新婚旅行でアントワネットの故郷、オーストリアへ

1993年夏、呉女とオオアマさまの新婚旅行海外編(先に行った国内編は琵琶湖一周でした)は結婚して4ヶ月後に行ったオーストリアでした。「新婚旅行でオーストリアへ行くのよ」と知人に話すと反応はふたつ。ひとつは「コアラに会うんだー」とオーストラリアと間違える人。もうひとつは「ダンナさんかわいそー」と言う人。そう、私の趣味で無理やり行き先を決め、オオアマさまはそれにつき合わされていると思われたのです。でもね。呉女は新婚旅行くらいダンナさんの希望をきいてあげようと、結婚前にパリへ行っておいたくらいなんですよ。オーストリアはたまたま前の年に「ハプスブルグ家展」を見ていたオオアマさまの希望だったんです(その展覧会なら呉女も見てましたが)。まず、そこのところを強調しておきたいです。ハイ。
あれは新婚旅行でしか絶対行かないような11日におよぶ高価な旅でした(当時はこんなに旅をするようになるとは思ってなかったもんね)。それだけに充実した旅でした。

ザルツブルク
 最初に訪れたのはザルツブルク。後にイタリアの街並
みを見て「ザルツブルクに似てる」と思ったのですが、そ
れもそのはず。ここは早くからキリスト教やローマの文
化が入り、ローマ法王庁とのつながりも深い「北のフィレ
ンツェ」とも呼ばれる町だったのです。「みんなマジメに
生活してるのかな?」と疑うほど美しい町でした。
町の背後にそびえるホーエンザルツブルク城から見た町全景→
 この町はモーツァルトの出身地として知られています。7歳
のモーツァルトが6歳のアントワネットに求婚したというのは
有名な話。呉女は小学生のころクラシックを聞くという高尚
な趣味をもっていて(過去の話)、特に好きだったのがモーツ
ァルトだったのでザルツブルクは憧れの町のひとつでした。
町の中心、モーツァルト広場のモーツァルト像
 繁華街ゲトライデ通りにあるモーツァルトの生家の中
では、運良くモーツァルト愛用のピアノの音色を聞くことがで
きました。
 この町のもうひとつの魅力は「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台であり、映画のロケ地でもあること。実は現実逃避型の呉女は映画のリアルさがいまひとつ苦手で、あまり映画は見ないほうなのですが、「サウンド・オブ・ミュージック」は大好きなんです。ミラベル庭園はドレミの歌がキマルところ。
 郊外の湖水地帯であるザルツカンマーグートへ行けば、ますます今にもマリアが飛び出てきそうな映画の世界。天気があまりよくなかったので、登山鉄道(映画にも
出てきます)に乗っても周りが真っ白だっ
たのが残念でしたが、山と湖の間に宝石
のように小さな美しい町が散らばる映
画のファーストシーンの風景。その町の
ひとつ、モンゼーの町の教会はマリア
が結婚式をあげた所です。
 ほかにも市街のはずれのマリアがいた
修道院に行ってみたり、といろいろ楽しみ
ました。ちょうど「ザルツブルク音楽祭」開
催中だったので、管弦楽のコンサートに行ってみました
が、実は目的はこの劇場。祝祭劇場の中にあって、岩壁を
生かしたこの劇場はフェルゼンライトシューレといって
(この名前もなんだか気になる)ラスト近くでトラップ一家が
歌を歌うシーンの、あの劇場なのです。
 ところが、ザルツブルクを出て次のインスブルックへ移る
ころ、呉女はのどの痛みになやまされ、夜になると咳き込
み、食欲もなくなって、ほとんど病人に……。

