フィレンツェ

 ヴェネト州のヴェネチアを出て高速道路にのり南西へ。エミリア・ロマーニャ州に入り、中世か
ら大学の町として知られたボローニャの近くを通り、イタリア半島の真ん中を走るアペニン山
脈を越えるとキャンティワインで知られるトスカーナ州。トスカーナ州はリグリア海に面していま
すが、州都フィレンツェはアルノ川を80キロほどさかのぼった内陸にあります。
 まずフィレンツェ全景↓をご覧ください。(写真がちょっとズレていますが)
京都や奈良を思わせる盆地です。写真の手前にアルノ川があります。広く感じますが、観光地
のある市街地は左の写真の部分で、歩いても観光できる程度の広さです。奥の丘の上に「フィ
レンツェの母」といわれるフィエーゾレの町があります。紀元前10世紀ともいう古い時代にエト
ルリア人がそこに町を築いた、それがフィレンツェの始まりといわれます。

 フィレンツェの町に入り、駅近くのホテルで荷物をおろして、徒歩にて町の中心、ドゥオモ広場
へ。上の左の写真の中央に見える、フィレンツェのシンボルサンタ・マリ←ア・デル・フィオーレ教会。赤いクーポラと手前に華やかなファサードが見えているのがドゥオモ(大聖堂)で、その手前にチラと角が見えているのがサン・ジョバンニ洗礼堂。右にスクッと立っているのがジョットの鐘楼。イタリアの大きな教会はこのように大聖堂、洗礼堂、鐘楼の3点セットである場合が多いのです。写真で見るより緑やピンクの大理石ががきれいで華やかな印象です。
 アルノ川の川べりに町を作ったのは紀元前1世紀、ユリウス・カエサル時代のローマ人です。今よりずっと小さな町でしたが、そのころからこのあたりが中心だったといわれ、この広場から南の一角の道が碁盤の目のようになっているのはローマ時代の名残りなのだそうです。
 その道をクネクネ歩いて、まずはランチ。ヴェネチアでは魚介類が名
物でしたが、豊かな農地に囲まれたフィレンツェでは素朴なお肉と野菜の料理が中心です。メ
ニューはミネストローネビーフステーキ。デザートにパンナコッタ。この時の塩コショウのみ
で味付けしたフィレンツェ風ステーキは、イタリアで食べた料理の中で呉女の最大のお気に入
りです。ホントにおいしかった。朝からバスに乗っていただけなのに、よく食べること!

 さて、お腹が満足したところで、ドゥオモ広場に戻って、現地ガイドの日本人のおじさま(話し方
や雰囲気から元は先生なのではないかと……)の案内で市内観光がはじまります。 
 フィレンツェはほかの都市同様、西ローマ滅亡後
の混迷の時代をぬけて、11世紀から12世紀にコム
ーネへ、そして共和国になります。その時代にでき
たと思われるフィレンツェで最も古い建物がこの
ン・ジョバンニ洗礼堂で、当初はこちらが大聖
堂の役目を果たしていたようです。11〜12世紀は
建築様式ではロマネスクの時代。ロマネスクの特
徴である半円アーチが見えます。

