チカゴロの呉女 2005.3
3月5日(土) 意外? 呉女の昔のシュミ何日か前にオオアマさまの学校で卒業式があって、三年生の担任だったオオアマさまは花束を二つ抱えて帰ってき ました。かなりのボリュームの花たち。バケツに入れて何日か放ってあったうちにどんどん元気に開いていってしまっ て……やっと落ち着いた時間がとれたところで、床に新聞紙を並べ、その上に花を並べ、改めて枝を切ったり焼いた りして水あげをし、花瓶を二つと花バサミを用意して、腕まくり! こんなにたくさんの花に向かえるのは何年ぶり… …? う、うれしい〜〜〜!! 実は柄にもなく呉女は昔お花を習ってましてね。高校・大学とクラブ活動で、といってもちゃんとした先生について草 月流の生け花を習い、社会人になってからはフラワーアレンジをどーしてもやりたくなって結婚する前の二年間ほど 習いました。結婚して転居しなければその教室でお花の先生をやっていた可能性もなくもなかったんです。私って子 供のころから絵を描くにしろ歌を歌うにしろ、芸術的なことは一切ダメだったんですけど、お花を生けることに出会って はじめて何かをカタチで表現することの喜びを知ることができたんです。だからって花屋で働くのはダメ。私って元来ブ キッチョだから、花器に生けるのはマアマアでも、花束とかブーケとかが苦手なんです。ワイヤリングしてテーピングし てリボンを結んで……ってのがダメな上にどーも好きじゃない。自分の結婚式のカクテルドレスに合わせたブーケと新 郎の胸につけるブートニアを作ったのがもう精一杯……。
3月9日(水) 珍しく気に入ったテーマパーク そもそも私はテーマパークというものが苦手なんです。まあこれは私の習癖みたいなもんですけど、観光地で無理や り楽しませようとしてくれるところってダメみたい。ディズニーランドも何度行ってもいまひとつだし、そういえば昔から 遊園地が好きじゃなかったっけ。おととし言ったUSJも楽しめたとは言い難い。今まで行ってまあよかったのはハウス テンボスくらいかしら。それも園内ホテルに泊まるという条件つき。私は基本的に、その土地にもとからあるもので勝 負してほしいの。 なんていう私が先日たまたま訪れたテーマパークは珍しく楽しめちゃいました。かなり昔からあるところで関東ではけ っこう有名だと思うのですが、栃木県鬼怒川温泉にある「東武ワールドスクエア」というところです。鬼怒川という場 所もピンときていなかったのですが、東武線は都内の地下鉄などと乗り入れ運転をしているので、ウチの最寄駅から でも一度も改札を通ることなく、普通電車だけでも行けちゃう。意外に行きやすい場所でした。他に日光江戸村とかも この近くにありますが、歴史ものではあっても、あんまり食指が動きません。これが飛鳥村とか天平村なら絶対行くけ ど(笑) 「東武ワールドスクエア」には世界の有名な建築物が25分の1スケールで見事にリアルに再現されています。建築 物は100ほどあるのですが、実物を見たことがあるものが多かったので、そのリアルさがますます楽しめる。よくコマ ーシャルでサン・パエトロ大聖堂の再現とかは見た気がしますが、ヨーロッパものばかりかと思ったら、日本の建築も アジアの建築もかなりある、ということは今回行ってはじめて知りました。 日本建築では金閣、銀閣、平等院などはもちろん、法隆寺、薬師寺、東大寺、唐招提寺などの奈良の寺院もかなり そろってます。同じスケールで再現してあるから、その大きさの違いがわかるのですが、京都のものより奈良のもの は全体としてデカイし、その中でもやっぱり東大寺はデカイ。でも隣のアジアのコーナーへ行って、万里の長城とか故 宮なんかを見ると、ぜーんぜん大きさが違うの! あたりまえなんだけど、実感! それにヨーロッパのコーナーで石 の建築物を見ると、やっぱり大きいんだよねえ〜。 サン・マルコ寺院のモザイク画も綿密に再現されているなーとか。いっしょにヒトも再現してあるのがリアルで、ミラノ のドゥオモの屋根からおりてくる階段の雰囲気なんて、ほんとに行ったときのことを思い出しちゃって楽しい〜。 それに、実際に行っても建物の全体像を空からは見れないでしょ。そういう実際には見れない角度から見れるのが面 白い。先日行ったばかりの道後温泉本館、以前行った長崎のグラバー邸。ああ全体としてはこういう形をしているん だ、とか。 アメリカのコーナーではテロで破壊されてしまったあのビルが、あえて残されているのが胸を打ちます。 それだけ、といってしまえばそれだけなんですけど、このシンプルさがいいのかな。でも屋外にあるから、メンテナンス はたいへんみたいですよ。
