必死に悟られまいとしなければならない所なのだが、悲しいかな、何らわき上がってくるものを感じることが出来ない。
 しばらくそうして十分ほど揉んでいただろうか。妙子は相変わらずイヤホンをしたまま黙々と問題集を解き続け、徹底して月彦を無視する作戦の様だった。このままでは恐らく百年経っても目的は達成されることはないだろう。
(むぅ、矢張りもう少し踏み込むしかないか)
 ここまではしたくなかったのだが――等と勝手な事を思いながら、月彦は作戦を第二段階へと移す事にした。肩から手を離して膝立ちになり、今度は妙子の両脇の下からえいやっ、とばかりに手を差し込み、たわわな塊を鷲づかみにする。
「……ッ!」
 途端、驚いたように妙子が背後を振り返り、鬼のような目で睨み付けてくる。が、震える唇からは何も言葉は発せられる事はなく、そのまま何事も無かったかのように机の方へと向き直るとまたしてもペンを走らせ始める。
(…………そこまで、俺の望み通りにするのが嫌なのか)
 一昔前ならば、両乳を鷲づかみにでもしようものならば即座に肘打ち、鉄拳、ヤクザキックのコンボが飛んでくる所なのだが。。
 逆にそれを相手が望んでいるとなると、意地でもそうしてやるものかという事なのだろう。
(むぅ……そうだと解っていれば)
 こんな時ではなく、巨乳に心ときめいていた頃にトライすればよかったと、月彦は少し後悔した。まさかこのようなノーリスクで妙子の巨乳にタッチできる方法があったとは。
(しかし、中学の時以来か)
 トレーナー越しでもはっきりと解るその質量を確かめるように、月彦はわさわさと指を動かしてみる。みしっ、と軋むような音がしたのは妙子の握っているペンの方からだった。
(何だろう、この感じは……そうだ、アレに似ている)
 本来ならば鼻息荒く指先の感触に集中している所だが、奇病に冒された月彦は漠然と、しかし冷静に考えていた。これはあの……タルに剣を突き刺していくゲームに似ていると。
「…………ッ…………」
 指をモゾモゾと動かしていると、不意にぴくりと、妙子が微かに体を震わせた。おや、と思い、月彦は反射的に“その辺り”へと指を戻した。
「……!」
 またしても、妙子が身を硬直させる。なるほど、と月彦は全てを理解した。
(ここがいいのか)
 指の位置を察するに、そこは恐らく妙子の胸の先端に違いなかった。トレーナーとブラ越しにではあるが、月彦はその部分を重点的に刺激してやることにした。
「……っ…………ッ…………ぅ………………」
 微かではあるが、妙子の呼吸が荒くなっているように感じた。それも、必死に押さえようとしているのだが、やむなく湿った吐息が漏れてしまっている様に。既に、問題集を解く手の動きは完全に止まってしまっている。
(ふむ、そんなにそこが“良い”のなら……)
 いっそ直に刺激してやるべきか――などと、月彦としてはむしろ善意のつもりで妙子のトレーナーの下へと手を差し込もうとしたその刹那。
 べきんっ、と。
「――いい加減にっっっ」
 シャープペンシルが折れる音が聞こえた時には、脇腹の辺りに凄まじく重い衝撃が走った。
「しろぉぉ!!」
 最初の肘打ちで完全に呼吸が止まり、よろよろと後退った所に懐かしくさえあるコンボを決められ、月彦は完全にダウンした。唯一(と言ってもいいのかどうか解らないが)の誤算は、その威力が月彦の記憶の中にあるものよりも遙かに上がっていた事なのだが、月彦がその事を認識したのは妙子の部屋の外で意識を取り戻した後だった。


 


