「侵入者…!?」
突然開いた結界の亀裂に最も敏感に反応したのはエルフの妹、ルミだ。
昨日の情事からは、既に大分時間が経っている。沐浴を済ませ、丁度朝食の準備に取りかかっている所だった。
「大変…お姉様っっ!」
ナイフと、カッティング途中だったチーズを乱暴にテーブルの方に放り、寝室へと駆け込んだ。
が、そこには姉―――ルカの姿はなかった。
「お姉様…?」
ベッドの上はもぬけの殻。もちろん室内の何処にも居ない。
「お姉様ぁッ!」
ルミは叫び、部屋という部屋を全て見て回った。
自室に書庫、リビングに食料庫etc…。しかしそのどれにもルカの姿は見あたらない。
ルミは外に飛び出し、木の幹、枝までも具に見て回った。
千年樹―――正確にはその数倍、もしくは数十倍の年月を過ごしている彼らの住処の幹はその生きてきた証を誇るように太い。
その周りを走りながら見回し、見上げては数千本はあろうかという枝々の先までルミは目を凝らした。
が、結局ルカの姿は無かった。
「まさか―――」
と、機知に富んだエルフの妹は即座に姉の居場所を推理した。先刻、自分が起きて真っ先に何をしたか―――ということを考えれば、今まで気がつかなかったことのほうが不思議なくらいなのだ。
「お姉様っ…こんな時に湖にっ!?」
ルミは、その想像にたどり着くやいなや、すぐに自室の方へと駆け戻った。
もう、だいぶ手入れもしていない弓と矢。さらにミスリルのレイピアを鞘ごと腰に差し再び外へと飛び出すと姉が向かったであろう湖に向かって一目散に駈けだした。
ルミは急いでいた。当然だ、侵入者の反応があった結界の狭間から、ルカが向かった湖は目と鼻の先ほどの距離なのだから。
―――湖。
森の中央部、千年樹からエルフの足で10分ほどの場所にそれはある。
その総面積はかなりのものだ。深さも湖の中央部へいくほど深くなっている。
具体的に言えば、成竜が2,3匹やって来て水浴びをしても、およそ足りるほどの広さと深さがその湖にはあった。
エルフの姉妹は時折この湖に来ては、飲料水や沐浴用の水を確保したり、はたまた二人で水遊びをしたりしていた。
その湖をぐるりと囲んだ岩場の大岩の一つの上に、エルフの衣類一人分がまるまる脱ぎ捨てられていた。
もちろん、ルカのものだ。
彼女はその黄金の長い髪と白い肢体の全てを透明な湖の中へと晒し、今まさに沐浴の最中だった。
いや、それは沐浴というよりは、水泳に似ていた。
彼女は時折自らの真下を通過する淡水魚たちと戯れるようにそれらを追いかけ、水中に潜ってはまるで会話をするように顔を見合わせたりした。
淡水魚たちの数は多い。種類も、小指の先ほどの小魚からルカの身長をゆうに越えるような巨大魚までいる。
が、それらがルカを襲うようなことは決してなかった。
エルフのルカ達は基本的には草食であり、肉類や魚類は滅多に口にしない。当然、この湖の魚達を捕らえたこともなければ、捕らえようとしたこともなかった。
少なくともルカにしてみれば、この湖の淡水魚たちは自分にとって『お友達』であり、時折こうして遊びに来てはくたくたに疲れ果てるまで彼らと追いかけっこを堪能するのだ。
三日に一度ほどは、こうして湖を訪れる。彼女はエルフにしては致命的までに運動神経が鈍かったが、その習慣のお陰でこと水泳に限っては彼女は人並み以上、いや、エルフ並以上といえた。
『お姉様は、エルフじゃなくて人魚にでも生まれてくればよかったのにね』―――泳ぎだけは姉に叶わないルミなどは、時折皮肉を込めてそのようなことを言うのだ。
最も、ルミとてルカと同じだけこうして湖へと足を運べば、あるいは彼女以上の水達者になれたかもしれない。
が、合理主義なルミとしては、沐浴用の水を自宅に確保してあるというのに、わざわざ湖まで足を運んで魚と戯れるということがどうにも無駄に思えるらしかった。
それと、ルミがルカと共に泳ぐのをあまりよしとしない理由がもう一つある。
二人とも素っ裸になってしまえば、互いの体の”発達の具合”が具に露見されてしまうのだ。
それは、ルミにとって屈辱的なことだった。彼女はもとより、女性的な魅力が未発達なままの自分の体にコンプレックスを感じていた。