たかったな〜〜。 3月13日(日) 1300年目の幸運、再び ちょうど一年前、飛鳥京跡から見事な石敷の宮殿跡が、島庄遺跡からは蘇我馬子の邸宅跡か?といわれる建物跡 が見つかって大騒ぎだったわけですが、あれから1年……、そろそろあの続きが出てきていいはず、とちょっと構えて はおりました。案の定、飛鳥京跡からも島庄遺跡からもその後の発掘成果の現地説明会がある由。新聞での騒が れ方などは去年に比べれば全くおとなしいものではありましたが、なにしろ「シリーズもの」みたいなものですから、 去年の現説に行った者としては、また行かないわけにはいきません……(笑) ところが、残念ながら現説のある土曜 日にはオオアマさまには仕事の予定が入っていたため、今年は私一人ででかけることに。ひさびさの一人旅になりま した。 その前日まで、春を思わせる暖かい日が続いていたのに、この日は一転して真冬の寒さ!マフラーと帽子と手袋の お蔭でかろうじて生き延びた、といった感じでした。 橿原神宮前駅からこの日の臨時バスに乗り、まずは島庄遺跡(石舞隣)。今は駐車場になっている高市小学校跡地 が発掘現場。昨年掘った場所の南北を少し掘り進めてみた、という感じ。昨年と7世紀の前半、中頃、後半の少しず つ角度の違う建物の跡が出てきているのは同じ(昨年について詳しくはこちら)。ただ、前半(馬子の時代)の大型建物 は去年掘ったところに集中していたようで、今回は中頃、後半のほうが多かった。私にはそのほうが嬉しいけれど。 ただ、やはり説明してくださった明日香村教育委員会の方は「誰々の館……」みたいなことは具体的には言いにくい ……と慎重なご発言。まあ、いいのです。私ら無責任な古代史ファンは勝手にロマンに浸ってますから。
んに入ると、ありがたいことに好物の明日香鍋を御椀一杯200円でいただけるとのこと。迷わずそれを注文して席に 座ると、先ほどまでケイタイで連絡をとりあいながら、お互い電源が切れてしまって(さすがふたりとも「飛鳥時代のオ ンナ」だわ……)お互いを見失っていた風葉さんがちゅんたさんたちと飛鳥鍋を食べていらっしゃいました。お会いでき てよかったー! すでに飛鳥京跡のほうは見てらした皆さん。「イマジネーションわきますよー」と。それから先日私が 上総の「鎌足」に行った話などが出て、こんど風葉さんが東国に帰られたときに機会があったら「上総古代史伝説ツ アー」でもやりましょう!なんて話で盛り上がってしまいました。 本当にこの一杯の飛鳥鍋で「生き返った〜〜」という感じで、私はまた一人、次なる飛鳥京跡へ歩きます(こちらにつ いてはまだ昨年の分も日記にしか書いていません。すみません……)。昨年はアタマの上をヘリが何台も飛ぶわ、行 列はすごいわでしたが、今年は時間もずらして行ったせいもあってか説明一回分待ちで遺跡に入れていただけまし た。昨年掘った場所は浄御原宮のおそらく「正殿」の石敷の前庭の西側半分だったわけですが、今回は昨年出てき た柱の跡から北側の道路までを東西両方掘ったところ、ちょうど正殿の建物がすっぽりと出てきて、その左右に左右 対称ではない建物が付属していたらしいことまでわかった、というところ。「日本書紀」には浄御原宮のさまざまな建 物名が出てくるので、付属建物が取り付いていることは予想していたのでしょうが、ちょっと意外な形だった、という感 じでしょうか。1300年前のに大海人さまやさらら様がいらした「正殿」建物全体が目の前に「ホラッ」と出てきているの です。柱、上り段の取りつけ跡、池のある庭、渡り廊下、幡を立てた柱の跡……。またすぐに埋め戻されてしまうので すから、まさに1300年目の幸運……!