「ううぅ……矢張りダメだったか……」
 よろよろと、太さ、長さ共に絶妙なサイズの木の枝を杖代わりにしながら、月彦は暗澹たる気持ちで帰路についていた。
(ダメなんじゃないかな、とはうすうす思ってたが……やっぱりダメだ……)
 妙子に無理強いまでして“喝”を入れてもらったというのに、何ら変化が無い。吹きすさぶ寒風が、胸に空いた穴を通って寒さも一際厳しく、そして不意に訪れるわけのわからぬ焦燥、不安、苛立ち。
 何よりタチが悪いのが、それらの原因が全く分からないという事だった。月彦なりに思いつく限りの事をやってみたが、全くと言っていい程に効果が感じられなかった。
(畜生……何でこんな目に……)
 胸の奥に鋭い痛みを覚えて、月彦は掻きむしるようにして爪を立てた。切なさにも似たこの感覚は一体何なのだろう。自分の体は一体どうしろと訴えているのだろう。
「ただいまー……ってあれ……」
 いつもの如く玄関のドアを開けようとして、慣れぬ手応えに月彦は一瞬戸惑った。
(ああそうか、今夜母さん遅いんだ)
 思い返せば、朝の時点で今日は帰りが遅くなるから家の鍵をちゃんと持って出るようにと言われていた。葛葉に言われるまでもなく、家の鍵など普段から持ち歩いているからここに至って家に入れない――等という事にはならない。
(……てことは、真央はまだ帰ってないのか)
 鍵を開けて家の中に入るも、やはり人の気配は皆無。恐らくは由梨子か他の級友達と遊んだりしているのだろうと当たりをつけて、月彦は靴を脱いで自室へと上がろうとした。
 その刹那だった。
「んっ……?」
 微かな物音を耳にして、階段を上がる月彦の足は止まった。音は、台所の方から聞こえてきた。
(なんだ、真央居たのか)
 そう思い、声を出そうとしてはたと、月彦は思いとどまった。朝、葛葉が言っていた言葉の続きを思い出したからだ。
『母さん、今夜は遅くなるけど、晩ご飯は作っておくから。……今夜はね、真央ちゃんの大好きないなり寿司よ?』
 そう、今夜はいなり寿司――そしてこの物音。まさか……そう思い、月彦はそろり、そろりと足音を殺しながら、台所へと近づいていく。
(なんだ……この、胸の高鳴りは……)
 ドキドキと、不自然な程に高鳴る鼓動。何事にも無関心になりつつあるほどに冷え切った胸の奥が、まるで火を灯されたように熱く滾り出す。
 忍び足のまま台所へと到達し、月彦はそっと中を覗いた。なにやら動物のような影がテーブルの上へと登り、ガツガツと一心不乱に何かを食い漁っているではないか。
 やっぱりか――月彦は己の直感が正しかったことを悟ると同時に、静かに、そして大きく息を吸い込んだ。
「くぉらっ、泥棒狐!」
 びくぅッ!――犬の様な影が飛び上がるようにして驚いたその刹那、月彦もまた台所に飛び込んでその尻尾を掴もうとした――が、すんでの所でするりと逃げられた。影はそのままとーん、とーんとテーブルの上を撥ねた後、空中でくるりと回ったかと思えばひらりとした着物姿の女へと転化した。
