ヴェネチア
さて、ヴェネチア。ここは滞在時間も半日と短かったし、町としては華やか過ぎて個人的にはミラノのほうが好きで
すが、町の歴史には非常に興味深いものを感じました。その歴史の流れをうまくご紹介できるかどうか……。
ヴェローナを出て、高速道路で一直線のはずが、渋滞をしているという情報で下におりまし
た。それで思いがけずヴェネト州の中心都市の一つ、パドヴァの町を通過することになりまし
た。この町もヴェローナと同じでもとはコムーネでしたが、後にヴェネチアに併合されヴェネチ
ア貴族たちの別荘地となった町なのだそうです。今でもバスで走っていると、宮殿と見まごうば
かりの豪華な別荘がチラホラと残っています(写真に撮れなかったのが残念)。ちなみに添乗員
さんのお話によると、長崎の港からローマへ旅立った天正遣欧使節の少年たちがヴェネチア
にも立ち寄っていて、その時彼らを歓待した一家の末裔がこの町に住んでいるそうです。この
町から乗合船に乗りブレンダ川を下って海に出てサン・マルコ広場の波止場へ着く、というの
が昔のヴェネチアへの入り方だったのだそうです。
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ヴェネチアに行ったことのない方はどの程度ヴェネチアのことをご存じなのでしょう? まずヴェネチアは島です。19世紀に鉄道橋が、20世紀にその隣の車道のリベ←ルタ橋が架けられるまで |
ヴェネチア本島には船で行くしかありませんでした。今でも全長4キロというこの橋を渡り、前
方に海に浮かぶヴェネチアの町が見えてくると、なんともいえないワクワクした気分になりま
すから、船で表口のサン・マルコ広場に向
かうのは、さぞかしロマンチックだったでし
ょう。
この橋を渡りきった島の入り口(裏口か
な?)ローマ広場でバスを降り、水上タクシ
ー(屋根つきモーターボート)に乗り換えま
す。写真はリベルタ橋を水上タクシー→
から撮ったものです。ここから島の中の運
河に入ると、目の前に↓ゴンドラ(正しくは |
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これはトラゲットという渡し舟)が通っていくから、気分は一気にヴェネチア!!になります。このあたりでツアーの人たちがざわめきます。「ヴェネチアってこういう町だって知ってました?」。そう、ヴェネチアといえば運河があってゴンドラに乗って……というのは誰でも知っています。でもこんなに運河だらけで車は一切入れない、とまでは意外に知らないのでは? それも普通の島ではありません。ヴェネチアはイタリア半島の東の付け根部分にあります。つまりアドリア海の最奥。潮の流れと川に運ばれてきた土砂でできた細ーい島(リド島など)で外海と仕切られたラグーナ(潟湖)があって、そのラグーナ |
にはたくさんの島が浮かんでいるのですが、ほぼ中央にあって比較的大きい
のがヴェネチア本島。逆S字型に走る大運河(カナル・グランデ)が島をパカ
ッと二つに割っています。タクシーは大運河から島を縦横に走る小運河に→
入り、町の中心に向かいます。
イタリアの多くの都市が紀元前のローマ帝国の植民市などに起源をもつの
に比べれば、ヴェネチアは新しい町。この土砂の堆積でできた地盤の弱い浮
き島のような不毛の土地に人々が住みはじめたのは5世紀ころといわれてい
ます。西ローマ帝国が滅亡し異民族が侵入してきて、命からがら逃げてきた |
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本土の難民が、最初は緊急避難場所としてラグーナの島々に渡り、そのうちに定住するように
なったのが町の起こり。杭を打ち込み地盤を強化して、何もないこの土地に町をつくるのです
から皆で助け合わねばなりません。そのためかその後の政治的な発展はけっこう早くて、7世
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紀にはすでに共和制が行われていたといいます。後に一部の貴族に権力が集中する寡頭政治になってしまったようですが、当初から選挙で選ばれたドージェと呼ばれた総督は、終身とはいえさまざまな制約や監視を受け、ほかの町のような独裁者やドージェを世襲するような一族はヴェネチア共和国1000年の歴史の中についに現れなかったようです。これは自由闊達なヴェネチアの大きな特徴といえるでしょう。
←島の中心、大運河にかかるリアルト橋近くでタクシーをおりまし |
た。その華やかさと喧騒というか猥雑
さというかに圧倒されてしまいます。こ
こはヴェネチア貴族の邸宅であり
商館だった華やかな建物が立ち→
並びます。ヴェネチアはそういう島で
すから土地や資源がありません。だ
から商売で生きていくしかなかったの
です。最初は海産物を本土で売り、
生活必需品を買ってくるようなところ |
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から始まったのでしょう。そのうち船を駆使して中継貿易をするようにな