ったという川原寺跡へ。どこがその跡だったのか、いまひとつわからないままでしたが(汗) 私、この川原寺跡の北東 奥へ入りこんで、そこからクルッと明日香を見渡すのが好きなのです。下に飛鳥川が流れ、現説をやっている飛鳥京 跡も見える。橘寺や明日香を囲む山々。甘樫丘に天香具山。涙が出そうな風景です。ふと、飛鳥川のほとりを遠に目 をやると、飛鳥京苑池遺構の場所……「現説」にハマるきっかけとなったその場所がなつかしく、思い立って、もう一 度今の現説をやってる場所を経由して苑池遺構まで行ってみると(案内の人があちこちに立っているので、へんなオ バさんがウロウロしてると思われたカモ)、当然遺跡は埋め戻されていますが、1年ほど前に遺跡の説明板だけは立 てたようで、メデタイメデタイ(何がだよ……(笑))。
た。「せん仏」は7世紀後半に集中してみられる寺院の荘厳。いまだ金箔が少し残っているものもあったりして、感激 でした! 帰りは近鉄で名古屋へ出ましたが、途中の榛原あたりは横殴りの雪。寒かったわけです。でもすでに心はポカポカ の、現説一人旅でありました。 3月22日(火) 「よろしかったでしょうか?」 昨日の「不機嫌なジーン」に内野さん演じる南原教授が「よろしかったでしょうか」という言い方について話すシーンが ありました。 それで笑っちゃったんですけど、つい二日ほど前に食事をした店で、ふたつ向こうのテーブルで客の60代くらいのオ ジさんがウェイトレスの若い女性に対して、穏やかな口調ではありましたが「その『よろしかったでしょうか?』というの は日本語としておかしいよ」とわざわざ指摘しているところに遭遇していたんです。そんなに大きな声というわけでも なかったんですが、たまたま店中にその会話は聞こえてしまい、本人は知るか知らぬか注目の的。オジさんの言うに は「この間希木樹林の出てるテレビでそう言ってたののウケ売りなんだけど」とのこと。私としてはそのオジさんの個 人的意見が聞きたかった気がしますが。 よく「おかしい」と問題とされるこの表現ですが、私はかねがね「別にいいんじゃないの」という許容派。私の受け取り 方では、たとえば「注文をした」のは、ほんの少しであっても「過去」の、つまり完了した行為であり、その確認に対し て過去表現を使っても別にいいのではないか、という考えでした。ちなみに、最近ベストセラーになっているらしい、こ の類のことに関して書かれた本を立ち読みしてみたところ、私と同じような考え方でした。 でも南原教授の言うことにはつい耳を傾けてしまう私(笑) 昨日の教授と秘書のやりとりは次の通り。 「なぜ過去系なんだ。その言葉にはすでに過去の行動なのでもう文句を言うなというニュアンスが含まれている」「す みません。そんなつもりは」「ないと思うけど」 なるほど〜〜、とうなってしまいました(笑) で、今日接客業をしている友人にその話をしたところ「そういえば『頼むから変更しないで』と思っているときに、この 言葉を使ってしまうような気がするわ」とのこと。確かにねぇ……。 日本語ってビミョーですね。みなさんはどう思われます? 3月24日(木) フラ熱 木曜日はあいかわらずフラの日。フラは一時「ブーム」とも言われましたが、今ではすっかり定着したようで、私が通う スタジオも生徒の数は増え続けて大盛況。しかも最近は若い方も多いですね。若くても若くなくても楽しめるのはフラ の魅力の一つです。 私も昨年中「黄泉の国」にすっかりイッちゃってた間は、あまりに対極の世界なのでちょっとフラに対するモチベーショ ンが下がっていましたが、最近はまたムクムクとフラ熱が。するとどういう症状が出てくるかというと、道を歩いている ときでも手が空いていればついハンドモーション(手首から先を動かす)の練習をしてしまう、電車の待ち時間など足腰 が空いていればついステップの練習をして腰をふってしまう。オジさんがホームでゴルフの素振りをするようなもんで しょうかねえ。オオアマさまは最近目敏くそれを発見するようになり「頼むからそれ、やめて!」