フィレンツェ
ら大学の町として知られたボローニャの近くを通り、イタリア半島の真ん中を走るアペニン山 脈を越えるとキャンティワインで知られるトスカーナ州。トスカーナ州はリグリア海に面していま すが、州都フィレンツェはアルノ川を80キロほどさかのぼった内陸にあります。 まずフィレンツェ全景↓をご覧ください。(写真がちょっとズレていますが) のある市街地は左の写真の部分で、歩いても観光できる程度の広さです。奥の丘の上に「フィ レンツェの母」といわれるフィエーゾレの町があります。紀元前10世紀ともいう古い時代にエト ルリア人がそこに町を築いた、それがフィレンツェの始まりといわれます。
ニューはミネストローネとビーフステーキ。デザートにパンナコッタ。この時の塩コショウのみ で味付けしたフィレンツェ風ステーキは、イタリアで食べた料理の中で呉女の最大のお気に入 りです。ホントにおいしかった。朝からバスに乗っていただけなのに、よく食べること! さて、お腹が満足したところで、ドゥオモ広場に戻って、現地ガイドの日本人のおじさま(話し方 や雰囲気から元は先生なのではないかと……)の案内で市内観光がはじまります。
かりやすいと思うんです。その第一期が13世紀後半から14世紀前半。この時期は他の都市 との覇権争いや、都市内部でも教皇派対皇帝派の争い、貴族と平民との争い、貴族内での争 い……など、政治的には混乱期なのですが(ヴェローナで出てきたダンテはこの時期の抗争で フィレンツェを追放されています)、経済は繁栄をきわめ、ドゥオモやダンテの友人ジョットがプラ ンを立てた鐘楼をはじめ、現在残る主要な建物の多くはこの時期に建設に着手されています。 建築様式ではゴシックの時代。フィレンツェの原型ができた時代といえます。
この1401年に始まる15世紀こそ、フィレンツェでルネサンスが花開く栄光の一世紀です。 呉女流にはこれを第二期としましょう。フィレンツェにルネサンスという「中身」が入った時代で す。ルネサンスとは何ぞや……はキリがなくなるのでやめておきます。また、なぜフィレンツェで
私たちは予約でスンナリ入場できましたが、普通はかなり並ぶので、個人で行くのでも予約を したほうがいいようです。内部は人数を制限しているので、ゆったり鑑賞できます。 正直言って無教養の呉女は印象派以前の西洋絵画の見方がわからない。特に大きな美術 館では有名な作品を「見た」というだけで終わってしまいがちです。その点ウフィッツィは時代順 に並んでいて素人にもわかりやすい展示。その上ガイドの先生(と決めつけている)が重要作品 を丁寧に解説してくれました。ルネサンス以前からの変化から遠近法の発達……と、まさに生 きた美術の時間。この先生、これがやりたくて移り住んだのではないかと……(完全に決めつ けてる)。フィリッポ・リッピ、ボッティチェリ(「春」も「ヴィーナス…」も縦2m横3mくらいで大迫
つないでいます。ヴァザーリの作ですから第三期。メディチ家の人が外を歩かずに出勤するた めのもので、暑さ寒さをしのぐ……のではなくて、暗殺防止ですって。現在内部は予約でのみ 入れる美術ギャラリー。最近日本の旅行社でここの見学を売り物にしているツアーが出ていま すが、美術品はともかく、メディチ家の人の気分になってみたい気はしますね。
クを抱きしめ緊張して通り過ぎたら、ホテルがすぐ目の前。行きはドゥオモ広場までずいぶんあ るような気がしたけど、実は近かった……、と意外とこじんまりした町であることを実感。 ツアーに付いていた夕食はホテル近くのレストランで。メニューは茸のフィットチーネ、豚肉 のオーブン焼き、マチェドニア。食べながらツアーの人たちと話していたら、翌日の自由時間 の必修プランが出てきました。このあと音楽会に行くという元気な人たちもいましたが、まだこ こで倒れるわけにはいかないので、夜はゆっくり休みました。
歩で町に入り、まずはランチ。この日はペンネ・アラビアータ、仔牛のトマトソース煮込み、 ズコット(ケーキ)。二人とも辛いものが苦手なのでペンネ・アラビアータが心配でしたが、ほん のり唐辛子が香る程度で美味。イタリアではソフトな味付けのものが多く、呉女好みでした。
シンプルで静かな空間なのですが、多分建築を勉強していそうな青年が床に座り込んで天井 を見上げ、ただただルネサンスの空気を浴びている、といった姿も印象的でした。 さてどこに行こう、とシニョーリア広場に向かって歩く……。このあたり、地図で見るとわかりま すが、楕円を描くような道があるのはローマ時代の競技場の跡なんだそうです。 それはともかく、二人はやっぱり疲れていました。というよりフィレンツェの数多くある美術館 や教会をこれから片っ端から見られるわけでなしという半分あきらめの心境と、もう十分に見て 満足という心境の両方から、翌日のローマに向けて体力温存策をとることにしたのです。 どうしたかというとテキトーにバスに乗ったんです。町中でも小さな、乗ってみると座席は8席 しかないバスが時々走っていまして、何路線かあるようですが循環バスなのでどこか遠いとこ
はりズラズラ並んで登ることには違いありません。途中あのコワイ「最後の審判」を間近に見 て、二重構造のクーポラの間の細ーい石の階段をやっと登りきり、地上から107mのバルコニ
れがまたつらいと言えばつらいのですが、やはり登ってみてよかったです。あの映画に出てくる 「フィレンツェのドゥオモは恋人たちのドゥオモ……」という伝説が本当にあるのか知りませんけ れど、ビデオのこのシーンを繰り返し見ては、そのたびにドキドキしています。 「冷静と情熱のあいだ」はミラノでも触れましたが、フィレンツェの風景、ウフィッツィ美術館の
ところでコジモ1世の後のフィレンツェですが、栄光の世紀は戻らぬまま1737年にメディチ家 は断絶。その後はオーストリア、フランスの支配をへて、1860年国民投票によって新生イタリア 王国に入り一時は首都にもなります。首都の座をローマに明け渡した後、20世紀も人口が増
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