り、やがては地中海全体の覇権を握るような貿易国としての莫大な富を
築いていったのです。その商都としての華やかさがここにあります。
渋滞でヴェネチア到着が少し遅くなりましたから、もうお腹がペコペコで
す。大運河沿いから細い路地(ヴェネチアでは徒歩で歩く道はみんな→
こんな感じ)に入り、大勢の観光客の中、迷路のような道で迷子にならな
いよう、イヤホンガイドの添乗員さんの声に耳を傾けながら右へ左へ。よ
うやくレストランに着きました。ヴェネチアの食事といえば、もちろん魚介 |
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類。ちょっと塩辛いけどクセがなくていくらでも食べられそうなイカ墨のパスタと、一つ一つは小
さいけど揚げたてですごくおいしいエビとイカのフライ。それにティラミスをいただきました。満
腹〜〜。
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ランチのあと、また迷路のような路地をくぐりぬけて、パッと目の前が開けたところがヴェネチアの政治、宗教の中心、今は観光の中心でもあるサン・マルコ広場です。広場の左にそそり立つ、目がチカチカしそう←なほど華麗な建物がサン・マルコ寺院です。その向こうにドゥカーレ宮殿。その向こうは海です。
ここからはイタリア人ガイドのマリオさんが案内してくれます。この方の日本語のウマさというのは発音がいいとかいうのではなくて、日本語での笑いのツボをおさえているんです。どこでどういう勉強をしたらああいう日本語をしゃべれるようになるのか……。その楽しいマリオさんの案内でまずドージェの官邸で政治の場でもあったドゥカーレ宮殿↓へ。きれいな建物ですね。アーチの上が尖っているゴシック式。特にこれはヴ |
ェネチアン・ゴシックと呼ばれ、とても軽やか。ヴェネチアは地
盤が弱いので、建物もなるべく軽く造るように工夫しているそう
です。9世紀ごろに造られた当初は砦のようなものだったそう
ですが、ヴェネチアの最盛期にあたる12〜15世紀に改築を重
ねて今のような美しい姿になったそうです。マリオさんの言うに
は内部の床できしむところがあるけど、昔からそうだから気に
しないで、と。実際、基礎は頑丈に、床などは柔軟に造るの
が、地盤沈下が宿命のヴェネチアで強固な建物を造る技術な
んだそうです。内部はヴェネチア共和国で使われた会議室や |
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裁判所などですが、まるで美術館のように絵画で飾られています。特に16世紀に活躍したヴェネチア派の三大画家、ティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼの華麗な色彩の絵画を堪能できます。
その華やかさと裏腹に、この宮殿の運河の裏の建物は牢獄になっています。そこも見学コースになっているので入れるのですが、宮殿と牢獄をつなぐ橋(写←真奥)が外から見ると美しい橋で、有罪になって牢獄へ行く罪人がここでため息をつくところからため息橋と呼ばれています。共和国の表と裏、とでもいうのでしょうか。
さて、ミラノにアンブロシウスがいたようにヨーロッパの町には守護聖人なるものがいるのだそうですが、ヴェネチアの守護聖人は聖書にイエスの一代記を書いた4人のうちの一人、聖マルコです。最初は違う聖人がいたそうですが、9 |
世紀にヴェネチアのある2人の商人が、聖マルコが殉
教した異教の地アレキサンドリアから聖マルコの遺体
を半ば盗み出したも同然に持ってきちゃったんだそう
です。そのいきさつがサン・マルコ寺院の入り口上部
に連作のモザイクで表されているのですから堂々→
たるものです。その遺体をはじめはドゥカーレの砦内
に安置しましたが、隣にそのための礼拝所を造り、11
世紀ころからヴェネチアの富の象徴として造りかえら
れたのが今のサン・マルコ寺院です。連作モザイクの |
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←中に13世紀ころの寺院の姿が描かれていますが、ほとんど今と変わりません。内部も壁から天上まで、一面このようなキンキラモザイクで埋めつくされているのですが、実際はほの暗いので想像していたほどには派手な印象は受けませんでした。床もキンキラではないけどモザイクで東洋のじゅうたんのような柄が印象的です。
ヴェネチアが商業で発展をとげられたのは、この町が東を向いていたからかもしれません。というのは西ローマ帝国が滅びた後も東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は栄 |
え続けたので、中世は東のほうが富んでいたわけです。イタリアの都市は十字軍遠征の拠点
となったことをきっかけに経済的発展をとげたケースが多いのですが、ヴェネチアが拠点となっ
た13世紀の第4回十字軍では、聖地奪回という十字軍の目的をそっちのけでキリスト教の中