と懇願されますが、無 意識にやっちゃうんだもの、しかたない(笑) よく博物館の展示なんか見ながら足を動かして「ああ、このステップはこ ういう重心ののせ方をすれば腰が動くのか!」と発見したり……実際スタジオへ行くと、もうその感覚を忘れていたり するんですけど。 フラを始めてそろそろ2年近くになりますが、まだまだ手も足も腰もきちんとは動きはしません。でも何か、ふーっと曲 の世界に入ったいけた感じがするとき、たまらなく気持ちがいいんです。今振りを習っている曲は「オラが村に電気が 点いたぞ〜♪」みたいな楽しい曲なんですけど、両腕を交差させて腕を上下させる、「ジーン」のロンドンのシーンで 南原教授がやっていたポーズと同じような振りが何度も出てくるんです。フラでは「寒い」ということを表す振りなんで すけど。これをやる度にアタマは「教授〜〜〜っ!」と叫び、笑顔も出やすく、自分としてはいい感じ(笑) 今年のホイケ(発表会)は9月初めにあるそうで、そろそろその準備が始まるようです。9月といえば「エリザベート」の 公演月。よかった初めにホイケがあって……。でなかったら、また黄泉の国にイッちゃって踊れないところだった〜。 3月29日(火) 大ヒットの吉備路 その@ 〜鬼ノ城跡〜 オオアマさまの春休み(といっても何日もないのですが)に、今年は何となく吉備路へ行こう、と少し前から計画して、 宿やら交通機関やらの手配はしてあったのですが、バタバタと、二人とも予習なんてほとんどしないまんま当日が来 てしまって、とりあえず荷物をカバンにつめこんで大慌てで夜行バスに乗り込んだ……とそんな感じ。 古代、大和に匹敵するような王国があったとされる吉備の国。日本有数の巨大古墳なども点在し、国分寺の塔の風 景が郷愁をさそう……なんて、いかにもウチ好みっぽいでしょ。まあ、そんな理由で行き先を選んだんですけど。 朝、岡山駅についてレンタカーを借りて、少し走ればもう吉備路。備前一之宮の吉備津彦神社、備中一之宮の吉備 津神社、古代寺院の礎石が残る惣爪塔跡(例によってあまり観光客が喜ぶような場所ではない……(笑))あたりでも う時間が足りない予感。「これは観光のメインルートはあとにまわして、私たちの一番の目的地へ先に行きましょう」 と、備中国分寺(多分、古代の国分寺の跡に塔があるところは珍しいので有名なんだと……)や古墳のあるあたりを すーっと通りぬけ……。
(きのじょう)跡です。桃太郎伝説では「温羅(うら)」という鬼の棲家とされる場所ですが、発掘調査などから、実は7 世紀後半、唐・新羅連合軍に滅亡されられた百済の救援に軍を出して大敗して帰ってきた白村江の戦いの後、唐が 攻めてくるかもしれないと、防御のための山城を造った、その一つと考えられています。今、日本国内に確認されて いる、そういう「朝鮮式山城」は16あるそうですが、その中でも保存状態も良好なほうなのだとか。よく歴史の本など で城壁の写真などを見ますので、そんなものが少しは残っているのだろう、程度に思って行ったのですが……。 山の上はすり鉢のような形をしていて、その周囲2.8kmに城壁がめぐらされ、その内部に攻めてこられたときにこの中 で持ちこたえられるよう、いろいろ設備があったらしい。その中をぐるっと歩けるようになっていて、ちょうど真ん中あた りには礎石の建物跡。見るからに総柱の倉庫らしい跡なども。南側の眺望はすばらしく、その日は天気がよすぎてち ょっと霞んでいましたが、吉備の平野はもちろん、瀬戸内海や四国のほうまで一望に! そしてどうやってこんな石を 積み上げたのか、と思うような巨岩の城壁……! そのスケールに驚き、おそらく、昨年の韓国旅行で見た百済の 首都、扶余に流れるペンマガン(白馬江)を旅立った国を失った人々がここまで来て、その技術と思いでこんな城をつく ったのかなあ、なんて考えると感動も一入……。二人してキャッキャ、キャッキャの興奮状態。