 この後フィレンツェは、ミラノやヴェネチアとローマ
を結ぶ街道の途中にあるという地の利を生かして
商業都市として、また毛織物業や金融業で経済的
発展をとげます。呉女はフィレンツェ観光のための歴史を見るとき、三つの時代に分けるとわ
かりやすいと思うんです。その第一期が13世紀後半から14世紀前半。この時期は他の都市
との覇権争いや、都市内部でも教皇派対皇帝派の争い、貴族と平民との争い、貴族内での争
い……など、政治的には混乱期なのですが(ヴェローナで出てきたダンテはこの時期の抗争で
フィレンツェを追放されています)、経済は繁栄をきわめ、ドゥオモやダンテの友人ジョットがプラ
ンを立てた鐘楼をはじめ、現在残る主要な建物の多くはこの時期に建設に着手されています。
建築様式ではゴシックの時代。フィレンツェの原型ができた時代といえます。
←サン・ジョバンニ洗礼堂の天井はこの時期に作られたキンキラモザイク。内部には夕方の自由時間に入りましたが、ヴェネチアに戻ったかと思うほど華やか。旧約聖書の物語を描いています。主にヴェネチアから連れてきた職人たちがつくったヴィザンチン様式です。フラッシュなしでもこの程度は写ってくれました。
 ところが、14世紀の半ばになると、この町に大洪水は起こる、ペストは流行る、大銀行は倒産する、対外戦争でも負ける……、と踏んだり蹴ったりの状態で、停滞の一時期を迎えるのです。
  今回の市内観光もそうでしたが、フィレンツェでルネサンスの話をするときは、サ
ン・ジョバンニ洗礼堂の東側の、後にミケランジェロによって天国の扉と称され
る扉の前から始めるのです。1401年、停滞していたフィレンツェを活気づけよう
と、洗礼堂の扉の彫刻の制作者を決定するコンクールが行われました。今では普
通のことですが、これが史上初ともいわれるコンぺ。この最終選考でブルネルス
キがギベルティに負けたとも、同点だったので勝ちをギベルティに譲ったとも言わ
れます。そしてギベルティが制作した2枚目の扉がこれ。コンクールではゴシック
風でしたが、半世紀を経てルネサンス式に脱皮していました。現在のキンピカの
扉はレプリカで、本物はドゥオモ付属美術館にあるそうです。
 実はここで重要なのは、負けてローマに勉強に行ったブルネルスキのほうなのです。ドゥオ
←モは第一期に建設が始まったゴシック建築ですが、あまりに大きなものを造ったために、当時の技術ではクーポラ(円蓋)を被せることができずに困り果て、円蓋設計案のコンペをしたところ、ローマで古代建築を研究してきたブルネルスキの案以外に実現可能なものはなかったのです。古代にはその技術があったわけですから、歴史は進むだけのものではないのですね。こうしてブルネルスキによってフィレンツェの象徴ドゥオモは完成をみたわけです。これがルネサンス建築の始まりです。16世紀になってローマのサン・ピエトロ寺院再建のために法王に呼ばれたミケランジェロは、フィレンツェのドゥオモに負けないクーポラを造るよう要求されて「あれより美しいも
のはできません。フィレンツェの妹を造るべく努力します」と答えたといわれています。
 この1401年に始まる15世紀こそ、フィレンツェでルネサンスが花開く栄光の一世紀です。
呉女流にはこれを第二期としましょう。フィレンツェにルネサンスという「中身」が入った時代で
す。ルネサンスとは何ぞや……はキリがなくなるのでやめておきます。また、なぜフィレンツェで
ルネサンスが始まったかについても諸説あって謎というか、
なかなか難しい問題のようです。
 さて、そのドゥオモですが、美しいファサードは19世紀に
なって造られたもの。中に入るとだだっ広くてちょっと殺風景
な感じ。ミラノのようなステンドグラスの華やかさも、重厚な柱
もありません。ただ昔はもう少し装飾があって、それらの彫
刻などはドゥオモ付属美術館に移されているそうです。
 この栄光の15世紀の半ばに、銀行家のメディチ家が表面
は共和制を保ちながら巧みに実権を握り、コジモ・デ・メディ
チとその孫ロレンツォが芸術家たちのパトロンになったことは有名ですが、当然メディチ家には敵もいます。ドゥオモはロレンツォが暗殺されかけ、いっしょにいた弟ジュリアーノが殺されてしまうという惨劇の舞台でもありました。 
 クーポラの内側の天上画は16世紀にヴァザーリらによって描かれた「最後の審判」。今回いくつか「最後の審判」を見た中で、いちばん地獄の部分がコワくて(見ようによってはカワイイのかも)夢に出そう……。

  ドゥオモ広場から商店の並ぶ通りを南へ5分も歩けば、シニョーリア広に出ます。同じの名の広場がヴェローナにもありましたが、ここはコムーネの中心となった広場。そこにそびえ立つのはヴェッキオ宮殿。コムーネの政庁として第一期に建てられ、広場では政治集会が行われま
た。その後もずっとフィレンツェの政治の中心であり続け、19世紀のイ
タリア統一後、5年間フィレンツェが首都だった時には国会議事堂に、
現在も半分は市役所として使われているそうです。あとの半分は公開
されています。今回は入りませんでしたが、外観の粗石積みの重厚さ
と違って、内部は16世紀にルネサンス式に改装され、かなり豪華なの
だそうです。

