ピ サ

 フィレンツェ2日目の朝8時、バスで町を出て、アルノ川沿いを下ること80分ほどでピサの町
に到着です。 ここはパーク&ライド方式になっているらしくて、
観光バスの駐車場から路線バスに乗り換えて、ほどなくピサの
町の城壁の外側に着きます。そして城壁をくぐると、おなじ
みの「ピサの斜塔」が見えるのです。

 今でこそ、ピサはトスカーナ州の小さな町の一つですが、中
世にはヴェネチア、ジェノバと並んで繁栄を誇った海洋国
でした。紀元前2世紀ころ、ローマ帝国の海軍基地になった
ことがピサの都市としての始まりとされています。そのため造
船や軍事に強く、イタリアの諸都市の中でも発展が早くて、いち早く11世紀には自治権を獲得
してコムーネになりました。そして海上貿易で得た莫大な富をつぎこんで11世紀から建築が始
まったのが、町のシンボルであるこのドゥオモです。フィレンツェで書いたように、イタリアの大
寺院はドゥオモ(大聖堂)、洗礼堂、鐘楼が3点セットである場合が多いのですが、有名な「ピサ
の斜塔」はこのドゥオモの鐘楼にあたります。

 オオアマさまはなぜか子どものころから「ピサの斜塔」に憧れていて、今回の旅の楽しみの一
つだったのだそうです。一方、呉女のほうは正直言って、斜塔って不安定そうで(当たり前だ)な
んだか写真を見ただけで不安になりません? 実物を前にしたら倒れてきそうでもっとコワいん
じゃないか、と思っていたのです。それが実物の斜塔をひと目見た時に思わず口から出た言
葉が「カワイー!」。だって、もし「彼」がまっすぐ立っていたとしたらドゥオモの陰で目立たない
存在だったと思うのですよ。それがドゥオモの陰からヌッと顔を出して「ボクも見て!」と言って
いるような……。かわいい目立ちたがり屋さんという感じ。呉女の「不安」は吹っ飛びました。

普通ドゥオモというのは町の中心ですから、町の真ん中にデンとあるものなんです。なのにこのピサのドゥオモが変わっているのは、城壁の隣、つまり町のはずれにあるということです。これは、都市の力を誇示するためにとにかく大きくて立派なドゥオモを造りたかった。でも早熟なピサは11世紀にはすでに町ができあがってしまっていて、町の中心にはそんなに大きなものを造れるだけのスペースがなかった。それで、わざわざ城壁を造り
かえて町のはずれに広いスペースを確保し、そこにまるで富の展示場のようなドゥオモを造っ
た、ということのようなのです。ですからドゥオモ全体を少し離れたところから見渡す、ということ
は普通の町ではできないことなのですが、ピサのドゥオモは広々とした芝生の上にゆったりと
立っている。カンポ・デ・ミラコリ(奇跡の広場)と言われるゆえんです。

 最初に一番手前にある洗礼堂に入ります。三つの建物の中で最も新しく、12世紀に建築が
始まりました。ピサのドゥオモは11世紀から12世紀に西ヨーロッパを中心に広がった建築、
マネスク様式なのですが、洗礼堂が完成したのは14世紀ごろ、すでに次のゴシック建築の時
代でした。それで下層は半円アーチ型が特徴のロマネスク様
式、上層が尖塔アーチのゴシック様式になっています。中は
シンプルな造りですが、音響効果がすばらしい。チケットをも
ぎってくれたおじさんがヨーデルのような(?)声を少し間隔を
おきながら発すると、前の声の残響と重なって美しい和音と
なり、ウットリするような音楽になるのです。拍手〜〜♪
 ローマ・カトリックではこの時代、ドゥオモには洗礼を受けた
人しか入れないことになっていたので、洗礼堂を別に設ける
ようになったそうです。(後に規制緩和されたそうですが) 
洗礼堂の2階が回廊になっていて、上がってみると↑窓の外から町が見えます。昔、地中海の覇者だったとは思えない静かなたたずまいの町です。また、この回廊から、次に入るドゥオモ(大聖堂)ファサード全体をよく見ることができます。ギリシャ神殿を思わせるような軽やかで美しいアーチがピサ・ロマネスクの特徴です。

 ロマネスクの時代は、権威を示すためにも建物を高く大きく造りたいのだけれど、そのためには技術的に壁の量を多くしなければならない。だから開口部が少ないのが特徴です。このアーチは装飾であって建物を支えているわけではないのだけれど、優雅にみせる効果がすばらしい。間もなく壁の量を少なくしても高さを確保できる技術が発達し、高さやステンドグラスが特徴のゴシック建築の時代になるのです。
というわけで、ゴシック建築はいくらでも見
られますが、ロマネスクは数も少ない上に
ピサのドゥオモは教科書や史料集でも定
番のロマネスクの傑作なのです。
 普通、ドゥオモはファサードから入るもの
ですが、なぜかピサでは観光客は逆側の
後陣の入り口から入るんです。それで建
物の周囲を歩いていると、壁面の白亜の
大理石のところどころに文字が彫って
ある。何でもここの大理石は古代遺跡から運んできたりしたものなのだとか。この写真のものは「ハドリアヌス」と読める気がします。ハドリアヌス帝といえばローマ帝国最盛期の皇帝の一人。ハドリアヌス帝ゆかりの遺跡の石だったということなのでしょうか……?