けで、観光のメインルートは「次の機会」ということで岡山の町へ心地よくクタクタになって戻りました。 3月30日(水) 大ヒットの吉備路そのA 〜吉備真備〜 翌日、未遂に終わった吉備路のメイン観光ルートを回ろうかとも考えたのですが、レンタカーは返してしまったし、レン タサイクルで回るには体力的に自信がなかったし、迷った末に、まずは岡山からローカル色の強いJR線、吉備線に 乗って終点の総社まで40分ほどの旅。前日にまわったあたりを走る電車なんですけど、北に鬼ノ城跡をのぞみ、古 代は海が入りこんで、かなり重要な港だったと思われる「吉備津」、本能寺の変のときの秀吉の水攻めと大返しで有 名な「備中高松」など、駅名と車窓だけで歴史ファンはワクワク! 吉備線各駅停車の旅、なんていうのをしたら、さ ぞかし楽しいことでしょう! 私は電車の中で右に左に移動して車窓から写真を撮りまくり、オオアマさまはそんな私 完全に他人のフリ……。終点の総社駅(この「総社」も律令制下の国司の神社巡拝を一社にまとめた神社からきた駅 名です)で乗り換えて一駅だけ伯備線に乗り、清音駅から第3セクターの井原鉄道に乗り換えて高梁川を渡り……私 たち二人だけが降り立った無人駅の名は「吉備真備」。そう、この駅名に惹かれてやってきたのです。遣唐使として 大陸に渡り、帰ってきても出世を遂げた奈良朝の政治家、吉備真備の故郷です。町の名前は「まきび」でなく「まび」 町と読むそうですが、実在人物のフルネームを駅名にしているところって、私は他に同じ岡山県内の「宮本武蔵」駅く らいしか思いつかないんですけど(私は道子さんではないし(笑))どうなんでしょう? ところが、前日からデジカメを酷使しすぎたのか、駅から出たところでカメラが動かなくなりました。ブッブーなんて、今 まで出したことのない音だしちゃって。バッテリーも熱くなってる。「使いすぎでしょ」とオオアマさまは冷たく言う……。 も〜〜。 人気は少ないけど、なんとなく心地いい真備町を表示に従って歩いていくと、10分と少しで吉備真備公園に到着。こ こで使い捨てカメラを購入(ここまで売ってる店はなかったんだもの)。公園はさして広くない中国風の庭園。だけど不 思議なことにどこからか人がやってくるんですよねぇ。ビニールシートをひいた家族づれとかアベックとか。中国の西 安にある吉備真備の記念碑と同じものがあったり、隣接する吉備家の菩提寺という「吉備寺」は古代の礎石も残ると いう小さいながら雰囲気のあるお寺。公園をはさんだ向かいの高台の上には真備の墓と伝えられるものもあり(これ は歴史の本にもたまに見かける……実際は違うらしいけれど)、その下には中国風の建物、吉備真備記念館。展示 とビデオを楽しみました。で、真備ってどんな人だったんだろうトーク。里中満智子先生の「女帝の手記」では、真備が 教育係をしていた阿倍ちゃん(孝謙女帝)をして「わたしにとって唯一の心許せる人」といわしめている穏やかな人物。 遣唐使に二度も行って、無事帰ってきた強運、あちらでも出世して、日本でも出世して名を残した人物なんて彼をお いてほかにいない。しかも藤原仲麻呂のように欲を出して悲劇的な最期を遂げたわけでもなく、晩年はこの故郷で穏 やかに過ごしたと言われる……。この町はそんな真備を誇りにしているようです。公園から少し離れたところには真 備の邸跡の碑とか、その前に産湯の井戸とか……ま、アヤシイけど、こういうのって本当に楽しいっ!(……ていうの は私たちだけか……) 「ここで何か事故にあって二人が死んだとして『あの二人、なんだってそんなところにいたんだ』って……」「……誰も 思わないだろうね」「そうね〜。ああ、あの二人なら〜って思われるだけね」 帰りは真備町から倉敷行きのバスに乗りました。高梁川に沿って下り、古代の津だったらしい酒津の手前で川から 離れると一直線で間もなく倉敷駅。意外に近いんだあ。 これで今回の旅の行程は終わり。私は翌日仕事のため(実はその夜「不機嫌なジーン」の最終回だったため)一目散 に帰り、オオアマさまは京都で下車して一泊実家へ。翌日義姉と食事をしながら、今回の旅の話を興奮しながらした ら「あんたたちはどーしてそんなふうに興味の範囲が狭いの!?」とあきれられたって……。 |