 そして、いよいよヴェッキオ宮殿の隣がウフィッツィ美術館なので
すが、その前に……。シニョーリア広場周辺にはいくつもの彫刻が飾ら
れていますが、その中でヴェッキオ宮殿の前にたっている一体がおな
じみのミケランジェロのダビデ像なのです。もちろんここにあるのはコ
ピーで本物はアカデミア美術館にあります。実際、ダビデ像はここ
に置かれていたのです。ミケランジェロがかつての自治の栄光を思い、この場所を希望したといわれています。
 ダ・ヴィンチミケランジェロラファエロのルネサンス三大巨匠はいずれも栄光の15世紀後半に生まれます。ダ・ヴィンチとミケランジェロはフィレンツェ近郊の出身で、メディチ家の保護下フィレンツェで修行を積み、早くから天才ぶりを発揮しています。3人が揃ってフィレンツェにいた時期もありますが、本領を発揮するのは次の盛期ルネサンスの時代(15世紀は初期ルネサンス)。ルネサンスの中心はローマに移っていました。15世紀の終わりには他の芸術家たちも他の都市へ散ります。自らフィレンツェを去った人もいるでしょうし、ロレンツォがフィレンツェのプロパガンダとして積極的に各地に派遣したとも言われます。しかしロレンツォが1492年に亡くなるとメディチ家は追放され、栄光の世紀はいったん幕を閉じるのです。

 しばしの混迷と停滞の時期を経て、1531年神聖ローマ皇帝の後押しでメ
ディチ家が返り咲きます。つまり、ここで15世紀に芸術家たちを保護したメ
ディチ家とはちょっと違うメディチ家が登場するわけです。シニョーリア→
広場に騎馬像があるのが、16世紀後半に君臨したコジモ1世。15世紀
のコジモさんとは別人なので注意しましょう。そしてこの人が夢をもう一度
とばかりに、いろいろ町造りをしている。これが呉女のいう第三期です。
 メディチ家からフランス王家に嫁いでイタリア料理を伝え、それがフラン
ス料理のもととなったことで有名なカトリーヌ・ド・メディシスはコジモ1世と
同じ年の生まれですが、彼女は本家筋、コジモ1世は傍系の人です。
 このコジモ1世がヴェッキオ宮殿が手狭になったので、その隣に政庁舎を拡大するために造ったのが、ウフィッツィ美術館のコの字型の建物です。「ウフィッツィ」って言いづらいへんな言葉だなあと思いますけど、これは英語でいう「オフィス」のことで由来を聞けば納得します。設計したのはヴァザーリ。ドゥオモ内部の天井画で出てきましたが、画家、建築家としてより名著『芸術家列伝』を書いたことで有名な人です。この建物の最上階が美術館になっています。コジモ1世の息子フランチェスコ1世がここをギャラリーとして美術品を陳列したのがその起源で、フィレンツェの芸術家たちの作品を見ることができるわけですが、これが美術史上意義の
ある天才たちばかりなんだから、フィレンツェの偉大さを思い知らされます。
 私たちは予約でスンナリ入場できましたが、普通はかなり並ぶので、個人で行くのでも予約を
したほうがいいようです。内部は人数を制限しているので、ゆったり鑑賞できます。
 正直言って無教養の呉女は印象派以前の西洋絵画の見方がわからない。特に大きな美術
館では有名な作品を「見た」というだけで終わってしまいがちです。その点ウフィッツィは時代順
に並んでいて素人にもわかりやすい展示。その上ガイドの先生(と決めつけている)が重要作品
を丁寧に解説してくれました。ルネサンス以前からの変化から遠近法の発達……と、まさに生
きた美術の時間。この先生、これがやりたくて移り住んだのではないかと……(完全に決めつ
けてる)。フィリッポ・リッピボッティチェリ(「春」も「ヴィーナス…」も縦2m横3mくらいで大迫
力)……。それから三大巨匠はさすが天才だあ、とつくづく。残念だったの
はラファエロの「ひわの聖母」が修復中で見られなかったこと。模写が展示
されていましたが、これが全然よくなくて「写真のほうがマシなのに」と先生
もおっしゃっていましたが、名画の模写が難しいことがよくわかりました。
 1時間半ほど至福の時を過ごして、最後にミュージアムショップでお土産
のカレンダーなどを買って……もう満足、って感じ。