「なによ、もぅ。急に大声なんか出すからびっくりしたじゃない」
 口元の米粒などを拭いながら、むしろ月彦の方こそマナー違反であるかのような口ぶりはさすがとでも言うべきか。見れば、テーブルの上に用意されていたであろういなり寿司は既にその七割方が食い尽くされていた。
「なによ、じゃねえ! 一体どこから入ってきやがったこの性悪狐が! こんなに食い散らかしやがって……このいなり寿司は俺と真央の晩飯だったんだぞ!」
「あら、そうだったの? ごめーん、全然気が付かなかったわぁ」
 まるで台本でも棒読みするような、それでいて人の神経をこれ以上なく逆撫でするような口調で、真狐はわざとらしくおどけて見せる。
「てぇぇぇんめぇぇぇ……ここであったが百年目! 今日という今日はとっちめてやる!」
 怒り心頭とばかりに、月彦は飛びかかる――が、そのケダモノじみた跳躍も本物のケダモノの化身である相手には通じず、寸前でするりとかわされてしまう。
「やんっ、今日の月彦こわーい、壊されちゃうー」
「くっっ……くのっ、このぉっ……!」
 挑発じみた声にさらに怒りのボルテージは上がり、月彦は再び飛びかかる――が、やはり寸前でかわされてしまう。勢い余り、月彦はそのまま鍋類が掛けてある壁へと衝突し、ドンガラガッシャーンと大崩落に巻き込まれたが、その程度の事に躊躇している暇は無かった。
「はあっ、はあっ、はあっ…………」
 立ち上がり、眼前に立つ女を見据える。いつも通りの、破廉恥極まりない服装。見ているだけで腹立たしささえ沸き、どうにかせずにはいられなくなる巨乳。そして、何とも不貞不貞しい振る舞い、態度。
 何より、積もりに積もった昔年の恨みが、月彦を奮い立たせる。
(今日こそ、とっちめてやる……!)
 どく、どくと心臓が波打ち、体の隅々爪の先髪の毛の先端まで力が漲ってくる。眼前の女を捕獲し、蹂躙するために必要な力が全身に満ち始めるのを、月彦は感じた。
「ふふふ……凄い目つき。あたしを犯る事しか考えてないって顔してる。……そんなにあたしに会いたかったの?」
 月彦をさらに焚きつけるように、真狐はむぎう、と自らの乳を抱きしめるようにして寄せ、身をくねらせる。そんな“獲物”の動きに辛抱堪らんとばかりに月彦は飛びかかり、またしてもかわされ、今度はテーブルごとひっくり返すようにして転げるが、瞬時に立ち上がってまた飛びかかる。
 が、しかし。指先がひらりとした着物の袖に触れるか触れないかの所でまたしても。
「うがあああっ! こぉんの、逃げんじゃねえ!」
「くすくす、まるで猪ね」
 ひらり、ひらりと。まるで闘牛士のようにかわされながらも、月彦は眼前の女目掛けて盲進した。あれほど頭を悩ませた不能も、虚無感も、苛立ちも、不安も、焦燥も、全て頭から吹き飛んでいた。