心地の一つであるビザンツ帝国のコンスタンチノープルを攻め落として、ヴェネチアが遠隔
操作できる国をたて、経済的有利を勝ち得てしまうという、かなりエゲツナイこともやっていま
す。それでサン・マルコ寺院には青銅の馬だとかコンスタンチノープルからの戦利品がたくさん
あります。また普通イタリアの教会は上から見ると横より縦が長い「ラテン十字」の形ををして
いるのですが、サン・マルコ寺院だけは縦横が同じ長さの「ギリシア十字」。これも東方の影響
です。ヴェネチアの持つ独特の派手さはオリエンタリズムからくる華やかさといえます。
サン・マルコ寺院を出て、その裏にあるガラス工房で制作
実演を見ました。ヴェネチアングラスはローマの伝統と東
方の影響で発展したそうで、13世紀には技術が外に漏れな
いようラグーナの島の一つ、ムラーノ島に職人たちを閉じ込
めて制作させたそうです。お店ではマリオさんのお仲間らし
き日本語の達者なおじさんのセールストークを楽しみまし
た。でもあんな豪華なものを使うような暮らしはしてないし…
…。ここからしばし自由時間というので、買い物をする人た
ちを背に店を出て、波止場のほうへ出てみました。 |
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ドゥカーレ宮殿の横、海に向かってそびえたつギリシア風のこの柱↑もコンスタンチノープル
から持ってきたものらしい。上にのっているのは聖マルコの象徴、有翼の獅子。ヴェネチアで
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はあちこちでこの獅子に出会います。
正面の島に見えているのは、16世紀のル
ネサンス建築、サン・ジョルジョ・マッジョー
←レ教会。「水辺の貴婦人」と呼ばれていま
す。目を右に移すと大運河の入り口があっ
て、その対岸に見えているのがサンタ・マ→
リア・デッラ・サルーテ教会。17世紀にペス
トが流行ったとき、その終息を願って建立が
決定した教会でバロック建築(バロックにつ |
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いてはローマで触れます)の傑作です。
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←ちょっと休みたくなったので、ドゥカーレ宮殿前にて潮風に吹かれてティータイム。オオアマさまが温かいものが飲みたくなったと不用意に「コーヒー」と頼んだら、イタリアだもの、当然エスプレッソがきます。しかもあの小さなカップに1/3くらいの分量で、それでいてお砂糖だけは3袋きたから「これじゃ砂糖のほうが多いじゃん」。以来オオアマさまはイタリアでコーヒーを頼むのが怖くなったようです。
小休憩のあとはお散歩の時間。ヴェネチアの道はよく迷うのが面白いといいますが、自由時間は限 |
られていたので道を確認しながら歩きます。店やホテルが並ぶ迷路のような細い道。運河沿
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←いの優雅な散歩道。休憩中のゴンドラ。なん→
だかヴェネチアというテーマパークを歩いているよう
な気がします。
14世紀ころからヴェネチアは海だけでなく、陸へも
目を向けます。ヴェローナやパドヴァが併合されたの
はこのころのこと。しかし時代は少しずつ変わりはじ
めていました。
一般的にヴェネチア衰退の理由は15世紀に求めら |
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れます。オスマン・トルコによるビザンツ帝国の滅亡。アメリカ大陸と新航路の発見による
地中海の重要性の低下。実際はそれですぐに衰退したわけではなく、むしろ西ヨーロッパの発
展が一時的にはヴェネチアの景気をよくしたし、16世紀にはルネサンス文化が花開いたり、印
刷・出版の中心地になったり、としばらくはその繁栄をもたせたのですが、17世紀から次第に
ゆるやかな下降線をたどり、ついに1797年ナポレオンの侵攻によって1000年にわたる共和国
の歴史を終えました。そして1866年にはイタリア王国に併合されます。
一大国家は一つの町になってしまったけれど、そこでめげな
いのがヴェネチアのよいところ。かつての繁栄と富による美し
い町。土地ゃ資源を持たない町が、過去の栄光を売り物に観
光都市、祝祭都市へと脱皮することになるのです。華やかな
建築も、カーニバルも、ゴンドラも、町を演出するエンターティメ
ントであり、町全体がヴェネチアというテーマパーク。実際イタ
リアにとっても、多くの国・町にとっても、いまや観光は重要な
産業なのですから、ヴェネチアはその先駆け的な存在なのか
もしれません。
散歩の終点はやはりサン・マルコ広場。ナポレオンは「世→
界で一番美しいサロン」と呼んだそうです。右にそびえるのは
かつては灯台でもあったサン・マルコ寺院の鐘楼。エレベー→