 美術館内は撮影禁止ですが、外ならいいでしょ、ということで美術館の→
廊下の窓から見たアルノ川ヴァザーリの廊下といわれる回廊が橋の
上を通って、川向こうにあるメディチ家の新しい居城、ピッティ宮殿と政庁舎だったこの建物を
つないでいます。ヴァザーリの作ですから第三期。メディチ家の人が外を歩かずに出勤するた
めのもので、暑さ寒さをしのぐ……のではなくて、暗殺防止ですって。現在内部は予約でのみ
入れる美術ギャラリー。最近日本の旅行社でここの見学を売り物にしているツアーが出ていま
すが、美術品はともかく、メディチ家の人の気分になってみたい気はしますね。 
 次にヴァザーリの廊下が通っている橋、ェッキオ橋へ。ヴェッキオというのは「古い」という意味で、もしかしたら古代からここに橋があったのかもしれません。中世には橋の上に商店が並ぶのが普通だったそうで(確かに橋は人の往来が多いですから)、その形を残して今も両側にズラリと店が並んでいるので、真ん中の開口部ににくるまで橋だとわからないくらいです。そのヴェッキオ橋から撮
ったアルノ川とウフィッツィ美術館↑。現在では商店が並び中
世をしのべる橋は欧州でもこことヴェネチアのリアルト橋ともう一
つくらいしか残っていないそうです。その商店、宝飾店が多いん
です。昔は日用品の店だったところがメディチ家の人が通るよう
になって宝飾店に鞍替えしたんだとか。でも上にヴァザーリの廊
下ができてからは商売上がったり、だったのではないかしら? 
写真はヴェッキオ橋上の賑わい。奥にドゥオモのてっぺんが
チラリと見えています。
 ここでガイドの先生とはお別れして、夕食まで自由時間。この間も積極的に活動したツアーの人もいましたが、呉女とオオアマさまはかなりお疲れ。この二人、同じ動きをしてもなぜか他の人より疲れるのよね。気を抜かずに一生懸命見すぎるんじゃないの? ということで、こういう時には甘いものの補給です。シニョーリア広←場の老舗のオープンカフェにて。本当はコーンに入ったジェラートを通りで歩きながら食べたかったけど、あのテンコモリを呉女なら半分くらい道に落としそうだから、座っておとなしく食べることにしました。ボリュームもたっぷりでスッゴクおいしかったあ〜。
 こんなふうに歴史的な場所でただボーっとして、お茶なんか
飲むのがだーい好き。でも、シニョーリア広場は今でこそ
馬車のお馬さんがのんびり草を食べたりしているけれど、栄
光の15世紀の終わりにメディチ家に変わって実権を握り、反
ルネサンスを掲げて一時的にフィレンツェの人々を心酔させ
た僧サヴォナローラが火刑に処せられた場所でもあります。
そのほかにもいろいろなドラマがあったんでしょうねぇ。特にフ
ィレンツェの政治抗争は激しくて、だからこそルネサンス期に
マキャヴェリという政治思想家を生んだくらいなんだから。

 さて、途中サン・ジョバンニ洗礼堂に寄ったりしながら、ホテルに向かって歩きます。この写真はドゥオモ広場近くの多分新しい、フィレンツェではごくフツーの建物なんですが、これがフィレンツェの典型的な建物だから撮ってみたんです。2階から上はいかにもルネサンス式。ルネサンスはそれ以前の神中心から人間中心への動きだから、デザインとしてはむしろシンプルになってくる。古代神殿を思わせるデザインの窓と直線を重視した造り。そして1階部分はヴェッキオ宮殿で見たのと同じような粗石積み。これはフィレンツェ
近郊で採れる石を使うそうですが、ルネサンス期にはこの粗石積みで都市
景観を統一する試みもあったそうです。ドゥオモ以外の教会ではファサード
だけは華麗でも横にまわるとこのゴツゴツした石造りだったりと、フィレンツ
ェの町を歩いていると粗石積みをよく目にするんです。よく写真でみるオレ
ンジの色は高い所にのぼらない限り意識できない。だからフィレンツェの町
の印象は石畳の道も合わせてゴツゴツとした石、石、石……。花の都という
華やかさとは違う、荒々しさや重厚さがちょっと意外でした。そういう建築の
代表ともいえるのが、ドゥオモのすぐ北に見えるリッカルディ宮。15世紀→
(呉女流第二期)に建てられたメディチ家の邸宅。ルネサンス建築で、これ
が当時の典型的豪邸の造りなんだそうですが、今見ると地味で意識しなけ
れば通り過ぎてしまうかも。でも内部は美しく豪華なんだそうですよー。時間
があれば入ってみたかったです。
 リッカルディ宮の手前を左に曲がるとすぐ見えるのが、またこのゴツゴツした建物! 手前がサン・ロレンツォ教会。奥のクーポラがメディチ家の人々が眠るメディチ家礼拝堂。建物としては一続きです。この場所には4世紀からミラノのアンブロシウスゆかりの教会があったのだそうで、現在の教会はメディチ家がブルネレスキに再建させたルネサンス建築です。さすがにこのファサードは未完成のままなのだそうですが。このときにはもう入場できる時間ではなかったのですが、特にメディチ家礼拝堂内部はミケランジェロの作品で名高く、観光客でごった返していました。
 礼拝堂の脇は革製品などを売る露天がズラリと並ぶマーケットで、スリににあわないようバッ
クを抱きしめ緊張して通り過ぎたら、ホテルがすぐ目の前。行きはドゥオモ広場までずいぶんあ
るような気がしたけど、実は近かった……、と意外とこじんまりした町であることを実感。
 ツアーに付いていた夕食はホテル近くのレストランで。メニューは茸のフィットチーネ豚肉
のオーブン焼きマチェドニア。食べながらツアーの人たちと話していたら、翌日の自由時間
の必修プランが出てきました。このあと音楽会に行くという元気な人たちもいましたが、まだこ
こで倒れるわけにはいかないので、夜はゆっくり休みました。 
 