 

 いつもより若干元気のない由梨子と学校帰りに喫茶店に寄って少し話などをして、真央が自宅に帰り着いたのは六時をやや過ぎた頃だった。
(……父さま、まだ調子悪いのかなぁ……)
 最近は、始終その事ばかり考えていた。父親の様子がおかしいというのは、無論真央も気が付いている。暇さえあればため息ばかりついて、何をするのも無気力。意味もなく部屋の窓を開けて遠くを眺めたり、そしてまたため息をついて閉めたり。
 見ようによっては“何か”を待ちわびている様にも見えるのだが、一体“何”を待っているのか、真央はあえて深く考えないようにしていた。
「ただいま……」
 陰鬱な気分で玄関のドアを開けるや、真央は驚きのあまり鞄を落としかけた。
「か、母さま!?」
「あら、お帰り、真央。今日は遅かったのね」
 玄関に立ったまま、手にした大皿からいなり寿司らしきものをひょいパクしているのは紛れもない母、真狐だった。
「真央、あんたも食べる?」
「あっ、うん……でも、手を洗わなきゃ……」
「平気よ、そんなの。ほら、あとたった三つしかないんだからちゃちゃっと食べちゃいなさい」
 半ば無理矢理に真狐に皿を押しつけられ、真央は突然の事に面食らいつつもふわりと立ち上るいなり寿司の芳香に堪えかね、ついつい手を伸ばしてしまう。
(あっ……これ、義母さまの味だ……)
 そういえば、朝、晩ご飯はいなり寿司だと言っていた気がする。ということは……つまり、そういう事なのだろう。
「そうそう、真央? しばらく台所には行っちゃダメよ。こわーいケダモノが暴れてるから」
 ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて、真狐はしゅたしゅたと二階へと上がっていってしまう。恐らくは、食べるものは食べたから帰る――という事なのだろう。いつもの、二階の机の側の窓から。
 真央はとりあえず残ったいなり寿司を全て口の中に収めてから、恐る恐る台所を覗いてみる事にした。真狐に言われるまでもなく、家に入った時点から凄まじい騒音や罵声が聞こえていたそこでは、案の定父親が一人で暴れ回っていた。
「はぁっ、はぁっ……くそぉ……ちょこまかと……いい加減神妙にしろ!」
 声を荒げ、月彦が追い回しているのは古びた一枚のハンカチだった。さながらそれは、猫が無機物にじゃれつくかのように、自らの手で空中へと跳ね上げてはたたき落とし、跳ね上げては叩き落としといった具合に遊んでいるかのように見える。
 すぅ……と、真央は深く息を吸い込んだ。
「父さま!」
 真央の声に、月彦は一瞬びくりと身を竦ませた。まるで、浮気相手との蜜月中に妻の声を聞いた夫のように狼狽え慌てふためいて真央の方を見る。
「ま、真央……帰ってたのか……いや、これはだな……別に浮気してたわけじゃなくて――」
 月彦の言葉を無視して、真央はその鼻面でぱんっ、と猫騙しをした。途端、あっ……と月彦の目が正気のそれへと戻る。
「母さま、もうとっくに逃げちゃったよ」
「なぬっ!?…………じゃあ、さっきのは――」
 幻か、と。さすがに幾度と無く化かされている手前、すぐに察しがついたらしかった。
(父さま……そんなに、母さまがいいの?)
 真央の目は、トドが暴れた後のようになってしまっている台所の惨状でも、歯茎から血を零しそうな勢いで歯ぎしりをする父親の顔でもなく、ズボンの上からでもありありと解る程にはちきれんばかりになってしまっている股間へと釘付けになっていた。
(……私も……あんな風に、父さまに追いかけられてみたい……)
 血走った目で、目の前の獲物を捕まえ、種付けをする事以外なんら考えていないような父親に追いかけ回され、それでも逃げ切れなくて捕まって、力ずくで犯されたい――そんな歪んだ願望が、ウズウズと体の奥からわき起こる。
(母さまばっかり、ズルい……)
 心底母親が羨ましい――と、真央は思う。
(私も、母さまみたいになれば……父さまに追いかけてもらえるのかなァ……)
 真狐の様にはなるな、と月彦は言う。真央自身もその言葉を受けて、父親の言う通り良い子になりたいと願い、そうなるように努力してきた。
 しかし――。


 

