ミラノ
 ミラノ、マルペンサ空港からバスで1時間弱のミラノ郊外のホテルに一泊し、翌日午前が市内
観光ということで、バスにてミラノの町に入りました。イタリアの経済の中心地ということでもっと
近代的な町を想像していたので、次々現れる重厚な建物が並ぶ通りに歓声を上げてしまいま
した。
 
 まずはミラノの観光はたいていここから始まる、世界で2番と
か3番とかいう大きさのドゥオモ(大聖堂)。観光写真などでよ
く見るファサード(正面)が……残念ながら、この通り足場
が組まれていました。これは修復ではなくて掃除のためと聞
きました。石造りの建物は車の排気ガスなどで汚れやすいの
だそうで、実際このドゥオモも写真で見る限りコンクリートのよ
うなグレーの建物だとばっかり思っていたら違うんです。きれ
いになっていた裏へまわってみると……
……うーん、これではよくわからないのですが、きれいな薄ピ
ンク色の大理石なんです。写真と実物って違うもんですね。ドゥ
オモの中に入って左の写真の内側を見るとこんな美しいス→
テンドグラスがいっぱいで、広い堂内を見渡してウットリです。
 このドゥオモは14世紀にこのミラノを支配していたヴィスコンテ
ィ家のジャン・ガレアッツォが建築を始め、完成までに何と500年
かかったというゴシック建築です。だからミラノではいつ片付く
かわからない仕事のことを「ドゥオモのよう……」と言うとか。ゴ
シック建築は中世ヨーロッパで盛んだった建築様式で高さを強
調し、尖ったアーチやステンドグラスが教
会の荘厳さを演出します。この大聖堂は
その代表。午後の自由時間にエレベータ
ーで屋根に上ってみました。一本一本に
聖者像がのった尖塔がニョキニョキ。
壁面にも彫像がたくさん彫られていて
とてもきれいです。屋根の上は町が一望
できるし風が気持ちいいし、最高でした。

 ミラノの町はこのドゥオモを中心にできています。ドゥオモ前広場の真ん
中にデーンと立つのはヴットリオ・エマヌエーレ2世像。イタリアという長靴
の形をした半島(ミラノは半島ではなく、その北のアルプスの南にある町で
す)が、ローマ帝国時代は別として、統一国家となったのは意外と最近(?)
で、日本でいえば明治維新のころのことだって知ってました? その統一さ
れたときの国王がこのヴットリオ・エマヌエーレ2世です。そのドゥオモ広場
のすぐ横にある豪華な十字型アーケード(左上の写真に見えます)は、統一
後の1867年にできたヴットリオ・エマヌエーレ2世ガレリア。現在もおしゃ
れなカフェなどが並びますが、当時にしてはガラスと鉄のドームは斬新で
社交場として賑わったそうです。美しい装飾のビルとその上にかかるガラスのガレリアを見上げながら、オオアマさまが突然つぶやいた「ヴィーナス・フォート……ディズニーランドのアーケード!!」。そうそう、ディズニーランドなんてそっくりだ。ヴィーナス・フォート(お台場にある屋内型ショッピング街)も雰囲気が似てる……。ここが原点だったのか? 何にでもオリジナルがあるものなのねー。うーん、大発見!?

 さて、そのガレリアのモザイクの床にローマ帝国の建国神話を描いたこんな柄を発見しました。伝説ではローマ
帝国は紀元前8世紀、牝狼に育てられ
た双子の兄弟のうちの片方ロムルスが
ローマのパラティーノの丘に建国したの
が始まりとされています。だんだん領土
を拡大したローマ帝国は1世紀から2
世紀に全盛期を迎えます。そんな中で
ミラノが歴史の教科書にも現れるの
は、迫害していたキリスト教を313年に
容認したミラノ勅令。写真はミラノ勅
令の模様を彫ったドゥオモの一番左の青
銅扉です。ま、実物を見てもよくわからない
のですけどね。このころローマ帝国は4分割
統治をしていて、ミラノはその中心地の一つ
だったのです。

 そのミラノ勅令を出したのがこの人、
ンスタンティヌス帝です。午後の自由時間
に行ったサン・ロレンツォ・マッジョーレ教
の前のちょっとかわいい皇帝像。この教
会の前には4世紀の円柱が16本、デンデンとたっているのです。ドゥオモから歩いて15分く
らいのところです。教会そのものも同じ時代からあるそう(建物は中世以降)ですが、さほど広く
もない普通の通りにローマ時代の柱、というのが不思議な光景でした。だいたい呉女の基準
は常に7世紀にあるので、それより新しいと「別に……」、それよ
り古いと感心する、という傾向があります。