エルフという種族はそもそも普通の人間にくらべて低身長で、肉付きも乏しいものなのだ。そう考えれば、ルミの体つきは純粋なエルフのそれであるといえる。
が、彼女には姉のルカがいる。ルカは、エルフはもとより、人の女と比べても見劣りどころか群を抜くほどのプロポーションの持ち主なのだ。
ルミも頭では、自分はエルフなのだから、人の女のようにグラマラスになる必要はないと解っている。
しかし―――と、姉の体を見ていると、得体の知れぬ嫉妬にも似た心がグツグツと釜が沸くように心の奥底から湧いてきて、ルミに劣等感を抱かせるのだ。
ルカはといえば、妹のそんな嫉妬も焦燥も知らない。気にも止めず、毎日を楽しく暮らすことにのみ頭を使って、そして今日もこうして沐浴―――水遊びに来ていた。
「ぷはっ…!」
長い長い潜行を終え、ルカは漸く水面から顔を出した。
静かな水面が一気に波立ち、ルカの頭上に霧のような水滴が舞い、陽光を受けてきらきらと反射した。
彼女は時を惜しむように、大きく口を開けて新鮮な空気を胸の奥に取り込むと、再び水の中へと姿を消した。
湖底の近くで、彼女をからかうように尾びれを振っている淡水魚が5尾ほど。ルカは笑みを浮かべてそれを追った。
もちろん普通に泳いでいては、エルフの彼女が魚たちに追いつける道理はない。が、彼女は彼女なりの”工夫”でその欠点を補っていた。
生来、エルフには基本的に精霊界の住人と交信する能力が備わっている。もちろん、ルカも、彼女が千年樹から落下した際に風の精霊に呼びかけて自らの体を支えさせたように、精霊達に働きかける力は持っている。
今度の場合もそれと似ていた。
彼女は水の精霊に働きかけ、周囲の水を僅かながら、自分が動きやすいように動かしてもらい、あとは自らの両手で水を掻き両足を交互に動かして、魚たちを追いかけるのだ。
いくらエルフからの頼みとはいえ、それが極端な私利私欲の為の要請であれば精霊達は聞いてはくれない。
ルカの場合は『魚達と遊ぶために、力を貸して』という、きわめて純粋な願いだから、おそらくは水の精霊達もルカに協力を惜しまないのであろう。
仮にこれが、『魚を獲るために』―――という願いであったら、水の精霊達は協力をするどころか、逆に水流を起こして彼女の動きを妨げたに違いない。
ルカは、夢中になって魚たちを追いかけ、時には逆に自分から逃げ、水遊びに没頭した。
小魚たちが時折その口先でつんつんとルカの背中や尻、腹を啄んでくる。もちろん、じゃれついているのだが、どうにもそれはくすぐったい。
ルカは水中にもかかわらず口を綻ばせてしまい、ついでに温存していた空気も全て吐きだしてしまった。
仕方なく、顔を水面に上げ、空気を補給し、潜る。
いっそルミが言っていたように、エラでもあれば彼女は幸せだったかもしれない。
「ん……?」
ふいに、魚たちが慌ただしく動き始めたのを、彼女は不思議に思った。
水中できょろきょろと辺りを見回し、魚たちが逃げてきた方向を見た。それは湖の岸の方角だった。
(……何だろう…?)
ルカは一旦水面から顔を出し、そっと波を立てないように泳いで、魚たちが逃げてきた岸から少し離れた場所の岩陰に身を隠した。
そこから、こそこそと顔だけを覗かせて、問題の岸の方を観察した。
「えっ………」
まず、そんな声が漏れた。
そして彼女はさらに、事実を確認するように目を細め、体を岩陰から乗り出して、その場所を見た。
異様、と言わざるを得ないその光景の中央に居るのは、人の男のように見えた。
それが、頭から湖に突っ伏し、身動き一つしない。
それだけならさして問題ではなかったかも知れない。森に迷い込んだ旅人が数日ぶりに湖を発見して頭から突っ込み、水を飲んでいる―――というようにも見えるからだ。
しかし、そうではなかった。なぜなら、男が頭を突っ込んでいる辺りから真っ赤な霧のようなものが水中に放射状に広がっていたからだ。
「ひっっっ………!」
ルカは水面から上がったばかりの時のように胸一杯に空気を吸い込み、そして悲鳴を上げた。
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