 なにやら元気のない真央と共に、台所の片づけを終え、出前でとったラーメンを啜り始めた段階になって初めて、月彦は己の体の変調に気が付いた。
(ん……?)
 そう、それがあまりに自然な状態であった為、すぐには気が付けなかった。
(治った……のか……?)
 はたと。まるで人ごとのように月彦は思った。あれ程痛かった胸も、謎の虚無感も、苛立ちも、焦燥も、全てがいつのまにか綺麗さっぱりと消え失せているのだ。
(はて……何故だ?)
 ラーメンを啜りながら、月彦は考えた。家に帰る前の段階では、間違いなく治ってはいなかった。妙子の鉄拳が遅効性で効いてきたという可能性も確かに無くは無いが、それならばもう少しじわじわと治りそうなものではないだろうか。
「むぅ……」
 箸を止め、月彦はやや真剣に考える。そして考えれば考えるほどに、“奇病”とは別の苛立ちが沸き起こってくるのを感じた。
(気に入らない……)
 “治った原因”を探れば探るほどに、そう感じるのだ。
(これじゃあまるで、アイツに会ったから治ったみたいじゃないか)
 みたいもなにも、どう考えてもそうとしか思えなかった。実際、あの女の顔を目にした瞬間、それまで煩っていたありとあらゆる事柄が頭から消え、そして真央に幻術から覚ましてもらった時には、まったくいつもの自分に戻っていたのだから。
(いや違う、これはそう……所謂怪我の功名って奴だ)
 考えてみれば、あれも一つの“喝”には違いない。限界を超えた怒り、欲情――そういったもので狂っていた精神のバランスが元に戻るというショック療法に過ぎないのだ。
 なにやら理屈が無茶苦茶な気がするが、月彦はこの事柄を深く考えるのは止める事にした。考えれば考えるほどに、深く傷ついてしまいそうな気がしたからだ。
「どうした、真央。さっきから全然箸がすすんでないぞ?」
 気を紛らわす為にも、月彦は対面席に座っている真央へと目をやった。元気が無いのは先ほどから気が付いてはいたが、どうやら食欲もあまり無いらしく、ラーメンには殆ど手をつけていない様だった。
(やっぱり……さっきの事か)
 恐らくは、先ほどの真狐との追いかけっこが、真央の中では“浮気”に分類されてしまったのだろう。にしては、いつものように怒るでもなく元気が無くなるというパターンは珍しく、対応に些か戸惑ってしまうのは否めない。
(まあ、でも……大丈夫だろう)
 不能さえ治ってしまえば、真央の機嫌などすぐに直せる、直してみせると、月彦は極めて楽天的だった。
「……そうだな。今日は母さんも居ないし、久しぶりに二人で風呂に入るか?」
 だから、手始めに軽くジャブを飛ばしてみる事にした。こういう誘いを持ちかければ、嬉々として乗ってくるか、そうでなくとも期待と興奮でソワソワし始める事を月彦は経験から知っていた。
 が。
「……いい。今日は、一人で入りたいから」
 真央はつっけんどんに言い、そのままごちそうさまと席を立ってしまった。んなっ、と絶句したのは月彦だ。
(……ヤバい、想像以上に怒ってたか)
 月彦としては、真央にそこまで機嫌を損ねられるいわれはない――という思いが強い。何故なら、自分はまだ何もしていなかったのだから。
(仕方ないな……そういう事なら、ちょっとサービスしてやるか)
 こういう時、どうしてやれば愛娘が最も喜ぶのか、勿論月彦は熟知しているのだった。


 