 4世紀のミラノで特筆すべきはアンブロシウスという司教の存
在。そのアンブロシウスが殉教者の霊を弔うためにたて、その
後アンブロシウスの遺骸を祀ったのがサンタンブロージョ教
です。サン・ロレンツォ教会から小さな道を迷いつつも(これが
また楽しいのよね)10分ちょっと歩いたところにあります。アンブ
ロシウスという司教は、時の皇帝テオドシウス帝を公然と非難
し、ついに皇帝を謝らせてしまったという傑物で、聖人に列せら
れてミラノの守護聖人になっています。アンブロシウスの誕生日12月7日は祝日でスカラ座(ヴットリオ・エマヌエーレ2世ガレリアぬけたところにあるのですが、この時は工事中でした)のオペラの初日はこの日と決まっているそうです。この教会はゴシックより少し古いロマネスク様式。半円形のアーチが特徴の一つです。ゆったりしてさわやかな印象の内部が印象的なのですが、フラッシュ禁止で写真には写りませんでした。こちらは後にルネサンスの建築家ブラマンテがつくった中庭の柱廊。ほら、エンタシスです。

 ところで、ローマ帝国はテオドシウス帝を最後に東西に分かれ、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は1000年ほど続きますが、イタリア半島が属する西ロー
マ帝国は異民族の侵入で476年に滅亡してしまいます。その後のイタリアは異民族や周辺諸国
の侵入にさらされて、長い混迷の時代が続きます。やっと社会が安定し経済が発展して、イタ
リアの諸都市が都市国家(コムーネ)として台頭するのは11世紀〜12世紀
のこと。イタリアのコムーネは市民が自治をかちえて共和制で始まり、そのう
ち内部闘争が激化して、専制政治を世襲する家が登場する。しかもその専
制の時代にもっとも栄えるというのが多くに共通するパターンらしいのです。
ミラノもそうで、その家というのがヴィスコンティ家スフォルツァ家です。
 ここで時間を午後の自由時間から午前の市内観光に戻します。14世紀に
ヴィスコンティ家の居城として建てられ、15世紀にヴィスコンティ家の血筋が
絶えてから権力を握ったスフォルツァ家が改築したスフォルツェスコ城
す。写真は入り口の時計塔。いちばん栄えた時代とはいえ内実はかなり血な
まぐさいものだったそうで、城というよりは砦です。隅櫓があっ
たり内堀があったりします。現在内部は博物館などとして使われ
ています。工事中で博物館の全体像はわからなかったのです
が、この中のいちばんの目玉、ミケランジェロの未完の遺作、
←「ロンダニーニのピエタ」を間近に見ることができて感激しま
した。なぜこの作品がここにあるのかは知りませんが。
 先ほどのドゥオモの建造をはじめたのがヴィスコンティ家のジャ
ン・ガレアッツォですが、文化振興においてはスフォルツァ家も負
けていなくて、ルドヴィカ・イル・モーロは建築家ブラマンテや、レ
オナルド・ダ・ヴィンチを呼びよせています。この城はダ・ヴィンチの職場だったわけですが、そ
のおかげで、ミラノにはたいへんな世界遺産が残っています。自由時間の最後はその世界遺
産を訪ねました。
 
  スフォルツェスコ城からも歩けるようですが、私たちはサンタンブロージョ教会から歩いて15
分くらい。サンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会です。
 この教会の目玉は奥修道院の食堂の壁面に描かれたダ・ヴィンチの「最後の晩餐」です。これを見るためには事前に予約が必要です。イタリア語ができれば(英語でもいいらしい)直接電話すればいいのですが、私たちはJCBカードの予約代行サービスを利用しました。ツアーには旅行会社に頼んだ方もいました。基本的には当日直接行っても断られますが、実際には予約をしても遅刻したりする人がいるので、ツアーの方の中にはキャンセル待ちをしてなんとか見ることができたという方もい
ました。私たちは絶対遅刻はしないようにと、予約時間は最終の18時半だったのを1時間も前
に着いてしまいました。まず予約番号を見せてチケットを購入。日本語のガイドブックを買って
カフェで休みながらそれを読むことにしました。ところがそのガイドブッ
クは写真はきれいなんですけど、あちらの論文みたいなものを日本語
訳しただけの内容で、読みにくいし難しい。途中で挫折しました。(カフ
ェも店員がしゃべっているのがうるさくて、ゆっくりできないしー)
 そこでカフェを出て教会へ。教会そのものには予約なしでも入れます
ので、呉女はぜひここもおすすめしたい。中に入ると手前はゴシック様
式。奥がブラマンテのルネサンス様式で幾何学的で調和のとれたデ
ザインがとても明るくてかわいらしくて素敵です。写真が撮れていなくて
残念でなりません。写真は中庭の回廊です。
 さていよいよ予約時間がきて食堂のほうへ。今度はオーディオガイドの日本語版を借りました。鑑賞時間は15分間なのですが、このオーディオガイド、15分たっぷりしゃべり続けますので、見る前から聞き始めたほうがいいようです。一回に入れる人数は15人程度に制限され、食堂に入るまでに三つの自動ドアがあり、前のドアが閉まってから次のドアが開く、という徹底した空調の調節ぶりです。呉女はふと「高松塚古墳ってこれを小さくした感じかしら?」と思ってしまいました。
このなんでもない長方形の建物の中に、短いほうの壁面いっぱいを使って「最後の晩餐」は描かれています。修復が終わってとてもあざやかで
とくにキリストが肩からかけている布の青、ほかにも何人かが身につけている青の色が美しく、
目に焼きついています。わけがわからなくとも名画の迫力というのでしょうか。見ている間ずー
っと「ああ、ここに来て、この絵を見られてよかった……」という充実感に満たされていました。
これぞ人類の遺産というか、さすが天才だあ〜というか……(表現力がなくてすみません)。