インスブルック
 インスブルックはアルプスの山の中にあって冬季オリンピックが開かれたこともある町ですが、交通の要衝でもありハプスブルク家の人々に愛されて古くから離宮がおかれた所です。……が呉女は市内観光もオプショナルツアーもキャンセル。ホテルにお医者さんを呼んでもらう騒ぎになりました。処方箋を出してもらって添乗員さんに薬を買いに走ってもらっている間に……
 ……観光してました。声は出ないままでしたが、小さな町
だったもので、つい歩いてしまいました。
この町の王宮は、もとは小さなものだったそうですが、
ママ、いえマリア・テレジア女帝がロココ調に大改装して豪
華になりました。その中にマリア・テレジアの16人の子供の
肖像がずらりとある部屋があり、末娘のアントワネット→
ももちろんいました。もとの写真にはこの下に同じポーズを
とろうとして失敗している呉女が写っています。病人のはず
なのにノーテンキな……
 この病人、なぜか「市の塔」の階段をのぼって、市街→
を見下ろしたりもしています。この見下ろしたところが、イン
スブルックの観光の目玉となる豪華な建物がならんでいると
ころ。この旧市街から少し歩いたところには、マリア・テレジ
アの凱旋門もあり、小さいながらとても中身の濃い町です。
 で、その病人の病状ですが、薬を飲んだところ、これが劇
的に効きまして、翌日ウィーンに飛ぶころにはすっかり元気
になっていました。
ウィーン
 ウィーンへ着いたら早速ランチ。何せ高価なツアーでしたから、名門ホテル「ザッハー」にてウィンナーシュニッツェルをいただきました。仔牛のカツレツですが、これがおいしかったのなんのって……。おかわりをデーンともってきてくれたのですが、前日まで食欲がなかった呉女は朝食をいっぱい食べてしまったので、おかわりまで手が出せなかったんです。でも無理してでもおかわりするべきだった……。一生後悔が残りそうなおいしさでした。あ〜。
それからホテルザッハーと言えば、忘れてならないのがザッハート→
ルテです。(奥はウィンナーコーヒー) これはウィーン会議で有名な
宰相メッテルニヒがお抱えコックのザッハーに作らせたものなのだと
か。アンズジャムがたっぷりで日本のものより濃厚な上、生クリームも
このようにたっぷり。オーストリアはどこの町でも甘いものがたくさんあ
って、アントワネットが「パンがなければお菓子を食べればいいのに」
と言った、というのもしかたがないんじゃない?と思ってしまいました。
 それはともかく、ランチでキャッキャッ、次のオペラ座見学でもキャッ
キャッと騒ぐ呉女にツアーの人たちや添乗員さんは「?」の視線。その
間でオロオロしていたオオアマさま「もう少しは病みあがりらしくしてたら!?」呉女「あ、そうだ
っけ……」。都合の悪いことはすぐに忘れるのが呉女の特技なのであります。
 さてウィーンでは丸々2日間も自由時間がありましたので、いろいろ見ることができたのですが、まずは「ベルばら」の最初の舞台である←シェーンブルン宮殿
ベルサイユ宮殿と同じように市街から地下鉄で少しのところにあります。ベルサイユ
宮殿に対抗して建てられたというハプスブルグ家の離宮。インスブルックの王宮もそうでした
が、マリア・テレジアが好きだったイエローの華やかな宮殿です。内部は豪華なだけでなく、シノ
ワズリーだったり、漆を使ってあったり、個性的な部屋がいろいろあるんです。2階テラスで「マ
リー・アントワネットはフランスの女王なのですから」ポーズをして喜んでいたのは呉女。(やる
場所が違うってツッコマないで。ベルサイユにはこれをやるような場所がなかったのだもの)。
困っていたのはオオアマさまです。写真は庭園奥の丘の上から見下ろしたもので、背後に見え
るのがウィーンの市街です。
 さて、市街の中心に戻りまして、美術史美術館(ここも面白い!)の前にデ
ーンと宰相カウニッツたちを従えてたつマリア・テレジア像。大都会の真
ん中にこれだけの像が立っている女性ってなかなかいないのではないでしょ
うか。ママは偉大です。
 そのすぐ近く、町のホントに真ん中の広大な土地に居座るのがハプスブ
ルグ家の王宮。今も一部は大統領官邸なのだそうです。ずいぶんシンプル
に見えますが、広場正面はヒトラーが演説の舞台にしたがるのがわかるよう