 翌日。午前中はピサ観光(次のページ)。フィレンツェに戻り、町中に
入る前にアルノ川対岸の「ミケランジェロの丘」へ。最初の写真は
この丘からのものですが、町を一望するのに絶好の場所。フィレンツ
ェがイタリアの首都だった(1865〜70年)のころから整備されたそうで
す。丘の上では青銅製のダビデ像とメディチ家礼拝堂にあるミケラン
ジェロの作品を組み合わせたモニュメントが町を見下ろしています。
 ではもう一度、ミケランジェロの丘からのフィレンツェの町をどうぞ。
左にヴェッキオ橋、真ん中にヴェッキオ宮殿、右にドゥオモ。こうして見てはじめて、フィレンツェの華やかさやブルネルスキのクーポラの大きさが、実感できるんです。15世紀の町の絵が残っていますが、この風景とほとんど変わりません。それがスゴイ!
 
 市街地は交通規制があってバスは入れません。雨が降ってきたけれど、アルノ川畔から徒
歩で町に入り、まずはランチ。この日はペンネ・アラビアータ仔牛のトマトソース煮込み
ズコット(ケーキ)。二人とも辛いものが苦手なのでペンネ・アラビアータが心配でしたが、ほん
のり唐辛子が香る程度で美味。イタリアではソフトな味付けのものが多く、呉女好みでした。

 雨もあがり、フィレンツェの名産のひとつである革製品(グッチ、フ
ェラガモはこの町のルネサンス以来の芸術職人の精神が生んだも
のらしい)のお店へ連れて行かれたところで解散。グッチのアウトレ
ットショップに行くツアーもありましたけど、呉女は家族へのお土産
にいくつかの革製品を選んで買い物は終了。自由時間の見学は、
まず、お店の目の前にあったサンタ・クローチェ教会へ。ここは
呉女が是非訪ねてみたかった場所の一つ。ミケランジェロやギベル
ティ、マキャヴェリらフィレンツェにかかわる偉人たちが多く眠るいわ
ば霊廟で、実際入ってみると壁だけでなく床まで墓石が敷き詰められているんです。建物そのものは第一期のものですが、19世紀に加えられたファサードが派手なわりに、もともとは修道院の小さな礼拝堂だったという雰囲気を残して内部はけっこう簡素。たくさんの観光客がいなければオバケが出そうな異様な雰囲気とも……。
 ジョットのフレスコ画などの名品も多く、中でも呉女が見てみたかったのは、中庭に出たところから入るので意外と見過ごすかもしれないブルネルスキの代表作、パッツィ礼拝堂。(これはもちろん第二期)。『西洋美術史』の本によれば「この礼拝堂ほど調和と秩序の
理想や人間中心的世界観を見事に体現した例は他に見当たらない」んだそうで、本当に小さく
シンプルで静かな空間なのですが、多分建築を勉強していそうな青年が床に座り込んで天井
を見上げ、ただただルネサンスの空気を浴びている、といった姿も印象的でした。