 この充実感を胸に教会の前からトラム(路面電車)に
乗って郊外のホテルまで帰ります。ドゥオモ広場で乗り継
ぎをしますが、ミラノの場合最初に乗ったときに刻印した
時刻から75分間は一枚の切符(1ユーロ)で何回でも乗れ
るので安いし便利です。ただ、中で切符を売っていないし
現金では乗れないのであらかじめ切符を買っておかねば
なりません。私たちはドゥオモ広場下の地下鉄の切符売り
場(地下鉄とも切符は共通)で買っておきましたが、とても1
ユーロの切符を買う場所とは思えない、銀行のような立派
なカウンターでビビってしまいました。私たちはずっと歩いてしまいましたが(歩ける程度の町の
大きさなのです)観光して、買い物もして、という方は地下鉄・バス・トラムの共通一日乗車券で
も安いみたいですよ。ミラノはファッションの町ですし……。(呉女には縁がないけど。この日の
午後もオプショナルではアウト・レットツアーがありました)

 そうそう、ミラノの歴史のその後ですが、イタリアは各都市に分かれていたために列強諸国の
介入を招きやすく、16世紀からはミラノもスペインやオーストリアの支配下に入るんです。そこ
に18世紀末ナポレオンが入ってきて、ミラノはナポレオン軍への物資の補給地になったので
す。もともと繊維産業は盛んでしたが、ナボレオン軍へ軍服を供給したことが今日の「ファッショ
ンの町」へつながる発展のもととなったとか。その後リソルジメント(国家統一運動)、そしてイタ
リア王国の成立と、ミラノは常に重要な役割を果たしました。

 郊外のホテルは不便なようですが、買い物や勤め帰りのミラネーゼたちといっしょにのんびり
トラムに揺られながら帰る、というのも町中とは別の町の表情をみるようで、これはこれでいい
ものだなあ……と思いました。
 映画「冷静と情熱のあいだ」の中に、ヒロインの働く町として、トラムの走るミラノのちょっと郊
外の風景がとてもいい雰囲気で出てきます。それから、ヒロインが元彼(竹野内豊)からの手紙
を読む重要なシーンで使われているのがサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会の中庭です。

 ドゥオモ広場から30分足らずでホテル近くに着きます。あちらでは夜8時くらいでやっとこの程度、日が傾くのです。

 ちなみに、この日のお食事は、朝はホテルでコンチネンタルブレックファスト。昼は市内観光に付いていて、ミラノ風リゾッミラノ風カツレツ。サラダにパンにマチェドニア(フルーツカクテル)。ミラノのあるイタリア北部の平原はお米の産地なんですね。それでリゾットの本場なのですが、ミラノ風というのはサフランで味つけしたシンプルなもの。とてもおいしかったで
す。ミラノ風カツレツは仔牛肉を薄くして揚げたものだから、ウィンナーシュニッツェルと同じじゃ
ないか、と呉女は思うのですが(付け合わせがポテトなのもレモンを絞っていただくのも同じ)、
何といってもウィーンでは名門ホテルザッハーで食べてしまいましたから、あっちの勝ち、か
な? 夜はホテル近くのピッツェリアでピザとパスタを食べました。値段は日本で食べるより少
し安いくらい。その店ったらピッツェリアなのにお寿司がメニューにありました。意外に地元の
人が食べていました。これが旅の真ん中くらいなら食べたくなったかもしれないですけどね。

 この日はロマネスク、ゴシック、ルネサンスと三つの建築様式を見ることができたし、二人の
大巨匠の作品もじっくり鑑賞できたし、ローマ時代の柱も見られたし……。たいへん充実した一
日でした。ミラノの町は、最初に行ったからとても印象に残っていて、落ち着いた感じが呉女も
とても気に入ったのですけれど、他の町のあとに行ったら印象が薄れてしまうかも……。そう、
これはまだまだ旅の第一歩なのです。

 次の日は朝、バスでミラノを後にして、ロンバルディア平原を東へ。ヴェローナ、そしてヴェネ
チアへ向いまーす。


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