Forest Elf
〜月の涙編〜
―― 第七話 ――



 結界を抜けると、そこは今までとは全く違った空間だった。
 風景ががらりと変わったとか、そういうことではない。
 見た目そのものはは、結界を抜ける前と、抜けた後ではさほど変わらない。
 が、そこには『目に見えないもの』が多量にひしめき合い、充実された空間だった。
 一つには、精霊だ。
 風の精霊、光の精霊、樹木の精霊、草の精霊、土の精霊……様々なものから発散される力の波が空間を満たしていた。
 それは精霊使いとしての素養が無いに等しい彼にも、しっかりと知覚できるほどに力強いものだった。
(これが…エルフの森…その聖域か…)
 彼は軽い感動を覚えて、空を仰いだ。
 深海のように暗かった森が、結界を越えた途端浅瀬のように光に満ちていた。
 所々に木々の葉の合間から漏れた光が伸びていて、それはまるで天から降り注ぐ光の槍のようにも見える。
 否、森が明るいのはそれだけではなかった。
 ふわふわと、空中を彷徨う光の玉。
 光の精霊に属する、ウィル・オー・ウィスプだ。彼も、その名前だけは知っていた。
 瞬く間に、彼のまわりに数個のウィル・オー・ウィスプが集まってきて、まるで監視するようにその周囲をふわふわと漂い始める。
 彼が興味に駆られてその光の玉の一つに手を伸ばすと、寸前のところで、まるで綿毛が風に舞うような仕草でふわりと逃げた。
(あまり歓迎されてはいないらしいな。…当然と言えば当然か)
 元来、精霊というのは人間を嫌うものだ。いや、一概にはそうとはいえないのだが、少なくとも若い準聖騎士はそう信じていた。
「驚かせてしまってすまない。しかし、私は君たちに害を成すつもりでこの森に来たわけじゃないんだ。解って欲しい」
 はたして光の精霊に人語が通じるかどうかはさておき、若い準聖騎士は馬鹿丁寧に辞儀をして精霊達をこれ以上刺激しないように、ゆっくりとした動作で歩み始めた。
 光の精霊達も、彼の言葉が通じたのか、それともただ単に彼という存在に飽きたのか、それぞれが寝床に帰るようにふわふわと霧散していった。
 光の精霊達が居なくなると、僅かに彼を闇が包んだが、しかしそれでもエルフの森は十分に明るかった。
 若い準聖騎士は、直進した。方位磁石も何も見ることなく、結界面に対して垂直に進み続けた。
 理由は、特になかった。
 ただ、彼としては普段全く見慣れないエルフの森の風景に完全に見入ってしまっていて、そちらの方に目を奪われ続けていたのだ。
 木々も、草も、土も、見た目には世界中に普通にあるようなものと変わらない。それであるのに、そのどれもがまるで金色の光を放っているような神々しい雰囲気を持っているのだ。
 足を踏み出し、絨毯の様に柔らかい草を踏みしめることにさえ、彼は罪悪感を憶えるほどにこの森が気に入っていた。
「ん……?」
 どれくらい歩いただろうか。
 ふいに、眼前の木々が一気に消え失せたような錯覚に襲われて、彼は目を瞬いた。
 もちろん、そういうわけではなかった。
「湖…か」
 森の切れ目の先に、巨大な湖が広がっていた。
 彼は街灯に誘われる蛾のような覚束なさでその岸の岩場の辺りまで進み出た。
 恐ろしいほど透明度の高い湖だった。それでいて、水面は殆ど波打つこともなく、静寂を湛えていた。
 飲める水だろうか―――と、彼が疑ったのは、水中のあまりの透明度故だ。しかし、すぐにその不安も払拭された。
 目を凝らしてみれば、水中を動き回る相当な数の淡水魚の群れがハッキリと確認出来たのだ。
 少し、喉の渇きもあった。
 彼は膝を着き、素手で湖水を掬うと軽く臭いを嗅いでから口に含ませた。
(…ッ!…美味い…)
 と、即座に思った。
 喉の渇きのせいということもあるであろう。が、それ以上の何かがこの湖の水には含まれているように感じられた。
 それは人的な汚れの一切がない場所での、水の精霊の恵みによってもたらされる至福の味わいだった。
 彼はすぐさま両の手で水をすくい上げると衣類が濡れるのも構わずそれを飲み干した。
 飲み干すとまた掬う、何度もそれを繰り返して、およそ胃の中が湖水で満たされるほどになって、漸く彼はその動作を止めた。
 否、もう一度だけ、彼は両手で水を掬った。しかし飲むためではない、顔を洗う為だった。
 冷たい湖水がなんとも心地がよい。顔を洗っただけで、まるで今までの旅の疲れが一気に払拭されたような、そんな錯覚すら、彼は憶えたほどだった。
 出来ることならこの場で全ての衣類を脱ぎ捨てて身一つで湖の中に飛び込みたい―――が、さすがにそれだけは、準聖騎士としての彼の理性が止めた。
「ふぅっ…」
 尻餅を着き、足を投げ出し、両手を地面について、彼は空を仰いだ。
 湖の上空には、蒼天。
 鬱蒼とした森の中でこの湖の上だけは、木々の枝も葉も無い。
 森に入る前、常にそこに在った筈の空であるのに、生まれて初めて地表に出た蝉のように、彼はしばしの間、蒼天とそこに漂う白雲に目を奪われ続けた。
 