 さてどこに行こう、とシニョーリア広場に向かって歩く……。このあたり、地図で見るとわかりま
すが、楕円を描くような道があるのはローマ時代の競技場の跡なんだそうです。
 それはともかく、二人はやっぱり疲れていました。というよりフィレンツェの数多くある美術館
や教会をこれから片っ端から見られるわけでなしという半分あきらめの心境と、もう十分に見て
満足という心境の両方から、翌日のローマに向けて体力温存策をとることにしたのです。
 どうしたかというとテキトーにバスに乗ったんです。町中でも小さな、乗ってみると座席は8席
しかないバスが時々走っていまして、何路線かあるようですが循環バスなのでどこか遠いとこ
ろに行ってしまう心配はない。遊園地気分で車窓か
らの景色を楽しめるということで、バールでチケット
を購入し、たまたまそこにあったバス停に来たバス
に乗ってみたのです。戻ってくるとわかっていても、
どこへ行くのか、ちょっとスリリング……。結局その
バスは町のかなり西に出てからアルノ川沿いを一気
に東へ駆け抜けるコースでした。ヴェッキオ橋
バス停で橋を撮ろうとシャッターを押したら、突然お
じさんが出てきちゃった。それから、この写真は
奥がウフィッツィ美術館、右に見えるのがヴァザーリの廊下です。
 石畳の道も多いので小さなバスは適度に揺れて、それに身をまかせていると足腰の疲れも取れるような……(ホントかね?)。まるまる一周するのもバツが悪いので、シニョーリア広場の少し手前と思われるバス停で降りました。わずか1ユーロで楽しめる路線バスの旅でした。

 体力を温存したわけはもう一つありまして、昨夜の夕食で必
修プランが出てきたというのは、実はドゥオモのブルネレスキのクーポラ→
の上に登ることなんです。ガイドの先生も「最近は映画の影響で登る日本人
が多くて」と言われていたのが、その時は意味がわからなかったのですが、ツ
アーの人たちから聞いたら「冷静と情熱のあいだ」のクライマックスでこのクー
ポラの上が出てくるのだ、と。それで昨日の自由時間にすでに登った人たち
は「463段の階段を苦労して登ってみる価値はある」とおっしゃる。それじゃ
あ私たちも登ってみなきゃあなるまい、ということになったわけです。
 帰国してからビデオでこの映画を見て、二人してハマることになるのです
が、映画の中で順正さん(竹野内豊)は一人でゆうゆうと登っていますけど、実
際は長蛇の列。私たちは閉館時間の6時近くに行って比較的すぐに入場はできたけれど、や
はりズラズラ並んで登ることには違いありません。途中あのコワイ「最後の審判」を間近に見
て、二重構造のクーポラの間の細ーい石の階段をやっと登りきり、地上から107mのバルコニ
ーから見える眺めがこ
れです。もちろん360度
のド迫力。町の真ん中
に立っている!という実
感です。ヴェッキオ宮
←殿とコの字型のウフ
ィッツィ美術館。それ
からジョットの鐘楼→
鐘楼も登ることができ
て、観光写真には鐘楼
からの眺めがよく採用
されています。
 バルコニーでしばしボーっとしてしまいましたが、登ったものは当然降りなきゃいけません。そ
れがまたつらいと言えばつらいのですが、やはり登ってみてよかったです。あの映画に出てくる
「フィレンツェのドゥオモは恋人たちのドゥオモ……」という伝説が本当にあるのか知りませんけ
れど、ビデオのこのシーンを繰り返し見ては、そのたびにドキドキしています。
 「冷静と情熱のあいだ」はミラノでも触れましたが、フィレンツェの風景、ウフィッツィ美術館の
中などがわざとらしくなく出てくるのがステキです。
 
 フィレンツェで最後に訪れたのは駅の近くのサンタ・←マリア・ノヴェッラ教会。教会そのものは第一期の建築ですが、ファサードの上半分は第二期のルネサンスのもの。閉館していたので入れませんでしたが、内部にもルネサンスの名品が数多く、中でもマサッチョの絵画「聖三位一体」は三次元的な透視図法でルネサンス絵画の先駆となった意義のある作品だそうです。

 ところでコジモ1世の後のフィレンツェですが、栄光の世紀は戻らぬまま1737年にメディチ家
は断絶。その後はオーストリア、フランスの支配をへて、1860年国民投票によって新生イタリア
王国に入り一時は首都にもなります。首都の座をローマに明け渡した後、20世紀も人口が増
え続け、過去の遺産をを未来へのエネルギーとする、今も活気のある町です。

 この日の夕食はフリーだったので、胃を休める日として、駅近くのバールで
ニーニやサンドイッチを買って帰り、ホテルで食べました。それでもかなりボリ
ュームはありましたけれど。

 翌朝。どうやらまだ体力はあるようです。ホテルの窓から撮った町。静か
だけれど、すぐ先がフィレンツェの中央駅です。ローマに向かう私たちのバスが
待機しています。
 
次は前日の午前中に時間を戻してピサへ。その後ローマに向かいます。

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