な華々しさです。写真のあたりにアントワネットも住んでいたとか……。
 王宮内部の見所のひとつは、実質的に最後の
皇帝となったフランツ・ヨーゼフ1世の皇后エリザ
ペートのプロポーション維持のための体操室。天
井から吊り輪がぶら下がっていたりするのです。
これはほんの100年ほど前の話ですから何だか
生々しい感じがします。ちょうどこの時、市内の
劇場でミュージカル「エリザベート」を上演中。こ
れが後に日本でも宝塚と東宝によって上演され
て大ヒット。呉女とオオアマさまも見事にハマるこ
とになろうとは、この時はまだ知るよしもありませんでした。
  ウィーンの町にはこの王宮一帯を取り囲んで一周約4kmのリンクという環状道路があります。ウィーンは中世以来の宿敵オスマン帝国を東に控え(16世紀には町を包囲されたこともあります)、城壁にがっちり囲まれていました。19世紀も半ばになってフランツ・ヨーゼフ1世の時代に、やっともう大丈夫だろうということで城壁を取り壊した跡がリンクです。そしてリンク沿いにオペラ座とか←国会議事堂とか、「歴史主義的」建築を次々と建て、現在にいたるウィーンの町ができたのです。このころはすでにハプスプルグ家も崩壊寸前ですから(本人たちが自覚していたかは別とし
て)この町はハプスプルグ家が最後の力を振り絞って「どう
だっ」とばかりにつくった町というか、置き土産というか…
…。呉女の受けた感覚では、洗練されたパリの町に比べ、
ウィーンがどことなく退廃のムードがあって艶っぽい感じが
するのはそのせいではないかと……。
 そんな時代を背景に、19世紀末にはこの町に新しい美術
の流れ「分離派」が生まれます。私たちになじみの深いそ
の代表者がクリムト。有名な「接吻」など彼の絵画はベ→
ルヴェデーレ宮殿などで見ることができます。このとき
外装工事中でしたが、この宮殿はアントワネットがフランスに嫁ぐ前の送別会が開かれた場所だそうです。
その「分離派」の拠点、ゼセッション。金色のキャベツとも呼ばれるユーゲントシュティール(世紀末建築)の象徴的存在。地下室にあるクリムトの壁画「ベートーベン・フリーズ」も必見です。そのほかにもマジョリカハウス、カールスプラッツ駅舎など、華やかな世紀末建築はウィーンの町の大きな魅力になっています。
 「分離派」の一部はその後「ウィーン工房」としてアクセサリー、家具、カトラリーなどの生活総合美化をめざしました。それらの作品を
見に応用美術博物館を訪れたときのこと。入るなり受付のお姉さん
がオオアマさまに「Are You a teacher?」。わけがわからないままニコニ
コと「Yes」と答えて、戻ってきたつり銭を見ると……多い。半額くらいしか
取られていない。「間違えたのかな……?」と悩みつつ展示室に入った
とたん、二人同時にその理由に思いあたって大爆笑。そうです。私たち
を先生と生徒だと思って学割にしてくれたのです。ただでさえ日本人女
性は幼く見える上、呉女はミニモニ級のおチビときている。それに今思
い出しても自分が何を考えてたんだかわからないのですが、華の都ウィ
ーンを歩くのにTシャツにリュック、運動靴、日によっては半ズボンという
イデタチだったのですから、夫婦に見てくれというほうが無理だったかもしれません。
 最後に意外に印象に残った場所。洪水が心配で胸が痛いのですが、ドナウ川です。実はリンクのすぐ北を流れているのはドナウから引いた運河でドナウ川そのものではありません。それで地下鉄で少し北へ出て国連シティまで行くと、そのそばにドナウタワーという展望台があったのでそ
こからの眺めです。この辺りは観光客もほとんどいなくて、川べりを歩いたり、市街を遠くに見
ながらものどかで、何がと問われると困るけど、とにかくとても気に入ったのです。

 今思えば気楽な旅行でしたね。ハプスブルグ家の歴史とか分離派とかについてはけっこう勉
強していったけど、オオアマさまは世界史の先生ではなかったし。
 ……というわけで、途中ハプニングもありながら、最後は何にもなかったように平和に帰って
きたアントワネットの故郷オーストリアの新婚旅行でした。でも、あくまでオオアマさまの希望よ
っ(←しつこいって……)


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