ターでこの上に昇ればヴェネチアが一望できるそうですが、何
しろすごい行列なのであきらめました。それからこの鐘楼は
1902年に突如ガラガラと自然崩壊したそうです。地盤がゆるん
だか何かが原因と思われ、すぐ再建されましたが。11月ころに
はアクア・アルタといって、高潮でこの広場は水浸しになるそ |
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うです。それも温暖化の影響なのか年々ひどくなるとか。そう考えるとこの町は果たして存在し
つづけることができるのか、そんな心配がわいてきました。町自体が幻に思えるような、あやう
い雰囲気を持っているからそう思うのでしょうか……。
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自由時間が終わって、お待ちかね、ゴンドラ遊覧の時間です。サン・マルコ広場の裏手から一艘に6人ずつゴンドラに乗り、小運河をしばらく行って大←運河へ出て、また戻ってくるという40分ほどのコースです。いっしょに乗った小学生たちが「ディズニーシーみたい!」。ディズニーシーがこちらのまねをしているのよォ。確かに細い運河を |
ゴンドラが連なって動くさまは遊園地のノリです。でも本物のゴンドラは漕ぎ手のゴンドリエーレ
さんが左側に乗ってバランスがとれるように少しねじれた造りになっている、それがとても色っ
ぽく感じるのです。映像でしか見たことはないけれど、ディズニーシーのゴンドラはそうなってい
ないし、乗っている人数からするとひとまわり大きいんじゃないかな。
ゴンドラはかつてはヴェネチアにおける自家用車みたいなものでし
た。それで一時は華美を競い過ぎ、今では17世紀にできた法律を守っ
て黒一色。現在はほとんど観光用で、道も橋も増えたしモーターボート
やヴァポレット(水上バス)の普及で地元の人はお祭りのときくらいしか
乗らないそうです。でも運河は道と同じですから、こんな交通標識も→ |
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見られるんですよ。ゴンドラはゆったりのんびり動くのでとても心地よく、ものすごーくくつろいでしまいました。
←いよいよ島の中心、リアルト橋が見えてきました。最初にタクシーを降りた近くです。この橋はかつては大運河にかかる唯一の橋(今は三つ)で、しかも跳ね橋でした。というのは商船が直接ここまで入ってきて商館に横付けされ |
て荷の揚げ下ろしをしていましたので、船の通行の
妨げになる橋はジャマだったわけです。16世紀に、
ある程度の船は通る傾斜はついているけれど石→
造りの橋になった。それは当時の変わりつつあっ
たヴェネチアを象徴していたともいえます。橋そのも
のは美しいルネサンス建築。採用はされなかったけ
ど、かのミケランジェロもこの橋の再建プランを出し
ていたそうです。中世からの面影を残し今でも橋の
上は商店街になっているそうです。 |
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リアルト橋をくぐったところでゴンドラは折り返し、サン・マルコ広場へ戻ります。あとはドゥカー
レ宮殿前の波止場↓から水上タクシーで本島の外側を半周してバスの待つローマ広場に戻
|
ります。この時点で午後8時。
今回の観光ではヴェネチアのごく中心部分しか見られませんでした。それでもかなり満足感はあるのですが、ヴァポレットに乗れば大運河めぐりとかサン・ジョ←ルジョ・マッジョーレ島などの島にも行けるようですし、再訪する機会があれば、本島にある優雅なホテルに泊まって、ゆっくり観光してみたいものです。
今回泊まったのはメストレというリベルタ橋を渡った |
ところの町にあるホテル。島は何かと不便で物価も高いので最近は本土に移住する人が増え
ていると聞きましたから、メストレは近代的な町なのかと思ったら、道路だけは渋滞するものの
ホテルの窓から見えるのは小さな教会と緑の田園風景だけだったのでちょっとびっくり。イタリ
アでは都会の近くがすぐ田舎、というのが普通なんだそうですが。
夕食はホテルのレストランにてボンゴレ・ロッソのパスタと白身魚のソテーをいただきまし
た。やはり魚介類ですね。今回泊まったホテルの中では広くてきれいで設備もよかったけれ
ど、翌日の朝食でボーイさんが呉女にジュースを引っ掛けておいて謝らず、呉女はボーッとして
いましたが添乗員さんはキレていました。イタリアのボーイさんってこんななのかしらと思った
ら、次のフィレンツェのホテルでは呉女の不注意でコーヒーをこぼしたのに、ボーイさんが飛ん
できて親切にしてくれましたから、あれは特別だったんでしょう。
翌朝、バスでフィレンツェに向かう時、海の向こう、朝もやの中にヴェネチアの町がまるで幻
のように見えました。ヴェネチアが本当に幻になってしまわないことを祈りつつ……。
フィレンツェへ
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