 自室で着替えを取って、階下へと降りてきたとき、台所に父親の姿は無かった。そのことに安堵とも落胆ともつかない奇妙な感情を抱きながら、真央は一人脱衣所へと向かう。――その途中の廊下で。
「真央」
 背後から声をかけられた。そして、咄嗟に振り返るよりも早く、体が抱きしめられた。
「本当に一人で入るのか?」
「う、うん……今日は、一人で入りたいの」
 事実、そういう気分だった。ここ数日、不調そうだった月彦が真狐との邂逅で図らずも調子を取り戻した事には、無論真央は気付いていた。気付いているから、だから一緒には居たくないのだ。
(私は……母さまの代わりじゃない)
 真狐とヤれないなら、じゃあ代わりに真央で――そこまで露骨ではないにしろ、それに近い心の動きが月彦の中であったには違いないのだ。いくら相手が父親――月彦とはいえ、そのような理由で抱かれるのは、真央には屈辱だった。
(それに……嫌がった方が…………母さまみたいに……)
 追いかけて貰えるかも――そんな邪な期待も込めて、真央はしばし月彦から距離を取ろうと思ったのだった。
 しかし、その作戦には穴が――それも、致命的な程に巨大な穴があることに、真央はまだ気が付いていなかった。
「そうか、残念だな」
 残念、という言葉とは裏腹に、嬉々としているかのように抱きしめる手に力が籠もる。
「最近、ご無沙汰だったから……今夜こそ、たっぷり可愛がってやろうと思ったんだけどな」
「…………っ……!?」
 耳元で囁かれたその言葉に、ぴくりと。まるで真央の心をそのまま表すかのように、月彦の体との間に挟まれている尻尾が反応してしまう。
 くつくつと、父親は嗤う。
「……い、イヤッ……父さま、離して……」
 真央は俄に抵抗し、月彦の腕の中から逃れようと試みる。が、自分でも不思議なほど、両腕に力がこもらず、暴れる事すら出来ない。
 しかし、それでも真央は逃げる事が出来た。理由は簡単だ、月彦が自ら手を離したからだ。
「……ぁっ……」
 勢い余って、よろよろと二歩ほど歩いた所で、真央は背後を振り返った。意図せず、その目は月彦に語りかけてしまっていた。“父さま、どうして”――と。
「どうした、真央。一人で風呂に入るんじゃないのか?」
「ぅ……」
 そう、そうする予定だった筈だ。しかし、真央はもう、月彦の方から視線を外す事が出来ない。
「ね、ねぇ……父さま? もし……一緒にお風呂に入ったら……どう、するの?」
 それは、聞かなくても良い事だ。一人で風呂に入るのならば、そのようなこと気にする必要は全くない。必要はないと、解っているのに。
「うん? そんなのは真央が一番良くしってるだろ。“いつもと同じ”だ」
 あぁ――と、真央は尾の付け根から痺れが奔るのを感じた。質問には答えるが、肝心なところははぐらかし、想像に任せると言わんばかりのその言い回しに、真央はゾクリと身震いをしてしまう。
「でも、そうだな……折角だし、久しぶりでもあるから……まずはじっくり見るか」
「み、見る……って……?」
 息が、乱れる。月彦が、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「勿論、真央の全身を、だ。何せ、久しぶりだからな。どれくらい成長したのか、まずは目で確かめる」
 月彦の言っていることがただの建前である事など、無論真央にも解っている。解っているが、自身の奥底もまた“それ”を望んでいる以上、拒む事など出来ない。
「その後は……そうだな。いつも通り、口でさせるか。ああ、でも……今日は自分でシながら、ってのは無しな」
「えっ……じゃ、じゃあ……」
「口でシてる間は、ずっと我慢だ」
 我慢――その言葉を聞くだけで、早くも辛抱堪らなくなる。やもすると下半身へと手を伸ばしてしまいそうになる。
(そん、な……口でする、だけ、なんて…………)
 想像しただけで、身を焦がさんばかりの焦燥が襲ってくる。そう、想像しただけで“これ”なのだ。もし、実際にやったら――
「くす、どうした真央。……想像しただけでイきそうなのか?」
 すぐ側まで歩み寄った父親の唇が、まるで口づけでもするかのように狐耳へと触れる。そして、一言。
「真央……発情しろ」
「ひっ……ンッ!」
 ボソリと囁かれたその一言が、まるでスイッチであったかのように全身に痺れが走る。
「ぁっ、ぁっ、やっ…………」
 それまでとは比べものにならない強烈な焦れ、肌の火照り……まるで媚薬でも塗り込まれたかのように溢れ始める恥蜜。その全てが、最早真央自身の意志ではどうすることも出来なかった。
「ぁっ、ひ……ぃ…………」
 不自然な震えに堪えかねるように真央は膝を突き、そして眼前に立つ父親を見上げる。そう、最早この体は自分のものではないのだ。眼前に立つ牡の――“主”のものなのだ。
「……まぁ、さっき言ったのは勿論、ほんの序の口だが、どうする? 真央。やっぱり一人で風呂に入るか?」
 極めて優しい、慈愛に満ちた言葉に、真央は静かに首を振り、そして脅えた子犬のように月彦の足に体を擦りつけた。
(ダメ……私には、母さまの真似なんて……出来ない)
 追いかけて貰おうにも、そもそも離れる事自体できないのだから。
(……母さまの代わりでも、いいの)
 それを父親が望むのであれば。そもそも、拒否権など持たされてはいないのだから。


 かくして、月彦は無事不能を治し、真央の躾直しにも成功した。
 が、しかしその為に切った二つの小切手の返済と、致命的にまで拗れた幼なじみとの関係の修復にこの先も多大な労力を要するのだが、それはまた別のお話。
 

 

 

 


 


ヒトコト感想フォーム

ご感想をひとことどうぞ。作者にメールで送られます。


ヒトコト

Information

現在の位置