 ―――ぱちゃんっ!

「…ッ!」
 不意に、湖の方からそのような水音が聞こえた。
 瞬きほどの間のうちには、彼はもう立ち上がり、剣の柄に手をかけて身構えていた。
 注意深く、水面を睨み付ける。湖の中央部の辺りから、波紋が一つ広がり、彼の居る岸辺まで到達した。
(魚が跳ねただけか…?)
 まず始めに、彼はそう思った。が、油断はしない。
 当然のように、背後の森にも意識の網を張り巡らせ、いついかなる状況にも対処出来るように軽く腰を落とす。
 剣は抜かない。仮に相手が襲撃者であれば、抜いた方が得策であることは明らかだ。
 しかし”そうではなかった”場合、自らの早計な行動によってこの場所に来た意味すら失ってしまうことを、彼は恐れた。
「………………。」
 注意深く、辺りを伺う。
 耳が痛くなるほどの静寂が辺りを包む。森の方からも、鳥の声さえ聞こえなかった。
(―――来るッ!)
 と、彼が感じたのは半ば直感めいたものだった。しかしそれは常人の、気まぐれに起きる類の直感ではない。
 聖騎士となるため、厳しい訓練を積んできた彼の経験を礎とした、直感というよりも予測に近いものだった。
 そして、彼の読みは当たった。
 水面、先ほど波紋が起きた場所より少し離れた場所に突然白い塊が突出したのだ。
 空中に銀の飛沫を飛ばしながら、水中より飛び出してきた”何か”。
「なっ……!」
 ”それ”を見た刹那、まるで金縛りの術でもかけられたように彼は全身の全ての動きを止めた。
 いや、金縛りだけではない。髪の毛の先から踵、つま先に至るまで、雷にでも撃たれたような衝撃が駆け抜け、さらには呼吸が止まり、肋骨を突き破らんばかりに心臓が暴れ出した。
 ”それ”は今まで彼が受けてきた過酷な訓練より、真剣試合の斬撃より、凶悪な魔物の放つ咆哮よりも彼に凄まじい衝撃を与えた。
 彼は、どのような襲撃に対しても対処できるように身構えたつもりだった。
 もし仮に、先ほどの臨戦態勢の彼に対して一斉に数十本の矢を射かけたなら、彼はその全てを避けるか、その剣ではじき飛ばすかして避けただろう。
 数人の刺客が彼の背後から刃を打ち下ろしたとしても、彼は振り向きもせずにそれを避け、刹那のうちにその全員の戦闘能力を奪っていただろう。
 だが、実際には、彼は”それ”に対して全くの無力だった。
 ”それ”を前にして、ただ無防備に突っ立ち、凝視することしか出来ない自分に対してさえ、彼は何らかの手段を講じることもできなかった。
 ”それ”は未だかつて彼が目にしたことのないものだった。
 ”それ”は美しかった。
 宙に舞う、黄金よりも光を放つ、金色の長い髪。
 深々と降り積もる新雪よりも白く、透き通るような柔肌。
 そして、人のそれよりも長く伸びた耳に、同じく、人の娘でもそうそう見つからないほどに発達した乳房。
 彼が見たのは、まさしくエルフの娘だった。
 水面から顔を出して、大きく息を吸い込み、水を蹴り、腰から上ほどまでを水面から持ち上げ、そして再び水中に潜るまでの、ほんの数秒にも満たない時間。
 それがまるで、スローモーションのように、否、コマ送りか、はたまた時間そのものが止まってしまったかのように、彼には感じられた。
 その優れた動体視力が、一連の出来事を彼にそう知覚させたのかもしれない。
 しかし、彼が滑稽であったのは、そういった光景を目の前にしながらも、自分が見たものがエルフであるとか、裸であったとか、そういうことを理解する暇すら与えられずに意識を失してしまったことだ。
 両の鼻から噴水のように血を吹き出しながら、彼は頭から水面に崩れ落ちた。
 既に意識はない。
 意識はなかったが、しかし、何処か遠くで、女性の悲鳴を聞いた気がした。
