さて後陣にまわって(後ろから見るとドゥオモが十字架の形をしているのが、ちょっとわかるかな?)いよいよ中へ。ここは内部もカメラのフラッシュOKで、教会内部がきれいに写った唯一の教会です。入ったとたん、オオアマさま
と呉女は同時に同じ言葉を口にしました。「ホテ
ル志摩スペイン村!」……何のこっちゃと思われ
るでしょうが、三重県にある「志摩スペイン村」の
ホテルのロビーの装飾を2人とも思い出したので
す。実は2人の直感はそうはずれていたわけで
はないようです。ドゥオモが建てられた11世紀こ
ろ、ピサから地中海をへだてた向こうの北アフリ
カはイスラムの国々で、ピサはそのあたりの国々
と戦ったり交易をしたりしながら莫大な富を築い
たのです。ですから、このドゥオモもイスラム文
化の影響を受けている。そのホテルのロビーは
スペインにあるイスラム遺跡「メスキータ」のデ
ザインをまねているようなのです。私たちは悲しいかな、本物のメスキータは見たことがないの
で「志摩スペイン村!」になっちゃったわけでして……。アーチの縞模様が似ているんです。
写真の左上にあるランプは「ガリレオのランプ」と呼ばれています。ずっと後の17世紀、ピサ
出身の有名科学者ガリレオはこのランプの揺れを見て振り子の等時性を発見した、といわれ
ていたのですが、今ではこのランプはガリレオの発見より後の時代のものであることがはわか
っているそうです。
後陣天井のキンキラに華やかなキリストの絵も写ってくれました。
 さて、ピサは12世紀には十字軍にも参加し、例によって聖戦そっちのけで東方貿易にいそしみ、ますます富を獲得しました。しかし勢力拡大にともなって他の都市と対立。特に同じ海洋国家であるヴェネチア、ジェノバ。そしてアルノ川の航行権を狙うフィレンツェも台頭してきました。とうとう1284年、同じ西地中海を望むジェノバ(ミラノの南)との「メローリア海戦」に敗北。これを期にピサの衰退が始まります。発展も早かったけれど、衰退も早かったのです。14世紀までは富の蓄積で何とかもちこたえたものの、1405年にフィレンツェの支配下に入ります。ですからこの町にはメディチ家の遺産もあるのです。ドゥオモの格天井はかなり豪華なものですが、これは16世紀、火災があったあとにメディチ家によっ
て施されたものなのだそうです。またメディチ家はピサの全盛期にあった大学を復興し、そこか
らガリレオが生まれました。今でもピサは「大学の町」です。
 余談ですが、海洋国家の争いからピサが脱落したあともジェノバとヴェネチアの争いは続き
ました。中国から帰ったヴェネチアの商人マルコ・ポーロがジェノバの捕虜となった牢獄の中で
語ったことを記録したのが「東方見聞録」なのだそうです。結局14世紀にヴェネチアが勝利した
わけですが。
 また不思議なことに、ピサの町が衰退しはじめた頃からピサの港
はアルノ川に運ばれてくる土砂に埋められていき、港としての機能
を果たせなくなってしまいました。現在ではアルノ川の河口は10キロ
以上も西にあるそうです。ピサが昔は港町であった面影が今は全く
ないのは、そのためでもあります。ただ、この奇跡の広場だけがピ
サの栄光を語り続けているのです。

 さて、いよいよ鐘楼、つまり「ピサの斜塔」です。12世紀に建築が
始まり、半分くらい建てたところですでに傾きはじめて、建設は中断
されたようです。川の沖積地で地盤が弱かったようですね。それで
も傾いたまま工事を再開したので、ビミョーにバナナのように曲がっ
ているのだとか。でも上の写真を見ると「昔はもっと傾いていたような……」と思う方もいるでしょう。そうなのです。倒壊のおそれが出ていたため、10年ほど前に工事をして少し傾きを修正したそうです。でもまっすぐ立てちゃったら「斜塔」じゃなくなって観光客が来なくなっちゃうから、この程度に(……?)。でも、塔の下のほうを見れば傾きがはっきりわかりますよね。倒壊のおそれから一時入場禁止でしたが、今では最上階まで螺旋階段でのぼることもできます。ただ、添乗員さんのおっしゃるには入場料が高い上、ナナメになった階段はかなりコワくて危険なのだそうで、もっと時間があればそれでも挑戦したツアーの方もいたかもしれませんが、結局誰ものぼりませんでした。それから「ガリレオのランプ」のほうは本当の話ではありませんでしたが、ガリレオがこの塔の上から落下実験をした話は本当なんでしょう……ね? 
 最後に、塔の底面のと
ころはどうなっているのか
と思って覗いてみました…
…こんな感じです。 

 これにてピサ観光は終
わり。バスに乗って、フィレ
ンツェにもどり、「ミケラン
ジェロの丘」、そしてランチ
となります。
 ピサの滞在時間は短かったのですが、何だかとっても面白いものを見せていただいたという
満足感でいっぱいでした。
ちなみにこれがホテル志摩スペイン村のロビーです。→






 さて、残るはローマです。ローマの中でも、まずバチカンからご案内します。
 
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