「なっ…何よ、これ…………」
 その光景を見るなり、ルミは眉を寄せ、困惑の表情を浮かべた。
 姉の悲鳴を聞きつけ、大あわてで湖にやってきたルミを出迎えたのは、頭から水面に突っ伏し、ぴくりとも動かない男の尻だった。
 水が、男の頭の辺りから赤く濁っていた。調べるまでもない、血だ。
「お姉様がやったの?」
 すぐ側の大岩の陰から顔の半分ほど覗かせている姉に問いかける―――と、姉は即座に首をふるふると振って否定した。
「………その人、死んでる…の?」
 震えた声で、妹に聞く。
「解らないわ。とりあえず、私が調べてみるから、お姉様は早く着替えて」
 ルミの提案に、ルカは即座に頷くと自らが脱ぎ散らかした服のある岸辺へと戻るべく、水中に飛び込んだ。
 距離的には歩いた方が早いのだが、実の妹といえど、こうも明るい場所で、しかも素面で裸を晒すことに羞恥を憶えたためだ。
「さて、と」
 ばしゃーん、と水の跳ねる音を聞きながら、ルミは尻のほうを向いた。
 まずは、この尻の正体を突き止めねばならない。
 腰に差していたレイピアを抜き、その先端で軽く男の尻を突いてみる―――反応はない。
「………………………。」
 ルミはレイピアを腰にしまうと、恐る恐る、男の両足を掴み、男の上半身を湖から引き抜いた。
 まず、背中、後頭部の外傷を調べた、が、それらしい痕は見つからない。
 次に、男を仰向けに寝かせ直した。
「…あら」
 思わず、ルミが声を上げたのは仰向けにした瞬間、男が出血していた場所と、その原因が即座に解った為だ。
 水から引き抜いた際に大分ぬぐわれたのであろうが、しかし僅かに鼻の下に残る赤い液体から、男が相当量の鼻血を吹き出していたのは明白だ。
(お姉様の裸、見ちゃったんだ…)
 ルミは真っ先に、そう結論づけた。
 と、同時に安心と、そしてその口元に含み笑いが浮かぶ。
(悪い人じゃ、ないみたいね)
 女性の裸を見て、鼻血を吹いて倒れ、失神してしまうような男が悪人の筈はない。
 いや、仮に悪人であったとしても、それはそれでなんと可愛らしい悪人だろう。
 ルミの頭の中で眼前の男に関しての様々な憶測が飛び、その都度、ルミは唇を綻ばせて勝手に男への親近感を強めた。
 その証として、ルミは携帯用のミスリル布のハンカチーフを取り出して、男の顔の血痕と水滴を拭ってやった。
 男が若い美男子だったということも、ルミの警戒心を緩める一端を担っていたかもしれない。
「さてと…、どうしよう…?」
 ひとしきり、男の顔を拭い終わって、エルフの妹は立ち上がった。
 どうしようという問いかけは、姉に対するものではなく、自分に対するものだった。
 つまりは、男をこれからどうするか。
 別に自分たちとは何ら関わりのない相手だ、このまま放置しても問題はないかもしれない。
 ルミが見る限り、男には別段特別な手当が必要とは思えなかった。
 恐らくは失神してから、水に突っ伏したのだろうから、水も多分、飲んではいないだろう。
 何もしなくてもしばらくすれば、意識も戻る―――なら、このまま放っておこうかと思ったとき、男の剣が目にとまった。
 いや、正確にはルミの目がとまったのは剣その物ではなく、その鍔の部分に埋め込まれている緑色の宝石だった。
「なるほど、ね。旅の準聖騎士様、エルフに会いにはるばる森へ…って所かしら?」
 となれば、今ここで男を放置したとしても、いずれ遠からぬ未来に自分たちを訪ねてくるであろう。
 それならいっそ住処へつれていって介抱してやったほうが手間も省けるのではないかと、ルミは判断した。
(どんな用で来たのかしら?)
 そういう類の好奇心も、ルミの中にはあった。
 恐らくは聖騎士となるための最終試練、その無理難題を解くために自分たちを頼ってやってきたのであろうことは容易に予想できる。
 そしてルミは、その内容に興味が湧いた。だから、住処に連れて行って話を聞いてやろうと思ったのだ。
(…お姉様、まだ着替えてるのかな?)
 一人では、男は運べない。ルミは姉が戻ってくるのを待ち続けた。
 しかし、ルカはなかなか戻ってこなかった。


 

 
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